ビスマルク  Jonathan Steinberg  2013.12.16.

2013.12.16. ビスマルク
Bismarck: A Life      2011

著者 Jonathan Steinberg 1934年生まれ。アメリカの歴史家。ハーバード大卒後、ケンブリッジ大で博士号取得。長年にわたってケンブリッジ大で教壇に立ち、現在はペンシルヴァニア大教授として近現代ヨーロッパ史を担当。ケンブリッジ大が発行する専門誌『ヒストリカル・ジャーナル』の共同編集者。本書は既にドイツ語版、デンマーク語版が出版されており、サミュエル・ジョンソン賞、ダフ・クーパー省の最終候補にも。初の邦訳

訳者 小原淳 1975年生まれ。早大大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(早大、文学)。現在和歌山大教育学部准教授

発行日           2013.8.20. 印刷               2013.9.10. 発行
発行所           白水社

第1章        序論――ビスマルクの至高なる自我
ビスマルクはドイツを築き上げたが、支配はしなかった。大衆に訴えかけたことはなかったし、漸く一般の人々が彼に魅了されるようになったのは、彼が権力を失い伝説化してからのこと
イギリス的な意味において政党を統率したことはなく、最大規模の諸政党は彼に不信の念を抱き続け、彼から距離を取った。ビスマルクの政党であった「自由保守党」は議会外にさほどの支持者を持たなかった
軍務上の資格は何もないどころか、徴兵を回避しようと試みている
マックス・ヴェーバーは、国家の権威を3つに類型化
   「永遠の過去」が持っている権威 ⇒ 家父長や家産領主の行った「伝統的支配」
   個人に備わった「カリスマ」が持つ権威 ⇒ 人格的な帰依と信頼に基づく支配
   「合法性」による支配 ⇒ 制定法規の妥当性に対する信念と「権限」に基づく支配
王の家臣としてのビスマルクは①、首相としては③
国家の大権を掌握したことはなかったが、「至高なる自我」とでも呼ぶべき何かを保有、皇帝ヴィルヘルム1世に「ビスマルクの下で皇帝であることは困難」と言わしめた
1862年プロイセン首相となった時は誰もあまり買っていなかったが、70年のドイツ統一後に愛国的なドイツ人の間では、彼が政治的な天才であるという確信が一般的となる
ビスマルクは、単に天賦の才に恵まれていたのみならず、あらゆるものを組み合わせた ⇒ 常に王の恩顧に依存
1863年、オーストリア皇帝の呼びかけによるドイツ諸侯会議へのヴィルヘルム1世の参加を妨害するために普通選挙権というアイディアを思いつき、オーストリアの目論見は潰えたが、1890年にはビスマルクの敵対勢力だったカトリックと社会主義者が議会の絶対多数を占め自身の失脚に繋がる
ビスマルクは、権力を行使する人間存在の強さと弱さを示しているが、そこには巨大な自我がどれほど強大化し得るのかが明らかとなり、至高の政治的権力を行使することでその権力を所有する当人も変化しないわけにはいかないことをも露見している

第2章        プロイセンに生まれるということ、そしてその意味するところ
ブランデンブルク辺境伯領の「地主貴族」の第4子として生まれる
小さな君主国が国家の中核となったのは、16401918年の時期の統治者たちの長寿によるところが大きい
フリードリヒ大王(在位174086)の遺産
   王は国家第一の下僕として働かなければならないという観念
   「ユンカー階級」というプロイセン貴族に特殊なアイデンティティを残す ⇒ 王に忠実で、仲間内で固く結束
ビスマルクの最大の功績は、このアイデンティティを墨守したこと ⇒ 末裔がヒトラーの下で連帯を指揮し続け、ヒトラー暗殺計画の中心を担ったのも彼等であり、その遺産を破壊するためには第2次大戦の多大な犠牲が必要だった。47.2.25.連合国管理理事会がプロイセン国家そのものを解体する法令に調印したが、世界史上布告によって廃された唯一の国歌
イギリスの哲学者アドマンド・バークが遺した、フランスの新しい急進主義に対峙する新たな保守主義が、反動的なプロイセンの地主貴族たちに受け入れられた
プロイセンの遺産 ⇒ フリードリヒ大王から受け継がれた軍隊、ユンカー階級と軍隊及び官僚との融合、奉仕や献身といった観念の普及、貴族と市民の間の厳格な区別、名誉意識の軍事的な定式化、ユダヤ人への憎悪

