素顔の孫文  横山宏章  2014.7.3.

2014.7.3. 素顔の孫文 国父になった大ぼら吹き

著者 横山宏章 1944年下関生まれ。一橋大法卒。朝日新聞記者を経て、一橋大大学院法学研究科博士課程退学。法学博士。明治学院大法学部長、県立長崎シーボルト大国際情報学部長、北九州市立大大学院社会システム研究科長、同大アジア文化社会研究センター長を歴任。現在、北九州市立大大学院社会システム研究科教授

発行日           2014.4.22. 第1刷発行
発行所           岩波書店

はじめに――あだ名は「孫大砲」
孫文死去の際、大阪朝日新聞は「孫文遂に逝く 偉大な彼の舌の力」と題して報道 ⇒ 孫をかほどまでに人物にしたのは、彼が超人的な大法螺吹きであったことだという人がある。支那では彼のことを皆「孫大砲」という。彼が第1次大統領になったのも、徹頭徹尾例の「大砲」のお蔭であるとも言える。三寸不爛の舌で七転八起、彼の重畳たる逆境を切り抜け得た偉丈夫英雄である
「大砲」とは、法螺吹きの意
大風呂敷を広げた通り実現したのに、なぜそう呼ばれるのかは、毀誉褒貶著しく、何を信じていいのか、中国の大衆から見れば「法螺吹き」そのものに映った
本書では、思想として「民権主義」を掲げながらも、実際の政治過程では平然と民主革命を裏切ってきた、イデオロギーに縛られない柔軟というか、あるいは現実におもねる胡散臭いというか、摩訶不思議な革命家であった孫文の実態を明らかにしようと思った

第1章        広東の田舎育ち――ハワイ経験と医学の道
太平天国の乱平定の翌年、貧農の生まれ。被差別集団である客家(ハッカ)ではない
79年、兄が農園を開墾しているハワイに母親と移住 ⇒ 英語教育によって西欧思想の影響を受けたことは間違いない
83年 キリスト教に傾倒したのを心配して帰国させられる ⇒ 帰国後洗礼を受け、キリスト救世の思想に共鳴したが、キリスト教が孫文の革命思想の形成に大きな影響を与えたとまでは言い切れない
香港で医師の道に進むが、革命結社である興中会の結成に関わる人々と交わり始める
94年 日清戦争勃発 ⇒ ハワイに渡って最初の反清結社・興中会を結成、具体的な革命運動事業へ乗り出す

第2章        清朝打倒の革命家へ――興中会、同盟会の結成
興中会には、ハワイで華僑のリーダー的存在になっていた兄が経済的に支援したが、結社に応じたのは僅か、翌年香港でも結社し、広州で武装蜂起するが、事前に発覚して失敗、孫文は日本に亡命
1900年 恵州での武装蜂起も失敗。台湾に渡って児玉源太郎総督、後藤新平民政長官に提携を働きかけるが拒否され、黒龍会の内田良平にすがる
孫文には、利用可能なあらゆる勢力と臆面もなく提携する現実主義的傾向が強い
初期の孫文革命の特徴は以下の3
   闘争形態は軍事蜂起 ⇒ 9511年に10(十次起義)
   蜂起軍の主流は伝統的秘密結社の会党 ⇒ 漢民族による明朝復興を目指す結社
   蜂起の場所は華南辺境
05年 東京で中国同盟会(革命同盟会)結成、孫文の組織活動が急速に発展 ⇒ 表看板は「四綱(駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権)」。後の三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)、三序構想(軍政=革命軍独裁、訓政=革命党独裁、憲政=民主政府)に発展
孫文は、満蒙の割譲を餌に日本の支援を要請、清朝政府は孫文の引き渡しを要求したが、伊藤博文や内田良平は将来の利用価値を認めて南洋に送り出す

