死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日  門田 隆将  2014.1.20.

2014.1.20. 死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500

著者 門田 隆将 1958年高知県生まれ。中央大法卒後、新潮社に入社。週刊新潮編集部で記者、デスクなどを経て、20084月に独立。政治、経済、司法、事件、歴史、スポーツなど幅広いジャンルで活躍。主な著作に『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所/2012)および『太平洋戦争 最後の証言』3部作(小学館/2011年~12年)などがある。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)で第19回山本七平賞

発行日           2012.12.4. 第1版第1刷発行               12.24. 第2刷発行
発行所           PHP研究所

巨大地震と大津波の中で、何が起き、現場が何を思い、どう闘ったのか、その事実だけを書いた。吉田の下、最後まで諦めずに、使命感と郷土愛に貫かれた壮絶な闘いを展開した人たちの物語

プロローグ
福島原発は、戦前磐城陸軍飛行場で、30mの切り立った断崖の上にあった
福島原発1号機の着工は1966年、東電で原発誘致に特に熱心だったのが福島県伊達町出身の木川田一隆社長(当時)。冬場は出稼ぎに頼らざるを得ない福島県浜通りの貧困さと無縁ではない
1号機はGE2号機はGEと東芝の合作、3号機は東芝、4号機は日立 ⇒ 当初はGEの社員が”GEに駐在していた

第1章        激震
2011.3.11. 14:46pm 所長室にいた吉田は、07年の中越沖地震の際本店の原子力設備管理部長としての経験を踏まえ、その教訓から8か月前に設置されたばかりの免震重要棟の緊急時対策室に入る
1,2号機の当直長だった伊沢は、自動緊急停止し、電源がディーゼルに切り替わったことを確認

第2章        大津波の襲来
原子炉建屋は海面から10m ⇒ 歴史上これを超える津波は来たことがない
津波の襲来で非常用電源がストップ ⇒ あり得ない事態

第3章        緊迫の訓示
まず考えたのが電源の復旧で、自衛隊に消防車の手配を要請

第4章        突入
冷やすための電源の消失で、電源を必要としないポンプを流用して水を入れるしかない
原子炉建屋が津波で破損、中に入る二重扉の前で放射線検知器の針が振り切れ、魚が死んでいた
現場の当直長以下が防護服を身につけて、建屋内の消化ポンプの弁を開けて「水流を確保するライン」を作っておいたことが後に最も重要な意味を持つ ⇒ 暗闇の中で、メルトダウンが起こっているかもしれない建屋に入っていくのは相当の覚悟が必要。1号機の燃料が壊れ線量の増大により午後11時過ぎには「立入禁止」に

第5章        避難する地元民
近辺の民家は津波の襲来で避難
富岡町では、午後4時過ぎ、天候が急変して雪が降り始め、あっという間に横殴りの雪になったと思うと、間もなくぴたりとやみ、濃い色をした薄い煙のような雲がもの凄いスピードで海に向かって流れる

第6章        緊迫のテレビ会議
夜中の本社とのテレビ会議で初めて吉田が怒声を上げる ⇒ 放射線障碍の予防薬であるヨウ素剤を40歳未満には飲ませることが原子力安全委員会によって決められている(40歳以上では被爆により誘発される甲状腺発がんリスクが認められない)が、それでいいのかとの確認に対し本社の態度がはっきりしなかったため
現場は、いかにして水を注入して原子炉を冷やすか、格納容器を爆発させないか=ベントに集中、まずは真水、海水は10mもの高低差があり、そう簡単には使えない
原発に設置された消防車3台のうち津波で2台は破損、使えるのは1台のみ