第3章        「気違いユンカー」
母親は12歳で父と死別、凡庸な地主貴族の父親と結婚した後も、輝くような才能に恵まれ成功を収めた実父の死を悼み続け、彼の死によって失われた魅力的な人生を思い続け、彼女がこの虚無を埋めてくれることを息子たちに望んだのは間違いない
ビスマルクは、「弱い」父を愛し、「強い」母を憎んだ ⇒ 6歳から6年間母親の意向で、貴族を目の敵にする教師の勤める学校に追いやられた
親との不変の三角関係を、自分の主君とも結ぶ羽目になる ⇒ ヴィルヘルム1世を柔和だが弱々しい男性と見、王妃のアウグスタを強力で邪で悪辣な人物と見做したし、後継のフリードリヒ皇帝(3)夫妻についても激しい憎悪の感情を呼び起こした
青年時代は、妥協より対決を選び、権威と頻繁に衝突 ⇒ ゲッティンゲン大学ではよく牢にぶち込まれた
狂人を装い、武勇伝となるような多くのアクシデントを起こし、郡内の社交界の語り草に
1806年のプロイセンの敗戦と「神なき」ナポレオンによる王国の占領の衝撃が、多数のユンカー大土地所有者たちをキリスト教信仰へと回帰させる
ビスマルクが本当にキリスト教徒になったのかは不明だが、敬虔主義者の中でも極度なまでに篤信で知られた片田舎の農場に住む田舎地主の娘に、よく知られた「求婚書簡」を書いて婚約。同時に連合州議会議員に選出され、政治人としてスタート

第4章        ビスマルク、自らを表現する184751
政治活動に自分の人生の目的を発見
プロイセン王国には8つの州があり、1823年に各州に州議会が設置され、連合州議会は国王が全州の議員を召集して開催
産業革命の進展が徐々にヨーロッパ各都市に浸透し始め、土地が売買の対象として商品化され、都市化が進む
議会は僅差で、ユダヤ人がキリスト教国家において公職や軍務に就くことを拒否
強硬保守派の若きスターとして登場、国王の取り巻きの王子たちのお気に入りとなる
1848年、革命の始まり ⇒ ビスマルクは、伝統的な君主制的貴族的秩序救済に加担
49年、革命を何事もなく乗り切ったプロイセン邦議会(下院)に選出、冷徹なリアリズムに基づく「レアルポリティークス」の実践者として公的なデビューを果たす
51年にはフランクフルトのドイツ連邦議会のプロイセン代表に就任、ヨーロッパ外交の大舞台にデビューし、彼独特のやり方で支配していく

