小林一茶 時代を読んだ俳諧師  青木美智男  2013.10.28.

2013.10.28. 小林一茶 時代を読んだ俳諧師

著者 青木美智男 1936年福島県生まれ。日本近世史。明治大文卒。東北大大学院文学研究科修士課程修了。日本福祉大教授を経て、専修大教授、2007年定年退職。社会史・文化史を中心に、百姓一揆や民衆史の発掘、文学資料から歴史を読み解くなど、幅広い分野を考察対象とする。地域史の編纂等も手掛ける

発行日           2013.9.20. 第1刷発行
発行所           岩波書店(岩波新書)

夏の暑さに豊作を願い、打ちこわし騒動に心を寄せ、大黒屋光太夫の帰国に反応し、「君が代」や「神国」日本を詠む。市井の営みをつぶさに見つめた一茶の句からは、外国船の出現に動揺し、国学に沸く激動の文化文政年間を生きる人々の姿が浮かび上がる。「幕末維新を準備した」と言われるその時代を、近世史家が読み解く

はじめに
一茶はメモ魔。毎日の出来事を簡略に記録し、それを整理して書き留めてきた稀有な俳諧師。亡くなるまで途切れることなくその日の出来事と詠んだ句を克明に記録
多作。未だに知らざる新句が発見される
旧来の慈愛に満ちたお爺さんというイメージは、蕉風的美意識で選別する作品論的観点からのみ描かれた一茶像
俳句のほかに、俳諧仲間との交流記録(『急逓記』)、全国に存在する俳諧師の作品収集の記録(『随斎筆記 抜書』)、読書・学習記録(俳諧寺抄録)等、生涯にわたって書き綴ってきた関係記録が存在する点で、江戸時代の他の俳諧師とは大きく異なる
俳諧師も人の子で、詠んだ句も時代を体現しているが、多くの俳諧師は極限まで自己抑制した表現で世俗を詠んできたため、世俗や時代の流れが沈潜してしまい、風雅さだけが表出する句が多い ⇒ その点一茶は、世俗の言葉を使いながら自己の思いや時代の動きを率直に句に詠んできた俳諧師
蕉風的美意識から見れば「句屑」とされ、一茶句集に殆ど収録されない句を、歴史学的な観点から読めば、俳人一茶が自己の人生観や時代観を飾り気なく表出した句ということになる

1.    時代を詠んだ俳諧師
全国に300以上ある一茶句碑の第1号 ⇒ 1829年、門弟と親族が追善のために、長野県信濃町柏原(かしわばら)の諏訪神社(元々は北国街道の古間宿から柏原宿に入る入口)に建てた
松蔭に寝て食ふ六十余州哉
1829年、一茶が生前にまとめた521句を自選した遺稿集『一茶発句集』から選んだもの
「序文」に、「(芭蕉)翁に古池在て後古池の句なし、一茶に松蔭の句あって後まつかげの句なし」という句表を選句の裏付けとした
「国家安全」の前書き(俳句の脇に書かれた説明文のこと)があり、「松蔭」=徳川幕府のお蔭で日本全国が泰平を謳歌している
蕉風とは一線を画し、「荒凡夫」=粗野な人間のままで、「夷(ひな)の俳諧」=田舎俳風に徹し続けるという信念は生涯変えることはなかった
蕉風を常に意識しつつ、それに拘らない俳諧の世界を目指すことを心掛けていた
芭蕉翁の臑(すね)をかぢって夕涼
一茶のすべての句に貫通するのは、庶民と共に生きた一茶ならではの眼差し
慈愛に満ちた一茶像が登場するのは明治になってから ⇒ 一茶の評伝第1号である『俳人一茶』(1897年刊)で編者が、「翁の眸中に映ずる森羅万象有情活動す」と、わが子への慈愛を他人や動植物へも向けた人間性の豊かさに注目したのが最初。同書に寄稿した獺祭書屋主人(子規のこと)が「一茶の俳句を評す」の中で同様のことを言って何句か紹介
ただし、この傾向は50代になってからで、生まれた子供が次々に夭折するという体験の後に出てくる現象
農民への思いと、自ら選んだ「不耕の民」=非生産者=穀つぶしとしての狭間の中で、生涯にわたって「俺っていう奴は」と自虐的な感情を持ち続け、時折その精神的痛苦を句に託した
生涯農民に対して限りない畏敬の念を持ち続け、その思いは少しも揺るがなかったし、同様に村を離れて出稼ぎに出る農民にも、江戸に定着し裏長屋に住む下層民たちにも目線が向く ⇒ 原点は故郷での農作業の経験

