日本のヴァイオリン王  井上さつき  2014.7.7.

2014.7.7. 日本のヴァイオリン王 鈴木政吉の生涯と幻の名器

著者 井上さつき 東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。同大学院博士課程満期退学。論文博士(音楽学)。修士課程在学中にフランス留学。パリ=ソルボンヌ大学修士課程修了。現在、愛知県立芸術大学音楽学部教授

発行日           2014.5.10. 初版発行
発行所           中央公論新社

三味線職人からヴァイオリン製作に目覚め、独学で世界的評価を受ける名器を作り上げ、輸出するまでに至った栄光の軌跡を、近代化による洋楽の普及と発展を交えながら辿る初の本格的評伝

はじめに
1900年パリ万博の楽器部門受賞者にスズキの名を見た。後に名古屋の老舗、鈴木ヴァイオリン製造の創業者でもとは三味線職人だったこと、才能教育「スズキメソード」を始めた鈴木鎮一の父であることを知る
大正末期にクレモナの銘器グァルネリを手に入れ、それを研究して手工ヴァイオリンを作成、国内外の様々な博覧会で入賞していたが、国内では量産品しか保管されていない
愛知県の個人が1929年製手工ヴァイオリンを所蔵。表板はヨーロッパ産アカモミ、裏板、横板、渦巻き状部分は外国産のカエデ
楽器屋では売れず、愛知県立芸術大学に寄贈される
政吉が名古屋で初めてヴァイオリンを目にした1887年、日本でも和楽器職人たちの手でヴァイオリン製作が始まっていた  本格的なヴァイオリン製造へ移行できたのは政吉のみ、その起業家精神と「音」に対する並外れた芸術的感性があったからこその成功
量産品と芸術的手工品の両方を作ったことが、優れた手工ヴァイオリン製作者としての政吉の姿を覆い隠すことになる。それに輪をかけたのが外国製品崇拝
政吉の生きざまを再評価したい

第1部     明治編
第1章        生い立ち
1870年 音楽隊太鼓役に年俸5両で出仕するが、半年後に軍隊の教練がラッパに代わったため失職
幕末の少年鼓手を務めていた人物に信州高遠の伊澤修二(18511917)がいる。日本における音楽教育の創始者で、西洋音楽の普及に大きな貢献を果たし、東京音楽学校の初代校長。出世のための大きなチャンスで、実戦にも従軍
69年 藩学「明倫堂」を名古屋洋学校に改組(後の愛知一中)、政吉も特待生に選ばれて寄宿舎に入るが、71年の廃藩置県で学校が県に移管されると実費徴収となり退学
父が内職を家業に鞍替えして開いた琴、三味線の製造を手伝う ⇒ 江戸時代は製作販売の家が限られていたが、明治になって特権制度が崩壊
1873年 東京の親戚筋のやっている塗物商に丁稚奉公に出る ⇒ 2年後閉店で戻る
77年 家督相続

第2章        ヴァイオリン第一号製作まで
三味線製造のかたわら、長唄を習う ⇒ 8年続き、感性が養われる
84年 父が54歳で借金を残して死去。三味線の仕事は不況で苦しい生活が続く
87年 愛知県尋常師範学校の音楽教師、恒川鐐之助にもとに唱歌の勉強に通い始め、小学校唱歌教師を目指す ⇒ 1872年近代的な教育制度の最初から唱歌が含まれていたが、実際は教材も教師もなく実施されていなかった
恒川は、尾張が城内に設置した東照宮の雅楽のために召し抱えられていた楽家の1つの出身。84年東京の音楽取調掛に入学して家芸の雅楽を修行していた促成栽培の音楽教師
88年 恒川の門人仲間が持っていたヴァイオリンを見て、政吉が一晩で形状を写し取って試作品を作る ⇒ 三味線職人にとって、作ること自体はそれほど難しくはなかったが、材料の見当がつかなかった。カツラを使って作った第1号は一応音は出たが、誰も買おうとは言ってくれなかった
2号はトチの木を使って製作、20個くらい作って売れたが、音色が悪かった
木地屋(椀や盆など木地のままに器物を作る職人)に、裏がカエデで表板がエゾマツであることを教えてもらう ⇒ 三味線でもイヌよりネコの皮を使ったものが高級とされるが、本当にいい音色を出すには表裏ともネコではなく、表にネコ、裏にイヌでなければならないと確信していたので、ヴァイオリンも理屈は同じだと得心

