混浴と日本史  下川耿史  2014.2.12.

2014.2.12. 混浴と日本史

著者 下川耿史(しもかわこうし) 1942年福岡県生まれ。著述家。風俗史家。

発行日           2013.7.25. 初版第1刷発行
発行所           筑摩書房

はじめに
温泉を題材とした文学作品は多く、そこでは混浴の場面もしばしば登場
川端康成        『伊豆の踊子』         湯ヶ島温泉               ほとんど昭和
井上靖           『しろばんば』        湯ヶ島温泉               明治、大正
田山花袋        『温泉めぐり』         湯ヶ島温泉他            昭和
日本人にとって混浴とは、日常性の中に純化された精神の領域が存在することを表す習俗
絵葉書にも、大正時代から戦後の時代までに撮影された混浴を楽しんでいる風景が描かれている
その一方で、近代日本では混浴や人前で裸を見せることははしたない行為であり、明治政府の成立と同時に犯罪とされてきた
1868年、新政府が築地を外人に開放するため、付近の銭湯の混浴を厳禁し、2階に目隠しをつけるよう通達、続いて横浜や大阪府でも混浴が禁止
1872年、違式詿違(いしきかい)条例(軽犯罪法)制定  混浴や裸が犯罪に
混浴に対する国家の烙印と、「どこが?」という庶民の反発には埋めがたい溝がある。その溝の深さは「国とは何か?」という疑問を抱かせるに十分
本書で目指したのは、この対立を復元し、それを通して見えてくるこの国の形をもう一度確認したいということ
「たかが混浴、されど混浴」の日本史

第1章        混浴、歌垣と禊
第1節        『出雲風土記』の混浴と歌垣
日本における混浴の記録は、721年成立の『常陸風土記』に始まる
733年成立の『出雲風土記』のほうが表現が分かりやすい 
現在の玉造温泉と斐伊川べりの湯村温泉の情景が描かれ、混浴が庶民の娯楽として定着している様子がうかがえる
温泉で湯を浴びる「沐(ゆあみ)」に対し、水辺や海辺、泉のほとりでの水浴びは「川あみ」と呼ばれ、その記録も「邑美(おほみ)の冷水(しみづ)(現在の大井町大海崎辺り)、「前原(さきはら)の埼(さき)(現在の美保関町の猿が鼻)2カ所があり、いずれも老若男女が群れ集まって宴をしている
川あみは歌垣(東日本では嬥歌(かがい)という)とも呼ばれ、男女が一緒に飲食し、歌を交わしながら気の合った相手と性的な関係を結ぶこと

第2節        『常陸風土記』と東国の世界
713年に風土記編纂の命令が出され、完本として現存するのは古い順に、播磨(715)、常陸、出雲、豊後、肥前の5
『常陸風土記』には、混浴の記録が2カ所(日立市と麻生町)、歌垣が3か所(神栖市の2カ所とつくば市)あり、嬥歌ではスワッピングの様子が描かれている

第3節        イザナギ命と禊と歌垣
『日本書紀』の水あみの記載  禊の第1号が描かれ、禊を通じて9人の神が生まれ、左目を洗って天照大神が、右目から月読尊(つきよみのみこと)、鼻からスサノヲノ命をもうけたとされるところから、禊とは歌垣の1つの形式を指す
9人の神のうち3人は、神宮皇后とともに大阪・住吉大社に祀られており、住吉大社では明治の終りまで7月のお祭りの際、神輿の渡御が行われる長峡(ながお)の浦で老若男女が裸で海水を浴びる「官許の混浴」が行われていた
国家の成立と共に、禊と「湯あみ」という同じ行為にも、権力者と庶民では全く異なる意味が付与されることになった

第4節        東南アジアの歌垣
長江下流域で始まった稲作の技術とともに歌垣も周辺に広がっていった
雲南省に住むハニ族は、古代の歌垣を今に伝承する少数民族の1
日本に歌垣が伝えられたのは紀元前300200年頃  田植えをする男女が田んぼの水と泥を掛け合って豊作を祈ったという

