樅の木は残った  山本周五郎  2013.10.17.

2013.10.17. 樅の木は残った 上下 

著者  山本周五郎 13-08 周五郎伝』参照

発行日           2013.6.10. 発行
発行所           新潮社(山本周五郎長編小説全集 第1)

上巻
江戸初期の万治3(1660)7月、仙台藩藩主・伊達綱宗は、幕府からの突然の逼塞を命じられ、その翌夜、4人の藩士が斬殺された。事件の陰に潜む幕府老中・酒井雅楽頭と、伊達一門・伊達兵部(宗勝)の密約。やがて仙台藩62万石が大きく揺らぎ始める・・・・。仙台藩宿老(仙台藩における武士の階級、上から5番目)・原田甲斐の闘いの幕が切って落とされた。
原田甲斐曰く、「侍にとって『忠死』が本望であることに間違いはない。しかし侍の『道』のためには、ときに不忠不臣の名も甘受しなければならぬ」
歌舞伎『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』では仁木弾正として、極悪人の烙印を押された原田甲斐の人間像を、鮮やかに覆した歴史小説の傑作!
下巻
原田甲斐の過酷な闘いは、甲斐を慕う女たちをも否応なく巻き込んでいく。滾(たぎ)るような夫への想いを無残に打ち砕かれる律(最初の妻)。甲斐の孤独な心に寄り添う少女、宇野(暗殺された侍の娘)。ひたすら甲斐の身を案じ、いつの日か親子で平穏に暮らせることを夢みるおくみ・・・・。女たちの願いは、甲斐と共に悲劇へと突き進む。
原田甲斐曰く、「意地や面目を立て通すことは勇ましい、しかし、侍の本文というものは堪忍や辛抱の中にある。これは侍に限らない。およそ人間の生き方とはそういうものだ」
人間として悩み苦しむ原田甲斐の姿を丹念に描き切り、かつてない侍像を打ち立てた記念碑的名作!


作者の言葉               1954.7.6. 日本経済新聞
かつてそこにも1人の人間がいた。彼は、強権と我欲と陰謀から主家の崩壊を守るために、身を捨てて苦心経営し、危うくその目的を達したが、彼とその家族(母、妻、子たち)は奸賊の名によって罪死した。彼は名門に生まれたが剛勇烈士の類ではなかった。酒を好み、女を愛し、美食を楽しむことを知っていた。彼には逸話は残っていない。唯一つ彼は1本の樅の木を愛した。それは芝増上寺の塔頭「良源院」の庭にあり、明治中期までそこに立っていたという。―――彼は伊達陸奥守の家臣で、名を原田甲斐宗輔といった

作者の言葉 続編を連載するに当たり           1956.3.5. 日本経済新聞
さて――続編を書くに当たって、本紙の都合により題名を変えることになった。もちろん前篇に続くものであるし、主題にも人物にも変わりはない。仙台伊達藩における「寛文事件」はこの続編から骨頂をあらわすといってもよい。ただし、これは初めにも申した通り、騒動の秘密やその誘引や経過を語るのが目的ではなく、登場する人物がその渦中でどう生きたか、ということを探求するのが主題であります。この世に起こる悲劇喜劇の多くは、その人の気質によって左右されるようだ。寛文事件を詳しく調べると特にそのことが強く感じられる。偏狭な独善家や、排他的な利己主義者や野心家たちを巧みに抑え、幕府の圧迫から辛うじて伊達家の悲運を救った少数の人たち、中でも、自ら進んで「汚名の冠」を被った原田甲斐宗輔の類稀な気質こそ、最も重要であり、趣も深いと思う。せつにご愛読とご叱正を願います