第7章        現地対策本部
原子力事業者を所管し指導監督する立場にあった経産省が自衛隊のヘリで現場上空に行ったのは夜10時過ぎ、それから大熊町のオフサイトセンター(災害時の対策の拠点、原発から5)に向かうが、電源がなく真っ暗、現場に残って監視していなければならない保安検査官から報告を聞く
べントの必要性が迫るが、裏付けのデータが全く取れない状況 ⇒ 漸く東電から格納容器内の圧力が設計の2倍近くになっているデータが出され、経産省もベントを了承、海江田経産大臣が記者会見で公表。元々ベント自体は事業者の判断でやること、政府が前のめりになると東電の責任が薄くなる。東電は政府の承認の範囲内でやったとの姿勢を取る
ベントの必要性を官邸で説き続けたのは原子力安全委員会の斑目春樹委員長
7:00pm 官邸に原子力災害対策本部立ち上げ 7:18pm 原子力緊急事態宣言発動
対策本部には、現場の詳しい情報がなく、東電から派遣されたフェローも現場を知らなかったが、格納容器内の圧力が上がっていることから、ベントの可能性を議論

第8章        「俺が行く」
現場ではベントしかないと覚悟、手動でバルブを開けなければならないので、誰が行くか
既に原子炉を操作する中央制御室の線量も増嵩
先輩の当直長たちが志願、ベントの体制を整える

第9章        われを忘れた官邸
東電の原子力本部長の武藤副社長は、渋滞に巻き込まれ、液状化の中に膝までつかりながらヒッチハイクをしてようやく木場から福島に飛び、18時半に現場に到着
12日未明、菅首相が現場に来ることが決まり、現場は困惑 ⇒ 予備の装備もないまま免震棟に来られては、免震棟が汚染されてしまうのに、そういう認識が官邸にはなかった
ヘリ機内の菅首相の苛立ちは凄まじく、斑目もただ質問に答えるだけ
菅の口からは、東工大には専門家がいないのかと質問、後に東工大の友人やOBが官邸に呼び込まれたのは有名
現場では武藤以下の面々が汚染の中で首相を迎えるが、いきなり首相の口から「なぜベントをやらないのか」と怒声が飛ぶ
汚染検査も無視して免震棟に入り、吉田所長と対面、決死隊を作って対応しているとの答えに、漸く納得して他の被災地の視察に飛び立つ
菅にしてみれば、東電から官邸に派遣されたフェローが現場の状況を正確に答えられないところから自ら現場に飛ばざるを得ず、吉田所長の説明で漸く納得したということ

第10章        やってきた自衛隊
11日夕刻、吉田の要請に従って郡山の駐屯地から自衛隊の消防車が出動、翌朝日の出と同時に現地に到着、首相の到着とぶつかって1時間半ほど時間を浪費するが、原子炉冷却のために決定的な役割を果たす
既に当直長らによって開かれた注水ラインに従って、自衛隊と原発の消防車をリレーして貯水槽の水を原子炉に注入

第11章        原子炉建屋への突入
126:50am 海江田大臣から「ベント実施命令」 ⇒ 住民の避難完了を確認した後、9:04amベント指示、暗闇の中で線量を浴びながら短時間に終わらせなければならない作業で、コンクリートの壁の内側は線量が高過ぎて入れず

第12章        「頼む! 残ってくれ!
周辺の村では、初めて聞く「ベント」が何のことかわからず、ただセシウムの数値に驚くのみで、指示に従って避難を開始
若い運転人たちが手持無沙汰で、重要棟に戻ろうとするのを、現場の当直長が押し留める

第13章        1号機、爆発
1215:36pm 1号機の建屋爆発 ⇒ 大砲が10門一斉に発射されたようなもの凄い衝撃だったが、何が起こったのか誰にも分からず、建屋の5階が無くなっているのに気付いただけ
午後7時ごろ、3号機に海水を注入 ⇒ 官邸から再臨界になるのを恐れ海水注入に疑念が出て、本店から中止の命令が来るが、現場は他に方法が無く無視

第14章        行方不明40
1411:01am 3号機で水素爆発 ⇒ 海水注入の消防車破壊

第15章        一緒に「死ぬ」人間とは
残った消防車を遣り繰りしたが、2号機の圧力も上昇して水が入らず、燃料棒が露出していることは間違いなかった ⇒ 最期を覚悟し、協力企業の人たちには一旦引き取ってもらうこととし、一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべる

第16章        官邸の驚愕と怒り
15日未明、2号機の圧力上昇に対し、東電清水社長から全員撤退の連絡が入り、官邸は騒然。実際は連絡を受けた官邸が先走ったもので、全員撤退などは考えていなかった
官邸と東電の連絡の悪さに、一体となった統合本部を東京本社に設置。菅が本部長となって、「撤退などありえない。逃げても逃げ切れない。60になる幹部連中は現地に行って死んだっていい。俺もいく、社長も会長も覚悟を決めてやれ!」とぶったため、吉田以下の現場は反発すると同時に虚しさを覚える

第17章        死に装束
15日早朝、2号機の格納容器の圧力を調節する圧力抑制室の圧力が0となり、何等かの損傷により全号機の中で最も多くの放射性物質を放出
吉田は、免震棟にいた600人のうち最少人数を残して退避を命じ、残った者69人は覚悟を決めた

第18章        協力企業の闘い
一旦避難したが、残った69人では注水活動にも限界が見え、再度現場に戻ってくれる志願者を募る
協力企業の作業員は、戻りたくても社長の指示がないと行けず、特殊技能を持つ人がやっと例外を認めてもらって戻るが命懸け

第19章        決死の自衛隊
各原子炉には隣接して使用済みの核燃料を保管しておくプールがあり、プールが損傷して水が無くなると核燃料がメルトダウンを起こす恐れがあった
16日、東電から改めて自衛隊に支援要請があり、翌日ヘリからの水の投下を実施 ⇒ ホバリングは数値が高過ぎたため出来ず、鉛の防護服を着てより高度からの移動散水方式を取る
地上でも自衛隊の消防車による放水実施

第20章        家族
18日になって初めて家族と連絡が取れた防災安全グループの佐藤眞理は、「まだ生きていたのか」と言われ絶句、免震棟での作業に没頭していたのと携帯を無くしたために連絡の取りようがなく、漸く手帳の片隅にあった息子の携帯にかけて連絡が取れた。家族は完全に眞理が死んだものと諦めていた
死を賭して作業に没頭していた者たちは、家族のことが頭から消えていた。連絡も取れず、地域の情報も全く入ってこない中、漸くやり残したことを思い出す ⇒ ある者は妻への感謝の言葉であり、ある者にとっては家族との別れの言葉だった

第21章        7千羽の折鶴
4号機点検のために地下に入って津波に巻き込まれ、3週間近く経った30日に同僚と共に遺体で発見された運転管理部のプラントエンジニアは、むつ市出身の21歳、08年東電東通原発要員として入社し福島第一に配属。地震直後に携帯から安否を確かめる電話をしてきたが、翌日の新聞に行方不明で載る ⇒ 東電バッシングの最中、「2人が現場から逃げた」という心無い情報が飛び交い、「吊し上げろ」とテレビでの発言もあって、もう1人の被害者の妻がショックを受けることもあった
無事を祈って折り始めた鶴が7千羽になろうとした頃東電から遺体発見の連絡が入る
死因は溺死ではなく、多発性外傷ショック死で、激しい水の勢いに弾き飛ばされて亡くなったことが想像された

第22章        運命を背負った男
吉田が家族と連絡を取ったのは1週間後。危機的な状況に加えて次々と爆発が起こる中で、家族にとっては吉田が生きているかどうかということが最大の関心事となるほど重い空気の中にいた。家に戻ってきたのはその1か月後、2泊でまた現場に戻る
8か月後に食道がんステージ3の宣告を受け、所長を退任、万雷の拍手で送り出される
122月手術、7月に脳内出血で倒れるまでの間にインタビュー ⇒ 格納容器が爆発すると、最大で計10基の原子炉がやられるので、単純に考えてもチェルノブイリx10”という最悪の事態を回避するために奮闘してくれた人たちに、単なる感謝という言葉では表せないものを感じる

エピローグ



日本を救った男吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死    門田 隆将 
 [2013.08.21]
東日本大震災の際、福島第一原発事故の収束作業を現場で指揮した故・吉田昌郎元所長。吉田氏への長時間インタビュー、多くの関係者取材を行ったノンフィクション作家が、改めて吉田元所長の闘いを振り返る。

