孤高の守護神 ゴールキーパー進化論  Jonathan Wilson  2014.6.26.

2014.6.26.  孤高の守護神 ゴールキーパー進化論
The Outsider A History of the Goalkeeper

著者 Jonathan Wilson 1976年生まれ。高校時代からホッケーのキーパーをやっていて感動した体験を持つ。英『ガーディアン』『インディペンデント』などに寄稿する、スポーツ・ジャーナリスト。

訳者 実川元子 上智大外国語学部仏語科卒。翻訳家、ライター。

発行日           2014.5.20. 印刷               6.10. 発行
発行所           白水社

プロローグ
ゴールを守るやり方がその国の地域の文化を体現している
ゴールキーパーとゴールキーパー像が、時代を経るうちにどう変化してきたか、また国ごとにどう違うかについて書いた本。ゴールキーパーという個人とチームという集団との関係、またスポーツがそれぞれの時代の政治文化をどのように反映しているか、がテーマ

第1章        豊穣を阻むもの――サッカー草創期のゴールキーパー
ゴールキーパーの存在は、比較的近代の現象
19世紀、私立学校がそれぞれ独自のルールで行っていた「フットボール」を、学校同士が対戦できるように統一ルールを定める試みが盛んに行われたが、そのどこにもゴールキーパーについて言及された箇所はない
1863年 英国にフットボール・アソシエーション(FA)設立
当時の一般的な布陣は9人のフォワードと2人のバックスで、ドリブルしてゴールすることがすべて。初期のルールでは「フェアキャッチ」と見做されればどの選手でもボールを手で扱えるが、ボールを持って走ったり、投げてゴールすることは許されなかった
ヴィクトリア朝時代の学校のディフェンダーは、身体的に劣って、やる気もない学生がやるものだとされ、小柄でへたくそ、臆病者がやらされ、ファインプレーをするとフィールドプレイヤーに戻してもらえたが、少なくとも英国ではいまだにある、ゴールを守ることを恥とする風潮の始まりが伺える
ゴールキーパーについて書かれた最古の記録は、1865年のアッピンガム校での試合で、ゴール前に1人置いた選手を中心にゴールを守り、その選手が英雄視されている
1871年 ゴールキーパーが規定に組み込まれる ⇒ ボールを手で扱えるのをペナルティエリア内に限定したのは1912
人類学者の多くが、サッカーは大半のスポーツと同様、ある種の宗教的儀式から始まったとみる ⇒ 豊穣を司る闇の神々に球技の儀式が捧げられ、聖なる木や川など俗世との境界標とされる目的地までボールを運ぶ。ボールは太陽を象徴し、それをあるべきところまで運んで返すことで好運が約束された
となると、ゴールキーパーは、人々の祈願成就を阻止し、ボールが象徴する太陽を納めるべき場所に納まらないようにする仕事をするということになり、ゴールキーパーの存在が人々の不安を呼び覚ます理由となっている
味方が最高のプレイを見せているときには遠く離れたところにいて、彼が最高のプレイを披露しているときは味方は苦戦している、不思議な存在
1900年の初め、当時最も有名なゴールキーパー、ウィリアム・[太っちょ]・フォルクはおよそ節制とはほど遠い所にいて、96年の93kgから02年には167kg、キャリアの最後には178kgあったと言われたが、身長195cm、鋭い反射神経とパワーに恵まれ、パンチングとスローイングでは、他の選手のキックよりも遙かに遠くまでボールを飛ばした
初期のゴールキーパーは共通して貧困に苦しみ、それがしばしば早逝の原因になった
2次大戦前のサッカー草創期に、最も偉大なゴールキーパーと称えられたウェールズのリー・リッチモンド・ルース(18771916)38歳で死去したが、手首の骨折でサッカーを断念したあと第1次大戦で志願兵となり、戦功十字勲章を授けられた直後の交戦で戦死 ⇒ ゴールキーパーのポジションのそれまでの評価とプレイの定義を覆す。それまではゴールキーパーを守るためのルールがなかったため、自ら実力でキーパーチャージを跳ね返さなければならなかった。ルースがしばしばハーフウェイラインまで出てきてボールを投げるプレイが試合の盛り上がりを妨げ、クリエイティブなプレイを見せるチャンスを潰しているとして、1912-13年シーズンから、ゴールキーパーはペナルティエリア内でしかボールを手で扱ってはならないとルールが改定された

