国家と音楽家  中川右介  2013.11.25.

2013.11.25. 国家と音楽家

著者 中川右介(ユウスケ) 1960年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。「クラシックジャーナル」編集長。膨大な資料から埋もれた史実を発掘し、新たな歴史を構築する執筆スタイルで人気を博す

発行日           2013.10.26. 初版第1刷発行
発行所           七つ森書館

『週刊金曜日』2011.4.29.2013.4.5.に隔週掲載。単行本化に当たって参照した自著は『カラヤンとフルトヴェングラー』『世界の10代オーケストラ』『20世紀の10大ピアニスト』(12-02)『第九』『未完成』

ヒトラーに翻弄されたフルトヴェングラーとカラヤン、ムッソリーニに抵抗したトスカニーニ、スターリンに死の寸前まで追い詰められたショスタコーヴィチ―20世紀という戦争と革命の時代、音楽家はいかに国家と対峙したのか。

はじめに 
音楽史に刻まれている大音楽家たちが、20世紀という革命と戦争の時代に国家とどう対峙したかを描く、歴史読み物

第1章     独裁者に愛された音楽
史上最も芸術に理解があり、芸術を保護し支援した政治家は、恐らくヒトラーで、彼の政権ほどクラシック音楽とオペラを優遇した政権はない。それゆえに音楽家たちは、戦後ナチ協力者として批判されたが、音楽家たちに罪はあったのか
Ø  ヒトラー政権 ⇒ 1933.1.ヒトラー首相就任
ベルリンの州立劇場でワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》がヒトラーの前で上演され、フルトヴェングラーが指揮
新たに「国民啓蒙・宣伝省」が設置され、ゲッペルスが大臣に就任
宣伝省の下に全国文化院が置かれ、リヒャルト・シュトラウスが総裁、フルトヴェングラーが副総裁に就任

Ø  ドイツを去った音楽家たち
フリッツ・ブッシュ(18901951) ⇒ ドレスデンのザクセン州立歌劇場音楽監督だったが、オペラの上演が中止され、弟の世界的ヴァイオリニスト、アドルフの妻がユダヤ人だったこともあって、ドイツを離れ、その後任にはナチス政権を礼讃していたカール・ベーム(18941981)が就任、ゲッペルスの良き相談相手となる
ブルーノ・ワルター(18761962) ⇒ ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団を指揮する予定が政府から中止命令。ドイツ音楽を中心に当代随一の指揮者だったがユダヤ系であり、オーストリアに移住、さらにフランス市民権を得て亡命、アメリカに渡る
ベルリンの音楽総監督はエーリヒ・クライバー(18901956) ⇒ ユダヤ系ではなかったが、ナチスの口出しに反発して34年辞任。プロイセン州首相ゲーリングが狼狽して慰留したが拒絶、国外に去る

Ø  フルトヴェングラーの抵抗 
フルトヴェングラーもナチスの介入に抗議して公職を辞任したが、ゲッペルスの懐柔策に屈服、フリーランスの形で指揮することが決まる
ベルリン・フィルに復帰、歓呼で迎えられたが、同時にナチスのいい宣伝に利用された
ベルリン・フィルは、政権からの財政的援助と「帝国オーケストラ」の称号を得るのと引き換えに、国家的行事での演奏を求められる

Ø  ヒトラーの誕生日をめぐる駆け引き 
37.4. ヒトラーの誕生日の前日に「第九」を演奏したのを、ゲッペルスが「総統の誕生日を祝ったもの」と新聞に書かせ、以後毎年恒例とする
ナチスによるオーストリア併合で、ウィーン・フィルはベルリン・フィルと同等の地位を狙ってフルトヴェングラーを頼る。総統の誕生日にベルリンを避けてウィーンに行ったフルトヴェングラーは国立歌劇場で、ヒトラーの最も好きな《マイスタージンガー》を指揮した後、ウィーン・フィルを連れてベルリンに戻り、ヒトラー臨席のもとに指揮をする。そのおかげもあって、ウィーン・フィルは解散を免れたが、45年にはメンバーの4割がナチ党員となっていた
42年、戦況悪化の中での総統誕生日祝賀演奏会には強引にフルトヴェングラーの予定を変えさせて「第九」を指揮させる。ヒトラーは臨席しなかったが、映画にも撮られ、気乗りのしない演奏にも拘らず、鬼気迫るとんでもない熱演になった
43,44年の祝賀演奏会の指揮をしたのは、ハンス・クナッパーツブッシュ(18881965)で、過激な国粋主義者でナチスに共鳴 ⇒ 22年にバイエルン州立歌劇場音楽監督となるが、36年解任、うっかりヒトラーをからかう発言をしたのが原因と戦後になって説明されたが、ヒトラーが彼の音楽を嫌ったというのが真相
44年にはウィーンでも祝賀演奏会が開かれ、念願のウィーン国立歌劇場音楽総監督となったカール・ベームが指揮
ベームもクナッパーツブッシュも、ナチ党員ではなかったが、ナチ政権に忠実に尽したにもかかわらず、日本でそれほど批判されることなく名声を得ていたのは、他にもっと「悪い奴」がいたから。「ナチ音楽家」としての批判を一身に浴びる指揮者こそカラヤン

Ø  ナチ党員・カラヤン 
34年、ウルム歌劇場の指揮者を追い出されたカラヤンは、アーヘンの歌劇場の楽長とアーヘン市の音楽総監督に就任。史上最年少での総監督就任に際し、ナチ党に入党した方がいいと言われたのが入党動機だと本人は言うが、33.4.には既に故郷ザルツブルクで入党しており、ネチに警戒心を抱いたオーストリア政権がナチの活動を禁止したため、翌月職場のウルムで再入党
他の指揮者は、一番若いベームも39歳ですでに著名人となっていたので、出世のために入党する必要はなかったが、カラヤンは出世のために入党しその目的は達せられた
38年、ベルリン・フィルにデビュー、直後の420日にはアーヘンでベートーヴェンの《フィデリオ》を指揮して総統の誕生日を祝う
ヒトラーが政権の座にある間、音楽家たちはその寵愛を得ようと競うが、敗戦後連合国による非ナチ化が始まると、競って「自分がいかにナチ時代には虐げられていたか」を語るようになる。カラヤンはその筆頭
ゲッペルスとゲーリングの派閥争いにも便乗、フルトヴェングラーを推すゲッペルスに対しゲーリングが出ていったクライバーの代わりにカラヤンを重用、自ら支配するベルリン州立歌劇場に頻繁に登場させる。39年の総統誕生日には「シュターツカペレマイスター(国家指揮者)」の称号を得、2か月後には州立歌劇場で《マイスタージンガー》の御前演奏を披露するが、ハンス・ザックス役でヒトラーお気に入りの歌手ボッケルマンが緊張を紛らわすために酒を飲んで登場し歌い出しを誤る。その収拾をうまくやるのは指揮者の役目だったが失敗。カラヤンは抜群の記憶力を誇り暗譜で指揮していたため、ヒトラーは自分のお気に入りの歌手のせいにせず、フルトヴェングラーが暗譜で振るのは不可能だといったことも手伝って、失敗をカラヤンのせいと決めつけた
カラヤンの再婚相手が1/4ユダヤ人だったことも問題視され、ベルリンで干された
ところが、戦後こうしたナチ時代のマイナス面がカラヤンにとって有利に働く ⇒ 無罪は勝ち取ったが、党員であったことは消し難く、死後も批判の対象に