「お疲れさまでした。本当にありがとうございました」
79日午前1132分、吉田昌郎・福島第一原発元所長が亡くなったという一報を吉田さんの親友からもらった時、私はそうつぶやいて胸の前でそっと手を合わせた。
吉田さんは、最後まで原子力発電に携わる人間としての「本義」を忘れず、「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害に至る事態をぎりぎりで回避させ、文字通り、「日本を救った男」だった。今も東京に住み続けている一人として、吉田さんへの心からの感謝の念が込み上げてきたのである。

国家の「死の淵」で闘い、「戦死」した男 

吉田さんは、昨年27日に食道がんの手術を受け、回復するかにみえたが、726日に今度は脳内出血で倒れ、二度の開頭手術とカテーテル手術を受けた。
しかし、がん細胞は肝臓へと転移、最後は、肺にも転移し、太腿に肉腫もでき、肝臓の腫瘍はこぶし大になっていた。
そのことを聞いていた私は、「いつかはこの日が来る」ことを覚悟していた。吉田さんは暴走しようとする原子炉と闘い、過剰介入を繰り返す首相官邸とも闘い、時には、理不尽な要求をする東京電力本店とも闘った。自分だけでなく、国家の「死の淵」に立って究極のストレスの中で闘った吉田さんは、58歳という若さで「戦死」したのだと私は思っている。
昨年7月に脳内出血で倒れる前、私の二度にわたる都合4時間半のインタビューを受けてくれた。それは、あらゆるルートを通じて13カ月も説得作業を続けた末のインタビューだった。
初めて会った吉田さんは、184センチという長身だが、闘病生活で痩せ、すっかり面変わりしていた。吉田さんは、それでも生来の明るさとざっくばらんな表情で、さまざまなことを私に語ってくれた。
前述のように、あそこで被害の拡大を止められなかったら、原子炉の暴走によって「チェルノブイリ事故の10倍」規模の被害になったこと、そして、それを阻止するべく原子炉冷却のための海水注入活動を行い、汚染された原子炉建屋へ突入を繰り返した部下たちの姿を詳細に語ったのである。

官邸、東電上層部の命に反して、断固として海水注入を続行

吉田さんは、いち早く自衛隊に消防車の要請をし、海水注入のためのライン構築を実行させ、1号機の原子炉格納容器爆発を避けるための「ベント」(格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出する緊急措置)の指揮を執っている。空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身に着けての決死の「ベント作業」は、すさまじいものだった。
その決死の作業を行った部下たちは、私のインタビューに、「吉田さんとなら一緒に死ねる、と思っていた」「所長が吉田さんじゃなかったら、事故の拡大は防げなかったと思う」。そう口々に語った。自分の命をかけて放射能汚染された原子炉建屋に突入する時、心が通い合っていない上司の命令では、決死の突入を果たすことはできないだろう。
吉田さんは、彼らが作業から帰ってくると、その度に一人一人の手をとって、「よく帰ってきてくれた! ありがとう」と、労をねぎらった。
テレビ会議で本店にかみつき、一歩も引かない吉田さんの姿を見て、部下たちは、ますます吉田さんのもとで心がひとつになっていった。吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」
武黒フェローの命令に吉田さんは反発した。「なに言ってるんですか! 止められません!」
海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」。そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。
多くの原子力専門家がいる東電の中で、吉田さんだけは、原子力に携わる技術者としての本来の「使命」を見失わなかったことになる。

