消えたヤルタ密約緊急電  岡部伸  2014.7.17.

2014.7.17. 消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い

著者 岡部伸 1959年生まれ。産経新聞編集委員。81年立教大社会学部社会学科卒、産経新聞社入社。社会部記者として警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大、コロンビア大東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て97年から2000年までモスクワ支局員として北方領土返還交渉や政権交代などを現地で取材。社会部次長、社会部編集委員、大阪本社編集局編集委員などを務める

発行日           2012.8.25.
発行書           新潮社(新潮選書)

根本君推薦

日本を滅亡から救え――小野寺は欧州課諜報網をフル稼働させた
同胞の無理解を超えて独ソ戦を予言し、対米参戦の無謀を説き、王室を仲介とする和平工作に砕身した小野寺信。大戦末期、彼は近代史上最大級の「ヤルタ密約」を摑み、ソ連の日本参戦情報を打電する。ユダヤ系諜報網から得た正確無比なオノデラ電は、しかし我が国中枢の手で握り潰された。欧米を震撼させた不世出の情報士官の戦果と無念を完全スクープ!

第1章     日本が世界地図から消える!?――ヤルタ密約情報は届いたか
ユーロ危機を招いた元凶のギリシャが、長いことオスマン帝国に支配された歴史や、ロシア正教の源流である東方正教会(ギリシャ正教)を国教とする宗教を見れば、西欧とはどこか異質な風土でありながら、なぜEUに入り得たのか ⇒ 44.10.ヤルタ会談においてチャーチルがスターリンとの間で、バルカンにおける影響力の行使の優先権を、ルーマニアはイギリス10%、ソ連90%、ギリシャはイギリス90%でソ連が10%、ユーゴとハンガリーは半々、ブルガリアはソ連75%でイギリスが25%と取り決めた
ヤルタでソ連の対日参戦が密約されたという情報をいち早く入手してスウェーデンから日本の参謀本部に打電したのが、帝国陸軍ストックホルム駐在武官の小野寺信少将 ⇒ ポーランドやバルト3国の情報士官から「諜報の神様」と慕われ、連合国からも「枢軸国側諜報網の機関長」「欧州における日本の情報収集の中心」と恐れられた伝説の「インテリジェンス・ジェネラル」
小野寺は、1986年仙台陸軍幼年学校の会報にその事実を告白、小野寺の死後の1993年、実際に暗号化して打電した百合子夫人が産経新聞に詳細な経緯を語る、「情報が入ったのは会談終了直後の2月半ば、ラトビア時代の武官仲間で当時スウェーデン駐在武官だったポーランド人から、[英国のポーランド亡命政府から入った情報]としてもたらされた。領土分割については含まれていなかった。ワンタイムパッドと呼ばれる1回だけの使い捨ての特別暗号を使って、ストックホルムの電報局から、大本営参謀部次長秦彦三郎中将宛に打電」
1983年、終戦時にソ連大使だった佐藤尚武の回顧録に、「自分も東京も、終戦後になって初めてヤルタの密約を知った」とあったのを見て、小野寺は初めて自分の打った電報が本部に届いていなかった事実を知り、防衛省の公刊戦史や参謀の業務日誌『機密戦争日誌』をチェックしたところどこにも自分の電報の存在が記されていない。無念の思いを86年の会報に吐露したが否定的な反応しか返ってこず、死後夫人が問い合わせを続けてもなしの礫、遺児がイギリス国立公文書館で日本関連の暗号文書をブレッチリー・パークが解読した一連の記録を見たが、肝心のヤルタ密約に関する部分だけが欠落。スイスからの別の報告も共同発表の情報のみで密約の記載はなかった
ヤルタの密約はトルーマンすら知らされておらず、ポツダムに向かう直前にモスクワから漏れ伝わってきた情報がきっかけとなって、ホワイトハウスの金庫から秘密協定の文書を見つけ出して知った ⇒ 密約が米ソ両国から公式に発表されたのは、終戦半年後の462月のこと、ソ連が千島の領有を巡り秘密協定に言及したのがきっかけ