Ø  バイロイトとの蜜月と軋轢 
ヒトラーは、リヒャルト・ワーグナーを、音楽のみならず反ユダヤ主義の論客だったこともあって崇拝、ナチ政権にとって最重要の芸術家とされた
ワーグナーだけがヒトラーとの関係を取り沙汰されるのはバイロイト音楽祭にある
30年、コジマとジークフリートが相次いで亡くなった後を継いだ33歳のヴィニフレートは、23年ミュンヘン一揆の直前にヒトラーと知り合って以来の後援者ということもあって、ヒトラーは政権獲得後ワーグナー家とバイロイト音楽祭の運営に積極的に財政支援を行い、音楽祭をドイツ音楽界の頂点へと押し上げる
ナチの関与でユダヤ系が排除されたこともあって芸術的レベルが低下、ヴィニフレートはヒトラーに直訴してユダヤ系の配偶者を持つ音楽家の活動を認めさせたり、収容所送りになった人々を救出、ヒトラー側近との間をぎくしゃくさせた
40年がヒトラーのバイロイト最後の訪問となり、ヴィニフレートと会うのも最後

Ø  神々の黄昏 
ヒトラー暗殺の嫌疑が及んだフルトヴェングラーは45.1.にスイスへ、カラヤンも2月にはイタリアに脱出
ヒトラーの死を告げるベルリンのラジオは、フルトヴェングラー指揮によるブルックナー交響曲第7番第2楽章と、ワーグナーの《神々の黄昏》の「ジークフリートの葬送」を流す
フルトヴェングラーは「多くのユダヤ人を助けた」と立証され無罪となったが、心理には時間がかかり、演奏活動に復帰したのは47.4.、それもローマでのこと、サンタチェチーリア管弦楽団を指揮、その後ミラノでも予定されていたがトスカニーニの抗議で中止
イタリアでの指揮がベルリンに伝わると、急きょ無罪が正式決定、翌月ティタニア・パラストの映画館でベルリン・フィルを指揮、チケットは完売し、異常な熱気に包まれた
トーマス・マンの娘・エーリカは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの欧州駐在だったが、「追い出された音楽家の復帰より先にフルトヴェングラーを望んだのは、ドイツ人が何も反省していない」と、フルトヴェングラーを歓呼で迎えたベルリンを弾劾
フルトヴェングラーはこれに応えてトーマス・マンに、「ドイツ人はベートーヴェンやブラームスを聴きその精神に触れることによって、ヒトラーとその誘惑から遠く離れて真の意味でより大きな自己を再発見できる」と弁明
トーマス・マンは娘に、「自分の落ち度を認めない、ドイツ的エゴイストの典型」と言った
ヴィニフレートがバイロイト音楽祭総監督の座を2人の息子に譲ることが再開の条件で、51年フルトヴェングラー指揮の《第九》で開幕、カラヤンやクナッパーツブッシュも指揮をしたが、ヴィニフレートだけはヒトラーとの友情を否定せず筋を通し続けた
カラヤンは、「ヒトラーに嫌われた」と主張して無罪を勝ち得たが、戦後初めてベルリンで指揮したのは52年にロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のツアーであり、ドイツ音楽界への本格的な復帰は53年、戦後初めてベルリン・フィルを指揮

第2章     ファシズムと闘った指揮者
オペラ発祥の国イタリアで、1778年開場のミラノのスカラ座は世界の最高峰の歌劇場。そこに君臨したのがトスカニーニ、オペラの改革者であり独裁者でもあった
歌劇場の独裁者が国家の独裁者と対峙できたのは、イタリアが音楽国家だったからだろう
Ø  スカラ座の独裁者 
トスカニーニ(18671957)はパルマ生まれ、父は独立・統一運動の闘士
独立・統一運動を、音楽家として鼓舞したのがヴェルディ(18161901)、国家の英雄
その国葬で《ナブッコ》の中のイタリアの第2の国歌とされる《行け、わが想いよ、金色の翼に乗って》を指揮したのがトスカニーニ
トスカニーニは、最初歌劇場のオーケストラでチェロを弾いていたが、南米公演の際突然代役で指揮して大成功、これがきっかけで指揮者に転向、1886年のことで当時19
1895年、トリノの王立歌劇場でイタリアのオペラ史上でも初の「音楽監督」に就任、専属のオーケストラの団員選定を任され全権を掌握したことで、初めて指揮者が楽団員の同僚という同列の立場から、管理者・統率者へと立場を変える
1898年ミラノのスカラ座に招かれ、音楽監督として閉鎖寸前の歌劇場の根本的な改革に乗り出す ⇒ 社交場から芸術鑑賞の場に変え、上演中は座席を暗くし、女性の客席での帽子着用を禁止、さらに劇中でのアリアのアンコールを禁止

Ø  トスカニーニ、ニューヨークへ 
1903年、改革に疲れて辞任、フリーランスの指揮者となり、1905年トリノに1シーズン、続く2年スカラ座に戻るが、08年シーズンからはニューヨークのメトロポリタン歌劇場で指揮
1次大戦開戦と共にトスカニーニはメトロポリタンを去り、故国へ戻る ⇒ 当人は「芸術的理由」といったが、長期に渡ったことからトラブルもいろいろあったようだ。
イタリアは、独墺との3国同盟を無視、失地回復を期してオーストリアに宣戦、トスカニーニも愛国者の立場からチャリティコンサートなどで支援 ⇒ イタリア計ったものの、念願の領土回復はならず、戦後の急激なインフレに国内では暴動が頻発

Ø  トスカニーニとムッソリーニ 
そこに登場したのがムッソリーニ。彼の設立した「戦闘ファッショ」がファシスト党へと発展、トスカニーニも同党の比例代表名簿に記載されるが、ムッソリーニが既成政党に接近するとともに、トスカニーニは反ファシズムを公言
21年シーズンからスカラ座に復帰
22年、ムッソリーニが政権を掌握、直後に若い党員がトスカニーニの指揮するスカラ座に乗り込んできて党歌《ジョヴィネッツァ》(実質的に国家とされた)を演奏するよう要求、トスカニーニが拒否すると公演を妨害
ムッソリーニは全ての公共施設に国王とムッソリーニの肖像画を掲げるよう命令を出したが、トスカニーニのスカラ座は拒否、緊張関係が続く

