リッカルド・ムーティ自伝  Riccardo Muti  2014.1.20.

2014.1.20. リッカルド・ムーティ自伝 初めに音楽 それから言葉
Riccardo Muti Autobiografia Prima LA MUSICA, poi LE PAROLE       2010

著者 Riccardo Muti 1941年ナポリ生まれ。世界で最も称賛されているオペラ、オーケストラ指揮者の1人。卓越した経歴はイタリアを始め国際的に著名なオーケストラを指揮していることからも明らか。8605年スカラ座の音楽監督。71年からザルツブルク音楽祭の常連指揮者でもあり、現在ローマ歌劇場終身名誉指揮者、シカゴ交響楽団音楽監督

訳者 田口道子 国立音大声楽科卒後ミラノに渡り、ヴェルディ音楽院卒、ディプロマ取得。メゾ・ソプラノ歌手として活躍する傍ら、オペラ演出の基礎を学び演出助手としてミラノ・スカラ座を始め、世界の歌劇場で舞台経験を積む。日本では、新国立劇場、藤原歌劇団、サントリーホールで演出助手、再演演出家として数多くのオペラ制作に関わり、近年はオペラ演出家として活躍している。字幕の翻訳も多数手掛ける

発行日           2013.10.31. 第1刷発行
発行所           音楽之友社

始めに音楽があり、それから言葉がある。50年間にわたって輝かしく、比類のないキャリアを築き上げてきたマエストロ・ムーティが、70歳を前にして、音楽に身を捧げて世界中に音楽を供してきた自分自身の人生を振り返り、深く考えることが必要だと感じた。こうして、自然で魅惑的な言葉となって語られたこの自伝が生まれた。古き良き時代の幼少期に遡りながら、音楽という名の使命を仕事にすることになったきっかけや、いくつかの音楽院に転校し勉強した感動的な少年時代、劇場の稽古場の様子、舞台や舞台裏の出来事や卓越した音楽家や演出家――何人かの名前を挙げれば、カラヤン、リヒテル、ジョルジュ・ストレーレルなど――や、イギリス女王エリザベス2世やヴォイティヤ法王(ヨハネ・パウロ2)など著名人たちとの数えきれないほどの未発表のエピソードが盛り込まれている。
音楽家としての人生の様々な瞬間を語りながら、マエストロは特別な感情も吐露している。「もしもある日、あの世でワーグナーやベートーヴェンやスポンティーニに『リッカルド! 君は間違っていた』と言われたとしても耐えられるだろう。でも、私がこれだけ献身的な愛情を捧げてきたヴェルディにそう言われたとしたら、どれだけ恐ろしいことだろう」
ナポリ楽派の傑作を発掘する夢を語り、解決しなければならなかったことへの大きなジレンマに対する分析もしている。文献学か時代錯誤か? 勉強かひらめきか? 指揮者はオーケストラ奏者の単なる案内役かオペラの真の演出家か?

ジョルジョ・ストレーレル(Giorgio Strehler 1921-1997)
ヴィスコンティ亡きあとのイタリアが誇る名演出家。ミラノ・ピッコロ座の創立者の一人として知られ、一方、オペラの演出も1947年スカラ座の「椿姫」を皮切りに数々の名舞台を残した。197112月、ミラノ・スカラ座のシーズン開幕公演のアバド指揮、ストレーレル演出『シモン・ボッカネグラ』は、特に有名である。Ruggero Raimondiは、197312月の再演時にフィエスコを歌い、その後もアバド指揮、ストレーレル演出で、パリ・オペラ座、ウィーン国立歌劇場で歌った。

著者より
この本の題名に、有名なジョヴァンニ・バッティスタ・カスティの言葉を選んだ
私を知る人は私がいつも言っていることと違うと思うかもしれないし、読者は文中、ザルツブルクでの《コジ・ファン・トゥッテ》に関する記述で、私がいつも「言葉」から始めることを大切にしていると書いていることに気付くだろう。(私は劇場では音楽はもとより、完全な言葉の理解を強く要求するのが常である)
しかしここでは、70歳になるまで、50年間音楽に生きてきた自分の人生を振り返り、自分自身のことを顧みて読者の皆さんにお話しするために、言葉を必要としたのだ

