シャルル・ドゴール―民主主義の中のリーダーシップへの苦闘  渡邊啓貴  2014.2.25.

2014.2.25.  シャルル・ドゴール民主主義の中のリーダーシップへの苦闘

著者 渡邊啓貴 外語大大学院教授。1954年生まれ。外語大フランス語学科卒、同大学院地域研究科修士課程、慶應大大学院法学研究科博士課程、パリ第1大学大学院博士課程修了(DEA)。パリ高等研究院・リヨン高等師範大学院客員教授。ジョージ・ワシントン大シグールセンター客員研究員。『外交』『Cahiers du Japon』編集委員長。日仏政治学会理事長。在仏日本大使館公使(0810)
『ミッテラン時代のフランス』(1991)で渋沢クローデル賞

発行日           2013.7.20. 初版第1刷発行
発行所           慶應義塾大学出版会

第1章        フランス崩壊への道
ドゴール家は13世紀初頭にまで遡る下級貴族の家系
ドゴールが生まれたのは、フランス大革命以来の封建特権階級との戦いに一応の終止符を打ったブルジョワジーが、時代を謳歌していた時代 ⇒ ベル・エポック(よき時代)
世紀末にフランスは「鉄の時代」を迎え、鉄道が交通手段の主役となり、重厚な鉄道駅が作られ、エッフェル塔や鉄橋、パリのメトロなどの建造物が作られた
真の共和政が到来 ⇒ ブルジョワジーが旧王党派勢力を排除して、共和主義の理念のもとに作り上げた
フランス語の共和主義という言葉は、「デモクラシー」と同義、議会制民主主義、政教分離、教育の機会均等など、フランス革命が謳った自由・平等・博愛の精神に基づくすべての事象が含まれる
一方で、カトリックの伝統が支配するこの国では依然として旧制度への郷愁は強く、ナショナリズムや排外主義と結びついた
ブーランジェ将軍を頭目とするナショナリスティックな運動(ブーランジスム) ⇒ 将軍が退役後の1888年ブーランジェ党から選挙に出馬して大勝、クーデターが企画されたが未遂に終わり、ブーランジスムも衰退
1894年のドレフュス事件では、激しい反ユダヤ主義の風潮の中で、カトリックであるにもかかわらず、ドゴールの父はドレフュスの無罪を主張 ⇒ イデオロギーや時々の状況に左右されないドゴール一流の歴史認識と独自の国際認識に基づくフランスの自主外交という発想の源となる
ドゴールが、リベラルで開放的な無私の人であると同時に、歴史的伝統に拘泥した保守的で権威的な秩序観の持ち主であったことは偶然ではない
父親は、人文的な教養豊かな家庭に育ち、普仏戦争で負傷、祖父と同じく教育者
母親も、父親以上に保守主義的性格が強い人
陸軍士官学校(サンシール)は、入学時221人中119番だが、卒業時は211人中13番目で少尉。187cmの長身で、乗馬以外の評価は高い
卒業後は、新任ペタン大佐の歩兵連隊に入隊、大佐の評価も高く、その後の昇進に好影響
1次大戦に参戦して負傷、白兵戦主流の考え方に対し火器理論が正しいことを身をもって知る。15年にも左腕に被弾、大尉に昇進するとともに、翌16年には中隊長としてヴェルダン防衛戦に参加、人並外れた勇気を示し戦場の兵士たちの偶像となるも、負傷して捕虜に ⇒ 行方不明で戦死扱いになり、ペタン将軍は絶賛する弔意を込めた表彰状を送る
何度か脱走を企てたが、いずれも失敗。終戦で帰還
19年、志願してポーランド師団に配属され、ドゥオーモンでの軍功に対しレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ賞)授与。この時の表彰状に署名したのもペタン将軍
20年秋、展覧会場で出会ったカレー市の名家の女性イヴォンヌ・ヴァンドルーと5か月後に結婚するが、28年に生まれた次女アンヌが知能障害(48年死去)
21年帰国、サンシールの戦史担当教官に任命
24年、陸軍大学校修了、定位置で射撃の態勢を整え敵の攻撃を待つという常套戦術を無視、奇襲攻撃によって敵を撃破したため評価が低かったが、救ったのはペタンだった
28年、ペタンからゴーストライターを要求され、両者の関係は決定的に冷却
34年、ド・ゴールがパリから車で4時間のコロンべ村に居を構えるようになったのは、アンヌの不幸な健康状態が理由。彼女の死後、知能雄障碍者のための「アンヌ財団」設立
34年、『職業軍隊のために』を著わし、フランス軍の近代化を標榜 ⇒ 将来の戦争を戦車と航空機による機動戦として予測、後に先見性と軍事面での世界観・見識を示した著作として有名になったが、当時は750部しか売れず不評、軍も取り上げないどころか、2934年にかけ322㎞に及ぶマジノ要塞線が建設されるも、財政難からフランス=ベルギー国境まで届かず、後にヒトラーがベルギー国境を超えた電撃戦によりフランスに侵入
ドゴールの主張は、ドイツで認められ、グーデリアンによって機械化部隊として実現
ナチス・ドイツが着々と軍備を進める一方で、フランスでは社会党ブルムを首班とする人民戦線内閣が誕生、有給休暇や週40時間労働制、団体交渉権など先進的な政策を実現させ、人々は初の有給のヴァカンスを満喫
37年、大佐に昇進、機械化をフルに利用し「動力大佐」と呼ばれ、後にライバルとなる司令官・ジローの顰蹙を買う
フランスの第三共和制は、内閣の平均寿命が1年弱、党利党略による政党間の合従連衡が政治や社会を停滞させ、ドイツの侵攻に対し目先の安寧を優先した宥和策をもって応じる失態をしたことは、ドゴールが終生議会政治を軽侮し、政党勢力の角逐から超然としていようとするもととなった
39年、ドゴールはアルザス・ロレーヌ地方の戦車部隊長代行で開戦を迎える ⇒ 非力な装備でも勇敢に戦い、勇名を馳せ、イギリス軍からも「嵐の男」と名付けられたが、結局はドイツ軍の蹂躙を阻止できず
406月、レイノーによる改造内閣の国防次官に任命 ⇒ 最年少の将軍に昇進
405月、英仏軍はダンケルクからドーヴァーを渡って撤退 ⇒ ダンケルク脱出劇
6月、フランス政府はトゥールに撤退、さらにボルドーに移転
ドゴールは、単身イギリスに渡り、英国軍がフランス領土内で戦闘を続けるようチャーチルを説得したが、あっさり拒否。チャーチルがドゴールを見て「運命の人Man of Destiny」といったのは有名
徹底抗戦を主張するドゴールは、広大なフランス植民地からの反抗の試みを念頭に、英仏海峡沿いのブルターニュ地方に政府機関を集結させようとしたが失敗
ドゴールは、再度チャーチルを説得して英仏同盟を承認させることに成功したが、レイノー政権が棄却、レイノー内閣は総辞職し、617日ペタンが新たに組閣、第三共和制は幕を閉じる(正式には4510)
同日ドゴールはボルドーからイギリスに飛ぶ

