シャガール 愛と追放  Jackie Wullschlager  2013.9.28.

2013.9.28.  シャガール 愛と追放
Chagall: Love and Exile               2008

著者 ジャッキー・ヴォルシュレガーJackie Wullschlager 1962年生まれ。オックスフォード大ユニヴァーシティ・コレッジ卒。文芸・美術評論家。学究的な精確さ、ジャーナリストの問題意識、批評家の洞察力を兼ね備えた優れた評論には定評。1986年以来、英国の高級紙フィナンシャル・タイムズ紙の記者として活躍、現在も同紙の主席美術評論家。本書は09年英国のスピアズ・ブック・アワードを評伝部門で受賞。夫と3人の子どもとロンドン在住

訳者 安達まみ 1956年生まれ。東大大学院修了。現在聖心女子大教授。著訳書多数

発行日           2013.8.10. 印刷               9.5. 発行
発行所           白水社

プロローグ
モダン・アートの先駆者であり、最も偉大な形象画家。20世紀の興奮と戦慄を記録する視覚的言語を発明
モダニズムは美術における内的生への表現の突破口であり、プルースト、カフカ、ジョイスの内面の文学やフロイトの精神分析と並び、20世紀の優れた遺産
多くの代表的な芸術家が現実から逃れ抽象に向かった時代にありながら、誰もが共感できる直截で単純で象徴的な画像に、自らの苦悩と悲劇の経験の粋を込めた
シャガール程芸術と人生が分かちがたく結びついた画家は少ない。その仕事と日々の生活は、ユダヤ性、ロシア、愛の3つへの執着を軸に展開、即ち宗教、社会的・情緒的帰属感、性という人間の永遠の関心事への執着。ただ、人間関係においては繰り返し相手を蹂躙する危険を犯し、近親者がそれぞれ異なる形で犠牲者となっている

第1部        ロシア
1.    わが哀しくも喜ばしき町                ヴィテブスク(ビテブスク)      18871906
シャガールは自ら、「画家は、ある真髄が、生誕地の〈かおり〉が作品につきまとう」
ヴィテブスクは、堅実な地方の軍駐屯基地。起伏に富む輪郭が「ロシアのトレド」と呼ばせ、30の教会と60のシナゴーグがある。現在ベラルーシの北東端に位置し、バルト海間の収益の多い交易路沿いの要塞で、中世にはリトアニア領、ポーランド領となり、頻繁にロシア人侵略者に約つくされる。18世紀にロシアに併合され、エカチュリーナ2世の時代帝国のすべてのユダヤ人5百万(世界のユダヤ人の4)が住まわせられたユダヤ人特別強制居住区の北東端の町
周辺の田舎町から出てきて見合い結婚した両親は、郊外のあばら家に住んだが、田舎から都会に向かったユダヤ人階層の典型で上昇志向が強く、父は教師、母は後に食料品店を開き、中流の家庭にまで押し上げる
母との愛情と一体感がシャガールに強靭さと基本的な楽観主義をもたらし、お蔭で生き長らえることが出来たが、同時に女性に極度に依存する脆さももたらす
シャガールの作品に動物の表象が溢れているのは、幼年時代祖父の屠殺場で過ごし、家畜売りだった母方の叔父と遊んだ経験から?
キリル文字のアルファベットも知らないままにロシア人の中等学校に無理やり行かされたのが、ロシア文化の影響を受ける契機に ⇒ 芸術の道に進む決心をしたのも、ロシア人の学校での見聞が始まり、美術学校へと進み、国民の芸術への意識を高めるために行われた巡回美術展で目を開く

2.    禁断の都                                   サンクトペテルブルク             19071908
友人の誘いにのってサンクトペテルブルクに行き、写真屋の修正係として仕事をしながら帝室美術奨励学校へ通う
サンクトペテルブルクは、1905年の血の日曜日の惨殺事件で革命が失敗に終わった後、ゼネストが頻発、抑圧、検閲、偏見に満ちていた
縁故を頼って、ユダヤ人の最大の成功者から支援を受けられたことにより、その仲間にシャガールの才能が認められるが、絵を描いてもほとんど売れない
二流国民でありながら、徴兵だけは190821歳になると来たので、あらゆる伝手を頼って免除の申請を行う
1908年 素描教師から作品をこき下ろされ、学業半ばで我慢しきれずに故郷に戻り、成熟した作品の出発点と自称する『死せる男』を描き始める ⇒ 故郷の町で、主人が亡くなって嘆き悲しむ妻を描いたもので、『村の縁日』(黄昏の葬送行列で両親がわが子の棺を運ぶ)とともに、個性的で独特の芸術を生み出す一流の画家としての第1歩を記念する作品となる

