プレジデント・クラブ 元大統領だけの秘密組織 Nancy Gibbs & Michael Duffy 2013.10.3.
2013.10.3. プレジデント・クラブ 元大統領だけの秘密組織
The Presidents
Club Inside the World's Most Exclusive
Fraternity 2013
著者
Nancy Gibbs イェール大卒。専攻は歴史。オックスフォード大で政治学と哲学の学位取得。『タイム』誌副編集長。『シカゴ・トリビューン』紙の選ぶ全米10人の雑誌記者に選ばれる。アメリカ同時多発テロについての特集記事で全米雑誌賞受賞
Michael Duffy オバーリン大卒。『タイム』誌ワシントン支局長。ホワイトハウスについての報道(1994年)と国防・国家安全保障に関する報道(2003年)でジェラルド・R・フォード賞受賞。1998年にはハーヴァード大ケネディスクールのジョーン・ジョレスタイン・センターより調査報道賞受賞
訳者 横山啓明 1956年生まれ。早大第1文学部演劇学科卒。英米文学翻訳家。
発行日 2013.3.10. 第1刷発行
発行所 柏書房
Ø はじめに
クリントンがオバマ大統領とゴルフをした後、その日へとへとに疲れていたにもかかわらず、「わが大統領のお呼びとあらば、馳せ参じて猛吹雪の中でもゴルフをするよ」と言っていた。わが大統領という呼び名から、2008年の代理戦争以降、この2人の関係がどれほど変化してきたかが伺える。このような道のりを辿るのが本書の狙い
泥沼の様相を呈する確執、親密な心の交流があり、敵意をむき出しにすることも多いが、それよりも寛容な人間関係が築かれることが多く、本書はそこにスポットライトを当てて行こうと思う
ホワイトハウスを目指して激しく戦うが、ひとたび大統領の座に就いた後は、その経験、責務、野心、そして傷を共有し結びつきを強くする。彼等はプレジデント・クラブのメンバーとして繋がりを保っている
歴史を通じて6名を超えたことがない ⇒ リンカーンとクリントン政権下の2回
ジョージ・ワシントンが自ら辞任の道を選び、前大統領としてクラブを設立。呼び方も将来の大統領が自分を見失わずにいられるよう、”Your Exellency(閣下)”ではなく、"Mr.
President”とした
このクラブが重要な理由
①
人間関係 ⇒ 影響力を温存し、現職の権力の一部になるので、大統領同士の付き合い方を見れば大統領と言う存在をより深く知ることができる
②
大統領という地位が重要であるから ⇒ 一旦大統領に就任したら、全力で守らなければならない
③
大統領が権力を行使する際に手となり足となっているから ⇒ 歴代大統領が必要に基づいて築き上げ、利用してきたもの
概念だったものを正式なクラブに発足させたのは、1953年アイゼンハウアーの就任式で、トルーマンがフーヴァーを壇上に迎えて提唱したとき ⇒ 57年連邦議会制定法を通じて、個人事務所、公費出張など正式な特権が認められた
Ø トルーマンとフーヴァー――追放からの帰還
お互いに忌み嫌っていたフーヴァー(共和党、アイオア出身)とトルーマン(民主党、ミズーリ出身)はともにミシシッピ以西で生まれた最初と2番目の大統領で、気象も正反対ではあったが、個人的には経歴にも共通点があり、公的な目標もいくつか共有
アメリカで一番嫌われていた男として13年前ワシントンを去ったフーヴァーを呼び戻したのがトルーマンで、戦後の苦しい時期にフーヴァーの才能を最大限活用することによって、大統領の価値をも守る
戦後、就任間もないトルーマンが直面した問題が、ヨーロッパにおける史上最大の食糧問題で、第1次大戦中にウィルソン政権下の食糧庁長官として何百万人もの人々を飢餓から救ったことで名声を築いていた(*)フーヴァーに助力を仰ぐという美談は後に作られたもので、最初の会合は全くお互いの疑心暗鬼に終わった
(*) フィーヴァライジングと称された“小麦なしの水曜日と肉なしの月曜日”という食糧節約プログラムを実施
フーヴァーは、幼い頃両親を失ったが、鉱山技師として大成功を収め裕福となる。仕事が出来て食糧庁長官としての功績もあって20年の選挙では民主、共和の両党が候補者として擁立しようとしたほど。28年の選挙で大統領になった時は選挙人票444票を獲得したが、4年後の選挙では一転してローズヴェルトが6州を除くすべての州で勝利。大恐慌の責任を一身に負わされ、投票日から3月のローズヴェルト大統領就任までの間に助力を頼んだが拒否され事態がさらに悪化したこともあって、タイム誌は”不合格大統領”の烙印を押し、任期切れ直前の議会は共和党支配でありながら弾劾を検討、暗殺の動きすら出るほど、過去のどの大統領にも引けを取らないほど大勢の人々に嫌われることになった
第2次大戦開戦前後からアメリカ国内のみならずヨーロッパ各国からもフーヴァーの復活待望の声が高まるなか、ローズヴェルトは、ニューズウィーク誌で「前大統領を中傷するためにあれほど手を尽くした内閣はアメリカ史上殆ど存在しない」と言われるほど、徹底してフーヴァーの登用を嫌っていたが、45年ローズヴェルトの死によって突如副大統領から昇格したトルーマンは、神格化されたローズヴェルトと永遠に比較されるのはどんな気分か知っているのはフーヴァーしかいないとして、フーヴァーの復帰に躊躇しなかった
46.3.トルーマンはチャーチルとともに地元の州に戻り、チャーチルは「鉄のカーテン」の演説を行う ⇒ ヨーロッパの飢えた人々に食糧を供給すると同時に彼等の忠誠をも勝ち取る手段となった
1年足らずの間にトルーマンとフーヴァーの関係は国内外で公私に亘って信頼できるチームメイトへと変化、官庁流の形式主義を乗り越え、山を動かすような奇跡をやってのけた ⇒ アルゼンチンからの食糧援助を引き出すために、ペロン大統領実現に反対して貿易制限やニューヨーク連銀にあった同国の金準備を差し押さえていたが、全てを水に流した
戦後のヨーロッパ復興についてもドイツの復興を支援する方向でフーヴァーと意見の一致をみて彼の助力を仰いで、不人気のために共和党の支配に変わっていた議会を説得して支援を開始
大統領の権限拡大や報酬引き上げ、政府機関の効率化等においてもフーヴァーが積極的に動く
2人の協力関係にも拘らず、48年の大統領選では、トルーマンは共和党攻撃の前面にフーヴァーを取り上げ、歴史的な逆転勝利を収める
公職を退いた後も2人の交遊は生涯続く
Ø アイゼンハウアーとトルーマン――慎重な求愛、苦い別れ
大統領の中には在任中に超然とした地位を獲得する者もいたが、アイゼンハウアーだけは、就任前から連合軍最高司令官としてそれ以上の地位を手にしていたし、就任前も退任時も絶大な人気を誇っていた異例の大統領
