戦争はどう記憶されるのか  伊香俊哉  2014.6.29.

2014.6.29.  戦争はどう記憶されるのか 日中両国の共鳴と相剋

著者 伊香俊哉(いことしや) 1960年生まれ。91年立教大大学院文学研究科(史学専攻)博士課程後期課程退学。現在、都留文科大教授。文学博士

発行日           2014.2.28. 第1刷発行
発行所           柏書房

はしがき
日本との戦争につての消え去らない記憶というものが膨大に蓄積されている中国に、日本は否応なく直面しているということをいいたい ⇒ 都留文科大学比較文化学科の創立10周年記念論文集が「記憶」をテーマにして編まれたのを機に、中国における日中戦争の記憶をテーマに論文を書いた
日中戦争の記憶が中国と日本でどのように蓄積されているのかを知る1つの手掛かり

I 記憶の諸相
第1章        遺骨・戦没者の戦中・戦後史――日本と中国の戦争記憶
著者要約: 日本では戦没者は靖国神社に英霊として祀られているが、中国では国民党軍と共産党具任意拠っても異なることもあって必ずしも十分な資料はないが、ある程度接近を試み、その上で日本側との比較を行った。より普遍的な観点から戦没軍人の追悼や顕彰のあり方を考えてみた
北京のケーブルテレビでは「抗日戦争」にまつわるドラマが多いことに驚く
近代日本の対外戦争における帝国陸軍の遺体の扱いは、全階級を対象に、遺骨にして本国に送還し、陸軍埋葬地共同墓地に埋葬すると規定 ⇒ 日清戦争が最初の例
日露戦争では、敵国軍隊や現地住民の死者までも埋葬の対象とする規則を制定。同時に、忠霊塔を建設し遺灰を埋葬し墓標を建てる
遺体は収容された後、現地部隊で告別式が、帰国後には所属部隊での法要、連隊慰霊祭が行われ、遺族に引き渡された後も、地元での公葬があって幾重にも追悼の式典が営まれた
戦後も、遺骨の収集や送還をめぐる動きは様々な形で継続
戦没軍人を英霊として顕彰する動き
東京招魂社 ⇒ 1869年設立。戊辰戦争における天皇軍の全戦没者3558人を招魂。74年には天皇が初の参拝
1875年の台湾出兵の戦没者12名を皮切りに、対外的な戦闘での戦没者合祀が始まる
英霊合祀の基準 ⇒ 部隊長の上申に基づき陸軍省官房が審査していたが、終戦直後には泥縄式に一括合祀を実施、敵の戦闘行為によって死没した常人まで含める動きまであったが、靖国が受け入れたのは復員省が恩給法に基づき認定した軍人軍属に限定。ABC級戦犯についても同じ基準を適用
中国は遺骨と戦没者をどう扱ったか ⇒ 収集可能な場合に限って実施され、国民党軍でも戦没将士を国殤墓地に葬ると決められたが実施されたのは戦後になってから
国民党軍では、烈士として顕彰 ⇒ 忠烈祠を設置
戦後の中国政府の抗日烈士顕彰は、より広い「革命烈士」という枠内に位置付けられる
著者まとめ: 国家が戦死者を記憶にとどめるという観点からは、日本では陸軍墓地と靖国神社という2本柱があり、それらの装置に戦死者を結びつけるためのシステムが出来上がったが、中国の場合、国民党軍では国殤墓地の設置は終戦間際のことであり日本のようなシステム化はされていなかった
遺体処理に関する制度面での差を生んだのは、兵役制度の定着の差
戦死を記憶し顕彰する行為は、戦争中は自軍の行為を正当化し、戦没軍人に続く者を新たに獲得することと直結し、兵士の死は名誉として祀り上げられたが、戦後も同様であり、日本でも中国でも誰を祀るかは政府機関が審査して決定
戦争における死の記憶の仕方は、日中両国ともに、英雄物語優先の記憶であり、戦死の美化でしかない ⇒ 戦争の実態をリアルに認識し、それを基盤とする歴史認識を形成するという点から見ると、戦争の美化は大きな足枷になっている