3.    テアとベラ                    ヴィテブスクとサンクトペテルブルク       19081909
国際的視野を標榜するモダニズム芸術家にとって、故郷こそが彼の避けがたい題材となって眼前に立ち現れ、ユダヤ人居住区を題材に芸術を生み出すことは驚愕に値するほど独創的だった
1908年秋サンクトペテルブルクに戻ると、ロシア前衛芸術(アヴァンギャルド)の開花を体験、セザンヌ、ゴーギャン、マティス、ピカソといったモダニズム画家の作品を目にして影響の色濃い作品を描く
友人に紹介された同郷のテア・ブラフマンをモデルに『赤いヌード』を描き、初めて女性の裸体を目にして性的解放に目覚める ⇒ 自らも、「わが人生の転換点」と言うように、それまでのくすんだ色調から一転して劇的な色彩を駆使する画家として歩み始める
テアは、前衛に与する知的で現代的な女性を自認、自由主義に共鳴し、女子公立学校で優秀な成績を収め、サンクトペテルブルクの大学に入学を許可された裕福なユダヤ人の1人、シャガールに才能を感じて恋していたのだろう
2人で故郷に戻った後、テアの友人ベルタ・ローゼンフェルト(後にベラと改名)に出会い、結婚を確信、それ以後テアがモデルになることはなかった。ローゼンフェルト家はヴィテブスクで最も富裕なユダヤ人で博愛主義者、父はタルムード学者で宝飾店を経営。ベラは地元の公立学校を全国のトップ4として卒業、モスクワの女子大への入学を許可される

4.    レオン・バクスト                        サンクトペテルブルク             19091911
後に『死せる男』を購入することになるシャガールを敬愛する友人から、その友人で当時世界中で最も有名なロシア芸術家で、舞台装置と衣装のデザイナーであり、ディアギレフ創立のロシアバレエ団による1909年のパリ初公演で大成功を収めたレオン・バクストを紹介される
ヴィテブスク近くのユダヤ人居住区の訛りがあるバクストは、サンクトペテルブルクの革新的な美術学校で教鞭をとっており、シャガールを気に入って教えることに。学費は後援者が見つかる
バクストがパリに活動の拠点を移したことに伴い、シャガールも6か月で学校を去る
1910年 シャガールとベラは、両方の親の反対を押し切って婚約
バクストを追ってパリに行こうとするも、バクストに拒絶され絆を絶たれるが、『死せる男』と交換にパリ留学の学費を出してくれる後援者が見つかり、勇躍パリに向かう

5.    「超自然的(シュルナチュレル)!        パリ                                  19111912
パリに対する最初の反応は、片や郷愁と、片やフランスの「光輝と自由」への陶酔とが共存し、この2つの印象が彼の絵画を形作る ⇒ 直感的に「光、色、自由、太陽、生きる喜びを初めて発見した」と感じる
ロシアの生活で受けたあらゆる束縛から解放され、ユダヤ系ロシア人の伝手を頼って、当時全盛の印象派、ポスト印象派の絵を感激に浸りながら見て歩く
モダニズムは既に確立しており、ゴーギャンとスーラに続くマティスとフォーヴ派はリアリズムの制約からの爆発的な色彩の解放を、セザンヌから発展したピカソとブラックはキュビスム(1911年に始まった単一視点による遠近法の放棄を唱えた画法)の平たい幾何学的な形、断続的な空間的平面、および揺れ動く遠近法を生み出していた。伝統的な芸術の固定観念が打ち砕かれ、新たな絵画的言語、これまで表現され得なかった感情の無限の可能性が開花しようとしていた
新し見聞をもとに、過去の作品をリメイク ⇒ フランスのモダニズムを通して変容したヴィテブスクについての夢想をカンバスに落とし、大胆で熱気溢れる画風への突破口とした。『わが婚約者に捧ぐ』の題で広く知られるようになる作品は、あまりにエロティックだったため検閲に引っ掛かって修正した
『わたしと村』は、人間と動物、昼と夜、大地と大空の神秘的な融合、ヴィテブスクにおける自然と人間の生の繋がりを寿ぎ、郷愁を誘い、敬虔主義を思わせる、キュビスムに触発された連作の頂点に位置付けられる
アポリネールがシャガールの絵を見て「超自然的!」と呟き、シュルレアリスムの父ともよばれ、さらにはモダニズムと精神分析学との共有を実現
ピカソやマティスは少なくとも人体や生物といった、西洋絵画の伝統の中の主題を選んだが、シャガールは西洋絵画の伝統の範疇からはみ出す ⇒ サンクトペテルブルクはシャガールを阻害することで彼をユダヤの芸術家にせしめ、パリはシャガールのロシア性を引き出す
カンディンスキーやマレーヴィチといったいずれもロシア出身の抽象主義の創始者に影響されつつも、ユダヤ的ヒューマニストであり、人間の精神生活に関心を抱くシャガールの画風は、以後ロシア芸術が辿る抽象化への衝動からは逸脱。同時にベラからも遠ざかる
シャガールは、自らの芸術において、ロシア、ユダや、フランスの伝統を融合させていき、それとともに名前もマルク・シャガールと決定的にフランス風に変わっていく

