正妻 慶喜と美賀子 林真理子 2014.2.21.
2014.2.21. 正妻 慶喜と美賀子 上・下
著者 林真理子 『14-02 野心のすすめ』参照
発行日 2013.8.2. 第1刷発行
発行所 講談社
初出 2011.12.13.~2013.12.9. 信濃毎日新聞他に連載
1. 公家の少女
1852年(嘉永5年)のこと
5摂家の一段下の清華家(雅楽(琵琶)の家)である今出川家の娘・延(18歳) ⇒ 母は西陣の織り元の娘で、行儀見習いの時に当主の手がついたので、身分が低いため側室になれなかった
鷹司と並ぶ公家きっての実力者・正二位権大納言一条忠香の姫・千代が慶喜と婚約
慶喜の母親は有栖川から輿入れ
有栖川の若殿は和宮と婚約
今出川の当主で延の兄・実順(さねあや)が、関白・鷹司政通の娘・美津子と婚約 ⇒ 今出川は鎌倉の後期に西園寺家より分家
2. 突然の婚約
延は一条家の養女に ⇒ 千代姫が疱瘡にかかり顔がいけなくなったための身代わりとなるが、異例の育ての乳母を一緒に連れて行くと言って我を通す
54年、66年振りに内裏の火事、火元は一条家、孝明天皇も下賀茂神社に避難、桂宮邸に仮御所が作られる
3. 旅立ち
55年、延が江戸へ向け出発 ⇒ 途中10月に川崎で地震(安政の大地震) に遭遇
4. ご簾中さま
同年末結婚して美賀子の名を与えられる ⇒ ご簾中(れんちゅう)さま
同じ頃、将軍家定の下へ篤姫が輿入れ
5. 妬心
新婚生活は上々のスタートだったが、慶喜が同じ屋根の下に住む幼馴染の姑(慶喜の2代前の正室)と毎夜謡をやっているのを、美賀が怪しんで止めさせようとしたのに慶喜が立腹、美賀の部屋に出入りしなくなったのに失望して首吊り未遂、気鬱で暫く床に臥せる
慶喜の実の母のとりなしで慶喜が改心、女好きだった実父とは違って、美賀を正妻として遇することを誓ったので、美賀もくよくよしないことにした
58年懐妊、女児誕生、自らの乳で育てると主張したが4日で死亡
6. お芳
浅草の町火消「を組」の組頭・新門辰五郎の一人娘・お芳、器量よしだが、父親の目が光っていて誰も近づかない
辰五郎は、若き日の慶喜の男っぷりに惚れて、一橋家の下働きとして出入り
辰五郎は、16年前久留米藩有馬家の大名火消との喧嘩で、江戸払いのお裁きを受けるも、江戸に出没、奉行所に捕えられて人足寄場に送られ重労働の日々を送るが、本郷丸山から出た大火の火を消し止めた功績により放免、また火消に戻っていた
お芳は、漸く古着屋の次男坊で”今助六”と評判の色男と意気投合、親が反対するのに対し「自分が次男坊を男にする」と啖呵をきって世帯を持ち、夫の親からの暖簾分けで小さな店を持つが、芸者上がりの母から針仕事を教え込まれていなかったお芳は洗い張りどころか
針もろくすっぽ使えない
イギリスが江戸に攻め込むという噂に浮足立った夫が、妾を逃がそうとしていたことに腹を立てたお芳は実家に戻る
慶喜の側室おくにが女児を生んだ後の宿下がりを辰五郎が世話したが、おくにが労咳で亡くなる直前慶喜が見舞いに来てお芳を見初める
女児は辰五郎が引き取って育てる ⇒ 名前がお喜で実娘と同名
京に旅立つ慶喜から、お芳をお供に連れて行くとの申し出あり、お芳が同意
7. 京の慶喜
63年、慶喜が将軍後見職として京の東本願寺に入る
お芳の下へ、新たに一橋家に仕えることになった武蔵国の地主の倅・渋沢栄一郎が訪ねてくる ⇒ やがて勘定組頭に任命され、財政改革を任され、領地の播州の米や白木綿、備中の硝石を一橋家の専売にして財政を立て直す
8. 御台所へ
美賀は、次の子も出来ないまま30となり夫婦の交わりもなくなる
京の慶喜からの手紙で、「フランスこそ第一級の国、これからはフランス語を習得すべく、軍艦奉行・小栗忠順に相談するように」との指示が来て仰天
小栗は、かの井伊大老が「稀に見る才」と賞賛した、俊才の誉れ高い幕臣
66年、将軍家茂死去。4か月後に慶喜が15代将軍に。美賀は、天璋院と和宮がいる大奥へは入らないという ⇒ 大奥では、家定の母・本寿院が慶喜を毛嫌いして以来、嫌われていたこともあるが、質素倹約を第一とする水戸家の意向でもあった
将軍宣下直後に孝明天皇崩御
9. 最後の戦
68年頭、大政奉還後の徳川と薩長土が鳥羽で開戦
10. 錦旗
大阪城から御所警護のために上洛する幕府軍と、岩倉・三条らの公家から御所警護を任された薩長土軍が鳥羽と伏見で衝突、数で圧倒的有利にあった慶喜側だが、薩摩側はいち早く岩倉等を通じて急ごしらえではあっても錦の御旗と仁和寺の宮嘉彰親王殿下を征夷大将軍として参戦させたために、賊軍となった慶喜は全軍を大阪城に引揚げ
11. 逃亡
慶喜は、着のみ着のままで、10人の藩主のみ連れて軍艦に乗り江戸に逃亡
朝廷から正式に慶喜討伐の命令が出る中、江戸城に戻って切腹を考えていた慶喜は、やらなければならないことがあると決意
12. それから
部下を見捨てて江戸に逃げ帰った慶喜に対する怨嗟の声が上がる中、慶喜は恭順の意を表しつつも大奥に入って女漁りを続けるが、有栖川熾仁親王が東征大総督に任命されるに及んで芝の増上寺とともに徳川の菩提寺である上野寛永寺に入る
江戸城明け渡しが決まり、天璋院は田安亀之助(徳川家達)が相続した徳川宗家に引き取られ、静寛院宮(和宮)は京に戻り、慶喜と美香は駿河へ移り6年振りに一緒の生活に戻る
その間ずっと新門辰五郎父娘は慶喜を離れなかったが、お芳は子供も出来ず、駿河行きを前に暇を取り他の男と一緒になる
駿河の慶喜の屋敷に小規模の大奥が出来、次々に子が生まれ始める ⇒ 13人の子どもが生まれ、実母はそれぞれの名前で呼ばれ、母親は美賀子1人。次第に母性が芽生える
美賀子は乳がんとなり、手術を受ける前に慶喜に本心を明かせと迫り、慶喜は親密にしていたフランス公使から討幕派一掃の支援をする代わりに薩摩を寄越せと迫られ承諾したことを聞かされる。薩摩憎しから承諾はしたものの、自ら目先の欲に囚われ領土を外国に売り渡そうとしたことに愕然とし、あとはただただ逃げるしかなかったと言う
86年、日赤にて手術するが、一旦はよくなったもののその後転移が見られ、再々手術
慶喜は、還暦を機に東京に戻ってもよいとのお許しが出るが、先に上京して日赤病院に入院した美賀子は手術の仕様がないほどの転移で死去
正妻 慶喜と美賀子(上・下) 林真理子著 将軍の複雑な実像に迫る
日本経済新聞朝刊2013年9月15日
徳川幕府の最後の将軍となった慶喜は、鳥羽・伏見の戦いの直後に敵前逃亡したこともあって、時代の流れを読んで明治維新を加速させた名君とも、勝てる戦いを捨て敵に政権を渡した暗君とも評されている。
(講談社・各1400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
慶喜の正妻と側室を主人公にする新しい視点で幕末を描いた『正妻』は、今も議論が続く慶喜の評価にも独自の切り口で迫っており、歴史小説好きなら絶対に楽しめるだろう。
公家の今出川家に生まれた美賀子は、年頃(としごろ)になっても恋愛や結婚にあまり興味がなかったが、次期将軍候補の一橋慶喜と婚約が決まっていた一条家の千代君が疱瘡(ほうそう)に罹(かか)ったため、代役として慶喜の正妻となる。
前半は、京から江戸へ下った美賀子が、慣れない武家の習慣に戸惑う姿がコミカルに描かれたり、大奥で女たちの織り成す嫉妬と欲望の渦に巻き込まれたりするので、人間ドラマが中心になっている。
やがて慶喜は、側室おくにの臨終の席にいた町火消・新門辰五郎の娘お芳を見初め、側室になって一緒に京へ行って欲しいと打診。お芳もこの願いを受け入れるので、後半は風雲急を告げる京を舞台に、国内の政治状況、諸外国との外交交渉を追う迫真の政治ドラマになっていく。
