サリンジャー 生涯91年の真実  Kenneth Slawenski  2014.3.10.

14.3.10. サリンジャー 生涯91年の真実
J.D. Salinger: A Life Raised High            2010

著者 Kenneth Slawenski ニュージャージー州生まれ。現在も在住。04年サリンジャーのウェブサイトDeadCaulfields.comを創設。本書がベストセラーとなり、12年度ヒューマニティーズ・ブック賞。15か国語に翻訳、20か国で発売

訳者    田中啓史 1943年生まれ。東大大学院修了。青学大名誉教授

発行日           2013.8.10. 初版
発行所           晶文社

サリンジャーはなぜ〝姿を隠したのか?
出生秘密、家族、戦争体験、失恋、結婚、創作活動、編集者との確執・・・・・
謎に包まれた私生活や埋もれていた新事実がいま明らかに。
死後初めてとなる決定版・評伝!

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』によって全世界的に知られる作家となったサリンジャー。1965年に最後の作品を発表して以降、沈黙を守り続け、2010年に91年の生涯を閉じた。
本書は死後初めてとなる伝記で、『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとゾーイー』などの代表作を始め、単行本未収録の初期短篇や未発表作品まで網羅的に紹介。同時に、ノルマンディー上陸作戦での従軍体験、ウーナ・オニールとの恋の破局、最初の結婚、出版社やマスコミとの軋轢…・謎に包まれた私生活を詳らかにしていく
膨大な資料を渉猟し、緻密な追跡調査を行い、様々な新事実を明らかにしたサリンジャー評伝の決定版!

序章
著者は7年間「死せるコールフィールド家」というウェブサイトをやっている。サリンジャーの生涯と作品に関するサイト。2010.1.28.突然57通ものメッセージが来て、その死を知った。この7年、この本を書き続けて漸く最終章の完成原稿を1週間前に送ったところ

1.    坊や(サニー)
元々、ポーランドとリトアニア国境の出身。曾祖父がロシア在住。祖父が1881年アメリカに移住、結婚してクリーヴランドに住むが、医者になってシカゴで開業(ホールデン・コールフィールドの祖父のモデル)
サニーの両親が過去を語らない秘密めいた雰囲気を生み出し、それがサリンジャー家に浸透して、姉ドリスとサニーも世間に極めて閉鎖的な人間に育つ ⇒ 周囲ではいろいろな伝説が作られたが、真実は、母親はアイオワの出身、両親が相次いで死んだところでシカゴで映画館の支配人をしていた父親と会って1910年に結婚。間もなく映画館の事業は失敗、ヨーロッパのチーズの輸入会社に職を得て、そのニューヨーク支社長となる
サニーが生まれたのは、ノース・ハーレムのブロードウェイ3681番地
1920年代は空前の繁栄を誇った時代、特にニューヨークが一番輝いていたが、由緒ある血統とプロテスタントであることが社会的地位を得る為の必須条件
両親は、サニーやドリスを育てるのに、宗教や民族の伝統については厳しくしなかった ⇒ 半クリスチャン、半ユダヤ
終生母親と親密な関係を保ち、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も母に献辞を捧げているほどだが、父親は息子の志望を信じられず、サリンジャーが後に描く登場人物をインチキ、妥協、強欲として非難する特性を象徴する人間
1932年、大恐慌の最中にパークアヴェニューのアパートに引越し、父親の成功の絶頂
34年、学校から新年度の学籍登録を拒否され、ヴァレーフォージ軍学校に入る ⇒ 大恐慌で反ユダヤ主義が強くなり、アイリッシュの風貌のある母親だけの面接が奏功
成績は飛躍的に向上、趣味の文学と演劇でも活躍
36年、卒業時に書いたクラスソングは今日まで歌い継がれている
36年秋、ニューヨーク大学ワシントンスクエア校に入学、文学士号の取得を目指すが、学校の周囲の歓楽街をさまよって進学できないまま退学、父親の支持で仕事を手伝うため、オーストリアに駐在
ヨーロッパに滞在していた1年は、ナチスが権力への道を暴走し始めた時期で、ユダヤ系への迫害が始まり、オーストリアのサリンジャーの家族は45年までに全員がホロコーストで虐殺された
ヨーロッパにいる間に、それまでの自分の生活と全く異なる状況に生きる人たち、日々が常に闘いであり危機である人たちに交じって生活したことから、それまでほとんど共通点のない人たちの価値を認められるようになった。ドイツ語やドイツ人を受け入れるようになり、讃えるべきドイツ人と、その中に存在するナチスを区別するようになった
38年秋、ペンシルヴェニア州のドイツ改革派教会が後援するアーサイナス大学に入学、大学新聞でコラムを持つが、1学期で退学
友人の姉の提案でスコット・フィッツジェラルドの作品を読み始め、彼の中に自分の手本としての作家だけでなく、自分と同類の精神を見出し、作家になるという強い決意を固め、両親に妥協してまた学校に戻ることを承知

2.    抱いた夢
39年、コロンビア大入学、ストーリー誌の編集者バーネットの教える短篇小説創作と、詩人で劇作家タウンの詩の授業の受講登録 ⇒ ストーリー誌はバーネットの意向で有望な新人作家の作品を掲載、やがてテネシー・ウィリアムズ、ノーマン・メイラー、トルーマン・カポーティなどの作家を世に送り出す
バーネットの授業で初めて勉強に打ち込むようになり、バーネットはサリンジャーの書いたものに驚嘆、彼の中に潜む本物の才能を発見。彼の最初の短篇『若者たちThe Young Folks』が他の出版社に拒否された後、40年にストーリー誌2月号に掲載
上流階級の甘ったれた暮らしをしている連中の虚しくて冷え冷えとした現実を暴いた処女作はフィッツジェラルドの作品に強い影響を受けていて、フィッツジェラルドと同じ著作権代理業者と契約
次の作品がストーリー誌も含めどこからも相手にされず、作家になることを諦めようと本気で考える ⇒ 強く自分の未来を信じている一方で、深い挫折感を表明して自己を卑下することで判るように、深い自己不信に陥ることがあった。それでも作家として素晴らしい忍耐力を備えていて、生涯その姿勢を崩さなかった。自己不信に陥っても、そのせいで夢を捨てることはなかったが、これほど価値のある特質はない
2作が部数の限られた学術誌に掲載されたことを契機に、新進作家として、見識を備えているうえ市場価値もある作家としての地位を固めていく ⇒ 大衆向けと、読者に自省を促す、という全く異なる2つのタイプの短篇を書く
2次大戦の開始とともにアメリカ人の生活にもその影響が出始め、初めて平時徴兵制が確立、作家として独立が難しいと考え、徴兵に応募するも、軽い心臓疾患が見つかり不合格 ⇒ 代わりに彼の作品『そのうちなんとか』が『兵隊読本』という兵隊が戦場に持っていく作品集に収録され、彼が初めて単行本に登録された作品となる
作品が売れたことで社交界との接点が出来、劇作家ユージン・オニールの娘と深い恋に落ち、その恋を引きずることになる ⇒ サリンジャーがずっと軽蔑してきたタイプの「空っぽの娘」だった
作家としての文学的、経済的地位を保証する雑誌はニューヨーカー誌だったが、8度目の挑戦で漸く掲載されることが決まる(結局は真珠湾発生で掲載中止) ⇒ 自らも、精神的自伝と認める、ホールデン・コールフィールドという不満だらけの若きニューヨーカーが主人公の物語。サリンジャーの作家人生が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で結実するまでの大道を敷いてくれることになる
作品はひとつの告白であり、当時自分が経験していた挫折を説明したもの。彼が進むべき仕事の方向に関して分裂していたように、私生活でも同じ矛盾を感じていた。流行を追う社会のインチキを非難している一方で、その作者はストーククラブに陣取って、見せかけの生活を楽しみ、自分が著作のなかで悪口を言っている、まさにそんなものを欲しがっている