6.    ラ・リューシュ                           パリ                                  19121914
アンデパンダン展で名を上げ、モンパルナスの芸術家のアトリエと居間兼寝室を備えた100戸余りのアパート、ラ・リューシュ(蜂の巣)に引っ越し、近くで最初の個展開催
ロシア人画家としては初めての住人で、モディリアーニやリベラとも一緒
1912年、初の自画像『七本指の自画像』に挑む ⇒ 7本指の隠喩はイディッシュ語で可能な限り力を尽くして何かに邁進することを意味
1913年の代表作『ヴァイオリン弾き』⇒ ベラの餞別だったテーブル掛けに描いたのも意味深長だが、後にシャガールが唾棄したミュージカルにより彼の最も有名な画像「屋根の上のヴァイオリン弾き」として普及
ベルリンの前衛芸術の守護聖人と呼ばれた画商が、初めてシャガールの『ゴルゴタ』を買い上げ、パリでも画商と契約して作品の大きさに応じて値が付けられるようになる
1914年 ポツダム街のシュトルム画廊で開催された個展は、パリ時代のほぼ全作品に当たる40点を紹介、ドイツ表現主義の若手画家に衝撃を与える画期的な展覧会となり、彼の世界的な名声の礎を築くとともに、以後20年間ドイツの収集家が彼の作品の主たる市場となって彼に富をもたらす

7.    結婚生活                                   ヴィテブスク                        19141917
個展の後ロシアに帰国するが、その時とロシアを再び離れる1922年ほど、画風が一瞬にして劇的に変わったことはない
1914年は、パリ時代の過熱した色彩、誇張された形態、幻想的な想像が消え、皮肉を利かせた断片化が周囲の生活の抒情的な描写にとって代わる
1次大戦でのロシアの対独墺宣戦布告とともに、ヴィテブスクは最前線となり、戦争を題材とするシャガールの作品は人間を表現していた
帰国したシャガールを襲ったのはアイデンティティの危機 ⇒ この時期他のどの時期にも比して多くの自画像を残したが、それらには不確定な未来に直面して揺らぐ自信を彷彿とさせる。ベラとの結婚にも躊躇を見せるが、戦争が追い風となって実現、ベラの兄の伝手で徴兵の際もペトログラード(開戦と共にサンクトペテルブルクが改名)事務職に就くことが出来た
革命前夜は、軍務を解かれて、ペトログラードからヴィテブスクに1人娘とともに避難

8.    シャガール委員とマレーヴィチ同志   ヴィテブスクとモスクワ          19171922
革命の成就とともに、パリ時代の友人だったルナチャルスキーが人民教育担当人民委員となり、新たにボリシェヴィキの教育省が設けられ、前衛芸術が評価され、シャガールにも視覚芸術部門の統括の役割が与えられたが、彼は辞退してヴィテブスクに引き籠る
シャガールが労働者階級出身の画家として、革命を称賛したのは間違いなく、革命によってユダヤ人は文化の主流に不可欠となる
公的な地位は断ったが、シャガールは革命精神に巻き込まれていく
1918年、レーニンはシチューキンやイヴァン・モロゾフらの主要な個人コレクションの国有化を承認、国家は短期間にせよ新たな芸術のパトロンとなり、あり得ないほどの金を浪費した ⇒ シャガールの絵も多数買い上げられ、革命期のロシアにおけるシャガール受容の頂点となる
モスクワでは、マレーヴィチとカンディンスキーが影響力ある地位を占める
シャガール自ら手を挙げ、ヴィテブスクの芸術委員となり、最初に手掛けたのが街中を革命で飾り付けること。次いで芸術学校を開校するが、革命の解放感が消滅し、官僚主義的な統制、そして弾圧に変わる兆候をいち早く感じ取ってもいた
モスクワからヴィテブスクの芸術学校に教師としてやってきた同志マレーヴィチの先鋭的な言動に疲れ、主導権争いに敗れて、1920.6.ヴィテブスクを去る
西洋への憧れにも拘らず、ロシアと西洋との間の行き来は閉ざされており、モスクワに逃れて数か月底辺の暮らしを余儀なくされるが、やがてイディッシュ劇団の舞台美術デザイナーとなり、多くの犠牲を払ったものの辛くも勝利を得る
1921.4.出国を許され、リトアニアのカウナス経由ベルリンに向かう
家族も秋には出国を許可された
1948年 イディッシュ劇場は閉鎖され、シャガールの壁画はトレチャコフ美術館の倉庫に保管された