I     おもちゃの代わりにヴァイオリン
産声を上げたのはナポリ。母が、将来世界で活躍するようになった時、ナポリ生まれだと言えばだれにでも分かってもらえる、として、兄弟5人ともナポリで生まれ、育ったのはモルフェッタ(ナポリの東、アドリア海岸の町)
両方とも故郷であり、自身はアプロ=カンパーノ(プーリア地方とカンパーニャ地方両方の出身)と呼ぶことを好む
父は有能な医者で、道具を使わずに患者の症候を見極める「名医の目」を持っていた。テノールの美しい声でよくアリアを歌い、子供に音楽教育を受けさせた
7歳でヴァイオリンを与えられ、ソルフェージュのレッスンを取らされたが、いずれも放棄、先生も諦めた方がいいと助言したが、珍しく母がもう1か月待って決めたらといい、ある晩突然何かが変わり、全ての音符を読むことが出来たし、ヴァイオリンも突然弾けるようになって、9歳の時神学校でヴィヴァルディの協奏曲イ長調を引いたことは地元新聞の記事となる
バーリのコンセルヴァトーリオ(音楽院)に入学、15歳で合唱の指揮をしてコンクールに優勝、無伴奏の合唱曲も書いたが、音楽家の道を歩むとは考えてもみなかった
途中からピアノに転向、55年にバーリのピッチンニ音楽院に転校 ⇒ ニーノ・ロータが学長で、ムーティの将来性に10点満点をくれて入学が決まる。午前は地元の高校に通い、午後に31㎞離れたバーリまで通う

II    指揮をしようと思ったことは?
57年、ニーノ・ロータの推薦でナポリのサン・ピエトロ・マイエッラ音楽院に入学、当時の偉大なピアニストだったヴィターレについて一から勉強し直すとともに、音楽のすべてを学ぶ
学長から、欠員を理由に、指揮を勧められて作曲科に入る
61年ピアノ科を最高点の成績で卒業した後、音楽院のオーケストラの指揮を任される
ヴィオラのために使うアルト記号の読譜は苦手
暗譜で指揮をしたが、リヒテルに「なぜ目は使わないのか」と尋ねられて以来、暗譜の習慣をやめる

III   いい加減にしろ!
62年、ミラノのヴェルディ音楽院に転校。声楽を勉強していた将来の伴侶と出会う
66年、最高点で卒業、自活のため声楽のカルボーネ女史のクラスで伴奏ピアニストに
67年、若い無名の指揮者のためのカンテッリ・コンクールで優勝、ベルガモのドニゼッティ歌劇場での指揮には緊張
優勝によって幾つかの演奏会が実現

IV   演奏家?
68年、フィレンツェでリヒテルとのコンサートに呼ばれる ⇒ オーケストラ部分をピアノに変奏してリヒテルと一緒に弾いたのを聴いてリヒテルから指揮のOKが出る
フィレンツェ歌劇場の専属指揮者に推薦され、69年結婚、リヒテルとニーノ・ロータがピアノを弾いてくれた
フィレンツェでの初めてのオペラは、69年冬の《群盗》、初めてヴェルディのオペラを指揮する
ロッシーニの《ウィリアム・テル》をカットなしで全曲上演したのは忘れられない思い出
68/69年シーズンの後、社会情勢が混乱、反啓蒙主義の気配が文化にも及んで閉塞状態を起こす。70/71年のシーズンに《カヴァレリア・ルスティカーナ》とレオンカヴァッロの《道化師》を選ぶと、市の議会から彼等にとって否定的な演目で芸術的にもレベルが低くスキャンダラスと非難された
73年、政治的な理由で芸術監督が更迭されると、ムーティは辞任を決意、オーケストラや合唱、バレエ団もストに突入、監督の人選は撤回された
Mutiはイタリア語で「唖者」の意
82年フィレンツェに別れ、ロンドン・フィルとフィラデルフィアの音楽監督を兼任
ロンドンでは、72年にウォルター・レッグのニュー・フィルハーモニア管弦楽団に招かれてデビュー。当時のロンドンは、オーケストラはたくさんあるのに演奏会場がロイヤル・フェスティヴァル・ホール1つだけしかなく、稽古の場所を確保するのが大変だった。稽古が終わると楽団員から首席指揮者になってほしいとの要請があり、以後10年に亘って引き受け、最後には名誉指揮者にしてくれた。70年代に過去のレベルを取り戻して聴衆を魅了、イギリスの最優秀オーケストラと認められるようになった。旧名称に戻ることを望み、ニューを取り外してフィルハーモニアになり、その時ムーティも「首席指揮者」から「音楽監督」に肩書きが変わる
指揮者と演出家の関係はデリケート ⇒ フランス語版とイタリア語版を取り混ぜた演出をしてみたり、音楽に影響を及ぼす事柄を指揮者を無視して決定したり、また歌手が歌っている間に無意味なパントマイムのような動作をつけるのは音楽に集中できなくなるので受け入れられない
一緒に仕事をしたかった演出家にイングマル・ベルイマンがいる。スカラ座管弦楽団とストックお便りありがとうございました。ホルムでコンサートをした後に知り合い、コンサートの感想を聞かせてくれたが、その繊細さと鋭さはまるで分析でもしているかのようで、オペラを一緒に制作して欲しいと頼んだが、最後の映画の撮影を終えたら引退するつもりだと打ち明けられ、一緒に仕事が出来なかったことは残念だった
フェデリコ・フェッリーニとも同じことが起こる。ニーノ・ロータを通じて知り合ったが、「言葉が歌になっていると、全くコントロールが出来なくなる」と言って断られた