2.    学びの時代
自ら、生まれたところを「下々の下国」と卑下
あんな子や出代にやるおやもおや
出代(でがわり) ⇒ 春33日、江戸で年季奉公が交代する日。江戸に奉公のために入ってくる者と帰郷する者が交錯する日、新旧の多勢の奉公人でごった返す。それが季語に採用されるほどに春の風物詩となった。一茶はまだ幼い子供が交っているのを見てなんともやるせない気持になったことだろう
3歳で母に死なれ祖母に育てられる。8歳で継母が入籍、一茶は継母に馴染めず、いざこざの都度祖母が間に入るが、異母弟が生まれると不和は大きくなり、14歳で後ろ盾の祖母が他界すると、父は一緒に暮らせないと判断して一茶を江戸へ奉公に出す
北国街道は、日本海最大の文化都市金沢城下に至る交通の要路で、その街道沿いの柏原宿には江戸で流行の文化がいち早くもたらされる ⇒ 逗留した俳人が村人たちに俳諧を教え、一茶もその手ほどきを受けたと言われている

3.    江戸の場末の裏長屋
奉公の厳しさに飛び出し、江戸での飢えを凌ぐ暮らしが始まる
全てを継母の仕業として、終生「鬼ばゞ」と恨み続けた
そんな暮らしの中で何とか生き延びられたのは、奉公先で葛飾派の俳諧師・大川立砂(りゅうさ)からいろはを教えられ慰みに始めた俳諧のお蔭
一茶の行跡がはっきりし出すのは25歳以降。俳諧師として生きていく決意をし、葛飾派の宗匠の家に同居しながら頭角を現す。一茶という俳号を名乗るのは29歳の頃で、30歳前から丸6年を費やした四国・西国への行脚によって一目置かれるようになる
現在の墨田区相生町付近の裏長屋=裏店(うらだな)に起居 ⇒ 本所・深川一帯は隅田川の「川向う」と呼ばれ、江戸の下町にも入らず場末町と言われた
元日も爰(ここ)らは江戸の田舎哉
雪ちるやきのふは見へぬ明家(あきや)(仮家札)
隣人に何の挨拶もなしに夜逃げ同然に引っ越していった家族の姿が目に浮かぶ
裏町の光景や裏店の住人たちの暮らしぶりを詠んだ句は、故郷に帰って、江戸の暮らしを思い出して詠んだものが多い

4.    四国・九州・中国・上方へ
『父の終焉日記』や『おらが春』では東北に行ったことが記されているが、日記類にはどこにも、芭蕉の足跡を訪ねる奥の細道へ足を運んだ形跡はほとんど見られない
当時、蕉風探究の修業として盛んに行われていた陸奥への俳諧行脚は、宗匠として認められるための必須条件だったため、自分も足を運んだと書かざるを得なかったのだろうが、現実は、陸奥の俳諧ネットワークと繋がるような社交的な旅を嫌って、西国に漂泊の道を選んだと思われる
1792年出立
西国の旅で驚かされたのが言葉遣い。西国の「話し言葉」のあまりの違いに戸惑いながらも方言への関心を高め、最晩年まであらゆる「話し言葉」の収集に向かい『方言雑集』に結実
各地で収集した土地の方言を組み込み滑稽味を醸し出すことを得手としたのが一茶の俳風の一端だとすれば、一茶にとって西国という異郷への旅は刺激的な毎日だったと言える
1798年、上方の俳諧師たちに惜しまれつつ江戸に向かう。離別に当たって彼等が編集した惜別の句集『さらば笠』は大坂俳壇が総力を挙げて編集したことが伺え、彼等が一茶を高く評価していたことがわかる
宗匠としての地盤開拓もあって、『さらば笠』を携え故郷信州に向かい、偶然父の死に遭遇、看病の最中父から財産分割の遺言状を受け取るが、39歳にして故郷で唯一の理解者を失う
江戸きっての俳諧師・夏目成美(別号・随斎:ずいさい)の随斎会に入り、41歳にして江戸で俳諧師として認められ、一流の俳諧師たちと親しく交わる
成美から「貧俳諧」と呼ばれるほど裏長屋の世界ばかりを詠んで話題になっていた
1811年、俳諧番付『正風俳諧名家角力組』の上段東前頭5枚目に「江戸 一茶」と掲載され、名実ともに江戸の俳諧師として認められる