第2章        ロシアの系譜――レフ・ヤシンとその後継者たち
史上最も崇拝されるゴールキーパーはレフ・ヤシン ⇒ 「黒豹」「黒蜘蛛」と呼ばれ(実際に来ていたユニフォームは常に濃紺)、旧ソ連の美学を体現。ロシア・リーグのディナモ・モスクワに属しで完封100試合を達成。FIFAはワールドカップの最高のゴールキーパーに「レフ・ヤシン賞」を授与。初めてヘディングでクリアしたゴールキーパーだが、常にキャップをつけ、ハイクロスの処理時にはよくキャップを脱いでヘディングした
ロシアほどゴールキーパーを崇拝する国はない ⇒ 画一性を要求する社会では、ほかの集団の構成員とは別個の存在感を持ち、1個人としての個性を発揮できる機会は滅多にないということもあるが、1917年のロシア革命当時、小貴族の家に生まれてイギリスに亡命したロシアの偉大な作家・詩人ウラジミール・ナボコフがゴールキーパー崇拝は典型的なロシア人だからだと認めたことに始まる
一方、英国人のメンタリティには、目立つことに対して眉をひそめ、徹底したチームワークをあまりにも重視しすぎるきらいがあり、ゴールキーピングという奇矯な技術を発達させていくことに向かない。この見方は、草創期の英国の才能あるゴールキーパーに変人が際立って多いのも見ても、当たらずとも遠からず
ヤシンは1929年生まれ。アイスホッケーのキーパーが本職。終戦後の1944年、サッカーの再開とともにストライカーに憧れてサッカーを始めたが、身長が高くて跳躍力があったところからキーパーになるのは必然の成り行きで、47年の兵役で軍のスポーツ部に入りゴールキーパーとして頭角を現し、50年ディナモのサッカーチームに誘われる
53年のシーズンでヤシンのアイスホッケーチームがUSSR杯で優勝、世界選手権の代表に選ばれながら、サッカーに専念するために代表を辞退。54年にはUSSR代表チームに選出され、ナンバーワンのゴールキーパーの地位を確立、56年のメルボルン・オリンピックで優勝、58年のワールドカップでも存在感を示し、60年の第1回欧州選手権でも優勝
ゴールキーパーの新たな役割として、フィールドへ指示を出す ⇒ 優れた戦術眼が必要
62年のワールドカップでは準々決勝で開催国チリに惜敗、国内ではゴールキーパーの責任だと報道され、非難の矛先がヤシンに向けられ、ディナモは残りのシーズンをヤシンなしで戦うことになったが、翌63年シーズンはシンにとって最高の結果になる。64年の欧州選手権で準優勝したが、欧州年間最優秀選手賞、バロンドールを受賞、今に至るまでゴールキーパーでこの賞を受賞したのはヤシン1人。2回戦でイタリアのPKを止めたのが光ったが、ヤシンは全キャリアで150本のPKを止めている
66年のワールドカップでの活躍も目覚ましく、準々決勝の対ハンガリー戦での働きは後世まで語り継がれるほど
70年引退 ⇒ ディナモと代表チームで計438試合に出場、うち完封試合数209
勇敢なプレイによる代償も大きく、足にたえず衝撃を受け続けたことで内部が損傷、84年に病に倒れた際に右足を切断、さらにヘビースモーカーであることも災いして健康状態が悪化、90年に60歳で死去
ヤシンの後継者の最右翼はリトナ・ダサエフ(1957)。タタール人としては間違いなく史上最高の選手。70年代後半からスパルタク・モスクワに所属、82年以降3回のワールドカップに出場、代表キャップ数は91(史上2)。ソ連崩壊後初の自由契約の権利行使者となり、90年に1.5百万ポンド(325百万円)でスペインのセビージャに移籍
3年の契約終了後もスペインに留まったが、生活の糧が無く困窮、ロシアに戻って英雄として歓迎され、見違えるほど変わった故国で育成アカデミーを開く
新しいロシア社会では、ゴールキーパーにとってのモチベーションは、自己犠牲を払う孤高の英雄になることではなく、個人として名声と栄誉を追求することになっている
ダサエフの次がミハイル・イェレミン(6891)86年からCSKAモスクワ所属、90年から代表入りしたが、翌年交通事故で死去
次いで、セルゲイ・オフチンニコフ。ロコモティフ・モスクワ所属、一時ポルトガルに移籍(ベンフィカ、ポルトなど)。すぐ熱くなる性格はヤシンと違うものの「新世代ヤシン」と呼ばれた。20試合連続完封の記録を持つが、代表キャップ数は35と少ない
次に「新世代ヤシン」と呼ばれたのがイゴール・アキンフェエフ(86)16歳の時CSKAモスクワでデビュー。典型的ロシア人でロシア大地への絆はロシア正教への信仰によって一層強いものとなっている。07年と11年に左膝の十字靭帯切断、まだ完全に元の状態に戻っていない ⇒ 2014年ワールドカップのブラジル大会で背番号1(予選敗退)