トルーマンとアイゼンハウアーが出会ったのは、ヨーロッパからの凱旋の日、トルーマンが大統領に就任した直後で、2人は協力してアメリカの世紀の足場を組み立て、二人の友情はアイゼンハウアーをして「掛け替えのないもの」と言わしめたが、それは52年の激しい選挙戦で崩れ去る
2人の戦いの焦点は、政策でも政治でもなく、敵意は個人的で根深いもので、お互いに軽蔑し合い、53年の就任式まで2人はほとんど口を利かずそれからの10年間も同様、ようやく和解したのはケネディの葬儀で同じ車に乗り合わせたときだった
トルーマンとフーヴァーに比べてはるかに共通点のたくさんあったトルーマンとアイゼンハウアーだが、出会った時の名声の差は非常に大きかった
戦後トルーマンの懇請によって陸軍参謀総長に就任、トルーマンは復員軍人に対する援護法の実施で協力、アイクがコロンビア大学学長になった時もトルーマンが強く勧めたのに乗ったもの
48年の選挙に間に合うようにマッカーサーがアメリカに凱旋するつもりだということを伝え聞いた時、トルーマンからアイクに出馬を打診、自らは副大統領候補になるとまで言った ⇒ 48.1.選挙戦開始の際、周囲の過熱するアイク人気に対し、アイクは「政治とは崇高な職業で、軍司令官が政治に乗り出すのは国家にとっても軍隊にとってもよくない」と言い、後に「未来を占う水晶玉が割れてしまった典型的な一例」と自ら評することになる言葉を付け足す。「政治の表舞台から完全に立ち去るという私の決断は、明確かつ決定的なものです」 自らは参謀総長を退き、コロンビア大学学長になる支度を始めた
再選を果たせないだろうと判断した党幹部や上院議員らがトルーマンに退任を要求、ロサンゼルス・タイムズ紙は「わが国の高官としては久々に登場した救いようのないほどに不器用でドジな男」と評した。ローズヴェルトの遺族も反乱を起こしその先頭にアイクを押し立てようとした
1949年トルーマンはアイクを軍事顧問に迎える ⇒ 大学での退屈な日々に満足できなかったアイクも受諾。ソ連の原爆実験実施、中国共産党政権樹立に備える
朝鮮戦争が勃発し、アイクはNATO連合軍最高司令官として再び軍務に復帰
52年の選挙戦で、熱心な支援者の上院議員に出馬への態度表明を迫られたアイクはとうとう共和党が指名してくれるなら受諾する旨応え、3月のニューハンプシャーでは何も動かないのに既に党候補に決まっていたタフトに圧勝、トルーマンは不出馬を表明、6月には軍務を辞任して選挙運動を開始
アイクにとっての最初の問題は、タフト陣営からの中傷に対抗し、党内の孤立主義者が非難してきた外交政策の主役を演じてきた自身の主張に沿って共和党内をまとめること
選挙運動のためにアイクがマッカーシーやジェンナーと妥協、特にアイクの恩師でもあったジョージ・マーシャルを中国共産党政権樹立を防げなかった裏切り者呼ばわりしたことへの名誉回復すらしなかったことから、マーシャルを国務長官として起用し「この世で最も偉大なアメリカ人」とまで呼んでいたトルーマンはアイクを公然と非難 ⇒ トルーマンの選挙戦での第一声は「アイクは臆病者だ!」で、後には「嘘つき、偽善者」とまで言う。その結果はプレジデント・クラブの仲間として最低限の同士愛すら抱くことが出来なくなってしまう
選挙後、例外的に引継ぎの会合が持たれたが、両者の関係は水と油
就任式も、20世紀でもっとも憎悪に満ちたものとなった ⇒ アイクは仕来りを無視、トルーマンが気をまわして朝鮮戦争に参戦していたアイクの息子を呼び寄せてくれたことまでが新たな争いの発火点となる
アイクは、就任後もトルーマンにひと言も声を掛けなかっただけでなく、ソ連のスパイと知りながらIMF理事に昇進させたとして売国奴の嫌疑をかけ捜査を始めさせた ⇒ トルーマンは元大統領の行政特権を主張して議会の召喚を拒否、調査は打ち切りとなったが、数十年後ニクソンはその拠り所に感謝することになる
トルーマンは、アイクの外交政策に全面的に賛意を評したが、アイクの態度は不変
59年マーシャルの葬儀で6年振りの再会を果たし、お互いにMr.
Presidentと呼び合っただけで別れる
61年ケネディの登場でトルーマンは再び尊敬を集める長老政治家としての地位を取り戻し、アイクの「間違った愚かな政策」を激しく非難するが、クラブへの入会は認めた
63年ケネディの葬儀で会った時、二人の過去の経緯は何もかも些細なことになった
Ø ケネディとその仲間――新入りいじめ
ケネディの場合は、選挙結果が辛勝(*)だったこともあってか、前任者を正しく扱った
(*) ケネディは僅かな得票差だったことを忘れないために118,574という数字を持ち歩いていた
フーヴァーはケネディの父親の旧友であり、トルーマンは同じ党の先輩で問題なかったが、アイクはケネディを軽蔑しており、どう扱うかに苦慮
就任後数か月もしないうちに、杜撰な計画だったピッグズ湾侵攻の大失敗で屈辱にまみえる ⇒ 共産主義の脅威から逃げる臆病者と言われるのを嫌ったのが原因
ケネディはニクソンと同期政界入りで仲が良かった
ケネディの立候補に際しては、トルーマンも、対立候補となったリンドン・ジョンソンも協力を拒否したが、ニクソンに共産主義者呼ばわりをされたために、敵の敵を受け入れることにしてケネディを支援
ニクソンも、アイクからの応援を得られなかったが、対立候補のケネディを軽蔑していたために、当選を阻止するためなら何でもやると言ってニクソンを支援するように
アイクの任期最後の1年間の平均支持率は61%と驚異的な数字だったが、次期大統領選とは別のものだった ⇒ 後にアイクはニクソンへの支援不足を悔いている
ケネディは就任前に何度かアイクと会い、アイクに助力を求めるとともに、アイクもケネディの能力の高さを認める
ケネディは、失敗するほど人気が上がる
戦後処理のため、初めてキャンプ・デイヴィッドを使う ⇒ メリーランド州カトクティン山脈にある大統領の別荘で、ローズヴェルトが建て、シャングリ・ラと呼ばれていたものをアイクが孫の名に因んで改名。アイクを招いて対策を検討、アイクも国民にケネディを支持するよう訴え、その後も信頼できる味方になってくれた
2人が自尊心から譲り合えない問題の核心は、国家安全保障会議とアイクの複雑なスタッフ管理システムに対する見解の相違 ⇒ ケネディは、アイクの軍隊式の組織統制を嫌いローズヴェルト流の即興的な組織管理方法を復活させようとした
2人の諍いは中間選挙で再び表面化したが、ソ連によるキューバへのミサイル配置事件で、再度連携が強まる