5.    国学の隆盛と世直し願望
180225年、ほとんど休まず克明に日記を書く
全国の俳諧師と交流を持ち、集句録を作成 ⇒ プロの俳諧師たちがお抱えの飛脚を使って盛んに情報交換が行われていた
一茶は物凄い読書家でもあり、晩年には古典の抄録を開始し克明に書写を行う
古典文学や歴史書に関する造詣の深さと、それを句に詠み込む習性は成美門下でも有名
強く惹かれた思想が国学であることは自らも告白しているが、読書傾向が裏付け
自国観の形成 ⇒ 1792年ロシア使節が漂流民の大黒屋光太夫、磯吉等を護送し、通商を求めて根室に来航した事件が発生、海防への関心が高まったが、一茶もカルチャーショックを受け、海外情報の収集に注力。ロシアに対して日本を「神国」「春風の国」と詠んで賛美し、急速に極端な日本贔屓に高まる
世直しにも関心を向けるが、大きな夕顔や元気に飛び跳ねる虫はいずれも夏の好天がもたらす現象で、秋の豊作を予測し、「世直し」のシンボルとみるのは、一茶の世直し観が基本的には「世が直る」と受動的で自然任せであり、毎年起こる社会不安の連続の中で日常用語化していったとみられる

6.    北方への関心、差別への眼差し
ロシアの来航に慌てた幕府は、1802年蝦夷地の直轄化を決定、アイヌの和人化を実行
一茶もその状況を句に詠んでいる
ゴローヴニン事件で一時緊張が高まったが、1813年、緊張緩和を確認して、21年には蝦夷地を松前藩に戻す ⇒ 全蝦夷地に和人商人が入り込み、アイヌは漁業労働者化して受難の時代が到来
差別への眼差し ⇒ 「節季候(せきぞろ)(新春の祝言を述べて金銭を乞い歩く人)や大道芸人も題材として取り上げるが、芭蕉の句に見られるような非人身分の仕事という差別感は見られない
節季候の雀のわらふ出立(いでたち)かな 芭蕉
せき候に負ぬや門のむら雀 一茶
穢多町も夜はうつくしき砧哉 一茶(: 布を和らげ艶出しするために叩くこと)
反骨と滑稽と ⇒ 一茶の低い目線から上を見ると、時に政治的、社会的地位の高い大名や坊主らの仕草に滑稽味感じ、それを詠み込んだ句からは一茶の反骨精神が読み取れる
僧正が野糞遊ばす日傘哉

7.    老いの生と性
1807年、父の遺言状に基づき故郷に安住の地を確保しようとして、継母に対し財産分与の争いを起こすが、継母と義弟の勤勉な働きぶりを見てきた村人には、一茶の勝手な願望を受け入れる余地はなく、一茶は帰京の都度村人から冷たい視線を浴びる
1812年、遺産分割を勝ち取って故郷に戻るが、村人の冷たい視線は変わらず、一茶はますます発端となった継母への憎悪を募らせる
是がまあつひの死所かよ雪五尺 (成美が「死所」を「栖」と添削)
2年後2回り違う菊女と結婚、一番求めて已まなかった家庭の温かさを手に入れた
一旦江戸に戻り、江戸俳諧を離れる惜別記念句集『三韓人』を刊行 ⇒ 19か国から242人もの俳諧師が句を寄せてくれた
次々と子宝に恵まれるが、31女は夭折、末の次女だけが育つ
白内障と軽い脳梗塞を患い、手足が不自由になり出す
榎迄ことしは行かず雪礫 (毎年やっている雪投げが、今年は榎まで届かない)
還暦を迎え、ここまで来たらもう、「荒凡夫」=野人そのままの路線は変えないと決断し、さらに句作に精を出す ⇒ 年齢別では5960歳の句作数がピークでそれぞれ13191254句、59歳の9月には月間499句も詠む
一茶ほど、自らの老いの過程を赤裸々に句に詠み込んだ俳諧師はいない
23年、菊女没。間もなく武家の娘と再婚するがお互い合わずに離婚、26年、再々婚。3度目の結婚で生まれた女子だけが唯一の子孫となり、婿を取って明治以降も血が続く
生前俳諧師仲間は別として、多くの人に知られた存在ではなく、子規によって文学性が評価されてやっと国民に親しめる俳諧師となった