ドイツ外務省がヤルタ会談直後、在外公館宛に「ストックホルム公使館から届いた信頼できる筋からの報告によれば、ソ連はヤルタで間もなく対日参戦することを決めた」と打電
戦後、防衛庁が3645年の軍関係の動きについて、軍中枢にいた関係者を対象に5964年直接聞き取り調査を行った中に、当時駐独大使の大島浩が、「リッペントロップ外相の伝言として、ソ連の対日参戦の情報がもたらされ、外務省に打電した」と証言、ただし聴取者の注釈として「全然伝わっていない」と付記されている
4月 ソ連が日ソ中立条約の延長を拒絶
ドイツ降伏後の5月末、スイスの駐在武官から、「ヤルタ会談においてソ連の対日参戦が約束された」との報告も上がっている
ただし、223日にストックホルム日本公使館の岡本公使の、「ヤルタ会談におけるソ連の対日参戦決定は誤り」との電報が保存されている
86年、小野寺が旧陸軍将校の親睦組織の機関誌に、当時参謀本部ロシア課長だった林を名指しして、電報の存在を知っていたはず、と公表したところ、89年になって林が軍出身の経済人で構成する懇話会で講演、ヤルタ密約電報はスペインの須磨公使によるものだったと証言したが、須磨の情報源は半年前に解散しており、電報の記録も残っていない
林は、戦後外務省東欧課に勤めながら、参謀本部が極東ソ連軍を調べ上げた成果を残そうとして多くの著書を残したが、その中に「ソ連がドイツ降伏の3ヵ月後に対日参戦することを約束したとの情報を、参謀本部がヤルタ会談の直後に入手した」との記述がある。併せて、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦については何ら疑いを挟まなかったとも言っているが、上層部にその根拠となった小野寺電を伝えた形跡はなく、ソ連が満州に侵攻した報告を聞いた参謀次長の河辺虎四郎は寝耳に水だったと日記に書き残している
問題は、参謀本部の中枢が主観に基づいて立てた仮説に沿うインテリジェンスのみが受け入れられ、その他は拒否された点にある
米国機動部隊の侵攻パターンを的確に予測して「マッカーサー参謀」の異名をとった参謀本部の情報参謀の堀は、89年の著書で、小野寺電の存在を証言すると共に、この電報が大本営作戦課で握り潰されたと記述。百合子夫人からの質問に答える形で、堀は自らの証言の詳細を記した書簡を送っていた。大本営の中には次長、作戦部長以下ほんの一握りによる「奥の院」があって、情報を自由に操っていたと言う。アメリカが原爆を研究中との情報も握り潰されたし、堀の電報も、情報参謀だった瀬島龍三が握り潰したことを告白したが、その後とぼけてしらを切っている
小野寺信の個人史 ⇒ 奥州・前沢町の生まれ、父親を亡くして本家の養子となり、遠野中学から幼年学校に入り陸軍士官学校卒(31)。ドイツ語専修、卒業試験はトップだったが前の成績が悪く、上位5位までの恩賜を逃し6番。21年に歩兵少尉として、「尼港事件」に関連してハバロフスクに出兵し駐屯した1年間が唯一の戦場経験で、地元の女性タイピストからロシア語を習ったのがその後情報関係に引っ張られる元に
夫人は、旅順要塞攻撃で旅団長として有名を馳せた一戸兵衛大将(乃木大将の信任厚く、後に学習院院長、明治神宮宮司など歴任)の孫
参謀本部の英才教育でロシア通に。「皇道派」の中心人物で「陸軍3羽ガラス」の1人・小畑敏四郎大佐の出会いが赤軍通にまつり上げられる契機に ⇒ 電報が握り潰された背景に、小野寺が小畑人脈だったためと指摘する向きもある
33年語学研修で哈爾浜に1年駐在。1898年帝政ロシアが清国と共同で作った街、ロシア革命から逃れた白系ロシア人が多く居住、日本にとっても対ソ諜報の総本山
帰国後は参謀本部ロシア班に属し、36年ラトビア駐在武官としてリガに赴任
生前の小野寺が活動の全てを家族に語った「証言テープ」がある ⇒ 76年作成、80年『回想録』にまとめ防衛庁に提出、それをもとに夫人が85年『バルト海のほとりにて――武官の妻の大東亜戦争』として出版