ケネディの突然の死は国全体が心臓発作を起こしたような衝撃だったが、元大統領たちにとっては、自分たちが担ってきた役割とそれに伴うリスクを改めて痛感する出来事で、結束が強まり、瞬く間に現役時代に戻った気分となり、国家のために働き、ジョンソンをいきなり仲間に加えた ⇒ 存命の元大統領は3人とも暗殺の脅迫を受けた経験があったばかりか、トルーマンは50年に暗殺未遂まで起こっていた
オズワルドの妻の証言では、当初標的だったのはニクソンで、同日ダラスでペプシコの役員会に出席
葬儀の後、トルーマンとアイクは夫妻とごく僅かの側近と共にブレアハウスでお茶を飲み、打ち解けた時を過ごし、別れ際メイミーはトルーマンの両頬にキスをし、夫の大統領就任式の時に息子を帰国させてくださってありがとう、と10年前の礼を言った
Ø ジョンソンとアイゼンハウアー――義兄弟
ジョンソンは、現代の大統領の中でプレジデント・クラブと最も密接な関係を持った
就任式の宣誓後数時間以内にトルーマンとアイクを呼び、翌日のホワイトハウスには大統領の傍らに2人の姿があった
ケネディがアイクのキューバ政策を引き継いだのも、ジョンソンがケネディのヴェトナムを引き継いだのも、前任者の大統領としての決断を尊重したから
アイクは軍人でありながら、在任中の8年間は軍事的冒険を避けていたのに、公式に決断を下す立場ではなくなってから好戦的になり、特にジョンソン政権では文字通り”安楽椅子将軍”だった
アイクはテキサスのデニソン生まれで、ジョンソンと下院議長のサム・レイバーンはよく「我ら3人、テキサス人として団結しなくては」とアイクをからかっていた
アイクは、ニクソン以上にジョンソンと息の合ったコンビで、60年の選挙戦には出馬を勧めたほど
アイクの時代に、大統領経験者に対する財政支援を行うよう上院で熱弁をふるったのがジョンソン
ジョンソンの就任直後、アイクは「すぐに両院合同会議を開き、偉大な前任者の崇高な目標を実行することが新政権の使命だと訴えるべき」と助言、共和党の元大統領が、心もとなげな民主党員に、民主党のアイドルだった人物の政策をもとにこのまま続けていくように強く勧めたのは驚き以外の何ものでもない ⇒ 助言を実行した結果が79%の支持率
ジョンソンほど友人の少なかった公人はいない ⇒ 友情より同盟を築いてしまうが、アイクとの関係は例外。特にアイクがジョンソンに助言するのを楽しんでいたのは党との関係が冷めてしまっていたことも一因
トルーマンに対しても手厚い配慮 ⇒ トルーマンが国民健康保険制度を創設しようとしてから20年、漸く実現した時は、その法案署名式典をトルーマンの故郷ミズーリ州インディペンデンスで行い、最初のメディケア・カードをトルーマンに献呈
ヴェトナムについても、アイクが表明した防共のための政府支援の声明を尊重、アイクの助言を得ながら大規模軍事行動に踏み切る
泥沼化した中、68.3.ジョンソンは一方的な北爆停止を発表するとともに、大統領への出馬見送りを宣言
Ø ニクソンとレーガン――カリフォルニア・ボーイズ
2人は同じ南カリフォルニアの保守派にルーツを持っていたが、50年近くに亘る付き合いの中、国政の舞台に駆け上がると2人の政治観は性格と同じくらいかけ離れていた
2人は35年に亘って常に友好的で礼儀正しい手紙のやりとりをしていたが、手紙だけで2人の関係は到底分からない
2人が出会ったのは47年。共和党の労働委員会委員だった新人議員のニクソンが、映画俳優組合への共産主義者の潜入を懸念していた労組委員長に就任したばかりのレーガンに会いに行ったのが始まり
その後レーガンは俳優を辞め、ゼネラル・エレクトリック社の講師として全国を遊説して歩いていたが、その原稿が59年に次期大統領選を目指していたニクソンの目に留まり、文通が始まる。レーガンは副大統領が講演内容を称賛したことが知られて名を挙げニクソンに接近するとともに民主党を離れニクソンの選挙戦へのアドバイスを贈る
ニクソンも有名人による選挙支援を検討、レーガンに党派の転向を公言させる
ニクソンは大統領戦に敗れた後、62年にカリフォルニア知事選に立候補したが、共和党右派の非難に晒される。ニクソンがカリフォルニア上院選に立候補したのは12年も前であり、副大統領としての8年にも敬意を払わず、よそ者候補として排斥、レーガンが応援したが結果は惨敗、ニクソンも49歳にして政界との永久決別を宣言
一方のレーガンは、64年の大統領戦でゴールドウォーターのために行った全国放送のテレビ演説が保守派を感動させ、一夜にして大評判をとる
66年のレーガンのカリフォルニア州知事選出馬に際しては、ニクソンがアドバイスを贈る
65年アメリカ初の宇宙遊泳の成功とワッツでの黒人暴動に対し、レーガンは州予備選で「道徳改革」を訴え希望と恐怖を巧みに駆使して圧勝。共和党員が「常識と思慮分別を説く忠告に悉く逆らって」投票したとまで言われた
選挙運動中、レーガンはアイクにも会う。アイクはレーガンに注目するようになり、助言を送り始める ⇒ 66年の本選では各州で共和党が圧勝、ニクソンも全国ベースで選挙参謀として選挙運動を進めたが、レーガンは当選直後から次期大統領選に向かって動き始めるが、立候補を公にしたのは68年の党大会の直前で、ニクソンが圧勝、ロックフェラーが2位でレーガンは3位に終わる
Ø ジョンソンとニクソン――瓶の中の2匹のサソリ
史上まれに見る大勝負をしたのがジョンソンとニクソン ⇒ 賭けられたものがあまりに大きく、駒の動きがあまりにも複雑でかつ両者がいかさまをしていた。問題はヴェトナム戦争で、選挙戦の前、ニクソンは名誉をもってともに戦争を集結させその功績を分け合おうとジョンソンに持ちかけジョンソンは受け入れるが、やがてニクソンが自分の勝利のためにヴェトナムの和平交渉を密かに中断させようとして持ちかけたものだと分かる
68年の後半、プレジデント・クラブ初の汚い戦いが明らかに。2人の男はそれぞれ決断し、それによって国は導かれ、行き着いた先は大統領辞任だった。アメリカの政治はもう2度と昔のようには戻れなくなった
68年の中間選挙で、ジョンソンはニクソンを持ち上げたが、ニクソンはヴェトナム政策を激しく批判、その挑発に乗ってジョンソンはやってはいけない個人攻撃を露わにしてしまい、その名誉回復のため必死になる
ジョンソンは、自らの後継候補となった副大統領のヒューバート・ハンフリーが選挙戦のためとはいえ自分の属している政府を攻撃することに我慢がならず、政敵ニクソンに近づくが、ニクソンは表面大統領の政策を支持すると言いながら自ら南ヴェトナムへの情報ルートを作り上げジョンソンの和平工作への努力を妨害し、結局ソ連と北ヴェトナムが歩み寄って和平交渉がまとまりかけたところで南ヴェトナムの反対で頓挫
選挙戦は、0.7%という歴史上最少の僅差でニクソンが勝利