第2章        戦争記憶の集積と回合――雲南、占領と玉砕の記憶
著者要約: 日本がビルマから雲南省に侵攻し、その西端部を451月まで占領したが、日本軍関係者の多くは玉砕。80年代に日本軍関係者は玉砕した戦友の慰霊を現地で行うことを求めて現地に足を運び始め、「被害者」と「加害者」が直面することとなったが、このような直面が日本軍関係者の意識に何をもたらしたのか
雲南省の西端部(滇西(てんせい)地区)は、連合国側の援蒋ルートのうちビルマルートにあたり、425月ビルマに侵攻した日本軍によって遮断され、暴虐の限りを尽くしペストまで人為的に発生させたが、451月に中国側が奪還し日本軍は玉砕
日本政府は1956年からビルマでの遺骨収集を開始、雲南についても76年から中国側への働きかけが始まり、88年に雲南戦跡地訪問が許可
戦死したことのみをもって、とにかくその死を顕彰したいという思いだけの日本側に対し、雲南省の現地ではいまだに生々しい傷跡として認識されており、遺骨収集のためには中国側に謝罪の意を具体的に示すことが不可避との認識が日本軍関係者にも芽生える
著者まとめ: 雲南での遺骨収集は全く進んでいない。日本遺族会が95年国会での「謝罪決議」に最も鮮鋭に反対したように、日本軍関係者の基本的な姿勢は不変
自らの戦争の記憶の仕方が、遺骨収集等自らの希望の実現を阻む要因となっている
中国側では、抗日戦争勝利60周年記念の資料でも雲南の戦争被害を巡る新たな被害の記憶が掘り起こされ集積され続けている

第3章        雲南に刻まれた戦争記憶
著者要約: 日本軍が何を理由に虐殺したかを類型化
中国側資料と現地ヒアリングに基づく ⇒ 中国側で「事実」として歴史的に記憶
軍上層部からの皆殺しの命令と伝聞による間接的な敵愾心が、無差別の殺戮へと導く
著者まとめ: 将兵6万、一般人10万以上の死傷者の類型化
    侵攻作戦過程での一般民衆の無差別殺害
    占領開始後の抗日勢力弾圧、中国軍掃討のための虐殺
    治安維持上の触法処罰型の殺害、不服従者の虐殺、強姦虐殺
    細菌作戦による殲滅

第4章        戦犯が綴った三光作戦
著者要約: 戦後、中華人民共和国に「戦犯」として収容された人々による自筆供述書から、中国側から「三光(殺し尽くす、焼き尽くす、奪い尽くす、の中国語から)」と呼ばれた日本軍の燼滅作戦に焦点を当て、戦争の実相に迫る
戦犯として中国によって撫順戦犯管理所に拘留された1109人によるが裁判の長い過程で、自らが中国で行った様々な行為を思い起こし、その行為の意味を問い返すことを求められた ⇒ 「認罪」学習と呼ばれ、戦犯を「改造」して「友人」とする党の方針に基づく
供述書は中国側で裏付けがされ、最終的に起訴された45名分が『日本侵華戦犯供述』全10巻として公刊。「三光」の実態が、確実な証拠のもとに明らかにされた
戦犯たちが、思想的な葛藤を乗り越えて、自らの罪を正面から引き受けた上で、天皇を頂点とする日本民族の優越性を信じ込まされたことが、中国人に対する蔑視を生み、その生命を軽視することに繋がったと自己批判している
著者まとめ: 日本軍捕虜による自筆証言は、華北での戦争加害に関するものだったが、雲南でも同様の無差別的な住民虐殺や住居焼却が一般的に行われたと判断される
細菌戦を行ったとの供述は重要、かつ衝撃的
認罪をした戦犯たちの多くは、その後も認識を変えることなく、日本において自らの行為を公の前にさらし続けた