第2部     追放
9.    死せる魂                                   ベルリンとパリ                     19221924
1914年以来、ドイツではシャガールについての情報が絶えロシア内戦で死んだものと思われていたが、1922年再び浮上、評判は保証され最高傑作は既に描かれていたが、今後追放の身で60年間生き続け、その間頻繁に生まれ変わるが、シャガールが霊感を得るのは常に幼年時代のロシア ⇒ 西ヨーロッパとロシアの間の芸術的交流は事実上皆無で、シャガールと同じくらい重要なロシアの同時代人は、この分断のどちらか一方に与した。カンディンスキーはドイツ芸術家として変貌を遂げ、マレーヴィチはロシアを去ることがなかったが、シャガールはヨーロッパそのものが自ら招いた分断の孤独な象徴であり続け、あらゆる西ヨーロッパの展開に敏感でありながら、ロシア系ユダヤ人としての出自に根差していた
1922年以降は、適応、新しい文化の同化、過去との交渉、アイデンティティの危機、20世紀半ばの想像を絶する戦慄を表象する言語の探究。追放は、シャガールの悲劇的な運命であり、絵画の源との別離であり、みずからの記憶というイメージの宝庫から他のどの芸術家にも語り得なかった20世紀史を語る作品群を創る契機となる
ドイツの画商の下に残したパリ時代の作品はすべて売却されていたが、代金はドイツの超インフレで紙屑同然 ⇒ 売却先を明かさなかったが、主要作品はスウェーデン人の裕福な画商の妻に売却され保存されていたものの、シャガールはショックで滞在中の1年余り生まれて初めて制作ができなかったという(後に提訴するが作品の返還は認められず)
エッチングという新たな媒体を習得 ⇒ 自分の他の作品とは一線を画した別個の自己完結した活動となる
ようやくパリの画商がシャガールに目を付け始め、23年パリに移住。パリに残していた作品は何者かに売却され行方不明
ゴーゴリこそシャガールが最も親近性を感じたロシア人文学者 ⇒ 悲劇的なユーモア、ロシア人作家らしい風刺と憐憫、幻想と現実、おふざけと運命論を混ぜ合わせた作品を気に入り、『検察官』のモスクワ公演のための衣装をデザインしているが、今またソヴィエト時代には社会批判と見做された小説『死せる魂』の挿絵制作の仕事を引き受ける

10. 光輝と自由(リュミエール・リベルテ)      パリ                             19241927
フランスの田園の穏やかさと柔らかい光に熱狂、その特色を映し出そうと、豊かな抑揚のある作風を生み出す ⇒ 北フランスのオワーズ河畔のリラダンに折々滞在
画家のヴラマンクやドゥラン、若き日のマルローがいた
荒廃し、イデオロギー的な立場を明白にしなければならなかったロシアから離れて、絵画的な価値観に集中 ⇒ 自然の前での人間の無力に、具体的で人間的な形を与える、自然と並行した表現を創作しようとした。人間それぞれが持つ個性を外面化する勇気を持つ
風景画と2枚の肖像画『カーネーションを持つベラ』『ふたりの肖像』により、1920年代フランス芸術の秩序への回帰と形状の強調を映す
パリでの人気上昇に加え、ニューヨークでも初の個展、初めて経済的安定を得る
1920年代の本人の言では、自分が自己同一化する芸術家はチャップリンただ1人 ⇒ 敬虔主義の聖なる道化の世俗版だと見做し、「私が絵画でやろうとしていることを映画でやろうとしている」と評価

11. 預言者たち                                パリ                                  19281933
1928年、モスクワのユダヤ劇場の海外公演許可が下り、演出家グラノフスキー、俳優ミホエルスに率いられた一団を、シャガールは歓迎し毎晩劇場で過ごしロシアとの絆を求め、その後の2年ロシアの追憶を多くの絵画に留める ⇒ パリでの成功の内にも生涯自分がどこにも完全には属さないと考え、国際的な潮流には極度に敏感、不安の底流が流れる
フランスの外に霊感の源を求めながらも、シャガールは不安に対処するため、自分が亡命先に選んだ国に物理的に根を下ろそうとして、パリ郊外に家を求めるが直後に大恐慌が勃発して経済的安定は消え去る
1931年、初めて一家でテル・アヴィヴを訪問 ⇒ 聖書の物語が日常生活と共存するという敬虔派の信仰に基づく感覚から、絵画の歴史的なモチーフに現代の人々を巻き込むが、その記憶と内的な洞察に現実味を与えるための旅であり、その後の3年間憑りつかれたように聖書の挿絵に取り組むとともに、シャガールにとって聖書が生涯のモチーフやインスピレーションの宝庫たり続ける。レンブラントやエル・グレコによってさらに影響

