松岡二十世とその時代  松岡將  2013.12.13.

2013.12.13. 松岡二十世とその時代 北海道、満洲、そしてシベリア


著者:松岡將(すすむ) 二十世の長男。1935年北海道樺戸郡生まれ。幼少時代を大連、新京で過ごす。46.9.仙台に引揚げ。東北学院中高を経て東大経卒後農林省入省。72-76年外務省出向、在ワシントン日本国大使館勤務。農水省国際部長、東海農政局長歴任。退官後内外の国際農業関係団体・機関に勤務

発行日           2013.8.15. 第1刷発行
発行所           日本経済評論社

内容紹介

東京帝大新人会を経て渡北、小林多喜二『不在地主』の現場。富良野争議や月形村争議を指導・勝利するも、3.15事件で網走に下獄。満洲で労働・農業問題に取り組む。敗戦。極寒のシベリアで「ひゃくしょうのよきひ」を夢見つつ果てた。昭和の知識人、松岡二十世は何のための生きたのか。いま亡母に告げる。「父親回来了」。

目次

前編 大正デモクラシーから二・二六事件の昭和十一年まで 
第一章 松岡二十世の学生時代――大正デモクラシーの終焉から激動の昭和へ
1901年生まれ。父は仙台藩の支藩、登米(とよま)藩の祐筆の家柄の出。20世紀への希望と期待を込めて3男を「二十世(はたよ)」と名付ける
1. 第二高等学校にて
l  第二高等学校入学――四修五卒
東北学院中学部から2番の成績で文化乙類入学。家計的には不自由なし。姉も女子師範卒で小学校教諭に
l  失恋、長兄忠雄の客死(26)そして教会での受洗
21年、失恋や兄の急死などの一家の去就による心の痛手を癒し、「灰色の学都仙台」の心象風景から脱却して新しい人生に向かうための区切りとして受洗
後の二校校長で全国的にも高等学校の名校長とうたわれた阿刀田教授に出会う(次兄で松岡家の嗣子となった光三と阿刀田の妹が結婚)
2. 東京帝国大学法学部と東京帝大新人会
l  東京帝国大学法学部政治学科入学(22)
父母への世間的な孝養の機会は入学の年に上京した父母を鎌倉に案内したのが最後で、急速に変化しつつあった時代は、多くの東京帝大生を社会主義の嵐の中に巻き込んでいった
青春を燃焼させる選択肢に恵まれたが、その1つがマルクシズム
l  東京帝大新人会
18年、吉野作造法学部教授を中心に法学部学生によって普選研究会発足 ⇒ そのメンバーを中心に新人会誕生
23年頃には漸く学問の団体として活発に活動、セツルメント運動にも傾倒、大震災を契機に活発な社会運動母体となる
3. 東京帝大大学院にて(25年入学、法学部長:美濃部達吉)
l  政治研究会 ⇒ 24年、大山郁夫、賀川豊彦、鈴木茂三郎、布施辰治等によって、当時の革新勢力を糾合して創設、二十世の学内外での実践活動の枠組みの中心となる
近時の社会の行き詰まりを打破するために政治の根本的立て直しを要求
l  旭川での夏期農村青年学校 ⇒ 政治研究会と新人会を結びつける
l  二十世、北海タイムス社へ ⇒ 中間的な形勢観望地帯として新聞社への就職を決める。就職途上仙台で会ったのが父の普通の社会人としての豚児・二十世の見納め
l  エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の翻訳 ⇒ 当時「労農結合の問題」(農民運動)考察に当たってレーニンの『貧農に與ふ』と共に必読の書とされ、恩師・大内兵衛の示唆によって翻訳を始め、二十世の学生時代の最後に、彼の思想形成に大きく寄与

第二章 北海道農民運動のかがやき
1節 二十世の『不在地主』――労農提携のもたらした勝利
1.
 『不在地主』(小林多喜二著、29年発刊)の歴史的意味
富良野市の磯野農場の小作争議をモデルとして取材されたものだが、労農提携実現の初の成功例にも拘らず、その歴史的意義が評価されていないのは1年後の三・一五事件の大弾圧によって幻と消え去ってしまったから
2. 日農北聯と磯野富良野農場小作争議
26年、日本農民組合北海道聯合会が体制整備・強化により、小樽商業会議所会頭の磯野氏所有の農場で頻発していた小作人と地主との紛争を北海道農民運動の象徴的重要案件と位置付け、二十世を担ぎ出して全面的バックアップに乗り出す
3. 労農提携の下での争議の進展とその妥結
l  富良野農場小作争議団の出樽と銃火なき「戰ひ」の開始
27年、北聯と小作争議団が小樽で合体、労農提携の第1段階、画策したのが二十世
l  小作人妻女連の出樽と小樽での活躍 ⇒ 磯野側の強硬な態度で膠着状態となった戦線を支えたのが婦人部
l  小作契約書偽造が明らかに ⇒ 地裁での調停裁判で明らかになり地主も折れる
l  調停工作が実り小作争議妥結へ ⇒ 市議の尽力で調停成立、労農提携の全面的勝利となるが、真珠湾のごとく、北海道農民運動史に咲いたあだ花のごとく映ずる
4. 松岡二十世と小林多喜二 ⇒ 直接会った記録はないが、『不在地主』の取材を通じて多喜二が二十世の息吹を感じていたことは想像に難くない
l  『轉形期の人々』(33年刊)の中の二十世 ⇒ モデルとして登場
l  二十世のガリ版刷りビラ「情報第一号」と多喜二の『戰ひ』(『不在地主』の最後の5章として29年発表され、二十世のビラの記述がそのまま生かされている) ⇒ 多喜二が小作争議から強烈な印象を受けていたかはよく知られている
月形争議の後二十世が結婚した石田よい子は多喜二と面識があった