第3章        ヴァイオリン作りを本業に
1887年 上野の東京府工芸共進会にヴァイオリンを出品したのは4人、ブームのはしり
88年 自作のヴァイオリンが恒川の門人に売れるようになったことで自信を深めた政吉は、愛知の師範学校に入った舶来品と比較したが、結果は惨敗 ⇒ 外国製の用材だった表板のマツと裏板、横板と棹のカエデが日本では見当たらなかったことから製造を断念しかけた
88年 政吉は、三味線を廃業してヴァイオリン一筋で行くと決心 ⇒ 職人を雇って大量生産を目指す。資金難にもあったが、職工たちの協力で乗り切り、職人魂に感涙
89年 新橋・神戸間に全線開通した東海道線を使って上京、上野の東京音楽学校に行って伊澤修二に面会。伊澤は日本に唱歌教育を普及させるために国産楽器が一日も早く製造されることを望んでいたため、学校に持ち込まれた楽器をテストしていたので、すぐに外国人教師に弾かせたところ絶賛され、いろいろとアドバイスももらって改良
山葉寅楠(とらくす、18511916、ヤマハの創始者)も、87年にオルガンを持ち込んで、お墨付きをもらっている
政吉は、東京での販路として銀座の共益商社楽器部に持ち込み、さらにその紹介で西は三木楽器を販売ルートとして決め、自身は生産に専念する体制を打ち立てる

第4章        本格生産開始
85年 名古屋の借家で製造開始
同じ販社を使う間柄から政吉と山葉の付き合いが始まる ⇒ オルガンとヴァイオリンは殆ど兄弟同士(?)ということもあって親しい付き合いが続く。山葉はアメリカ視察旅行の際、政吉のヴァイオリンを携行
90年 上野公園にて内国勧業博覧会開催 ⇒ 日本の洋楽器製造にとって画期的なイベント。オルガンは20台出品、山葉が最高の有功賞獲得、山葉はピアノでも3位。ヴァイオリンは11人が出品したが大半は邦楽器職人の手になるもので、政吉が最高位の3等有功賞受賞、製造開始から僅か2年後の快挙
93年 シカゴ・コロンブス博覧会(アメリカ大陸発見400年記念) ⇒ 専門の楽器セクションで入賞を果たし(単一ランクの褒章)、廉価且つ輸入品に劣らない音質、優れた技術と仕上がりが評価される

第5章        明治期のヴァイオリン
山葉のオルガンと並んで国内洋楽器生産のトップメーカーとしての地位を確立
明治期のヴァイオリンの使われかた ⇒ 唱歌指導にはまずヴァイオリンが使われたが、音楽取調掛はオルガンの使用を推奨、代替としては筝()と胡弓を指示。山葉はオルガンという教育制度に食い込んで地盤を固めたのに対し、政吉は大量生産による安価なヴァイオリンが人々に手軽に始められる親しみやすい楽器としていった
和洋合奏、特に筝()との合奏が多かった ⇒ 政吉も教則本を書いて普及に貢献

第6章        日清・日露戦争期
日清開戦により、軍歌の大流行の波に乗ってヴァイリンも売り上げを伸ばす
95年 京都にて内国勧業博 ⇒ 平安遷都1100年記念の一環。最高賞の進歩2等賞に山葉のオルガン、3等賞に政吉のヴァイオリン
売価が5円で、小学校教師の初任給の1/2だったが、まだ高いとの評価だったため、さらに機械化によるコストダウンの努力をし、2円にまで落とす
1900年 パリ万国博 ⇒ 出展希望が殺到した中で政吉のヴァイオリン6品が出品されたが、「モデルにすべきではないドイツ製品をモデルに製作している」とされ、選外佳作に留まる。欧州製品に鈴木製の商標を貼り付けた偽物と疑われたとのエピソードがある
ヨーロッパの歴史からも明らかなように、戦争のたびに教育的音楽が盛んになり、日露戦により生産額は30%アップ、さらに芸術品としてのヴァイオリンに気付いたあとの第1次大戦では一大飛躍を遂げる

