富士山  千野帽子編  2014.2.7.

2014.2.7. 富士山

編者 千野帽子(ちのぼうし) エッセイスト。パリ第4大学ソルボンヌ校博士課程修了。2011年より公開句会「東京マッハ」の企画・司会を務める

発行日           2013.9.25. 初版発行
発行所           KADOKAWA(角川文庫)


古今の文豪が描いてきた日本の偉容、富士の山をアンソロジー

²  日本の象徴は、夜も昼も眠らない                         草野心平
²  富嶽百景                                                      太宰治
富士の頂角、広重は85度、文晁は84度、北斎に至っては30度くらいと鋭角に描くが、陸軍の実測図では東西が124度、南北が117
ニッポンのフジヤマをあらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、一切知らず素朴な純粋のうつろな心に果たしてどれだけ訴え得るのか、心細い山である。裾野の広がりの割に低く、少なくとも1.5倍高くなければいけない
十国峠からの富士だけは高くてよかった。雲が晴れて出てきた頂は予想よりも倍ほども高いところに見えた
東京のアパートの窓から見る富士は、くるしい。小さい真白い三角が地平線にちょこんと出ていて、まるでクリスマスの飾り菓子
昭和13年の初秋、甲州への旅に出る。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、変に虚しい、なだらかさにある。御坂峠の天下茶屋で仕事をしている井伏鱒二を訪ね、暫く逗留したが、毎日北面富士の代表観望台から眺める富士は富士三景の1つと言われるが、あまり好かなかったばかりか、あまりにおあつらえむき過ぎて軽蔑さえした。まるで風呂屋のペンキ画、芝居の書割
2人で登った三つ峠、ドテラに地下足袋姿、霧で何も見えなかったが、井伏氏が茶店から持ってきた富士の写真を掲げて、この辺に見えると言ったが、その富士を眺めて笑った
数日後、甲府での見合いに井伏氏も同道したが、その席で井伏氏が部屋の長押に富士山頂大噴火口の鳥瞰写真に気付き、私もそれを見届けて、その相手と多少の困難があっても結婚したいものだと思った
しばらく御坂の茶屋に滞在して仕事をするが捗らずに苦しむ。運筆は楽しみだが、私の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、新しさというも
の、私はそれらについて、未だ愚図愚図、思い悩み、誇張ではなしに、身悶えしていた
結婚に際して家からの援助が無く、途方に暮れたが、知人の助けで甲府の娘と結婚
冬を迎えて御坂を引き払い、甲府の安宿に1泊して翌朝見た富士は、山々の後ろから三分の一ほど顔を出している。酸漿(ほおずき)に似ていた

²  三四郎()                                                夏目漱石
「一」より
熊本の学校を卒業して上京する途上、汽車が豊橋に着いた時、髭の人と隣り合わせになり、その男が買った水蜜桃を一緒に食べながら、子規が大変な果物好きで、樽柿を16食ってもなんともなかったという話を聞かされる
浜松の駅頭で綺麗な西洋人を見て圧倒されていると、くだんの髭の男が、これから富士山が見える、あれが日本一の名物で、他に日本では自慢するものがないと言った

「四」より
友人から、くだんの髭の男を高等学校の広田先生と紹介され、下宿を世話することになるが、その時先生から「不二山を翻訳したことがあるか」と聞かれる。「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」

²  日和下駄 第十一 夕陽 附 富士眼望                 永井荷風
江戸時代、夕陽の美しさを見るために知られたのが目黒の夕日ケ岡と大久保の西向天神
日頃頻に東京の風景をさぐり歩くに当たって、この都会の美観と夕陽との関係甚だ浅からざるを知る事が多い。四谷麹町、青山白金のごとく、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便利。芝白金から目黒行人坂に至る街路は、駄々広いばかりで場末の汚い往来に過ぎないが、幾分たりとも美しいとか思わせるのは夕陽の関係あるがため
東京に於ける夕陽の美は若葉の五六月と、晩秋の十月十一月の間をもって第一とする
夕陽の美とともに合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景
西向きの街からは大抵富士山のみならず其の麓に連なる箱根大山秩父の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今猶最もよくこの眺望に適した処。九段坂上の富士見通、神田駿河台、牛込寺町辺も同様
関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここに於いて江戸児は水道の水と合わせて富士の眺望を東都の誇りとなした。西に富士ケ根、東に筑波の一語は誠によく武蔵野の風景を云尽くしたもの。北斎の富嶽卅六景のうち江戸市中より富士を望み得る処の型式凡そ十数個所を選んだ
当世人の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて綺麗綺麗と叫ぶ類のもので、清夜に月光を賞し、春風に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払うてしまった。されば東京の都市に夕日が射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんなことに頓着するものは一人もない