2節 樺戸郡月形村小作争議
1.      月形村小作争議の背景 ⇒ 26年の大凶作が北海道全土を覆う農民運動の高まりと相乗して、27年に各地で小作紛争・争議を頻発させるが、その最大のものが富良野と月形村、いずれも北聯主導、二十世が主役
1881年、囚人によって開墾された村。争議の中心となった石田家は新潟より移住
2.      月形村小作争議の特徴 ⇒ 小作側の勝利で小作料が低減されたが、富良野と違って月形では在村中小地主がいた上、劇場型で一般市民やマスコミの支援を得られた富良野と違い小作農民を支援する労働者もいなかったし、地主もいた地元での闘争となったため村当局が地主擁護に回り一層こじれる原因に
3. 月形争議第一幕の幕開けとその推移
l  見よ暴虐なる地主根性を
l  秋の闘争の火ぶたは 月形支部で切られた! ⇒ 地主が「立毛差押」(田畑に生育中の立毛=稲を動産執行として差押え)を強行
l  地主中西下水転落事件 ⇒ 婦人連の反地主的集団行動の犠牲
l  月形村役場での二十世の検挙と強まる弾圧 ⇒ 形勢悪化を懸念した警察が村長立会いの下協議中の二十世他を一斉検挙
l  警察犯処罰令の効用と限界 ⇒ 逮捕理由薄弱で、正式裁判となり保釈
l  二十世の保釈、現場復帰と争議の潮目の変化 ⇒ 二十世の正式裁判請求が、不用意な逮捕の抑止力に
l  植松村長の標津村への転任辞令下る ⇒ 局地戦への対処を誤り、村政全体に村民の批判を広げたことを道庁も重視、看過しなかった
l  月形村での日農北聯常任委員会の開催と植松村長の離村 ⇒ 弾圧に対する抗争方針討議
l  第一回村民大会の開催 ⇒ 農民組合主導で中小農民が結集
l  キヨウド ウダ イシヨウリ 六トカイケツ ⇒ 間を取って反当り6(平年は8)にて法廷和解成立
4. 月形村小作争議には第2幕もあった
l  二十世は旭川に戻り、月形争議第2幕始まる ⇒ 強硬な不在地主が訴訟を継続
l  一一・二一の仮差押えと換価売買の実施を巡る大紛争 ⇒ 地主が差押稲の換価競売を申し立て
l  札幌地裁での和解による争議第二幕の幕引き ⇒ 28年第1回普通選挙があり、治安維持法違反で二十世も検挙される(三・一五事件)状況の中、札幌地裁の和解は第1幕の条件に比べてあまりにも小作人にとって厳しいものだった
5. 月形村小作争議余話
l  二十世・よい子の結婚(27) ⇒ 第1幕の和解直後に恋愛結婚、松岡家の家柄、本人の学歴からして、松岡家が認めたとは思えない
l  東京帰りの喜多幸章北海道農民運動戦線に ⇒ 若き日の喜多幸章が応援に駆け付け、後に北海道農民運動の再建に尽くす契機となる
l  集産党関連を口実としての道内左翼関係者一斉調査
l  人間万事塞翁が馬 ⇒ よい子の実弟は丙種合格にも拘らず事後懲罰的な徴兵により入隊したおかげで共産党入党も三・一五事件の検挙も免れた
l  月形村争議関係者と三・一五事件 ⇒ 第2幕の途中で起こった三・一五事件により多数の拘束者が出て、月形争議推進体制は完全に崩壊していた

第三章 北海道三・一五と旭川共産党事件――治安維持法違反被告事件と北海道農民運動の崩壊
1. 北海道三・一五事件の序章
l  九津見房子と一燈子(ひとこ)、札幌へ ⇒ 北海道の党員開拓に赴任した共産党の中央委員三田村と同棲中の九津見母子が、三田村を頼って札幌へ
l  北海道三・一五事件と三田村四郎 ⇒ 28.3.15.を起点とした日本共産党事件(いわゆる三・一五事件)では、母娘は逮捕されたものの三田村は遁走、1年後に逮捕
2. 暁の急襲  
l  思想・言論暗黒時代の幕開け ⇒ 全国で検挙者は1600名。北海道が最大
l  北海道での三・一五の「被告人及被疑者一覧表」 ⇒ 250人を網羅
l  行政執行法による検束と「たらいまわし」
3. それぞれの三・一五  
 北海道廰特別高等課第一期捜査
l  札幌市
l  札幌市の三田村宅にて
l  小樽市
l  旭川市
l  樺戸郡月形村
l  旭川市在日本農民組合北海道聯合会にて
 北海道廰特別高等課第二期捜査
l  三月末の札幌の三田村宅にて
l  暗号党員名簿
l  党員名簿、地区委員会、そして地区委員会委員長
l  旭川地区委員会
l  四月八日、札幌の三田村の引越先にて
l  四月二十日、再び札幌の三田村の引越先にて
l  樺戸郡月形村の四月
l  日本共産党事件中心人物供述大要 ⇒ 420日までには容疑者全員を起訴
l  旭川地区委員供述
l  北海道三・一五事件捜査の終結
l  中心人物供述大要と三田村予審訊問調書との整合性
4. 捕らわれて
l  獄窓の同志より ⇒ 厳重な監視と検閲の目を通して漏れ伝わってきた獄中の様子
l  幹部連総逮捕下の日農北聯 ⇒ 一網打尽の検挙で事務所はがら空き
l  昭和三年六月二十九日、治安維持法改正 ⇒ 検挙要件の緩和と量刑の厳罰化
l  予審訊問の終結と付公判
l  旭川への冬の訪れ ⇒ 二十世は旭川で起訴、寒さが骨を指す
l  日本共産黨旭川地區委員會判決 ⇒ 被告9人全員有罪、二十世は懲役3
l  その時旭川地裁の外では
5. 捕囚の旅路と札幌控訴院での第二審判決
l  捕囚の旅路――旭川刑務所から札幌刑務所への移送
l  札幌控訴院での第二審判決も却下
l  大審院への上告と三・一五事件一周年記念日 ⇒ 5名が控訴
l  荒岡庄太郎の釈放 ⇒ 控訴院で唯一執行猶予が認められた
l  再びの大弾圧――四・一六大検挙 ⇒ 実質の残党狩りで、全農北聯は壊滅
6. 二十世の三・一五の終局――治安維持法ニ所謂國體ノ意義
l  治安維持法違反被告事件棄却判決 ⇒ 大審院でも棄却
l  「判示要旨」の意味したもの ⇒ 治安維持法に言う「国体」とは何かを巡る判断が示される
7. 「國體ノ意義」問題のよみがえり
l  「茲ニ國體ヲ護持シ得テ」――昭和二十年八月十四日
l  第九十帝国議会貴族院――昭和二十一年八、九、十月
l  「國體」は変わったのか、変わっていないのか
l  「國體ノ意義」問題の最終章 ⇒ 治安維持法に言う「万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬すること=国体」は、憲法改正によって変革、あるいは消滅したといえる