第7章        1910年の2大博覧会と政吉の外遊
06年にはマンドリン、07年にはギターの製作にも手を広げ、弦楽器の総合メーカーへ
1910年 名古屋開府300年を記念して名古屋が主催した関西府県連合共進会は、名古屋市が発展するきっかけとなった博覧会 ⇒ 政吉の出品では、ヴィオラが1等賞、チェロとヴァイオリンが2等賞、コントラバスとマンドリンが3等賞。鈴木の右に出るものはないと絶賛。政吉のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが会場で「皇太子殿下お買い上げ」となる
同年のロンドンでの日英博覧会に参加 ⇒ 実質的には英国の興行師による日本博覧会だったが、日本は国を挙げて出展。弦楽器の出品は政吉1人。洋楽器部門では日本楽器製造と鈴木政吉が名誉大賞を獲得
欧州視察中に、ニスの改良や、弓の馬の毛の晒し方など技術向上へのヒントを得る
当時の欧州のヴァイオリン製作の状況は、木材資源の産地で小規模工場での量産化による安価な製品が普及していただけで、クレモナの伝統は途絶えていた
政吉の工場が大正時代の最盛期に1000人を雇用していたのは桁外れ
明治30年代に国内市場の80%を握った政吉は、海外進出を模索。その先達は山葉
最初の市場は中国で、学校洋楽器としてドイツからシェアを奪っていく

第8章        大量生産への道
明治30年代に入ると安価な輸入品の流入を契機に、手工から機械化へと進み、政吉自ら大小10種の特殊機械を発明
新楽器の開発 ⇒ 和洋混淆の鈴琴(すずこと)、玉琴やマンドレーラなどあるが普及せず

第2部     大正編
第1章        大正初期
大正時代の名古屋では、政吉の名は、豊田自動織機の豊田佐吉、合板の技術を開発した浅野吉次郎と並び「3吉」と言われる発明王として鳴り響く
12年 明治天皇崩御による諒闇(天皇・皇太后を対象とした服喪期間)不況 ⇒ 1年間歌舞音曲禁止令により、楽器の生産は激減
英文カタログを作成し、アメリカ・ヨーロッパに拡販開始するとともに、海外の博覧会にも積極的に出品 ⇒ ジャワ島(14)、サンフランシスコのパナマ太平洋国際博(15)
13年 大正天皇が政吉の工場視察、皇太子使用のヴァイオリン製作の特命
14年 東京大正博覧会では、鈴木ヴァイオリンのフルサイズを宮内省が買い上げ
26年製作の高級手工ヴァイオリンは高松宮宣仁親王の所蔵で、現在は皇太子が譲り受け

第2章        ヴァイオリンの普及
大正時代、ヴァイオリンの通信教育が人気講座に ⇒ 在来の和楽器と合奏して楽しむことが主流
音楽評論家の草分け的存在の大田黒元雄(18931979)は、アマチュアがヴァイオリンに手を出すことに対して終始否定的

第3章        第一次世界大戦時の輸出ブーム
鈴木ヴァイオリンでも空前の輸出ブームが始まる ⇒ ドイツからの輸入が途絶えたイギリスから大量の注文
工場の大拡張とヴァイオリン弦の開発 ⇒ 高級品はドイツからの輸入だったが、大戦により途絶えたため、オーストラリアの羊の腸を買い入れ独自品を開発
18年 米国の禁輸令 ⇒ 対ドイツ参戦により船腹の調節と贅沢品の輸入制限を実施

第4章        ライバル参入の動き
機械化とともに徹底した分業体制により生産効率を上げ、大量生産の道を開くが、肥大化した工場を、大戦後の注文激減が襲う
日本楽器の野望 ⇒ 1889年山葉風琴製造所立ち上げ後、郷土の誇りとして浜松の資産家たちの支援を受ける一方、時の権力と結びつき事業を展開、09年には共益商社を乗っ取り、ヴァイオリンにまで手を広げようとしたが、両者の話し合いで断念、98年鈴木鎮一が死去したのを契機に参入を果たす
日本楽器の大阪進出に伴い、三木楽器店は山葉製品の取り扱いをやめスタインウェイの日本における販売特約店となるとともに、27年に日本楽器の誇る名工河合小市が独立して興した河合楽器を支援

