マラカナンの悲劇  沢田啓明  2014.7.13.


2014.7.13. マラカナンの悲劇 世界サッカー史上最大の敗北
Maracanaço ~ The Biggest Defeat of the World Football History

著者  沢田啓明 1955年山口県生まれ。上智大外国語学部フランス語学科卒。3年間会社勤めの後、北アフリカ・サハラ砂漠の天然ガス・パイプライン敷設工事現場でフランス語通訳に従事。蓄えた資金で1986年ワールドカップ・メキシコ大会を現地観戦、人生が変わる。「日々、フットボールを呼吸し、咀嚼したい」と考え、同年末サンパウロへ。フットボール・ジャーナリストとして日本の専門誌、新聞などへと寄稿

発行日           2014.5.15.
発行所           新潮社

14.6.22. 朝日書評にて、『14-06 孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』とともに「W杯、深く楽しむための2冊」として紹介


第1章        世界最大のスタジアム
19506月 戦後初のワールドカップがブラジルで開催
当時のブラジルは、1938年フランス大会の3位が最高成績
1946年 FIFA8年ぶりに総会を開催、ドイツと日本を除名、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの英国4協会が復帰
戦争でブラジル以外に開催国の立候補がなく、無競争で開催地に決定、ただし、準備に手間取り予定より1年遅れての開催
ブラジルにフットボールが伝わったのは、アルゼンチン、ウルグアイより少し遅れて19世紀末
1916年に始まった南米選手権(現在のコパ・アメリカ)では、当初両国に全く歯が立たなかった
1933年プロリーグ誕生でレベルが向上
ワールド杯は、1930年の第1回が1次リーグ11敗で敗退、第2回も1回戦でスペインに敗退、第3回でようやく3位に
参加予定は16カ国、4グループに分けて1次リーグは総当たり、各グループの首位4カ国が総当たりで決勝リーグを行う 
欧州では、カップと名のつく大会は少なくとも終盤はトーナメント方式が常識だったが、すべてトーナメント方式では試合数が少なくて球場建設の元が取れないところから、試合数の多い方式を提案して採択されたもの
15021月ブラジルに到着したポルトガル人が、奥に川があると思いこんで「リオデジャネイロ(1月の川)」と名付けた町。1763年から1960年ブラジリアに遷都するまで首府だった。
試合会場は6か所、リオのみ新球場建設。1927年建設でバスコダガマ所有の収容4万のサン・ジャヌアリオの増築案もあり、学校や病院に投資すべきとの反対意見を押し切ってリオ市長が強行。場所はダウンタウンに近いマラカナン地区。競馬場跡地(通称「デルビー」)に世界最大の通称「デルビーの巨人」(マラカナンという呼び名はまだなかった)が完成、1階席3万、2階席25千、3階席10万の規模。周囲は瓦礫の山
「マラカナン」とは、先住民トゥピー族の言葉で「鈴のような」との意で、さえずりが鈴の音に似ているオウム目の小鳥のこと。かつては沼地で、この鳥が多く生息していたところから「マラカナン」と呼ばれるようになり、1885年競馬運営会社「デルビー・クルービ(ダービー・クラブ)」が買い取り競馬場として使用したが、近隣に別の競馬場が開設されたため経営が悪化して競馬場は閉鎖。47年リオ市が買い取って新球場建設へ。デザインは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なもの。3階席のスタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度が問題となり、当時の建築技術では不安もあり、工事も大幅に遅れたが、なんとか間に合わせた
出場国は、開催国と前回優勝のイタリアのほか、欧州から7カ国、南米から4カ国、中北米から2カ国、アジアからインド 
スコットランドとトルコが辞退、代わりにフランスとポルトガルが繰り上げ出場となったが、ポルトガルは拒否、フランスも移動時間が短すぎるとクレームし、拒否されると出場を取りやめ。インドも旅費が負担できずに出場見送りで、参加は13カ国に
組み合わせは、ブラジル、イタリアに、「フットボールの母国」イングランド、第1回大会優勝国ウルグアイの4カ国をシードに、各グループ4カ国を振り分ける
その後の参加取りやめがあって、グループ124カ国、33カ国、42カ国となったが、試合数が減るのを防ぐためにグループ間の調整はせず
優勝候補は、ブラジル、イングランド、レベル急上昇のスペイン、大会2連覇中のイタリア、第1回大会の覇者ウルグアイ、48年ロンドン五輪優勝のスウェーデン
ブラジルチームのベースはヴァスコダガマで、リオのクラブでプレーする選手が14人と過半数を占め、ライバル意識の強いサンパウロのクラブ所属は6人のみ。不公平との不満が出る
1年前、トリノ郊外の飛行機事故で、当時リーグ4連覇中の国内最強クラブ「グランデ・トリノ」の選手18人他が犠牲になり、イタリア選手は飛行機に対するトラウマに悩まされていたため、ブラジルへは船の長旅で到着