V     運命のオーケストラ
カラヤンは、常に若者たちに心を許す指揮者で、才能があるかどうか見極めることができる人。我々50代以上の指揮者は少なからず彼に感謝しなければいけない。彼はオーケストラに新しい音を作り出したといえる。フレーズやその洗練された音作りはそれまで聴いたことのないものだったし、あの当時の音楽の傾向に彼は真っ向から立ち向かっているようだった
カラヤンは、私の活動やその評価を知って、71年に《ドン・パスクワーレ》の指揮者としてザルツブルク音楽祭に招いてくれ、以降40年間参加が続き、2010年にはフェスティヴァルの200回目の公演を記念して特別な勲章を受けた
ウィーン・フィルとの初めての出会いは715月。7月の《ドン・パスクワーレ》の下準備として、ウィーンのゾフィエンザールの稽古場で譜読みが行われた時のこと。ドニゼッティを演奏していながら、深く入り込むような音で、まるで交響曲の形跡が伺える。いままでとは違う世界に当惑されながらも魅了されつつ過ごした時間だった。オーケストラも私との共演をイタリアとドイツ2つの魂の融合のごとく考えて大歓迎してくれた。その音色はどのオーケストラよりも私の理想に近づきながら、彼等の理想的な「ビロード」のような音色を失うこともなかった
82年にモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮した経緯は、フィルハーモニア管弦楽団とアメリカ公演旅行中、突然カラヤンから電話が入り、指揮したことがあるかと聞かれ、「ザルツブルクではカール・ベームが指揮して大成功を収めており、自分で自分の首を絞めるようなことはしたくない」と断ったが、最後は「あなたが仰るなら」と言って引き受けたもの。ドイツの新聞では最高の評価を受ける。台本にはただ1カ所だけナポリと書いてある。物語がノイシュタット(新しい町の意)という町で実際にあった話なので、事実を明かすことを避けるためにナポリ(ギリシャ語でネオポリス、新しい町)に置き換えた。このプロダクションは88年まで6年間続けて上演。カラヤンは私を信頼して、カラヤンが《ドン・ジョヴァンニ》を指揮した後に私を呼んで、次のフェスティヴァルで再演するときに私に指揮をするよう求めた。午前中に《コジ・ファン・トゥッテ》のゲネプロをした後に《ドン・ジョヴァンニ》の本番を振ったこともある
ウィーン・フィルとの親密な関係は今日まで続いているが、シューベルトの交響曲全曲を録音した後、93年のニューイヤー・コンサートに招かれた。崇高なウイーンの「娯楽音楽(著者の表現では「気晴らしの音楽」)」に対する経験がなかったので受けるかどうか迷ったが、彼等はシューベルトはシュトラウスへの入口だと言い、彼等の意見によれば私はシューベルトを素晴らしく演奏するとのことだったので、私に断る理由がなくなってしまった。
その後も何回か出演したが今は断っている。なぜかというと、この種のコンサートは繰り返すことで、全てが儀式的になってしまう危険があるし、同じ曲を演奏することで最終的には演奏の創造性を消してしまう可能性があるから
92年のオーケストラ創設150年記念には、栄光のオーケストラとの神秘的な結婚を意味する金の指輪を授与され、01年にはニコライ賞(ウィーン・フィルの偉大な創設者であり最初の指揮者であるニコライを記念した賞)を受賞
オーストリアは私にとって第2の祖国になる ⇒ 国立歌劇場とアン・デア・ウィーン劇場にも出演、2年後には初の海外ツアーもあり、カール・ベーム引退後一連の演奏会の指揮は私が任された
ウィーン・フィルのスカラ座でのコンサートは、私がスカラ座を辞職して1か月後の055月で、誰もが私の難しい立場を知って緊張していたが、オーケストラは私のために私と共にいてくれ、私のスカラ座での最後の演奏となったが、まさに「運命の」と呼ぶにふさわしいオーケストラ