Ø  《トゥーランドット》世界初演をめぐって 
26.4.《トゥーランドット》の世界初演の臨席に際し、ムッソリーニは党歌の演奏を要求、トスカニーニが拒否したために、ムッソリーニは臨席を断念 ⇒ 未完成の作品は公演するためにトスカニーニが最後の幕を補作したが、本番ではフィナーレの愛の二重唱の前で音楽を止め、「マエストロはここで作曲を終えた。死は芸術よりも強かった」と言い、未完成のままの作品として初演された。最後の場面が「皇帝万歳」の大合唱で終わるところから、ムッソリーニの臨席を想定して意図的にその部分を割愛しようとした可能性もある
29.5.《アイーダ》がイタリアでオペラを指揮した最後で、ウィーン、ベルリンと公演を成功させた後、29.10.のシーズンからニューヨーク・フィルに移る

Ø  バイロイト音楽祭 
翌年のオフにニューヨーク・フィルを率いてヨーロッパ公演 ⇒ トリノの公演では王女が臨席、トスカニーニが拒否した党歌を軍楽隊が代わって演奏、ローマでも王族が出席したが、プライベートだったため党歌の演奏はなかった
トスカニーニは、ワーグナーを熱心に上演したが、バイロイトはドイツ純血主義 ⇒ 29年スカラ座のベルリン公演の成功が契機となって、30年初のドイツ人以外の指揮者として招聘され、無報酬で引き受ける。音楽祭の開幕を飾ったトスカニーニの《タンホイザー》は大成功だったが、直前にコジマが大往生、開催中にジークフリートが亡くなり、悲しみに暮れるワーグナー一家にとってトスカニーニは精神的な支えとなる。ヴィニフレートはトスカニーニを頼って音楽祭の改革を始める

Ø  ファシストとの全面対決 
31年のバイロイトは、ヴィニフレートがトスカニーニに加えてフルトヴェングラーにも出演を要請、フルトヴェングラーは音楽総監督の地位を要求。直前にボローニャでの公演前に党歌演奏を拒否したトスカニーニに対する暴行事件が発生。フルトヴェングラーは《トリスタンとイゾルデ》を指揮してデビュー。両者とも駆け引きに疲れて、次回33年には出演しないと通告
ヒトラー政権がユダヤ系音楽家を排斥し始めると、トスカニーニはアメリカ在住の他の音楽家と連名でヒトラー宛に抗議の電報を打つ ⇒ ゲッペルスは、報復として彼等の演奏のドイツ全土での放送を禁止 ⇒ ヴィニフレートは、ヒトラーに直訴してトスカニーニのバイロイト出演を認めさせるが、最終的にはトスカニーニが拒否、アドルフ・ブッシュも拒否して、リヒャルト・シュトラウスが引き受ける。顔を潰されたヒトラーのユダヤ人音楽家の排斥が激化
バイロイトを拒否したトスカニーニは、翌34年からはザルツブルク音楽祭に出演

Ø  パレスティナへ 
ポーランド生まれのヴァイオリニスト・フーベルマン(18821947)は、36年にロンドンの新聞に「ドイツの知識層への訴え」と題して投稿、ドイツのインテリ層がナチスを黙認していることを非難、声を上げることを求めるとともに、自らはユダヤ人によるオーケストラをエルサレムで結成しようと呼びかけ、36年にパレスチナ管弦楽団を組織、その指揮者としてトスカニーニを招聘

Ø  ザルツブルクでの対決 
37年、バイロイトとザルツブルクの掛け持ちはしないという暗黙のルールを破って、フルトヴェングラーがザルツブルクに出演、トスカニーニと因縁の対決となる ⇒ 言い争いがあったことは事実のようだが、その真相は不明。両者が出会った最後の機会
70歳で引退を宣言したトスカニーニを、NBCが新たに結成した放送局専属のオーケストラの音楽監督として招聘

Ø  ザルツブルクとの訣別 
ナチスによりオーストリアが併合され、ザルツブルクはもはや「自由の砦」ではなくなり、トスカニーニ他、ユダヤ系の音楽家はこぞって出演をキャンセル

Ø  ルツェルンへの結集
38年夏、併合されたオーストリアのザルツブルクに代わって、ルツェルンの音楽祭が自由の戦士たちのために再開され、トスカニーニも招かれる
39年も、トスカニーニは娘婿のホロヴィッツとともに出演したが、それが戦前のヨーロッパでの演奏の最後、戦争中はアメリカでチャリティに出演、音楽でファシズムと闘う
NBCは、54年トスカニーニの引退とともに楽団の解散を決めたが、楽団員は自主運営のオーケストラとして存続を決め、シンフォニー・オブ・ジ・エアとなって1963年まで存続、55年には来日公演もするが、これは欧米のオーケストラとしては史上初の来日公演

第3章     沈黙したチェロ奏者
戦後の西側世界がフランコの独裁体制をなし崩し的に受け入れていく中、カザルス(18761973)はスペイン人として最後まで演奏しないことで抵抗を貫く ⇒ ルービンシュタインやアイザック・スターンのように、ドイツでは絶対に演奏しないという姿勢を貫いたのと相通じるが、カザルスの拒否はもっと広い範囲だった
Ø  修行時代とスペイン王家 
カザルスは13歳の時作曲家アルベニスに才能を認められ、ブルボン王朝の摂政王妃マリア・クリスティーナの庇護を受け、ベルギーのブリュッセル音楽院に学ぶが、すぐに教授と対立して退学、王家からの支援が打ち切られて故郷へ戻る
1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を発掘して公開演奏、翌年にはコルトー(18771962)、ジャック・ティボー(18801953)とトリオを結成、98年から指揮もする

Ø  第一次世界大戦 
1次大戦時カザルスは在米。親友の作曲家グラナドス(18671916)が新作オペラ《ゴイェスカス》のニューヨーク初演の帰路、ドイツの潜水艦に撃沈され死去。アメリカで参戦とともにドイツ音楽の演奏ボイコットの動きが起こったのに対し、カザルスはニューヨークにベートーヴェン協会を結成してボイコット運動に対抗
終戦後バルセロナに戻り、20年、自ら団員を雇って新しいオーケストラ、パウ・カザルス・オーケストラを結成、以後17年に亘って演奏会を開く