第2章        国家仏教と廃都の混浴
第1節        国家仏教と「湯」の語源
693年、律令国家の成立とともに歌垣も踏歌節会(とうかのせちえ)という宮中行事と、田植え祭りという農作祈願の行事に変わり、宮中行事では性的な要素は捨消
斎宮(さいぐう/いつきのみや)制度  崇神天皇の時、天皇に代わって天照大神のために禊をする目的で、内親王や女王の中から選ばれた斎王が伊勢神宮近くに常駐した
ユの語源は、斎であり、潔斎の意味であり、斎忌の意からして、皇室の重大な祭事たる大嘗祭の悠紀が出てくるがそこに斎忌という正訓文字を使って踰既(ゆき)と読ませた  本来「ユ」は、悠紀斎忌潔斎とすれば、天子の身体を浄める水であって、寒暖とは無関係となるが、真偽のほどは疑問

第2節        奈良の大仏と「功徳湯」
689年にスタートした律令国家の最大の特徴は、国民の日常生活を朝廷が支配し、精神面の訓育を仏教寺院が担当するという二重構造の枠組みが設けられたこと
律令国家のシンボルとなった東大寺には、大湯屋と称する浴室が設けられ、修行としての入浴と同時に衆生救済の一環として入浴が重視された  750年前後にできたもので、日本人が温泉以外の場所で入浴することになった最初の出来事
仏教では仏陀の時代からお湯の効能が説かれ、お湯の効能を温室と浴室に分け前者は病気治療用の蒸し風呂、後者は浄めのための洗い場として利用
各寺院でも大湯屋が庶民に開放され、「功徳湯」と呼ばれる

第3節        廃都の混浴
遷都によって奈良は荒廃、国家仏教の権威も地に落ちて大量に残された僧と尼が淫行三昧に耽り、風紀が乱れたため、最初に奈良に派遣された検察使が手掛けたのが混浴禁止令であり、「功徳湯」は廃止  混浴が猥褻視されるようになった初め

第3章        平安朝、風呂と温泉の発展期
第1節        湯殿と町湯の始まり
平安時代は、唐の真似を止めて日本古来のもの、和風化を目指すことが時代の大きな目標
入浴の風習の和風化  インド仏教の教えから移入された入浴の風習が、内裏や貴族の屋敷では新たに「湯殿」が設けられ入浴の作法が定められ、次第に湯殿での女性との性的な関係に発展
一方、庶民の間では銭湯(町湯とも)  12世紀初め頃、僧坊に設けられたのが始まり

第2節        温泉付きの三三か所霊場巡り
西国三三か所の霊場巡りも、お百度の風潮の一環として、10世紀頃から始まる
貴族社会の温泉人気と、「衆生救済」の祈りをセットにした新しいタイプのレジャー
那智山青岸渡寺を第1番とし、谷汲山華厳寺(岐阜)33番とするお寺の観音菩薩像をお詣りするもので、お寺は近畿8府県に点在。ブームの火付け役は功徳を授かろうとした貴族だが、温泉がセットになったことが後押し。堺の塩湯、八瀬の窯(かま)風呂

第4章        湯女の誕生と一万人施浴
第1節        湯女の誕生と遊女
1191年、有馬温泉に「湯女(ゆな)」というサービスガール登場 ⇒ 遊郭の先駆け
日本最初の遊女は、万葉集に登場する遊行婦(うかれめ)で、大伴家持の宴会に呼ばれて歌を披露
遊女が一般的には派出婦だったのに対し、湯女は入浴する客の世話をする女であり、常駐して遊女の役割もした
1097年の洪水で人家を押し流され衰退した有馬温泉が、100年後に湯女で復活

第2節        「千人施浴」と頼朝の「一万人施浴」
武家社会では、施浴(功徳湯)の風習が豪族から庶民層にまで施主が広がる
奈良時代の光明皇后の「千人施浴」が再評価され、1192年には頼朝が「一万人施浴」を実施