3.    迷い
42.4. 軍が身体検査の基準を緩めたため、サリンジャーの入隊が認められる。入隊を考えたのは家を離れようとしたからだったが、戦争で戦うことになるという現実を前に、それまでは距離を置こうとして来た家族や家族との絆を発見、家族を結び付けている単純なものを大切にし、家族組織というありふれた、それでいて複雑な力学を考えるようになった
軍隊生活は結果的にサリンジャーの作品に深い影響を与える ⇒ あらゆる階層の人間が集まり、騒然たる社会の現実の真っ只中に放り込まれ、彼の人間観は新しい個人に出逢うたびに変わり、文学的感受性に本質的な影響を及ぼす
幹部候補生学校の選抜に落ちた後、陸軍航空士官候補生となる
軍務の合間を縫って作品を書き続けるが、掲載まではなかなか漕ぎ着けない
ハリウッドでスターを夢見たオニールの娘は、父親認知訴訟を起こされていたチャップリンと結ばれ(43年結婚、77年にチャップリンが死ぬまで添いとげ、8人の子どもを成した)、新聞はこぞってアメリカ人の大好きな劇作家の、若く「無垢な」娘を、邪悪な行為によって「白い奴隷」に貶めたとこの俳優を糾弾。サリンジャーにとっては屈辱的
43年央、軍がサリンジャーの語学力と現在のドイツ占領地区で過ごした経験に注目、CIC
(防諜部隊)配属を命じる ⇒ ヨーロッパに侵攻、現地人の中に潜むナチ勢力を見つけ出す役割を担う
戦争という現実がさらに迫ってくると、サリンジャーは書くことで対処。自らの軍籍番号を持った軍曹を登場させたコールフィールド家の物語で、感情的な葛藤を展開

4.    旅立ち
44年、部隊の侵攻間近の下でも書き続けたが、掲載を拒絶され続けるが、その裏には長編小説への要求があった ⇒ サタデイ・イブニング・ポストには採用されても、ニューヨーカーからは拒絶
軍隊は彼を変え、入隊以来若い頃よりガサツになり、上品さもあまり感じられなくなる。酒を飲みだしたのもイギリスに上陸してから

5.    地獄
Dデイはサリンジャーの人生の大きな転機 ⇒ Dデイの衝撃とその後11か月に亘る戦闘を通じた体験は、人間としてのサリンジャーのあらゆる面に焼き付いて、作品の中で鳴り響いている
過酷な上陸作戦を戦い抜き、パリに侵攻した最初のアメリカ軍兵士となる
パリでは、コリヤーズの従軍記者だったヘミングウェイの会い、彼は作品を読んで注目していたサリンジャーを旧友のように迎える ⇒ フィツジェラルドやシャーウッド・アンダソンを賞賛して、ヘミングウェイを公然と褒めたことはなかったし、戦争中に彼との友情をありがたく思い希望をもらったと感謝していたが、作品への尊敬は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でホールデンが『武器よさらば』を酷評していることで判る
激戦の最中にあっても作品を書き続け、交戦の体験に基づき戦争を非難した怒りの物語である実戦を描いた唯一の作品もあってバーネットに送られるが、多くの作品は未発表のまま終わる
ドイツ軍追撃は予想外の反抗にあって長期化、後に歴史家たちからは軍事的な失敗であり人命の浪費と見做され連合軍最大の失態の1つとなったアーヘンの東のヒュルトゲンの森の戦闘では、サリンジャーも戦闘に加わって一命をとりとめるが、彼の慰めとなったのは、従軍記者だったヘミングウェイがすぐ近くにいたことで、直接会いに行った
この戦闘から14年後、サリンジャーは小林一茶の俳句を思い起こす
         これほどの 牡丹と仕かた する子かな 
(牡丹はこれくらいの大きさだと、子供が手を広げて見せる)
サリンジャーは、「一茶は牡丹の花がそこにあると助言するだけでよかった」と、主張する
後は読者次第というわけで、我々は自分から向き合おうとしなければならない
『新兵フランスにて』は、戦場のタコツボに束の間の休息を求める、戦いに疲れた兵士の心の動きを描いた詩集で、サリンジャーが詩を魂と同等と見做した最初の作品であり、彼の魂の旅における重要な過程を記しているが、その本質は心だけが真に牡丹を見ることができるのと同じ、心で体験するように感じとられなければならないのであって、この先これがサリンジャーの意欲作の大切な要素となる
12月のバルジでのドイツ軍大反攻作戦は、アメリカの軍事史上最も犠牲の大きいもの
サリンジャーの所属部隊も四散したが、辛うじてルクセンブルクをドイツの手から守り抜き、ミュンヘンに向けて掃討作戦に入る
その一方で、サリンジャーの作品は、ストーリー誌などを中心に続々と掲載されていた
サリンジャーにこの戦争の決定的な恐怖を知らせたのは、彼の諜報部の任務 ⇒ 事前に『ドイツ強制収容所』という機密文書が配布され、防諜部隊は占領地域の収容所の状況を報告する義務を負わされる。1992年、第4歩兵師団が合衆国陸軍によってナチの強制収容所を解放した部隊として認められたが、第12連隊所属のサリンジャーが、ダッハ強制収容所群の犠牲者解放に参加するよう要請されたことは間違いない。多くの兵士と同様、サリンジャーもこの経験をそのまま語ることはなかったので、これらの場所での諜報部隊の任務がどのようなものだったのか正確にはわからない
終戦後も、占領政策の補助のために防諜部隊の分遣隊が創設され、サリンジャーもその分遣隊に配属され、さらに6か月をニュルンベルクで過ごすが、いまでいうPTSD(心的外傷性ストレス障害)の症状で入院、ヘミングウェイへの手紙でその状況を訴えている
短篇の記述によれば、彼はウィーンに行って家族を探したが、初恋の相手も含め全員が強制収容所で死んだことを知る

6.    贖罪
秋には突然現地で知り合った女性と結婚 ⇒ ドイツ人だったため、偽のフランス人パスポートを送って一緒になり、除隊になってもドイツに残り、国防省との契約で一般市民としてさらに半年、戦争犯罪人の逮捕の任務を続ける
46.4. 帰国 ⇒ 妻はすぐに義母と衝突して帰国、離婚を要求
同時期、バーネットが本音をあかし、長編までの繋ぎとしての短篇集出版を約束しながら、資金不足からキャンセルし、バーネットとの関係が切れるが、以後編集者という人種はどこでも裏切るものだと思い込み信用しなくなった
戦後の混乱期には筆を執れなかったが、46.11.漸くまともな作品を書くようになる ⇒ 日中は執筆に専念、夜はグリニッチヴィレッジで過ごし時代の最先端を行く芸術家タイプの人たちと付き合い、ポーカーの集まりに参加したりした
結婚に失敗した後、驚くべき数の女性をヴィレッジに連れてきた ⇒ 1人の女性とは一度しかデートをしないことが多かった
戦場で体験した魂の目覚めが身に沁み込んでいて、作品の核となり始めていた ⇒ サリンジャー作品における2つの永続的でともに戦争体験に深く根差した要素に焦点が絞られる。1つは神秘主義への傾倒であり、もう1つは作品は魂の実践の場であるという職業作家としての確信。46年後半には禅や神秘カトリック教の研究を始めていた