第5章        外交官としてのビスマルク 185162
ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を決めたウィーン会議(1814)の結果20年に創設されたドイツ連邦は、39の諸邦の穏やかな連合で、フランクフルトの連邦議会は主権者たる君主たちを代表。デンマーク、オランダ、イギリス(ハノーファーの国王)の国王、6人の国王と大公(バイエルン王、ザクセン王、ヴュルテンベルク王、ヘッセン=カッセル選帝侯、バーデン大公、ヘッセン大公)が各1票、23の弱小国が5票、4自由都市(リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク)1
1854年クリミア戦争 ⇒ 英仏vs露。プロイセンはオーストリアと同盟するがオーストリアからの対露出兵要請には同盟国も含め交戦国になりうるすべての国に対し中立を守るとして抵抗、英仏墺間で3国同盟が締結されたが、ビスマルクは参加に反対、自らの行動を敵対者に分からせないようにし手段の選択に当たっては完璧な無節操さを発揮するという独特の政治技法によりプロイセン大使として大仕事を成し遂げたばかりか自国の影響力拡大に寄与
ロシアの敗北なしには、ビスマルクの3度の統一戦争の勝利はなかったし、ドイツにおけるオーストリアの権威を破壊するためにロシアの復讐心を利用した
55年、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアとプロイセンのヴィルヘルム王子が婚約 ⇒ ビスマルクはドイツの中のイギリス好きを利するのみとして反対
ビスマルクにとて政治とは、善や悪とも、また徳や悪徳とも関係なく、権力と自らの利害に関わるもの ⇒ 57年ゲルラッハ宛の手紙に、ナポレオン3世に対する外交的スタンスを語る中で、「レアルポリティーク(=自分の利害関心に働きかけ、それを満たすことをなせ)」こそが政治信条であることを明言
フランスの「大衆」が急進主義にではなく秩序に対して投票し、ボナパルトに圧倒的な票を投じたのを目の当たりにして、ビスマルクはドイツの民衆がプロイセンの地位を強化しようというビスマルクの計画にとって同じ役割をしてくれるのではないかと考え、目標達成のためナショナリズムを利用しようと目論む
58年、ヴィクトリアとヴィルヘルム王子は結婚するが、王子は脳梗塞を繰り返し、弟ヴィルヘルム王太子に権力を譲渡、ビスマルクの政敵が「新時代」の内閣を組織、ユダヤ人の投票権が認められるに及び、ビスマルクは病に伏す
社会が急激な産業化を伴って加速度的に近代化し始める中で、プロイセンの貴族はいまだに軍隊と官僚制の下で権力を独占し統治していたという矛盾を19世紀末まで維持し続けたことこそビスマルクの成功に繋がる

第6章        権力
「新時代」政権に批判的だったビスマルクは、フランクフルトの大使の任を解かれサンクトペテルブルクの公使として渋々赴任 ⇒ プロイセン王女で故ヴィルヘルム4世の妹からロシア皇帝故ニコライ1世の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ皇太后との交流に安らぎを見出す
59年ソルフェリーノの戦いでオーストリアがフランス・ピエモンテ連合軍に敗退 ⇒ ビスマルクは外務大臣に書簡を出し、「ドイツ連邦諸邦は常にプロイセンに対立するに違いないと論じ、我々が遅かれ早かれ「鉄と火=戦争」をもって鍛え直す必要があるプロイセンの脆弱さを見る」と記す。62年の最初の首相演説に登場する「血と鉄」の先例となる表現
皇帝の動員指示に対し、応じる用意のあったのは半分の師団だけで、参謀長のモルトケは茫然自失
自由主義左派によるドイツ進歩党が結成、急激に支持を広げドイツ史上初の正式な政治綱領を公表、国王に対し憲法に宣誓するよう主張 ⇒ 62年の選挙では下院の2/3を占める圧勝
議会に対抗するために、陸軍大臣だったローンの推薦によりビスマルクが首相に就く

第7章        「私は全員を打ちのめした! 全員を!
63年ロシア領ポーランドに於いてロシアの支配に対する反乱が勃発した際、ビスマルクは直ちにプロイセン領ポーランドに駐留する師団に出動を要請、ツァーリの宮廷の主戦論者を支援することで、両国による軍事協定を結ぶ
オーストリア皇帝が、自らの主導の下でのドイツの自発的統一を進めるためドイツ連邦改革を提案、連邦の中心都市フランクフルトにドイツ諸侯を招くが、ビスマルクは国王を説得して参加せず。ドイツ民衆による普通選挙制という脅しがオーストリアの構想を頓挫させたし、そのためにはビスマルクは社会的下層の人々による社会主義運動にも加担したし、ユダヤ人扇動家とも新たな協力関係を結ぶ
64年、デンマーク継承戦争 ⇒ 跡継のいないままに死去したデンマークの新国王がデンマーク人の多く住むシュレースヴィヒ公国をデンマーク王国に編入することを明記した憲法に署名した(もともとデンマーク王はホルシュタイン公の資格でドイツ連邦の一員だった)のに対し、プロイセンはオーストリアと共同してデンマークの行動を拒否するとともに武力によってプロイセンとオーストリアの共同管理に持ち込む
周辺諸国は自らのことに精一杯で、ドイツの内戦にくちばしを挟む余裕がなかった ⇒ デンマークの庇護者だったイギリスも自由党政権下で手出しができないことを露呈、ナポレオン3世はメキシコ帝国創建に深入り、ロシアは61年の農奴解放に起因する社会的騒乱に手一杯
ビスマルクの狙いは両公国の併合にあり、両公国の統治を巡ってオーストリアと対立、66年にはイタリアと同盟を結んでオーストリアに宣戦を布告、最終的に両公国を支配下に置くことに成功
王妃と王族はビスマルクを毛嫌いしており、感情的で頼りにならない国王はもう70歳、ローン(陸軍大臣)のほかに自分の政策を腹蔵なく語れるだけの信頼に足る友人もおらず、ローンの控え目な弁護と正真正銘の忠誠心なしに、彼は政治的にも肉体的にも生き延びることは出来なかっただろう