II 標的となった市民
第5章        戦略爆撃から原爆へ――拡大する「軍事目標主義」の虚妄
著者要約: 日本軍による中国での大規模な無差別爆撃や、原爆等、軍事目標を狙ったとされる爆撃によってどうして民間人の死傷者が膨大に生じたのか、そのメカニズムの解明を試みる
日本での戦争の記憶といった場合、太平洋戦末期の空爆被害の記憶は外せない
被害の増大を招いた要因の1つは、航空機による「戦略爆撃」の大規模な実施にある
「戦略爆撃」は、第1次大戦後に唱えられた戦略理論であり、軍事目標主義による爆撃と国民の戦意を喪失させるための国民を目標する爆撃が含まれ、第2次大戦で民間の死傷者が増大したのは後者が大規模に進行したことによる
1868年 サンクト・ペテルブルグ宣言 ⇒ 戦争とは殺人や人に苦痛を与えること自体が目的ではないとの認識を前提に、戦闘員が負傷して戦列を離れた後にまで不必要に苦痛や死を与える幾つかの兵器の使用を禁止(害敵手段の制限)
1899年 第1回ハーグ平和会議 ⇒ 26ヵ国参加。空爆全面禁止。有効期限5
1907年 第2回ハーグ平和会議 ⇒ 防守されていない都市に対する爆撃の禁止
1914年 第1次大戦では、都市も含む無差別空爆実施
1920年 国際連盟規約発効 ⇒ 国際法上、侵略戦争を違法とする
1931年 関東軍による錦州爆撃で無差別爆撃再開
1932年 ジュネーヴ軍縮条約() ⇒ 空襲の完全廃止、焼夷兵器の使用禁止
1937年 日中戦争開始後に南京駐在の連合国5か国代表が日本軍の南京への無差別空爆を非難 ⇒ 国連の諮問委員会が日本軍の対中爆撃を非難する決議を採択し、軍事目標を逸脱した爆撃を問題とした
日本軍においても、空爆は夜間高度3000m以上から爆撃するとされたが、実際はその高度から目標をピンポイントに爆撃する能力はなく、無差別にならざるを得なかった
1943年 イギリス空軍によるハンブルク爆撃の凄まじい威力が、連合軍側にも地域爆撃への転換を促す ⇒ 軍事目標から戦意喪失目標への転換であり、原爆投下もその延長線上
市民殺害の論理 ⇒ 総力戦体制では国民は軍需産業に従事することで戦争継続を支える力と見做されたり、自らの立場を正義の戦争と位置付け、正邪論の立場から敵国を邪悪なものとして否定することで市民の殺害が正当化された。戦後の国際法では明確に否定
一般市民を目標とする爆撃は違法だが、東京裁判でも実態的な無差別爆撃の違法性、犯罪性を全面的に取り上げることはなかった
著者まとめ: 第2次大戦を通じ、絶大な破壊力を持つ戦略爆撃という手法を軍事指導者たちに所与のものとし、空爆における軍事目標主義を定着させた
我々が日本の加害責任を真正面から受け止めつつ、あらゆる国家による無差別爆撃を市民の立場から告発するならば、歴史認識を共有し、戦争の惨禍を拡大しないための連帯を生み出していくことも可能なのではないか

第6章        戦闘詳細が語る重慶爆撃
著者要約: 重慶爆撃を作戦ごとに記した報告書=戦闘詳報を分析し、爆撃の実態に迫る
狭義では、長江と嘉陵江に挟まれた三角州とその対岸の重慶市域に対する爆撃
広義では、四川省各地に対する奥地爆撃の総称
初の爆撃は19382月 ⇒ 南京陥落前に戦時首都となることが決められていた重慶市への先制攻撃の狙いで、戦略爆撃と言えるほどのものではなかった
同年12月 陸海軍間に協定が出来、奥地戦略爆撃を実施する態勢が取られる
395月 本格開始 10月 中断
40510月 再開
4158月 再開されたが、対米開戦を前に重慶政権を屈服させられずに作戦打ち切り
攻撃目標とされたのは、飛行場や兵器廠、軍事施設となっていたが、実際には市街全体を目標とする絨毯爆撃
著者まとめ: 重慶戦略爆撃の最大の目的は中国の戦意を破壊し、降伏を導き出すための威嚇爆撃であり、軍事施設目標の名のもとに市街地に対して行われた無差別爆撃

III 裁く者と裁かれる者
第7章        中国は何をどのように裁こうとしたのか
著者要約: 国民政府が、何を基準に戦犯を選定し、裁こうとしたのかという意図に注目し、戦争犯罪調査の実態を明らかにするとともに、それに基づいて行われた裁判の内容を明らかにする
中国が、日本の違法な戦争の責任や戦時国際法違反の責任をどのように追及するかについて具体的に考慮し始めたのは1941年になってから
421月 セント・ジェームズ宮殿宣言 ⇒ 欧州の連合国が、ドイツの残虐行為を犯罪として懲罰する旨を宣言、中国も日本を対象に宣言に参加
日本軍の犯罪行為についての情報収集が始まる ⇒ 証拠主義を尊重
4310月 ロンドンに連合国戦争犯罪調査委員会発足 ⇒ 重慶に極東小委員会
1次大戦後のパリ講和会議予備会議で設置された委員会によって32項目の戦争犯罪が特定、後に2項目追加され34項目となる。中国の国内刑法上の根拠となる条項を追加
犯罪人の特定が困難 ⇒ 関係部隊のトップを犯罪人と推定。迅速な本土帰還との兼ね合いもあった
天皇の責任 ⇒ 蒋介石は、国内に異論はあったものの、終戦直前にトルーマン大統領に対して、天皇および天皇制の処遇についてはアメリカの方針を支持し、日本の国体は日本人民の自由な意志で決定されるというのが持論であると表明、「以徳報怨」という寛大政策を宣言
4512月 BC級戦犯裁判開始 ⇒ 10カ所で開廷。拘留累計2415人、内法廷で処理した者962人、起訴452
著者まとめ: 証拠資料主義をとったものの、実際の裁判が始まると収集した証拠資料がどこまで有効だったかについての検証はここではできない
戦犯処理の目的は、法律面においては違法の者の処罰、政治面では日本の人民の教育
市民による告発も取り上げたことは、被害者の観点からの責任追及という性格を戦犯裁判にもたらす意味を持った点で注目されるべき
戦争裁判を歴史的に評価する作業と、日本が犯した戦争犯罪を直視した歴史認識を構築する作業のどちらもが、今日の我々には求められている