12. さまよえるユダヤ人                      パリとゴルド                        19341941
1937年、故郷への思いに駆られて、最初の絵の恩師にご機嫌伺いの手紙を書くが、いかなる海外との絆も迫害の対象となったソヴィエトでは、シャガールのような人目を引く亡命者との関係は致命的で、手紙の1か月後には恩師は秘密警察によって殺害された
その時描いた絵が『革命』 ⇒ 1943年に3分割して、それぞれの部分を徹底的に描き直しているが、シャガールを政治的画家に変貌させた記念碑的作品
同年、家族でフランスに帰化し、市民権を得る ⇒ 人民委員だった過去を乗り切る
1938年『白い礫刑』 ⇒ シャガールの宗教的な芸術における金字塔。『ゴルゴタ』はその前兆であり、数多くの礫刑の変奏がある
1939年、英仏の対独宣戦布告により、一家はロワール渓谷に避難するが、パリの展覧会は通常通り開催され、シャガールも首都との間を往復 ⇒ パリ陥落の1か月前に南仏アヴィニュン付近のゴルドに移住
フランス陥落後アメリカで組織された緊急救済委員会やユダヤ人難民作家のためのユダヤ人労働委員会基金などが積極的にヨーロッパのユダヤ人救済に動き始める ⇒ ニューヨーク近代美術館館長のアルフレッド・バーや既にアメリカに亡命していたトーマス・マンなどが協力して200名の救済者リストを作成、シャガールのほかマティス、ピカソ、ルオー、デュフィらの名前が含まれる
1941年 シャガールはフランス市民権を剥奪され、一時警察に連行されたが、辛うじてリスボン経由でニューヨークに脱出

13. アメリカ                                   ニューヨーク                        19411948
3か月遅れで、娘夫婦もシャガールの絵画と共にニューヨークへの脱出に成功
創作活動を再開するが、特徴付けるのは陰鬱さと色彩の欠如で、自らとベラの抑鬱的な状態を反映していた
マティスの息子で駆け出しの画商だったピエールが全面的に支援、展覧会を開催
1942年にはニューヨーク・バレエシアターのための舞台装置と衣装のデザイン、照明の演出を担当、アメリカでの活動の突破口となる ⇒ メキシコシティでの初演は大成功、カーテンコールは19回に及び、シャガールも舞台に引きずり出された
1944年、パリ解放の直後、それを誰よりも待ち望んでいたベラが感染症で倒れ1週間で死去 ⇒ シャガールの作品を広めるために献身的に動いたが、元々病弱だったこともあって、入退院や手術を繰り返していた
自分の作品への生ける霊感を失ったシャガールは、6か月間絵筆をとれなかった
彼女の死と共にたちどころに彼の故郷とのライフラインが切れ、薄れゆく記憶だけが頼りになると、作品の中のものと人物の輪郭が無くなり、キラキラ輝く色彩の靄にとって代わられる。これこそが抽象の力強さだが、フォルムを工夫する力の衰えとともに、長期的には記憶がセンチメンタルな郷愁に陥っていく。やがてシャガールは己の初期作品の模造をしているにすぎないと批判されるようになり、制作再開後の作品はこの希釈化の始まりだった。怒りと挫折と寂しさに駆られたシャガールが失われた幸福への想いに捉われ、己の過去の遺産である大きな、未完成のカンヴァスと格闘すると、多くの作品は構図上も崩壊していく
20世紀前半にロシアを去った芸術家で、作風の停滞の問題を完全に回避した人はいない。唯一の例外がナボコフで、言語を変えるという過激な方法により追放の最中に傑作『ロリータ』を著わすが、彼の45年アメリカへの帰化は後ろを振り返らないという意思表明。シャガールの場合は、画架に向かう制作者としては革新性を失うが、並々ならぬ創意工夫で次の40年間はステンドグラス、公的な建造物の壁画、劇場の舞台背景美術において、溌剌とした新たな言語を見出す。もともと彼の最初期の作品において既に演劇性は顕著ではあったが、特に第2次大戦後の作品の記念碑的規模へと彼を鼓舞したのはアメリカ
ベラの遺産を巡ってシャガールは娘と激しい諍いを演じるが、一周忌を待たずに娘が家政婦として雇ったイギリス人外交官の娘で家を飛び出し売れない画家の妻だった子連れのヴァージニア・マクニールと同棲、長男が生まれる(後に認知?)
娘イダがベラの代わりに美術界におけるシャガール役割を演出することに精力を注ぎ、1946年にMOMA、シカゴで、47年にはパリ美術館再開後初となる大規模な回顧展を企画運営し、第2次大戦後のシャガールの評判を決定づける ⇒ 48年のヴェネツィア・ビエンナーレでは版画部門グランプリ