第3章        洒落ものの系譜――戦争に翻弄された欧州の名士たち
2つの大戦間にサッカーは次第に広い地域に普及、ゴールキーパーを孤高の英雄と見做す文化がある一方で、英国は相変わらずゴールキーパーをはみ出し者と見做した。社会性がない、もしくは身体能力の劣るものにあてがわれるポジションだとみる風潮があった
その間にも偉大なゴールキーパーは現れた ⇒ セルティックのジョン・トムソンは、2731年しかプレイしていないがその潜在能力から推してスコットランド史上最高のゴールキーパーとされる。31年の試合でフォワードを止めるために頭から飛び込んでフォワードの膝に烈しく接触、頭蓋骨骨折でその日の夜死去
イタリアのゴールキーピングのスタイルの土台をつくったのはジョバンニ・デ・プラ。1920年代にジェノアでプレイ。イングランド人によって設立されたイタリア初のサッカークラブで、イングランドの強い影響を受けていた。これ見よがしなアクロバティックなプレイで、ゴールラインで守るスタイル

第4章        スイーパー・キーパー――キーパー、チームに統合される
1953年のウェンブリーでのイングランド対ハンガリー戦は、その後の英国のサッカーの行方を示す象徴的な試合であり、世界のサッカーの聖地としてのウェンブリーの、そして世界のサッカーの頂点に立っていた英国の地位が揺らいでいるという不愉快な事実が明らかになったという意味で、「時代を変えた」「世紀の決戦」と言える
試合は、63でハンガリーの勝利
ハンガリーのゴールキーパーがペナルティエリアから飛び出してディフェンスの背後でボールを処理、ディフェンスラインの背後にあるスペースを潰すことによって、キーパーも攻撃に結び付くプレイが出来た
役割の斬新さに目を瞠った英国は、ハンガリーのゴールキーパー、グロシチ・ジュラをゴールキーピングの画期的なスタイルを編み出した偉大なる革新者と称えられた
チェルシーでの試合が濃霧で途中中止になり全員が引揚げた後、ゴールキーパーだけが1人残ってゴールを守っていたという笑い話は、英国でのゴールキーパーがチームのアウトサイダーであることを物語る象徴的な出来事
ゴールキーパーをチームの一員として再統合するきっかけはスコットランドのゴールキーパーの系譜を継ぐハリー・レニーが作った ⇒ スコットランドのジュニア代表時代はフィールドプレイヤーで、189723歳でゴールキーパーに落ち着き、このポジションについて本格的な理論を生み出す。ゴールエリアの立ち位置や守備する範囲を明確にする練習を始めたパイオニアで、引退後もゴールキーパー専任のコーチのはしりとなる
ゴールキーパーをチームの一員として再統合しようという動きは東欧で起こる ⇒ グロシチこそそれまでの80年の歴史のなかでフィールドの1選手に最も近いプレイヤーで、その流れを継いだのがブルガリアのソコロフで、彼の最大の遺産は52年のUSSR遠征の時にヤシンを感嘆させたことで、彼の新しいゴールキーピングのスタイルが受け継がれた
1960年代のアヤックス(オランダ)で、ゴールキーパーを再びチーム本体に組み込む動きが加速し、大幅に進歩して頂点に達した ⇒ アヤックス監督のリヌス・ミケルス(在籍196571)がスペースをうまく使うことを試合のコンセプトにして、ポゼションを取った時に効果的なプレイエリアを最大限に広げるため、高い位置にディフェンスラインを敷いて積極的にオフサイドトラップをかけて敵の攻撃を絡め取った