ニクソンの行為は国家反逆罪に相当するが、国民の行動を電話の盗聴という形で監視したものが証拠だったこともあって、ジョンソンもハンフリーも新大統領を告発することはしなかったが、FBI長官のフーヴァーは幾つかの政府機関による盗聴のパターンをニクソンに伝え、この種の活動を大目に見る土壌を生み、後に悲惨な結果をもたらした
ヴェトナム戦争は継続して拡大し、被害は長期にわたり深刻化、最終的に終戦に至った時の講和条件は68年10月に仮合意した条件とほとんど変わらなかった
ヴェトナム和平を巡る両者の確執にも拘らず、大統領の引き継ぎは和やか ⇒ 上下両院で多数を占める民主党の協力を得る為にはジョンソンが必要だった
68年の予備選開始前、アイクの孫デイヴィッドとニクソンの娘ジュリーが結婚が決まり年末に挙式。数か月後にアイク逝去
Ø ニクソンとジョンソン――その絆と脅迫
ニクソンが就任後最初にしたことは、首席補佐官にジョンソンがやらかしたことの証拠を手に入れるよう命令
71.6.ニューヨーク・タイムズに国防長官マクナマラが命じて作成させたヴェトナム戦争に関する極秘報告書の内容がスクープされる
ペンタゴンの調査担当者がランド研究所に異動した際持ち出したもので、ニクソンはどんな手段に訴えてでも取り戻せと指示
政府は、秘密漏えいを国家反逆罪に当たると訴えたが、最高裁はニューヨーク・タイムズ紙に出版の権利があると認める
72年、ニクソンが大統領選で49州で地滑り的勝利
ウォーターゲートの発端は、68年選挙の共和党戦略にあり
①
終盤の接戦で、追い詰められたニクソン陣営が和平交渉を陰で干渉しハンフリーの勢いを削ごうとした
②
一線を超えてでもうまくやったことで、72年の選挙でも同じ手が使えると慢心
72.6. 再選を目指すニクソンの指示でウォーターゲートの民主党全国委員会本部のオフィスにFBIが侵入 ⇒ ワシントン・ポスト紙が執拗に追い、同年9月の大陪審は起訴を決定
キッシンジャーの努力でヴェトナム和平が実現しようとしていたが、ニクソンには再選を果たすためには、戦争を長引かせたのは民主党の責任だとした方が得策と考えたために、キッシンジャーの努力を否定し和平交渉妥結を阻止しようとした ⇒ 92年のブッシュ再選の際、自ら「戦争を長引かせることで72年には大勝した」と告白
上院の調査が始まり、73年には侵入者の刑事裁判開始
ニクソン陣営は、盗聴はジョンソンが仕掛けてものであり、歴代大統領もやっていたこととして、ジョンソンに上院の調査を止めさせようとしたが、お互いが相手の暗部を握り、暴露寸前のところで再選を果たしたニクソンが2期目に就任、2日後にジョンソンが心臓発作で死去、翌日ニクソンはヴェトナム戦の終結を公表
後年ニクソンはこの盟友のことを回想する。「全力で責務をこなし、批評家に尊敬されようとしたが、結局愛も尊敬も勝ち取れず破れた」 ⇒ オフィスを去る日ホワイトハウスのスタッフに向けた最後の言葉の中でニクソンは、ジョンソンに対する批判を自分に向けた教訓にした。「他人から嫌われることもあるだろう、しかし諸君が嫌うからこそその者たちは勝利する。そしてその後諸君は自滅するということを忘れないでほしい」
Ø ニクソンとフォード――どのような犠牲を払おうとも慈悲を
2人の関係は、共に下院議員だった頃に始まり、94年ニクソンが死ぬまで45年間続く
ニクソンはフォードに60年と68年の2回、副大統領を自ら決めていながら、フォードこそ最適任として意向を確認、フォードが他の人を推薦すると自ら意中の人を持ち出してフォードを裏切り、正式に要請したのは73年、それもニクソンの意中の人は民主党から鞍替えしたコナリーだったが、民主党の下院議長から裏切り者の副大統領昇格は許さないと言われ、他の候補だったレーガンやネルソン・ロックフェラーも次期大統領選での強敵となる可能性もあって下院の同意は得られそうになく、フォードしか選択肢が無くなっての決断 ⇒ 就任後フォードは、恐らく時期尚早に、私心はなく国を愛するがための決断により恩赦をしたため、選挙で選ばれることがない唯一の大統領となった
歴史上2期すべてを務めあげた副大統領は8人しかいない ⇒ 「バケツ一杯の生暖かい小便ほどの価値もない」と口にした副大統領もいた
60年選挙でニクソンがフォードを副大統領に依頼しようと思ったのは間違いない
73.10.ウォーターゲートの特別検察官による追求の最中、副大統領のアグニューがメリーランド知事時代に10万ドルの賄賂収受が発覚、辞任により追及を逃れた
2人は1913年生まれ、49年同期で下院議員、カーシェアで一緒に議事堂に通う間柄だったが、60年と68年の副大統領候補指名の行き違いが尾を引く
73.12.フォードが副大統領に就任、8か月後にニクソン辞任
周囲の関心がすべて前大統領に行く中、フォードは前任者の呪縛を完全に断ち切って大統領の地位を自分のものにする必要があった
恩赦の明確な理由はなく、フォードはいつまでも国がこのことばかりに関わっているのを止めなければいけないと言ってただ国民の善意に呼びかけ、ニクソンは「自分の間違ったことをこれからの人生で日々背負っていかなければならない重荷」だと声明を発表
フォードは、ニクソンとの間に事前の密約があったはずという議会の疑念を払拭するため、大統領としては前例のない下院司法委員会に出席し、事前取引の存在を否定するとともに、ニクソンの懺悔を引き出せないという反論に対しても恩赦を受けたのは罪を告白したと同じだと主張
2001年、フォードはケネディ家から、”ジョン・F・ケネディ勇気ある人々”賞を受ける ⇒ エドワード・ケネディは授賞の理由として、「多くの人々の反対を押し切り、国が前進しなければならないと看破、大統領という職務を失うことになる勇気ある決断をした」として、事件から25年経って、ニクソンに恩赦を与えた共和党員は許せないという態度を改めた
Ø フォードとレーガン――家族の間の確執
2人はライバルというより、血族と血族の宿恨とも言うべき関係 ⇒ 70年代半ばから、共和党の穏健派と保守派、外交政策を巡り現実派と理想派、中西部と新興西部等の対立と、お互い相手の知性を見下し器以上のことをしようとしていると思っていた
76年の党指名争いではお互い敵対心を露骨に表したが、4年後はお互い長年求めていたものを手にするため急接近し、レーガンは大統領となりフォードは
76年の予備選挙開始の直前、突然ニクソンが訪中したことで、1%の僅差で危うくニューハンプシャーでレーガンに負けるところ(この州で現職の大統領が負けた例はない)
接戦のまま党大会にもつれ込んだが、結局フォードが勝利、レーガンは副大統領への誘いを拒否、ボブ・ドールを副大統領として本選に臨むが、最後までレーガンの協力が不十分だと言って恨みを抱き続けた