第四章 網走刑務所にて――網走番外地
1. 地の果ての監獄、網走刑務所  
l  網走番外地=網走市字三眺官有無番地 ⇒ 5人の被告は分別して収監、二十世は網走へ。量刑にしても服役地にしても唯一の大学出として見せしめにあったと思われる
l  網走刑務所の諸相 ⇒ 後に徳田球一らの共産党の大物が収容されたところ
2. 残された人々は
l  よい子と日農(全農)北聯 ⇒ よい子は女弁士として選挙の応援演説をしたが、四・一六で検挙、釈放
l  よい子札幌に行く ⇒ 二十世の網走送りを機に旭川から札幌に移住、受刑者の救援活動に
l  大山郁夫、よい子に会う ⇒ 余計によい子に対する特高の目が厳しくなる
l  仙台の松岡家では ⇒ 当主の光三が「香山園」という造園と温室栽培事業を営み、順調に推移
l  香山園でのよい子 ⇒ 香山園に避難したが、ほどなく香山園が経営難で倒産
l  網走刑務所チブス事件 ⇒ 30年二十世がチブスで危篤との報に両親共々網走へ、よい子の献身的な看病で一命をとりとめる
l  光三一家札幌へ移住
l  札幌での光三 ⇒ 道庁に勤務することになっていたが、当日になって特高からの横やりで反故に
l  陳平の最期 ⇒ 異郷の地の貧乏暮らしがこたえた揚げ句の投身自殺
l  二十世の出獄 ⇒ 32年のこと

第五章 釈放、休養、そして再び北海道農民運動戦線へ――二十世の昭和七年
1. 二十世の網走在監当時の全農北聯
2.  雨龍村蜂須賀農場小作争議とその帰結 ⇒ 31年の大不作を機に勃発、団体交渉決裂で小作人が暴徒化したため、治安当局が大量検挙、小作人側の惨敗に終わる
3. 網走出獄後の二十世
l  月形村での静養
l  石狩山麓の野天風呂
l  二十世、再び全農北聯書記に
4. 東京地裁治安維持法違反判決――東京帝大新人会の同輩連は
三・一五に係る東京地裁の判決が出たのは30年、東京に固有の獄中転向問題が絡む
5. 荒岡委員長の全農北聯脱退 ⇒ 北海道農民運動の草分け的存在であり、二十世も荒岡にいざなわれて農民運動に入ったが、相次ぐ検挙で闘志を失う
6. ささやかな幸せの中での越年――二十世、家族持ちとなる
l  五年遅れの松岡家と石田家の親戚固め
l  長女揚子の誕生 ⇒ 揚子江に因んで命名

第六章 続く凶事、弾圧、そして大転向の時代へと
1. 昭和八年の春にかけて
l  雨龍村での同志西尾音吉の死
l  東京築地での小林多喜二の死 ⇒ 取り調べ中の心臓麻痺と公表されたが、告別式は犯罪者でもないのに犯罪者葬儀取締令が適用され禁止された
l  國際聯盟からの脱退――昭和八年二、三月
l  全道支部代表者会議の開催、不能となる
2. 夏とともにきた大転向時代
l  転向の季節の到来――昭和八年六月 ⇒ 無期懲役で服役中の共産党の重鎮、佐野学、鍋山貞親が転向を発表
l  九津見房子の釈放
l  佐野、鍋山、三田村の裏切に対し 全道農民諸君に檄す!⇒ 全農北聯が発出
l  笛吹けど踊る人は?
l  我なにをなすべきか ⇒ 僅かに残された二十世たち同志にとって、特高の監視の下、なかなか次の行動に出られずにいた

第七章 それぞれの転機
1. 東京地裁判事・菅原達郎の場合
l  東京地方裁判所所長室にて ⇒ 菅原は二十世の生涯の親友であり、東北の一寒村出の秀才少年のサクセス・ストーリーの典型、転向促進政策の発案者でもあった前東京控訴院検事長の娘と結婚。満州国出向の打診
l  そして菅原達郎は ⇒ 自分の人生に対してもっと積極的になるために受ける
2. 松岡二十世の場合
l  山名正實(北聯の旭川地区委員長、5年の実刑)――転向後昭和九年一月一日出獄
l  全国農民組合総本部伊藤實書記の来道と総本部復帰 ⇒ 伊藤がもたらした全国的な農民運動に関する生の情報を基に、内部分裂をしていた組織が一本化
l  指導者は農村へ――旭川の北、剣淵村への移住(34年春)
l  六月十日、支部代表者会議開催