第5章        3男、鈴木鎮一
政吉は2人の妻との間に94女をもうける ⇒ 長男・梅雄は小学校卒で、次男も中卒後父の工場に入ったが、3男鎮一はヴァイオリニストの道を歩み、ドイツに留学、父のヴァイオリン製作にも大きな影響を与える
鎮一(18981998) ⇒ 商業緒学校に通う傍ら、蓄音機で聴いたミッシャ・エルマンのヴァイオリンに魅せられ、プロから手ほどきを受けた後独学的に習得していく
徳川義親侯爵(18861976、松平春嶽の5男、尾張徳川藩の養子となり19代藩主に)率いる北千島探検旅行に参加した際、東京音楽学校から排斥され独自でピアノの個人指導に当たっていた幸田延と会い、彼女の伴奏でヴァイオリンを演奏したのが侯爵の耳にとまり、侯爵の勧めで音楽の道に進む。侯爵は公私にわたり鎮一を支援、才能教育研究会の会長も務めた
「済韻(さいいん)」の名付け親も義親 ⇒ 政吉が考案した楽器の音の鳴りかたをよくする方法
鎮一は、22年からドイツ留学、ベルリン高等音楽学校教授だったカール・クリングラー(18791971、ヨアヒムの愛弟子)の弦楽四重奏団の演奏をジングアカデミーで聴いて感激し、直接クリングラーの門をたたき、以後28年まで個人的に師事(ベルリン高等音楽学校の入試には失敗)28年にはフランクのソナタを録音、日本人演奏家による初の海外レリースとなる。28年帰国後は弟たちとクワルテットを組織し、日本ではまだ珍しかった弦楽四重奏団として室内楽の普及に取り組む
25年 鎮一がグァルネリを購入、政吉に捧げる ⇒ ドイツのハイパーインフレで生活に困った所有者が秘蔵の銘器を売りに出すケースが多かった。購入価格2000(2日で半額に)

第6章        アインシュタインとミハエリス
22年 アインシュタイン来日 ⇒ 義親が接遇、その口利きもあって帰国後は鎮一がアインシュタインのホームコンサートに招かれる
アインシュタインは、その頃愛知医科大学に新設された医化学教室の初代講師として赴任していた友人のレオナール・ミハエリス博士のピアノ伴奏でヴァイオリンを披露
鎮一は、ベルリンのホームコンサートで知り合ったドイツ人声楽家と結婚

第7章        名演奏家の来日と蓄音器の普及
大戦後のインフレのため生活の不安を覚えた演奏家が競ってアジアに演奏旅行に訪れた
日本にも、18年にチェリスト、ボグミル・シコラを皮切りに、ピアノのゴドフスキー、ヴァイオリンのエルマン、クライスラー、ハイフェッツ、ジンバリスト、モギレフスキーなどが続く
カナダの女流ヴァイオリニスト、キャスリン・バーロウは、1735年製のグァルネリ・デル・ジェスを愛用していたが、政吉のヴァイオリンが贈呈され、その品質を称讃
蓄音機が日本に初めて輸入されたのは1896年 ⇒ 西洋音楽の普及に役立つ
25年 ラジオ放送開始

第8章        クレモナの古銘器をめざして
高級手工ヴァイオリンの初めは宮本金八 ⇒ 日本楽器でヴァイオリンの修理から始めて独立、名人として高く評価され、楽器は高値で売られた(家一軒分相当)
政吉が「芸術的作品」としてのヴァイオリン製作を始めたのは1922年頃
26年 東京で楽器披露会開催、好評を得る

第9章        ヨーロッパへの「宣伝行脚」
26年 梅雄に最高級12を持たせ、ドイツ・オーストリアの棋界の権威者を歴訪し披露、クレモナ巨匠の遺作に匹敵する絶品との評価を得る
ベルリン高等音楽学校にも、28年に2寄贈され、学生に貸与された
評価はされたが、販路の拡大には結びつかなかった