本選で敗退後、フォードもレーガンも80年に向けてスタートを切るが、ライバルは他にもブッシュ、コナリー、ハワード・ベーカー等の存在感の大きい候補がいた
フォードは最後まで態度を明確にしないまま、結局立候補せず。レーガンと対カーターの観点で協力することになり、副大統領候補にまで推されたが辞退
Ø ニクソン、フォード、カーター――3人の男たちと葬式
フォードとカーターは、5年の間お互いを嫌っていたが、お互いの憎しみはレーガンへの嫌悪に比べれば大したものではないと気付き、2人の距離は縮まり友人となる
1981年、イスラム過激派によって暗殺されたサダトの葬儀にレーガンの代理として出席のため、ニクソン、フォード、カーターがエアフォース・ワンに同乗 ⇒ シークレットサービスが6か月前に暗殺未遂に遭ったレーガンのみならず副大統領ブッシュの参列も認めなかったため、レーガンがプレジデント・クラブの機能復活のためもあって仕組んだ
フォードとカーターは、このあと30年に亘って何十という事業で共に手を組むことになり、夫人同士も一緒に活動、極めつけはお互いに葬儀での追悼演説を約束したこと
Ø レーガンとニクソン――追放者が戻ってきた
ニクソンを表舞台に復帰させたのはレーガン ⇒ ニクソンはレーガンを「底の浅い人間」として評価しておらず、68年の大統領選を争いながら、73年辞任の可能性が見え始めた時もレーガンが後釜に座ることなど考えもしなかったにもかかわらず、80年の選挙でレーガンが大統領になると、ニクソンはレーガンの信頼を得て個人的に助言をし、裏のルートで問題を解決する
ニクソンは、80年選挙に際して最大限の助言をするとともに、大統領就任後はホワイトハウスのガイドともなって大統領職に必要な細かい知識を教える ⇒ 核心は、ニクソンの長年の部下でスパイのアレクサンダー・ヘイグ元陸軍大将を国務長官として採用することで、レーガンも受け入れ、その後もいくつもニクソンのアドバイスを聞き入れている。アイクがニクソン新大統領に「なんなりと命令して欲しい」と言ったことをニクソンもレーガンに申し出る
ゴルバチョフが登場し軍事費と戦略核兵器削減を掲げた時もニクソンが非公式に訪ソして出方を探ろうとしたことをレーガンも認め、ニクソンはゴルバチョフにレーガンが在任中に対米交渉をまとめるべきと言い、レーガンにもアメリカは緊張緩和を外交政策の目標とすべきというアドバイスを与え受け入れられる
1986年、希望的観測に捉われたレーガンがレイキャビクでゴルバチョフに唐突に核兵器全廃の提案をした時から、ニクソンとレーガンの関係は冷え切り、次に一緒になったのは88年の大統領選で、それも政治問題に限ってのことだった
88年の選挙でも、ニクソンは当初ブッシュでは弱すぎるとして好戦的なドールを推しアイオワで勝利したものの、ニューハンプシャーでブッシュが勝つと以後はブッシュに寄り添ってアドバイスを続ける
レーガンは、ニクソンからの支援呼びかけで腰が引けていたが、本選の最終段階でカリフォルニアが死命を制する鍵になるという状況になって、カリフォルニアへの応援演説に腰を上げ、感激的なスピーチで代議員に呼び掛け、翌日の投票では事前の予想を覆し51対48でブッシュが勝利
Ø ブッシュとニクソン――正直者が馬鹿を見る
両者の関係は、忠誠心とその限界を物語る ⇒ 両者の出自には天と地ほどの差。ブッシュはコネティカット州の上院議員の息子、ブッシュの政治的ルーツが育まれたのは東海岸であり、極端に走らないことをその特徴とする
ブッシュは、60年代ニクソンによって引き上げられトップクラスの共和党員へと押しやられ、ニクソンの大統領在任中は忠実に仕え、辞任後は長年にわたり個人的に誠実に接し、ニクソンは15年後大統領ブッシュに妙な方法でその忠誠心に報いる
初めて知り合ったのは64年、ブッシュがテキサス州上院議員に立候補したときブッシュが選挙資金集めを手伝う ⇒ テキサスは共和党が弱体で選挙は負けたが、2年後ブッシュは下院議員に当選。さらにその2年後ニクソンの副大統領候補の1人となったのは奇跡で、アイクがブッシュの父親と知己、ニクソンが密かに信頼を寄せるビリー・グラハムもブッシュの両親のために聖書の勉強会を開いていたり、その他党の穏健派大物がひそかにブッシュを推していたことなどが背景。副大統領にはならなかったが、ニクソンから70年の上院議員選挙への推薦をもらい、安定した下院議員の職を擲って出馬するも、民主党から予想外の穏健派ベンツェンの登場で敗退、ニクソンはブッシュに国連大使と共和党議長の仕事を託す
ブッシュは、公の場ではニクソンを擁護したが、政治方針もその手法も好きではなく、ニクソン辞任の直前4人の息子宛にニクソンのしてきたことやその人となりを明かして、「第一級の頭脳を持つが、人間としては三流」と書き残した
ニクソンは、議会や党にほとんど敬意を払わず、アイヴィー・リーグを徹底的に軽蔑
ブッシュは、就任後4人の元大統領にコンタクトし、政府の計画の詳細を説明し意見を求めたい旨を伝えるとともに、盗聴器の付いていない電話の設置を申し出
ニクソンはことあるごとに直接コンタクトをしてきたが、ニクソンとブッシュの関係がこじれていくことになる元々の原因は、ブッシュが外交政策でニクソンの意見を聞かなかったこと ⇒ ブッシュは、すでに国連大使のほか中国公使、CIA長官などの要職を歴任し、助言の必要がなかった
92年の選挙の1つの争点が対ロシアの資金援助 ⇒ 新たな独裁体制の誕生を阻止するために西側から巨額の援助が必要とされ、効果に疑問を持つブッシュの背中を押したのはニクソン。ニクソンは、密かにクリントンの大統領候補としての浮上を警戒していたが、ブッシュはクリントンより21分前に対ロ援助を公表、辛うじて面目を保つが、以後二度とクリントンを叩きのめすことななかった
Ø ブッシュとカーター――派遣団の反抗
ホワイトハウスを出ると元大統領はたいてい一歩退いて控え目になるが、カーターだけは辞職後30数年間、現職時代よりもさらに深く世界の問題に関わる ⇒ 果たした役割も大きいが、頑固で他人に頼ることがなく、異様なほど神経質になり、妙な時に妙な発言をしたり、慎み深くなければならない時に無骨な自己PRをする。心を悩ませても許せるだけの価値がカーターにあるのか疑問を抱いた他のクラブ・メンバーは、彼がニクソン以来のとんでもない鼻つまみ者ということで一つにまとまる
カーターの現職時代の唯一の功績はイスラエル首相のベギンとエジプト大統領サダトとの交渉の仲立ちをしたことで、他に見るべきものはなく、権力を持っていることに動揺し、どのように利用していいかわかっていないかのようだった