最後まで現場で闘った「フクシマ69

2011315日早朝、いよいよ2号機の格納容器の圧力が上昇して最大の危機を迎えた時、吉田さんは「一緒に死んでくれる人間」の顔を一人一人思い浮かべ、その選別をする場面を私に語ってくれた。
吉田さんは指揮を執っていた免震重要棟二階の緊急時対策室の席からふらりと立ち上がったかと思うと、今度はそのまま床にぺたんと座り込んで頭を垂れ、瞑想を始めた。それは、座禅を組み、なにか物思いにふけっているような姿だった。
「あの時、海水注入を続けるしか原子炉の暴走を止める手段はなかったですね。水を入れる人間を誰にするか、私は選ばなければなりませんでした。それは誰に一緒に死んでもらうかということでもあります。こいつも一緒に死んでもらうことになる、こいつも、こいつもって、次々、顔が浮かんできました。最初に浮かんだのは、自分と同い年の復旧班長です。高卒で東電に入った男なんですけど、昔からいろんなことを一緒にやってきた男です。こいつは一緒に死んでくれるだろうな、と真っ先に思いました
生と死を考える場面では、やはり若い時から長くつき合ってきた仲間の顔が浮かんだ、と吉田さんは語った。
「やっぱり自分と年嵩(としかさ)が似た、長いこと一緒にやってきた連中の顔が浮かんできましてね。死なせたらかわいそうだなと思ったんですね。だけど、ここまできたら、水を入れ続けるしかねぇんだから、最後はもう諦めてもらうしかねぇのかな、と。そんなことがずっと頭に去来しながら、座ってたんですね
それは、壮絶な場面だった。この時、のちに欧米メディアからフクシマ・フィフティ(Fukushima 50と呼ばれて吉田さんと共に現場に残った人間は、実際には「69人」いた。
どんなことになろうと、俺たちが原子炉の暴走を止めるその思いは、事故に対処した福島第一原発の現場の人間に共通するものだっただろう。こうしてあきらめることのない吉田さんたちの格闘は、ついに福島が壊滅し、日本が「3分割」される事態を食い止めた。

津波対策にも奔走していた矢先に発生した大震災

吉田さんの死後、反原発を主張するメディアが、「吉田は津波対策に消極的な人物だった」というバッシングを始めたことに私は驚いた。それは、まったく事実に反するからだ。
吉田さんは、20074月に本店の原子力設備管理部長に就任した。その時から、津波について研究を続けている。
土木学会の津波評価部会が福島県沖に津波を起こす「波源」がないことを公表し、日本の防災の最高機関である中央防災会議(本部長・総理大臣)が、「福島沖を防災対策の検討対象から除外する」という決定を行っていたにもかかわらず、吉田さんは明治三陸沖地震(1896年岩手県三陸沖で発生、津波による犠牲者が約22000人)を起こした波源が「仮に福島沖にあった場合はどうなるか」という、いわば架空の試算を行わせた。これによって「最大波高15.7メートル」という試算結果を得ると、今度は、土木学会の津波評価部会に正式に「波源の策定」の審議を依頼している。
さらに吉田さんは、西暦869年の貞観(じょうがん)津波の波高を得るために堆積物調査まで行い、「4メートル」という調査結果を得ている。
巨大防潮堤の建設は、簡単なものではない。仮に本当に大津波が来て巨大防潮堤にぶち当たれば、津波は横にそれ、周辺集落へ大きな被害をもたらすことになる。巨大防潮堤は、海の環境も変えてしまうので、漁業への影響ほか「環境影響評価(環境アセスメント)」など、クリアしなければいけない問題もある。
吉田さんは、津波対策に「消極的」どころか、その対策をとるため、周辺自治体を説得できるオーソライズされた「根拠」を得ようと、最も「積極的」に動いた男だったのである。
しかし、その途中でエネルギー量が阪神淡路大震災の358倍、関東大震災の45倍という、どの学会も研究機関も予想し得なかった「過去に類例を見ない巨大地震」が襲った。福島第一原発の所長となっていた吉田さんは、自らの命を賭けてこの事故と闘った。
吉田さんのもと、心をひとつにした部下たちが放射能汚染された原子炉建屋に何度も突入を繰り返し、ついに最悪の事態は回避された。吉田さんが、「あの時」「あそこにいた」からこそ、日本が救われたのである。