7.    自立
46.11. ニューヨーカー誌がやっと『マディソン街の反乱』が掲載されたことで、サリンジャーは自分の作家人生が変わると本能的に感じ取り、タリタウンに独立、自身の倒錯の森となった
ニューヨーカー誌が評価したのは文体の精妙さだが、内容がよく理解されなかったところから、誌のスタッフと話し合って何度も推敲を繰り返す
ニューヨーカー誌に掲載された次の作品『対エスキモー戦争の前夜』は、分断という問題を探求したもの。人と人との分断、人とその夢の間の障壁という問題で、孤立化に向かって流されようとする若者の救出を巡って展開、主人公の状況が改善する筋立てはこの3年間で初めてという意義深い作品

8.    再確認
サリンジャーの作品は、少年時代の喜びにひたすら浸るようになってきた
ニューヨーカー誌での成功のお蔭で49年にはかなり知られる存在になり、同年の『受賞短編集』や『全米ベスト短編集』にも再録、ニューヨーカー誌が『バナナフィッシュにうってつけの日』をこの10年間で最も優れた作品の1つと認め、『ニューヨーカーの55短編:1940-50』に再録してくれたのが一番嬉しかった
ヘミングウェイの自惚れと強がりは有名で、サリンジャーは彼のように自分を売り込んで喜んでいる作家たちのインチキぶりを批判、彼の功名心を批判する一方で、自分を謙虚な人物に見せようとした ⇒ 出版社による作家紹介を嫌い、自ら伝記的な小文を書いているが、意図的な矛盾が散見され、「正直に事実を書いたかどうか疑わしい」と告白している
作家個人に寄せられる関心は、作品を書く作業の邪魔になるとして、個人的な事実を明らかにしようとしなかった
自ら寓居する満たされない日々を綴った『コネティカットのひょおこひょこおじさん』の映画化権を、映画製作に一切口を出さないという条件で売り渡す ⇒ 自分の作品がちょっとでも手を加えられると聞いて激怒した作家が、どうして条件を呑んだのか不明だが、長年の夢の実現が優先したのか、映画は『愚かなり我が心My Foolish Heart』として公開され大当たり、スーザン・ヘイワードはアカデミー賞にノミネートされ、ヴィクター・ヤングの主題歌もノミネートされ今日でも有名なスタンダード・ナンバーとなっている。原作が郊外の住人の実態を暴露し人間性の再検討を迫るものだったにもかかわらず、感傷的なラブストーリーになっており、サリンジャーは愕然とするとともに、以後頑固に自作の舞台化や映画化を許さなかった、と長く信じられていたが、自分の野望を優先するあまり同じ過ちを繰り返しそうになったことはある
49.10. 文学的成功の極みに達し、フィッツジェラルドの小説の舞台となったコネティカット州ウェストポートに引越し、第2次大戦の兵士たちが今もなお心の傷に悩んでいることを伝えようとした『エズメに――愛と汚れをこめて』を完成させる ⇒ 自らの精神的な姿勢を深く見せた、第2次大戦が生んだ最高傑作の1つというのが定説

9.    ホールデン
ついに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の完成に取り掛かり、41年から書き溜めてきた短編小説を寄せ集めて一つの芸術作品に編み上げる
50年、鈴木大拙と知り合い、執筆と瞑想が同じものだという信念を持つ
同年、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』完成 ⇒ ニューヨーカー誌始め出版社の拒絶に会う。「独創的過ぎて自己中心的」だと批判され、ハードカバーをリトル・ブラウン社から、ペーパーバック(シグネット・ブックス:50セント)をニュー・アメリカン・ライブラリー社から、イギリスでは創業者に共感したヘイミッシュ・ハミルトン社から出版
ブック・オブ・ザ・マンす・クラブから夏季の推薦図書に選定
サリンジャーは、ニューヨークでの出版に伴う騒動を避けてイギリスのハミルトンを訪問するが、ハミルトンから、小説の中で「インチキ」と見做していたサー・ローレンス・オリヴィエ夫妻との食事に招待され、彼は自分こそが「インチキ」だと思えてくる
多くの批評家がホールデンが繰り返す「ガッダム」や「ファックユー」という言葉に不快感を示したが、反響は彼の手に負えないほどの衝撃となり、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーに7か月とどまり、8月には4位になった
アメリカ文化の道筋を変え、世代を超えて人の心理を見定めるのにも役立った ⇒ 冒頭からホールデンの奔放な実在感に惹きつけられ、そのとりとめのない思考、感情、そして記憶がアメリカ文学の歴史上もっとも完璧な意識の流れの中に息づいている。ホールデンの語りの無秩序さは最初のページから明らか。冒頭の63語からなる文章と、1ページ以上続く最初の段落はそれまでの文学的なしきたりへの挑戦であり、今までにない特異な経験に遭遇しているのだと読者に警告を発する
そんな型破りにも拘らず、チャールズ・ディケンズが創始してマーク・トウェインがアメリカ文化に融合させた文学的伝統を守っている。『デイヴィッド・カッパ―フィールド』と『ハックルベリー・フィンの冒険』の継承者として、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は思春期の少年の目を通してその語り手の住む土地と年代に相応しい言葉で語られる人間観察なのだ。ニューヨークの街角で聞かれる俗語の多用が、1951年には一部批評家から非難されたが、彼等はその言葉のうちに隠された微妙な諷刺を見落としていた
ヘミングウェイの語りを受け継いでいるが、ヘミングウェイはシャーウッド・アンダソンに影響を受けていて、3世代に亘るアメリカの偉大な作家が結びついている
主人公は矛盾のかたまりとも言うべき人物
ホールデンの旅は全て、バーンズの詩を誤って引用したために犯した過ちを、発見し続ける旅であり、彼の旅は、「つかまえる」と「会う」の違いを理解したとき、初めて終わる。その理解がなされたとき、それが神の出現、いわゆる悟りとなるのだ
サリンジャーにとって、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を書くことは清めの行為、その行為を通じて終戦以来背負ってきた重荷を下ろすことが出来た

10. 十字路
フォークナーも同じ親密さを経験していて、「サリンジャーの小説は私が言おうとしてきたことを完璧に表現している」と述べる
新たな名声を嫌い、普通の生活を取り戻そうとして、イーストサイドの質素なアパートに居を移す
51年、あるパーティでクレア・ダグラスと出会う ⇒ イギリスの高名な美術評論家の娘で16歳で、彼女も32歳のサリンジャーに惹かれ、清く正しいデートが始まる
サリンジャーは、野心の方向を変えて、宗教的な作品、つまりアメリカ社会につきものの精神的に空虚さを明らかにする作品に専念
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のなかでからかっていたにもかかわらず、ヴァレーフォージ軍学校から52年度優秀卒業生賞を受賞 ⇒ 受賞は嬉しかったが授賞式への出席は海外旅行を理由に拒否したのは、彼の性格に見られる多くの矛盾をはっきり示している