第2章        レジスタンスの英雄――ロレーヌ十字の下に
40.6.18. ドゴールは、BBCのスタジオから、屈辱にまみれた全フランス人に向け、迸る祖国愛と抗戦の不退転の決意を述べ、自分の下に結集するよう呼びかけ
ペタンは、ドゴールに帰国命令を発出、無視されたため軍事法廷が反逆罪で死刑判決
ドゴールは、イギリスに家族を呼び寄せる
622日、ペタン政府はドイツと休戦協定締結、全土の2/3がドイツ軍に占領
イギリス政府はドゴールを、「自由フランス国民」の首長として承認 ⇒ 亡命政権
後年、ドゴールの呼びかけと抵抗運動はフランス現代史を語る上で欠くことのできない英雄的叙事詩となるが、同時代の人々の捉え方は必ずしもそうではなかった ⇒ ドゴールは全くの無名で、国民の多くはヒトラーに対抗するよりは屈辱的で居心地の悪い平和の方を選んだ。大戦終結後フランス国民は対独抵抗のために一丸となって戦ったという「レジスタンス神話」が生まれ、それが当時のフランス人にとって対独協力の忌まわしい過去を糊塗するための誇張されたレトリックであった。戦後復興を急務とするフランス国民にとって過去は厳しく断罪されない方がよかった。対独協力という過去の罪状に頬かむりもやむなしとする心理が支配したし、休戦直後の段階では、対独協力は抗い難い現実であったことは否定できない
74日、フランスはイギリスとの公式の外交関係が断絶、チャーチルの自由フランスに対する待遇は俄然よくなった
多くの若者たちがヴィシー体制に協力 ⇒ ミッテラン元大統領は、95年に『ひとつのフランスの青春』という自伝的書物を出版、ヴィシー政権で対独協力に働いたことを晩年になって告悔したもの。事あるごとに対独協力者として批判されてきた自らの過去を告白し、死を前にして清算しようとしたものだが、対独協力時代というミッテランの青春は、実は同世代の多くの人々が共有した歴史的経験の1コマであり、同書の表題が「ひとつの青春」とされた所以。ミッテラン自身、一時的な対独協力の後には、対独国内レジスタンスの指導者の1人として活躍しており、戦後ファシズムからの「解放」とレジスタンスの栄光をドゴールが「ひとり占め」にしたことに対する強い反発を終生抱き続けた。ミッテランは毎年挙行されるノルマンディー上陸作戦記念日の大統領演説で一度たりともドゴールの名前に言及しなかった。43年末に両者は初めて会い、その場で両者の冷たい関係が決定。ドゴールによる脱走捕虜のための国内レジスタンスの3つのグループを統合するという提案(=命令)にミッテランが反対したもの。生前、ドゴール的なあらゆるものに対して「ノン」を言い続けたミッテランだったが、結局ミッテランが政権に就いたのはドゴールの死後10年以上経ってドゴール主義の勢いが後退した81年のことで、実際にドゴールに反発しつつもドゴール主義的な外交と権謀術数を最もよく承継したのはミッテランだったというのは歴史の皮肉。ミッテランの外交を「左翼のドゴール」としてイメージを重ねる向きもあるが、両者の志や生き方は全く対極的だった
英米ともに、ドゴールを認めつつ全幅の信頼を置くことは出来ず、チャーチルもヴィシー政権との二股をかけていたし、ローズヴェルト大統領との摩擦は日増しに大きくなった
その1つの表れが、イギリス海軍によるフランス艦隊攻撃で、独仏休戦でフランス艦隊の帰趨がイギリスにとって最大の関心事となり、一気にフランス艦隊を壊滅させたが、ドゴールはつんぼ桟敷のまま
413月から6か月間かけて、アフリカ・中東地域を歴訪、徐々に人が集まり始める
英・自由フランス連合軍としてアフリカ・中東に出兵、ヴィシー軍を破ってシリア、レバノンを独立させる
419月、反対派も結集する形でフランス国民委員会が結成され、ドゴールが自由フランス人民代表兼国民委員会議長に就任。英国政府も承認、漸く組織的権威を背景に持ち始める
409月にはフランス全国で抵抗運動が組織されていたことがわかっている。416月のバルバロッサ作戦開始により、8月には共産党が対独抵抗運動に加わる
当初ドゴールは国内レジスタンスにそれほど関心がなく、レジスタンスもドゴールとは別個に開始され、統一を図ろうとしたのがロワール県知事でレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン、ナチスに虐殺。ドゴールもその栄誉を称えパリのパンテオンに祀る
ローズヴェルト大統領は、ドゴールを執拗に拒み続け、後々までヴィシー政権を支援
42.11. 連合軍の北アフリカ上陸作戦をめぐる論争 ⇒ 独ソ戦で甚大な被害を蒙っているソ連が、米英に対し第二戦線(オーバー・ロード作戦)の早期実施を迫り、ドゴールも同調するが、ローズヴェルト大統領はドゴールを無視して北アフリカ(トーチ作戦)を優先、米英連合軍による上陸作戦はドゴールにも知らされていなかった
上陸を開始した連合軍に対し、ペタンは「わが領土」防衛のため、北アフリカのフランス軍に対し抗戦命令を出すが、ヴィシー政権を現地で代表したダルラン提督がアメリカに協力、アメリカもダルランの現地権力を承認、ドゴールは拒否
ドイツはその報復としてフランス全土を占領、ペタンに対する国民の信頼が揺らぐ
あくまで「自立したフランス」に固執するドゴールにとって、米英の傀儡政権では意味がなかったが、ローズヴェルト大統領もドゴールを徹底的に嫌い、フランスを米英で占領しようとまで言い放った
米英の支持するジロー将軍が、共産主義者を主体とする現地レジスタンスの助力を得てコルシカ島解放に成功したことから、ドゴールは危機感を増幅
戦局の変化に合わせるように、ドゴールに対する国民の圧倒的な支持を背景に、主導権を掌握
43.12. 国内抵抗全国評議会は、全会一致で国民解放委員会を真のフランス政府として承認。米英はなおもヴィシー政権の生き残りをたてようとしたりして、ドゴールのパリ入城を阻もうと画策 ⇒ 同月のテヘラン会談や翌年のヤルタ会談にも連合国から無視された
フランス上陸作戦が近づくにつれアメリカのドゴールに対する姿勢に変化が現れ、64日にはフランス軍を含む連合軍がローマに進駐するが、その前日にはフランス国民解放委員会はフランス共和国臨時政府となっていた(在アルジェ)。ドゴールがフランス国民を掌握していたことは自明で、周辺諸国はすぐにドゴールの臨時政府を承認したが、ローズヴェルト大統領はなお懐疑的で、76日にワシントンに到着したドゴールを迎えた祝砲は、国家元首を歓迎するときの21発ではなく17発に留まった ⇒ ドゴールはフランスを除外した4か国で戦後構想を進めることに反対、フランスが平和と世界秩序の維持に重要な役割を果たし得ることを繰り返し主張、国連常任理事国の一角を占めるきっかけとなった
64日、ドゴールはアルジェリアからチャーチルにロンドンに呼び戻され、オーバーロード作戦を知らされ、ドゴールも無条件に受け入れ、6日の作戦決行が決まる
4年前と同じBBCからフランス国民に、「最後の戦いが始まった。もちろん、これはフランスの戦いだ」と呼びかける
ドゴールが祖国の地を踏んだのは14日明け方。バイユーの城の前で演説
救国の英雄としてのカリスマ伝説の始まり