吉田 昌郎(よしだ まさお、1955217 - 201379)は、日本技術者東京電力株式会社元執行役員福島第一原子力発電所所長。
所長在任中の20113月、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後、その影響で発生した福島第一原子力発電所事故の収束作業を指揮したことで知られる。
人物・経歴
大阪府出身[1]。身長180センチ[2]
大阪教育大学附属天王寺中学校21期)、大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎15期)を経て、1977東京工業大学工学部を卒業[1]。高校時代は剣道部と写真部[2]、大学時代はボート部に所属[2]1979同大大学院で原子核工学を専攻[1]通商産業省からも内定を貰っていたが、大学の先輩の勧めで東京電力に入社[1]。社内の評価は「豪快」「親分肌」[2]、部下思いのため現場の信望は厚く性格はおおらかといわれている。偉ぶることのない性格で、部下の社員のみならず、下請け企業の作業員からも人望があった[2][3]。福島第一原子力発電所での部下だったサッカー女子日本代表丸山桂里奈は吉田を「いつも優しくて、面白い」と評している[4]
幹部のほとんどが東京大学出身者から構成される東京電力の中、東京工業大学出身であったため、入社後は傍流中の傍流ともいえる道を歩み、各地の原子力発電所の現場作業を転々とし、本店勤務は数えるほどだった[5][6]。福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所両原発の発電部保守課、ユニット管理課などを経て、福島第一原子力発電所1,2,3,4号ユニット所長を務めた。
200741日付で、本店に原子力技術・品質安全部を改組して新たに設置された原子力設備管理部の部長につき、その後執行役員兼務となる[1]2008年には、東京電力社内で、福島第一原子力発電所に想定を大きく超える津波が来る可能性を示す評価結果が得られた際、吉田が部長を務める原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張。上層部も了承したため建屋や重要機器への浸水を防ぐ対策が講じられなかった[7]2009年には新潟県中越沖地震に対する東京電力の対応に関し、武黒一郎副社長、武藤栄常務らとともに役員として1ヶ月5パーセントの減給措置となる[8]
20106月から執行役員・福島第一原子力発電所所長。4度目の福島第一原子力発電所勤務であった[1]20113月に東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故が起こり、現場で対応に当たった。4月にはジャーナリストの青山繁晴に、発電所内を公開した。しかし、内閣府原子力災害対策本部の理解を得られていないため海水注入作業を一時中断せよとの東京電力本店からの命令を無視し、独断で海水注入を続けさせたことで、6月に上司の武藤栄副社長が解任論を唱えたり、班目春樹原子力安全委員会委員長からも「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか。」などと不信の声が上がった。これに対し菅直人内閣総理大臣が「事業者の判断で対応することは法律上、認められている。結果としても注入を続けたこと自体は決して間違いではなかった。」と解任は不要との見解を示し、武藤副社長らの解任論を抑えた[9][10]。一方、ニュースキャスターの辛坊治郎は、このような原子力災害対策特別措置法に基づく意思決定ルートに反する行為を認めると責任者が不明になる、と批判している[11]
所長として、体調不良を押して4号機燃料プールの補強工事を行っていたが、人間ドック食道癌が発見され、20111124日に入院した。その後2011121日付で病気療養のために所長職を退任し、本店の原子力・立地本部事務委嘱の執行役員に変更となった。東京電力によると被曝線量は累計約70ミリシーベルトで、医師の判断では[12]、被曝と病気との因果関係は極めて低いとされている[13]米山公啓聖マリアンナ医科大学医学部第二内科元助教授は職責などからくる極度のストレスが原因ではないかと指摘している[14]
入退院を繰り返し、抗癌剤治療を経て、2012年に食道切除術を受けた。その後東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の調査などを受けていたが、2012730日、東京電力26日に吉田が外出先で脳出血のため倒れ緊急入院し、緊急手術が行われたと発表した。容態については「重篤だが意識はあり、生命に別条はない。」とした[15]