第8章        ドイツ統一 186670
ビスマルクは、偉大な勝利のもたらしたオーストリアからの莫大な賠償金によって財政状態を立て直し、ドイツを創建するための根本的に新しい構造を手に入れた ⇒ オーストリアはドイツ問題から締め出され、「東方の」大国としての新しいアイデンティティを探し求める
ドイツ各州に連邦への加盟が求められ、帝国選挙法によって行われた選挙により人口に応じた議席が割り当てられる ⇒ 新たな連邦はプロイセンが人口と領域の4/5を占める不均衡な形で構成
法的な土台無しに行われた予算の執行を、議会の承認に委ねた(ただし、事後承認) ⇒ ビスマルクは、新たなドイツ国家に関する自分の計画を完遂するために自由主義者たちを必要とするという奇妙な立場に移行、自らの党だった自由保守党は実際上の支持層を持たず、3つの主要な政党がビスマルクの新ドイツにおいて優勢だった。それらは自由主義(親ビスマルクと反ビスマルクに分裂)、保守党(次第に反ビスマルクに)、カトリック(反ビスマルク)で、いずれもビスマルクは信頼を寄せず、新たな時代は19世紀でもっとも強大な力を有した人物が議会に真の支持者を持たず、年老いた君主個人とその感情、態度に依存しているという矛盾を内蔵したまま始まる
ビスマルクは、高揚したなナショナリストでもなく、自由主義者でも保守主義者でもなく、己の色を変えた
時代の変化は、ベルリンに巨大なシナゴ-グの出現にも見られる
政権の安定とは裏腹にビスマルクの身体は崩壊状態にあり、ストレスが彼を苛波、年々度を強めていき、頻繁にベルリンを留守にするようになる
1867年、新たに選ばれた議会で新憲法が承認され、ビスマルクが宰相に就任
1868年、ホーエンツォレルン家のスペイン王位承継問題 ⇒ 軍事クーデターによって退位したイザベル2世女王の後任にホーエンツォレルン家のレオポルトを推したビスマルクに対しナポレオン3世が反発、レオポルトは辞退したが、ナポレオンがプロイセンに2度とこのような企てをしないという誓約を取り付けようとし、プロイセンが拒否したことから70年フランスが宣戦を布告、普仏戦争に突入 ⇒ 71.2.講和条約
戦勝と同時にドイツ統一実現、ビスマルクは侯爵に