第3章        「砂漠の横断」――政治家への道
44.8.25. ヒトラーはパリ破壊命令を出し、「パリは燃えているか」と叫んだが、大パリ司令官コルティッツは命令を果たさず
前日の夜、ルクレール将軍がパリ市庁舎前に到着
25日夕刻、ドゴールは南からパリに入り、市庁舎のバルコニーからフランスの「偉大さ」のための団結を呼びかける ⇒ 共産主義者を中心とする国内レジスタンスが解放したのではないことを内外に示す必要があったため、一刻も猶予はなかった
解放の喜びの一方で、戦争の贖罪と責任の問題がより極端な形で現れる ⇒ エピュラシオン(粛清・追放)と呼ばれ、対独協力者(コラボ)に対する日頃の憎悪の暴発は止めようがなかった。国民的権利を剥奪されたのは4万件に上る。レジスタンスに転向した者は赦免
ペタンは死刑宣告を受けたが、高齢ゆえの恩赦(ドゴールが終身禁固に減刑、5195歳で死去)
9月、ドゴールの下に挙国一致内閣誕生、地方では各県の解放委員会が大きな影響力をもって半独立的な権力を振るっていたが、ドゴールによって徐々に中央集権に向かう。共産党も穏健路線へと方向転換してドゴールに協力、直接的手段による政権奪取の戦略を放棄
戦後復興、インフレの克服、大企業の国有化等の施策により、古典的自由経済から、国家が公共部門と財政部門を管理する体制に代わる
45.10.国民投票により、第三共和制が消滅。総選挙では、社会党、共産党、MRP(人民共和運動)3党鼎立となり、ドゴールはMRPに親近感、共産党は社会党に二党連立を持ちかけるが、社会党は共産党を「ソ連の手先」「非民主的」として拒否、フランス政治が社共連合政権へと左旋回する可能性は失われた ⇒ 最初の憲法制定会議でドゴールを首班とする政府を全会一致で成立させる
僅か2か月で政争に疲れたドゴールは辞任、世論調査もドゴールの再登板には過半数が反対、ドゴールを「祖国解放者」としての歴史的役割は高く認めながら、もはや国民はドゴールを必要とせず、ドゴールが忌み嫌った議会万能主義の政党政治の時代に回帰
ドゴールも後にこの時の辞任を政治的過ちと述懐、「過ち」を取り戻すのに13年かかった
ドゴール辞任後は、3党連立政治が第四共和制の憲法を制定 ⇒ ドゴールは、後に第五共和制の大統領制度として実現することになる「バイユー憲法」草案を提示して反対
ドゴールは、第三共和制の多党分立の不安定な政党政治こそが第2次大戦の混乱の元凶だとして終生疑わなかった
第四共和制憲法の中心は、比例代表制の直接選挙による国民議会で、行政権も掌握したが、安定与党が形成される可能性はほとんどなく、第三共和制同様の不安定さを露呈
対外的には、東西冷戦の下、マーシャル・プランを核としたアメリカの援助によって経済・近代化優先の路線を選択し、大西洋同盟に根を下ろした対米依存へと傾斜。国内再建のため対外行動の自由が犠牲にせざるを得なかった
47.4. ドゴールは親米路線を嫌って国民連合RPFを設立、政界に復帰 ⇒ 反共と第四共和制に対する反発から熱狂的な支持を得たが、ドゴールの政権復帰と憲法改正を支持したのは30%に留まった
国際共産主義の高まりの煽りでストライキがフランス全土に拡大、暴動が加速化、左右両派の過激な動きに嫌気した国民は中道を選択するが、多党派分裂状態に逆戻り、ドゴールは議会活動への不参加を表明
47年末、忠実な部下だったルクレール将軍がアルジェリアでの飛行機事故で死去
48.2. 次女アンヌが気管支炎で死去
『回想録』(大戦回顧録)を発刊、ベストセラーに
彼はこの頃の孤独な生活を「砂漠の横断」と呼んでいる ⇒ 雌伏の日々
「偉大なフランス」の復活という「使命」があるというのがドゴールの本音
欧州防衛共同体EDC構想 ⇒ 西独を再軍備させるが、自立した活動を抑制するために、超国家的機構の枠に組み入れなければならないという提案。アメリカの強い指導の下に進められたが、ドゴールは、「軍隊を持たない国は外交の方向性も持たないこととなり、魂を持たないのと一緒」だと反対、フランスが国際デタントを前進させ、米ソ共存を容易にするための役割を果たすべきと主張。54.5.突如凱旋門広場に行って無名戦士の墓に献花すると事前発表し、フランス国民がそこに集まるよう呼びかけたが、ドゴールの称賛する強い国家を願うものの、実際に集まったのは1万人に満たず、「過去の人」ドゴールが滑稽なまでの「気高きアナクロニズム」を示したに過ぎない結果に終わる