第2章        フットボールの南米伝播
南米で最初にフットボールが伝わったのはアルゼンチン
先住民が銀の装身具で体を飾っているのを見て、大量の銀の埋蔵があると思いこんだヨーロッパ人が、ラテン語で銀を意味する「Argentum」に因んで「アルヘンティーナ」と呼んだ。川の名も、リオ・デ・ラ・プラタ(銀の川)
1867年 現地在住の英国人がブエノスアイレスにフットボールのクラブを設立
熱心なスコットランド人が現地で広めたために、現地人の間にも次第に広がる
ラプラタ川の対岸のモンテビデオに英国人がクリケットクラブを設立したのは1861年、81年には国内初のフットボールの試合が行われ、イングランド人の努力で現地に広まる
ブラジルにフットボールが入ったのは、1889年英国資本の紡績会社に派遣された技術者が英国人社員に呼び掛けて始めた時
1904年 紡績会社の中に出来たスポーツ・クラブが、プロ・クラブの始まり
1910年 英国の名門アマチュア・クラブ、コリンシアンがフラジル遠征を敢行、本場の違いを見せつけられたブラジル人達は度肝を抜かれたが、それを見て富裕層しか入れないクラブに対して、自分たちのクラブを作ろうとしたサンパウロの労働者が集まって作ったクラブが「コリンチャンス」(「コリンシアン」をポルトガル語読みして複数形にした)で、後に数々の名プレーヤーを輩出し、2012FIFAクラブ・ワールドカップで決勝でチェルシーを破って世界クラブ王者となる

第3章        南米選手権、五輪、そしてワールドカップ
1916年 アルゼンチンの独立宣言100周年記念でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、チリの4カ国による国際トーナメントが予定され、その場に集まった4カ国により南米フットボール連盟設立、そのトーナメントを第1回南米選手権としたことから、世界最古の大陸選手権が誕生
75年からコパ・アメリカと改称
オリンピックで連覇を果たしたウルグアイが、29年のFIFA総会で、翌年の第1回ワールドカップの開催を熱心に働きかけた結果開催が決まり、6カ月でメインスタジアムを新築するが、欧州各国が南米への選手派遣に消極的。個別に参加を働きかけた結果ようやくフランス、ベルギー、ルーマニア、ユーゴ(セルビア系選手のみ)4カ国が応諾、南米7カ国、北中米2カ国を加えた計13カ国が参加
優勝トロフィーはフランス人彫刻家アベル・ラフレールに制作を依頼、後に会長の名を冠して「ジュール・リメ杯」と呼ばれる
4グループ総当たりの予選を行い、各組首位が決勝トーンナメントに進む。決勝に進んだのはアルゼンチン、ユーゴ、ウルグアイ、アメリカ。決勝はラプラタ・ダービーとなり、ウルグアイがアルゼンチンを破って初代チャンピオンに
1934年 第2回 イタリア開催 ファシスト体制の優位性を立証するためフットボールを利用としたムッソリーニの命令でイタリア協会が誘致に動く
32か国が参加、初の地区予選開催、本選は16ヵ国参加で、トーナメント方式
イタリアが優勝したが、国を挙げて大会を政治利用したことから後味の悪い大会に
1938年 第3回 日本が初参加、大学生主体の若いチーム、初戦で優勝候補のスウェーデンと当たり、前半2点をリードされていながら後半で逆転「ベルリンの奇跡」と呼ばれる
開催地はリメ会長の母国フランス、イタリアが連覇