第9章        転落の始まり 自由主義者とカトリック教徒
ドイツの勝利と統一は、ヨーロッパのバランスを破壊
アルザスとロレーヌ地域の併合は、フランスに復讐という政策と、失地回復という目的を与え、ビスマルクはそれに対抗するために3帝同盟(ツァーリ、ハプスブルク、ホーエンツォレルン)に動き73年に実現
最初の時期は自由主義時代 ⇒ ローマ・カトリック教会との戦いをもたらし、ビスマルクとプロテスタントの保守派の友人たちとの関係を最終的に決裂させた。戦勝に酔いしれたバブル景気が73年に崩壊して大不況が始まり、70年代末に向けて悪化の一途を辿り、最終的にはビスマルクが自由主義との同盟関係を解消し、ローマ・カトリック教会と和解し、社会主義を攻撃し、福祉と社会保障を導入する7879年の「大転換」に通じる
ビスマルクが追求した政策は、カトリック中央党に対する攻撃的で厳罰主義的な対応と、ヴァチカンに対する尊重と抑制のきいた態度にミックスであり、両者の間に楔を打ち込もうとした ⇒ 76年までにプロイセンの全司教が拘束されるか亡命。多くのヨーロッパ諸国における反カトリックのヒステリーは、そのヨーロッパ的な背景に根差していて、ビスマルクのキャンペーンそのものは独自なものではなかったが、彼の暴力的な気質、敵対者に対する不寛容、秘密の勢力が自分の生涯かけた創造物の破壊を企んでいるという変質狂的な妄想が、それをさらに容赦のないものにした ⇒ 78年のピウス9世の死去まで闘争は続く
72.12. 一旦辞職して、ローンが首相を継ぐが、73.10.復帰、保守党との関係も最終的な破局を迎える
ビスマルクの身体的、精神的状態は、75年の間に悪化の一途を辿り、若い国民自由党議員のクリストフ・ティーデマンを個人的な副官の任に就けようとした
77年、ヘルツェゴヴィナでのトルコの支配に対する反乱を支援する名目でロシアがトルコに宣戦布告 ⇒ ロシアが勝ってサン・ステファノ条約を締結、領土拡大を目論んだためビスマルクが介入してベルリン条約で内容を修正、イギリスと強調してロシアを抑える
ビスマルクは皇帝の支援をいいことに、敵対勢力の攻撃に対ししばしば辞任を仄めかして脅したが、77年にはそれが3度に及ぶ

第10章     「死せるユダヤ人のガストホーフ(泊宿)
78年、自由主義者による議会政治推進の主張に対し、ビスマルクは市民的権利の侵害を強化しようとし、皇帝暗殺の陰謀が発覚、議会は解散させられ、以降自由主義派の得票は伸びることなく脅威は消え去る ⇒ 保護貿易政策を導入
79年、独墺同盟締結 ⇒ ロシアこそ真正の保守主義の支配を保証してくれると考えた皇帝は反対したが押し切られる
反ユダヤ主義が大衆的なうねりとなる時代が到来 ⇒ ビスマルクも、少数の例外を認めながらもプロイセン・ユンカーの間に蔓延していたユダヤ人に対する理屈抜きの敵意を共有、自由主義的な目標がユダヤ国家をもたらすとし非難
1850年『音楽におけるユダヤ性』と題するエッセイにおいて、リヒャルト・ヴァーグナーは人種としてのユダヤ人は真のドイツ芸術を表現できないと決めつけ、近代的反ユダヤ主義の最初の預言者となったが、当時はまだ匿名で書いたものの、69年の再刊の時にはより広範な支持を得て本名を使う
81年大晦日、反ユダヤ主義的示威行動が暴徒化、ユダヤ人の商店を破壊し、「ユダヤ人は出て行け!
息子のヘルベルトは、若き外交官として父に仕えるとともに急速な出世を遂げたが、10歳年上のある侯爵夫人と不倫するが、夫人の姉妹たちがビスマルクの政敵と結婚しており、際限なく敵対者や自分に反対する者すべてを憎悪するビスマルクの能力が溺愛する長男を破壊し、結果叶わぬ恋となってヘルベルトは「社交界」の中で荒廃、その暴力性や傲慢さ、冷酷さが父親の地位を弱体化させ、父の宰相としての地位、そして自分自身の外務長官としてのキャリアが終焉を迎えるのを助けることとなる ⇒ 大酒のみになった息子は54歳で死去、父の犠牲者であった
87年、英独墺伊間に地中海協定 ⇒ ツァーリが露墺間同盟の更新意欲を失うとともに露仏接近に対抗してビスマルクが主宰したもの。同時に露独間では再保障条約という秘密協定も締結し、ビスマルクは自らの策略に身動きできないようになると同時に、内政でも憎悪の対象だった社会主義労働者党が選挙で第1党となって議会をコントロールすることになり、外交・内政両面でビスマルクの統治システムは機能不全に陥る