第3章        反滿革命の成功と反袁革命の敗北――中華民国の誕生
11年 武漢にて辛亥革命勃発、各地で呼応して清朝支配から離脱を宣言する軍政府都督府が誕生。清朝政府も革命軍も全国制覇が出来ないまま、翌年1月南京に中華民国臨時政府が誕生、南北に2つの政権が対峙 ⇒ 孫文は資金集めのためデンバーに滞在中、中国に戻ったのはその年の暮れ。17省の代表が集まって孫文を初代の臨時大総統に選出。清朝を牛耳っていた北洋軍閥の巨魁で敵方の総大将である袁世凱に対抗し得るのは、対外的に抜群の知名度を誇る孫文しかいなかったのが選出の背景
臨時政府は、孫文の意向とは離れて、一気に憲政樹立に向けて動き出し、3か月後には南北による政治的妥協の産物として臨時大総統のポストも袁世凱(漢族)に移譲されることが決まっていて、孫文は失意のうちに政権を去る
袁世凱は、清朝の最高ランクの忠臣として、清帝の退位は自らの政治力で実現させるが、退位後の清皇室の特別待遇を要求、外国君主への礼と同じに遇し、政府からの年金支出と紫禁城に留まることを認められた幼い宣統帝溥儀(ラストエンペラー)が皇帝退位を宣言。2千年続いた王朝体制の終焉であり、「アジア初の共和国」が誕生
強力な権力者による独裁体制を希求し、武力で物事を解決していくやり方では孫文と袁世凱は共通していたが、2人は正反対の人であり、袁世凱の刺客により宋教仁が暗殺されると孫文は袁世凱打倒の第二革命を発動し、行こう両者は不倶戴天の敵に
宋教仁の努力で立憲議会制へと進み、孫文も自らの「三序構想」を捨て同盟会も他の党派と合流し国民党を結成、選挙の結果第1党となる
孫文は、全国鉄道網建設に没頭、訪日して資金援助を要請 ⇒ この頃が日本における孫文人気の絶頂期で、辛亥革命の英雄として国賓待遇の歓迎を受ける
13年 宋教仁暗殺 ⇒ 孫文は議会制を無視して武装蜂起を決断するが、袁世凱に敗れ日本に亡命

第4章        日本亡命と日本への依存――孫文独裁の中華革命党
日本政府は袁世凱政権を承認したが、犬養毅らの奔走により孫文の入国も認められ、以後29か月東京に滞在 ⇒ 面倒を見たのが福岡玄洋社の頭山満と日活を興した梅屋庄吉
孫文の生涯は軍事闘争の繰り返しであり、孫文の頭を悩ました半分以上は軍資金・武器の調達であり、空手形に近い軍票を出しながら海外華僑から資金を調達、日本政府にも支援をねだる一方、最後には新生ソ連が孫文の広東軍政府へ財政、軍事支援の手を差し伸べると、孫文は「連ソ容共」に大転換
14年 日本で中華革命党を結成し、孫文の独裁を確立するが、19年には中国国民党へと変身し、党内民主主義を進める
15年 26歳下の宋慶齢と結婚 ⇒ 孫文を支援してきた海南島出身の華僑実業者の娘。妹・宋美齢は蒋介石の妻。最初の正妻は同郷の女性だったが、政治に関心を抱かず、革命運動を支えたのは女性闘士。02年の訪日の際大月薫と婚約、娘(宮川冨美子)をもうけている。梅屋の養女にも結婚を申し込むが妻に反対され、梅屋の仲立ちで宋慶齢と結婚
中国の革命家、為政者にとって、日本の存在というのはとても複雑な感情でしか対処できなかった。いち早く近代化を進め、欧米からのアジア侵略の防壁となっている日本に、一方で警戒しつつも、同時に畏敬の念を抱かざるを得ない
満蒙利権問題 ⇒ 孫文は、12年の南京臨時政府時代の「滿洲租借交渉」では、借款の見返りとして滿洲割譲を受け入れ、15年の「日中盟約」締結では、日本政府が袁世凱政府に突き付けた対華21か条の要求と同内容を受け入れている