第八章 「隗より始めよ」――北海道上川郡剣淵村にて
1. 剣淵村暮らし始まる――凶作に打ちのめされて
2. 昭和十年前半――全農分離派、全農維持派の抗争劇
l  全農分離派と全農維持派の抗争始まる
l  長男將の誕生
l  北聯解体・新団体設立派の動き
l  全農北聯の全農総本部復帰と二十世の上京
3. 北聯再建委員会
l  山名正實の来道と北聯再建委員会の立ち上げ
l  杉山全農総本部中央委員長(代議士)の来道と全協七・一〇事件 ⇒ 全協は共産党系労組の聯合体。北海道では三・一五、四・一六に次ぐ大規模な治安維持法違反容疑事件。北海道における共産党関係の運動は本件で壊滅。二十世は起訴猶予処分に。拘束された山名は二十世を日和見主義と批判
l  全農北聯再建委員会のその後
l  「指導者は農村へ=剣淵村移住」の終焉 ⇒ 35年末、最多組合員を擁し北海道農民運動の砦となっていた旭川中心の上川地区管轄のため旭川に戻る

第九章 再びの旭川――昭和十一年、平常の年の最後
l  二十世旭川に戻る
l  第十九回衆議院議員総選挙と二・二六事件 ⇒ 独自候補擁立は論外、既成ブルジョア候補を応援、金や女を巡るスキャンダルにまみれる。数日後に二・二六
l  政治の季節と労農提携の夢よ再び ⇒ 数で勝る労働者に押されて牧歌的な提携は過去の遺物に
l  全農北聯の新執行部体制と全農創立十五周年記念大会

後編 日中戦争の開始からシベリアでの抑留死まで
第一章      前半が平時、後半が戦時――南京陥落で終わった昭和十二年
1.      平和の時代の最後
l  全道農民協議会の開催 ⇒ 37年初頭
l  全道農民協議会における二十世関連決定事項 ⇒ 書記長に就任。全国農民組合全国大会出席のために上京したのがその後の思考、思想面での変化を遂げる端緒となる
l  東京にて――昭和十二年二、三月。中央委員会委員に任命され「全農ファミリー」に溶け込む。杉山が委員長。10か月後には第1次人民戦線事件による主要メンバーの治安維持法違反容疑に基づく逮捕で事実上崩壊
l  山名正實、政治部・機関紙部の部員に
l  旧友岡田宗司(帝大新人会の後輩)、門屋博(二十世と同郷の1年後輩)を語る
l  門屋博と『新評論』誌――新人会の誌上同窓会
l  第二十回衆議院議員総選挙 ⇒ 「食い逃げ解散」後の、事実上戦前最後の政党制下の選挙。社会大衆党が第3党に大躍進
l  北海道での総選挙の結果 ⇒ 全5区中第2区からのみ社会大衆党旭川支部長を候補に立てるが次点
l  全農北聯による候補者擁立の動きとその失敗
l  第一次近衞内閣の成立と新農相有馬頼寧伯爵の土地政策への期待 ⇒ 農政学者から代議士となり、農民運動への参加、部落融和の促進、賀川豊彦との交友から日本農民組合の設立にも関わるなど注目。競馬の「有馬記念」の発案者
l  塩野季彦の法相留任 ⇒ 菅原の義父が検事長の時の次席。3内閣に法相として入閣
l  論考「新内閣と土地政策の展望」の『新評論』への寄稿 ⇒ 前内閣の瓦解と共に葬られた農地法案に代わる新土地政策に期待
l  土地制度問題の後日談 ⇒ 38年、地主・小作人間の土地貸借を律する農地調整法が公布され、全国市町村に農地委員会が設立されるが、戦時体制に入って効果は少なく、二十世の目指す小作人のための真の「農地改革」は敗戦を待たなければならなかったものの、戦後比較的短期間に改革が進んだのは農地委員会の存在が大きかった
2.      日中戦争の開始と急速に戦時化していく我が国社会
l  北支事変の勃発と社会大衆党
l  北海道社会大衆党にあっては
l  社会大衆党全道支部代表者会議
l  「社大党北聯」と「全農北聯」の二重性
l  社大党全国大会と全農地方有志懇談会
l  二十世、島木健作と会う ⇒ 島木は本名朝倉菊雄、2歳年下で札幌出身の農村作家、後に『東旭川村にて』の冒頭に二十世との仲の親密さを披露
l  戦時社会経済体制への移行
l  昭和十二年の師走――南京攻略と祝賀提灯行列
l  その蔭での第一次人民戦線事件 ⇒ 37年暮れ、治安維持法違反容疑で現職代議士を含む労農派の運動家等372人の一斉検挙。山川均、加藤勘十、鈴木茂三郎、向坂逸郎らで、二十世は対象外
l  人民戦線事件の農民運動への影響
l  農地調整法の準備、始まる