第4章        アルジェリア独立をめぐる内戦の危機と第五共和政
マグレブ3国のうち、チュニジア・モロッコは56年に主権を回復したが、アルジェリア解放闘争は悲惨を極める ⇒ 55年が虐殺事件のピーク、フランスは大量の軍隊を派遣して弾圧しようとしたが、56年スエズ紛争に勝利したナセルがアルジェリアの暴動を煽る
内戦の危機に瀕した58年、ドゴール待望論の機が熟すのを見て政界復帰を決意、社会党の支持で議会多数派をおさえ、内戦回避に乗り出す ⇒ 第四共和制の終焉
「危機時のリーダー」としてのドゴールのカリスマ性は健在
ドゴールは、全権の付与と議会の一時停止、憲法改正の権利を要求、議会の過半数の支持を得て首相に就任 ⇒ 第五共和制の発足、7年任期の大統領に強大な権限を付与
植民地が相次いで共和国として独立、アルジェリアについても内戦を回避するとともに独立を承認したが、フランスと提携した形での独立を描いていたために齟齬を来し、暴動はさらに先鋭化、軍事クーデターにより反乱政府が樹立、62年のエビアン協定で独立を承認
「フランスのアルジェリア」に固執する極右・過激派の活動は凄惨を極め、ドゴールも何度か暗殺の対象となった
アルジェリア紛争の解決によって、ドゴールの威信は高まり、一気に権力を集中させ、機が熟したとみて、大統領直接国民投票制度導入を表明し政党政治に宣戦布告
議会はドゴール派を除いて全党が反対したが、国民投票の結果は62%が支持、議会選挙もドゴール派が大勝

第5章        同盟も自立も
雌伏の時代を経て権力の座に帰り着いたドゴールの集大成は、第五共和制の政治体制の完成とその後の外交(=フランスの偉大さの追求)にあり
「生涯を通じて私はあるひとつの考えを抱いてきた。理性と同じく感覚的にその考えが私に宿る。フランスは偉大さを失ってしまってはフランスではありえない」
冷戦下のヨーロッパは、アメリカの覇権のもとにジュニア・パートナーの役割を果たすだけの存在になっていたが、そうした大西洋同盟関係における圧迫感を素直に表現したドゴール外交はそれなりの深謀遠慮を背景としていたし、それを演じ切るだけの説得力のある見識と論理、そして強い意思に支えられていた
6368年、ドゴールはアメリカのヘゲモニーに挑戦し続ける ⇒ エリゼ条約締結により独仏の協力関係樹立、米ソによる部分的核実験禁止条約に反対、反ドル体制への挑戦、NATOの軍事機構からの脱退、ヴェトナム戦争の原因がアメリカにあると主張、等々
独仏連携を基礎にしたヨーロッパ統合の推進であり、「ヨーロッパの代表者」としてのフランスの体現を目論む
アメリカとの関係 ⇒ 56年のスエズ危機がフランスの対米外交の分岐点。英仏の軍隊派遣に対しアメリカは支持しなかったが、その後英国がアメリカと核開発協力の協定を締結してアメリカ寄りに転じたのに対し、フランスはアメリカ離れに転じる
フランスによる東西和解外交の演出 ⇒ 60年ドゴールが米英仏ソ首脳会議をパリで主催するも、直前に勃発したソ連領飛行中のアメリカU2スパイ機撃墜事件によって挫折
68年、国連総会が核拡散防止条約を可決したが、フランスは棄権 ⇒ 米ソによる核独占への懸念が理由
61年、ケネディ夫妻の訪仏で緊張緩和が期待されたが、ドゴールは独仏条約を締結してヨーロッパ大陸の団結をアメリカに対して示し、ケネディは態度を硬化
63年、モナリザが大西洋を渡り、文化外交が束の間の緊張緩和をもたらす
ジョンソンの時代になると、両首脳のプライドをかけた意地の張り合いとなり、角逐は如何ともしがたかった ⇒ アメリカによるベトナムとサント・ドミンゴ介入を、過剰反応と激しく痛罵
66年、ドゴールがNATO軍事機構からの離脱を示唆 ⇒ アメリカを頂点とする集団防衛機構ではフランスの主張が反映されにくいとし、代わりに各国相互間での二国間条約を提案。ヨーロッパ各国の批判を浴びドゴールの意図したところは達せられなかったが、アメリカが独りの力で引っ張っていく同盟から、次第にヨーロッパの役割が増大する中で米欧の対等な関係が強まる方向へ
ドル優位体制への攻撃 ⇒ 60年代アメリカの国際収支の赤字増大に対し、ドゴールはドルを「偽金」と批判し、金本位制への復帰を主張、ポンド崩壊救済のための新たな国際決済手段の創設にも反対、英国からの短期資金援助要請も拒否
68年、ベトナム停戦をフランスが仲介したことで両国関係は修復に向かう
ドゴールの自立的な行動の根拠 ⇒ 第2次大戦後の大西洋同盟がアメリカ優位の片務的な性格のものだったこと、東西の緊張緩和の国際環境が整い始めているとの認識、米欧の相互依存関係、核兵器による「恐怖の均衡」がフランスの安全保障を確保するものにはならないとの認識
自立核をもって世界に存在感を示したドゴール外交は、実際には虚構の上に築かれた外交だったが、米ソ超大国に支配された国際システムの中でいかに国威発揚を実現するかという問いに対する答えでもあり、ナショナリズムの1つの表現でもあった
欧州統合が進展し、キューバ危機以後米ソ間の緊張緩和が進む中、フランスの「自立」と「偉大さ」を求めるドゴールは東西両陣営のいずれにも従属しない外交を展開しようとする ⇒ 64年頃から対ソ・東欧諸国接近により、米ソ等距離外交を試みるも、仏ソの合意は容易に実現せず、その影響はそれほど大きくはなかった。経済交流は進展