Ø  国王との対決 
カザルスの生まれらカタルーニャ地方は、もともと独立国だっただけに、王国の支配下にあっても独立志向が強かったが、国王に任命された軍事政権は自治どころかカタルーニャ語の使用も禁止、カザルスの人気は圧倒的だったが、政権への支持はなかった
折からの大恐慌の余波もあって全国で政権に対する不満が高まり、国王は首相を解任後、全国の自治体選挙を行った結果共和政が多数を占めたため、退位を宣言してパリに亡命

Ø  生涯最高の日の「第九」 
31年、カタルーニャは自治州を宣言、祝典でカザルスが《第九》を指揮、生涯最高の演奏となる。カザルスは、音楽協議会総裁を引き受け、バルセロナの名誉市民となる
ヒトラー政権樹立後、フルトヴェングラーからベルリンでの共演を呼びかけられたが拒否、イタリアでも35年以降は演奏していない

Ø  クーデターと幻の「第九」 
共和国の新政府は、左右からの攻撃にあって改革路線を転換したため、左翼による革命運動に発展、36年の選挙で大合同を達成した「人民戦線」内閣が誕生
36年のベルリン・オリンピックの開催に当たり、ユダヤ人を締め出したためにボイコット運動が起こり、開催前月にバルセロナで「民衆のオリンピック」開催が決まる
開会式にカザルスの指揮で《第九》を演奏することになったが、直前にフランコ率いる陸軍外人部隊が蜂起、大会は中止

Ø  内戦と名演 
クーデターは失敗に終わるが、内戦のきっかけとなり、反乱軍内で徐々に頭角を現し実権を握ったフランコはヒトラー、ムッソリーニの援軍を得て、政府軍を駆逐
「民衆のオリンピック」のためにスペイに来ていた選手たちの多くが、共和国側について内戦を戦う国際義勇軍部隊の母体となる
内戦の間にカザルスはレコード史に残る名演を録音
ヨーロッパと南米を演奏して回り、出演料を内戦の犠牲者のために寄附
38年のバルセロナでの演奏がスペインでの最後となる ⇒ フランコがバルセロナを制圧、その直前カザルスはフランスに亡命

Ø  亡命生活 
パリ亡命後、かつてはカタルーニャに属していた南部の町プラードに移住、史上初となるバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲録音を完成 ⇒ 不滅の名盤
41年末自宅監禁となったが作曲に専念 ⇒ カタルーニャ民謡をもとにした《鳥の歌》

Ø  復帰と沈黙 
45.6. ロンドンで戦後初の演奏 ⇒ BBC交響楽団との共演
米英共に反共の立場を明確にしたフランコ政権を承認したため、カザルスはフランコ体制を認めた国での演奏をすべてボイコット
スペインでも、国民投票によりフランコが圧倒的な支持を得て政権を確立
カザルスが出てこないため、音楽家仲間たちは50年からはプラードに集まって音楽祭を開催、唯一カザルスの演奏が聴ける機会となった
カザルスが去った後も、室内楽の音楽祭の最高峰として現在も続いている

Ø  国連、ホワイトハウスへ 
55年、母の故郷プエルトリコを訪れ、同地出身の教え子と60歳の年の差婚、翌年移住し、57年から同地でカザルス音楽祭開催
各実験廃絶の運動開始 ⇒ 58年、シュヴァイツァーと連名で米ソ両国に声明を送る
その直後、国連の13周年記念祝典での演奏を求められ、国連が治外法権だったこともあって、核兵器廃絶のメッセージを発信するために応諾、《第九》の最終楽章を世界すべての都市で同日に演奏しようと呼びかけたが呼応するオーケストラはなかったため、ホルショフスキーとバッハのソナタを演奏、最後に《鳥の歌》を弾いた
61年、ケネディの招きを受けてホライトハウスでも演奏 ⇒ 98年、04年に続く3度目の演奏、カタルーニャの悲劇を訴えるために自説を曲げた
63年ふたたび国連デーに指揮者として登場、71年にも演奏している

Ø  《第九》が歌われた日
69年にアルフォンソ13世の孫ファン・カルロスを王位継承者とする法律が成立、75年フランコの死とともに元首となる
カザルスは、亡くなるまで、真のオリンピックがスペインで開催される時、《第九》を演奏したいと語っていたが果たせぬまま亡くなる
92年のバルセロナでのオリンピックの開会式では、4分に編曲された《第九》が、13歳の少年により、カタルーニャ語、スペイン語、フランス語、英語で独唱された

第4章     占領下の音楽家たち
フランスでは、コルト-(18771962)がナチス寄りの政権下で演奏し戦後は批判され、シャルル・ミンシュ(18911968)はパリで演奏を続けながらもナチへの抵抗を続けた
Ø  天才ピアニスト
コルトーはスイス生まれ、86年に音楽家としての大成を夢みてパリに移住、96年パリ音楽院を首席で卒業
05年、たまたま同席したカザルスとティボーの3人で面白半分にシューマンの三重奏曲を弾いて意気投合、翌年のシューマン・フェスティヴァルに出演し、音楽史上最高のカザルス・トリオが結成されることになる

Ø  コルトーの第一次世界大戦
1次大戦に従軍して頭角を現し、17年のクレマンソー内閣では文化省海外芸術活動部門の責任者に抜擢
パリ音楽院管弦楽団のアメリカ公演ではソリストとして同行

Ø  二つの祖国を持つ音楽家
後にパリ管弦楽団の初代首席指揮者となるミンシュは、第1次大戦ではドイツ軍の1兵卒として従軍

Ø  音楽がもたらした仏独の和解 
コルトーが戦後最初にドイツで演奏したのは23年、両者の敵愾心を緩和させた

Ø  ミュンシュ、指揮者になる 
ストラスブールの市立管弦楽団の第2コンマスが空席となりオーディションに合格、22年にはゲヴァントハウスのコンマスの試験にも合格、ゲヴァントハウスの指揮をしていたのはフルトヴェングラー、29年からはワルターで、ミンシュは2人の下で指揮を学ぶ
ドイツ国籍取得を命じられて辞任、32年にはパリで自前でオーケストラを雇って指揮者としてデビュー、3537年にはパリ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者、3845年フランス音楽界で最高峰とされるパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者

Ø  パリ陥落 
39年、第2次大戦開戦と共にコルトーは、軍事公演課首席代表に就任、芸術慰問活動の責任者となる
スイスで生まれ育ったコルトーには、独仏が隣国でありながら憎み合うことが感覚的に理解できず、両者を駆り立てる強烈なナショナリズムの感情というものを知らなかった

Ø  占領下の音楽 
コルトーがヴィシー政権でも国民教育省の青年部芸術課長に就任、戦時中を通じてヴィシー政権に加担
40年、カラヤンがアーヘン市立歌劇場を率いてパリに来る
フルトヴェングラーは、ドイツ占領地での演奏を拒み、戦時中にフランスでは演奏していないが、クレメンス・クラウス等他にも演奏した指揮者はいる
ミンシュは、パリに留まりつつ抵抗を続け、レジスタンスに協力・支援