第2章     和平工作の予行演習――任地がその運命を決めた
リガ駐在を通じて、大国ロシアに翻弄された周辺の小国の情報士官との間に築いた強い絆が後の諜報活動の原点
バルト3国の中でもエストニアだけがアジア系で、最も親日的、優れたソ連情報が採れた
38年大本営参謀として帰国し、蒋介石との「直接和平の可能性を探る」ために上海に派遣、近文隆も東亜同文書院理事の肩書で部下にいたが、結局日本は汪兆銘の傀儡政権樹立に進み、小野寺機関は解体、小野寺も陸大教官へと左遷
上海を去る小野寺に蒋介石は金製のカフスボタンを贈ったが、それには「和平信義」の彫があったという

第3章     ドイツが最も恐れた男――同盟国の欺瞞工作を暴く
40年 仏印進駐が大きな外交問題となって陸軍首脳が責任を取った人事の一環でストックホルム陸軍武官として赴任 ⇒ 諜報工作の拠点としてではなく、あくまでベルリンを補完する「第2戦線」としての位置付けであり、参謀本部内での位置付けもスウェーデンはドイツの衛星地域としての扱い
ポーランド参謀本部とのインテリジェンスにおける組織的な協力関係 ⇒ 日露戦争がポーランドの独立運動に勇気を与え、日本もその独立を支援、両者の協力関係が深まる。39年独ソがポーランド全域を制圧した際、ポーランド軍参謀本部から日本の駐在武官に対し「ポーランド軍情報部の対独ソ諜報組織を接収してこらえないか」との打診あり、ドイツとの関係もあって非公式な諜報協力関係を継続することになった経緯がある。日本がドイツ一辺倒となって在ポーランドの日本大使館が廃止され東京のポーランド大使館も正式に閉鎖、さらに日米開戦に際しポーランドはイギリスの同盟国として日本に宣戦布告したが、水面下での諜報組織の協力関係は続いていた
小野寺は、1人英本土上陸より独ソ戦の可能性を予想するが、大島大使や大本営から「日独離間工作に乗っている」と警告される
小野寺の情報源は、ロンドンの亡命ポーランド政府参謀本部と亡命エストニア情報将校に加えてハンガリー亡命政府の諜者

第4章     日米開戦は不可なり――北欧の都からの冷徹な眼
電撃戦の成果を逐一大島から報告を無批判に受け止めた日本政府は、ドイツ側に立って参戦を決断するが、真珠湾の頃にはドイツはモスクワ直前で大敗を喫しており、それまでにもドイツがバトル・オブ・ブリテンに敗れた頃に3国同盟を締結している
黄昏ゆくドイツ戦力を冷徹に判断していたのが小野寺
ロシア革命指導者の1人で10月革命で失脚後フランスからアメリカに亡命していたケレンスキーが「ドイツ侵攻の成否は9月が境」と予言していたのを、ストックホルムの新聞で見つける ⇒ 冬将軍の前の雨季こそドイツ機動部隊にとって大敵
併せて、スターリンがモスクワ死守を厳命し、冬の戦争に備えた部隊に編成し直すソ連の冬期反攻作戦情報を入手して421月に参謀本部に報告 ⇒ イギリスが解読しているが、この情報はドイツ側にも提供され、ヒトラー署名入りの勲章が授与された
小野寺は、ドイツ劣勢を見て、対米開戦に反対の電報を30通以上も打電するが、肝心のドイツ武官室からはドイツ優勢の情報ばかりが報告される
開戦に伴い、戦況を冷静に定点観測する地点としてストックホルムが注目される
スウェーデン駐在のドイツ諜報機関の親玉クレーマー(正式な肩書はドイツ公使館書記官兼空軍武官補佐官)との親交 ⇒ 448月頃から緊密化。クレーマーがベルリンから喝采を受けた情報源が小野寺であり、小野寺情報によってクレーマーは「ドイツ情報部門の北欧での第1人者」になった
ステラ・ポラリス作戦 ⇒ ノルマンディ成功後ソ連がフィンランドを攻撃、フィンランドは9月に単独で休戦協定を結ぶが、降伏前に対米ソ諜報関連の機材と人材をスウェーデンに移す計画を立て、小野寺に買い取りを打診、その資金でゲリラ部隊を配置してソ連の侵攻への対抗に成功した。小野寺はドイツ側にも精度の高さで評判だったフィンランドの持つ情報を提供して感謝され、スウェーデンもフィンランドがソ連に抵抗して成功したため自国への侵攻を免れたと感謝