第4章        バレーラとバルボーザ
バレーラ ⇒ 1917年ウルグアイの貧しい労働者階級の生まれ、小学校中退で働き、アマチュア・クラブで頭角を現し、U-20選抜に招集、以後プロに入ってセンターハーフとして活躍、39年ウルグアイ代表に
バルボーザ ⇒ 1921年サンパウロの建設現場の人夫の子として生まれ、中卒後会社のチームに参加、社会人リーグで左ウィングとして活躍、18歳でゴールキーパーキーパーに転向、20歳で中堅クラブのプロに、44年末リオのヴァスコダガマに移籍
当時リオのスポーツクラブは中流階級以上に限定されていたが、ヴァスコダガマは下層階級出身や混血の選手を入団させる。プロはまだ認められておらず、職業をもって、自分の名前を書くことが義務付けられていた。ヴァスコダガマは、選手を自分たちの会社の従業員とし、名前を書く練習もさせて、1部リーグ昇格後にいきなり1部でも優勝、リオの大衆は大喝采、以後他のクラブも人種や階層に拘らず選手を入団させるようになり、リーグのレベルは著しく向上
クラブでも控えだったバルボーザが、45年末代表の練習要員として招集され、レギュラー2人の怪我でいきなり代表に昇格、アルゼンチンとの対抗戦コパ・ロカ(アルゼンチンの将軍の名前)に先発出場したが、過度の緊張からミスして2点を失う。奮起して46年後半からはクラブのレギュラーとなり、48年の南米クラブ選手権では、驚異的なセーブでヴァスコダガマを優勝に導く
49年の南米選手権では、ストライキで有力選手の参加しなかったウルグアイに圧勝、決勝でパラグアイを破って27年振りの王者になる

第5章        ワールドカップ前夜
19503月 サンパウロのブラジル水泳選手権にフジヤマのトビウオが参加。古橋の400m800mリレーで世界新を記録、ブラジル開催の水泳協議会で世界記録が生まれたのは史上初
6月がワールドカップ
ブラジル協会と絶縁状態にあったアルゼンチンが不参加 ⇒ その理由は今日まで不詳だが、発端は45年末のコパ・ロカでのアルゼンチン選手の骨折、翌年初の南米選手権でまたもアルゼンチン選手が骨折して乱闘となり、以後両者は10年以上に亘って関係を断絶。独裁者のペロンが、優勝できる可能性がないなら不参加と命じた、とされる
1回大会以来の参加となったウルグアイは、監督選びで難航、最終決定したのは開幕の23日前 ⇒ フランスが直前に出場取り止めとなったうえ、ブラジルの意向で1次リーグの相手はボリビアだけとなり、時間的余裕が出来たことが幸い

第6章        ワールドカップの熱狂
624日 「デルビーの巨人」は、155千の観客で埋め尽くされる
ブラジルのユニフォームは上下とも白(カナリア軍団の現在のユニフォームは54年以降)
相手はメキシコ、4-0で快勝
公式戦では選手交代が認めたれていなかった
3大会連続優勝すれば、ジュール・リメ杯を永久保持できる
スター選手揃いのイングランドに対し、アマチュア主体のアメリカが、一方的な試合にも拘らず、1回のチャンスを生かして1-0の史上空前絶後の大番狂わせ ⇒ 以後、イングランドはこの試合で着用した紺のシャツを使用せず、セカンド・ユニフォームのシャツの色を赤に変えている
グループ1は、ブラジルがスイスとは引き分けたが、メキシコ、ユーゴを破って首位
グループ2は、スペインがイングランド、アメリカ、チリを破って首位に
グループ3は、スウェーデンがイタリアを破り、パラグアイと引き分けて首位
グループ4は、ウルグアイがボリビアを8-1で破って首位、38年大会のスウェーデンと並ぶ最多得点
決勝リーグの最初の相手はスウェーデン、7-1で大勝
2戦もスペイン相手に6-1と快勝
ウルグアイはスペインと引き分けた後、スウェーデンに逆転勝ち