Ø  パリ解放 
42年コルトーはベルリンに招かれ、フルトヴェングラーと共演、フランスの捕虜慰問を条件に応諾したものだったが、熱狂的に迎えられる ⇒ その見返りが「対独協力者」の汚名
44.9.コルトー逮捕、3日間勾留されるも証拠不十分で釈放されたが、その後2年間は公の場での演奏が出来なくなる
ミンシュも、解放はされたが、占領下のパリで演奏し続けたことが一部から批判される

Ø  戦後
ミンシュは、46年音楽院管弦楽団を辞任、49年からボストン交響楽団の音楽監督に就任コルトーは、対独協力の音楽家を裁くための委員会に喚問されるが、フランス人捕虜の待遇改善に貢献したことなどが認められて、1年間の職業活動禁止の処分に
46.4.演奏会に復帰したコルトーを、フランスのみならずヨーロッパ各地が温かく迎えたが、親友ティボーのように二度と共演しないと言われたり、47年のパリ復帰では復帰を望まないパリ音楽家組合の一部から40年前に組合から除名処分を受けていたことを持ち出され、コンチェルトの演奏が出来なかったりしたため暫くフランスでは演奏せず。49年のショパン没後100年記念でパリに復帰、多勢の立ち見が出た
56年カザルスとも和解、58年にはプラードにも出演

Ø  パリ管弦楽団
67年、パリ音楽院管弦楽団が発展的に解消、文化大臣のアンドレ・マルローの発案で国立のパリ管弦楽団が創設されると、ミンシュは最初の音楽監督に就任 ⇒ 翌年のアメリカ公演の途中心臓発作により客死
ミンシュの急逝により、後任として迎えられたのがカラヤン。ベルリン・フィルとの兼任だったためパリでは実質トップの音楽顧問となる ⇒ 元ナチ党員への反発は薄れ、最初のコンサートは好評だったが、多忙のため1年で辞任

第5章     大粛清をくぐり抜けた作曲家
スターリンの粛清の中、ショスタコーヴィチ(190675)だけは亡命せずにソ連に留まり、共産党にも入党、役職にもついて、ソヴィエト社会主義が芸術において資本主義より優れていることを世界中に証明する役割を生涯に亘って演じ続けた
Ø  1917年の作られた伝説
『ショスタコーヴィチの証言』(12-03』参照)では、ソ連体制に忠実なのは上辺だけだったということになっているが、学者・研究者の間では著者による創作で「偽書」とされている ⇒ ショスタコーヴィチについては謎が多い、ソ連という国の特質

Ø  栄光の日々 
革命によってショスタコーヴィチの境遇に大きな変化はなかったが、21年の父親の死によって、アルバイトをしながら音楽院に通う
25年、赤軍大幹部・参謀総長で音楽愛好家でもあったトハチェフスキー(18931937)の支援を得て順調な音楽家人生を歩む
27年、第1回ショパン・コンクールにソ連代表として出場、特別賞を受賞

Ø  大粛清の序曲 
34年、オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》が絶賛される

Ø  失脚 
36年に観劇に来たスターリンは途中で退出、『プラウダ』も酷評したため、一夜にして「人民の敵」となり、ありとあらゆる紙媒体が批判に廻る。擁護したゴーリキーは毒殺、演出家メイエルホリドも後に銃殺、トハチェフスキーも国家反逆罪で逮捕。身内にも粛清の手が及ぶ

Ø  復権 
37年の革命20周年を祝うソヴィエト音楽祭で、新作の交響曲をムラヴィンスキー指揮で演奏、大成功を博し復権。粛清は38年には実質的に終わる

Ø  国歌をめぐる一幕 
戦時中、愛国者ショスタコーヴィチは、41年に交響曲第7番《レニングラード》で、ドイツとの闘いと勝利の叙事詩を描いて国威発揚に貢献し、翌42年のスターリン賞第1席に輝く
43年新しい国家が募集され、ショスタコーヴィチもハチャトゥリャーンと共に応募したが、採用されたのはアレクサンドロフの曲だった

Ø  第二の危機 
45年戦勝直後に作曲した第9番が、スターリンの側近のジダーノフから前衛的な作品としてやり玉にあがり、一部の例外を除いて作品の演奏は禁止され自己批判を迫られたが、直後に粛清の第2派が始まりジダーノフが失脚
スターリンの命令で禁止は解除され、49年にはニューヨークで開催される世界平和文化科学会議のソ連代表として出席
帰国後オラトリオ《森の歌》を作曲 ⇒ スターリンの壮大な自然改造計画を謳いあげた、今日ショスタコーヴィチ最大の汚点とされるスターリン讃歌で、大評判となり翌年のスターリン賞第1
ソ連の宣伝塔、スターリンの御用作曲家としての日々が始まり、偉大な文化使節となる

Ø  スターリンの死と交響曲第10番 
53年スターリンの死後、8年振りに交響曲第10番を発表、抑圧と狂気の時代を描いたとしか思えないような絶望的に暗く陰々滅々とした曲で、作曲家同盟に議論を巻き起こしたが、作者自身は「人間の感情と情熱を伝えたかった」というのみ
61年共産党入党、ソ連最高会議の代議員にもなる

Ø  カラヤンとの一期一会
69年カラヤン率いるベルリン・フィルがソ連公演 ⇒ 作曲者の前で第10番を演奏
カラヤンが演奏したショスタコーヴィチの作品は第10番のみ ⇒ 独裁政権の下で生きた2人の同世代の音楽家の接点となった曲

第6章     亡命ピアニストの系譜
ショパンに始まる3代にわたる亡命ピアニストの系譜
Ø  ショパンの絶望 
ショパン(181049)が故郷を離れたのは1830年。音楽修業のためウィーンに行くが、ウィーンに着いた6日後にワルシャワでは学生たちがロシアからの独立を求めて武装蜂起
31年革命は鎮圧され、ショパンは悲しみに暮れてエチュード《革命》を書く

Ø  亡命者ショパン 
ロシアの支配下に戻ったワルシャワを嫌ってパリの亡命ポーランド人社会で暮らし、望郷の音楽を書き続ける

Ø  パデレフスキの野心
1次大戦後の新生ポーランドの首相がパデレフスキ(18601941) ⇒ 87年ピアニストとしてデビュー。大戦直前にアメリカに居を移し、開戦とともにパリに作られた独立運動組織「ポーランド国民委員会」のアメリカ代表となる