11. 定住
マンハッタンでの喧騒に取り巻かれて著述が困難になったサリンジャーは、53年ニューハンプシャーのコーニッシュに90エーカーの家を買う
彼の中にまだ子供の部分が生きていて、自然に地元の若者たちと親しくなり、町の住人とも交流、素朴な田舎紳士としての生活を確立しようとしていた
9編の短編集の発刊を巡ってまた出版社とひともめ ⇒ どれか1編のタイトルを使うのが一般的だが、サリンジャーは拒否、単に「9つの物語」でいいと主張、表紙のイラストも作者紹介も拒否した。念願の短編集だったが、貧弱で力強さがないと思われたが、ニューヨーク・タイムズ紙のベスト・セラー・リストの9位、3か月間上位20位以内に残り、短編集としては異例。サリンジャーの宣伝軽視が正当化され、彼はますます自分の作品への管理を強める
ラドクリフ在学中のクレアと頻繁に会うようになるが、53年冬に大学をやめてコーニッシュに来てくれというサリンジャーの申し出は拒絶される
地元の高校の新聞の他愛もないインタビュー記事が、地元紙に誤りだらけの内容で掲載
特に、「異国風の容貌」とか「エキゾティック」と紹介されたのがユダヤ人の血を引いていることを示すために使われたに違いないとして、以後高校生との関係にも終止符を打ち、隣人を避けるようになり、屋敷の周囲に塀を建てはじめる

12. フラニー
クレアの最初の結婚相手は、同じハーバードのMBAに在学していた後のジレットのCEOだったが、宗教的な面での行き違いから早々に離婚、クレアはサリンジャーのもとに戻る
2人のドラマは、54年に書き上げた唯一の作品『フラニー』の背景となっている
若い女性が自分の周りの人たちの価値に疑問を持つ話。人生にはエゴだらけの見栄とか競争よりも大切なものがあると信じて、彼女は幸福に至る魂の道を探求しようと決心
55年、ニューヨーカー誌に登場 ⇒ すぐに批評家のお気に入りの作品となる

13. ふたつの家族
55年、クレアと正式に結婚 ⇒ 2人とも以前の結婚を認めることを拒否、書類上は初婚
2人が信仰によって捨て去ったインチキや物質主義とは無縁の、精神性と自然に重きを置いた素朴で厳しい生活を始め、すぐにクレアは妊娠
サリンジャーは狂ったように働き、自身の生活をシーモア・グラス家の物語として書き、自らの人間肯定を、そして絶望を克服するすべての人間に存在する神性を、体現させた

14. ゾーイー
55年末、長女ペギー誕生
敷地内に別棟の防空壕を建てて執筆に専念 ⇒ 私生活には大混乱をもたらしたが、自分の仕事には犠牲を払う価値があるという確信は揺るがず、家族から離れて過ごす日課を頑なに守り通すことは、夢を頑なに持ち続けることに通じ、常に彼を悩ませてきた雑念を捨て、自分の思い通りに生きる心地よさに浸り、彼の芸術は豊かに活気づいてくる
雪解けとともにやってくる隣人のハンド判事夫妻と親交を深める ⇒ 「最高裁の10番目の裁判官」と呼ばれる、42年間連邦裁判所裁判官を務め、個人の自由を守る闘士として、言論の自由の強力な擁護者として全米に名声を築いてきた
サリンジャーの完璧さの追求を、中編小説『ゾーイー』程よく示してくれるものはない ⇒ 単独で自足した作品をいくつか繋げて長編を作り上げようとし、長編が完成すればそこに収まる作品だが、とりあえずの目的は単独で『フラニー』の続編とすること
ニューヨーカー誌が出版を拒絶したため、サリンジャーは収入のためにハリウッドに既存の自作を売り込むが交渉は決裂、2度と映画化や舞台化を売り込もうとはしなかった。一方でニューヨーカー誌での『ゾーイー』の出版が決まり57年発表 ⇒ グラス家のゾーイーはフラニーの兄、イエスの祈りに憑りつかれて迷っている妹を救う

15. シーモア
5859年にかけてスランプに陥りながらなんとか『シーモア――序章』を書き上げる
その間、サリンジャーに対する一般の認識は、短編作家から伝説の領域に急激に変化、禁欲的な隠遁者という神話がアメリカ人の意識に拭い難く定着
1950年代半ばに、親の世代の物質主義的な社会から自分が疎外されていると感じる若者たちの運動が、自然発生的に起こってきた。戦争以来アメリカ社会にしみ込んだガチガチの画一性に反抗して、1950年代の多くの若者が周囲の世界に対する幻滅や挫折感を表現できる、自分たち集団の声を求めていた。彼等は湧き上がる自分たちの不満を認めてくれる味方を求めていて、その不満が着実に大きくなって、やがて社会を見違えるほど変えると考えていた。多くの若者は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にその味方を見つけ、自分たち世代の代弁者としてホールデンという人物に飛びつく ⇒ 『キャッチャー』教
56年末にはアナーバーのミシガン大から教授招聘が来るが丁重に断る
演劇界でも、若者の不満を描くブレヒトや、サルトル、アーサー・ミラーといった劇作家の思想が幅を利かせ、『キャッチャー』と比較される映画『理由なき反抗』はすぐにブームを巻き起こす

16. 暗黒の頂き
59.6.  『シーモア――序章』はニューヨーカー誌のほとんど全冊を占めて発行 ⇒ ほとんどの読者はこの作品をどう解していいかわからず、作品の本質を巡って議論が沸騰、文学部門の必読書となる
60.2. 長男マシュー誕生
この頃、イギリスで『エズメ』のペーパーバック版が出版されたが、低俗な表紙とキャッチフレーズに激怒したサリンジャーは、ハミルトンの仕業として絶交、その後は自作の本の体裁に至るまで、自分に最終決定権があるという条項に固執。自分の書き終えた作品を彼ほど管理する作家は少ない
出版社や編集者と様々な問題を繰り返したが、ニューヨーカー誌の2代目経営者ウィリアム・ショーンは最後の例外
61年発刊の『フラニーとゾーイー』は酷評 ⇒ サリンジャーを畏敬していたジョン・アップダイクですら、サリンジャーの作家としての方向に疑問を投げかけ、グラス家の人物を一つの概念として批判したが、結果は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以上の反応で、ニューヨーク・タイムズ紙の1位となる

17. 孤立
みんながサリンジャーの私生活に興味を持つようになり、マスコミの容赦ない追求とプライヴァシーの侵害で、サリンジャーを自身がそれまでは求めもしなかったような孤独に追い込んだ
2次大戦で遭遇した死の気まぐれさは、サリンジャーに消し難い印象を残し、作品にもゆっくりを染みこんでいったし、兵役を離れても凝り固まった宿命論を生涯に亘って抱き続けたし、それは宗教的な核心にまで達していた
ペギーが学校に通うようになって一緒に過ごす時間が少なくなると、仕事が最優先となり、家族と一緒に過ごす機会を無視することが多くなる
頼れる友人も少なく、戦争中に力になってくれたヘミングウェイが61年自殺、同年ハンド判事も死去
仕事は神聖な責務となっており、孤独と隔絶がその責務を果たすための代償であることは彼も認めている
63年、最後の本『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア――序章』出版 ⇒ 前作同尾様、既存の2作を纏めた作品集。批評家は果てしなく続くかに見えるグラス家の連作に不満の声を上げ、連作の終結を要求したが、読者はまたしての作者の弁護に立ち、ニューヨーク・タイムズ紙の1位を獲得
2刷で読者への献辞を捧げ、読者への尊敬と、読者が自分の伝えたいことを感じ取ってくれるという信頼が、再び彼を作家としての危機から救う