第5章        江戸の湯屋と地方の温泉
第1節        江戸の銭湯とザクロ口
江戸時代に花開いた町人文化は、明るく笑いに溢れていたが、一方で、遊郭を中心とする性の文化がもてはやされた
徳川時代初期の江戸は、豊臣恩顧の西国大名を動員した町作りが進み、男だけの殺伐とした世の中だったため、湯女風呂が性風俗の主役となる
江戸で銭湯が初めて開業したのは1592(2節には1591年とある)
ザクロ口 ⇒ 室内の熱気が外部に逃げないように、浴槽と外の板敷(洗い場)の間に設けられた壁の下の入口。壁全体は神社の鳥居のような形をしていて、上部はお寺の山門や大屋根を模した形でその下には富士山や田子の浦、隅田川の川べりの夕日などが描かれていた。この形は施浴という宗教的な有難味を強調するために取り入れられたもので、明治末期から大正にかけて銭湯の玄関をこの形にすることが大流行。壁の絵は、1912年神田の「キカイ湯」が絵入りタイルを用いて壁絵を作ったことから壁絵として大流行

第2節        湯女風呂の誕生と吉原遊郭
1589年、日本初の遊郭誕生 ⇒ 京都の柳町遊郭で、1640年には島原に移転
1617年、江戸・吉原(現在の人形町)に江戸最初の遊郭誕生
湯女風呂の第1号は1590年に大阪に誕生 ⇒ 湯女は髪洗い女で遊女ではなかった ⇒ 遊女に変身したのは江戸で1636年頃で、「簡易遊郭」として人気を呼ぶ
1656年、江戸の町の発展に伴い吉原遊郭が浅草の奥へと移転させられるのと引き換えに湯女風呂の全廃

第3節        入り込み湯と混浴禁止令
江戸時代の銭湯が混浴で「入り込み湯(いりごみゆ、一部では「打ち込み湯」)と称して、ザクロ口と並ぶ大きな特徴だが、不明な部分が多い ⇒ 元々男社会だった江戸に、地方から女が集まりだし、地方で混浴に抵抗のない女が男だけの風呂に押し掛けたのが始まり
1791年、混浴禁止令 ⇒ 江戸に初めて女湯が登場したのは1733年。松平定信による寛政の改革の一環として実施されたが、徹底はせず

第4節        湯殿姫と湯殿腹
湯殿に侍女がいて、殿様の子どもを産めば湯殿腹と呼ばれた ⇒ 典型が吉宗で、生母の出自ははっきりしない。享保の改革を行うが農民の生活は窮乏を極め百姓一揆が頻発。大奥の改革を目指すが、自らの存在も否定することとなり、改革が半端に終わるのは最初から見えた話だった

第5節        地方の温泉と入り込み湯
混浴を「下品」「猥褻」として取り締まるお上の立場と、古代からの素朴な混浴を伝承する庶民の対立は、この頃から鮮明になった
寛政年間(17891801)から各地の名所図会が次々に刊行され、田舎の文化への関心が高まる ⇒ 都会と田舎の混浴事情の違いを説明する格好の舞台となった
諏訪温泉の混浴は人々によく知られるし、風物詩としての混浴の楽しみを詠んだ句も多い
権力からの圧力は田舎の温泉にも押し寄せ、道後温泉は1635年藩が温泉支配に乗り出し、混浴を禁止

第6章        日本の近代化と混浴事情
第1節        明治の近代化と混浴禁止令
ペリー提督が帰国後提出した報告書に、混浴の風習を罵倒する一節がある ⇒ 下層階級が淫らで猥褻な押絵付きの大衆文学も不道徳な習慣であり恥ずべき指標だとしている
来日した外国人の間に、混浴を通した日本人蔑視論が相次ぐ
明治新政府は、早々に混浴禁止に乗り出す ⇒ 18686月には横浜で薬湯(薬草を入れた湯)の混浴が禁止され、8月には築地に外人居留地を開設するため銭湯での混浴を禁止、2階が慰安施設として使われていたため、目隠しをつけるよう厳達、翌年には「市中風俗矯正」の町触れを出し、猥褻な図画や見世物、興行を取り締まる
地方でも混浴禁止令が続々と出される
1872年、違式詿違(いしきかい)条例(軽犯罪法)制定  混浴や裸体での通行を禁止
禁止令が徹底せず、取締りを厳格化
日本における考古学の創始者と言われるエドワード・モースも、裸体を無作法と思わないのは文化の違いだと認めるなど、外国人も好意的に解釈しだした