14. ヨーロッパへの帰還               オルジュヴァルとヴァンス        19481952
48年パリに戻り、パリ北西の印象派が好んだ地オルジュヴァルに居を構えるが、翌年にはニース北西のヴァンスに移動
パリ美術界への再登場を演出したのはイダ、シャガールとイダの間にはベラとは全く正反対のヴァージニアに入る余地はなかった
シャガールは自分より有名な2人の隣人ピカソ(18811973)とマティス(18691954)の芸術のみならずライフスタイルを痛いほど意識 ⇒ 30年代までのパリでは全く他の芸術家に近づこうとしなかったが、間を取り持ったのはイダ。お互いを意識しながらも親密な付き合いは避ける間柄
ピカソはシャガールのことを、「マティスが死んだら色彩の何たるかが本当に分かる画家はシャガールだけになる。モティーフは好かんが、あの男のカンヴァスにはいろいろ放り込まれたものが真に描かれている。最近のヴァンスでの作品を見るとシャガール程の光への感覚を持ち合わせた画家はルノワール以来だ」
ピカソがマティスを訪問するときは、ピカソがマティスの宿敵シャガールの名前を口にしないとの交換条件で、マティスがピカソの宿敵ボナールの名前に言及しないという約束だった
3人はお互いごく近くに住んでいたが、マティスはピカソよりずっとシャガールに愛想良く付き合う。シャガールもマティスを尊敬し続け、行儀よく振る舞っていた
イスラエルからも誘いがかけられたが、シャガールは非ユダヤ人以上にユダヤ人を信用していなかったし、彼等が自分の国際的な名声を利用していると感じたときはなおさらで、イスラエルでは自ら認めはしないもののあまり居心地がよくなかった
シャガールが大いなる主題として取り組んだ誕生、愛、死に対し、個人的には直面するのを避けて人生の大半を過ごした ⇒ 両親の死に際しても帰郷せず、ベラの時も墓石すら建てず異郷に置き去りにしたし、イダの誕生の時顔を見たのは4日後、長男の時に至っては3か月も受け入れるのにかかった。愛も抽象的な概念に成り果て、ヴァージニアも「内気で愛情表現が苦手で、愛を実行しなかった」と述懐している
イダは、スイスの美術史家・学芸員マイヤーと再婚(70年代に離婚)、マイヤーはシャガールの版画について執筆、シャガールについて書かれた最も重要で洞察力ある学問的な著作となる
ヴァージニアが漸く娘の監督権を得て離婚が認められたと思ったら、アメリカでシャガールのポートレートを撮影したベルギーの写真家に想いを寄せ、シャガールのもとを去る

15. 大きな壁の十余年                ヴァンスとサン・ポール          19521970
別れた直後、家政婦として試験雇用の積りだったロシア系ユダヤ人の中でも最も裕福と言われた家の遠縁にあたるヴァランティナ・ブロドスキーから、結婚しなければ去ると言われ、1952年結婚
50年代と60年代中、エコール・ド・パリの偉大なる生存者、ピカソ、ミロ、シャガールは皆、ヨーロッパにおいて画架に向かって描く絵画全般が危機に瀕していた時代、長年に及ぶ芸術活動をマンネリ化させずに維持するという難題を突き付けられ、1つの答えとして他の媒体を求め、記念碑的作品の創作に打って出た ⇒ シャガールは「大いなる壁」を求めると訴え、フランクフルトのオペラ座のロビーの壁画制作や、フランスではメッス大聖堂のステンドグラス窓のデザインの仕事が舞い込む
多くの古い教会が改修され、新しい教会が建設される中、何人もの主だった芸術家がステンドグラス製作に乗り出す ⇒ モダンアートによる古い大聖堂の復興が文化的、精神的再生の象徴となる
メッス大聖堂のステンドグラスは完成まで10年を要し、イェルサレムのシナゴーグの完成は62年 ⇒ いずれも報酬を受け取らなかった
デイヴィッド&ペギー・ロックフェラー夫妻からは、亡くなった父を記念してポカンティコ丘陵にある一族ゆかりのユニオン教会のステンドグラス9枚を発注
イスラエル国家への贈物として、国会のタペストリー3部作を贈る
ニューヨークの国連本部のステンドグラスは、61年に飛行機事故で亡くなったハマーショルド事務総長を記念した作品 ⇒ 無報酬
パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の天井画は、シャガールが舞台美術と衣装デザインを担当したラヴェルのバレエ《ダフニスとクロエ》の特別講演を一緒に鑑賞したド・ゴールとその文化相アンドレ・マルローが幕間にシャガールに改装を依頼して実現 ⇒ 200㎡のドームを12分割して、それぞれのパネルが愛の主題のバレエかオペラに捧げられていた。《魔笛》《ボリス・ゴドノフ》《トリスタン》《ロミオとジュリエット》《火の鳥》《ダフニスとクロエ》等が題材。ルネサンス時代の画家がパトロンに敬意を表するように、マルローの肖像も紛れ込ませていた。無報酬だったが、間もなくレジオン・ドヌール勲章三等の赤い勲章を与えられた ⇒ 7790歳の時には一等を授与
オペラ座の建築家シャルル・ガルニエは、自分のネオ・バロック様式の天井が色彩によって生き生きと息づくのを夢見た
6667年メトロポリタン・オペラでの《魔笛》公演のための舞台美術と衣装デザインを担当、高さ70フィートの完全な背景幕13枚を始め、26枚の部分背景幕、121枚の衣装は、国際的な評価を確立
メトロポリタン・オペラ・ハウスのための記念碑的な壁画『音楽の源泉』と『音楽の勝利』を完成させたものの、設置の際配置が逆になったが、幸運な偶然として受け入れた
アメリカにおける地位は2つの出来事により確立 ⇒ ①64年ブロードウェイ・ミュージカル《屋根の上のヴァイオリン弾き》の上演では、シャガールのイメジャリーを借用、②65年の『タイム』誌の特集記事
60年代、大戦中に大陸のユダヤ人芸術家を多数救出したアメリカの外交官ヴァリアン・フライが国際救援委員会にいて、資金調達のため戦時中に救済した画家たちによるリトグラフ集を出版しようと協力を求めたとき、直接は関係しなかったピカソやミロまでが協力したのに対し、シャガールは20年前絶体絶命のリストにその名を加えたころとは比べ物にならないほど裕福で有名だったが、人間性においては劣っていた ⇒ たった1枚のリトグラフが1200ドルで売られているにもかかわらず、妻のヴァヴァが頑なに拒否、周囲の有名人からの説得もあって漸く67年に提供を同意したときにはフライは亡くなっていた
シャガールほど疑り深く、窮乏の記憶を克服できない人はいない ⇒ ヴァヴァを隠れ蓑に、物質的には膨大なコレクションもあって裕福でありながら、自らのために使う金以外についてはことのほか細かかったといい、その意を体するかのようにヴァヴァも厳格に管理していた
不必要にも拘らず衝動的に経済的安定を求め、もう一方では美術史における己の地位を追い求めていた ⇒ 経済的安定への欲求は質的に劣る作品の量産とみみっちい貪欲さに繋がり、美術史上の地位への願望は記念碑的パブリック・アートの創造に彼を駆り立てた ⇒ 片や戦争により傷ついた世界に、稀なる精神性の癒しの芸術を寄附する、鷹揚で賢い預言者然とした自己、片や神経質で疑り深くご都合主義の亡命者。裕福になるほど人を信用しなくなった
芸術家の現在の仕事の評判よりも初期の仕事の評判が勝ることは珍しくない ⇒ 晩年のピカソやマティス作品も敵意を呼び醒まし、73年のアヴィニョンにおけるピカソの最後の展覧会はほぼ全面的に嘲笑されたものの、今日では最晩年の作品もそれぞれの作品群において重要で先駆的であると評価されているが、シャガールの晩年の作品はステンドグラス等幾つかの新機軸をもたらしたものの、優雅に編成されたコーダ、即ち先行したものの再配列に過ぎない。彼個人の物語は尽き、亡命者の自己再生はもはや使い古されていた
1966年、ヴァンスから近郊のサン・ポールに引っ越し、実験的で興味をそそる後期のカンヴァスが創造される。宗教的な主題に没頭するとともに、ニースを俯瞰する郊外の丘陵地帯に国立マルク・シャガール美術館建設を計画、69年礎石を置く