²  三四郎と東京と富士山()                                 丸谷才一
『三四郎』の書き出しについては何かの折に讃辞を呈したいとかねがね思っていた。長篇小説の初めは実によくできていて、なかでも第1章など間然するところがない。日本の近代小説のごく初期に、当時の西欧の最も新しい筆法と競う趣でいきなりこれだけの高さに達するなんて、何か奇蹟めいた感じさえする
まず主人公の紹介の仕方がすばらしい
明治の末、東京では富士を眺めるのがごく普通のことだった
大田道灌が、[わが庵(あん)は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る]と詠んで以来、江戸=東京と富士山は切っても切れない仲。「西に富士ガ根、北に筑波」というのは江戸っ子の自慢する景色で、王子が行楽地として人気があったのは双方が見えるせい

²  この文章を読んでも富士山に登りたくなりません      森見登美彦
関西育ちで富士に馴染のない私が2009年に富士に登る羽目になったのは、2年前の編集者との迂闊な口約束による
翌朝ご来光を見て下山
紀行文を書き終えて見ると、これほど富士山に登りたいという気持ちをそそらない文章はない。富士山の登山客は無闇に増えているそうで、何事も極端はよくない。いい加減な気持ちで挑もうとしている登山者の気持ちを萎えさせるためにもあまり登りたくならないような文章の方がいいようである

²  竹取物語 九 天の羽衣 (口語訳)()                 星新一
かぐや姫が天に戻って行った後、ミカドが「最も天に近いのはどこの山か」と聞かれ、物識りが「この都から行けるところでは駿河の山」と答える
ミカドは和歌を書き、駿河の山の頂で火を焚いて燃やしたら思いが届くかもしれないと、ミカドの命令で武士たちが山に登った
(さむらい)に富むで、富士の山と書くようになった。それは不死の山であり、不二の山

²  宝永噴火()                                                 岡本かの子
綱吉の世、聖者白隠が駿河国駿東郡に誕生
富士は7811083年の間に9回噴火したが、以後500年は活動をやめてしまい、白隠が朝夕目に親しんだ富士の姿はおっとりしたものだった
1707年のある日、大音響とともに富士全山に異変が起こり、5日に亘って灰と石が降り続く
煙が止まったと同時に雪が降り出した
被害地の回復に幕府は3570年余もかかり、全国の扶持取りから百石につき2両づつ上納させ救助復興の資金に充てる

²  富士山                                                         山下清
生まれて初めて富士山を見たのは、学校へ行っていた時で、屋上から真っ白な富士を見た。そばに行くと大きく見えてもっと美しく見えるだろうと思った
富士吉田駅まで行って少し見えてきた富士は、自分の思ったより美しく見えなかった

²  四辺の山より富士を仰ぐ記                                 若山牧水
いま借りている家からはまず愛鷹山が見え、その上に富士が仰がるる
愛鷹山頂から富士を眺めたらさぞ壮観であろうと思い立ち、愛鷹には魔物がいるとの土地生まれの女中の言葉を無視して登ってみたが、頂上から先にも岩山があって、それを抱くようにして大きく白い富士山が聳え立っていて、真裸体の富士山を見たいという願いは見事失敗
偶然乙女峠を越えようとしてその願いを果たす
伊豆の天城から見た富士も見事なものであった。ちょうどの見頃だと思う距離をおいて仰がるる。八丁池(天城山の西側)に登る途中から随所に素晴らしい富士を見ることができる
阿良里(安良里)と田子(伊豆西海岸)の間に深く食い込んだ入江から雑木林を登っていく芝山のつらなりの間に、遙かな末に、例のごとく端然とほの白く聳えている寂しい姿
富士の景色で私の記憶を去らぬのが、1つは信州浅間の頂上から東明の雲の海の上に遙かに望んだ時、もう1つは上総の海岸から、恐ろしい木枯らしが急に吹き止んだ後の深い朱色の夕焼けの空に眺めたとき
浅間の頂上から見た雲海の上に聳えていた2つの山、1つは富士でもう1つが飛騨の焼嶽

²  美しい墓地からの眺め                                      尾崎一雄
神主の家だが、切支丹禁止令で檀那寺を選ばなければならなくなり、仏式の墓に親族を祀っているが、その墓地からの眺めが美しい。東が塞がっているが他は三方とりどりに面白い
南には相模灘越しに大島、西に足柄山越しに富士が見える、手前は酒匂川の松並木
この頃何か墓に潜る準備ばかりしているようだが、実はそうではない、全ては「生」のためだ。人間のやることに「死」のためということはない

²  大空の鷲                                                      井伏鱒二
御坂峠には8年前から1羽の鷲がいる。地元の人はクロと呼ぶ。東京の小説家が峠の茶屋に逗留、猿を狙う鷲を見て騒いだが、結局1匹が餌食となって運び去られた


²  富士の初雪                                                   川端康成
歌子は離婚後に元彼の二郎と箱根へ行く途中、伊東行きの電車の中から大磯辺りで初化粧をした富士を見た後、別れた夫との話に戻る
箱根で一泊した後東京に戻る電車からまた富士を見る
2度目の結婚に失敗してやつれた歌子を思い遣る二郎と、二郎に会って元気を取り戻したという歌子