56歳で辞任し、クーリッジ以後最も若い元大統領となったカーターは、地元ジョージア州プレーンズに戻るが、国際問題の解決に向けてフルタイムの活動をしようと思いつきカーター・センター樹立。きっかけは88年ブッシュが就任、その国務長官となったジェームズ・ベーカーが対ラテン・アメリカ政策を融和策に変更し、カーターの力を借りようとしたこと。カーターはそれまで現職大統領が訪問しないような独裁国家を重点的に訪問し元首とのパイプ作りを進めていた。最初の任務がパナマ。レーガン政権最後の年、連邦大陪審はパナマの独裁者ノリエガ将軍を麻薬の密売容疑で起訴。89年カーターとフォードはパナマの選挙を監視する国際的グループを率いて現地入り、選挙妨害や投票結果の改竄を目撃するがノリエガの武装蜂起直前にパナマを脱出、世界の世論を糾合してブッシュの軍事行動を正当化させるのに貢献
次いでニカラグアでは、左翼サンディニスタ民族解放戦線のリーダー、オルテガに民主主義実施を迫り、カーター・センターの監視団のもと総選挙を実施、思いがけずに野党が勝利したが、両陣営のみならず合衆国政府にも選挙結果を受け入れさせ、平穏に政権移行を実現、ブッシュもベーカーもカーターを称賛
ところが、90年のイラクではカーターがネックに ⇒ 80年現職大統領としてカーター・ドクトリンを宣言、ペルシャ湾岸の産油国への攻撃はアメリカへの攻撃と見做すとして、軍事行動も辞さないと演説したが、90年フセインがクウェートに侵攻しブッシュが武力で撤退させようとしたとき、カーターは国連安保理事国や他の指導者たちに働きかけブッシュの解決策に反対するよう要請、ブッシュに無断で世界中に手紙を出す ⇒ カーター以前の元職で最も迷惑なことをしでかしたニクソンですらここまではやらなかった
カーターの行動の背景には、暴力を嫌っただけでなく、中近東を深く理解しているのは自分しかいないという自負もあったが、最も驚くべきは、一連の出来事が何年にもわたってプレジデント・クラブの秘密になっていたこと ⇒ カーターの反乱は公にされず、ニュヨーク・タイムズが明らかにしたのは3年後のこと
もちろんブッシュ陣営からは排除され、カーターが航空機を依頼しても応じなかった
Ø 6人の大統領――プレジデント・クラブの黄金期
クリントン就任時、元職は最大の5人、彼等を最大限活用
クリントンは、カーター陣営から政治人生を始めるが、アーカンソー州知事に就任する頃にはカーターに裏切られたと思うようになる
カーターは、ブッシュに対すると同様、元職がどれほど役に立ち、どれほど腹立たしいものなのかクリントンに証明することになる
共和党の元職はもっと貴重な存在 ⇒ 弾劾裁判から逃れる時はフォードに、大統領の手本はブッシュに、そして何より信じがたいことにニクソンを頼りがいのある聴罪師と見做し、ニクソンが死去した時の気持ちをクリントンは直前に母を失った時の悲しみに例えた
ブッシュは、就任目に引き継ぎでホワイトハウスを訪問したクリントンに、負けるはずのなかった選挙の結果の痛手にもかかわらず、新大統領の仕事に口を出さないと約束
ニクソンは、自ら対ロ外交のリーダーシップを含め、新大統領との間の裏ルートを作ろうと画策 ⇒ ロシア、中国、ボスニアでのクリントンの「耳」となって一旦は満足するが、クリントンの擦り寄りを得て彼の実力を評価しつつ競争心に捉われ、クリントンの功績になることに嫉妬を感じる。その後もクリントンはニクソンの自尊心をくすぐるように、次々に起こる国際問題で相談を持ちかける。亡くなった時もクリントンは、いまだ民主党内にはある種の軽蔑の念があったものの国民が喪に伏する日を設け連邦政府機関は休みとした
レーガンは、軍隊経験のないクリントンに、それまでの大統領がほとんどせず自らが勝手に始めた軍人に対する敬礼を教えた
93.4. ブッシュ夫妻がクウェート訪問中暗殺未遂事件発生 ⇒ クリントンはフセインによるものとの確証を得てミサイル攻撃に踏み切る。9年後に息子が仇を討つ
クリントンが就任後初めてとった夏休みは、娘のチェルシーがボリショイ・バレエのレッスンを受けたいと思っていることを知ったフォードが、ヴェイルでのレッスンに参加させるために一家を招待したときで、ヒラリーは64年の大統領選で共和党のゴールドウォーター・ガールだった時に一緒に撮った写真をフォードにプレゼント、フォードはこの写真に感激して大統領図書館に展示させた。ヒラリーは後に民主党に鞍替え
フォードは新大統領の政治手法に心打たれるが、ゴルフでマリガンとギミー(OKパット)を繰り返すのには閉口(一緒に廻ったのはニクラウスとエンロン会長レイ)
カーターとクリントンの関係は、共に南部出身のバプティスト派でありながら、辞任後も含め波乱に富むものだった ⇒ カーターがヒラリーを初の女性司法委員長として任命して以来、クリントン夫妻はカーター政権を支持したが、80.5.大量のキューバ難民をクリントンが知事をしているアーカンソーの難民センターに送り込んだのを政治的な裏切りとして両者の絆は切れ、2人とも直後の選挙で失職。クリントンは90年知事選、92年大統領選に出馬するが、カーターは無関心を決め込み、クリントンは就任後カーターを無視
94年、北朝鮮の金日成の核兵器製造疑惑浮上、初めて両者の協力が実現 ⇒ 現職時代朝鮮からの撤兵を唱えていたカーターであれば金日成も相手になるという判断。カーター夫妻を呼びかけるときに「ミセス・モンデール」と言ったり、ジョージア州出身の夫妻にペプシコーラを振る舞ったりした侮辱を受けながらも元原子力技術者だったカーターは偵察役としての覇権要請を受諾。2国間会議開催を呼びかける韓国金泳三大統領の親書も携えて訪朝、金日成から国際査察団受入れの言質を取りCNNを通じて公表するが、権限逸脱の行為にワシントン中は激怒する
94.9.ハイチ問題で再びカーターの助力を仰ぐ ⇒ セドラ将軍の独裁を倒すために米軍による武力侵攻を準備したが、最後の平和的解決の可能性を探るために、何度もハイチを訪問していたカーターに交渉を委ね、攻撃開始予定時刻の直前になってセドラの退陣を勝ち取る。カーターの功績だったが、大統領に報告する前にCNNで勝手に暴露してクリントンの怒りを買い、またしても最後の段階でせっかくの成果を汚す
98年初頭、クリントンのインターンとの性的関係が明るみになり、歴代2人目の大統領となる弾劾裁判へ ⇒ ホワイトハウスは元大統領の助力を求め、プレジデント・クラブは大統領職そのものの危機に対応、特にフォードはニクソンへの恩赦決定の汚名を雪ぐ機会ととらえ、クリントンに偽証を認めさせ弾劾裁判での無罪判決に寄与
Ø ブッシュとクリントン――悪童と反乱
クリントンは、何人かの上院議員のインターンを務め「政治的な将来性」を買われて兵役を猶予、32歳という記録的な若さで州知事に