16. 「わたしは優れた画家だったろう?    サン・ポール                        19711985
72年、鉄のカーテンの向こう側で初の彼の回顧展がブタペストで開催されたが、ソ連ではほとんど人の口に上らなかったところへ、シャガールが半世紀の間待ちわびていたソ連文化大臣からの招待状が舞い込み、夫妻でモスクワを訪問。ヴィテブスクへは、過去の記憶を乱すべきではないとして行かず、レニングラードで生存親族と再会。当時の遺された作品を目にして感激したシャガールが、署名を入れるとともに周囲に、「私は優れた画家だったろう、なんて若かったんだろう、これらの作品は魂で描かれている」と語りかけた
1973年、国立マルク・シャガール美術館開館 ⇒ 建物は国が建て、展示品をシャガールが寄贈。生前に国立美術館が建設されたフランス初の芸術家となる
90歳代になると、シャガールの絵筆を握る手はある時はしっかりしているかと思うと、震えることもあり、ベラの死後彼の絵画の特徴だった鮮明度の欠如、影のように融合する形、ぼやけた色彩はさらに顕著になっていく
19851月開幕したロンドンの王立芸術院の大規模なシャガール絵画の回顧展が3月に閉幕する直前、アトリエから住宅部に移動しようとしたとき心臓麻痺に襲われ即死
サン・ポールのキリスト教の墓地に埋葬

訳者あとがき
パリのシャガール家所蔵の本人や家族の未刊行書簡を含む一次資料を、伝記作家として初めて駆使し、画家シャガール本人の声を至る所に響かせ、彼が生きた激動の時代を鮮やかに解き明かしたのが本書の最大の特徴