第6章        ドゴール時代の全盛と終焉
ドゴールは、「繁栄こそ我が国独立の条件」と語ったように、ドゴール時代とは経済計画の下で政治と大資本が結びつき、資本主義の急速な発達を見た時代
財政均衡とフラン価値安定の取り組みから始め、市場原理を尊重したが、同時に国家のコントロールも容認 ⇒ 62年までに財政均衡を回復、景気も長期安定的に拡大
映画『シャレード』に登場した55年に生産開始のシトロエンDS(20年後に生産停止)こそフランス成功の証
65年大統領選は、対立候補不在の予想を覆し、直前になって唯一の左翼候補として、共和制度会議を率いていたミッテランが立候補、決選投票まで行く健闘は、ドゴール主義の後退を否応もなく認めさせるものとなる
67年の議会選挙は辛うじてドゴール派が過半数を取るが、中道勢力による反ドゴール主義の胎動と左翼の再生の兆しが見られた
ドゴールは、勢いに乗って大統領権限の優越性をさらに望むとともに、議会空洞化の諸改革を実施し、民意から乖離
成長鈍化による社会状況の変化もドゴール政権への逆風となる
価値観の変化も大きい ⇒ 世代間で格差拡大
68.5. 男女学生の交流規制(男女学生がそれぞれの寮の部屋を訪問することを禁止)への不満に端を発した学生の反乱が社会騒動へと発展、政治的性格を強める ⇒ ポンピドー首相が学生に対する宥和策で事態の収拾に当たるが、事態は悪化するばかり、ドゴール辞任を要求、ミッテランは大統領に立候補を表明、さらにデモのピークにドゴールが失踪する事件勃発。郊外の自宅へ行くと告げてドイツを訪問、フランス革命当時ルイ16世家族の「ヴァレンヌ逃亡事件」(オーストリアに亡命しようとして国境で拘束された事件)に匹敵する失意の逃避だったのか、ドゴール一流の人心掌握のための戦術的芝居であったのか、本人の意図は未だに謎。パリに戻って、自身の任期の全うと議会の解散を宣言
失踪事件が、デモを空振りに終わらせ、その後の選挙はドゴール派が圧勝し、デモが却ってドゴールの権力回復に貢献したが、ドゴール政治の弱体化を露呈させ、治安回復の立役者だったポンピドーの人気が高まる
69.4.の国民投票は、周囲から反対された上院改革等喫緊のイッシューもないままに実施されたところから、ドゴールが引き際を狙って強行したものとも言える ⇒ ポンピドーはドゴールの独断専行のエスカレートに嫌気して首相を辞任、大統領への意欲を見せる
投票結果は過半数が「ノン」、敗北を予期していたドゴールは、投票日当日にはすでにパリを去り、国民に対する演説もなく、ただ一言「本日正午をもって、大統領権限の行使を停止する」との声明を発表。後任はポンピドー
大統領の傷心は大きく、軍人としての年金、前大統領としての給付金、憲法評議会議員の報酬を断る ⇒ 祖国のために無私の立場から働いてきたドゴールの矜持ではあったが、花道を飾ることは出来なかった
70.11.腹部大動脈破裂で急逝。遺志により国葬ではなく、村の教会で密かに行われ、次女アンヌと一緒に埋葬された。大統領府の決定で行われたノートル・ダム大聖堂でのミサには遺族は出席せず

おわりに
本書はいくつかの新しい側面からドゴールの全生涯を、現代フランス政治・外交・社会及び先進社会の民主主義的リーダーシップのあり方を念頭に置きつつ描いた作品
ドゴールという人物の全体像を歴史的文脈の中で解明しようとした試み
2010年ドゴールの没後40周年にもなって、毎年ドゴールものが何冊も出版されるのは珍しい ⇒ フランス人の心に未だに生存する。ドゴールを通して現代のフランスの「起源」を繰り返し認識している
フランス人の70%がドゴールをフランスで最も重要な歴史的人物と考えている(2010)
フランスではドゴールという人物は、研究史上どのように捉えられているのか ⇒ 第五共和制の安定までは解放のヒーロー、70年代までの研究ではドゴール論が多様化、90年代まではドゴール研究の集大成化が進み今日的時代の傾向から業績を相対評価、90年代以降は創造的かつ自由な解釈の幅が広がる
ドゴールの功績の大きなひとつは、第五共和制を創設したこと ⇒ 強い行政権力による政治指導体制はフランス政治史上の例外であり、歴史的な政治の不安定を解消するための手段となった。今日においても、民主的な合法権力として強い指導力を持つフランス大統領制度は国民の多くの支持を得ている
半世紀近くもフランス政治の中心ないし、一つの核となる存在として生き続けた、多面的で複雑な一筋縄ではいかない、ドゴールの人物像をリアルに描写することが本書の目的
自己顕示欲が強く、フランス国民全体を自己実現の巻き添えとした。自分を貫こうとする信念の闘い、一徹で不器用な生涯であり、頼りになるのは意思の力でしかなかった
繊細な感受性豊かな、思索の人、文人政治家、敬虔なカトリク
一貫していたのはこの人物の意思の力とときどき見せる長期的ヴィジョンと、危機の時々に光彩を放った炯眼 ⇒ 早い時期の機械化師団導入の主張、フランス的国民性を見抜いたうえでの第五共和制の構想、アルジェリア植民地独立の容認、国家連合を通じた欧州統合構想など
危機時のリーダーであり、危機が去った時ドゴールの時代も去っていた



シャルル・ドゴール民主主義の中のリーダーシップへの苦闘 []渡邊啓貴
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外交や歴史観、底部から分析

 フランス人ジャーナリストとの対話で、彼がドゴールに批判的な言を吐いたのに応じて、私も日本に伝わるその偏狭さを冷たく論じたら、彼はいきなり激怒して、「日本人に彼の批判は許さない」と言われたことがある。日米関係の主従の間柄に慣れきっている日本人に、ドゴールの存在など理解できまいとの意味が含まれていた。
 本書は日本人研究者のドゴールの評伝だが、単にその枠にとどまらず20世紀の二つの大戦とその後の国際社会での「ドゴール外交」や「ドゴール的歴史観」をその底部から分析、解説した書である。ドゴールの出自から死までの歩みが、日本でも初めて紹介されるエピソードを交えて語られる。障害を持つ次女アンヌを慈しむドゴールの家族愛や自らの国葬を拒否するその人生観、さらには第1次大戦下の捕虜時代に脱走を繰り返す勇気などにふれながら、崇高なフランス、力強いフランスを自らの中に具現化しようと格闘し、そして20世紀のフランスを完整することにのみ人生を捧げた軍人政治家の誇り高き姿が活写されていく。
 ナチスに抗してロンドンにあって自由フランスを組織しつつもチャーチルを始めとして連合国指導者に嫌われ続ける。歴代のアメリカ大統領とは決して同調しない。戦後社会で政治家に転じ、その独自の戦略でドゴール外交を進めるのだが、著者は「ドゴール外交は単なるナショナリズムでもなければ、(中略)国益主義外交でもない。それはフランスという国家の威信を高めるための巧みな『演出力』そのものであり、リアリズムに裏づけられていた」と説く。この語が本書のモチーフと捉えるなら、第5共和制のドゴール政治、外交の本質がよく理解できる。
 現在、フランス人は、彼を「最も重要な歴史的人物」と評するが、日本でやっと正確に理解される書が誕生したとの思いがする。それが嬉(うれ)しい。
    