第二章 日本社会も二十世も変わっていった――東京もそして旭川も
1.      昭和十三年の年初
l  岡田嘉子・杉本良吉の南北樺太越境事件
l  内地から二十世に届いた二通の手紙 ⇒ 全農本部から戦時協力体制への移行を決定した旨の通知と門屋博からの私信
l  門屋博からは ⇒ 北支に皇軍慰問に出たことの報告
l  昭和十三年度全農北聯拡大委員会 
l  第二次人民戦線事件起こる ⇒ 大内兵衛拘束。江田三郎、佐々木更三らも
l  全国農民組合が解体され、大日本農民組合が結成された ⇒ 全農は旧幹部を解任して解散、杉山を座長として新組織結成
l  山名正實とゾルゲ事件再説――九津見房子とともに事件に関係する ⇒ 35年ごろ、山名はゾルゲ機関に取り込まれ情報を売り始める
l  大日本農民組合北海道聯合会 ⇒ 全農北聯からそのまま全日農北聯となり、二十世は主事(書記長の新職名)に就任
l  第七十三帝国議会における農地調整法の立法化
l  農地調整法の内容 ⇒ 5割弱が小作地、3割弱が小作農家という現状にあって、小作争議の頻発に対応するために農地関係の調整、改善を図る
l  帝国議会での農地調整法の審議
l  第七十三帝国議会での戰時立法 ⇒ 国家総動員法とともに農地調整法も成立。社会大衆党幹事長の西尾末広は総動員法の賛成演説中に「スターリンの如く」と発言して議員除名
2.      麗しの春は来ず
l  徐州攻略作戦の下命――徐州々々と 人馬は進む
l  「農村勞力不足とその對策」 ⇒ 二十世が『新評論』に寄稿、滿洲移民計画による過剰農村人口の大量的な放出こそが日本農村の土地不足を対蹠的に解決するものと主張
l  大日本農民組合第一回全国大会に出席
l  二十世、門屋博と会う
l  二十世、旭川に戻る
l  大日本農民組合のその後
3.      昭和十三年の夏
l  初夏の頃の内外情勢
l  赤い夕日の満洲へ――僕も行くから君も行け
l  大日農北聯主事、二十世の主要任務 ⇒ 農地調整法の実施の指導と滿洲農業移民関連事項の処理
l  国民思想研究所の訪問――浅野晃と村山藤四郎(いずれも新人会からの知己)
l  大日農北聯の夏期活動
4.      秋の訪れ
l  武漢三鎮攻略戦のさなかで
l  再び三たびの自問――「われ何をなすべきか」
l  島木健作の来旭
5.      旭川での去りゆく秋と冬の到来
l  「コップの中の嵐とその後」の政治学 ⇒ 自由主義の不評判と全体主義の台頭によって無産政党運動も下火にならざるを得なかった
l  「こころざし」派と「メシのタネ」派と
l  「國民政黨出でよ職業的政治家の没落
l  奉魂新營隊の立ち上げ、不調に終わる――一波万波をよばず ⇒ 38年、二十世が旭川にて「馬鹿正直突進隊(後の奉魂新營隊)」を組織、同志結集の檄文を配布
l  そして東京での政変にあっては――旧司法検察官僚平沼騏一郎の登場 ⇒ 39年初頭、近衛内閣に代わって超保守的思想の平沼内閣が塩野法相を組閣参謀として発足

第二章      東京へ、そして大連へ
1節 さらば北海道
1.      厳冬下の旭川で
l  雪と氷柱(つらら)に埋もれて
l  よい子の日課
l  ある夜の出来事 ⇒ 二十世がよい子に上京して「国民思想研究所」入りを告げる
2. 別れ  
幼き惜別
女は女同士
きみがやに むしろにいねて かたらいし
樺戸郡月形村にて
月形村役場の村長室にて
『月形村史』発刊計画
松四郎三女満子の誕生
『月形村史』余話  ⇒ 42年刊行
2節 十五年ぶりの東京
1.      桜の散った頃の上京 ⇒ 幡ヶ谷に落ち着く
l  昭和十四年の内外情勢
l  国民思想研究所と二十世の入所
l  「郷土への愛着」――知的再建の旅路の背景
l  二十世の私生活 ⇒ よい子が肺結核となり療養所へ、長女と長男はそれぞれ別の親戚に、次男は里子に出し、独居生活が始まる
l  「国民思想」誌
l  戰爭は、何人も真似ることの出來ない消費者
l  二十世、編輯發行兼印刷人となる
2. 大陸行きの契機
l  大連から来た手紙――宮川精一郎、石堂清倫、甘粕正彦 ⇒ 甘粕に可愛がられた新人会の後輩で満鉄調査部にいた石堂の紹介でたまたま大連から手紙
l  社団法人関東州労務協会と二十世への調査部長ポストのオッファー
3. 兄光三の死と大陸行きの決断
仙台からの至急電と兄光三の死
妹深雪の悲しみ
松岡家最後の「男」――大陸行きの決断 ⇒ 阿刀田が遺族の面倒を見てくれることとなり、二十世は大連行きを決意
東京も長居の場所でなく
妹深雪との訪れ
知的再建の旅路の終わり――十一月二十五日 ⇒ 特高の監視から解き放たれてみっちり好きな勉強をさせてくれた国民思想研究所を退所、大連に向かう
知多半島の療養所にて ⇒ よい子に別れを告げる

第四章 日本の租借地、関東州大連にて――満洲の労働統制問題と関東州労務協会
1. 二十世、大連に着く
l  はじめての大連
l  大東公司による華北苦力の労働統制 ⇒ 大東公司は、甘粕の肝いりで新京を本社として設立された華北から滿洲へ流入する苦力の大群の労働統制のために設立され、その大連出張所が関東州労務協会の前身。
l  永井了吉による「華北苦力の流入と労働統制の実態」
l  日・満両国間の「チガイホーケンテッパイ」
l  条約、協定発効後の「労働統制」問題の推移
l  労務協会宮川常務理事室にて
l  海水浴場の夏家河子(かがかし)にて
2. 満関労働問題に取り組む二十世――昭和十五年
l  満関労働問題調査ことはじめ
l  二十世、新京で菅原達郎と会う
l  昭和十五年の関東州労務協会
l  昭和十四、五年頃の労働統制問題の実態 ⇒ 苦力の滿洲国入りは、関東軍の労働統制委員会の決定に基づき関東州労務協会が発行する身分証明書による許可制だったが、北支での凶作による農民生活の窮乏化で急激に膨らむ(40年には1.3百万人)
l  論考「滿洲勞力問題の將來」