第5章     ヤルタ密約情報来る――存亡をかけたインテリジェンス
敵対関係になった後もポーランド諜報組織と日本に緊密関係は実質継続されていた
小野寺は4410月の時点で、ボルシェビキ革命の世界への浸透を目論むソ連がやがてアメリカと対立することを予言
参謀本部から小野寺に与えられた特別任務は、①ソ連の対日参戦情報、②独ソ戦開戦、③枢軸スパイ網引き取り(ステラ・ポラリス作戦)、④ボールベアリング買い付け
ヤルタ会談が終了し共同コミュニケが発表された直後、ポーランド亡命政府からコミュニケには伏せられていたソ連の対日参戦の極東条項の詳細情報入手 ⇒ 発信者はロンドンの亡命政府参謀本部情報部長であり、39年にポーランド諜報網の接収を日本に持ちかけた責任者だったガノ大佐で、ポーランド政府が日本政府に対して提供した公式情報であり、厳密には「(ソ連が対日参戦を決め、ソ連軍がシベリアに移動しているという)警告」だった
ガノは、敗戦後の小野寺と家族に対し財政支援と身辺保護を提案
ストックホルム時代、小野寺に情報提供を続けたガノの部下リビコフスキーは、カナダで余生を送ったが、ゲシュタポから救ってくれた命の恩人として61年から小野寺が死ぬまで文通を続けていたが、2人が協力して行った様々なインテリジェンス活動のソースを明かしたのは81年になってから
日本政府が小野寺にピアノ線とボールベアリングの買い付けを命じたのは445月 ⇒ ハンガリーの武官を通じてSKFから購入して、ドイツから潜水艦で日本へ運ぶ
スウェーデンは、元々主要な物資をドイツからの輸入に頼っていたこともあって、ドイツ寄りの態度。ドイツもスウェーデンの鉄鉱石を、ハンガリーやルーマニアの石油と並んで戦争継続に不可欠とし、ベアリングも生産数の1/2をドイツが輸入していた
ドイツの原爆開発については43年中頃の新聞で知るが、詳細については把握できず
ドイツのメッサーシュミット開発については、ベルリンの駐在書記官から、「新型戦闘機が出来ると勝てるので、反独的な行為をしないでほしい」と言われている

第6章     間にあった「国体護持」情報――814日にそれは届いた
453月 リッペントロップから小野寺に対し、ソ連との非公式な休戦斡旋の依頼有るも、ヒトラーの一喝で消える
439月頃から和平工作に動き出すが、日本公使との角逐に阻まれる
小野寺は、連合国内に激しい角逐が生じていることを指摘、東西対立による終戦後の冷戦構造を的確に予告していたが、参謀本部の対応は鈍く、「中立条約のある」ソ連と良好な関係を構築するよう求めるのみで、小野寺の打電したヤルタ密約情報が握り潰されたことを裏付ける
453月 スウェーデン国王の甥から、王室を仲介した和平工作の話が小野寺の武官室に持ち込まれるが、小野寺は武官の仕事ではないと断る
スウェーデン国王が何らかの形で動き出すが、まもなく日本政府が密かに駐日スウェーデン公使に和平工作の仲介を依頼されて帰任、積極的に動き出すが、和平を働きかけた小磯内閣が崩壊して外相も重光から東郷に代わり、駐スウェーデン岡本公使にも指示が伝わらず、そのうち日本政府の方針が対ソ工作を始めることに決まって、スウェーデンによる和平工作は完全に宙に浮く
同じ頃、スイスでは加瀬俊一公使が、日本政府の正式権限もなく自主的な行動により米戦略情報局(OSS)欧州総局長アレン・ダレスのエージェントに接触、日本側からの和平の条件として、「天皇制の護持」を伝えている。ポツダム宣言後の7月末に加瀬が東郷外相に、「ポツダム宣言にある無条件降伏とは軍事力にかかることであり、日本国民の民主主義的傾向を復活強化することが盛り込まれている」と解説したことで、東郷がソ連を介した終戦工作を諦め、ポツダム宣言受諾に舵を切る。スイスから陸軍省に打った「アメリカは天皇制の廃止を考えていない」との電報が、鈴木首相と木戸内相に送られ、、これを読んだ天皇が阿南陸相等の一億玉砕の主張を退け、ポツダム宣言受諾に踏み切る根拠の1つとなった
ストックホルムでは、岡本公使が小野寺を感情的に誹謗・中傷する秘密電報を何度も打っていたことが、外交史料館にも残されているが、そのために参謀本部から叱責を受ける
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時点で、すでに小野寺がスウェーデン国王と直接連絡を取り、降伏条件として天皇の地位が降伏後も保持されることを述べ、スウェーデン国王も連合国に連絡を取る意向に傾いているということは、アメリカの駐スウェーデン公使から国務省への報告にも明らかにされている
811日のスウェーデンの新聞は、「天皇抹殺論のソ連の猛反対を押し切って、アメリカが日本の天皇中心主義を認めさせた」とアメリカ外交の勝利を報じた
天皇制廃止を唱えていたソ連の真意をいち早く見抜き、日本の上層部をあげて突き進んでいた対ソ接近に警告を発すると共に、スウェーデン国王を通じて何らかの働きかけで、結果的に国体護持を実現させた「反ソ」「反共」の小野寺こそ、天皇制を守った真の立役者だったということにならないだろうか
小野寺の和平工作には、OSSのエージェントも一枚噛んでいたことが、スウェーデン側によって戦後明らかにされている