18. 別れ
ラーマクリシュナの教えである「仕事をしなさい。ただ、その成果は神に渡しなさい」というところに従い、神の作家として執筆しながら祈り続けた
ケネディ大統領を尊敬していたが、公務への招聘は断り、ホワイトハウスへの招待もファーストレイディが直接電話してきたにもかかわらず謝絶
ケネディ暗殺後の葬列を見て初めて涙を流す ⇒ ペギーが見たたった一度の父の涙
64年には2つの仕事に取り組んでいた ⇒ 1つは『ハプワース161924』というグラス家連作の新作で、もう一つがバーネットが編纂した作品集の序文。後者は、サリンジャーとストーリー誌の関係を強調しようと企図したものだったが、自分の作品の掲載は拒否したものの代わりに序文を書くことを了承し、コロンビアの授業でフォークナーの教えをバーネットから学んだことを書いたため、序文に相応しくないと使われなかった。39年にサリンジャーの最初の作品を返却した同じ男が、彼の最後の出版物となる原稿を返却した
バーネットは恐らく数回サリンジャーの人生を変えてきた ⇒ バーネットは自分を排除することによってサリンジャーとフォークナーの間に介在していた人生と文学の概念を教えることを拒否し、サリンジャーにフォークナーを自分自身の新しい見方で捉えさせ、独自の見方を持てるようにした。それがサリンジャーの人生の教訓であったし、その教訓は作家として進めば進むほど強固になっていった。バーネットのフォークナーについての教えが無ければ、「愛する沈黙の読者」あるいは「走りながら読む人」への献身も、その人たちへの感謝も生まれなかっただろう
序文は、バーネット没後の75年に未亡人によって『フィクション作家のハンドブック』のエピローグとして発表された。『ウィット・バーネットへの敬礼』と相応しいタイトルに変えられた文章は、サリンジャーが自作と認めた唯一のフィクションであり、彼が元教師に抱き続けた愛情と敬意を強く物語っている
1960年代のアメリカは、サリンジャーにとって不可欠な尊敬や名誉とは無縁で、彼が一番軽蔑する発行部数や評判、お金と言ったものが幅を利かす価値観変動の時代だった
ヘラルド・トリビューン志がニューヨーカー誌に対抗してニューヨーク誌を発刊、サリンジャーの仕事上の家族との戦いに踏み切る ⇒ ニューヨーカー誌のショーンは、サリンジャーと同じようにプライヴァシー保持にうるさいことで有名だったが、その私生活を暴いく記事を掲載、損害賠償と脅かされたことを逆手にとってさらに煽る
64年、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のペーパーバック版の契約切れを機に出版社をバンタムブックスに変え、装丁を簡素なデザインとした ⇒ こんにちまで、そのデザインはアメリカ文学の歴史上、恐らく最も愛され大切にされた本の装丁となっている
65.1. サリンジャー最後の出版となる『ハプワース161924』がニューヨーカー誌のほとんど大半を占める。子供が行ったキャンプでの出来事がテーマだったが、サリンジャーは明らかに人間の二重性に憑りつかれ、大人と子供、精神と肉体、聖なるものと人間的なものという彼の本質の二面性と格闘していて、作品は作家としては惨めな失敗に終わる
長い手紙によって心情を吐露したが、最後まで読み終えた読者は少なく、批評家も軽蔑こそしなかったが、無視することによって、作者自身を切り捨てた
作品の中には、作者からの穏やかな別れの言葉だと解釈される文章がいくつか見られる
恐らく65年には、サリンジャーは実際に自分のマンネリズムと登場人物の中にずぶずぶと沈み込んでしまい、彼の文学が最も衰弱した時期 ⇒ 彼の創作力を育んできた多様な人々との接触や経験から隔離されて12年も暮らしていると、素晴らしい閃きは失われ、作品の幅が限られてきたものの、遅かれ早かれサリンジャーが、ニューヨークの賑やかな町で得てきた豊かな発想を、アメリカの孤独な田舎に見出すようになる可能性は失われていなかった

19. 沈黙の詩
サリンジャーの作家としての公の生活は『ハプワース161924』と共に終わる。以後数十年、彼は書き続けたが発表することはなかった
新しい生活は静寂であり、エゴの罪を犯さぬよう書くことで信仰を実践する、きちんとした祈りの日々だった
サリンジャーの沈黙は両刃の剣 ⇒ 伝説が留まるところを知らずに拡大、彼の作品に対する愛情にも繋がる
クレアとの結婚は67年正式に終わる ⇒ 子供の養育権はクレアが持つが面会は認められ、土地と家がクレアに与えられたために予想に反してクレアがコーニッシュに留まったことで、サリンジャーの生活は離婚後も変わらず、子供たちも離婚から守られた
『ハプワース161924』の後もニューヨーカー誌に原稿を送ったが拒否され、完全に出版する気を捨てたのは1972年、その後はプライヴァシー保持にさらに拘るようになり、作品集の依頼を断る一方、これまで許可していた作品に対しては徹底的な管理を続ける
個人的な手紙が漏洩するのを恐れたサリンジャーが、著作権代理人にその破棄を指示したため、500通以上の貴重な資料が失われた
74年、『単行本未収録短編全集』という初期の短編21編を集めた海賊版発刊
80年、ジョン・レノンが精神錯乱の25歳の男に殺害され、男は静かに歩道に座り込んで、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読みだした ⇒ 男は、自分の犯罪を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のせいにして、自分こそ当代のホールデンだと確信したと主張。その後ずっとサリンジャー・ファンを危険な精神異常者と結びつけてしまう悲劇となった
直後のレーガン大統領暗殺未遂事件でも、ジョディ・フォスターの関心を引こうとして犯行に及んだ加害者は精神異常者で所持品の10冊の本の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があった。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の中に潜在意識への殺人命令を染みこませたのではないかとの奇妙な発想も出てきて、97年映画『陰謀のセオリー』の封切りで論争が再燃、映画では洗脳された暗殺者が強迫観念から数百冊の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を買い集める
サリンジャーのそっとしておいてほしいという願いはメディアに無視され、作家自ら閉じ籠るという謎に惹かれて、新聞や雑誌が彼を追い回す過熱ぶりは61年当時そのまま
81年に大衆誌が捏造のインタビュー記事を載せたため、サリンジャーはそれ以後自分の作品のことを語ったり、自分の考えを公表したりしなくなった
8185年、落ち込む時期が多く、占星術に深入りし、個人の星座運勢地図を作製
人間関係を維持してきた手紙すら無視するようになり、自分の仕事のためには個人の生活も犠牲にする必要があると言い、ますます孤立を深める
一方で、サリンジャーを題材にした本が次々に出版され、なかでも86年にイギリスの有名な編集者で伝記作家イアン・ハミルトンの伝記は、これまで明らかにされたことのない私生活の詳細が明かされ個人的な手紙からの長い引用で補強されていたことから、サリンジャーが差し止めを提訴、最高裁まで争ってサリンジャー側が勝訴。こんにちまで『サリンジャー対ランダムハウス社裁判』は合衆国の著作権法の基本と見做されている
裁判結果にも拘らず、ハミルトンは『サリンジャーをつかまえて』とタイトルを変え、法廷闘争の記述まで組み入れて出版、裁判が一面トップニュースになるとさらに売り上げが何倍にも伸びる。ニューヨーク・タイムズ紙でさえ、これほど悪しざまに書かれるのなら手紙の引用を許した方がよかったと述べる
サリンジャーの後半の人生にまつわる伝説で、最も面白いのは、引退後に書いた作品に関するもの ⇒ 娘にすらも自分の職業を明かさず、作品は巨大な金庫に貯蔵され、原稿の進行具合によって分類されているという説
サリンジャーの人生を振り返れば、彼に惹かれた印象的な女たちが大勢いたが、賢明な選択をしたことはあまりなかった。クレアと離婚後も大勢の女とデートしたが、どれも賢明な選択とは言えなかった。72年に女子大生のエッセイを褒めたのが契機で同棲するがすぐに破綻、その体験を彼女が98年になって回顧した『ライ麦畑の迷路を抜けて』を出版、サリンジャーを冷酷卑劣な男として断罪、交換した手紙はオークションで20万ドルでIT企業家ピーター・ノートンが落札、個人のプライヴァシー保護のためと言明
ピーター・ノートン: 1990に自身の会社と開発販売してきたソフトウェアの一切の権利をシマンテック社に売却、現在はソフトウェア開発から引退し、会社の売却益を元手に現代美術専門の美術商・コレクターとして生活
92年、地元のバザーで会った40歳下の女性と再々婚。同年火事を出してマスコミのネタになったが、以後は住民も彼のプライヴァシーを守るために協力、世間の関心をそらしたことから、コーニッシュはサリンジャーのイメージを共有し、隠れ家そのものを意味するようになり、裕福な人たちが世間から逃れて住むのに理想的な場所と激賞され、資産価値も跳ね上がった