第3部     昭和編
第1章        昭和初年の栄誉
27年 名古屋商工会議所が、「工業都市」名古屋の誇る大工業家・発明家として豊田佐吉と政吉を表彰
同年 天皇に単独拝謁、工場には侍従の御差遣がある
昭和恐慌でヴァイオリンの売れ行きが落ち、経営難に
28年 鈴木クワルテット結成 ⇒ 第1ヴァイオリン鎮一、第2ヴァイオリン喜久雄(6)、ヴィオラ章(4)、チェロ二三雄(5)。コンサートツアーは盛況、秩父宮の前で御前演奏
二三雄は東京交響楽団の首席チェロ奏者、作曲家として活躍、45年の名古屋大空襲で爆死。弟子に青木十良がいる
「済韻」の発明 ⇒ 購入したグァルネリの「鳴り音」を再現。音の違いを「弾き込み」の差と考え、2,3か月で長年「弾き込み」をしたような状態すれば再現できるとして、ヴァイオリンのみならず邦楽器にも手を入れたところ好評。メカニズムの詳細は不明

第2章        懸命の努力
不況打開策の一環として和洋折衷楽器を開発 ⇒ マンドレーラ(マンドリンと三味線を合体)、ヤマト・ピアノ(琴をモダンにしたもの)
洋家具や各種木工品の製作、イタリアとドイツの古銘器の輸入販売

第3章        子どものためのヴァイオリン
学校需要の開拓 ⇒ 弾奏助成装置付きで拡販
鎮一が育てた天才少年少女の出現 ⇒ ロシアの世界的ヴァイオリニスト、モギレフスキーとともに世田谷に帝国音楽学校設立、後進の育成に当たり、江藤俊哉が才能教育第1号と言われ、諏訪根自子、豊田耕児、小林武史・健次らが続く

第4章        経営悪化
絶頂期1920年の15万挺から、30年には13千挺に激減、工員数も1/10に縮小した
ピアノは却って売り上げ・生産とも増嵩 ⇒ クラシック音楽は盛ん、蓄音機も売れる
ラジオの普及と蓄音機の改良により、プロの演奏が簡単に聴けるようになったので、自分で音楽を演奏して楽しむ素人音楽家が減ったというのがヴァイオリン離れの理由と言われるが、それだけかは疑問
楽器製作に機械を用いたことが「機械製ヴァイオリン」として蔑視されるようになったのも打撃となって、以前のヴァイオリン人気が再燃することはなかった

第5章        会社の破産と再建
30年 株式会社に改組するが、実態は同族会社
32年 不渡りを出し、和議破産へ ⇒ 不動産に手を出していたため、不動産の暴落で資金繰り破綻。在庫処分を任された地元の楽器販売店が大儲けしたというエピソードが残る
34年 梅雄が会社を再建、満州事変以降の景気の回復も再建の追い風に
一線を退いた政吉は、済韻研究所でヴァイオリンを作り続ける一方、新しい邦楽器の開発も続ける
35年 大府に新工場建設 ⇒ ドイツの弦楽器作りを真似た分業体制を作り上げようとしたが失敗。そのまま戦争に続く道を転げ落ちていく

第6章        晩年
37年 日中戦争開始、本格的経済統制スタート ⇒ 持ち直していた業績が、物品税20%の賦課で売り上げ激減、中国、英領海峡植民地向けの輸出ストップ。さらに物資統制により楽器の素材が入手困難に
44年 楽器の製造中止
政吉の胸像建設 ⇒ 35年喜寿を祝って胸像を作る話が持ち上がり、ミッシャ・エルマン始め各方面から寄附を集め、長谷川義起(東京美術学校を首席で卒業、伊澤修二の像も制作)に依頼、銅の使用禁止令のため鋳金家から少量をかき集めて鋳造が完成したものの、建築物の制限令にあって建設許可が下りず、本人の申し出もあって建設を見送っていたところ、金属類の供出強化により、供出申請を出したが、延び延びになっているうちに終戦を迎え、無事に残る
40年 梅雄が家督相続
44年 政吉大往生 ⇒ 亡くなる3日前までヴァイオリンの製作に打ち込んでいた
461月 楽器製造再開
55年 政吉の胸像を本社工場入口に設置




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鈴木 政吉(すずき まさきち、安政6111818591211 - 昭和19年(1944131)は、日本ヴァイオリン製作者で、鈴木バイオリン製造株式会社の創業者。
ヴァイオリン製作技術を独学で身に付け、1900パリ万国博覧会の楽器部門で入賞した。才能教育法スズキ・メソードの創始者である鈴木鎮一は三男。

幼少時[編集]