第7章     対ソ幻想の謎を解く――天皇の意思を曲解した人々
戦争を終結させようとした政治工作、とりわけソ連仲介の工作がいつ頃から誰によって進められたか
終戦工作の中心にいたのが岡田啓介元首相・海軍大将。マリアナ沖海戦に敗北した446月から、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎等とともに、内大臣木戸幸一と謀って東条内閣を総辞職に追い込む工作を始め、小磯内閣実現後は、岡田の娘婿の内閣書記官長(官房長官)、迫水久常と、参謀本部の中枢にいた瀬島龍三(二・二六で岡田の身代わりとなった松尾伝蔵の娘婿で、岡田の義理の甥)が、岡田の肝煎りで誕生した鈴木内閣の下、ソ連仲介による終戦工作の一翼を担う
44年末から翌年初にかけて瀬島がモスクワへ隠密行。戦後も本人は否定しているが、真の目的は講和についてソ連に斡旋を依頼すること、あるいはその下工作
214日には、近衛が天皇に国体護持の立場から「敗戦は必至」と、速やかに戦争を終結すべき旨上奏
瀬島の帰国後、陸軍上層部は、国民には「本土決戦」を唱えながら、ソ連仲介案に前のめりとなる
駐日ソ連大使に対し、「戦争を停止すべき時であり、スターリン以外には和平調停者足りえない」と申し入れ
軍部が対ソ接近を認めたのは、ソ連の対日参戦阻止を目論んでのこと
618日の6巨頭会談で、戦争終結に向けたソ連仲介による和平工作に入ることを決定。スイスやスウェーデン、バチカンなどで非公式に行われていた和平交渉が打ち切られる
小野寺の孤独な闘いは結実することはなかったが、連合国を震撼させ、日本の危機を救った「インテリジェンス・ジェネラル」小野寺の名前は歴史にとどめられることだろう