Ø  首相になったピアニスト 
独墺伊3国同盟がポーランド全域を制圧し傀儡政権が出来たのを見て、パデレフスキは米大統領ウィルソンに独立支援を要請、米国もローザンヌに本部を置くポーランド国民委員会をポーランド政府代表として承認、戦争終結のための「14か条の平和原則」にもポーランドの独立が明記されたのはパデレフスキの尽力によるもの
独立の実現で、急進派と穏健派の対立が表面化、19年、両者の妥協案としてパデレフスキの首相が実現

Ø  パデレフスキの短い栄光 
ヴェルサイユ講和会議に出席したが、期待された成果を挙げられず、国会の批准も危うくなって内閣は瓦解、スイスに移住し公的な地位はすべて手放す
2次大戦でまたも祖国が大国に蹂躙されると再び立ち上がり、ポーランド国家評議会のリーダーの1人として立ち上がり、資金集めの演奏活動にも復帰したが、41年アメリカへの演奏旅行の途上ニューヨークで客死。鉄のカーテンが敷かれたこともあって彼の遺灰が帰国したのは死の半世紀後の92

Ø  ルービンシュタインのパスポート
ルービンシュタイン(18871982)も若くして故国を出て、ベルリン、パリで暮らし、アメリカ市民権を得たが、心は常にポーランドにあった
ベルリンで成功、パリを活動の拠点としたが、第1次大戦でフランス軍に参加、慰問演奏に廻る。スペインから南米にわたって活躍するが、元々彼のパスポートはポーランを支配していたロシア帝国発行のもの、革命で無くなってしまったところから、スペインで親しくなった国王に相談したところ、「スペイン宮廷の外交使節であり、スペイン国王が個人的に保証するポーランド国民である」と書かれたパスポートをくれたという
 
Ø  サンフランシスコでのポーランド国歌 
45.4. サンフランシスコにて連合国が「国際機関に関する連合国会議」開催 ⇒ ポーランドは内部対立から代表を送れなかったが、会議開催中の演奏会でルービンシュタインは各国の国旗が並ぶ中ポーランドの国旗がないことに憤慨し、予定になかったポーランド国家を演奏、観衆から大喝采を浴びる

Ø  ドイツへの敵意
戦争の末期になってホロコーストの実態を知ったルービンシュタインは、一族の多くが犠牲となり悲嘆にくれる ⇒ 戦後初のヨーロッパへの帰還は47年だが、祖国への帰還は58年。祖国は、西側がドイツから返還されたものの東はソ連に併合され全体に西に移動、事実上ソ連の属国となっていたが、招かれて帰還したルービンシュタインは生き残った一族と再会
ルービンシュタインは、「この地球上で演奏しない場所は2つ――ヒマラヤとドイツだ」と言って、第1次大戦後はドイツでは一度も演奏せず、第2次大戦後はなおさら行けるはずもなかった
48年末に、翌年からフルトヴェングラーがシカゴ交響楽団を指揮するというニュースを聞いて、「フルトヴェングラーに指揮をさせるのであれば、今後二度と共演しない」と通告、アメリカ中の音楽家が賛同し、フルトヴェングラーは諦めて契約を破棄した
ルービンシュタインを慕っていたバレンボイムが、64年にフルトヴェングラー没後10周年記念のベルリンでのコンサートで演奏すると、ルービンシュタインは苛立ち、バレンボイムも2人の間に入って当惑
フルトヴェングラーに対してですらこうだったので、カラヤンとも絶対に共演などしない。引退直前の75年、カラヤンの妻から、「私の夫はやりたいと思ったことすべてを実現したが、唯一出来ていないのが偉大なあなたとの共演です」と言われたが、やんわりと断る

Ø  ソ連との和解
ソ連とは64年に和解 ⇒ モスクワでの演奏会ではショパンのソナタ第2番を弾く。第3楽章の《葬送行進曲》をどのような気持ちで弾いたのだろうか
ドイツのオーケストラとの共演はしている ⇒ 66年チューリヒにてドホナーニ指揮のケルン放送交響楽団とブラームスの第2番を演奏
82年、96歳直前にジュネーヴで亡くなったが、遺灰は本人の意思で、ソ連支配下のポーランドではなく、エルサレムに埋葬

第7章     プラハの春
音楽ファンの間では、46年に始まった「プラハの春」音楽祭のこと。現在も続いている。開催は512日、スメタナの命日であり、代表作《我が祖国》で幕開けとなる

Ø  チョコの独立とスメタナ 
チェコとスロヴァキアはもともと異なる民族。チェコはさらにボヘミア、モラヴィア、シレジアの3つの地域に分かれる
民族独立運動は、チェコ独自の音楽を生み出そうという国民音楽運動と連動。その主導的役割を果たすのがスメタナ(182484)。ボヘミア出身で、宮廷ピアニストの後スウェーデンで活躍、59年のソルフェリーノの戦い(イタリア統一戦争)で敗れたオーストリア帝国の弱体化と共にチェコ独立の機運が高まり、61年スメタナはプラハに帰還。後に「国民劇場」となる歌劇場が建てられスメタナも指揮者として活躍(そのときオーケストラの一員としてヴィオラを弾いていたのがドヴォルザーク)するが、74年聴覚を失い失意の中で6つの交響詩からなる《わが祖国》を作曲、チェコの国民音楽を確立

Ø  チェコ・フィルハーモニー 
スメタナは、69年のチェコ・フィルの結成にも関与

Ø  独立と首席指揮者ターリヒ 
政治的独立は最後、18年オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊によって、チェコはオーストリアから、スロヴァキアはハンガリーから独立を果たし、1つの共和国を組成したが、チェコ優位の合併だったことがその後の内部での微妙な関係を生む
独立の翌年、チェコ・フィルはモラヴィア生まれのターリヒを首席指揮者に迎え、最初の黄金時代を築く ⇒ ターリヒに学んだアンチュル(190873)33年後を継いで音楽監督に
34年、ボヘミア出身のヴァイオリニスト、ヤン・クーベリック(18801940)の息子・ラファエルがチェコ・フィルにデビュー、2年後には常任指揮者、42年には首席に

Ø  平和の終わり 
Ø  ドイツ占領下の《我が祖国》 
2次大戦でドイツに蹂躙され共和国は消滅したが、音楽家はチェコに踏み止まり、チェコの音楽を演奏していた

Ø  「プラハの春」音楽祭の始まり 
ソ連に解放されたチェコでも、戦時中の音楽家たちの活動の責任が問われ、ターリヒはナチに協力したとされ活動を制限される
45.10. チェコ・フィルは国立のオーケストラとなり、アウシュヴィッツから奇蹟の生還を果たしたアンチュルが、後のプラハ国立歌劇場に繋がる新しい歌劇場で指揮
46.5. ラファエル・クーベリックが中心となって、国家を取り戻したことを祝う音楽祭を企画、ドヴォルザークの交響曲第7番で開幕、5日目に登場したのが27歳の指揮者バーンスタイン(191890)で、ヨーロッパ・デビューだった
48年共産党が政府の実権を掌握、たまたまその時イギリスのエディンバラ音楽祭に出演していたクーベリックはそのまま家族共々亡命。彼の後はアンチュルが首席となり第2の黄金時代を迎える