両者とも在任中は世論を分裂させ、対立させ、ときに激怒させる。自らの行為を厳しく非難され、クリントンは性関係の偽証で弾劾され、ブッシュは戦争を正当化するために嘘を並べ咎められ、共に9.11の攻撃を止めることが出来ずそれぞれの立場において責められた。共に打ちのめされ、謝罪の言葉もなくホワイトハウスを去るが、辞任後は目的意識を持って活動し、世間から歓迎され、平和に尽力して広く受け入れられる
ブッシュ・ジュニアは、父親が大統領に当選した時、過去の大統領の息子がどのような人生を送ったかという調査に協力 ⇒ 無職か若死に、中毒や鬱状態に苦しむという惨憺たる結果が出たのに対し、ブッシュ・ジュニアは勝負に出た
ホワイトハウスに未練たっぷりのクリントンは、最後の数日の間に脱税、詐欺、ゆすりなど51件の罪で投獄された男も含む175件以上の恩赦を実施、さらにはその男から謝礼とも思われる巨額の金を受け取ったことが判明、世間を呆れさせる
9.11の勃発で、議会は超党派で組成した委員会がビンラディンを放置した責任を追求しようとしたが、04年に公表された報告書は2人の大統領にはほとんど攻撃を加えていない
それ以降急速に2人に友情が芽生え、ブッシュが辞任してテキサスに戻るとき側近たちが贈ったのはホワイトハウスを後にしてからの大統領の生活を紹介したもので、主にクリントンの毎日を追っていた
Ø ブッシュとブッシュ――父と息子
2人は他のクラブ・メンバーとの絆よりも密接な関係だが、家族というものは政治よりもさらに複雑
ジュニアにとっては、父の存在そのものが重荷 ⇒ エディプス・コンプレックス
父親が効果を上げた外交政策に追いつこうと海外に手を伸ばし過ぎた結果、やる必要のなかった悲惨な戦争に国民を巻き込み、経済がめちゃくちゃになってしまった
父と息子の関係がジュニアの大統領としての姿勢を決めたのではなく、ジュニアが大統領となったことが2人の親子関係の形を決めた
ジュニアは、子供の頃から性格的にはおおらかだったが、父に反抗して悪ぶるところがあり、30歳では飲酒運転で逮捕。88年の父の大統領選を手伝ったのが父の影に入ることを決めた契機。父親もジュニアの仕事を評価。91年クリントンに負けた時はショックを受けたが、94年テキサス州知事に就任、4年後は大統領選への出馬を表明
9.11の後、対イラク開戦の決断は父も認め、新しいやり方で進めようとするジュニアの方針を全面的に支持して、批判勢力への防護柵となる
2期目に入って2人は公の場でもっと語るようになり、お互いのことを頻繁に口にするようになる
辞任後のジュニアはテキサスに戻り、父が辞任後始めた仕事と家事を手伝う ⇒ いつまでも大統領に未練を持つことのない姿勢を父から教わる
04.12.スマトラ沖地震の際、ジュニアが41代、42代大統領に支援活動をリードするよう依頼したのを契機に、2人の仲は急速に親密化、父ブッシュはクリントンの父親役さえ務め、バーバラ・ブッシュは2人に”おかしな2人”というニックネームを付け、フロリダ州知事ジェフ・ブッシュはクリントンを”兄弟”と呼ぶことにすると言った
党派を超えた友情は、お互いの支持者から反発も出たが、ジュニアにとっては最大の後方支援となる
05.8.カトリーナの被害に際しても2人は協調して支援活動に邁進
10.1.ハイチの地震の時は、オバマの要請で、ジュニアが父に代わってクリントンと共に支援に奔走。活動を通じて2人はお互いに敬意を払うことを学び、以後誕生日とクリスマスのプレゼントを交換し合う間柄となる
クリントンは友人たちに、プライベートな付き合いでは長期的な視野を持つように勧めている
Ø オバマとそのクラブ――習熟曲線
ある小説家に「アメリカ初の黒人大統領」と言われたクリントンは、新しい救世主を快く受け入れるのはたやすいことではなかったし、そもそもヒラリーは大統領指名選でオバマに敗れている。一方のブッシュ・ジュニアも、オバマに就任後2年に亘ってほとんどすべてを否定されたことから礼儀に適った表面上の付き合い以上の関係になることはありそうになかったが、オバマ就任後に見せたクラブ・メンバーの親切さは驚くべきもので、大統領としての仕事に手を汚していくに従い、オバマとクラブの絆が強くなっていく
改革を唱えて登場したクリントンが、次第に妥協して特に自由主義的な大改革に失敗したことを教訓に、オバマは新たな変化を唱えてヒラリーを破る
オバマは、ジュニアとはほとんど接触がなかったが、「父ブッシュの外交政策を心から支援している」と語り、友好的な裏ルートを築く ⇒ その延長でオバマはクリントンとも親交を深め、公の場でも2人のアメリカ人女性ジャーナリストが北朝鮮に拘束された際、北朝鮮からの指名によってクリントンが交渉のために訪朝
2010年の選挙では、オバマの左寄りの政策に失望した有権者の反乱で、下院は共和党が過半数、上院も共和党が僅差に接近、1928年以来最大の議席数を得る ⇒ 挽回のためにオバマがやったのは、クリントンを担ぎ出すことで、政治的な妥協の正当性を裏付けた
Ø 結び
トルーマンが任期満了間際にチャーチルのために開いた主要閣僚とのディナーで、チャーチルが大統領に「原爆投下の責任をどう申し開きするか」と聞いたときのこと。トルーマンは、受け入れられないこと、耐え難いこと、この2つの間で選択を強いられ、それでも指導者は、そのどちらかを選んで人を導いていかなければならないことを理解しており、チャーチルもトルーマンに向って言った「ローズヴェルトの後を継いでいきなり大統領になったときにはがっかりしたが、あなたをひどく誤解していた。あなたが大統領になったおかげで、西洋文明は救われた。他の者では成し遂げられなかったでしょう」
プレジデント・クラブに紋章があるとしたら、円の周りに3つの単語が配されるだろう ⇒ 協力、争い、慰め。お互い成功を目指し協力し合い、失敗したときは慰め合いながらも、歴史の祝福を受けようとして争いもする
大統領の評価は長い目で見なければならない ⇒ そこに見えてくるのは許しであり、クラブの支え合い、沈黙、連帯という慣習ができあがったのもこうした理由から
大統領は、在職中に起こった出来事によって記憶し評価しようとするが、大統領は何も起こらなかったことを誇りにしている ⇒ アイクは連合軍最高司令官として第2次大戦に勝利したことで讃えられているが、アイクは大統領として、戦わなかったことを最も誇りにしていた
Ø 訳者あとがき
アメリカ大統領に関する本は何冊も出ているが、本書が新しいのは、大統領を公人としてだけではなく、1人の人間として描いた点
特殊な立場にある人同士のつながりとぶつかり合い、愛と憎しみ、そして羨望、嫉妬
代
|
大統領
|
所属
|
在任期間
|
副大統領
|