エトヴィン・ファン・デル・サールの登場が、スイーパー・キーパーの概念をもう一段高い次元へと引き上げた ⇒ バックパスのルール導入と時期を同じくしているが、ルールの見直しが一気に加速したのが90年のワールドカップ、イタリア大会で、アイルランドのキーパーが6分間もボールをもって離さなかった
ファン・デル・サールは2m超の長身で動きがぎごちなかったが、アヤックスのゴールキーパーとして生粋のスイーパーにひけを取らずに機能する最初の選手となる ⇒ 99年ユベントスに移籍、08年にはイングランドでの14年にわたる活躍によりナイトの称号を授与された
ゴールキーパーはセーブに注力すべきか、それともフィールドプレイヤーの一員と考えた方がいいかの議論は、アルゼンチンで対立が頂点に達する ⇒ 自分をフィールドプレイヤーと考えているゴールキーパーは主としてラテンアメリカに多く、彼らは「エル・コロ=イカレた奴」と呼ばれ、その代表格は94,98年のワールドカップに出場したメキシコのホルヘ・カンポス。身長174cmだが、色鮮やかなユニフォームを着てセンターフォワードのポジションまで上がり、バイシクルキックでゴールを決めた。その上を行くのがパラグアイ代表のチラベルトで、キーパーとして出場しながら62ゴールを挙げている。チラベルトが蹴るPKは伝説になり、PKによるハットトリックを達成。言動には問題もあり、99年のコパ・アメリカの主催国になった際は、その資金を教育に回すべきとして出場を拒否したり、02年のワールドカップ南米予選ではブラジルのロベルト・カルロスの「インディオ」という人種差別発言に対し唾を吐きかけて3試合の出場停止となったり、03年に引退したのもチーム内の序列が下がったからだった。ゴールを決めるゴールキーパーを1つのスタイルとして確立したパイオニア

第5章        スケープゴートの悲哀――ブラジルとスコットランドの系譜
ブラジルとスコットランドでは、歴史的にゴールキーパーを頭から馬鹿にしてきた
1950年のワールドカップ・ブラジル大会では、マラカナンで行われた最終戦で、ブラジルがウルグアイに引き分ければ優勝だったが、宣誓後に逆転負けとなり、キーパーを含む3人の黒人がスケープゴートにされ、特にキーパーのバルボーザに非難が集中、以後黒人のキーパーはありえないという偏執的な固定観念がブラジル国内に根付く。93年のアメリカ大会でバルボーザがブラジルのキャンプ地を訪問しようとして阻止された後、99年にジーダが代表キーパーになったが、バルボーザ以来実に49年後のことだった
イングランドでも、険悪な人種差別もあって、黒人がゴールキーパーになることはフィールドプレイヤーになるより遙かに高い壁があった ⇒ 90年代半ばに偏見は消えたが、イングランドのプロサッカーリーグで最初にプレイした黒人選手は、1893-94年シーズンに現在のガーナ共和国出身のゴールキーパーだった
1980年代に入る頃には、スコットランドのゴールキーパーへの不当な評価が広まったのは、61年のウェンブリーでの対イングランド戦で9ゴールも許したことがキッカケ
ブラジルのゴールキーパーに対する見方が変わり始めたのは90年のワールドカップから
英国では「身体の強さと信頼感」が尊重されるが、「個人の天性の才能はしばしば不信の目を向けられ、自分勝手で信用ならないと厄介者扱いされる」傾向がある
スコットランドのゴールキーパーははっきりとしたスタイルを持っていない。彼等の不運は、やっと敬意をもって認められるようになったころから、スコットランドサッカー全体が絶望的な停滞に陥ってしまったこと