第五章 戦雲立ちこめていく年――新京で、大連で、そして東京では
1. 協和会大改革――昭和十六年初春の新京にて
l  満洲国協和会 ⇒ 32年、多民族国家である滿洲国における民族協和(5族協和)実現のため組織で、唯一の民意吸収機関
l  民族協和のシンボル、五色の満洲国旗――その命運
l  三宅光治(予備役陸軍中将、元関東軍参謀長)協和会中央本部長と皆川豊治総務部長(国家主義的思想の持ち主、甘粕の後任)
l  満洲国協和会の大改革に向けて
l  改革のための「第四の男」と協和会改革 ⇒ 菅原が皆川の後任として着任。二十世は菅原の推薦もあって、関東州における協和運動推進・連絡調整のため協和会嘱託となり、滿洲国協和会との関係を深めていく
2. 関東州大連にあって
l  関東州労務協会調査部長として
l  ひるがえって日本内地では ⇒ 社会経済の統制化、戦時化が急ピッチで展開
l  二十世、家族を内地から大連へ
l  菊川忠雄の指導部長就任
3. 駆け足でやってくる戦争
l  北進論と南進論とのはざまで――関東軍特種演習
l  深まりゆく無策の自己増殖的危機
4. 迫り来る戦争の背後で――ゾルゲ事件の影
l   事件の摘発と尾崎秀實の逮捕(尾崎は二十世と帝大法同期)⇒ 41.9.から事件関係者の逮捕開始、日本側の首謀者尾崎と事件全体の首謀者ゾルゲも逮捕。近衛内閣の嘱託・ブレーンでもあり、満鉄東京在の高級嘱託でもあった尾崎の逮捕に衝撃が走る
l   事件関与の著名人と北海道関係者 ⇒ 西園寺公望の孫・公一や犬養毅の3男・健も起訴された(犬養は無罪)
l   ゾルゲ事件と二十世 ⇒ 北海タイムスを朝日に変えると、二十世と尾崎の経歴は酷似するが、二十世の周辺で逮捕者が多く出たものの、本人は無関係
l   尾崎秀實第一次上申書
l   尾崎秀實第二次上申書
5. 同じ頃の満洲では
l   一・二八工作事件による全満一斉検挙――満鉄調査部事件の端緒 ⇒ 41.11. 満州全土での日系左翼前歴者の一斉検挙
l   事件の概要 ⇒ ハルピン北方で農村協同組合を設立し、中小貧農中心の農民運動を展開しようとした北満型合作社運動とも言われた「浜江コース」を通じて扇動
l   「満鉄調査部事件」へ続く道――リンクピン鈴木小兵衞(新人会同期、満鉄調査室所属) ⇒ 在満日系共産主義運動の首謀者と見做され逮捕
6. 再び関東州大連にて
l   昭和十六年の満・関・華北労働統制問題の推移
l   論考「滿關勞働問題の一年間」

第六章 満洲国の首都新京で――協和会入りした二十世
1. 「大東亜戦争」開始の直後にあって
l   開戦直後の大戦果
l   二月中旬の新京にて――菅原達郎と ⇒ 二十世は関東州労務協会の監察役として菅原に状況報告のため新京に向かう
l   二十世の協和会入り――背広の大連と協和服の新京の二都物語 ⇒ 満州国協和会中央本部部員に任命、新京との間を往復する日々が続く
l   満洲国協和会創立十周年記念号――「協和運動」第四巻第七号 ⇒ 建国の功労者の終戦時の運命は、甘粕が服毒自殺、「満洲国の父」と言われた本庄繁は割腹自殺、板垣征四郎は極東国際裁判の判決に基づき刑死
2. 満洲国建国十周年の秋
l   興亜胡同の協和会住宅にて
l   建国十周年慶祝式典
l   満洲の農業・農村問題特集――「協和運動」第四巻十月号
l   建国十周年慶祝のかげで――団体結成罪違反判決と「満鉄調査部事件」第一次検挙

第七章 かくして終わりが始まっていった――昭和十八年
1. 昭和十八年初頭の東西軍事情勢とその推移
l  スターリングラードでのドイツ軍敗退とドイツのその後
l  熱帯の島、ガダルカナルで
l  大本営発表――その粉飾と欺瞞と
2. 満洲農業とのふれ合い
l  増産推進全国会員大会――昭和十八年二月、新京にて
l  増産対策座談会の開催
l  京図線での早春の敦化と蛟河への旅
l  敦化縣聯合協議會にて
l  報徳道の人、水谷最
3. 戦時中の満洲を覆う暗い影
l  中央本部総務部長室にて
l  関東憲兵隊による「北満合作社事件(正式名: 一・二八工作事件)」と「満鉄調査部事件(正式名:九・二一事件)」 ⇒ 4143年にかけての左翼活動家の一斉検挙で、最重要人物が鈴木小兵衛。本件により満鉄調査部は完全崩壊。多数が収監中に発疹チフスや栄養障碍で死亡
l  満鉄による自粛措置と新京高等法院判決
l  満鉄調査部事件における個々人の命運は ⇒ 二十世を満洲に誘った石堂も起訴
4. 春の新京での二十世
l  蒙古風と柳のわた ⇒ 春には黄塵万丈の「蒙古風」によって冬の極寒に備えた二重窓でさえかいくぐって黄塵が家中を砂っぽくしたし、日本の桜に対し滿洲の春の象徴は柳の綿(柳絮:りゅうじょ)
l  新京での子供たち
l  山本五十六の戦死とアッツ島の玉砕
5. 協和会中央本部の機構大改正
l  組織改正の主要点 ⇒ 菅原の指示で二十世が担当
l  時期的に「遅れて来てしまった」 ⇒ 戦局の急激な悪化についていけなかった
l  二十世への人事異動内示
l  文化部弘報班主務として ⇒ 所掌事項は滿洲の一般大衆にいかなる情報をいかなる媒体で普及伝達するかで、紙芝居が登場
l  父親回来了 ⇒ 紙芝居の題名で、消息不明の父親が戻ってきた物語
6. 終わりの始まりの年の秋
l  尾崎秀實の死刑判決 ⇒ 死刑判決を下した裁判官も同期なら、秀實の情報によってソ連が対独戦争に全力を注ぐことができ、それによってソ連の対日宣戦を可能ならしめ、いずれも同期の菅原と二十世の異郷での非業の最期をもたらすことになるとは思いも及ばぬことだった
l  学徒出陣壮行会――明治神宮外苑にて
l  大東亜会議の開催――帝国議会議事堂
l  南海の航空決戦絶え間なく――大本営発表シンドローム
l  南の島々で相次ぐ玉砕