 慶応義塾大学出版会・3360円/わたなべ・ひろたか 54年生まれ。東京外国語大教授。『ミッテラン時代のフランス』


慶応義塾大学出版会 評
シャルル・ドゴール
民主主義の中のリーダーシップへの苦闘
ドゴールはフランスをどのように導いたのか? 
民主主義の時代におけるリーダーシップのあり方とは?
ひとりの政治家を通じて描かれる現代フランスの肖像。
 
第一次大戦での奮闘と捕虜生活、第二次大戦期のナチスによるパリ陥落とロンドンでの亡命政府樹立、そして復興フランスの政治家~大統領へ。両世界大戦から戦後冷戦へと続く激動のヨーロッパを舞台に、「現代フランスを築いた父」ドゴールの生涯を生き生きと描く、渾身の書き下ろし。

「フランスを解放に率いた軍人ドゴール」。これまで日本でひんぱんに紹介されたドゴールの姿は、しかし多面的でその長い生涯の一部にすぎない。本書では、第五共和制大統領時代の、「行動の自由を得るための外交」政策、アメリカ・ソ連に対する「第三の極」としてのヨーロッパ、という考え方と行動にもより強いスポットをあてるとともに、民主主義のなかの政治的リーダーシップのありかたを探っていく。

冷戦期には、米国の「核の傘」に入ることを拒みNATOを脱退、また、大戦の仇敵であったドイツのアデナウアー首相を自宅に招くなど仏独融和を演出したドゴール。アルジェリア独立承認の決断、中国とのいち早い国交樹立など、イデオロギーに囚われない徹底した現実主義と透徹した先見性。そしてその決断力と行動力をもった「政治家」の姿は、国際関係の緊張に懊悩する現在の日本人にも、時代を超えて多くの示唆を与える。

政治家としてのドゴールを描写する一方、障害を背負った娘を慈しみ育て、彼女の死後は基金を創設するなど慎ましく生きたその私生活まで、ドゴールの知られざる素顔へとせまる。