第6章        忍耐強いイングランド人――廃れゆく本場のゴールキーパー
イングランドが長い歴史を通して誰もが認めるゴールキーパー大国であることは真実、それは、イングランドのゴールキーパーは、ゴール前から飛び出してクロスを弾く他国の悪しき習慣に染まらず、安全第一で信頼のおけるプレイを心掛ける血が流れている、ということを意味する
イングランド人は、ゴールキーパーに対して相反する見方をする。ゴールキーパーを得体の知れない一匹狼であり、信用できない、哀れな変人と見做す一面がある一方で、勇敢で、冷静沈着で物事に動じないというイングランド人の美点を最高の形で体現しているとも見ている
イングランドでは、1960年代後半になって漸く、それもFIFAの決定によって仕方なく、ゴールキーパーが「1」の背番号をつけるようになった

第7章        アフリカの巨人――ライバルが変えた歴史
1970年代初期にカメルーンにアフリカサッカー史上最高と言われる2人のゴールキーパーが同じクラブに在籍 ⇒ トーマス・ヌコノとジョゼフ=アントワーヌ・ベル
2人は良きライバルだったが、晩年は協会の政治闘争に巻き込まれ、2人とも代表から離れる

第8章        巨人列伝――スーパーマンたちの奮闘
マンチェスターユナイテッドのピーター・シュマイケル ⇒ 98-99シーズンを最後に引退すると言っていた最後のチャンピオンズリーグの決勝で、バイエルンミュンヘン相手にロスタイム3分で2度のコーナーキックを決めて逆転優勝したが、そのきっかけは最初のコーナーキックの時シュマイケルが放ったヘディング。7年の在籍中リーグ優勝5回したがチャンピオンズリーグでの優勝は初めて、出場停止だったロイ・キーンに代わってキャプテンマークを巻き、トロフィーを受け取った
シュマイケルは、ゴールキーパーの新しいプレイスタイルを打ち出す ⇒ ハンドボールのプレイヤーの経験から、両手両足を大の字に広げて飛び上がる「スタージャンプ」をサッカーに導入。ライアン・キグスやデビット・ベッカム等の才能とスピードを最大限活かすためロングスローで攻撃の起点を作ったのもシュマイケルの業績
2011年 国際サッカー歴史統計連盟 過去25年のゴールキーパーのランキング
第1位     エトヴィン・ファン・デル・サール 199cmを生かした守備能力が持ち味
第2位     イケル・カシージャス 185cm
第3位     ジャンルイジ・ブッフォン 191cm シュマイケルと同じスタイル。母は円盤投げのイタリアのチャンピオン、父も砲丸投げの選手、姉2人はバレーボールのプロ。祖父のまた従兄弟が50-60年代の偉大なゴールキーパー。95年パルマでデビュー
第4位     ピーター・シュマイケル
イタリアには優れたゴールキーパー育成の豊かな土壌があった ⇒ ジュゼッペ・モロからディノ・ゾフ、ジョバンニ・ガッリ等の系譜に対し、ブッフォンが手本としたのは90年のワールドカップで見たヌコノのプレイ
ブッフォンのライバルはドイツのオリバー・カーン(67) ⇒ 「タイタン(巨神)」の異名。90年カールスルーエの正キーパーに。02年ワールドカップでゴールキーパーとして初のMVPを獲得
ドイツの系譜 ⇒ 戦前ではハインリッヒ・シュトゥルファウス、戦後はアントン・トゥレク、次いでゼップ・マイヤー(ブンデスリーガで442試合連続出場)
1970年代から、特に雨模様の時にはゴールキーパーがグローブをはめることが一般的になった
スペインの系譜 ⇒ リカルド・サモラ、アントニ・ラマレッツ、
サンティアゴ・カニサレスからフランシスコ「ホセ」・モリーナ、ホセ・「ペペ」・マヌエル、ヴィクトル・バルデス。バスクの伝統的球技であるペタロも含め優れたゴールキーパーを輩出する土壌がある
カシージャスは、99年に18歳でレアルマドリードからデビュー、その年チャンピオンズリーグで優勝した最年少ゴールキーパーとなる。0811年国際サッカー歴史統計連盟の年間最優秀ゴールキーパー(4年連続は初)