治療の傍ら、事故の回想録の執筆を行なっていたが、201378の深夜に容態が悪化、翌79日、食道癌のため慶應義塾大学病院で死去[16]58歳没。死去に際し、広瀬直己社長から「決死の覚悟で事故対応にあたっていただきました。社員を代表して心より感謝します。」との声明が出された[17]安倍晋三内閣総理大臣からは、「大変な努力をされた。ご冥福をお祈りしたい。」とのコメントが出され[18]菅直人元内閣総理大臣も「強力なリーダーシップを発揮し、事故がさらに拡大するのを押しとどめるのに大変な役割を果たした。大学の後輩でもあり、ある意味、戦友とも言える人だった。」と死を惜しんだ[19]823日には青山葬儀所でお別れの会及び告別式が開かれ、安倍総理大臣、菅前総理大臣、海江田万里民主党代表、細野豪志前原子力防災担当大臣など1050人が参列。廣瀬社長が「事故拡大の阻止に死力を尽くして当たられました。吉田さんが福島の地と人々を守ろうと、身をもって示した電力マンの責任と誇りを深く胸に刻みます。」との追悼の辞を述べた[20]
福島第一原子力発電所事故
·         2008年に東京電力社内で、福島第一原子力発電所に想定を大きく超える津波が来る可能性を示す評価結果が得られた際、原発設備を統括する本店の原子力設備管理部が、現実には「あり得ない」と判断して動かず、建屋や重要機器への浸水を防ぐ対策が講じられなかったことが、東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会により明らかにされている[21]
·         東日本大震災による福島第一原子力発電所事故では事故発生当時の福島第一原子力発電所所長として対応に当たった。当時原子力安全委員会委員長を務めていた班目春樹東京大学大学院工学系研究科教授は、所長の吉田が東京電力本店の命令に反して注水作業を続けていなければ、東北・関東は人の住めない地域になっていただろうとする[22]
·         312、海水注入開始後に、開始したことを知らされていない首相の菅直人が海水注入による再臨界の可能性について会議で取り上げたことを受けて、官邸の了承を得ず海水注入を開始したことを問題視した東京電力フェローの武黒一郎は、吉田に海水注入の中止を命じた。吉田はこの命令を受領しておきながら、独断で続行を決意し、現場の作業員に「今から言うことを聞くな」と前置きしたうえで作業員に「注水停止」を命令し、実際には注水を継続させた[23](注水継続の根拠たるデータ等の客観的証拠は未だ示されず、あくまでも吉田自身の証言に基づくマスコミ報道による。)証言については、直前のテレビ会議で武黒一郎らなどの注水停止命令に対し吉田は継続を一言も主張もせず、その後、注水を停止したと長らく証言し、国際原子力機関(IAEA)の査察団が来日した際に注水を継続していたと翻意し、客観的データもなくその後、証言が二転三転したと信用性に疑問も呈されている[?]。吉田は、翻意の理由を官邸や東電本社は信用できず、国際調査団なら信用できると最終的に述べている。メルトダウンが起きた後なので、証言を仮に注水停止したとしていても継続していたと言った方が得だと言う批判は残っている[?]
·         313、東京電力の社内テレビ会議にて「2号機の海水注入ラインはまだ生きていない。そこを生かしに行くにはかなり勇気がいるんだけど、これはもう『爺の決死隊』でいこかということを今相談したんで」と発言している[24]
·         会社内では普段「親分肌」、「温厚」な性格だとされていたが、原発事故の発生後は感情を表に出すことが増えた。4月上旬、1号機の格納容器が水素爆発するのを防ぐため、テレビ会議で本店から窒素ガス注入を指示された際には、「やってられんわ! そんな危険なこと、作業員にさせられるか」と上層部に関西弁で声を荒らげた。翌日には抗議の意味を込めてサングラス姿でテレビ会議に出席し、役員らを驚かせた[2]
·         2012611、福島原発告訴団が東電役員等33人を業務上過失致死傷と公害犯罪処罰法違反の疑いで刑事告訴したが、そのなかに吉田も含まれている[25]
·         201144夜に吉田が放射性汚染水の海洋に放出する「ゴーサイン」を出した内容を含んだ社内テレビ会議映像が20121130に公開されたが、放出までの政府と東電の経緯は含まれておらず、詳細は不明のままである[26]
略歴
·         1955 - 大阪府生まれ。
·         1970 - 大阪教育大学附属天王寺中学校卒業(21期)。
·         1973 - 大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎卒業(15期)。
·         1977 - 東京工業大学工学部機械物理工学科卒業。
·         1979 - 東京工業大学大学院理工学研究科原子核工学専攻修士課程修了。
·         1979 - 東京電力入社。
·         2007 - 東京電力執行役員 原子力・立地本部原子力設備管理部長(初代)。
·         2010 - 東京電力執行役員 原子力・立地本部福島第一原子力発電所所長 立地地域部福島第一原子力調査所所長。
·         2011 - 東京電力執行役員 原子力・立地本部福島第一安定化センター福島第一原子力発電所長 立地地域部福島第一原子力調査所所長(改組)。
·         20111124食道癌の治療のため入院。
·         2011121 - 東京電力執行役員・原子力・立地本部事務委嘱(病気療養のため)。