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シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴールCharles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle18901122 - 1970119)は、フランス陸軍軍人政治家ランス第五共和政初代大統領。第二次世界大戦においては本国失陥後ロンドンに亡命政府自由フランスを樹立し、レジスタンスとともに大戦を戦い抜いた。戦後すぐに首相に就任した後、1959年には大統領に就任して第五共和政を開始し、アルジェリア戦争によって混乱に陥っていたフランスを立て直した。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
ド・ゴールはイエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの子として、フランス北部の工業都市リールに生まれた。
ド・ゴールの家系は下級貴族である。「ド・ゴール (de Gaulle)」の「ド」(de) は本来は前置詞で、「ゴール(ガリア)公」「ゴール卿」といった意味を持つ[1]。ド・ゴール家の場合は名字の一部と見なされている。
ド・ゴールの曽祖父はルイ16の法律顧問をしており、フランス革命時に投獄されている。父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ碩学、熱心なカトリック教徒だったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者だったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格だったことから軍人の道を選んだ。
軍歴[編集]
陸軍士官学校時代[編集]
地元の中学校を卒業後、1909年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは陸軍士官学校内では「雄鶏」(シラノ。フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(Connétable:「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。これらのあだ名は身長が約2mあったという彼の体格に由来している。
陸軍士官時代[編集]
卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。
第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。
戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長を務め、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……」という個人的な弔辞を作成したという。
また、捕虜生活も経験し、それは第一次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」で捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシアソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
ポーランド軍事顧問時代[編集]
第一次世界大戦終結後、ド・ゴールはポーランド軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られていた(ポーランド・ソビエト戦争)。その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーだった。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。
陸軍大学校時代[編集]
ポーランドから帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた後、1922年にフランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への進級に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンはド・ゴールをかわいがっていたという。
その後、ド・ゴールは中東1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。またペタンの計らいもあり、ド・ゴールは陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが1932年に出版された『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』から)とも評されている。ついで、1934年には「機甲化軍にむけて」、1938年には「フランスとその軍隊」を執筆した。ヒトラーはド・ゴールの著書『職業的軍隊を目指して』を読んで感銘を受けていたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いをしていた[2]
電撃作戦の推進[編集]
第一次世界大戦ヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のあるや飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。
この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にも同様の発想をしていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーだったことも大きいと考えられる)。
19399月に第二次世界大戦が勃発、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、19405月にドイツ軍のフランス侵攻が始まると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。
開戦直後の515日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命された。すでに手遅れの時期になり、しかも小規模ではあったが、ここでようやくド・ゴールは長年主張してきた機械化戦術を実地に試す機会を得た。他の第1から第33個機甲師団が特に見るべき活躍もなく終わったのに対し、ド・ゴール率いる第4師団は師団長の直接の指揮下のもとに戦車の集中運用を行い、一時的にではあれ、ドイツ軍部隊に脅威を与えることに成功した。特にソンム県アブヴィル近辺の反撃では、適切な航空支援が得られなかったために完璧な成功を収めるまでには行かなかったが、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返す活躍を見せた。しかしその後間もなく、ド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れることになる。
「自由フランス」時代[編集]
19406月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で准将となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合と亡命的性格の政策、英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走、イギリス側の閣議決定後、フランス政府の避難先ボルドーに向かったがレノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれる。
615に首都のパリが陥落し、自身に逮捕の噂がたっており、連合軍顧問のイギリス陸軍将校スピアーズ将軍の召還に同伴しイギリスへ亡命することを決断。脱出先のロンドンに亡命政府自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の指示によって放送は強行された。この放送はのちにフランスの反撃ののろしとして高い価値を与えられるが、当時直接に聞いていたものはほとんどいなかったし、また録音されていなかったので再放送もなかった。しかし、翌日にはまだいくらかの自由が残っていたヴィシー政権下にあるフランス南部の新聞のいくつかがこの放送について小さな記事を掲載し、徐々に知られるようになっていった。   19411025日にはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。また自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリアチュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、仏領インドシナマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは、中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。その後自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン、マダガスカルを攻略した。1942年にはアルジェリアのフランソワ・ダルラン大将が連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。この暗殺の背後にはド・ゴールの関与があったという説もある[3]。ダルランの後を継いだのはアンリ・ジロー大将で、連合国フランスの代表としてド・ゴールとジローが並び立つ体制となった。19431月にはフランスの指導者を決めるためカサブランカ会談が開かれたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会英語版)はド・ゴールとジローを共同代表とした。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。
ド・ゴールはその独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールのことを「形式にこだわる旧世界的人物」、「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」「あのような人物にはマダガスカルの知事でもさせておけば良い」[1]としてあからさまに嫌っていたという。とは言え、奪われた祖国を取り戻すために戦う姿勢には支持者もおり、チャーチル夫人はド・ゴール将軍の熱烈なファンだったという。
その後、19446月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って自由フランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合軍とともに戦い、同年825パリが解放された。ド・ゴールは翌26日に自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで、ドイツ軍の残党が放つ銃弾を気にすることなく凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。
臨時政府首相[編集]
強権的指導者[編集]
フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張しており[4]、民衆の声望を背景に他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)共産党から独裁的との批判を受けた。
19461月に、ド・ゴールは軍備費を20パーセントカットするべきだという社会党の予算提案に反発するという形で、突如首相を辞任した[5]。この辞任の真意は、議会の優位を主張する政党側に対する不満があったといわれている[5]
国営化推進[編集]
ド・ゴールの首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。
在野の政治家[編集]
制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙で人民共和派フランス語版)が躍進すると、ド・ゴールは616日のバイユーでの演説をはじめとして(バイユー演説フランス語版))、自らの憲法構想を表明するようになった[4]。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった[6]
彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成したが、この団体もまた1952年には一部が分裂して政争が発生した。それを嫌ったド・ゴールはRPFを解体し、1955年には「公的生活から引退する」と宣言した。
第五共和制大統領[編集]
再登板[編集]
ド・ゴール引退後も政府が小党乱立によって機能不全に陥っていることには変わらず、アルジェリアでの民族自決を求める反乱にも有効な手を打てないでいた。19585月、この状況に不満を持ったアルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。この緊急事態に、就任直後の首相ピエール・フリムランはなすすべがなく、進退極まった政府は軍部を抑えることのできる人物として隠居を宣言して執筆活動にいそしんでいたド・ゴールに出馬を要請した。
ド・ゴールはこの反乱には無関係だったが、だからこそ政府およびルネ・コティ大統領もド・ゴールに出馬を要請することができ、彼もそれを受けることができた。ド・ゴールが就任に際して要求したのは「現在の極めて困難な情勢の中で行動するために必要な全権」を与えるというものだった[7]。ド・ゴールは首相指名をうけた後の61日、国民議会に対して6ヶ月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認し、ド・ゴールは正式に首相に就任した[8]。この全権は195863日の憲法的法律フランス語版)によって承認された[8]ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして64日にはアルジェのアルジェリア総督府から「私は諸君を理解した!」と叫び、反乱を沈静化させた。
第五共和政の成立[編集]
ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化し、議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法(フランス第五共和政憲法)が制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。ド・ゴールはまた、かつての自らの党であるフランス国民連合の後身・社会共和派などを結集して、新たな与党として新共和国連合(Union pour la Nouvelle RepubliqueUNR)を結成した。
この11年間に初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に高まった。しかしアルジェリアに対してド・ゴールは、担ぎ出した人々の思惑とは逆に、独立は必至と判断していた。ド・ゴール自身が後年の回想録で第一次インドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。こうして19599月にはド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認める発言を行った。これにコロンは激しく反発し、19601月にはアルジェ市でバリゲードの一週間と呼ばれる反乱を起こした。さらに、19614月にはアンドレ・ゼレールラウル・サランモーリス・シャールエドモン・ジュオー4人の将軍によって将軍達の反乱が勃発したものの、ド・ゴールによって速やかに鎮圧された。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織OASテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。ド・ゴールはこの間、たびたびOASのテロや暗殺の標的となった(  詳細は「ジャッカルの日」項を参照)。19628月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射された「プティ=クラマール事件」が起きたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。
また、アフリカに残っていたフランス領西アフリカ及びフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、19589月、フランス共同体の元での大幅な自治を認めた第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認し[9]1960年にはこれらの植民地はすべて独立している。これによって、フランスは独立闘争によって国力をすり減らすことなく、独立後の諸国に対し強い影響力を保持することができた。
独自路線[編集]
東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしていたことを、遺作となった回想録の中でも述べている。彼自身はヨーロッパ各国が歴史や文化的背景を無視して統合することは無理だと考えていたが、各国が共同して事に当たる連合にはむしろ積極的だった。
そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、1966年にNATOの軍事機構から脱退した。NATO本部はフランスのパリからベルギーのブリュセルに移転した。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリス欧州経済共同体EEC)への加盟拒否も表明した。この時期には東ヨーロッパ諸国も歴訪している。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判し、ベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった[10]。この中立化構想は戦後になってアメリカ側でも再評価が試みられるようになった[10]
また、「フランスの安全保障がアメリカの核の傘に依存せずに済む」との信念で、通常兵力削減の代わりにフランス独自の核兵器の開発を推進し、19602月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功しアメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国国家承認した(なお、イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に、中華人民共和国をその建国直後に承認していた)。1967724日には、モントリオール万国博覧会訪問のために訪れていたカナダモントリオール市で、群集を前に「自由ケベック万歳!」(Vive le Québec libre!) と声を上げ、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック州分離運動の火に油を注ぐ結果ともなった。
五月革命[編集]
世界的な学生運動の高まりと共に、左派的な発想から現代社会を「管理社会」として告発する機運が高まる。そのさなか、女子寮への侵入を禁止された男子大学生の抗議から1968年、五月革命が勃発する。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ドゴールは危機に陥る。しかし彼はジョルジュ・ポンピドゥー首相などの勧めもあり、議会を解散して国民の意思を問うことを表明した。それに呼応したドゴール支持の大規模なデモが行われ、五月革命は急速に力を失い、ドゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越える。
しかし翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、その必要がなかったにもかかわらずドゴールは辞任した。この改革案自体は議会を通過させることが不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近たちの反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。
引退後[編集]
辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ英語版)に住居を移して執筆活動に専念し、翌197011月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。
遺言書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」と記されていたが、フランス政府の希望もあり、結局国葬が執り行われた[11]。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。
死後[編集]
フランス国民は彼の栄誉を讃え、ド・ゴールの名前を施設などに命名している。その主な例は以下の通り。
·         シャルル・ド・ゴール国際空港 - パリ郊外にある国際空港
·         シャルル・ド・ゴール - 薔薇の品種。
·         シャルル・ド・ゴール広場 - パリの名所エトワール凱旋門のある広場。シャンゼリゼ通りの入口で、かつてはエトワール広場と呼ばれていた。
·         シャルル・ド・ゴール橋 - セーヌ川にかかる橋。
この他にも、フランス国内にはド・ゴールの名を冠した道路や広場が無数にある。またフランス国外でも、カンボジアプノンペンのシャルル・ド・ゴール通りなど、フランス語圏を中心にド・ゴール由来の名を冠した施設がある。
また、その政治姿勢を評価する政治家・評論家も多く、彼らはゴーリスト(ド・ゴール主義者、ド・ゴール派)と呼ばれる。ド・ゴール派はド・ゴール没後もジョルジュ・ポンピドゥー率いる共和国民主連合に結集して議会内最大会派となり、ヴァレリー・ジスカール・デスタンフランソワ・ミッテランといった非ゴーリズム政権下においても共和国連合として議会に大勢力を維持し続け、ジャック・シラクの元で再び政権を握った。
家族[編集]
私人としては派手な社交を嫌い、簡素な私生活を送っていた。また保守的で古風な、よき夫・よき父親でもあった。
192147日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚し、長男フィリップ、長女エリザベート、次女アンヌの3人の子をもうけた。フィリップの名は、当時の上官で後に宿敵となったペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名である。次女アンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられており、家族に対してすら内気だったド・ゴールが、唯一心を開けていた相手がアンヌだったと、親戚が揃って述懐している。また、妻のイヴォンヌはアンヌの死をきっかけとしてアンヌ・ド・ゴール基金を設立し、恵まれない子どもたちへの援助を行った。
エピソード[編集]
暗殺未遂
ド・ゴールは「わが道を行く」という姿勢をあらゆる局面で強固に貫いたこともあり、遭遇した暗殺未遂事件は第二次大戦中の事件も含めて31に及ぶ。1962822日にプティ=クラマールで車での移動中に、4人組の暗殺者に機関銃を乱射されるという暗殺未遂事件に遭遇した際は、車内に銃弾を撃ち込まれながらも、運転手や同乗していた夫人ともども無事だった。車から降りて側近に怪我はないかと聞かれると、「4人がかりで人1人殺せないとは銃の扱いが下手くそなやつらだ」と述べたとされる。後にド・ゴールが語ったところでは、常に持ち歩いていた次女アンヌの遺影の額縁が被弾し、銃弾はそこで止まっていたという。
食生活
好物はシチュー、野菜と肉の煮込みロールキャベツなどで、アルコールはワインを少々飲んだ。食欲はきわめて旺盛だったという。また、糖尿病を患っていたものの、規則正しい生活や食餌療法によって血糖をうまくコントロールしていたという。
核兵器について
フランスの核武装を推進したが、個人としては日本への原子爆弾投下のニュースを聞いた際、「人類を破滅させることを人間に可能せしめる手段」の登場に絶望感に襲われたことを、回想録の中で語っている。
ビアフラ戦争
1967年に勃発したビアフラ戦争で、フランスはビアフラの分離独立を支援した。これはビアフラにある石油利権を狙ったもので、ド・ゴールも腹心を通じて巧みに工作員を使い、ビアフラ分離独立運動を先導させ、資金・戦事物資をふんだんに送ったという証言が後にでている。結局アメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けたナイジェリア連邦軍が優勢で、ビアフラは悲惨な飢餓状態に陥って崩壊し、独立はならなかった。大戦時の英雄として名高いド・ゴールだが、ことビアフラに関しては自国フランスの利益を優先したとして一部から批判がある。
語録[編集]
·         「希望は消えねばならぬのか。我々は最終的には敗けるのか。否だ。フランスはひとりぼっちではない」
·         「偉大なことは、偉大な人間がいなければ決して達成されない。 そして、人間は偉大になろうと決意して初めて偉大になれるのだ」
·         「人はなろうとした人物しかなれない。だからといって必ずしも良い条件に恵まれるわけではない。だが、なろうという意志がなければその人物には決してなれないのだ」
·         「どんなことがあっても、レジスタンス(抵抗)の灯は消えてはならないし、消えないだろう」
·         「私、ド・ゴール将軍、今ロンドンにいる……
·         「この戦争は不幸な我が国土だけに限られてはいない」
·         「この戦争の結末は、フランスの戦いによって決められたのではない。これはひとつの世界大戦である」
·         「フランスは戦闘には負けたが、戦争に負けた訳ではない!
·         「なんですって? おしまいですって? では世界は? 植民地は?
·         「私はこの師団の師団長だったことを名誉に思う。フランスの最後の勝利を信じる」
·         「パリよ。パリは辱められ、パリは破壊され、パリは犠牲となったしかしパリは解放された! 自分自身の力で解放を勝ち取ったのだ、フランス全土の支援の下に、フランス人の力によって! 戦うフランス、これぞ真実のフランスである。フランスよ永遠なれ![12]
·         「私はフランスだ」(ド・ゴールのゴールの名は、ローマ帝国時代に現在のベルギーからスペイン北部にかけての地域を指す「ガリア地方」に由来すると言われる。ガリア=フランスそのものを示す場合があり、それをド・ゴール自身が意識していたようで、この種の発言が良く出たと言う。また、それゆえに誇り高く、軍人時代に上官と衝突する原因の一つだったと言われる)
·         「フランスでの戦闘の指揮はフランス人が執らなくてはならない」(ノルマンディー上陸作戦の3日前、アイゼンハワーが彼に知らせず計画を進めていたことを知り、アイゼンハワーに詰め寄った時に発した言葉)
·         「フランスは戦闘に負けたが、戦争には勝った」[1]
·         「小国は大国になろうとし、強国は支配を望む」[13]
著書[編集]
ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人で、その文章は多くの批評家から評価されている。20141月、ノーベル財団は1963年度のノーベル文学賞候補80人の中にド・ゴールが含まれていたことを発表した[14]
著書のうち日本語訳が出版されたもののみ以下に記す。
·         剣の刃』(Le Fil de l'Epee 葦書房1984年、1993年)
·         『戦争回想録』(Memoires de Guerre みすず書房 6巻(1966年、1999年)
·         『職業軍の建設を!』(Vers l'armee de metier 不知火書房(1997年)
·         『希望の回想』(Mémoires d'Espoir 1 朝日新聞社1971年) 2部執筆中に急逝
伝記(近年)[編集]
·         エリック・ルーセル 『ドゴール』(山口俊章・山口俊洋訳、祥伝社、2010年)
·         山口昌子 『ドゴールのいるフランス危機の時代のリーダーの条件』(河出書房新社2010年)
·         デュアメル 『ド・ゴールとミッテラン刻印と足跡の比較論』(村田晃治訳、世界思想社1999年)


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