第9章        ペナルティキックの恐怖――数字では測れないPKの不思議
PKをめぐる研究は、ゴールキーパーとキッカー双方ともに、数をこなすうちに癖がつくことを明らかにしている
70年代から選手のデータ収集が始まり、現在ではペナルティキッカーについての分析データは必須 ⇒ 06年ワールドカップの準々決勝ドイツ対アルゼンチンはデータの重要性が確かめられた試合で、ドイツのゴールキーパー、イェンス・レーマンはコーチのしたためたメモを活用。PK戦となって、メモにあった7選手のうちPKを蹴ったのは2選手だったが2人ともメモ通りのコースに蹴り、1人は止められ1人はゴール。ドイツは先攻で4人全員が決める。アルゼンチンの4人目は、メモに載っていなかったが、それまでレーマンがすべて正しい方向に飛んでいるのを見てキッカーは自分のデータも持っているに違いないと思い込み、ジレンマに陥って、結局キーパーに止められた。ドイツ代表は76年の欧州選手権でPKを失敗したのを最後にその時まで一度もPKを外したことがなかった
どんな選手にも「得意方向」がある ⇒ インステップキック(足の甲で蹴る)なら右足で蹴れば左側に、左足で蹴れば右側が「得意方向」であり、インサイドキック(踝の近くで蹴る)なら蹴り足と同じ方向になる
ある経済学者がPKを研究した結果を08年のチャンピオンズリーグ決勝でマンチェスターユナイテッドと対戦したチェルシーに4つの重要なアバイスを送り、いずれも正解
   マンユナイテッドのファン・デル・サールはストライカーの得意方向を知っていて必ずそちら方向に飛び、かつ彼が止めたPKの大半は地面とクロスバーの中間辺りなので、地面に転がすか、より高いところを狙って蹴るべき
   クリスチアーノ・ロナウドは、ゴールキーパーが動くぎりぎりまで待ち、動いたのと反対方向に蹴るので、キーパーは動かないで待てばいい
   キーパーが動かないためにロナウドが助走を止めたときには85%の確率で右方向に蹴る
   出来るだけ先攻を取る。後攻の選手はプレッシャーに負けてしまう
コイントスで勝ったマンが決めかねた際、チェルシーの主将が「先に蹴ったらいいじゃないか」と勧めたが、マンは後攻を取り④が転がり込む
最初の2人は①のアドバイス通り、不得意方向に蹴って成功し、2-2
3人目のマンはロナウドで、②の通り動かないキーパーに対しロナウドは助走を一瞬止め、右に蹴ったので、③に従ってキーパーが阻止
チェルシーの4人目は不得意な方向に蹴って成功
5人目のアシュリー・コールは得意方向に蹴って、サールも手を伸ばしたがゴールに成功
6人目は不得意方向に蹴ったがポストに当たって外れる
ファン・デル・サールは、データ分析の結果通り6本中4本で自分の得意方向にダイブ
チェルシーは、6人のキッカーが全員サールの得意方向である左に蹴り込んだ
チェルシーの7人目は、①のアドバイスとは反対に、自分の得意方向であるゴールの左に、しかももっと悪いことに1mくらいの高さのところに蹴って、サールに止められ優勝を逃す
PKの概念を編み出したのは、北アイルランドでプレイしたウィリアム・マックラム ⇒ ゴール間近でのファールは、その場所からのフリーキックが与えられたが、ディフェンダーがひしめいていたのでは効果が薄いところから、キッカーだけがゴールに向かえるようにしたらどうかと提案、1891年国際サッカー評議会も新しいルールを採用
ゴールラインから12ヤードにペナルティスポットが設置され、1905年にはキーパーはゴールライン上に留まることが定められ、29年にはボールが蹴られるまで動くことが禁じられた(動くことは後に解除)
キッカーとキーパーは常に神経戦 ⇒ 「中央に立ち続けられるキーパーはいない」ので、ロブボールを蹴る(パネンカ・キック)
4回のPKを全部同じ方向に蹴った選手は一人もいないが、蹴り方に1つのパターンを持っている選手もいない(少なくともデータから一定のパターンは見い出せなかった)
ゴールキーパーのサッカー人生が如何に不安定かは、たった1つの不運なミスで評価に傷がつく半面、1回か2回のスーパーセーブで脚光を浴びるキーパーもいることから明らか
ゴールキーパーほど運命の気紛れに恒常的に向き合っているスポーツ選手はいない。考える時間を与えられ、1人で思い悩む選手なのだ。だからこそ知識人にゴールキーパー経験者が多い ⇒ カミユ、帝政ロシアの詩人・作家のナボコフ、フランスの随筆家のモンテルラン、英国の作家イブリン・ウォー等々。教皇ヨハネ・パウロII世もその1