·         20122食道切除術を受ける。
·         2012726脳出血で倒れ緊急入院・手術。
·         201379 - 食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。
論文・著作
·         CiNii論文検索
脚注
1.   a b c d e f 「本店に盾突く困ったやつ」「気骨ある」 福島第1原発の吉田所長MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011526) 2013710日閲覧。
2.   a b c d e f キレ菅に逆らった男原発所長称賛の嵐も東電「困った奴」ZAKZAK (産経デジタル). (2011527) 2013710日閲覧。
3.   ^ 吉田昌郎氏死去「偉ぶらず目の行き届く人 だから部下たちがついて行った」スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (201379) 2013710日閲覧。
4.   ^ 丸山桂里奈が恩人吉田元所長の死に衝撃デイリースポーツ2013711
6.   ^ 「『菅降ろし』を潰した男」『アエラ』朝日出版新聞2011613日号
7.   ^ 「福島第1原発:08年に津波可能性 本店は対策指示せず」 毎日新聞 20111128
8.   ^ 人事措置について (プレスリリース), 東京電力, (2009417) 2013710日閲覧。
9.   ^ 福島第1原発:吉田前所長 ビデオでの発言全文毎日jp (毎日新聞社). (2012812). オリジナル2012812日時点によるアーカイブ。
10.               ^ 大前研一 (201167). “処分されるべきは武藤副社長と斑目委員長”. 大前研一のビジネス・ブレークスルー. 2013710日閲覧。
11.               ^ 「辛坊治郎の「ニュース食い倒れ!」」『フラッシュ』2011621日号
12.               ^ 事故時に指揮、吉田昌郎・元所長死去食道がん読売新聞201379
13.               ^ 福島第一原発 吉田前所長食道がん東京新聞 TOKYO Web (中日新聞社). (2011129) 2013710日閲覧。
14.               ^ 吉田元所長「58歳の死」 食道がんと放射能の因果関係ゲンダイネット2013710
15.               ^ 東電:吉田前所長が脳出血手術は成功毎日jp (毎日新聞社). (2012730). オリジナル201282日時点によるアーカイブ。
16.               ^ 東電福島第1原発の元所長、吉田氏が死去 58日本経済新聞 電子版 (日本経済新聞社). (201379) 201379日閲覧。
17.               ^ 吉田元所長の死去 東電・広瀬社長「無念」日テレNEWS24 (日本テレビ). (201379) 2013710日閲覧。
18.               ^ 吉田元所長死去 東電「被ばくが食道がんの原因とは考えにくい」FNNニュース (フジニュースネットワーク). (201379) 2013710日閲覧。
19.               ^ 「拡大押しとどめるのに大変な役割」菅直人氏YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (201379) 2013710日閲覧。
21.               ^ 福島第1原発:08年に津波可能性 本店は対策指示せず毎日jp (毎日新聞社). (20111128). オリジナル20111128日時点によるアーカイブ。
22.               ^ 吉田昌郎・元東電原発所長が死去、食道がん-日本を救った男ブルームバーグ (ブルームバーグ エル・ピー). (2013710) 2013710日閲覧。
23.               ^ 注水停止命令は形だけ 指示無視、第1原発所長どうしんウェブ (北海道新聞社). (20111130). オリジナル2011122日時点によるアーカイブ。
24.               ^ 「(首相は)説明すると、さんざんギャーギャー言う」東電公開映像イザ! (産経デジタル). (201286) 2013710日閲覧。
25.               ^ “福島県民による告訴団が東電役員らを刑事告訴 1300人が訴えた「捜査機関で原発事故責任を明らかに」”. 日経ビジネスオンライン. 日経BP (2012613). 2013710日閲覧。
26.               ^ 東日本大震災:福島第1原発事故 東電テレビ会議映像公開 汚染水放出経緯、謎のまま 政府と東電の協議、含まず毎日jp (毎日新聞社). (2012121) 2013710日閲覧。


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