VI   新世界のための音楽
フィラデルフィア管弦楽団との関係は、まだロンドンにいた時期に仕事が始まる
71年、フィレンツェの五月音楽祭の音楽監督をしていたとき、ユージン・オーマンディ率いるフィラ管が公演に来ており、私はベートーヴェンの7番の数学的均整美を見せつけられているような指揮者としてのテクニックに魅力を感じ、オーマンディも私の稽古を聴いて感動、72年にアメリカに招いてくれたのがアメリカデビューとなる
デビュー演奏会のプログラムは、モーツァルトとプロコフィエフで、カリスマ的存在の首席ヴァイオリン奏者ノーマン・キャロルが、どうして同じ指揮者がモーツァルトをあれほど上品に演奏しながら、プロコフィエフのような乱暴で攻撃的な音楽を演奏できるのか、と尋ねに来た。76年首席客演指揮者に指名、4年後には音楽監督に迎えてくれた
80年からはフィラ管、フィレンツェ歌劇場、ロンドンの音楽監督を同時に務め、いずれかを断念することが避けられず、まずフィレンツェを去り、次いでロンドンを去った
私にとって一番の課題は現代音楽で、特にアメリカ音楽を演奏する機会が多かった
フィラ管とはレパートリーを広げることが出来た
ある時、首席ヴァイオリン奏者から、マエストロはイタリア人なのにどうしてレスピーギを演奏しないのかと聞かれ、自分の無知さ加減とイタリアでは彼の作品は演奏しない方が良いという世評があることに気付く。ファシスト政権に盲従していたと言われることによるのだろうが、マスカーニなども同じような立場にいたし、世界の偉大なオーケストラは全く困惑することなく演奏していたし、トスカニーニやカラヤンも指揮していた。早々に勉強し直し、《ローマ3部作》を録音する
レーガン政権の時、音楽家たちが核武装に反対する抗議コンサートの開催を願い出た ⇒ アメリカでは核武装はかなりの支持を得ていたので、大衆の意見に反対するのは容易ではなかったが、私はコンサートに賛成だった
91年のマルティン・ルーサー・キングの記念日のこと、アメリカの主要な文化施設では客席の顔触れは1つで、西洋文化圏の人の顔ばかりで、結局選ばれたエリートのために演奏しているという感じがしていたが、この日は合唱団が全員黒人で編成され、客席の90%が黒人だった。彼等は国家を演奏する前に、黒人の国歌とも言うべき賛美歌”Life Every Voice and Sing”を演奏して欲しいと言い、演奏を始めると白人も含めて全員が一斉に起立した。そのコンサートは私にとって人生の中で最も強い感動を覚え、人間的に何にも代え難い経験をした
フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックの古い劇場の正面にある床にはブロンズが嵌め込まれているが、そこには劇場に貢献した人の名前が刻まれている ⇒ ストコフスキー、オーマンディ、マリオ・ランツッァと共にムーティの名前も刻まれている
トスカニーニもここで指揮しているし、オーマンディを世界の3大ヴァイオリニスト、ミルシテイン、オイストラフ、アイザック・スターンが取り囲んでいる。イタリアでアメリカのことを軽々しく話すのは傲慢であると反省させられるような偉大な顔触れだ
ホールで唯一残念なのは音響で、反響板がないため、オーケストラピットから出て演奏すると音のバランスが崩れる。伝統的な劇場はオペラのためにとっておいて、オーケストラのためのホールを建てようと奔走、キンメル・パーフォーミング・アーツ・センターとして実現。図書館には私の名前が付けられた
フィラデルフィアには92年までの20年間いた。最後のコンサートはエルサレムで行うことを望み、オーケストラとの別れの曲にはイタリア器楽曲復興の大立役者マルトゥッチを選びアンコールで演奏。私が出だしを振ると、オーケストラは《ノットゥルノ(夜想曲)》を最後まで彼等だけで演奏