第5章        2度の広東地方政権とその挫折――「孫文学説」の形成
15年 帝政復活、袁世凱が「洪憲皇帝」として即位 ⇒ 国会は解散、民主共和制を葬ったのに対し、第三革命となる護国戦争勃発。孫文は日本から檄文を送って各地での蜂起を促す。蜂起は雲南から始まり、各地の反袁勢力が広東に結集して臨時政府を樹立。袁世凱は周囲の反対で帝政を廃止したが、16年突然死去。張作霖等の地方軍閥が割拠して北京政府の後釜を狙う
軍閥混戦の時代にあって、孫文も北京政府への対抗勢力として広東に拠点を設け自ら軍政府大元帥を名乗って、張作霖らと同盟
19年 上海に「五四(ごし)運動」勃発 ⇒ 外国の帝国主義的侵略に反発する未曽有の民族運動。個性の解放という思想革命を謳う「新文化運動」が急速に拡大、青年知識人の支持を得る
孫文も、「新文化運動」の指導理念に対抗できる独自の民権主義の確立が必要 ⇒ 「孫文学説」により「三序構想」を再確認、まずは軍政、訓政段階における「以党治国」という概念を強調、有能な人々によって作られた党が国家を統治すべきとした
辛亥革命の直接的契機は、「華夷(かい)変態(夷の満族が華の漢族を逆転支配している異常事態の意)」を正し、漢族による中国支配に戻そうというもの ⇒ 華夷思想
当初の清帝国は22省と辺鄙異民族の藩部から成る。うち漢民族が中心の省は18
孫文が支配の対象としたのもチベット族の多い青海と東3(黒龍江、吉林、奉天)を除く18省で、漢族単独建国主義とも言えるものだった
辛亥革命で独立を宣言した各省は、必ずしも漢族主導ではなく、五族(漢、滿、モンゴル、回、チベット)共和を謳ったところも多い ⇒ 孫文も一旦は妥協
孫文は、再び「中華民族」を提唱、漢民族による支配に固執 ⇒ 「中華民族」は、現代でもすべての民族が融合した政治的概念として生き続けている
孫文のしたたかさは、情勢の変化で民族論を変えていく巧みさにも現れている ⇒ 無節操とも、情勢の変化に対応できる柔軟さとも、どちらからでも批評できるという多面性が孫文の特徴
21年 広州に中華民国政府樹立、孫文が非常大総統に就任するが、翌年には内部対立から瓦解、孫文は失意のうちに上海に逃れる

第6章        コミンテルンの支援と国共合作――棄てきれない軍閥同盟志向
21年 上海に中国共産党誕生 ⇒ コミンテルンに指導された国際的な革命党であり、代表は孫文と一線を画し、「新文化運動」を提唱していた陳独秀
孫文は、外来啓蒙思想の導入を烈しく批判したが、マルクス主義の平等志向が自らの「平均地権」に始まる民生主義と共通するものがあり、広州政府から追われた孫文がコミンテルン、ソ連との「同盟」を急ぎ始める ⇒ コミンテルンの指示もあって国共合作へ
孫文は、一方で共産党と合作し、他方では軍閥とも提携
23年 孫文は、コミンテルンの支援を背景に、広東以外から客軍を集め広州を奪還、第3次広東軍政府を樹立するが、あくまで地方政権だったために北伐を狙うが、蒋介石にまで反対されて挫折
25年までの2年間に孫文は、その後近代史に巨大な影響を残した様々な新政策、改革に着手、「国父」と称えられる業績を残す ⇒ 国民革命軍の基礎構築、広州の都市基盤整備と財政改革、国民党を改組し公開的な近代政党へ脱皮、連ソ・容共・扶助労農、イギリス帝国主義からの脱却
25年 北京の軍閥による臨時執政政府が誕生、その招きで軍閥と協議するために孫文も北京を訪問するが、北京で肝臓がんが悪化し客死

第7章        講和「三民主義」と遺嘱「革命はいまだなお成功せず」
24年 広州で国民党第1次全国代表大会開催 ⇒ 定期会合を開催し政策を議論、執行部を選挙で選ぶ体制が確立。党組織の民主化、可視化。17名の委員候補の中に毛沢東もいた
大会宣言では本来の「以党治国」を主張、主権在民を否定したが、民族論ではコミンテルンの影響もあって各民族の自決権を承認、自由な連合としての中華民国を標榜
一方で、孫文は同時に行った「三民主義」の講和で、本来の漢族による統一を明言、民権主義についても人民の自由を制限し「万能政府」による独裁体制を主張
北京での軍閥との統一交渉は何ら成果を見せずに、孫文は客死するが、永眠の前日語った言葉「現在、革命はいまだなお成功せず」という言葉が「遺嘱」として伝えられている
北京の軍閥政権は孫文を国葬とし、国民党が全国制覇した後の29年には首都南京に中山陵が建造され改葬された ⇒ 歴代皇帝より大きな墳墓
孫文は、最後の北上の途中神戸に立ち寄り、「大アジア主義」を熱く語っている ⇒ 国内交通事情が悪く、日本経由の方が早かったから。欧米の覇道文化によって抑圧されたアジアを王道を基礎としたアジア民族の団結により解放しようと呼びかける
「覇道の鷹犬(番犬)か、王道の干城(外敵から防御する城壁)か」は、日本が孫文の忠告にも拘らず西方覇道の道を選択した歴史的教訓を踏まえ、後から加えられたフレーズ
孫文政治が主張したアジアの「王道」も、民のための善政を志向するものであったとしても、民による政治ではなかった。孫文にとって、民は仁義道徳の本質から遠い愚かな存在として排除され、王道の核心である仁義道徳を体現できるのは一握りのエリートであり、「賢人支配」が他ならない東洋の王道文化だった