第7章        マラカナッソ(マラカナンの悲劇)
716日 マラカナン・スタジアムにてブラジル対ウルグアイの首位決定戦、ブラジルが引き分け以上で王者に、ウルグアイは勝たなければ王者にはなれない
有料入場者数173,850人、他に相当数の招待客がいるので、観客総数は20万を超えていた。現在に至るまでフットボール史上最多入場者記録
主審はイングランド
28分 ブラジル・ディフェンダーのラフ・プレイをバレーラが注意、以降ディフェンダーのマークが甘くなり、それが試合の行方を大きく左右
後半開始早々ブラジルが先制、バレーラは線審がオフサイドのフラッグを上げたが主審が流したのを見て猛然と抗議。判定は覆らなかったが、その後からウルグアイの猛反撃が始まる。21分同点。失点に動揺したブラジルはショックを引きずる
34分 ブラジルのFKからのカウンターでウルグアイが逆転のゴール、そのままウルグアイが守りきって勝利
敗戦のショックの騒ぎの中で、交通事故、喧嘩などで5人が死亡
正面入口のリオ市長の胸像が引き倒され、運河に投げ込まれた
試合を見ていた9歳のペレは、泣きじゃくる父親を慰め、復讐を誓った
2時間後にブラジル選手団が宿舎にバスで帰る時には、大半の観客はいなくなった後で、リオの町には全く人通りもなかった
ウルグアイの選手団は、安全のため3時間ほどロッカールームにとどまり、ホテルに戻った後、自分たちだけで密かに勝利を祝った

第8章        マラカナッソの夜
バレーラは、一人夜のリオに繰り出し、酒場で飲んでいると、一人の若者がバレーラと認めて、彼の勇気を称えると、酒場の皆も同調、思わぬブラジル人の反応にバレーラは感激
翌日、リオ在住のウルグアイ関係者を呼んで大使主催の祝勝会が開かれたが、バレーラは体調不良を理由に欠席
バルボーザを始め、セレソンは眠れない夜を過ごし悪夢にうなされ、リオから逃げ出す、一時的に記憶を失った者もいた
閉幕後メディアは敗因を追求。非難が集中したのがバルボーザ
大会自体は、競技面でも財政面でも大成功
スタジアムの正式名称は、「リオデジャネイロ市営スタジアム」だったが、50年代中頃からマラカナン地区にあるところから「エスタジオ・マラカナン」に変化、さらにスタジアム建設に賛同して世論を喚起し、ブラジルのフットボールの振興にも貢献した「ジョルナウ・ドス・スポツチス」の社主だったマリオ・フィーリョが66年死去するとリオ市は彼の功績を称えて正式名称を「ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ・スタジアム」としたが、一般的には「マラカナン・スタジアム」と呼ばれている
最終戦は、当初ブラジルでは「トラジェジア・デ・マラカナン(マラカナンの悲劇)」、ウルグアイでは「アサーニャ・デ・マラカナン(マラカナンの偉業)」と呼ばれた
70年代後半になって、ウルグアイで「マラカナッソ=マラカナンの偉業、奇跡」という言葉が生まれ、80年代にブラジルに伝わって悲劇の代名詞となった
ブラジルにとって悲劇の衝撃は大きく、524月のパン・アメリカン大会まで代表の試合を組まず、再びピッチに立ったのは3人だけだったが、宿敵ウルグアイも下して優勝
53年の南米選手権にはバルボーザも復帰したが、代表での最後の試合となる
54年のワールドカップ予選で、ユニフォームを変えるべくデザインを公募、38カ月ぶりにマラカナンで地区予選を戦い、地区代表を勝ち取る
バルボーザも、汚名返上を狙って代表入りを期したが、直前に右足を複雑骨折して万事休した
前回に引き続いて出場したのは1人だけ、1次リーグは突破したが、準々決勝で優勝したハンガリーに敗退
バルボーザは62年まで小さなクラブでプレイを続け41歳で引退
63年 バレーラが、障害児のための病院建設のチャリティ・マッチを提唱、バルボーザも含め50年のワールドカップメンバー16人が参加
65年には、逆にマラカナンでチャリティ・マッチが行われ、10人が参加
現役を引退してからもバルボーザの苦しみは終わらない。88年には映画にまでなって悲劇が呼びさまされる
92年のワールドカップ・アメリカ大会予選の最終節は、50年の決勝とまったく同じ状況、ブラジルがウルグアイに引き分け以上で予選を通過する。場所もマラカナン。
72歳のバルボーザは、GKタファレルを励まそうと合宿所に入ろうとしたが、監督は許さず。刑法の最長刑期30年を超えても許してもらえないとして涙したバルボーザは、96年リオ出身の妻が亡くなるとサントス近郊に移り住み、ようやく悲劇から無縁の生活を送り2000年死去
「マラカナンの悲劇」以来、ブラジルでは「黒人はGKに向いていない」という考えが支配的となる。精神的に不安定で、重要な場面で決定的なミスをする、という偏見が根底にあった。このタブーが破られたのは90年代に入ってから
バレーラは、国民的英雄となり、54年のワールドカップにも出場するが、準々決勝の怪我で以後は出場できず、チームも準決勝で敗退。ワールドカップでは無敗のまま代表から去る。94FIFA功労賞受賞、晩年は心臓疾患に苦しめられ、96年に78歳で死去、大統領が偉業を称える弔辞を述べる
マラカナッソの生き残りは、ウルグアイの逆転ゴールを放った右ウィングだったギッジャ1人のみ
ギッジャは、2014年ワールドカップ・ブラジル大会の組み合わせ抽選会に招待され、レジェンドとしてドローに参加
2014年のワールドカップでは、準々決勝で怪我した主力と累積警告で出場できなかった守備の要を欠いたこともあって、準決勝でドイツに1-7の大差で敗れ、3位決定戦でもオランダに0-3の大敗を喫し、ブラジル・サッカーが崩壊、マラカナン以上の悲劇となる