Ø  1968年 
共産党第1書記にドゥプチェクが就任して、社会主義体制の下での自由化を試みた結果、「プラハの春」と呼ばれる民主化運動に発展するが、8か月弱で挫折。アンチュルも亡命し、後を継いだのはノイマン(192095)
民主化運動の中で行われたこの年の音楽祭には、カラヤンもベルリン・フィルを率いて出演

Ø  ビロード革命 
89.11. ベルリンの壁崩壊を受けてプラハでも学生のデモを中心にゼネストが広がり、無血革命が成就し市民フォーラムが勝利
勝利を祝福してノイマン指揮のチェコ・フィルはコンサートを開き、普遍的な連帯の心をすべての人々に伝える音楽として、《我が祖国》の代わりに《第九》を演奏

Ø  帰ってきた亡命者 
西側でソ連・東欧圏の民主化・自由化を訴え続けていたクーベリックは86年に引退していたが、ビロード革命を通じて帰還への声が高まり、90年の「プラハの春」音楽祭の直前に42年振りに帰還したが、興奮と熱狂の中にリハーサルまでで燃え尽きてしまったかのように、本番の《我が祖国》はあまりいい演奏ではなかったという

Ø  守られた約束
90年の音楽祭には、バーンスタインも42年振りに復帰。悪性腫瘍に侵された身体をおして、ベルリンの壁崩壊を祝うコンサートで《第九》を指揮した後プラハでも《第九》を指揮、これが彼にとっての最後の第九となった

第8章     アメリカ大統領が最も恐れた男 
Ø  対立候補にしたくない人間 
ケネディ大統領の就任式の前日の祝賀演奏会は、シナトラが主催、バーンスタインは式典のファンファーレの作曲をし、国歌とヘンデルのハレルヤを指揮
1歳上のケネディは、「君は決して対立候補には回したくない唯一の人間」と声をかけた

Ø  アメリカの若き二人の英雄 
バーンスタインは、ウクライナからのユダヤ系移民の子としてマサチューセッツに生まれ、10歳で初めてピアノを弾き、ハーヴァードの音楽専攻課程に入学、37年に指揮者のミトロプーロスに出会って指揮者を目指し、カーティス音楽院でフリッツ・ライナーに指揮法を学ぶ。43年ニューヨーク・フィルのアシスタント指揮者となり、シーズン開幕直後に急病で倒れたワルターに代わってぶっつけ本番でコンサートに臨み見事成功、一躍全米に知られる
ケネディも、43年には南太平洋で日本海軍の駆逐艦と衝突して遭難、全員死亡とされたにもかかわらず奇跡的に生還して全米の英雄と称えられる

Ø  雌伏の日々 
バーンスタインは44年アシスタントを辞任してフリーとなり、ブロードウェイでのバレエやミュージカルの作曲を始め、46年にはヨーロッパでも指揮者としてデビュー(プラハの春音楽祭)、戦後アメリカ人としてドイツで最初に指揮
4548年、ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督
恩師クーセヴィツキーの後釜を狙ったボストン交響楽団の音楽監督はシャルル・ミンシュに取られ願いは叶わなかった

Ø  赤狩り 
バーンスタインのリベラルな言動や気前よく左翼系の団体に名前を貸したことが赤狩りの対象となり、州政府からパスポートの更新を拒絶されたり、屈辱的な宣誓供述書への署名を強いられたりしたという

Ø  頂点への道 
57年《ウェスト・サイド・ストーリー》がワシントンで試験興行、フィラデルフィアでも大評判を取りニューヨークでは732回ものロングラン興行となる
ブロードウェイでの開幕直後に、ニューヨーク・フィルの音楽監督就任を要請される

Ø  アメリカ代表としてのバーンスタイン 
59年、アイゼンハワー大統領の基金による音楽外交として、アメリカのオーケストラによる初のソ連・東欧・中東ツアーに出るが、ソ連では亡命作曲家ストラビンスキーの《火の鳥》を演奏したり、パステルナークと食事をしたりコンサートにも呼んだり、ソ連政府が不快に思うのを承知でやりたい放題だったので、米ソの関係を却って悪化させた

Ø  若き大統領の誕生 
60年の選挙でケネディが大統領に
バーンスタインも得意の絶頂

Ø  政権交代の果実
ケネディ政権の下、61年にアメリカン・アカデミーの外郭団体である芸術・文学協会の委員にバーンスタインが就任、ホワイトハウス通いが始まる
61年末には、大統領からワシントンに作る文化センターの芸術監督就任を要請される

Ø  大統領との緊張
62年、ケネディがソ連に対抗して核実験再開を宣言すると、リベラル層が一斉に抗議、バーンスタインも先頭に立って大統領と対立
同年9月のニューヨークのリンカーン・センター完成のオープニング・コンサートに出席を予定していた大統領夫妻はこれをキャンセル、バーンスタインも対抗するかのようにワシントンでの文化センター設立のための資金集めのパーティーへの出席を拒否、大統領側もリンカーン・センターのオープニングに大統領夫人だけが出席することで妥協したが、ジャクリーンは前半だけで帰り、両者が会う機会は二度となかった

Ø  二度の追悼コンサート
大統領の暗殺を知ったバーンスタインは、作曲したばかりの交響曲第3番《カディッシュ》(死者の追悼のために歌われる祈り)を亡き大統領に捧げる
ニューヨーク・フィルは24日のコンサートを大統領追悼演奏会に変更し、マーラーの交響曲第2番《復活》を演奏
バーンスタインは、ジャクリーンから69年完成のワシントンのケネディ・センターの開場公演のための作曲を依頼されていたが、その最中の68年ロバート・ケネディが暗殺され、再びバーンスタインはセント・パトリック大聖堂でのミサで、ニューヨーク・フィルの有志とともにマーラーの交響曲第5番の第4楽章アダージェットを演奏

Ø  世界を飛び回る指揮者にして平和運動家
69年、作曲への専念を理由にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任、このオーケストラ初の桂冠指揮者となるが、世界中のオーケストラからの客演要請を断りきれずに、作曲は出来ず、ニューヨーク・フィルにもたびたび客演
ケネディ・センターは2年遅れで完成、バーンスタインはそのための《ミサ曲》を完成させ、初演では作曲家として最高の栄誉を受ける