20. ライ麦畑をやってきて
2009年サリンジャー90歳の誕生日には、マスコミ各紙が熱狂的な関心を寄せ、規範に反抗してきた作家へのひねくれた非難という調子が強かったが、彼の「遺産」に寄せる関心が相変わらず高いという点ではどの記事も一致
08年、サリンジャー文学財団設立 ⇒ 全39タイトルの著作権を財団に委託
10.1.27.没。アメリカはサリンジャーの栄光を讃えて、彼の肖像画スミソニアン研究機構によって国立肖像館National Portrait Galleryに掲げられた
死後2日以内に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は全国のベストセラー第5位に
サリンジャーの人生を検討する、あるいは評価するとすれば、まず彼の人生をその複雑さに於いて考えなければならない。彼の中には勇敢な兵士がいて、失格した夫がいて、自己防衛的な隠遁者に屈した創造者がいた。自分の作品の中の穏やかな悟りのように神秘的ともいえるやり方で、作家としての義務を果たし、予言者としての転職を全うしたことを、過ぎゆく時が明らかにしてくれるだろう。そのあとの責務は我々に委ねられている。このようにしてサリンジャーの物語は完成を目指して作家から読者へと引き継がれてゆく。サリンジャーの人生の悲しみと未完成を、著作に込められた思いとともに検証することによって、我々は自分自身の人生を再検討し、自分自身の人間関係を見直し、自分自身の誠実さを確かめて見なくてはならない


訳者あとがき
娘が書いた『わが父サリンジャー』では、離婚後に養育費を出し惜しむ姿や、食物や医療に対する過剰とも思える自然信仰(重病の娘を医者に見せず、危機一髪のこともたびたび)が描かれ、娘の実体験として信憑性がある。本書も避けているサリンジャーの少女趣味についても具体的な目撃例や、自分とほぼ同世代の女性との同棲生活についても報告。その他サリンジャーの女性蔑視の姿勢、少女趣味、カルト的な信仰の態度をあえて糾弾し、父親の呪縛から逃れようと苦闘する著者の姿が胸を打つ力作
本書は、サリンジャーの死後初の伝記、全人生をカバーした初の伝記、雑誌に発表されたままになっている単行本未収録の初期短篇や、原稿のままで活字になっていない未発表の作品まで網羅的に紹介し、その時々の作者の人生との関わりを論じるという、初の試み
膨大な資料を鵜呑みにせずあらためて追跡調査して確かめ、より詳しい新事実を発見しているとことに本書の価値がある
サリンジャーの両親についても、従来の説を覆す
2次大戦に関する記述も読みどころ ⇒ キャンプでの訓練や実践体験の記述を通じ、悲惨さと後の人生に及ぼした影響の大きさが実感できる
編集者とのやりとりも詳しく語られ、その時々の作品を巡る確執を通じてサリンジャーの姿勢や作品の本質が見えてくることが多い



サリンジャー 生涯91年の真実 ケネス・スラウェンスキー著 戦争で傷ついた作家の姿 
日本経済新聞朝刊2013年9月15
フォームの始まり
フォームの終わり
 我々はサリンジャーの何を知っていたのだろうか。2010年に彼が91歳で亡くなってから初めて刊行された伝記である本書を読むと、そう自分に問いかけざるをえない。なにしろ、今まで見たことのないサリンジャーの姿がふんだんに登場するのだから。
(田中啓史訳、晶文社・4600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
画像の拡大
(田中啓史訳、晶文社・4600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 入手困難な単行本未収録作品や未発表原稿、手紙、関係者の証言、政府の資料などを突き合わせながら、著者は今までのサリンジャー像を丁寧に書き換えていく。圧巻なのはサリンジャーの戦争体験の部分だ。諜報(ちょうほう)部隊にいた彼はノルマンディー上陸作戦に参加し、部下を指揮しながら激戦をくぐり抜け、ダッハウの強制収容所を解放する。そこで彼が見たものは、多くの痩せ衰えたユダヤ人たちだった。「焼ける人肉のにおいは、一生かかっても鼻からはなれない」というサリンジャーの言葉からは、ただの素晴らしい青春小説にも思える彼の作品が、どれほどの闇を抱えているかがよくわかる。
 戦後、彼は過去に数年を過ごしたウィーンに行き、恋した少女だけでなく、当時知り合ったほぼ全員がナチスに殺されていたことを知る。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』で第1次世界大戦から帰ってきた主人公は、すべてを戦争前のままに戻してやる、という狂気の中にいた。その作品を愛したサリンジャーは同じ狂気を実際に生きることになる。代表作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』における、無垢(むく)で壊れやすいものを守りたいという欲望も、仲間と敵を峻別(しゅんべつ)する潔癖さも、あるいは50年代以降、彼自身がコーニッシュの村に引きこもったという事実も、すべて彼が生き延びるためには必要だったのだろう。
 一人の傷ついた人物の言葉が世界に響き渡ることで、ヴォネガットやアップダイクなど彼に影響を受けた作家たちが生まれ、大人に反抗する若者文化が台頭し、インドの宗教哲学や禅などへの関心が高まった。要するにサリンジャーは、たった数冊で現代のアメリカ文化そのものを作りあげたのである。本書を読むとそのことがよくわかる。何より、また彼の本を読みたくなるところが素晴らしい。
(早稲田大学教授 都甲幸治)