シャガール ジャッキー・ヴォルシュレガー著 激動の歴史に翻弄された天才 
日本経済新聞朝刊2013年9月22
フォームの始まり
フォームの終わり
 本書は気鋭の女性美術評論家による、シャガールの本格的評伝。英国スピアズ・ブック・アワードを受賞しており、一級資料としての価値はもちろん、読みものとして実に面白い。シャガール・ファンばかりでなく、彼の絵にさほど興味ないという人にもお勧めの一冊だ。カラーを含め、図版も約200点と充実している。
(安達まみ訳、白水社・6800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(安達まみ訳、白水社・6800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 シャガールは帝政ロシアの片田舎、ユダヤ人特別強制居住地区に生まれた。二流国民と差別され、家庭は極貧、両親はほとんど読み書きできず、血族にただのひとりも社会的成功者はいない。これはアンデルセンなどにも共通し、彼らは一発の巨大な花火として、それまでの何世代にもわたる闇夜の埋め合わせをしたのだ。天才の出現というのはまこと興味の尽きないものがある。
 97歳まで生きたシャガールは、激動の歴史に翻弄された。ロシアがソ連となり、パリで安住のつもりがまもなくナチスによる占領、間一髪のところをニューヨークへ亡命……。共産主義ソ連の実態に気づかず、生地への郷愁から恩師へ出した手紙がその人を死に追いやるという悲劇もあったし、かつての友人がスパイとしてアメリカまで訪ねて来るなど、当時の政治状況も生々しい。
 関わった多くの芸術家とのエピソードも豊富だ。とりわけピカソとの、互いに笑みを浮かべたままの嫌み合戦は血まみれの相打ちといった様相を呈し、シャガールの意外な一面を強烈に示す。また彼は――母親に溺愛された長男にありがちだが――どんな局面でも自己肯定と楽観は揺るぎない半面、女性は自分に奉仕して当然とばかり利用し尽したという。
 著者はシャガール絵画の唯一無二の個性を愛しながら、後期作品についてはやや口が重い。ピカソやマティスのように、死ぬまで自己変革し続けてほしかったのかもしれない。85歳のシャガールが、破壊されたとばかり思っていたロシア時代の自作を前にこう言うとき、読むほうも切なさに胸が疼(うず)く――「わたしは優れた画家だったろう? あのころは、信じがたいほど若かった! これらの作品は魂で描かれている」。
(作家 中野京子)

Wikipedia
マルク・シャガールMarc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל, 188777 - 1985328)は、20世紀ロシア(現ベラルーシ)出身のフランス画家

人物・来歴[編集]

188777日、帝政ロシアヴィテブスク(現ベラルーシヴィツェプスクVycebskまたはWitebskVitebskザハール、フェイガ・イタの元に9兄弟長男、モイシェ・セガル(Moishe Segalמשה סג"ל)として生まれた(モイシェはモーゼスのロシア形)。ロシア名マルク・ザハロヴィチ・シャガル (ロシア語: Мойшe Захарович Шагалов)、ベラルーシ名モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ (ベラルーシ語: Марк Захаравiч Шагал)、後にパリでマルクと名乗るようになる。故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人が占めているシュテットルで、シャガール自身もユダヤ系(東欧系ユダヤ人)である。生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)を一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれる。
19004年制の公立学校に入学した。なお、この頃の同級生彫刻家、画家のオシップ・ザッキンで、共に芸術家を目指した。
1907、当時の首都サンクトペテルブルクニコライ・リョーリフ学長を務める美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがて1909レオン・バクストズヴァンツェヴァ美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。
シャガールは1910パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。1915に母が病死。同年にベラと結婚。10月革命1917)後のロシアでしばらく生活するが、1922、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由して1923にはふたたびパリへ戻る。 ロシア時代のシャガールはロシア・アバンギャルドに参加して構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作したが、出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。 1941第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカ亡命した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトは1944にアメリカで病死した。
1947にパリへ戻ったシャガールは、1950から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952、当時60歳代のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。1960エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964に完成している。1966、シャガールは17点の連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース市が土地を提供する形で、1973画家の86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館した。1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。「マーグ財団美術館」に大作がある。
毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。しかし、だからといってピカソと仲が悪かったわけではなく、むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる[要出典]

エピソード[編集]

ホンダの創業者、本田宗一郎とパリで会った経験を持つ。この時本田は、日本からのお土産は何にしようかと迷いに迷った末、毛筆、墨、硯の一式を持っていくことに決めた。いざシャガールに会いに行くと、「これはどう使うのか」という話になり、あれこれ説明しているうちに、いきなり席を立って画室にこもってしまった。何が起きたのかわからず、戸惑う本田に、シャガールの妻が「もう、主人の出てくるのを待っていてもいつになるかわかりませんよ。あなたからもらった筆を実際に試しているのでしょうが、こうなったら何時間でも画室にこもったきりになってしまうのです。」と説明したという。シャガールの探究心の旺盛さを示すエピソードである。[1]

代表作[編集]

·         I and the Village1911年) ニューヨーク近代美術館
·         七本指の自画像(1912 - 1913年) アムステルダム市立美術館
·         誕生日(1915年) ニューヨーク近代美術館
·         Green Violinist1923年) グッゲンハイム美術館
·         青いサーカス(1950年) ポンピドゥー・センター
·         イカルスの墜落(1974年) ポンピドゥー・センター
·         America Windows1977年) シカゴ美術館
·         バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第124幕 青森県立美術館
·         バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館
·         イスラエル十二部族(1962年) ステンドグラス エルサレムの病院のシナゴーグ(礼拝堂)を飾る



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