VII  ミラノ・スカラ座
86年、スカラ座の音楽監督就任 ⇒ オーケストラ再建のため楽団員から招かれる
シーズンのオープニングは、ロベルト・デ・シモーネ演出の《ナブッコ》、合唱のアンコール演奏で大反響を巻き起こす ⇒ トスカニーニが観客の叫びに応えずにアンコール演奏を拒否して以来、スカラ座では習慣としてアンコール演奏はしないことになっていた。次の歌い出しに合図をしようと指揮棒を挙げたところで「アンコール!」の叫び声が聞こえた、それも3回。意を決して合唱の前奏を始めると感謝の拍手が起こる
2001年のヴェルディ年は特別なシーズンになる ⇒ 『フィナンシャル・タイムズ』はその年のスカラ座のプログラムについて「世界中のオペラハウスの中で偉大なオペラ作曲家に真に貢献した唯一の劇場」と書いている
73年にウィーンで《アイーダ》を指揮した時、ハンス・スワロフスキーは何よりも私の「忠実さ」を称賛すると書いた
90年、スカラ座として26年振りに《ラ・トラヴィアータ》を上演したときも大反響。カラヤンの最後の上演は激論を招いていたし、最後の公演のまま手を付けずにおくことを望む声が多かったが、音楽の歴史を考慮すれば劇場のプログラミングは幅広いものであってしかるべきと考え、思い切って上演にチャレンジすることを決断、過去の偉大な歌手に対抗するために考え付いたのが若い歌手の起用で、何回ものオーディションの末にヴィオレッタにはティツィアーナ・ファッブリチーニを、アルフレードにはロベルト・アラーニャ、ジョルジョにはパオロ・コーニを選ぶ
劇場は拍手の嵐に覆われ、翌日の新聞には「親友が家に戻ってきた」と言った記事が掲載、作品は繰り返し上演され、毎回成功
2000年の《イル・トロヴァトーレ》では、慣例となっている演奏法の問題に立ち向かう ⇒ 劇的な効果を期待して台本を変えてしまう演出があるが、ヴェルディは劇場を熟知した偉大なる演出家であり、自分が書いたように演奏することを指揮者に要求している
私は自分の音楽家人生をかけて、ヴェルディの要求するものが何か試してきた。間違っていたかもしれないが、間違っていたとしたら本当に残念。もしもある日、あの世でワーグナーやベートーヴェンやスポンティーニに『リッカルド、君は間違っていた!』と言われたとしても仕方がないと耐えられるだろうが、もしもこれだけ献身的な愛を捧げてきたヴェルディに言われたとしたら、私はオーケストラ・ピットに隠れて彼の前から姿を消してしまうのではないか。何と恐ろしいことだろう
01年の《オテロ》ではピッチを通常よりも低くし管楽器を436にまでしたが、ヴェルディも「432にしても音色や演奏の輝きが失われることがないばかりか、反対に気品のある音色に溢れた音になって、荘厳な演奏部分で高い声の合唱の金切り声を避けることもできる」と言っているように、音色が暗くなり輝きが抑えられて濃厚な音色に感じられる
今日ピッチを高くするのは音色の輝きを増すためで、ウィーン・フィルでさえも長い間高いピッチで演奏していた
ピッチをいくつにするかの判断は、歌手のことを気にかけるだけでは十分ではない内容を含んでいる