第2節        地方の反発と画学生の裸体蔑視
地方によっては混浴禁止が緩み、有馬や城崎では混浴が復活、庶民によって無視する動きも出て社会問題化
湯治中心の温泉が観光客誘致を始め、ユニークな混浴を開発し売り出す ⇒ 別府温泉の砂湯、草津温泉の時間湯(高温の湯に3分間づつ間をおいて浸かる)、登別温泉の「打たせ湯」
1895年、裸体画論争 ⇒ 京都の内国勧業博覧会で初めて裸体画が公開。黒田清輝の「朝妝(ちょうしょう)」だったが、芸術の先進国であるフランスを崇拝するという思いで一致していたものの、一部に極端なヌードかぶれが現れ、特に日本女性の裸体は見られたものではないとの蔑視論が広まる。銭湯でも遠慮なかったため若い女性が混浴の銭湯を敬遠

第3節        「千人風呂」と「フジヤマのトビウオ」
昭和初期にはまだ文学や紀行文にも混浴の記録や報告が見られるが、次第に困難となり、混浴が復活するのは1948年、古橋広之進が火付け役 ⇒ 日本初の温水プールは1907年の東京勧業博覧会場のデモ用室内プール、1913年、伊東には北里万人風呂という温泉プールも出来(北里柴三郎が自費で建て町民に開放)、各地に千人風呂が広がる
同年1月のロンドン・オリンピックと同じ日に日本選手権を実施するために選ばれたのが伊東の千人風呂。それにあやかって各地に温水プールが氾濫。スポーツと混浴が合体

第4節        現代の混浴事情
1956年、売春防止法の制定によって、48年の公衆浴場法に基づく「風紀に必要な措置」をとる義務とは「男女の混浴の禁止」だとされる
東京オリンピックまでは、「外国から軽蔑されたくない」という思いから混浴が禁止されたが、オリンピックを機に日本はあらゆる面で激変、その変化が混浴の風景にも波及
地方では地元の風習に基づく混浴が現存
この国の混浴という習俗は性に関する極めてユニークな、そして精神性の高い文化を作り上げてきたことは確か。庶民のほうが役人たちより遙かに純化された生き方を貫いているという一例と言っていい


あとがき
日本における入浴の方法の変化を俯瞰してみると、混浴は有史以前から現代にまで続く原型といってよい。入浴の歴史の変化とは、原型としての混浴のバリエーションであり、日本人の中で入浴の習慣が定着するにつれて、混浴にどんな変化が見られたかを確認することである。本書が目指したのもその確認作業



混浴と日本史 []下川耿史
[評者]三浦しをん(作家)  [掲載]朝日 20130929   [ジャンル]歴史 
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みんなで楽しんでなにが悪い