第11章     3人の皇帝とビスマルクの権力喪失
88=三皇帝の年 ⇒ 100日のうちにヴィルヘルム1世が死去、息子のフリードリヒ3世も死去、29歳の長男が皇帝ヴィルヘルム2(18591941)になる
皇帝の取り巻きがカマリラ(影の政府)を組織して内密に策動し、自らの側近でもあった彼等を常に軽蔑していたビスマルクが彼等の犠牲者となる
カマリラの主要メンバーは、ビスマルクに責めさいなまれ続けた内務大臣で同性愛者のフィリップ・フォン・オイレンブルク伯爵、外務省の「灰色の猊下」フリードリヒ・フォン・ホルシュタイン、モルトケの後任の参謀総長となった「政治的将軍」のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵
カマリラによってのし上がった人物がカマリラによって零落 ⇒ マントイフェル首相の目の届かないところで皇帝ヴィルヘルム4世に侍るカマリラのキーマンだったゲルラッハに手紙を書いて政治に影響を及ぼしたのがビスマルク
老ヴィルヘルム1世の偉大な時代、彼の反動的な世界観、彼が家族に対して振る舞った絶対的な権力が、若きヴィルヘルム王子に受け継がれる。ヴィルヘルム1世は心情において「ロシア人」であり、親族としての絆と彼本来の反動的な性向によってロマノフ家と結びついてきた
フリードリヒ3世と妻のヴィクトリアは。イギリスと自由主義を、そして老皇帝やその取り巻きの大半が嫌悪していた商業主義と、自由な社会のあらゆる側面を体現する忌むべきユダヤ人を代表
ヴィルヘルム2世は、近代ドイツ史においてもっとも物議を醸し出す人物となる。祖母のヴィクトリア女王と同様に自分の名前が時代の呼称となる。派手で好戦的、帝国が繰り広げた経済面・軍事面での爆発的な成長を体現。左腕に障碍を抱えて生まれ、直情径行、残虐さの暴発は安定した統治を果たせないとの危惧を抱かせるが、皇帝就任早々から危惧は現実化する ⇒ 外遊した先々で相手に悪い印象を与えるばかりか、国内でもカトリックとユダヤ人に対する敵意を露呈
ビスマルクとの対立は89年初頭に表面化 ⇒ 炭鉱のストライキを巡って皇帝が親政を行おうとして政府と衝突、90年皇帝がビスマルクに辞任を迫る
ビスマルクは復讐心に燃える。直後に息子がウィーンで挙式、皇帝は無視を決め込んだが、ビスマルクは各地で歓呼をもって群衆に迎え入れられ、彼を憎んでいたミュンヘンでも公衆の偶像となる
94年、ビスマルクが毎年恒例の騎士団祭に出席した際、皇帝に謁見、両者の関係の雪解けを迎える ⇒ ビスマルクはなおベルリンで熱狂的な歓迎を受け、和解によって皇帝もドイツ中で大きな人気を博したのは間違いない。皇帝も翌月答礼訪問し、公的には修復されたが温かい関係には程遠い
94年妻に先立たれ、97年には足の壊疽が分かり車椅子を使うようになり、98年には呼吸困難となり死去 ⇒ 皇帝は派手な葬儀を企図、「トイツの最も偉大な息子を。。。。余の祖先たちの傍らに」埋葬しようとしたが、ビスマルクは検死もデスマスクも絵に描くことも写真を撮ることもなく地面に埋葬して欲しいという末期の希望が公表され、自分の墓碑銘に「皇帝ヴィルヘルム1世に忠実に使えた1人のドイツ人」という文を選び、簡素な追悼式が行われた