第八章 戦局の悪化とともに全てが失われていく
1. 新京での昭和十九年の新春
l  子供たちの正月 ⇒ 大戦の最中でもそれなりに小さな平和があった
l  母の喜寿への祝歌
l  協和会文化部次長として ⇒ 41年満州文芸家協会設立、壇一雄、山田清三郎(委員長、滿洲新聞社主筆)らが参画
l  在満元プロレタリア作家、山田清三郎
l  二十世、山田清三郎と会う ⇒ 二十世は山田と相互協力に関し話し合う。両者はシベリア抑留中、シベリア最大の都市ノボシビルスクの駅頭で偶然自分の行き先も知らないままに遭遇、二十世が死ぬ2週間前の出来事
l  協和會文藝賞 ⇒ 多民族国家である満洲国においては、「藝文」が「民族協和の実現」のために重要な役割を果たすことを認識、その1つの象徴として創設
2. 友との別れ
l  菅原達郎の政府転出異動辞令 ⇒ 協和会運営の中心だった菅原が間島省長(知事)に転出
l  ソ満、鮮満国境の間島省の特性 ⇒ 軍事上の重要性を持つ省
l  達郎と二十世の別れの杯
l  菅原達郎のその後――満洲国の崩壊とともに ⇒ 45年ソ連の滿洲侵攻時、菅原は間島省長から鮮満国境の通化省次長に転出、滿洲国が新京から通化省に移動、帝国大崩壊の最後の歴史的現場立会人となる。廃帝溥儀を通化飛行場で見送った後連行される途中で非業の最期を遂げる
3. ヨーロッパとアジアでの昭和十九年六月――見えてきた大戦の終結
l  D-DAY――ノルマンディ上陸作戦
l  日本本土攻撃のためのB29の登場
l  マリアナ諸島攻略戦――サイパン島失陥と東條内閣の総辞職
l  B29による満洲爆撃
4. 「巨象」はひと知れず「虚像」となっていった
l  栄光に満つ 関東軍
l  国軍軍容刷新要綱による戦力整備
l  南方戦線への関東軍の戦力転用
l  帝国陸軍対ソ作戦計画要領の下達――遅すぎた「攻勢」から「守勢」へ
5. 深まりゆく満洲の秋
l  赫々たる戦果だった筈の台湾沖航空戦
l  フィリピン沖海戦と紳風特別攻撃隊の登場
l  満洲と日本での一般の「戦争」感
6. 満洲芸文協会、大東亜文学者会議、決戦芸文大会
l  満洲芸文協会の設立 ⇒ 満州国における芸文統制の一元化を図るために44年設立
l  第三回大東亜文学者会議南京大会とその後
l  高見順の新京とハルビン
l  決戦芸文大会の開催――新京記念公会堂にて
7. 昭和十九年の年の暮れ
l  半年ぶりで日本に戻った高見順
l  坂田総務部長邸にて ⇒ 坂田は菅原の後任の総務部長、4年後輩。二十世のプロレタリア文学擁護の発言が憲兵隊を刺激するとの忠告を受ける
l  明日は明日の風が ⇒ 戦局の急速な悪化の中で、自分がどのように生きていくことになるのか見当もつかなかった

第九章 満洲帝国の崩壊に向かって
1. カタストロフィーとしての昭和二十年 ⇒ 在滿洲の二百数十万の日本人にとっては、89日のソ連軍の滿洲侵攻により、いきなりカタストロフィーが幕開け、終戦の詔書も1通過点に過ぎなかった
45年春から夏にかけての「根こそぎ召集」で、40万の成年男子中25万が南方戦線へ駆り出され悲劇を倍加
2. 昭和二十年の初春
l  満洲での正月 ⇒ 空襲圏内に入った東京に比べればまだ平穏
l  昭和二十年始め頃の日・満での共同幻想 ⇒ 聯合艦隊不滅幻想と北辺の護り精強関東軍幻想を日満で共有
l  満洲での「精強関東軍幻想」と「新作戦計画大綱」 ⇒ 対ソ攻勢から守勢へ転じた
l  東京の中枢での昭和二十年の正月 ⇒ 大晦日夜からの断続的な空襲警報
l  ルソン島における日米決戦 ⇒ 19日連合軍がリンガエン湾に上陸、25万の日本軍のうち22万が戦病()
3. 昭和二十年の二月
l  免文化部次長、任調査部付
l  二十世の朝鮮紀行――ある農場長の話
l  日・満間の人と情報の交流杜絶
4. 昭和二十年の三月――B29による日本本土爆撃のために
l  硫黄島攻略戦
l  カーチス・ルメイ空軍少将の登場と対日専用焼夷弾を用いた日本本土焦土化作戦
5. 昭和二十年の四月――カタストロフィーはすぐそこに
l  人事異動もままならず
l  二十世の満映への転籍 ⇒ 「前歴もの」にとって憲兵隊からの「暗黙の安全地帯」
l  日米沖縄決戦とソ連ベルリン総攻撃の同時進行
l  四月中旬――ルーズベルト大統領の急死
6. 第二次世界大戦の最終局面
l  ドイツ第三帝国の終焉
l  沖縄戦の敗退
l  B29による日本全土無差別爆撃
l  その頃満洲国首脳は
l  根こそぎ動員――関東軍の、関東軍による、関東軍のための
l  ポツダム宣言、広島原爆投下そしてソ連参戦