おわりに
日本文学の研究者でもなく、俳人でもないが、たまたま信濃教育会編の『一茶全集』を詠み、「世直し」という言葉がしばしば出て来るのに大きな驚きを感じ、そこからどんな俳諧師か関心を持ったに過ぎない
一茶が膨大な記録を残していることと、一茶の視点が常に民衆に向けられていることから、一茶の句や生涯から文化文政期という時代が描けるのではないかと考えた
文化文政時代(=化政期)とは、寛政の改革の立役者老中・松平定信が失脚した後、11代将軍家斉新政下、綱紀が緩み風俗が頽廃したが、町人芸術が爛熟の極に達し、小説(山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、俳諧(一茶、浮世絵(喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)など優れた作家を輩出
洗練された「通」や「粋」と違って、中・下層町民の生活感を肯定する「野暮」に代表される文化だが、その前提として庶民の読み書き能力の高さや出版や書籍の流通等情報伝達が円滑化されたことが大きい
一茶の生きた時代を再現しようと試みたのが本書
附記 著者は本書を書き上げた直後金沢で客死。著者の最後の勤務校である専修大時代の教え子・瀬戸口龍一氏が、遺族と編集部の許可を得て必要に応じ加筆・修正した


小林一茶 青木美智男著 俳諧を通して時代を見る 
日本経済新聞朝刊20131020
 俳人小林一茶を生んだ文化文政時代は、現代の日本文化の雛形となる文化芸術が花開いた時代だった。俳諧も面目を一新した。詩としての表現領域を飛躍的に拡大させたのである。
(岩波新書・700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(岩波新書・700円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 芭蕉や蕪村までの俳諧は、俳人の研ぎ澄まされた美意識を披露することがテーマとなっていた。しかし一茶ら当世の俳人たちは、何気ない生活風景や下層民の哀歓、大胆な自己表白や社会批判をも句に盛るようになった。これは意識の変化もさることながら、それを俳諧として定着しうる表現技術を彼らが開拓した点が大きい。
 その力行ぶりは、一茶の残した句数にもうかがわれる。芭蕉が生涯において残したのは千句たらず。蕪村が三千句弱を残した。これに対し、一茶は実に二万超。これは単に多作の俳人として片付けるべきではない。俳諧の文芸的成熟を背景にして初めて可能な数字であった。もちろんその成熟を促したひとりが一茶であったのだが。
 本書はこのような広大な表現領域を有する一茶の俳諧を、時代の記録として見、これを通して文化文政時代を再現しようとした。野心作といっていい。著者は一茶の膨大な句業中、下層民の代弁者として語る句を多くとりあげ、その視点から農民や季節労働者の哀歓をいきいきと描き出した。
 圧巻は「君が代」や「世直し」といったことばを読み込んだ句々にスポットライトをあてた点。こうした句が俳壇で取り上げられることは実は少ない。しかしこのおかげで批判者としての一茶像が浮かび上がった。一茶はある年齢まで「君が代」を上五に置いた句を詠み、徳川の治世を賛美もしくは是認していたが、その晩年、一切「君が代」の句を詠まなくなり、かわって「世直し」をテーマにするようになった。もとより「世直し」は漠たる願いではあって、いまだ政治運動に直結するものではなかったが、幕末維新にいたる時代の風向の計測として興味深い。
 更に俳諧という日本の政治経済の中心地で発達した文芸が、地方民の目で再度鋳なおされてゆく過程もみてとれる。従来の一茶像を一新したとまではいえないが、かえりみられなかった句を丁寧に拾うことで、彼が生きた時代、地方、人々を立体的に浮かび上がらせた。
(作家 小林恭二)