結論 ビスマルクの遺産 「血と鉄」、いや「血と皮肉」
ドイツにおいて最も偉大にして恐らくは最も老獪な議会人であった敬虔なローマ・カトリックのヴィントホルストは、ビスマルクを「悪魔」と呼び、フロイトは「不気味なもの」と呼び何かとてつもないものをビスマルクに感じ取った。「怒れる雄山羊」(山羊は悪魔の様々な化身の1つだという)とも
ビスマルクの個性は、ポジティヴにもネガティヴにも、天使のようにも悪魔のようにも受け止められ、しばしば2つの側面が同時に経験されうるという矛盾に満ちたものであった
ヴェーバーの言う意味でのカリスマ的と呼べるようなものではなかったが、何か抗い難い、特別な魅力を帯びていた
際限を知らぬ支配欲が感傷によって抑制されることはなく、古くからの親友でさえもビスマルクの望みに従わなかった場合には激しい仕打ちを受けた
何度も、そして際限なく、7つの大罪のうちの憤怒の罪を犯したのみならず、猛烈で暴力的な怒りによって完全に我を忘れたことも再々、残りの人生を鬱憤や不機嫌と共に過ごし、不眠と心身症の影響に苦しめられた
限度を知らぬ女性嫌悪 ⇒ 自らの天賦の才と政治への意志を磨いていた時期に冷血で怜悧で愛のない母に対して抱いていた憎悪の念が強迫観念となって、アウグスタ王妃・皇后(ヴィルヘルム1世の后)とヴィクトリア王太子妃に対する執念深い軽蔑の念を持ち、弱々しい夫たちを支配した2人の「猛々しい女」たちが彼にとってすべての困苦の源となって立ちはだかった
猛々しく威厳をもって行動した反面で、物事がうまくいかないといつもなんとか責任を回避しようとした。幼少時代から母に嘘をつき、生涯を通じて嘘をつき続けた
大食の大罪が、彼を死の間際まで追い詰めた
ドイツの諸侯を飼い馴らすために民衆の力を利用しようとして63年に男子普通選挙権を導入したが、19世紀中葉に民衆が如何に変化したかを見誤り、その力を過小評価した
彼の実際の生涯の惨めな部分を愛国的な伝記作家たちは無視し、暴力的で、酒浸りで、心気症で、女嫌いという実像は、20世紀終盤になって漸く伝記に登場
1人の人間としてのビスマルク、政治家としてのビスマルク、イコンとしてのビスマルク、そのどれをとっても、優しさや寛大さ、慈悲、リベラルさといった人間的な欠陥を埋め合わすものの不在という点で共通している
彼の生涯にはいくつかの皮肉がある ⇒ 軍服を着た文官、鋼鉄のごとき一貫性のシンボルでありながらヒステリックな心気症患者、敗北せる勝者となった
マックス・ヴェーバーは、「ビスマルクの遺産」とは、ビスマルクの後継者たちの政治的資質に疑惑の目を向けることもなく、自分自身についての決定を、「君主制的統治」の名の下に運命として耐え忍ぶことに慣れきった国民を後に残したことだと手厳しく評価
彼は、たまたま王位に就いた礼儀正しく親切な老人にとって不可欠の存在となることで、ドイツを統治した。王をその家族から引き離し、夫婦の間、父子の間に割り込んだ。王から得た力なしには生きていけなかったが、この力と共生していくこともできず、ビスマルクのキャリア上の究極且つ強烈な皮肉は彼の無力さにある。そのことを自ら正確に把握していたことが彼が自ら墓碑銘の言葉を選んだ理由