 古代から現代までの「混浴」の歴史を、文献にあたって詳しく解き明かしたのが本書だ。温泉の絵はがきなど、混浴を楽しむ人々の図版も多数掲載。
 古来、日本では混浴が基本なのだそうだ。火山列島で、河原や海辺を掘れば湯が湧く土地もあるのだから、そりゃあ老若男女関係なく、とりあえずみんなで湯に浸(つ)かろうか、ということになるなと納得する。入浴は庶民の娯楽であり日常だった。
 もちろん、のんびり入浴してる場合じゃない事態に発展することもあった。古代では「歌垣(うたがき)」といって、たとえばきれいな泉のほとりで宴会をし、気に入った相手と仲良くなりもしたという。江戸時代には、「湯女(ゆな)」という性的サービスをする女性がいるお風呂屋さんもあった。
 また、寺や権力者が、庶民に風呂を振る舞いもした。それによって功徳を積むためでもあったし、福利厚生を充実させて民衆からの支持を得ようという目論見(もくろみ)もあった。庶民が入浴好きだからこそ、風呂を振る舞うことに意味と効果が生じたのである。
 こうして、入浴(=混浴)文化は延々と続いてきた。風紀を乱すとして混浴が禁じられだしたのは、江戸時代だそうだ。明治になると、西洋人に「野蛮」と見なされてはかなわんと、政府はますます混浴の禁止に躍起になった。しかし、庶民は聞く耳を持たなかった。のべつまくなしにムラムラするわけじゃなし、入浴という気持ちいいことをみんなで楽しんでなにが悪い。
 こうして、混浴はいまも生きのびている。「裸=卑猥(ひわい)」というのはあまりにも短絡的な見方だ。権力者の意向になど従わず、民衆はいつも楽しく、周囲のひとに親しみと適度な慎みの念を抱きながら、思う存分湯に浸かっている。
 真剣で痛快な、混浴文化論だ。読みながら、山中の温泉で混浴した、楽しくのどかな記憶がよみがえった。
    
 筑摩書房・1995円/しもかわ・こうし 42年生まれ。著述家、風俗史家。『遊郭をみる』『盆踊り 乱交の民俗学』


Wikipedia
西国三十三所は、近畿24県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称[1]。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
ファイル:西国三十三箇所1.PNG
「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し[2]、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

成立と歴史[編集]

伝承[編集]

三十三所巡礼の起源については、中山寺(二十四番札所)の縁起である『中山寺来由記』、華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。
養老2年(718)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人はこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国中山寺の石櫃に納めた。そして三十三所巡礼は忘れ去られていった[3]
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院安和元年〈968 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。

開創[編集]

しかしながら、札所寺院のうち、善峯寺(二十番札所)は法皇没後の長元2年(1029)創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない[4]
西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として[5]11世紀ごろに成立していた[6]。史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「行尊伝」と「覚忠伝」にみられる「観音霊場三十三所巡礼記」である。行尊の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在する[7]が、これに次ぐ覚忠の巡礼は確実に史実と考えられている[8]。行尊と覚忠の巡礼記を比較すると、三十三所の寺院の組み合わせは一致するものの順番が相違し、両者とも三室戸寺で巡礼を終えているが、行尊は一番札所を長谷寺、覚忠は那智山としている[9]。行尊自身はさておき、行尊伝の伝える順番での巡礼が確かに行われていたと見え、栂尾山高山寺に伝わる「観音丗三所日記」(承元5年〈1211〉)に収められた、長谷寺伝の書物をもとにして記したある覚書は、行尊伝と同じ順番での巡礼を伝えている[10]。この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの観音霊場に数えられていた[11]
庶民が11ヶ国にもまたがる33の霊場を巡る巡礼をすることは、中世初めにはきわめて困難である[12]。中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり[13]、一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている[14]

西国三十三所の確立[編集]

長谷寺は平安時代初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長が参詣するなど、重要な観音霊場であった。こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから、11世紀末頃(1093 - 1094頃)と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる[15]。だが、12世紀後半の覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となるには大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という2つの点を見なければならない[16]
前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院13回、後白河院27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている[16]
後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を裸形とし、奈良時代以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が寛和2年(986)に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば那智滝で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、妙法山に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である[16]。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、那智山には三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている[17]。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった[18]。三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった[19]

中世三十三所寺院における信仰と巡礼[編集]