エピローグ
20年前のゴールキーパーと決定的に違うのは、ボール扱いの能力 ⇒ 1992年バックパスのルールが導入されたときは、キーパーにバックパスが来るたびにパニックが起きた
19世紀後半、ゴールキーパーはチームの外に置かれ、特殊な職務を実行する特殊な役割を与えられ、1人だけ別のユニフォームを着せられた
ゴールキーパーは特殊なタイプの流浪者であり、チームのほかのメンバーが犯したミスの責めを都合よく負わされるスケープゴートである
集団に交わらない孤独感を楽しむ者もいる。USSRがなぜゴールキーパーをあれほど愛したのか、またなぜ多くの芸術家や知識人がゴールキーパーに魅かれたのかは、孤高であることに価値を見出していたからだ。また流浪者でありスケープゴートとなる、つまりキリストのように他者の罪を贖う存在に魅力を感じている者もいるだろう
ゴールキーパーはいつの時代も矛盾による大きな緊張を孕んだ存在。いつの時代にあっても、集団から孤立したアウトサイダーであるよう運命づけられている



孤高の守護神 ゴールキーパー進化論 []ジョナサン・ウィルソン/マラカナンの悲劇 []沢田啓明
W杯、深く楽しむための2冊
 まったくもって寝不足である。地球の裏側で開催されているW杯のせいだ。そんな今、熱狂の起源をたどるような2冊の本を紹介したい。試合の合間に読むと、サッカーへの理解が深まるだろう。
 『孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』は、タイトルの通りキーパーの役割がこの150年でどう変遷してきたのかをまとめた大著。同著によれば、黎明期のサッカーには、キーパーそのものが存在しなかった。キーパー導入後も、そのポジションは絶対的に不人気だった。下手なプレーヤーが罰ゲームとしてゴール前に置かれるような有り様で、キーパーになりたがる者は変人扱いされた。ダイビングもせず、チームメートへの指示だしもしない。その役割は、極めて限定的だった。
 今ではキーパーには、多くの能力が求められるようになっている。だが、国によってもキーパーの意味づけは異なると同著は言う。ブラジルでキーパーがスケープゴートになりやすいという指摘は、なるほどと思いつつ同情を禁じ得ない。日本のキーパー論については触れられていないが、日本版を誰かが受け継いでもよさそうだ。
 今大会では、しばしば「マラカナンの悲劇」というフレーズが使われる。1950年のブラジルW杯、初優勝をかけて臨んだ決勝戦において、ブラジルはまさかの逆転負けを喫した。この経験が、ブラジルにおける大きなトラウマになっているというわけだ。 『マラカナンの悲劇』では、W杯に至るまでの過程、当日の試合展開、優勝国ウルグアイによる「マラカナンの奇跡」の受け止め方などが丁寧に解きほぐされていく。今大会でブラジルは悲劇を乗り越えられるのか。まあ、決勝に行く段階で既に「奇跡」なので、なんてぜいたくなんだ、とも思ったり。両著とも、画像や動画での検証が困難な時代のプレーを、資料や証言を収集して活写した力作。
    ◇
 『孤高の守護神』実川元子訳、白水社・3024円▽『マラカナンの悲劇』新潮社・1620円/さわだ・ひろあき


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