鈴木政吉は、尾張藩の御手先同心・鈴木正春(1827 - 1884年)とその妻・たにとの間に次男として生まれる。父の正春は名古屋で産まれ、同心株を買って武士となった人物で、母・たには神官の娘であった。同心で職芸を持っているものは届け出ることになっていたが、正春は三味線作りを内職としていた。政吉は一旦別家の養子となるが、10歳の折に養父が亡くなり、実家へ戻っている。1870年、政吉は藩の音楽隊太鼓役として年俸5両で出仕しているが、太鼓がラッパに変わったため失職した。藩から特待生に取り立てられ、藩立の洋学校2年ばかり通学したが、制度が代わり学費の目途がなくなると退学した。父・正春の禄高は1875年当時、公債証書の一時支給として14か月分555円の公債が与えられ、正春はこれを元に琴三味線店を開いた。政吉は、1873年に浅草並木町の塗物商に奉公に出たが酷使された。この店が閉店し、名古屋の両親のもとで、一人前の三味線職人となった[1]

ヴァイオリン製造を志す[編集]

1887年、政吉は愛知県尋常師範学校の音楽教師・恒川鐐之助(1867-1906)のもとで唱歌を習い始めた。一月ほど経った頃、政吉は門人仲間の甘利鉄吉が持っていた日本製ヴァイオリンを目にする。それは東京深川の松永定次郎が作ったものであった。ヴァイオリンを作ったら売れるという甘利の言葉を聞いて政吉は作る決心をしたが、実物のヴァイオリンは少しの時間しか貸してもらえず、木材も入手できず、苦労を重ねることとなった。第1号は1887年から1888年に製作したが売れず、2号を経て、3号は1号の二倍の音量を出せるほど進歩した。1888年、自作のヴァイオリンが恒川の門人に売れたことで、政吉は自信を持った[2]

東京音楽学校での楽器鑑定[編集]

1887年に発足した東京音楽学校のお雇い音楽教師ルードルフ・ディトリッヒ(1867-1919)は、鑑定の結果「東京市内にも23か所で製作しているが、この品には到底およばない。和製品としては今日第一位を占めるものである」と評価した。彼の推薦文はいくつかあるが、1893年の『音楽雑誌』にも掲載されたものには、輸入ヴァイオリンと同様の音質をもち、廉価であるとある。それでも、鈴木の自信を深めることになった。なお鈴木のヴァイオリンについては、その後も音楽学校教員のユンケル1907年)、ドヴォラヴィッチ(1909年)、クローン1913年)がそれぞれ推薦状を書いている。日本人としては幸田延安藤幸が推薦状を書いた[3]

本格生産開始と販路の確立[編集]

1885年、名古屋市門前町(現在の昭和区御器用町)の貸屋でヴァイオリン製造を始め、1889年には長男・梅雄が誕生する。同年には東京銀座の共益商社、大阪の三木佐助とも契約を結び販路を拡大した。1890年北側の家を300円を投じて購入、本格的な生産に入る。なお、政吉の弟子は78人いたが、いずれも彼の知人で、士族出身者であった。1888年にはオルガン製作を行っていた山葉寅楠ヤマハ創業者)と契約を結ぶ(その後も鈴木と山葉は交流を持った)。1889年にアメリカ視察旅行に出かけた山葉は鈴木のヴァイオリンを持参し、税関に保管されたりして、面倒をかけたという。なお、この旅行には政吉はいっていない[4]

3回内国勧業博覧会・シカゴ・コロンブス博覧会[編集]

1890年、上野公園で行われた内国勧業博覧会では、ヴァイオリン部門は11名から出品があったが、鈴木は同部門最高賞の3等有功賞を得た。1893年にシカゴで行われた博覧会にも出品したが、ランク付けは行われず、単一ランクの褒章が与えられた[5]

政吉の書いたヴァイオリン教則本[編集]

日本で使われた初期のヴァイオリン教本はクリスチャン・ハインリッヒ・ホーマンの著であるが、その後、1891年に恒川の『ヴァイオリン教科書』が日本人の著書として初めて出版された。その後数種類の教科書が出たが、政吉も1902年に『ヴヮイオリン独習書』を発行している。「年のはじめのためしとて」、「君が代」、「埴生の宿」、「楽しき我が家」などが収録されている[6]

その後の博覧会での受賞[編集]