Ø  ニクソンとの対決
73年、ニクソン大統領就任の記念コンサートは、バーンスタインの政治姿勢を嫌ってユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団が演奏したが、ニクソンのベトナム戦争への対応に反対していたバーンスタインは同日ワシントンの大聖堂で「平和への嘆願」と銘打ったコンサートを挙行、激しい雨と風と寒さの中、15千人を集めた反戦コンサートとなり全米の支持を取り付ける ⇒ ベトナム休戦協定はその4日後のことだった
76年の選挙でカーターが当選すると、再びホワイトハウスに招かれ、、79年には大統領とともに国家の正式な外交使節の一員としてメキシコを訪問、両国大統領の前でメキシコシティ・フィルを指揮

Ø  物議を醸すスピーチ
カーターが創設した舞台芸術に貢献した芸術家を称えるためのケネディ・センター賞の第1回はルービンシュタイン、バーンスタインは第3回目の受賞者
83年、自らの誕生日に、世界中の音楽家に向けて、核軍縮への訴えに応じてスカイブルーの腕章を付けてくれと呼びかけ、85年には「平和への旅」と名付けて平和を訴えるコンサートを世界各地で開き、86日広島でのコンサートがクライマックスとなる
広島では、反核運動が分裂していることを批判し顰蹙を買う

Ø  抗議の勲章辞退
89年、米政府が2年に1度創造的な芸術後援者に贈る国民藝術勲章を受けることになったが、選考元の全米芸術基金がエイズ関連の補助金を撤回したことに激怒して受賞を辞退
直後に壁が崩壊したばかりのベルリンで、続いて「プラハの春」でも《第九》を指揮
プラハから帰国後日本に行き、その後タングルウッド音楽祭で指揮をしたのが最後のコンサートとなり、90.10.死去

エピローグ 禁じられた音楽
戦後非ナチ化政策で問われたのは、「演奏者の生き方」であり「音楽作品」ではなかったが、イスラエルでは事情が異なる
Ø  カラヤン抜きで
イスラエルではドイツ音楽全般は戦後も演奏されたが、一部のドイツ人の演奏は拒まれ続けた ⇒ ベルリン・フィルのツアーは何度も企画されたが、カラヤンがいる限り拒絶反応が強く、結局カラヤンの死後1年経った90年初めて実現、指揮はバレンボイム
イスラエルと縁が深い大指揮者はズービン・メータ(1936)60年代からイスラエル・フィルを指揮しているうちに熱烈な親ユダヤとなり、終身音楽監督となる
90年のベルリン・フィルのツアーでは、メータが指揮してイスラエル・フィルとベルリン・フィルの合同コンサートが行われ、もう一つのベルリンの壁の崩壊と言われたが、ワーグナーの音楽が演奏されるまでにはさらに10年の歳月が必要

Ø  アンコールはワーグナー
ワーグナーの禁止はイスラエル・フィルによる演奏が対象で、普通にCDは売られ、放送もされている
01年、イスラエル音楽祭に招かれたバレンボイムが音楽監督となったベルリン州立歌劇場が《ワルキューレ》を上演したいといい、一旦は決まったものの政府からの抗議で変更を余儀なくされ、アンコールでバレンボイムが聴衆に《トリスタンとイゾルデ》を演奏したいといい、40分ほどの聴衆との対話の結果、聴きたい人だけに演奏するということになり、殆どの人が残って、最後はスタンディング・オーケストラベートーヴェンションとなり、政治に屈しなかったオーケストラと指揮者を讃えた
翌日からバレンボイムはイスラエル中のマスコミで批判に晒される

Ø  ワイマールの若者たち
「現在」のイスラエルにとっての問題はパレスチナ
バレンボイムがパレスチナに音楽で関わるのは、パレスチナ系アメリカ人で文芸評論家のサイードとの出会い。サイードは48年イスラエル建国の年にエルサレムを去り、バレンボイムは52年に両親とともにイスラエルに移住。93年のイスラエルを国家として、PLOをパレスチナ自治政府として相互に認める「オスロ合意」の直前ロンドンで偶然話す機会があり、すぐに意気投合、2人の友情が大きなうねりを起こす。5年後2人はパレスチナの大学学長に招かれ、バレンボイムは「パレスチナで演奏する初めてのイスラエル人」として大学のリサイタルで弾く。2人は、翌年から「欧州文化都市」として指定されていたドイツのワイマールで音楽のワークショップを開催、ゲーテ生誕250年に当たるところからその『西東詩集』からとってウェスト=イースタン・ディヴァイン・オーケストラと名付けられた臨時編成のオーケストラが世界中の若者をオーディションによって選抜し結成され、ヨーヨー・マ等の講師陣と議論し演奏、敵意と友情が交錯する場となった
13-09 バレンボイム/サイード 音楽と社会』参照

Ø  ラマラでのコンサート
05年夏、バレンボイムは、03年に亡くなったサイードが発案したパレスチナ自治区のラマらで、アラブとイスラアエルの青年たちによるウェスト=イースタン・ディヴァイン・オーケストラのコンサートを開く
オーケストラはスペインのセビリャに活動拠点を置いていたので、スペインのパスポートを発給してもらい、パレスチナ自治区への入国が実現、コンサートはドキュメンタリーとして全世界に流れる
06年には、レバノンのシーア派武装組織によるイスラエル兵拉致を契機として両国が戦闘状態になったが、その最中もオーケストラはヨーロッパ各国を演奏旅行で回る ⇒ お互い敵国同士の音楽家たちが共に演奏していた

Ø  バイロイトでのコンサート
11年、初めてイスラエルの楽団が招待され、イスラエル国内で論争となるが、楽団は作曲家の思想と作品は別だとして演奏、バイロイトとイスラエルの音楽家は音楽で和解

あとがき
連載準備の最中に3.11が発生
福島の事故が科学技術の敗北であった以上に、文化の敗退であった
原発が危険と認識していながら、原発をなくすべきだと考えていながら、その声を出さず行動もせずにいたことを後悔
原発の安全神話に加担した文化人や芸術家たちは、ヒトラー政権下のドイツの芸術家と同じように罪であり、罪でないのかもしれない
だが、チェルノブイリ以後は、原発が安全だという話は通用しない
連載では日本編も書いた。代表に選んだのは美空ひばりだが、彼女が闘ったのは良識という名のファシズムと警察とNHKであり、他の国の音楽家たちと比べれば極めて些細な個人的闘争であり、本書では割愛
日本に国家と対峙した音楽家がいないのは、戦後の日本が民主的であることの証明なのかもしれないし、国家が巧妙に国民を支配しているから顕在化しないだけなのかもしれない
スターリンの圧政がショスタコーヴィチを生み、戦後日本60年の平和が美空ひばりを生んだ




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