あとがき
ドイツでは、自国の加害の側面について教育や記念館を通して国民に伝える努力が払われている。日本ではそうした試みの例は少なく、自らの過去に率直に向き合う姿勢を欠いていると言っても過言ではない。一方、中国では被害の記録や記憶は集積され続け、メディアや記念館がそれを国民に伝えている。このままでは、戦争をどう記憶していくのかという点で、日中両国間の隔たりはますます広がっていく
雲南で集積されている被害の記憶は、戦後中国で戦犯となった日本軍人が自ら綴った加害の記憶と通じるものが少なくない。これらを「相剋」と「共鳴」と表した。両国の戦争の記憶には「相剋」の側面だけでなく「共鳴」する側面も確実に存在する

本書を通して、戦争や戦後処理のあり方をどのように記憶していくべきかについて、考える素材を提供した




戦争はどう記憶されるのか 伊香俊哉著 日中双方での形成過程を探る 
日本経済新聞朝刊2014年5月4日付 
東アジアの歴史認識問題は、もはや民間交流の問題ではなく、政治外交、安全保障の問題でさえある。この認識の問題を解きほぐすには、事実探求だけでなく、むしろ各国の、あるいは各社会集団、個人の歴史認識の形成過程が重要となる。そのため、従来歴史学が探求して来た事実だけでなく、国家、社会集団、個人がいかにそのことを記憶したのか、ということが探求すべき研究の対象となる。本書はまさに、その問題に中国のひとびとへのインタビューと、文書史料などとを組み合わせて切り込もうとするものである。
(柏書房・3700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(柏書房・3700円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 しかし、その記憶の形成は事実探求と同様に、あるいはそれ以上に厄介な研究対象である。戦争であれば、その当事者により、また地域により記憶は異なるし、時とともにそれは変化し、後の権力者による作為が加えられることもある。本書の各章は、そうした時間軸、空間軸、さらに多様な当事者に配慮している。日中双方の戦後の遺骨、戦没者の扱い、日本軍が玉砕した雲南・ビルマ国境地域における記憶形成、戦犯たちの「三光作戦」(燼滅(じんめつ)作戦)などが、第1部での検討の対象となる。本書の白眉たる部分だ。
 第2部は、記憶と事実の間の対話とも言える部分だ。日本は1939年から41年にかけて、中国国民政府の拠点であった重慶に対して空襲を加えた。著者は、その被害者への聞き取りを続けていたが、そもそもその空襲をおこなった当時にこの無差別爆撃を日本軍がいかに正当化し、宣伝したのか、ということを探求する。つまり、事実と、同時代の日本側の言説、そして中国側の記憶の三層構造を解明しようというのである。
 第3部は、戦争裁判、それもA級戦犯が裁かれた極東軍事裁判(東京裁判)ではなく、B・C級戦犯が裁かれた中国での裁判が、どのような意図で進められたのかを解明する。中国側は、日本側の関係者をいかなる理由で、どのような基準で「戦犯」と認定し、裁判を遂行したのか。そこには、蒋介石の寛大政策や、毛沢東の軍民二元論などでは割り切れない、複雑なプロセスが読み取れる。中国国民政府は証拠主義に基づくある意味で厳格な姿勢をとっていたが、市民の摘発も重視された。
 本書は、著者の意図した通り、まさに「日中戦争の記憶が中国と日本でどのように蓄積されているのかを知る」手がかりとなろう。惜しむらくは、「結論」に相当する部分が無かった点であろうが、それも読後に余韻を残し、深い記憶を残すためであったかもしれない。
(東京大学准教授 川島 真)



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