²  天と富士山――【東京】                                   赤瀬川原平
日本人は半分西洋人になっていても、根が日本人で、お正月にはその根が出てきて、正月料理を用意してしまう。新年を祝うのはお天道様を祝うこと。天皇陛下の天はお天道様の天と同じ
昭和天皇が倒れた年。昭和天皇という人物そのものも気になってきた。天皇制は日本全国にある。それは何かというと、最後の判断を天に委ねるということだ。お天道様に自分を委ねる
戦後民主主義教育で、自主独立、自己主張、自由こそ素晴らしいと吹き込まれ、自分を自然に委ねるというような気持は黙殺されてきたが、その結果が今日の環境破壊に至っている。私たちは本当は自然の成り行きに任せることの得意な国民であり、自分で決断するなんてはしたない真似は出来ないはず
皇居の新年参賀の後富士山を見に行った。富士山は目出度い。特に冬の富士は目出度さが倍増する。特に大分に住んでいたからかもしれない
富士山は日本の霊峰として人々の心の中にあったようだ。それが遠く見えなくても、その見えない力をどことなく頼りとするところで、富士山は地下を通って東京の皇居に繋がり、さらに突き抜けてお天道様に繋がっている
こじつけかもしれないが、もしも富士山がこの形を成していないとすると、あるいは噴火で壊れてしまったりしたら、日本は生きてはいても立っていられなくなるだろう


²  懐かしの山                                                   沢野ひとし
東京から見える山で、いちばん親しみのある山は、やはり富士山である。富士が見えなくて、なんの東京か、である。中野で育ち富士山を眺めつつ四季の移り変わりを感じていた
名文を書くある登山家は、富士山を「偉大なる通俗」と呼んでいた、俗物だが小細工を弄しない大きな単純さがあり、万人向きで何人も拒否しない
僕が最も印象に残っている富士山の記憶は、大学に入る前の時、大学受験を前に母親ががんで亡くなり、遊びほうけていたので、受験は全て落ちた後の浪人生活で、夕方になると粘っていた喫茶店からボーとした顔で家に帰るのが日課になっていたが、ある日後ろから呼び止められるような気がして振り返ると、誰もおらず、真っ赤な富士山が怒ったように大きく聳えていた。僕は思わず「すみません、すみません」と2度も詫びてしまった

²  春富士遭難                                                   新田次郎
静岡の地元の山岳界の同僚と冬に登った富士で、美しすぎる朝に山頂を眺める
冬の富士山は、夏の山からは想像もできないほど厳しい山に変貌する。ヒマラヤの味がすると言われるほど冬期間の富士山の突風と氷壁は若い人たちのアルピニズムをかき立てる
723月、宝永山火口壁の登攀訓練を目的とした山行きだったが、天候が急変し、翌朝下山するも途中で7人が遭難死、リーダーと客員参加の1名が助かる。他のパーティーもいれて計24名が遭難
(実際の事件にヒントを得て書いたフィクション)

²  空耳畑ときどき凄い富士が出る                           千野帽子
富士山アートの「聖」の部分に対し、「俗」の部分は徳川時代末期の「富嶽三十六景」で、フランスの絵画に影響を与え、美術史上に一大転換をもたらす
富士山がスターだったのは、文学の世界でも同様。『万葉集』にも富士の歌が十首以上も収録され、歌の世界でも欧米人にも訴えるものがあった
近代文学となるとそうはいかない。美術では引き続き、横山大観や梅原龍三郎、草間弥生が富士山をモティーフに制作しているが、文学の方では富士山の目出度く晴れがましい非日常パワーが近代文学の「そうはいっても」的なヒネタ世界観にそぐわなくなる
本書に収めた作品の中でも、太宰はその富士を前にした面映ゆさと直接対決している。漱石や牧水、康成は三者三様にクールな振りをして内心照れている
山下清と沢野ひとしは画家だから、そんな照れている場合じゃないってことをよく心得ている。赤瀬川も画家だが、この人は太宰に負けないくらい、面映ゆさをきっちり言語化しようとしている
荷風のエッセイに出てくる富士は、画題そのままの富士。歌風という人は、世界それ自体を見るのではなく、ある場所とそこを描いた絵とを照合して、違いがあったら絵じゃなくて場所の方にバッテンをつける人なんだろうな
丸谷の文章は、漱石と荷風の明治に於いて富士がどういう「意味」を背負っていたか、という文化史的な話柄を巡って書かれている。滅法面白い
尾崎と井伏は、大なり小なり富士慣れした作家の視点から見た富士。この2人の作品を読むと、日常になったからといって富士のパワーが無くなるわけではないことがわかる。森見は富士山に馴染の薄い西日本出身者として、平熱で富士登山に挑む
沢野と新田は山に詳しい人。前者はクライマーとして知られ、後者は気象学者・藤原咲平の甥、自身も中央気象台富士山測候所に長年勤務、富士山の気象レーダー建設の責任者でもあった。ここに収めた「春富士遭難」のほかにも富士を題材とした短篇がある。
星と岡本はいずれも富士の活火山としての側面に空想的にアプローチした異色作

他によく知られるのは、白井喬二の『富士に立つ影』、武田泰淳の『富士』、武田百合子の『富士日記』

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