訳者あとがき
いまなお毀誉褒貶半ばする政治家の実像をより克明に描き出し、彼を当時の歴史的文脈の中により正確に位置付けること、そしてそのことを通じて近現代ドイツ史そのものを再検討することは、こんにちなおドイツ史研究の重要な課題であり続けている
本書の特徴:
   ビスマルクの生涯を描き出すに当たり、よく知られる公的な側面のみならず、プライベートな側面、例えばビスマルクの生まれ育った環境がその人格に及ぼした影響や、彼を生涯に亘り苦しめた心身両面の病の実際とそれが彼の世界観や政治的な決定に与えた作用あるいは、青年時代からの友人や家族、3代にわたって仕えたプロイセン王家の人々、上司や同僚、部下たち、恋愛感情の対象となった女性たちとの人間関係にも踏み込んで、その人生を巨細漏らさず描出している
   ビスマルクと彼の生きた時代を、ユンカー社会やプロイセン国家の伝統、そしてドイツ史のその後の展開、就中ナチズムとの関連に於いて論じようとする視座の強固なこと
   ユダヤ人問題への関心の強さ
   様々な史料からの豊富な引用により、旧来のビスマルク伝に対して新味を出そうとしている
本書の問題点:
   新たな未刊行史料が独自に発掘されていないし、従来の見解を覆すような決定的に新しい知見が示されていない
   随所に細かい誤りや事実誤認が散見



『ビスマルク』(上・下) ジョナサン・スタインバーグ〈著〉

朝日 201311170500
 大帝国を育んだ天才性と悪魔性
 鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクには、様々な冠がつく。「天才」「レアルポリティークの実践者」といった好意的なものから、平気で恩人を裏切ることから「冷徹、冷酷」、原理原則をもたない「融通無碍」、知人から「気違いユンカー」の称号を得て、フロイトからは「不気味なもの」、ヴィクトリア女王には「邪悪」と呼ばれた。敬虔なカトリック信者の「悪魔」は本書を読むと、褒め言葉かと思えてくる。
 本書の原題は「ビスマルクの生涯」であるが、18世紀のフリードリヒ大王からヒトラーの独裁、そして現在の欧州連合(EU)にいたるプロイセン(ドイツ)の近現代史を描き、その中心にビスマルクを据えている点に特徴がある。
 ビスマルクが継承したのは、啓蒙専制君主をいただく時代遅れのプロイセン。彼の幼少期には「未開の野」などといわれたが、その首相期間(186290)中に3度の戦争に勝利し、宗主国であるハプスブルク帝国の影響力も削ぎ、「ドイツ統一」を成しとげた。そのうえドイツ帝国を「ヨーロッパにおいて至上の地位」に押し上げる。まさに「天才」政治家の面目躍如たるものだった。
 ビスマルクの「悪魔」性は、「フランス革命の技術をその革命目標の達成を阻むために利用した」点にある。すなわち、当時民主化の流れを加速させるはずの普通選挙を、彼はオーストリアのドイツ介入という目論みを阻止するために実施したのである。決して、国内の自由主義者たちの要求を取り入れたのではなく、彼の立場からすれば「悪魔」と取引してでも「半絶対君主制」を維持することが目的だった。
 しかし、ドイツ国民はプロイセンの陸軍元帥だったヒンデンブルクをワイマール共和国の大統領に選出する。「ビスマルクの遺産はヒンデンブルクを経てドイツが生んだ最後の天才的政治家アードルフ・ヒトラーに受け継がれ、ビスマルクとヒトラーはこの遺産継承を通じて直線的に結び合わされたのである」
 話がそこで終わらないのが歴史のおもしろさである。ビスマルクは「半絶対主義的な君主制」を維持させ「ひじょうによろこばしいはじまり」だったが、失意のうちに退任するとき「不機嫌で敵意に満ちた労働者階級が登場」、それをヒトラーが利用したことで「かなしむべき、結末」を招いた。ところが1世紀半を経てユーロ統一で、「小ドイツ」は事実上「大ドイツ」へと変貌しつつある。
 ビスマルクは自ら質素な墓の墓碑銘に「皇帝ヴィルヘルム一世に忠実に仕えた一人のドイツ人」と書かせ、誇り高き「ユンカー」としての生涯を貫徹したのだった。
 〈評〉水野和夫(日本大学教授・経済学)
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 小原淳訳、白水社・各4830円/Jonathan Steinberg 34年生まれ。米国の歴史家。専攻は近現代欧州史。米ハーバード大学を卒業後、英ケンブリッジ大学で博士号を取得。同大で長く教壇に立ち、現在は米ペンシルベニア大学教授。本書が初の邦訳となる。


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