サリンジャー生涯91年の真実 []ケネス・スラウェンスキー
·         Amazon.co.jp
·         楽天ブックス
·         紀伊國屋書店BookWeb
·         TSUTAYA online
禁欲的な隠遁者、執筆と祈りの日々

 J・D・サリンジャー。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、ご存知(ぞんじ)『ライ麦畑でつかまえて』で全世界の反抗する若者たちに影響を与え続けてきた作家。斬新な口語体などを駆使し、ウィットと翳(かげ)りに彩られた作品を生んだ人。
 3年前、91歳で亡くなったサリンジャーはしかし、「禁欲的な隠遁(いんとん)者」としても神話化され、事実30代半ばにニューヨークからコーニッシュという田園地帯に越すと、人目を避けるように暮(くら)し、本に自分の写真が載ることも大げさな売り文句も嫌った。
 そしてついに40代後半からは著作を発表しなくなる。しかし、それでもサリンジャーが「老齢になるまで変わらない日課」として仕事場で毎日書いていた様子を本書は明かしている。沈黙の大作家は日々朝早く起き、ベンガルの聖者ラーマクリシュナの教え通り瞑想(めいそう)とヨガをし、発表しない作品を書き続けたのだ。
 珍しくサリンジャーが受けたインタビュー(とはいえ30分)から本書はこんな言葉を抜き出す。「発表しないとすばらしい平安がある。安らかだ。静かなんだ」。この不思議な境地は、別の箇所ではこうも書かれる。「仕事と祈りのふたつは区別がつかなくなっていた」と。では一体、サリンジャーはどんな小説を執筆していたのだろうか。
 著者はサリンジャー関係のウェブサイトを続けている大ファンで、作家の生い立ちからデビューに至る行程、デビュー後にも様々な雑誌に掲載拒否されたり、タイトルの勝手な変更をされたりしたことなどを細かく記録していく。
 そこにはサリンジャーが米軍諜報(ちょうほう)部員としてノルマンディー上陸作戦に参加し、独軍との最も過酷な戦いを強いられた部隊にいた時の模様も描かれる。すさまじい数の死者を作家は見たはずだ。
 戦火の下、サリンジャーは従軍作家ヘミングウェイに会いに行く。その記録は短いが興味深い。ヘミングウェイはのちにも戦争を多く語ったが、サリンジャーは「詳細はいっさい語らなかった」。軍人として実際戦った者は心に傷を負い、作品としてのみ外に出すしかなかったのかもしれない。
 本書はこうした示唆に富むが、作品すべてに関しても網羅的な紹介を怠らない。したがって「ライ麦」のサリンジャーしか知らない読者でも、人と作品の全体像を把握することが出来る。
 そしてなんと、本書には間に合わなかったが、サリンジャーの遺言により、未発表の5作が再来年から出版される報道がつい先日あった。5作の中では戦争も、東洋思想も、最初の結婚についても語られていると予想されるらしい。
 予習としても本書は有益だ。
    
 田中啓史訳、晶文社・4830円/Kenneth Slawenski 米ニュージャージー州生まれ。04年にサリンジャーのサイトを創設。本書は10年に出版。ベストセラーとなり、12年度ヒューマニティーズ・ブック賞を受けた。15カ国語に翻訳、20カ国で出版された。


Wikipedia
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーJerome David Salinger, 191911 - 2010127[1])は、アメリカ合衆国小説家ニューヨークマンハッタン生まれ。小説『ライ麦畑でつかまえて』で知られている。父はポーランドユダヤ人、母はスコットランド=アイルランド系だがユダヤ教に改宗した。

概要[編集]

ジェロームは、シーモア、ゾーイーなど7人兄弟と両親からなるグラース家にまつわる物語の連作を書き続けると発言していたが、1965に『ハプワース161924年』を発表して以降は完全に沈黙し、晩年はアメリカ、ニューハンプシャー州に隠遁して40年以上作品を発表することはなかった。生涯に発表した作品の多くもグラース家やホールデン・コールフィールドにまつわるものが多い。
自らの作品『コネティカットのひょこひょこおじさん』に基づくハリウッド映画『愚かなり我が心 (1949) の出来映えに失望したことから映画嫌いになった。そのため、『ライ麦畑でつかまえて』の映像化を許さなかった。公に姿を現すことは滅多に無く、作品の発表も晩年は無いに等しく、謎や伝説に包まれた人物である。
フラニーとゾーイー』頃から作品の中には東洋思想の影響が色濃く、またジェローム自身もヨーガホメオパシー(極度に希釈した成分を投与することによって体の自然治癒力を引き出すという思想に基づいて、病気の治癒をめざす行為)に傾倒するなど全体的に神秘主義的傾向が強まった。そのため後期の作品では読者層が絞られていく一方、おりしもベトナム戦争などの時局も相俟ってヒッピーなどカウンターカルチャー寄りの人々の支持も少なからず集めるに至った。

生涯[編集]

幼少期から作家になるまで[編集]

191911、ニューヨークで生まれる。父はポーランドユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。
1932年にマークバーニ校ボーディングスクール)に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「(興味があるのは)演劇と熱帯魚」と答えている。しかし、学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす。この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。また田舎の保守的な学校であり、ユダヤ人に対する差別意識があったようだが、卒業まで無事過ごす。卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939コロンビア大学聴講生となり、ホイット・バーネットトルーマン・カポーティジョゼフ・ヘラーノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる)の創作講座に参加する。バーネットの授業に参加して大きな影響を受けたようで、処女作『若者たち (The Young Folks) が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』 (19403-4月号) である。わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる。
1941に『マディソン街のはずれの小さな反抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。
1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリンと結婚してしまう。

軍歴[]

1942、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て19443月英国に派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスでは情報部隊に所属する。8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイを訪問する。『最後の休暇の最後の日』 (The Last Day of the Furlough) を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという。しかしヘミングウェイのタフな精神とは相容れなかったようである(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照)。しかしドイツとの激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。194511月除隊。

『ライ麦畑でつかまえて』[編集]

12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕は狂ってる』 (I'm Crazy) が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946、シルヴィアとの結婚生活は終わりを迎え生活も大きく変化した。ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。
1949頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。19501月、『コネチカットのひょこひょこおじさん』 (Uncle Wiggily in Conecticut, ナイン・ストーリーズ収録作品) を元に作られた映画『愚かなり我が心 (My Foolish Heart) 』をハリウッドサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒する(それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった)。1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコードプレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否。結局作品はリトル・ブラウン社から刊行、大きな反響(詳しくはライ麦畑でつかまえてを参照)を呼んだ。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。
しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州はコネチカット河のほとり、コーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送り(家にはライフラインがなかったらしい)、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた少女の1人が高校生向け記事を書くことを条件にしたインタビューの内容をスクープとして地元の新聞に載せてしまう。このことに激怒し、社会から孤立した生活を送るようになり、高校生達との縁を切ってしまう。

その後[編集]