第十(終)章 二十世のシベリア物語――きみがやに むしろにいねて かたらいし ひゃくしょうのよきひ すでにくるべし
1. 物語の発端
l  昭和二十年九月の新京 ⇒ ソ連兵により連行
l  新京でのこれまでの二十世
l  協和会住宅在住だった二十世 ⇒ ソ連参戦直後に召集、「満映部隊」に合流、家族は汽車で南へ逃避行となるが、終戦で部隊が解散、家族も逃避行が不可能となって新京に戻り再会
l  二十世の連行、十年後の戦病死公報、そして更に半世紀後の新資料の出現 ⇒ ソ連の支配下での日常が始まり、突然の連行、以後10年消息なく、日ソ国交回復時の56年宮城県知事名での戦病死公報が届く
l  戦犯容疑者の逮捕開始 ⇒ ソ連軍は819日に新京に進駐、月末から戦犯の逮捕開始
l  満洲帝国協和会 ⇒ ソ連は、ナチスにおける国家社会主義ドイツ労働党と同様のものと認識
l  容疑者の連行・勾留・訊問そしてシベリア送り ⇒ 尋問に基づいて個人別に詳細な「登録文書」が作成され、その記載内容によって命運が決定
2. 収容所生活の始まり
カザフスタンからウズベキスタンへ
3. 第三八七収容所にて
l  収容所の支所から本所へ
l  長歌 農民に捧ぐるうた ⇒ 日本人抑留者を対象としてハバロフスクで発行されていた『日本新聞』が47年参加を呼び掛けた文化コンクールへ三・一五事件当時の農民同志を思い起こして歌った詩を投稿。長歌と反歌のセットで、反歌が表題のもの。「農民運動の指導者で幾多の大衆的小作争議を指導」と異例の紹介。半年後の彼の命運を決めるものとなる
l  望郷の念と新しい時代への賛歌
4. 極東への旅立ちと「徳田要請問題」の国会論議
二十世の詩才が認められ『日本新聞』の執筆陣に迎えられることとなり極東に移送
l  参議院特別委員会(昭二五・二・二三)⇒ 50年に日本共産党書記長の徳田球一がソ連に対して行った「徳田要請」の存否が重大政治問題化、国会での証人喚問の中で、既に2年前に死亡していた二十世の名が出てくる。徳田の要請によって二十世が早期に帰国したとの噂が出たのが発端
l  衆議院考査特別委員会(昭二五・四・一三)
l  二十世の死亡除籍 ⇒ 宮城県知事からの広報に記載された死亡日は23.3.9.となっているが、半世紀後に出てきた「登録文書」によれば23.3.14.
5. ノボシビルスク駅にて ⇒ 死の直前山田清三郎に会う
6. コムソモリスク・ナ・アムーレにて
l  『転向記――氷雪の時代』(山田清三郎著)の二十世
l  登録文書による二十世の去就
l  第八九三特別病院での診断、治療、そして死亡 ⇒ 特別病院にて原因不明の高熱のため死亡(髄膜炎から乾酪性肺炎が急速に進行)
l  遺体の埋葬 ⇒ 現地で解剖、死因確認の上病院墓地に埋葬。現況は慰霊碑が建つものの区画等の識別不能
7. なお残るなぞ
l  まだシベリアのどこかで ⇒ 二十世の死後1か月して『日本新聞』に二十世名の檄文が掲載された
l  なぜ本人の死亡後に
l  山田清三郎の場合は ⇒ 50年に帰国、『ソビエト抑留紀行』を発表したがそこには二十世に関する記述はなく、以後8年間二十世の死を語らなかったのはなぜか?
l  人はいつ死ぬのか ⇒ その人を知る人々によって認識されて初めて死ぬ


あとがきにかえて――68年目の「父親回来了」
87年、「東京帝大新人会」研究のまとめに、関係者による「思い出の記」執筆を求められて筆者が「父親回来了」と題する一文を書いたが、死亡公報を信じようとせずに亡くなった母の供養のために、埋もれたままになっていた父の生涯を明らかにしようと思い立つ



松岡二十世とその時代 北海道、満洲、そしてシベリア 松岡 將 著 
東京新聞 2013922

写真
「農民のため」 貫いた生涯
[評者]脇地炯(けい)=評論家
 松岡二十世(はたよ)は昭和初頭、エリートの道を捨てて北海道の農民運動に投じた人である。小林多喜二『不在地主』で知られる磯野富良野農場と月形村の小作争議を指導、「共産党狩り」に連座して三年間下獄した。思想的彷徨を経て旧満州国に渡り今度は農政全般に心を砕いたが、ソ連に抑留されシベリアで病没した。「農民のため」という使命感を貫いた数奇な生涯を、遺児が十年かけて追跡した大冊である。
 争議を担った日本農民組合入会に先立つ東京帝大時代、二十世は学内の「新人会」に属して労働者や農民と交流する一方、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』を翻訳、社会主義への傾斜を深めていた。が、それだけでは使命感とその持続の理由は解けない。伊達支藩の書記だった生家の家風や、受洗していたキリスト教の倫理的影響はどうだったか。考察の欲しかったところだ。
 二十世らの「小作組合型」農民運動は、小作の地位に修正を加えた昭和十三年の農地調整法成立もあって衰えていく。日中戦争が泥沼化し思想弾圧が厳しくなるなか、「階級闘争のためでなく全国家のために尽くすべき」だと述べるに至る。だがその具体策こそ農村建設だという含みがあり、思考変換のなかに固有の倫理が透けて見える。
 ところで著者は『不在地主』中の檄文は二十世が書いたビラそのままであり、『転形期の人々』の学生のモデルは二十世であると実証的に指摘している。文学史研究上の手柄であろう。
 十四年末、大連に職を得て日本を離れ、家族を呼び寄せる。満州国の政治団体「協和会」幹部に転じ、農村視察や喫緊の農業問題に関する論文執筆に全力を傾ける。異民族との「協和」実現には「三千万農民をうるほ」すことが必須だというのが持論だった。
 小作問題もソ連社会主義信仰も遠い歴史になった。二十世の生涯はその制約を負った時代的なものだった。が、社会的弱者に寄せた一途な倫理感は今日なお、検討に値すると思われる。
(日本経済評論社・5040円)
 まつおか・すすむ 1935年生まれ。元農水省国際部長。


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