後記――異端を怖れず
孫文が、革命の偉人として、なぜここまで称賛されるのか不思議
異端を恐れず、敢えてその謎解きに挑む
過渡期国家にあって、政治世界の中心が孫文
北京の正統政府から見れば、孫文は中国政治の中央で君臨し損なった一種の「はぐれ者」だが、共和国設立の元勲であり、第二革命の失敗者、日本への逃亡者、広東に呼ばれた英雄だった




素顔の孫文国父になった大ぼら吹き [著]横山宏章
歴史を動かした革命家の実像
 三民主義を掲げ、辛亥革命をリードした近代中国の国父孫文。日本の歴史の教科書にも威厳のある口ひげを蓄えて登場するこの偉人が、実は大言壮語ばかりする困った人物だったらしいというのは何かで読んだことはあったが、まさかこれほど際どい人物だとは思わなかった。
 とにかく変わり身が早い。柔軟というよりむしろ無節操。状況によって提携相手を次々と変え、裏では借款との引き換えに革命後の租界割譲を密約するなど、裏切り者と言われても仕方がないことを平気でした。看板の三民主義も想像からはほど遠い。鼻につくほどの漢民族中心主義で、少数民族の自治を排し、人民を愚か者と決めつけ個人の自由を認めず、革命後の政体も軍部と行政府による独裁型を志向していたという。
 自前の軍隊を持たず蜂起と敗走を繰り返し、流れ者のように日本に亡命を繰り返した姿を読むと、実務能力に乏しく周囲が見えていなかったとしか思えない。「革命だ! 革命だ!」と叫び続ける裸の王様を思い浮かべてしまう。申し訳ないが、革命家以外の職業は無理だったろう。
 謎なのは彼がなぜ国父と呼ばれるほどの政治的権威を身につけたのかということだ。
 何しろほとんど何も成功していない。辛亥革命勃発時も実は外遊中で、慌てて文無しで帰国し、後は俺に任せろと言わんばかりに他人が作った政権の上にチョコンと乗っかっただけらしい。一体何様ですか?と思うが、逆にそれができるのが偉大なところ。それぐらいの個性がないと中国のような大国の歴史を動かす星にはなれないのだ!とでも思うよりしょうがない。
 筆者も指摘しているが孫文が志向した政治は現在の共産党政権によりかなり実現されている。歴史にイフは禁物だが、孫文がいなかったら今の中国は一体……という疑問はどうしても湧く。色々な意味で興味の尽きない傑物だ。
    
 岩波書店・4104円/よこやま・ひろあき 44年生まれ。北九州市立大大学院社会システム研究科教授。


Wikipedia
(そん ぶん、18661112 - 1925312)は、中国の政治家革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華人民共和国と中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935から1948まで発行されていた法幣不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。

呼称・号[編集]

譜名は徳明 は載之、は日新 、逸仙 (Yìxiān) または中山 、幼名は帝象 。他に中山樵、高野長雄がある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。

号の由来[編集]

孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま しょう)」を名乗っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている[1]
中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学南極大陸中山基地、そして現在台湾中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883年中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガル植民地マカオ医師として開業した。

革命家へ[編集]

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、18941月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
1899義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人大月薫駆け落ちに近い形で結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904、清朝打倒活動の必要上「187011月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[2] 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。
1905ヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで留学中の蒋介石と出会う。

中華民国建国[編集]

19111010、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が1225に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌191211、孫文を臨時大総統とする中華民国南京に成立した。

国民党と第二革命・第三革命[編集]

19133月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得[3] 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした[3]宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ英語版による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた[3]。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる[3]1914に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した[3]
1915に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する[3]。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、段祺瑞が後継者になる。

広東軍政府と護法運動[編集]

この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった[3]。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917広州で広東軍政府を樹立する[3]。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を追われた。
孫文は一時、日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている[4]
この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913 - 1916の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[5][6]

五・四運動の影響[編集]

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の19191月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8] 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]

佐々木到一軍事顧問就任[編集]

1922に広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蒋介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

孫文・ヨッフェ共同宣言[編集]

1922のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923126日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした[9] この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、221日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。
しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃している。

国共合作[編集]

19236月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[9]
コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924120、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。
192410月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米帝国主義にたいし東洋王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

死後[編集]

1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[10] 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され[11]、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。
孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広東国民政府を樹立。19267月には、約10万の国民革命軍が組織される[11]。総司令官には蒋介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。
1927、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、192869には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。

思想[編集]

明治維新と孫文の革命観[編集]