小林 一茶宝暦13551763615文政101119182815))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名を小林弥太郎。別号は、圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など。[1][2]
小林一茶の住んだ土蔵(長野県信濃町)
一茶が逗留した久保田家の離れ屋(長野県高山村)
宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受ける。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳の時、江戸へ奉公に出る。
25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶ。[3]
寛政3年(1791)29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿四国九州を歴遊する。
享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた「父の終焉日記」は、私小説の先駆けと言われる。一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、31女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。
残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった[4]
文政10611827724)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の1119日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。[5]
俳号「一茶」の由来[編集]
『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と一茶自身が記している。
作品[編集]
作風[編集]
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が目を引く。その作風は与謝蕪村の天明調に対して化政調と呼ばれる。
代表的な句[編集]
·         雪とけて村いっぱいの子どもかな
·         大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
·         めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
·         やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
·         悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
·         雀の子そこのけそこのけお馬が通る
·         蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
·         やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
·         名月をとってくれろと泣く子かな
·         これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
·         うまさうな雪がふうはりふうはりと
·         ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
·         我ときて遊べや親のない雀
一茶の作った句の数[編集]
一茶のつくった句は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。最も多くの俳句を残したのは、正岡子規で約24000句であるが、一茶の句は類似句や異形句が多いため、数え方によっては、子規の句数を上回るかもしれない。よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の類似句があり、これを1句とするか3句とするかは議論の分かれるところである。
現代の一茶研究で最も権威のある『一茶全集』第1巻(信濃毎日新聞社、1979年)には、一茶のほぼ全作品が収録されている。なお、その後の発行された『一茶発句総索引』(信濃毎日新聞社、1994年)で、198句が新出句として追加されるとともに、『一茶全集』第1巻に久保田兎園等の句が40数句あったと記述されている。一茶の句の発見は、これ以後も続き今日に至る。
平成に発見された一茶の句[編集]
·         けふもけふも霞はなしの榎かな(20114月)
·         一株の芒をたのむ庵哉(20105月)
·         稲妻のおつるところや五十貌(20105月)
·         猫の子が手でおとす也耳の雪(20102月)
·         菜の虫ハ化して飛けり朝の月(20094月)
·         羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(20094月)
代表句集等[編集]
生前の一茶の著書には、「旅拾遺」「さらば笠」「三韓人」などがあるが自身の俳書はない。 著名な「一茶発句集」「おらが春」は没後に刊行されたもので、「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」もいずれも遺稿である。 また、「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」「七番日記」「八番日記」「文政句帳」など克明な記録は、いずれも出版を意図して書かれたものではなく、一茶のプライバシーまでも公にしてしまっている。
·         たびしうゐ(旅捨遺)
·         さらば笠
·         三韓人
·         一茶発句集
·         おらが春
·         寛政三年紀行
·         父の終焉日記
·         株番
·         我春集
·         志多良
·         寛政句帖 ⇒ 日記
·         享和句帖 ⇒ 日記
·         文化句帖 ⇒ 日記
·         七番日記 ⇒ 4050代の日記
·         八番日記 ⇒ 50代から晩年までの日記
·         文政句帖 ⇒ 50代から晩年までの日記
·         浅黄空
·         俳諧寺抄録 
など
小林一茶の登場する作品[編集]
小説
·         藤沢周平『一茶』 文藝春秋 1978 のち文庫
·         井上ひさし『小林一茶 1980 中公文庫
·         田辺聖子『ひねくれ一茶』1995 講談社
·         笹沢佐保『俳人一茶捕物帳 涙の弥次郎兵衛』1989 光文社 他シリーズ
映画・テレビ等
·         「信濃風土記より 小林一茶」 194116mm 製作:東宝 監督:亀井文夫、解説:徳川夢声
·         「一茶と歩む 信濃奥紀行」 1998 DVD テイチクエンタテインメント、ナレーション・歌:さだまさし
·         おらが春」(2002年、NHK正月時代劇) - 小林一茶:西田敏行
·         「まんが偉人物語 小林一茶」(1978年、毎日放送 TBS
·         「一茶さん」 歌:有島通男新谷恭子春日八郎、作詞:中條雅二、作曲:中野二郎
·         「一茶と子供」 歌:川田孝子伊藤久男、作詞:加藤省吾、作曲:八洲秀章
·         「一茶どん」 歌:上原敏、作詞:佐藤惣之助、作曲:長津義司
·         「旅行く一茶」 歌:三橋美智也、作詞:伊吹とおる、作曲:佐伯としを
·         「一茶の雀」 歌:KONISHIKI、作詞:日暮真三、作曲:BANANA ICE
資料館・博物館[編集]
一茶記念館(長野県信濃町)
·         一茶記念館(長野県信濃町
·         一茶ゆかりの里 一茶館(長野県高山村
·         一茶双樹記念館(千葉県流山市
·         小林一茶・荻原井泉水記念俳句資料館(長野県山ノ内町
·         袋屋美術館(長野県野市
脚注[編集]
1.   ^ 一茶の誕生日は、94日という説もある(矢羽勝幸『小林一茶ー人と文学ー』(勉誠出版2004)
2.   ^ 俳号を読んだ句に*春立や弥太郎改一茶坊(七番日記、文政元年)*鶯よけさは弥太郎事一茶(七番日記、文政元年)*春立や弥太郎改はいかい寺(八番日記、文政2年)
3.   ^ 論拠不詳であるが、藤沢周平著『一茶』では、小林竹阿には実際会ったこともなく、弟子というのは一茶の詐称との記述がある。
4.   ^ 大場俊助「一茶性交の記録七番日記・九番日記より」 『新編秘められた文学 - 国文学解釈と鑑賞』 485 19833月臨時増刊号
5.   ^ 一茶の菩提寺は浄土真宗本願寺派明専寺である。大正時代に火災にあい、鐘楼を除き当時のものは残っていないが、この寺と親戚関係にある長野県高山村にある徳正寺の寛政期に建造された本堂は、同じ棟梁により建造されたもので明専寺と全く同じ造りで当時をしのぶことができる。


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