仙台藩3代藩主・綱宗が、幕府の老中の合議で逼塞を命じられた日の翌日、綱宗が寵愛する側近4名が江戸の伊達藩屋敷内で「上意討ち」と言われて刺殺されるが、伊達藩の重臣会議を仕切った一ノ関(宗勝、政宗の末子、酒井雅楽頭の姻戚)が不問に付す
2代忠宗の他界の際水戸頼房が、「綱宗若年なれば、兵部が家中の取締りを頼む」と言ったことが一ノ関の立場を決定的にしたが、国老の古内主膳が先代に殉死するとき、「兵部のことが気懸り、よくよく注意せよ」と遺言してから僅か2年でその懸念が現れ始めた
原田甲斐は、この事件で両親を刺殺された姉弟を一時預かる ⇒ その後良源院(増上寺の塔頭で伊達家の宿坊)に預けられる。良源院の甲斐の部屋の庭先に仙台から移した樅の木があった
原田は事件の詳細を、国元に隠居している元国老で現国老の父・茂庭佐月に手紙で知らせる ⇒ 原田の妻女は、茂庭の娘で現国老の姉
原田家は、頼朝の旗下だった伊達家の始祖の2代目の家臣となり、以後19代にわたって伊達家に仕え、古くから宿老の家柄で、伊達家では一、二の臣といわれ、甲斐は誰からも好かれていた
綱宗は、江戸国老の筆頭で伊達兵部の信任厚い奥山大学にそそのかされて廓に通い始めた途端、酒井雅楽頭から注意が来て重臣会議が綱宗の隠居を決定
甲斐と茂庭周防は、幕府の老中大和守から密かに酒井と兵部による伊達家乗っ取りの謀計を知らされ、伊達身内にも内通する者がいるから注意するようにとの忠告を受ける。兵部は元々酒井のひきで直参1万石の大名となり、前年酒井家と姻戚に
伊達の家督を綱宗の実子2歳の亀千代に継がせることを、幕府は兵部宗勝と綱宗の異母兄で田村家を継いだ右京宗良の2名による後見を条件に認める
宗勝の仙台藩乗っ取りの陰謀を阻止しようと、筆頭家老の茂庭周防が涌谷伊達家の宗重を立て、甲斐と共に立ち上がるが、甲斐は出来ることなら加担したくないと言って周防を怒らせる
綱宗は、若い隠居のみとなり、宗勝の陰謀に憤りを隠さず、酒に溺れて父・忠宗が自分を疎んでいたことも含め愚痴を言い募る ⇒ 甲斐は国元に戻る時の暇乞いに綱宗を訪ね、亀千代の家督が幕府に認められてお家安泰になったのに、何のためにひっくり返すようなことを言い立てるのかと諌める
元々仙台人は我が強く、倨傲(きょごう: おごりたかぶったさま)、平穏な状態は半年と続かず、己の権勢や利欲にも貪婪に執着、非難し中傷し合うばかりか、家中の事を家中で処理しようとせず仙台では国目付(幕府からの現場見地)に訴状を出し江戸では老中に訴え、ことごとに幕府の威を借りようとする
宗勝は、藩内に騒動を起こし、お互いを争わせようといろいろ画策する ⇒ 老中第1の権力者となった酒井雅楽頭と通じて、あわよくば伊達藩を自らの嫡男に継がせようとする
甲斐は国に戻ると妻と離縁して茂庭家に戻し、義父茂庭佐月の葬儀にも顔を出さず、1年後の出府を前に別な女性と再婚、さらに宗勝の推挙により国老となる
筆頭家老の茂庭周防は敵側からの讒言と神田川掘割の普請に疲れて、普請完成後引退
国のため、藩のため主人のため、また愛する者のために、自ら進んで死ぬということは、人間感情の最も純粋な燃焼の1つとして存在するが、甲斐は好まない。たとえそれに意味があったとしても、できることなら「死」は避けた方がいい。そういう死には犠牲の壮烈と美しさがあるかもしれないが、それでもなお、生き抜いてゆくことには、遙かに及ばないだろう
甲斐は、宗勝の陰謀の影に、大名取り潰しという幕府の根本政策を推し進めようとする亡くなった老中で権力者・松平伊豆守信綱の遺志を感じ取る ⇒ 加賀、薩摩と共に3大雄藩の1つとなった伊達家を内部から崩壊させるために重臣間の離反を画策して、取り潰しの口実を作る
甲斐は、茂庭家とは離反しながらも嫡男の嫁を茂庭家から娶り、3代にわたる重縁を作る
甲斐が刺客に襲われた時のこと、親しかった国老の危篤に際し、「侍の奉公というものは常に命を賭けたものだ、と教えられた時から、いつも死と当面してきたし、死の恐ろしさを知ってきた。国老が危篤だと聞いても、安らかな往生を願うほかに、私には何の感慨もなし、また遺言などをことさら重大だとも考えない、それだけだ」と国老の身内に言った
武田勝頼が滅亡したとき、恵林寺の禅僧が織田勢の手で一山の僧とともに焚殺されたが、その時烈火の中にあって、心頭を滅却すれば火もまた涼し、と言ったそうだが、1人も生き残らなかったのに、禅僧の言葉を誰が聞いたのか、禅門が巧みに作った俗話に過ぎず、禅の精神を伝えるものではなく、人間の悲しさ、弱さをあらわしている
甲斐は、伊豆守の遺志による陰謀に対抗するため、同じ立場にある前田家と密かに連絡を取るが、お互いを対岸の火と見ていて相手にされない
亀千代の袴着の祝いの日の毒殺の陰謀は失敗するが、再度毒が盛られ毒見役が死亡、直ちに宗勝は関係者を処分したうえで老中に報告し伊達藩分割へと動こうとするが、甲斐がいち早く駆けつけて、辛くも毒殺を隠蔽。宗勝は、分割の陰謀がばれると命を狙われると甲斐から脅され、不承不承隠蔽に同意するが、酒井雅楽頭は甲斐の意図を見抜く
甲斐を心酔する浪人が宗勝暗殺の嫌疑を受けて、一族滅亡となった後、もう1人、盲人で老人の心酔者と、いまは若年寄となった茂庭周防の息子に初めて甲斐は本心を打ち明け、宗勝が何を仕掛けてもじっと耐え抜くことが伊達家を守る唯一の方策だと説く。甲斐が宗勝に擦り寄っているのも方便の1
亀千代毒殺を隠蔽したのもその1つ、さらに涌谷伊達氏と宗勝の甥にあたる伊達宗倫(登米伊達氏。3代綱宗の異母兄)の所領紛争でも宗倫の強欲と知りつつ涌谷を宥めて譲らせたのも同じことだったが、再燃した境地問題で涌谷が老中に直訴、幕府も訴えを取り上げて老中評定に持ち上げる
甲斐は、唯一伊達家を救う手だてとして、綱宗と後西天皇(一旦有栖川家を継いだ後天皇に即位)は従妹同士で母親が姉妹という関係を活用しようとするが、皇后に拒絶
最後の頼みで、甲斐は当初乗っ取りの陰謀を密かに知らせてくれた老中大和守に直接会って、当初から伊達家改易の動きを知っていたのかと問い質し、老中評定での助力を頼む
宗勝は、老中評定の前に酒井と打ち合わせしようとするが、酒井からは邪魔者扱いされて会ってもらえない
大和守は酒井に事の次第を連絡し、酒井は宗勝との間に不用意に書いた伊達藩分割の誓紙が甲斐の手の中にあることを不審に抱くも、甲斐に負けたことを悟り、伊達家改易の陰謀を中止する、その代わり評定のため呼び出した涌谷、甲斐他伊達家重臣を斬殺
甲斐は、酒井の指示による刺殺だと知りながら、瀕死の中で、涌谷に、これは自分が乱心して刃傷に及んだのだと言いくるめ、お家安泰のためにそうしなければならないと説く
瀕死の甲斐に大和守が駆け付け、伊達家の事は引き受けたと約束
甲斐の子供、孫たち男は皆切腹させられたが、甲斐の突然の乱心を説明できるものは伊達家家中に1人もいないし、甲斐を逆臣と呼ぶものですらその動機を指摘することはできない
宗勝とその家族たちは、所領没収の上、諸家に預けの身と、甲斐に比べてはるかに軽い処分だったが、伊達家の禍根は立たれたことは事実 ⇒ 伊達家と多数の家臣たちの将来の安全を確実にすることが多年の念願であれば、どういう死に方をしようと、世評がどんなに悪かろうと、甲斐にとって全く問題ではなかった
良源院の樅の木は9年前と比べて幹も太くなり、丈も伸びた