保坂正康によれば、宮崎滔天山田良政山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという[12] しかし孫文自身も1919に次のように発言している
そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした[13]。」
また1923には、次のように発言している。
日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する[14]。」このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった[15]

革命三段階論[編集]

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。

民族主義[編集]

三民主義の一つに民族主義を掲げ、以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した[16]
しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する[17]1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う[18]

遺言[編集]

余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。
しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。

日本との関係[編集]

孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天[19] 頭山満内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[20]。また、実業家では、松方幸次郎安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎梅屋庄吉[5][6]からも資金援助を受けている。日本滞在中に日本人女性と結婚して孫文に非常に良く似た容姿の娘をもうけたが、帰国後に母子に対して経済的な援助を一切行っていない。
ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[21]
また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周石正巳尾崎行雄副島種臣・頭山満・平岡浩太郎秋山定輔中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・大塚信太郎久原房之助山田良政・宮崎寅蔵・菊池良一萱野長知副島義一寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[22]

評価[編集]

孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。
孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。
彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義リベラルデモクラシー儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。
2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)では、保守主義的見地から、蒋介石と並んで孫文が厳しく非難されている。本著によれば孫文の「親日」は、彼の「外国への病的依存体質」の一つとして日本がたまたま一時期選択されただけのことであって、孫文からすれば革命を援助してくれる国であればどこでもよかったとされる。晩年の「大アジア主義演説」にしても、実証性を著しく欠き、自分を支援してくれたソ連への媚びと、自分を支援してくれなかった日本への嫌味を連ねたものだったと本書では指摘されている。
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。
孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。

人物[編集]

·         春秋時代孫子および三国時代孫権の末裔と伝わる[23]
·         生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。
·         非常に短気で激昂しやすい性格であったと伝わる。林語堂はその態度を批判して、古来の諺を引用して「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」と諫言したが、孫文は耳を貸さず「水に落ちた犬は打て(打落水狗)」と過激な発言を行った。現在の日本や韓国では、むしろその孫文の過激発言のほうが有名な諺になっている。

親族[編集]

·         孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子
·         孫治平孫治強 - 孫文の孫、孫科の長男と次男
·         孫国雄孫偉仁 - 孫文の曾孫と玄孫
·         宮川富美子 - 孫文と大月薫との子
·         宮川東一 - 孫文の孫

孫文が登場する作品[編集]

小説
·         三好徹『革命浪人 滔天と孫文』中央公論社, 1979.11. のち文庫
·         陳舜臣『江は流れず-小説日清戦争』中央公論社、1981年(文庫、1984年)
·         浅田次郎『蒼穹の昴』講談社1996年(文庫、2004年)
·         伴野朗『砂の密約 孫文外伝-革命いまだ成らず』実業之日本社, 1997.9 のち集英社文庫.
·         陳舜臣『山河在り』講談社、1999年(文庫、2002年)
·         陳舜臣『青山一髪』(上下巻)中央公論新社、2003年(改題『孫文』文庫、2006年)
·         平路 池上貞子訳『天の涯までも 小説・孫文と宋慶齢』風濤社, 2003.6.
·         浅田次郎『中原の虹』講談社、2006-07年(文庫、2010年)
映画
孫文が主人公の映画
·         孫文1986年、中国、監督:丁蔭楠、孫文役:劉文治
·         孫文1986年、台湾・香港、監督:丁善璽、孫文役:ラム・ワイサン
·         孫文 -100年先を見た男-2006年、中国、監督:デレク・チウ、孫文役:ウィンストン・チャオ
孫文が登場する映画
·         宋家の三姉妹1997年、香港、監督:メイベル・チャン、孫文役:ウィンストン・チャオ
·         孫文の義士団2009年、香港・中国、監督テディ・チャン、孫文役:チャン・ハンユー
·         19112011年、中国・香港、総監督:ジャッキー・チェン、監督:チャン・リー、孫文役:ウィンストン・チャオ
漫画
·         一輝まんだら手塚治虫
同人誌
·         鉄拳無敵孫中山

関連記念館・建築[編集]

·         移情閣 - 神戸市垂水区にある孫文ゆかりの建物
·         孫中山紀念館
·         国父記念館 - 中華民国台北市にある孫文の記念館

脚注[編集]

23.^ 清代の『四庫全書』および、浙江省杭州富陽市南部に現在は観光地の龍門古鎮という村があり、9割の人の姓が孫武を祖とする富春孫氏の子孫と自称している。村の族譜によると、孫文もその系統に属するという。しかし孫文は客家出身のために、疑わしい部分も多く真偽の程は不明である。


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