著者は、町人であり、将軍の私生活は支えるが、公務とは距離を置く側室でもあるため、武家の世界を客観的に見ていたお芳を通して、英邁(えいまい)だが、女好きで自己愛が強いなど弱点もある複雑な性格だった慶喜の実像を浮かび上がらせている。過剰に持ち上げることも、不当に貶(おとし)めることもなく、冷静に慶喜を描いているだけに、お芳が敵前逃亡してきた慶喜を受け入れる場面と、明治に入り、江戸に残った正妻として逃亡の真実が知りたいという美賀子に、慶喜が語りかける終盤は深い感動がある。
男たちが尊王か佐幕かで揺れ動いた幕末にあって、美賀子とお芳は、ぶれない強い信念を持っていた。このバイタリティは、現代の特に女性読者に勇気を与えてくれるはずだ。
といっても、慶喜と添い遂げることを誓う美賀子と、一時的な関係と割り切るお芳は人生観や結婚観がまったく異なっている。生きざまが対照的なだけに、必ず共感できるヒロインが見つかるように思える。
(文芸評論家 末國善己)
Wikipedia
御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。
名前[編集]
幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)、その後初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて昭致(あきむね)と名乗っていた(この時は松平姓)。その後、一橋徳川家を継ぐ際に当時の将軍(江戸幕府第12代将軍)・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、(「慶」の字が「よろこぶ」の意味を持つことから「よろこぶ」が2つでめでたいの意で)慶喜と改名した。
生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことが確認できる。
また、将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「よしひさ」と読んだとの記録が残っている。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている。このように「喜」を「ひさ」と読む説についてはこの字を与えられた以下の二名についても同じことが言える。
偏諱を与えた人物[編集]
生涯[編集]
天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。母は正室・吉子女王[1]。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。男系の血筋として慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男である松平頼侯(よりとし)の子孫である。
尊敬する第2代藩主・光圀の教育方針を踏襲して子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9(1838)年4月末(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授されている。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
一橋家相続[編集]
弘化4年(1847年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。
家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。
将軍継嗣問題[編集]
嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。
将軍後見職[編集]
文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。
文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。
禁裏御守衛総督[編集]
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や池田慶徳・池田茂政(鳥取藩主・岡山藩主。いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克(川越藩主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する[3]。
同年7月に起こった禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した(歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ)。これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)[4]。また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。 それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功した(ただし、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された)。
将軍職[編集]
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
家茂の後継として、老中の板倉勝静・小笠原長行は江戸の異論[5]を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[6]。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった[7]。
慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した[8]。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。
慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。
薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており[9]、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。
戊辰戦争[編集]
大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らは政変により朝廷を制圧し、慶喜を新政府から排除した(王政復古)。慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた(ただし400万石全納は松平春嶽らの要求により200万石半納に減免された)。慶喜は衝突を避けるべく会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。
しかし、翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と命を下し、自分は陣中に伴った側近や妾と共に開陽丸で江戸へ退却した[10]。なお、大坂にて将軍職に就任した慶喜は、将軍就任後初めて江戸に入ったことになる。
軍事的勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような行動を執った動機については幾つかの説がある。近年の説では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の退却行動に繋がったとする[11]。また、慶喜は鳥羽・伏見の戦いでの撤退原因について、薩摩を討つ覚悟はあっても、天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある[12]。