パヴァロッティとの関係は、85年スカラ座で《清教徒》の準備中に衝突して、最後のリハーサルの前に指揮することを断念して以来20年振りに《ドン・カルロ》で共演することになったが、彼は迷いつつも引き受けて私のためにオペラを勉強してくれた。全力投球で稽古に励み、暗譜の困難なところでは楽譜を開いて確認していた。外部では彼がこのオペラを知らないとか、困難に陥っているとか噂され、初日の公演でアクート(超高音)で音がかすれたことに対し観客の一部から激しい非難の声が上がる。ひとたび劇場が熱してくると、他の歌手まで小さな失敗を犯す。この出来事は、公演そのものに対しても残念でならない
95年のストライキでは、《ラ・トラヴィアータ》全曲をオーケストラの代わりにピアノで伴奏 ⇒ 雇用問題がこじれ、午後の市長との交渉で埒があかず、開宴30分前に公演中止を伝えようと総裁が舞台に上がったが、観客のブーイングで中断、ムーティ自身が舞台にピアノを置いて弾くということを決断。楽屋にあった1/2サイズのグランドを傾斜舞台に固定し、諦めて外に出た観客を呼び戻したが、合唱団が反対したため、合唱団を抜きにして始める。歌手との稽古ではいつもムーティがピアノを弾く習慣だったので、訓練は出来ていた。終演後は大拍手がいつまでも続いたが、夜が更けると、幸福感が感じられず、翌朝記者会見を開き、オペラを縮小して上演したことは悲しい事実で、自分が極限状態でとった態度は決してオーケストラに対抗するものではなく、オペラを見ようと楽しみにしている観客のためだったと説明。その後もオーケストラとの素晴らしい関係は続き、多くの仕事をしたが、あの日を境にオーケストラとの信頼関係に何かしら亀裂が入ったと思う
スカラ座時代の2000年エリザベス女王2世とお目かかる ⇒ イタリアとイギリスの曲によるコンサートの時で、プログラムにエルガーの《南国にて》を入れたのも偶然ではない。終演の拍手の後で、私が女王の控えの間に表敬訪問することになっていたが、それに反して、20代の若者でなければ危ないほどの曲がりくねった長い距離を歩き女王が私の楽屋を訪れることになる。大急ぎでどのように接したらいいかと聞くと、”Her Majesty”ではなく”Ma’am”(マダム)と呼ぶように言われ、私の耳にはブーリア方言の「マンマ・ミーア!(なんてこった)」に聞こえてしまう。ミラノ市長も一緒だったが、途中からは女王夫妻とで、7分の予定が23分にもなった。別れる前に私に大英帝国勲爵士の称号をくれた。爵位のトップは女王。証書がローマの政府からミラノ、スカラ座の守衛を通して手元に届くまでにかなりの時間がかかった
私のスカラ座との関係は、オーケストラや合唱との芸術的な相互理解――常に卓越していた――とは何ら関係のない、様々な事情から激動の終りを遂げる ⇒ 台風が襲い掛かったようで、このことを考えたくはない。私は素晴らしい時期のみを思い出にしたい。特にその素晴らしく生き生きとしていた時期に私の人生が、劇場と深く結びついていたことは誰もが認めてくれているのだから (経緯についてはWikipedia参照)