(書評) 死活情報を発信した者、抹殺した者                                 手嶋龍一
北海道の天塩山系で猟師に従って鬱蒼とした針葉樹林帯に分け入ったことがある。この山麓のどこかにヒグマはきっと潜んでいると手練れの猟師は自信ありげだった。
「果たしてヤマ親爺を仕留められるか。あとは俺の腕と運次第だよ」
 機密の公電を追ってインテリジェンスの森にひとり分け入る本書の著者は練達のハンターを彷彿とさせる。英国立公文書館と米国立公文書館は第二次大戦の情報文書の機密指定を次々に解いている。だからといって獲物がすぐに見つかるわけではない。鍛え抜かれた情報のプロフェッショナルだけが標的を射止めることができる。
 大戦中に欧州の地から打電された枢軸国日本の公電は、連合国側にとってダイヤモンドの輝きを放っていた。ベルリン発の大島浩駐ドイツ大使電はヒトラーの胸中を窺わせる決定打であり、中立国スウェーデンの首都ストックホルムから打たれた小野寺信駐在武官の機密電も国家の命運を左右するものだった。英国の諜報当局は渾身の力を注いで、暗号が施された小野寺電を読み解いていった。
 ソ連はドイツ降伏の後、三ヶ月をめどに対日参戦する――。小野寺信は亡命ポーランド政府のユダヤ系情報網から、ヤルタ会談の密約を入手した。それは杉原千畝が亡命ユダヤ難民に与えた「命のビザ」への見返りだった。その情報を東京の参謀本部に打電したのだがヤルタ密約電を受け取りながら、あろうことか参謀本部の中枢が抹殺してしまったと著者は断じている。和平工作をソ連に委ねていた彼らにとって「ヤルタの密約」こそ日本の敗北を決定づける不吉な宣告に他ならなかったからだ。
 小野寺信はスウェーデン王室を頼りに終戦工作も進めていた。日本は天皇制の存続さえ保障されれば降伏する――ポツダム会談に臨むトルーマン大統領に伝えられた情報の背後にはスウェーデン国王グスタフ五世の影が動いていた。さらに全体主義国家ソ連は新たな領土への野心を隠していないと警告し、ソ連を頼むことの愚を説き続けた。だが大本営の参謀たちは、貴重なインテリジェンスのことごとくを無視し、スターリンの外交的詐術に思うさま操られていった。ヤルタ密約をめぐる小野寺情報を日本の政府部内で共有していれば、広島、長崎への原爆投下を回避でき、ソ連の対日参戦、そして北方領土の占領を防ぐことができていたものを――。本書の行間には著者の無念が滲んでいる。
 貴重な情報が、決断を委ねられた指導者に届かない。インテリジェンス・サイクルの機能不全は国家を災厄に突き落とす。フクシマ原発の悲劇を目撃した読者なら、ヤルタ密約を抹殺して愧じない官僚主義の奢りがいまのニッポンにも受け継がれていると嘆息することだろう。
(てしま・りゅういち 作家・外交ジャーナリスト)

書評 岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』新潮社2012年 下             児玉昌己研究室

  帝国陸軍は昭和に入り、幕末維新から日露戦の明治30年代まで維持していたリアリティを急速に失い、明治中期に生を得た軍人たちの登場と合わさり、「昭和軍閥」の愚劣な精神主義に急傾斜していくことは知られている。
 もっとも、帝国海軍も巨艦巨砲と艦隊決戦の思想が航空決戦の時代に決定的に変ったことを真珠湾で自ら実証しながら、時代遅れの愚を犯したのであるが。  
 当事者の陸軍に戻れば、日露戦争の勝利と無敵陸軍の神話化が進んで以降、第2次大戦(わが国は大東亜戦争といっていた)末期に至って、初めて直面する「神州日本」の崩壊が迫っていた。ソ連の対日参戦の時期を明示した小野寺電文は、日本の真の意味での敗戦を予感させるものであった。
 この「不都合な真実」を戦争指導の中枢部にある参謀本部の「奥の院」が直視できなくなっていたということに尽きる。
だが、そう一文で片付けられるには、あまりに残酷かつ無残な、陸軍上層部による、国家と国民への「売国的」裏切り行為であったともいえる。
小野寺信(まこと)少将のスウェーデンを舞台とした情報獲得戦での「孤独な戦い」は、交戦国のみならず、内部の「敵」との戦いでもあったのだ。
 そしてその情報は、現実の直視を避ける陸軍の官僚組織の中で潰され、その受信とその後の扱いの過程さえも不明となった。
 このように、上層部に届くことなく、「奥の院」の独断で握りつぶされ、他の大量の機密文書とともに、おそらく敗戦時に焼却処分となり、歴史の闇に秘匿された。
 そしてヤルタ密約の参戦時期通り、正確にドイツ降伏の3カ月後の89日、ソ連軍の満州侵攻が開始された。この報に接し、川辺虎四郎参謀次長が記した日記が以下だ。
 「蘇は遂に起ちたり、予の判断は外れたり。」68
「外れた予の判断」とは、自らの不明を書き残して無様な極まりない。そんな指導者を頭に戴き、前線で戦う将兵は、そして国民はたまったものではない。そういえばノモンハンでも同じことがあった。
 まさに「中枢の崩壊」は、小野寺電文を握りつぶした昭和20年の2月から3月時点ですでに起きていたということができよう。見たい情報だけを観、見たくない情報を遠ざけていた結果である。
「中枢の崩壊」の状況は外務省も同様であった。対日参戦を意図しているソ連に終戦工作を依頼する無様さだったのだから。
無条件降伏による敗戦から67年が経った。
 沖縄密約も露見した。尖閣隠しもあった。311の大震災とフクシマ原発の連続大爆発と、「海のチェルノブイリ」と形容できる大量の放射性物質の漏出も経験した。
 そこで、国家は、政府は、そして権力者は、憲法で保障された国民の知る権利にもかかわらず、平気で真実を隠し、国民をだまし、情報を操作することを我々は実見した。
 そしてそれゆえ、国家の嘘を見抜く知性と、時として、「敵」となることもある国家や権力者との情報戦への備えこそが、21世紀の我々国民に課された責務だということをこの書で確認する。
大戦末期の「不都合な真実」に向かいつつ、それでも祖国の将来に対する深い憂慮を抱きつつ、北欧にあって、懸命に情報収集し、最高度の機密情報を送信したのが、小野寺少将夫妻であった。
 この、歴史に書き残されるべき名誉と、他方で、この消された極秘電信の意味と、最大限に敗戦の痛手を拡大させ、国家を窮地に追いやった陸軍上層部の無様さを、改めて確認する読書となった。
最もふさわしい人を得て、この書が成った。ご恵贈頂いた小野寺信少将の2女、大鷹節子先生と、著者、岡部伸氏には感謝である。
 消された電文の謎を、最後まで探り続けておられた小野寺ご夫妻も、泉下で少しなりと、安堵され、喜ばれていることかと、独り想っている。
なお、このブログを書いた後、電話で大鷹先生ともお話ができ、お慶びを申し上げた次第だ。