間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲ることになった。
江戸総攻撃の前に行なわれた海舟と新政府軍参謀西郷隆盛との交渉により江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された(彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった)。弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家は駿府に移され、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は復活することはなく、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。
余生[編集]
明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)に東京の巣鴨に移り住む。翌年には威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。
年譜[編集]
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7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
人物[編集]
幼年時代[編集]
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武芸や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
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寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた[15]。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾二人とYの字になるよう三人で同衾していたという逸話も伝えられる。
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幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
一橋家当主として[編集]
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病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
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文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、大名経験者合議制であった参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言した。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。
将軍として[編集]
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英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
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鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、再評価する動きもある。
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慶応の改革の一環として建築された横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が在日米軍に利用されている。また同時期に幕府陸軍の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から山岡鉄舟・大鳥圭介・津田真道など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されており、明治維新により事実上頓挫した慶応の改革は日本の近代化に少なからず貢献した。
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坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していたと指摘する研究者もいる[16]。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは坂崎紫瀾が著した容堂伝『鯨海酔候』や渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。
新政府軍との戦い[編集]
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鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。
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新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじる心ある者だと評価される(尊王思想である水戸学や、母親が皇室出身であることなどが多分に影響していると思われる)。
明治維新後[編集]
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実業家の渋沢栄一は一橋家の当主だった頃に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
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恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。渋沢栄一[17]、萩野由之[18]は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、また、フランスの援助を拒絶したため、外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している。鳥谷部春汀[19]は第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している。勝海舟[20]は、皇居参内の翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ちむやみに旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにします、と言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけある、と感心した。