西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺までに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記』以来、変化が無い。これら36の寺院は、規模をもとに4つに分類される[20]。一つ目は権門寺院に相当する有力寺院であり、興福寺南円堂(第九番)や醍醐寺(第十一番)など、6か寺が該当する。これらの寺院のうち、清水石山寺は三十三所に先立つ貴族の観音信仰において対象とされた各寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは、寺の本尊ではない堂の本尊であることから、たまたま庶民信仰を集めた堂舎が三十三所に連なったと見られている[21]
二つ目は地方の有力寺院で、青岸渡寺(第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体の3分の2を占め、三十三所の中心的存在である[22]。これらの寺院は多数の子院を従え、数百人、時には千人を越える僧を擁する地方の有力寺院[23]であり、寺院の本尊と三十三所の信仰対象とは多くの場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった[21]
各寺院で三十三所を支え、また三十三所巡礼を行ずる担い手とは、当初、山伏や前述の三十三度行者のような廻国巡礼行者、熊野比丘尼、各種の勧進聖、一般の僧侶といった宗教者の集団であって、こうした聖に導かれる形で民衆も巡礼を行っていた[24]。こうした宗教者は、各地で勧進を募っては、集めた願物によって堂舎の造営・修造、燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動を通じて一山の経済を支えていた[25]。庶民への勧進活動に当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖の経済的役割は大きく、寺院側も堂舎の造営・修造にあたって巡礼からの奉加に期待を寄せていた。そのため、室町時代中期(戦国時代)から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状や縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに、勧進状や縁起を携えて勧進を担った聖の拠点たる子院群が一山を支える状況が生み出された[26]。しかしながら、こうした勧進聖の集団の寺院内における地位は低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会や祭礼に参加することはできず[27]、有力とはいえ寺院内の一勢力に過ぎない勧進聖集団にもっぱら支えられていた[21]という事情は、各寺院における三十三所の位置付けを低いものにとどめさせた[28]。三十三所諸寺院の蔵する中世古文書は数千点に達するが、縁起や勧進状の類を除くと、三十三所に関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格の一つに過ぎなかった[23]
例えば、一番札所である那智の本尊は今日に至るまで那智滝本地仏たる千手観音であるが、三十三所としての本尊は如意輪観音である。千手観音とならんで如意輪観音が信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ、藤原宗忠の『中右記』にその様子が見える[29]。宗忠は、熊野権現本殿の前に設けられ、参詣者が参籠礼拝する「礼堂」に導かれ、社僧から如意輪験所の由縁を説かれたのち、滝殿とその傍らの千手堂に参詣しており、如意輪堂は古くからの観音霊山内の新たな霊場であった[29]
三つ目は京都市中の中小寺院で、六波羅蜜寺(第十七番)ほか4か寺が該当する[22]。これらの寺院は平安時代から盛んになった京都近郊の洛中洛外七観音霊場巡礼に由来する寺院である[21]。六波羅蜜寺の他、行願寺(第十九番)、頂法寺(第十八番)は三十三所寺院であるとともに、洛中洛外七観音の一角であり、こうした京都近郊の観音巡礼寺院としての性格は清水寺や石山寺にもあてはまる。こうしたことから、三十三所の成立は、京都近郊の観音巡礼を歴史的前提とし[30]、それらと地方の著名な観音信仰寺院との融合によるもであることが分かる[21]
四つ目の地方の小規模寺院は番外の3か寺が該当する。これら寺院はいずれも小規模な寺院であるが、三十三所巡礼の縁起にまつわる寺院であり、三十三所の隆盛とともに花山院の縁起が広く知れ渡り、参詣者を集めるようになったことで番外に加えられた[30]

近世における庶民化[編集]

江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、関東の坂東三十三箇所秩父三十四箇所と併せて日本百観音と言われるようになった。これにより東国の巡礼者が増え、この上方の観音巡礼が「西国三十三所」と言われるようになり、熊野詣から巡礼を始める人が多かったので第一番が紀伊国那智山の如意輪堂(現・青岸渡寺)に、東国への帰路に着きやすいということで第三十三番が美濃国の華厳寺という現在の巡礼順になったと考えられている。江戸時代初期から「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。
近年、札所寺院の宗派からの独立が著しい。巡礼者の増加に伴い、各寺院の財政が潤っていることを端的に示している。

巡礼[編集]

霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。
巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山院のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。そして結願のお礼参りとして、最後に信州の善光寺に参拝し計37か所を巡礼する。また、高野山金剛峯寺の奥の院、比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の東大寺の二月堂、大阪の四天王寺を番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。
第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000kmであり四国八十八箇所の遍路道約1400kmと比較すれば短いが、京都市内をのぞいて札所間の距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどである。19353月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」が阪急電鉄とタイアップして「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」を開催した。これには33日間で40万人以上が訪れたと言われている。[31]
現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い[32]

西国三十三所札所寺院の一覧[編集]

·         山号、寺号、通称・別称の欄は50音順ソート。開扉時期の欄は頻度順ソート。
山号
寺号
通称/別称
札所本尊
開扉時期
宗旨
所在地
1
那智山
那智山寺
3
2
紀三井山
金剛宝寺
護国院
紀三井寺
50年毎
和歌山県和歌山市紀三井寺1201
3
風猛山
開扉なし
和歌山県紀の川市粉河2787
4
槇尾山
槇尾寺
千手観音
51 - 15
天台宗
大阪府和泉市槇尾山町136
5
紫雲山
藤井寺
千手観音
毎月18
大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21
6
壺阪山
壺阪寺
千手観音
毎日
真言宗
(豊山系単立)
7
東光山
岡寺
如意輪観音
毎日
奈良県高市郡明日香村806
番外
豊山
徳道上人廟
真言宗豊山派
奈良県桜井市初瀬776
8
豊山
初瀬寺
十一面観音
毎日
真言宗豊山派
奈良県桜井市初瀬731-1
9
興福寺
(南円堂)
1017
奈良県奈良市登大路町48
10
明星山
御室戸寺
千手観音
不定
京都府宇治市菟道滋賀谷21
11
深雪山
上醍醐寺
(准胝堂)
515 - 21
京都府京都市伏見区醍醐醍醐山12008年に落雷により准胝堂が焼失したため、再建までの間、札所は下醍醐の大講堂(観音堂と改称)に移されている。)
12
岩間山
岩間寺
千手観音
不定
真言宗醍醐派
滋賀県大津市石山内畑町82
13
石光山
如意輪観音
33年毎
滋賀県大津市石山寺1-1-1
14
長等山
園城寺
観音堂
三井寺
如意輪観音
33年毎
滋賀県大津市園城寺町246
番外
華頂山
天台宗
京都府京都市山科区北花山河原町13
15
新那智山
今熊野観音寺
十一面観音
921 - 23
京都府京都市東山泉涌寺山内町32
16
音羽山
千手観音
33年毎
北法相宗
京都府京都市東山区清水1丁目294
17
補陀洛山
十一面観音
12年毎
京都府京都市東山区五条大和大路上ル東入2丁目轆轤町81-1
18
紫雲山
六角堂
如意輪観音
不定
天台系単立
京都府京都市中京区六角東洞院西入堂之前町248
19
霊麀山
革堂
千手観音
117 - 18
天台宗
京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17
20
西山
よしみねさん
千手観音
毎月第2日曜
善峯観音宗
(天台系単立)
京都府京都市西京区大原野小塩町1372
21
菩提山
穴穂寺
菩提寺
聖観音
33年毎
天台宗
京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46
22
補陀洛山
千手観音
415 - 21
高野山真言宗
大阪府茨木市総持寺1-6-1
23
応頂山
弥勒寺
千手観音
毎月18
高野山真言宗
大阪府箕面市粟生間谷2914-1
24
紫雲山
中山観音
十一面観音
毎月18
兵庫県宝塚市中山寺2-11-1
番外
東光山
花山院
菩提寺
尼寺のお寺
兵庫県三田市尼寺352
25
御嶽山
播州清水寺
清水さん
千手観音
毎日
天台宗
兵庫県加東市平木1194
26
法華山
聖観音
不定
天台宗
兵庫県加西市坂本町821-17
27
書寫山
西の比叡山
如意輪観音
118
天台宗
兵庫県姫路市書写2968
28
成相山
成相さん
聖観音
33年毎
真言宗
(古義系単立)
京都府宮津市成相寺339
29
青葉山
まつのおさん
不定
真言宗醍醐派
京都府舞鶴市松尾532
30
厳金山
竹生島宝厳寺
千手観音
60年毎
真言宗豊山派
滋賀県長浜市早崎町1664-1
31
姨綺耶山
千手観音
十一面観音
聖観音
不定
滋賀県近江八幡市長命寺町157
32
繖山
仏法興隆寺
千手観音
毎日
単立(天台系)
滋賀県近江八幡市安土町石寺2
33
谷汲山
たにぐみさん
十一面観音
不定
天台宗