Wikipedia
小野寺 (おのでら まこと、1897919 - 1987817)は、日本陸軍軍人翻訳家最終階級陸軍少将

経歴[編集]

岩手県出身。町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれ、農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1919(大正8年)5月、陸軍士官学校31期、兵科歩兵)を卒業し見習士官陸軍歩兵曹長)。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第29連隊附となる。1928(昭和3年)12月、陸軍大学校40期)を卒業し歩兵第29連隊中隊長拝命。
1930(昭和5年)3月、陸軍歩兵学校教官となり、陸大教官、参謀本部附(北駐在)、参謀本部々員などを経て、1934(昭和9年)8月、陸軍歩兵少佐に進級。1935(昭和10年)12月、ラトビア公使館附武官に発令され、1937(昭和12年)4月、エストニアリトアニア公使館附武官を兼務し、同年11月、陸軍歩兵中佐に昇進。
1938(昭和13年)6月、参謀本部々員となり、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海において小野寺機関長として活動した。1939(昭和14年)6月、陸大教官に就任し、同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した。
1940(昭和15年)11月、スウェーデン公使館附武官に発令され、翌年1月、ストックホルムに着任し太平洋戦争大東亜戦争)を迎えた。諜報活動の他に、クリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買いつけたり、ピアノ線とボールベアリングを調達しドイツ経由で本国に送っている。1943(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。
小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。大戦最末期にはヤルタ会談後にソ連が対日宣戦するとの最高機密情報を日本に送っている。
敗戦後の1946(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。
戦後は主に妻・百合子と共にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜』で取材インタビューが行われ、1985(昭和60年)12月に放映された。この番組は第12放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられ、佐々木譲の小説『ストックホルムの密使』(1994)でも小野寺(作中人物・大和田市郎のモデル)の終戦工作が扱われた。

親族[編集]

·          小野寺百合子(翻訳家、一戸寛陸軍少佐の娘、一戸兵衛陸軍大将の孫)
·         長女 瑞子
·         長男 小野寺駿一(運輸省港湾局長、日本港湾協会副会長)
·         次男 小野寺龍二(駐オーストリア大使1992年在任中アルプスで遭難死
·         次女 節子(日本チェコ協会会長、夫は元・駐オランダ大使の大鷹正。正の兄も外交官の大鷹弘であり、弘の夫人は元・参議院議員女優李香蘭こと山口淑子

翻訳[編集]

·         エレン・ケイ『恋愛と結婚』(岩波文庫 上下、1977年/改訂版 新評論1997年)- 百合子夫人と共訳。

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