VIII ナポリ魂
特別な結びつきを感じている劇場がナポリのサン・カルロ歌劇場。カンテッリ・コンクールで優勝した時に招いてくれ、限られた練習時間にも拘らずオーケストラも聴衆も温かく迎えてくれたのは、私がナポリ生まれだということを知っていたからに違いない
ロッシーニが何年か劇場長をしていた世界で最も美しい劇場

IX   出会い
音楽家は孤独だが、特別な人物との出会いもある
ヨハネ・パウロ2世とは何回かお会いする ⇒ 初対面はスカラ座ご訪問の時
ベネディクト16世にはまだお会いしていないが、現在の宗教音楽の衰退に対する心からの懸念を書いた
歌手で特別な親しみをもって思い出すのはレナータ・テバルディ ⇒ 一緒に仕事が出来なかったのは残念だが、スカラ座によく私のリハーサルを聴きに来ていた。何年もピアノの上に飾ってあったというヴェルディの手紙を私にプレゼントしてくれた
74年に《マクベス》を企画した時、かつてデ・サバタ指揮で聴いたマリア・カラスの声が忘れられず、既に何年も前から歌わなくなっていることを知りながら、他の歌手を主役に起用する気になれないでいたところ、突然電話が鳴って、「私を探していらっしゃると伺いました。私のことを考えてくださって嬉しいですが、もう遅いです。」なんと本人が聞きつけて電話してきたのだった
共演したソリストの中でも特別な友人はリヒテル ⇒ 私生活でも公でも人とは違っていて、音楽でも同じように「不意」を好み、カデンツや予測もしない音の変化をつけてびっくりさせることが多かった。ジェノヴァでラヴェルの《左手のための協奏曲》を共演したとき、演奏中に彼は音を度忘れ、私は瞬時にオーケストラをコントロールできたし、彼もすぐに思い出して演奏を続けたので、観客が気づくようなミスには至らなかったが、彼はこのことを大変気にかけ、アンコールでもう一度この協奏曲を引き直したいと頼んできた。オーケストラの何人かが繰り返すのは嫌だと言ったが、聴衆に押されて再演、全てを最高の状態で終えた。翌日ジェノヴァの駅頭、リヒテルが近づいてきてスコアを出すように言い、昨日一瞬止まった箇所を開け、そこに丁寧に自分の名前を書いた。「毎回ここで私が間違ったことを思い出せるようにね」と続けた、偉大なアーティストから謙虚さについて教えを受けたと思った
ロベルト・カサドシュとは、若い時にミラノの国営放送RAIでサン=サーンスの《ピアノ協奏曲第4番》で共演。当時はまだRAIにも偉大なオーケストラが存在していた。無謀な政治的操作によってこういういくつものカリスマ的存在のオーケストラがイタリア国内から消えてしまうとは想像だにしなかった。カサドシュのパート譜には1920年代からの録音した日付と名前が書き込まれ、最初がトスカニーニ。温かい人間性は彼の偉大さに繋がっていたし、素晴らしい知性の持ち主だったソリストと自分の経歴の初めの頃に共演できたことは幸せだった
ギレリスとはベルリンで、ベルリン・フィルとともに《皇帝》を演奏 ⇒ 第2楽章の出だしで、音が辛うじて続いて行くほどのゆっくりしたテンポで弾き始め、オーケストラ奏者たちが困惑。後で、”adagio con poco mosso”と書いてあるのになぜこれほど遅いテンポなのかと聞いたら、「これでよいのだ」とこの世のものではない無限の空間を見るような目つきで答え、「音は他からの光で輝いている星のようでなければならない」と言った。その何か月後に亡くなられたが、別の場所から音楽を眺めていた人の苦悩をすぐに理解できなかったことを恥ずかしく思った。彼は自分の道のりを完成させ、その旅を終えたことを感じたのだろう。もはや初めて知り合った時の、火山のように強烈な印象の彼ではなかった
ゼルキンとは、フィラデルフィアでの《皇帝》で共演、第1楽章でペダルを踏むとき、まるでピアノを蹴飛ばしているような感じだった。反対にアラウはイコンのようにピクリともしない平静なイメージが残っているが、誰よりも節度があった。ベートーヴェンの《協奏曲第4番》の出だしはあまりにも素晴らしくて私は動揺し、そのうち混乱を来した。この同じテーマをいったいどのようにオーケストラが引き出したらよいのかと不安になったのは、舞台に出る間際に彼は”looking forward”(期待している)と言ったこともあった
共演とは別に、ずば抜けたソリストの思い出としてはメニューインがフィラデルフィアでベートーヴェンの協奏曲の第2楽章を弾き始めたときのラルゲットのフレージングは絶対忘れられない
ベルリン・フィルとの思い出 ⇒ 私のデビューは71年、バルトークの《ピアノ協奏曲第2番》でポリーニがソリストとして共演した。レコード録音でもブルックナーの交響曲4番、6番、ヘンデルの《水上の音楽》、ハイドンの《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》などの傑作の数々を大切にしている。最大の思い出は806月、大きな楽器編成の楽曲《カルミナ・ブラーナ》の演奏で、作曲者のオルフが聴きに来ていた。彼は私の演奏に衝撃を受けて、「2回目の初演」になったとの献辞をくれた。彼はミュンヘンに戻ってから私の演奏を思い出して多くの強弱記号を書き直した。私が会いに行くと下書きの楽譜をくれたが、強烈な政治活動や歴史的な批判とは無縁な優しい人物に見えた