札所本尊[編集]

像種[編集]

西国三十三所の札所本尊はすべて観音菩薩である。なお、札所本尊と寺院全体の本尊とは異なる場合もある。たとえば、4番施福寺では札所本尊は千手観音であるが、寺本尊は弥勒菩薩であり、21番穴太寺では札所本尊は聖観音であるが、寺本尊は薬師如来である。
観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)の像には、一面二臂の聖観音(しょうかんのん)の他に、十一面観音、千手観音など、さまざまな超人間的性質をそなえた変化観音(へんげかんのん)がある。西国三十三所の札所本尊を像種別にみると、以下のとおりで、千手観音像がもっとも多い。
·         千手観音 15か寺
·         十一面観音 7か寺
·         聖観音 4か寺
·         如意輪観音 6か寺
·         馬頭観音 1か寺
·         准胝観音 1か寺
·         不空羂索観音 1か寺
上記の合計は33ではなく35になっている。これは、31番長命寺において千手観音、十一面観音、聖観音の3体を本尊とし、「千手十一面聖観音三尊一体」と称しているためである。

札所本尊の秘仏化[編集]

西国三十三所の札所本尊は秘仏となっているものが多く、秘仏でないのは6番南法華寺(壺阪寺)の千手観音、7番岡寺(龍蓋寺)の如意輪観音、8番長谷寺の十一面観音、25番播州清水寺の千手観音、32番観音正寺の千手観音の5箇所のみとなっている[33]。これらの秘仏の中には、月1回、年1回など定期的に開扉されるものと、数十年に1回しか開扉されないものとがある。
2008年が西国巡礼の中興者とされる花山院の一千年忌にあたることから、同年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所において順次「結縁開帳」が行われている。この「結縁開帳」では、平素厳重な秘仏として公開されなかった札所本尊も開扉されることとなった。
以下は、2008年から2010年にかけての「結縁開帳」にて開扉される札所本尊のうち、前回の公開から半世紀以上を経ているものである。
·         10番三室戸寺(千手観音) - 結縁開帳では2009101 - 1130日開扉。前回開扉は1925年。
·         18番頂法寺(如意輪観音) - 結縁開帳では2008118 - 200915日、200933 - 412日開扉。前回開扉は1872年。
·         29番松尾寺(馬頭観音) - 結縁開帳では2008101日から1年間開扉。前回開扉は1931年。
·         31番長命寺(千手観音・十一面観音・聖観音) - 結縁開帳では2009101 - 1031日開扉。前回開扉は1948年。
·         33番華厳寺(十一面観音) - 結縁開帳では200931 - 314日開扉。前回開扉は1955年。
なお、3番粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏で、2008 - 2010年の結縁開帳でも公開の予定はない。粉河寺では、2008101日から1031日まで「結縁開帳」が行われたが、この際開帳されたのは本堂の本尊ではなく、本堂の隣にある千手堂の千手観音像であった。また、10番三室戸寺の千手観音像、33番華厳寺の十一面観音像などは厳重な秘仏で開扉の日も定められておらず、像の写真も公表されていない。

御詠歌[編集]

漢語の経典や声明(しょうみょう)と異なり和歌の賛仏歌として「御詠歌」が多くの宗派・寺院で採用されているが、この「御詠歌」の起源は花山院が西国三十三所の各札所で詠まれた御製の和歌を後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったものであるとされている[34]。西国三十三所の御詠歌は、宗派にもよるが近畿地方一円で死者を弔うために葬儀から四十九日法要まで親族によって毎夜唱えられたり、お盆の仏事において参加者全員で合唱する習慣などがある。



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