山本周五郎と私 三つほどのこと                山田太一
山本周五郎氏については、三つほど書くことを躊躇う私事がある。全くこちらだけの話
氏は2度結婚。初めの人は氏が41歳の時に病没、よく年きんさんと再婚され氏まで添う
きんさんの回想記『夫 山本周五郎』には、「これ以上面倒は見られないというくらい世話した」とあって、子連れの男と一緒になった初婚の女性の苦労などは殆ど書かれていないが、一点だけ前夫人に触れ、「私は大衆作家の所に嫁に来たのではない」と言って主人を発奮させたと言ったという
氏は、一貫して大衆作家であり続け、問題はその質で、質で他を抜きんでることを期し、「大衆作家」に与えられる直木賞に選ばれたが、女房にそこまで言われていたら受け取れるだろうか。辞退しても、氏は「大衆作家」であることをやめる気はなかった。凡百の大衆作家を引き離して独自の大衆作家になることを目指した
伊達騒動の通説を覆した名作も前夫人は読めなかった。直木賞辞退から僅か2年後に他界
1988年拙著が第1回の山本周五郎賞の候補になった時、「光栄ですが」とは言ったものの、自作との接点が分からない。そこで初めて氏の作品『よじょう』を読み、一貫して賞を辞退する人だったことを知り、作家の想いに応える反骨への敬意を口にすべきかと迷いながらも結局流れのままにした
氏の作品を読むにつれ、徐々に好きになっていった。一作一作油断が無く、漢字の使い方、会話に託す時代表現や方言のほどが潔くて気持ちがよかった。『樅の木は残った』はその頂点の作品。だがベストは『青べか物語』で、読了して前夫人に「『大衆作家』のお嫁さんではない。『大衆作家』ではあってもあなたが軽蔑するような『大衆作家』ではない」と声をかけたかった
ちょうど『青べか物語』を読み終えたところに電話が鳴って、私にある賞をくださるということだったが、氏からの啓示と感じて、その賞を辞退