1895年、第4回内国勧業博覧会が京都岡崎公園で行われ、進歩3等賞に選ばれたが、その際、鈴木の作品は高価で、高くなければ1等賞でもいいというコメントがなされている。1900年のパリ万博ではモデルにするべきでないドイツ製品をモデルにしているという辛口のコメントを受け、選外佳作ということになった。99%の出品者に何らかの褒章が与えられたが、政吉は外国製品と変わらないという前向きのとらえ方をした。1903年の第5回内国勧業博覧会はヴァイオリン、ヴィオラチェロを出品し2等賞を得た。1904年米国セントルイスでの博覧会には、第5回内国勧業博覧会で1等賞を日本政府が許可したので、出品できなかった。1909年 シアトルで開かれたアラスカ・ユーコン万国博覧会では鈴木ヴァイオリンは金牌を受賞する。1906年にはマンドリン1907年にはギターの製作を開始した。1910年に第10回関西府県連合共進会では、ヴィオラが1等賞、チェロとヴァイオリンが2等賞を得た。コメントに「機械力を応用して廉価に製造するがゆえに、今日これと拮抗するものは皆無なり。今回出品するものは僅か定価2円なり。音楽普及の良媒にて、山葉寅楠と共に好模範である」とある[7]

日英博覧会参加[編集]

1910年ロンドンで開かれた日英博覧会では、日英博覧会愛知出品同盟会常務委員を務めていた関係から訪欧した。審査の結果、日本楽器製造会社と鈴木政吉が名誉大賞を得た。すでに有名であった山田耕筰が、政吉をおじということにして、フランスのヴァイオリン製造工場を見学させたというエピソードがある。この際、毛を晒す方法がわかったそうである。これを機に、その後も山田との交流が続いている[8]

輸出と大量生産[編集]

明治30年代にヴァイオリンの国内市場のシェアを8割に拡大した政吉は、海外進出を模索するようになった。その先達となったのは山葉寅楠である。1906年に行われた奉天商品展覧会にも出品した。1909年の雑誌『音楽界』によると、ヴァイオリンは元々ドイツより供給されてきたが、目下輸入価格の3分の一は日本の供給する所となり、実際日本は学校用楽器供給の実権を握れり」とある。大正7年には政吉は渦巻き形削成機を特許出願している。その後大小10種の特殊機械を発明した。明治末年鈴木バイオリンの製造は年間7304本という記録がある[9]

新しい楽器[編集]

[10] 不況と流行の変化があり、日本ではバイオリン離れもあり、政吉は様々な努力を払ったが、新しい楽器を作ったこともある。マンドレーラは三味線に代わる家庭楽器で、1928年の案内書では、マンドリンと三味線というコラボレーションというコンセプトであり、宮城道雄先生ご推薦と宣伝にある。ヤマト・ピアノは琴をモダンにしたもので、定価六十円。しかし、これらは売れなかった。

経営悪化とその後[編集]

[11] 昭和に入ってバイオリンの生産の状況は厳しくなった。鈴木バイオリンを主体とする愛知県の生産は大正末年の6万個、262000円から1928年には34000個、112000円と落ち込み、さらに1930年には1300個、65000円と激減した。1930年には、株式会社に改組し、鈴木バイオリン製造株式会社とし、本社は名古屋市松山町に置いた。1932年に不渡りで倒産に追い込まれた。営業不振がその主因であるが、土地・建物の暴落、1931年の頼みの明治銀行の倒産もある。人員整理も行った。破産後梅雄が陣頭指揮を執った。約半年で会社債務を完済した。政吉は自ら社長の職を退き、1934下出義雄(しもいでよしお)を社長に迎えた。下出は名古屋の企業家で、のち政治家、衆議院議員になったが、戦後、公職追放になった。会社の倒産後、政吉は妻とともに東京都北区滝野川の借家に居を移したが、1934年大府町の工場の隣接地に移り住む。そこで亡くなるまで10年間、楽器の研究に打ち込んだ。

皇室と政吉[編集]

年譜によると1913年に工場に勅使御差遣の栄誉とあり、また、1927年に昭和天皇に単独拝謁とある。 皇太子殿下は政吉1926年製のバイオリン故高松宮宣仁親王から直接贈られたという。本の著者井上さつきが皇太子殿下のご厚意でそのバイオリンを拝見する機会があり、政吉円熟期の作品と記載している。当時拝観したバイオリン製作家の松下敏幸も後に同意見であった[12]