1955ラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。一男一女を儲けるが、1967に離婚。次第に発表する作品数を減らしていく。1953に『バナナフィッシュにうってつけの日』をはじめとする短編集『ナイン・ストーリーズ』を、1961には『フラニーとゾーイー』を、1965に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を発表するが、1965年に『ハプワース161924年』を発表したのを最後に1冊の新刊も発表することはなかった。
1972、当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲。1990頃からは約50歳年下の看護婦と結婚生活を送っていたという。
晩年は滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。サリンジャーには世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。実際にはサリンジャーは、町で「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという。住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった[2]
1985年、作家・評論家のイアン・ハミルトンが、テキサス大学でサリンジャーの書簡多数を発見し、これを元に伝記を書いたが、校正刷りの段階でサリンジャーがこれに異議を申し立て、ハミルトンは二度書き直したものの、サリンジャーはニューヨークの法廷に姿を現し、一審でハミルトン側が勝ったが、二審で覆り、ハミルトンはサリンジャーの書簡を引用しない版(『サリンジャーをつかまえて』海保眞夫訳)を刊行した(サリンジャー事件)。
『ライ麦畑でつかまえて』の続編であるという『60 Years Later: Coming Through the Rye』がスウェーデンの出版社Nicotextから出版されると知り、その著者であるJD・カリフォルニアなる人物と Nicotext とを相手取り、200961著作権侵害で提訴した。訴状は「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた[3]
2010127ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去[1][4]
長男のマット・サリンジャーは俳優になっている。

評価[編集]

サリンジャーは無垢なもの(イノセンス)に対する憧れが強い人であると言われる。サリンジャーの主人公達の多くは10代後半から20代の微妙な世代であり、例えば代表作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは、大人社会に適応しようとする反面、子供時代にはなかった「インチキ」や「エゴ」に戸惑い、うまく自己を確立することができない。サリンジャーはその戸惑いを巧みに描くことのできる作家であると評価されている。また、『フラニーとゾーイー』では、妹フラニーの宗教(イエスなど)に対する曖昧な解釈から、神経衰弱に陥ってしまう。また、世の中の偽りにも見える慈善や慈愛、人の見栄に対する嫌悪に陥るが、それを否定することもエゴなのだということを兄ゾーイによって諭される。人間は『曖昧な解釈』によって『本質』を見失い、それによって偏った知識で言わば『頭でっかち』になりやすい。そんな誰しもが持っている偏見やこうであって欲しいという願望を崩されたとき、人間は嫌悪感を覚え、自らの扉を閉ざす。そんな人間の弱さや繊細さを描いた作品である。

作品[編集]

[1]はホールデン・コールフィールド、[2]はグラース家にまつわるストーリーを示す。
·         The Catcher in the Rye, 1951、(文庫版の原書が、講談社インターナショナル) [1]
·         『危険な年齢』 (初訳は橋本福夫訳、ダヴィッド社1952年)
·         ライ麦畑でつかまえて 野崎孝 白水社、のち白水Uブックス
·         『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 村上春樹 白水社 2003年、新書版、2006年)
·         Nine Stories, 1953、(文庫版の原書が、講談社インターナショナル)
·         ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳 新潮文庫、『九つの物語』中川敏訳、集英社文庫、新版2007年)
·         2008年に柴田元幸訳がヴィレッジブックスで刊行された。
·         季刊雑誌『モンキービジネス』vol.3と、vol3.5(解説号)
[サリンジャー号 ナイン・ストーリーズ 2008Fall)]
·         Franny and Zooey, 1961、(文庫版の原書が、講談社英語文庫、1992年、品切)
·         フラニーとゾーイー』(野崎孝訳、新潮文庫、改版1991年) [2]
·         Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour: An Introduction Stories , 1963
·         大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』(野崎孝・井上謙治訳、河出書房新社、のち新潮文庫、改版2004年) [2]
·         Hapworth 16, 1924, 1965、今日まで公表されている最後の作品
·         ハプワース16、一九二四
「ニューヨーカー誌」に掲載された中編小説。
アメリカでは今日まで単行本化されていない。数年前には、実現しかがったが、事前に書評 ミチコ・カクタニによる酷評が雑誌に掲載され('From Salinger, A New Dash Of Mystery,' The New York Times, February 20, 1997)、これにショックを受けたサリンジャー自らが企画を取り下げたと言われている。
同書の日本語訳は入手可能で、サリンジャー選集〈別巻〉にある。(原田敬一訳、荒地出版社1978年、新版1993年)
他巻は以下。『サリンジャー作品集 6巻』(東京白川書院)にもある。
【邦訳作品集】
·         荒地出版社版『サリンジャー選集』1巻は、『フラニーとズーイー』(原田敬一訳、解説井上謙治
·         選集2巻は『若者たち〈短編集1〉』、3巻は『倒錯の森〈短編集2〉』(各、刈田元司渥美昭夫訳)
·         選集4巻は『九つの物語、大工たちよ屋根の梁を高く上げよ』(繁尾久ほか訳)
·         『サリンジャー作品集』(全6巻、鈴木武樹完訳、武田勝彦解説、東京白川書院、1981年)もあるが絶版。

ナイン・ストーリーズ以外の短編群[編集]

全部で30編あった短編集から著者が9編だけ選んだ短編集が<ナイン・ストーリーズ>であり、以下はそれ以外の短編のリストである。以前アメリカの学生が無断で以下の短編集を発行したために、サリンジャー自身が抗議をしたこともあったが、現在日本でも一部入手することは可能となっている。
·         The Young Folks (1940)
·         Go See Eddie (1940)
·         The Hang of It (1941)
·         The Heart of a Broken Story (1941)
·         The Long Debut of Lois Taggett (1942)
·         Personal Notes on an Infantryman (1942)
·         The Varioni Brothers (1943)
·         Both Parties Concerned (1944)
·         Soft-Boiled Sergeant (1944)
·         Last Day of the Last Furlough (1944)
·         Once a Week Won't Kill You (1944)[1]
·         A Boy in France (1945)
·         Elaine (1945)
·         This Sandwich Has No Mayonnaise (1945) [1]
·         The Stranger (1945)
·         I'm Crazy (1945) [1]
·         Slight Rebellion Off Madison (1946) [1],[2]
·         A Young Girl in 1941 with No Waist at All (1947)
·         The Inverted Forest (1947)
·         A Girl I Knew (1948)
·         Blue Melody (1948)

未発表の短編[編集]

·         "The Last and Best of the Peter Pans" (1942)
·         "The Magic Foxhole" (1944)
·         "Two Lonely Men" (1944)
·         "The Children's Echelon"1944)
·         Three Stories
·         "Mrs. Hincher" or "Paula" (1941)
·         "The Ocean Full of Bowling Balls" (1945)
·         "Birthday Boy" (1946)
201312月に「Three Stories」に収録された3作品のデータがネット上に流失していることが確認された。この作品集は一般に公開されておらず、原稿はテキサス大学プリンストン大学の図書館に保管され、環視付きでの閲覧のみに限定されている。一方でロンドンにおいてペーパーバックが25冊だけ印刷され一部がイーベイに出品されたことがあるため、この出品物が原本であるという報道もある[5]


コメント

このブログの人気の投稿

昭(あき)―田中角栄と生きた女  佐藤あつ子  2012.7.14.

大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次  2012.10.13.

ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史  Alain Baraton  2013.9.26.