在任期間
|
31
|
ハーバート・フーヴァー
|
共和
|
1929~33
|
チャールズ・カーティス
|
1929~33
|
32
|
フランクリン・ローズヴェルト
|
民主
|
1933~45
|
ジョン・ガーナー
|
1933~41
|
ヘンリー・ウォレス
|
1941~45
|
||||
ハリー・トルーマン
|
1945
|
||||
33
|
ハリー・トルーマン
|
民主
|
1945~53
|
不在
|
1945~49
|
アルバン・バークレー
|
1949~53
|
||||
34
|
ドワイト・アイゼンハウアー
|
共和
|
1953~61
|
リチャード・ニクソン
|
1953~61
|
35
|
ジョン・F・ケネディ
|
民主
|
1961~63
|
リンドン・ジョンソン
|
1961~63
|
36
|
リンドン・ジョンソン
|
民主
|
1963~69
|
不在
|
1963~65
|
ヒューバート・ハンフリー
|
1965~69
|
||||
37
|
リチャード・ニクソン
|
共和
|
1969~74
|
スピロ・アグニュー
|
1969~73
|
不在
|
1973
|
||||
ジェラルド・フォード
|
1973~74
|
||||
38
|
ジェラルド・フォード
|
共和
|
1974~77
|
不在
|
1974
|
ネルソン・ロックフェラー
|
1974~77
|
||||
39
|
ジミー・カーター
|
民主
|
1977~81
|
ウォルター・モンデール
|
1977~81
|
40
|
ロナルド・レーガン
|
共和
|
1981~89
|
ジョージ・H・W・ブッシュ
|
1981~89
|
41
|
ジョージ・H・W・ブッシュ
|
共和
|
1989~93
|
ダン・クエール
|
1989~93
|
42
|
ビル・クリントン
|
民主
|
1993~01
|
アル・ゴア
|
1993~01
|
43
|
ジョージ・W・ブッシュ
|
共和
|
2001~09
|
ディック・チェイニー
|
2001~09
|
44
|
バラク・オバマ
|
民主
|
2009~
|
ジョセフ・バイデン
|
2009~
|
プレジデント・クラブ―元大統領だけの秘密組織 [著]ナンシー・ギブス、マイケル・ダフィー
■権力者の駆け引きや嫉妬活写
どんな組織や役職であれ前任者との距離の取り方は悩ましい。頼りになることもあれば、疎ましいこともある。こと米大統領という権力者間の関係となればなおさらだ。
本書はタイム誌のベテラン記者が第2次大戦後のホワイトハウスの館主間の友情や嫉妬、駆け引きなどを活写した秀逸なルポである。
ニクソンとレーガン、クリントンとカーターはそれぞれ同じ政党ながら関係はなかなか複雑。かたや、党こそ違え、クリントンは深夜の電話でニクソンに外交政策の助言を仰ぎ、大統領選を争った父ブッシュとは今でも深い絆で結ばれているという。オバマと存命する歴代大統領4人との関係も面白い。
こうした権力の中枢の、そのまた舞台裏となると、日本の特派員や学者は到底うかがい知る術がない。イデオロギー対立とは別次元の政治的回路があることがよくわかる。
米政治に疎くても、人間ドラマとして一気に引き込まれるだろう。
◇
横山啓明訳、柏書房・2940円
どんな組織や役職であれ前任者との距離の取り方は悩ましい。頼りになることもあれば、疎ましいこともある。こと米大統領という権力者間の関係となればなおさらだ。
本書はタイム誌のベテラン記者が第2次大戦後のホワイトハウスの館主間の友情や嫉妬、駆け引きなどを活写した秀逸なルポである。
ニクソンとレーガン、クリントンとカーターはそれぞれ同じ政党ながら関係はなかなか複雑。かたや、党こそ違え、クリントンは深夜の電話でニクソンに外交政策の助言を仰ぎ、大統領選を争った父ブッシュとは今でも深い絆で結ばれているという。オバマと存命する歴代大統領4人との関係も面白い。
こうした権力の中枢の、そのまた舞台裏となると、日本の特派員や学者は到底うかがい知る術がない。イデオロギー対立とは別次元の政治的回路があることがよくわかる。
米政治に疎くても、人間ドラマとして一気に引き込まれるだろう。
◇
横山啓明訳、柏書房・2940円
プレジデント・クラブ ナンシー・ギブス、マイケル・ダフィー著 米元大統領たちの確執とつながり
日本経済新聞朝刊2013年4月21日付
本書は米タイム誌のベテラン記者2人が、「大統領同士の人間関係」という斬新な視点で編み直した第2次大戦後の大統領史である。タイトルの響きはどこか秘密結社のようなものを連想させる。しかし、本書でいう「クラブ」とは、互いに複雑な確執を抱えながらも、窮地には必ず助け合うという大統領経験者の不思議な繋がりのことだ。大統領の日記や公開文書等の史料と関連著作の二次資料を丹念に整理した労作だが、存命中の元大統領のうち、カーター、ブッシュ(父)、クリントンへのインタビューに成功しており、この3人が関係するエピソードはとりわけ新鮮で面白い。
(横山啓明訳、柏書房・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
本書では元大統領が現職の大統領や政権に影響を与えようとする過程が詳細に描かれる。表舞台から去ったはずのニクソンは、水面下では後輩たちに私的助言を続けていた。共産圏外交に執心し、レーガンに米ソ交渉、ブッシュ(父)に対中外交を講釈した。クリントンはニクソンの訪ロ報告の手紙を公にせず、繰り返し読んでいたという。北朝鮮核危機の打開で訪朝したカーターのスタンドプレーを苦々しく思っていたクリントンは、後に北朝鮮で拘束されたジャーナリストを自分が奪還した際、現職オバマの面子を潰さないよう気遣った。元大統領が絡む外交を考える上での示唆も豊富だ。
英国でいう国王と首相を兼ねたような米大統領という職務は特別だ。迷ったとき元大統領に助言を求めたくなるのは、経験者にしか理解できない孤独ゆえだろう。著者は「プレジデント・クラブの面々は、大統領個人よりも大統領という職種を守ろうとする」と指摘する。彼らは大統領という職務の「威厳」を守る利益を共有しているのである。だからこそフォードは共和党がクリントンを弾劾でとことん追いつめようとしたとき、秘密裏に助け舟を出したし、ブッシュ(子)もブッシュ批判で勝利したオバマにすら「成功してもらいたいんだ」と囁(ささや)く。
オバマについての記述は少ないが、2期目のオバマが非白人大統領としてクラブの空気をどう変えるのかなど、興味は尽きない。
(北海道大学准教授 渡辺将人)
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