家族[編集]

政吉は子沢山で、二人の妻(乃婦 結婚1887-1947没)(良 -1928没)との間に九男(うち、七男と八男は夭折)四女をもうけた。長男・梅雄は高等小学校卒業後、13歳にして直ちに父の工場に入り、次男・六三郎も父の工場に入った。三男・鈴木鎮一は良の子供。名古屋市立商業学校卒業後工場に入ったが、その後プロのヴァバイオリニストの道を歩み、ドイツで勉強し、父のヴァイオリン製作にも大きな影響を与えた。彼は19551018日、政吉の胸像除幕式でバイオリンを弾いたが、その写真が残されている。[13]

年譜[編集]

·         1859 - 尾張藩の下級武士の2男に生まれる。
·         1870 - 尾張藩の太鼓役となるも半年で失職。藩の洋学校に入学。
·         1872 - 洋学校を退学。
·         1873 - 江戸で丁稚奉公。
·         1875 - 奉公先の主人が亡くなり帰郷。家業(三味線製作)に従事。
·         1884 - 父・正春が死亡。
·         1887 - 小学校の唱歌教師を志し、習いに通う。同門の和製バイオリンを見て一晩借用し、作り始める。近藤之婦と結婚。
·         1888 - 1号完成。ぼつぼつ注文がくるも、舶来と比較して、雲泥の差があり、ショックを受ける。
·         1889 - 楽器をもって上京。東京音楽学校でディトリッヒに試弾してもらい、好評を得る。銀座の商社と取引開始。長男梅雄誕生。
·         1890 - 作業場を拡大する。第3回内国勧業博覧会でヴァイオリン最高位の3等有功賞を得る。
·         1893 - アメリカのシカゴ・コロンブス万国博覧会で褒章受章。
·         1895 - 4回内国勧業博覧会で進歩3等賞授賞。
·         1900 - パリ万国博覧会で褒章受章。バイオリンの渦巻きの部分を作る機械を発明する。
·         1903 - 5回内国勧業博覧会で2等賞授賞。
·         1905 - 工場新設。
·         1906 - マンドリンを作り始める。
·         1907 - ギターを作り始める。名古屋市議会議員。
·         1910 - ロンドンで開かれた日英博覧会にバイオリンを出品。名誉大賞を受賞。
·         1911 - 関西府県連合共進会で、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、コントラバスで授賞。
·         1913 - 勅使御差遣の栄。ギターの製作開始。
·         1915 - 東京大正博覧会で金牌授賞。パナマ太平洋国際博覧会(サンフランシスコ)で金賞受賞。
·         1917 - 緑綬褒章を受ける。
·         1922 - 平和祈念東京博覧会で名誉賞受賞。
·         1923 - 名バイオリニスト、クライスラー名古屋に来る。
·         1925 - 紺綬褒章を受章。
·         1926 - 米国独立150年万国博覧会(フィラデルフィア)で金牌授賞。名古屋商工会議所商業部長に就任。
·         1927 - 名古屋離宮にて昭和天皇と単独拝謁。
·         1930 - 個人経営を廃し、株式会社鈴木バイオリン製造に組織を変える。
·         1932 - 会社経営が行き詰まり、和議申請。東京滝野川の借家に移る。
·         1933 - 和議認可。
·         1934 - 社長の職を退き、下出義雄が社長。
·         1937 - 名古屋汎太平洋平和博覧会にて政吉製作のバイオリンが金牌授賞。
·         1941 - 下出社長辞任。梅雄社長就任。
·         1944113 - 大府町名高山にて、肺炎で死亡。死去の3日前までバイオリン製造に没頭していた。

参考文献[編集]

·         井上さつき『日本のヴァイオイリン王 鈴木政吉の生涯と幻の名器』中央公論新社2014 ISBN 978-4-12-004612-4


会社ホームページより
商号          鈴木バイオリン製造株式会社
所在地        454-0027 愛知県名古屋市中川区広川町1丁目1番地
TEL          (052) 351-6451()
創業          1887
会社設立     19306
代表者        鈴木隆
事業内容     ヴァイオリンを中心とする弦楽器の製造
系列会社     恵那楽器株式会社


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