Wikipedia
マラカナンの悲劇またはマラカナッソ(西MaracanazoMaracanaço)は、1950716リオデジャネイロエスタジオ・ド・マラカナンで行われた、FIFAワールドカップ・ブラジル大会の決勝リーグ第3戦(優勝が決まる試合ではあったが、1950年の大会は決勝トーナメント方式を採用していなかったため「決勝戦」ではない)、ブラジルウルグアイの試合でブラジルが優勝を逃したことを指す通称である。
経過[編集]
決勝リーグ第2戦まで[編集]
開催国として悲願の初優勝を目指すブラジルは、1次リーグを21分で突破した。
決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデンスペインが進出した。ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で退けていた。これに対し、ウルグアイはスウェーデンには勝ったもののスペインには引き分け、11分となっていた。つまり、ブラジルはウルグアイに対し引き分け以上であれば優勝が決まる状況にあった。
最終戦を残しての順位は以下の通り。
チーム
1
2
2
0
0
13
2
+11
4
2
2
1
1
0
5
4
+1
3
3
2
0
1
1
3
8
−5
1
4
2
0
0
2
3
10
−7
0
·         当時の勝ち点は勝利2、引分1、敗戦0
最終戦[編集]

1950716
15:00 BRT (UTC-3)

2 - 1

スキアフィーノ 66分にゴール 66
ギジャ 79分にゴール 79
フリアカ 47分にゴール 47


ブラジル対ウルグアイの会場エスタジオ・ド・マラカナンには199,854人の観客が集まった。この試合でブラジル代表は初めて白のホームユニフォームを着て挑んだ。
後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制しブラジルの優勝が決まったかと思われた。ところがウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成した。
会場は水を打ったように静まり返り、自殺を図る者まで現れた。結局2人がその場で自殺し、2人がショック死、20人以上が失神し、ブラジルサッカー史上最大の事件となった。この事件を忘れるため、ブラジル代表はその後ユニフォームを黄色(カナリア色)に変更。以後、白いユニフォームの着用を避け続けることになる。
当時は人種差別がまだ激しい時代だった。敗戦による観客の怒りは出場していた3人の黒人選手に向けられ、特にGKモアシール・バルボーザは死ぬまで疫病神扱いされてしまった。
当時9歳だったペレがこの試合後落ち込んでいた父親を「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードが知られている。その言葉通り、8年後のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会にて17歳ながら代表となり、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献した。


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