X     将来の展望
自分の経験と蓄積を、特にコンセルヴァトーリオを卒業したての若者たちに伝えていくことが必要と考え、ピアノを弾きながら2日後にスカラ座で上演されるオペラの解説をする「レクチャー」や、曲の聴き所を説明する公開リハーサルを始める
04年、若者で編成したオーケストラを創設、フィレンツェへの愛情からルイジ・ケルビーニの名を冠し、エミーリア・ロマーニャ州の最北端の町ピアチェンツァの歌劇場と、最南端の町ラヴェンナのフェスティヴァルに「息子」として育てられ、州を代表するオーケストラになった ⇒ 「育成」が目的なので、3年以内、30歳までに限定
アッビアーティ賞受賞
我が国のように芸術に対する指針に欠ける国においては、若者たちを実際に養成する機会を与えるのは重要なこと
ザルツブルク音楽祭の芸術監督フリムが参加を打診、それを機会に「ナポリ楽派プロジェクト」が誕生。カラヤンが73年に設立した聖霊降誕祭期のフェスティヴァルを復活させてそれに参加。私はずっとナポリ楽派の知られていない作品を再発掘して発表する協力者を探していたが、イタリアでは宙に浮いていた企画がオーストリアでは07年からペンテコステ(五旬節)「ナポリ音楽祭」として実現、5年連続でナポリの過ぎ去った栄光に焦点が当てられた ⇒ 11年のメルカダンテ(17951870)で終了。ドニゼッティやヴェルディへと続く大きな原動力となったバーリ近郊で生まれナポリで音楽を学んだ作曲家
「ナポリプロジェクト」のそもそものきっかけは、1967年スカラ座の芸術監督をしていたシチリアーニがスカルラッティとチマローザを指揮するようにと招いてくれた時、スカルラッティ音楽堂で「ナポリ楽派の世界」に夢中になったことで、長い年月熟成していた企画をフリムと実現することになったもの
105月は、モーツァルト(175691)とヨンメッリ(171474)の同名の曲を取り上げたが、両者の様式の違いをよく理解して、全員イタリア人のケルビーニ管弦楽団が崇拝するモーツァルトの生誕地で立派に演奏する姿を誇りを持って眺めた
01年にはエレヴァンとイスタンブールで24時間の差でコンサートを行う。アルメリ()アの飛行機でトルコの地に降り立ち、両地に橋を架けることを目的に演奏
若者に教えたいと努めていることは、オーケストラの一員として並んでいても室内楽の理想を追いつつ「ソリスト」としての努力を惜しまないことと、プロとしての倫理的態度を身につけることの2
プロのオーケストラの団員にも日常的に要請していることだが、オーケストラの演奏は共存するということの民主的な姿であり、オーケストラは社会集団のシンボルであって、誰が隣にいても惑わずに、自分のパートを弾かなければならないし、特に交響曲のように素晴らしい集団としての演奏をするときには、一緒に協力し合う精神を持つことが大切
演奏家の集団を作るよりも、人々に音楽を理解することによって得られる大きな喜びを楽しんでもらいたい
他の芸術と音楽の違いは、音楽には不可解な割合が多いという点 ⇒ 音符を並べた楽譜を表面的に演奏するだけでは音楽の表現にはならない。演奏表現そのものが不確定なもので、その場その場で一定ではない
モーツァルトの《交響曲ト短調》(25)の最初の部分は想像を絶するほど出だしが難しい曲の1つ、それは有名な「モチーフ」が理由ではなく、第1小節目の伴奏が難しい。伴奏形の動きは目がくらむほどなのに、静寂の中で直ちにあの幻想的なモチーフの雰囲気を作り出せるように、ヴィオラだけが不安一杯で弾き始めなければならない。伴奏部分をもう数小節長くしなかったのかという疑問もあるが、モーツァルトは意識的に前奏を短くすることによって緊張感をみなぎらわせ、爆発するほどの力を与えようと望んだのではないか。音を全員揃って正しく弾こうとするヴィオラ奏者の心境を考えてみて欲しい

XI   音楽に境界はない
今日はシカゴ交響楽団との協力が始まる最初の日
08年にはヨーロッパ・ツアーも一緒にするほどの関係だった
音楽監督を引き受けるに際し1つの重要な前提を理事会に提示 ⇒ 文化から遠ざかっている人々に広く音楽の喜びを伝えることに尽力したいと言い、まずは刑務所で演奏会を行ったが、その経験を活かし音楽の喜びを伝えていこうと決めた
演奏家は創造する立場ではなくて単なる「表現者」でしかないのだから、なにか決定的なものを残すことはできない。なぜなら、表現の基準や趣向は年齢を重ねることによって変わってくるものだから
高校の哲学で教わったニーチェの言葉が心の拠り所となり、人生でいつも私の助けになった、「過ぎ去ったことを回想するのではなく、心に決めたことを実現させていくことである」

Wikipedia
ムーティについては、別ファイル『New Year's Concert 2000_Riccardo Muti_ Vienna Philharmonic Orchestra』参照

スポンティーニについては、別ファイル『』参照


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