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朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである[21]。
逸話[編集]
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父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。
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攘夷論をめぐり、孝明天皇の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で親王家に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、お茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
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鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、鰻の蒲焼を取り寄せるように奥詰の者に命じ、二分の金を渡したが、時期はずれで一両でなければ入手できず、自らの金を加えて買いもとめた。また慶喜から鮪の刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
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趣味としての写真撮影を日常としたがあまり上達しなかった。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の徳川慶朝はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の長野重一によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは昭和の初期からであり、単に日記代わりとして撮っていたと、評価している。
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油絵にも嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている[22]。最初は武家のならいで、狩野派の狩野探淵に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた中島鍬次郎(仰山)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果遠近法や陰影法が不揃いで、画面全体の統一を欠く事が多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場する事や、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は山水画を貴ぶ近世の文人の意識が強く残っているといえよう[23]。
家庭・親族[編集]
安政2年12月3日、一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には女子(瓊光院殿池水影現大童女)が安政5年7月16日誕生するも、7月20日に早世。以後、美賀との間に子女は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である。公爵となり徳川慶喜家を継いだ七男・慶久や、勝海舟の婿養子となった十男・精、伏見宮博恭王妃となった九女・経子などである。なお、慶久の子女には、徳川慶光や高松宮宣仁親王妃となった喜久子らがいる。
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長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
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六男:斉(明治11年8月17日 - 明治11年11月28日)
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六女:良子(明治13年8月24日 - 明治13年9月29日)
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次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
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三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
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次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
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五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
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死産:男子(明治17年8月22日死産)
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八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
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死産:女子(明治24年6月2日死産)
関連作品[編集]
小説[編集]
映画[編集]
テレビドラマ[編集]
徳川慶喜が主人公のテレビドラマ
その他のテレビドラマ
脚注[編集]
5.
^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた(家近p.p.113-117)。
13.
^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書(平田職修日記)
從三位源慶喜
右可正二位
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日
從三位源慶喜
右可正二位
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日
15.
^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416、田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉、『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁
22.
^ 公的機関にある作品として、「蓮華之図」(寛永寺蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」(茨城県立歴史館蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。
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