解説 原田甲斐――全く新し人物像として               縄田一男(文芸評論家)
周五郎は、丁稚奉公をしていた時から、「原田甲斐は悪人ではない、将来必ず伊達騒動の原田甲斐を書く」と言っていた
続編で題名を『原田甲斐――続樅の木は残った』としたのは、社内特に営業関係から「同じ題名では困る」と言う意見が出て押し切られたからだが、周五郎が副題に『樅の木』を残したのは、この木が示す作中における象徴性に飽くまでも拘り抜いたため
伊達騒動における原田甲斐の悪人像を決定的にしたのは、時代を室町期に取り、甲斐をお家乗っ取りを企む妖術師、仁木弾正とした歌舞伎『伽羅先代萩』だが、周五郎は甲斐の汚名を雪ぐのではなく、全く新しい人物像として甲斐を創造しようとしていた
山本周五郎は、自らの執筆意図を以下のように言う――文学は、権力とか政治の在り方とは切り離して、いつでも人間性を追求する。その中から何か真実なものを見出そうとする活動が根底になっている。自分の小説が読者の共感を呼び起こすことが出来たとしたら、それはまさしく現代小説であって、背景になっている時代の新旧は、問う所ではないと思う
彼の言わんとしていることは、自分の信じる資料の解釈によって想像した原田甲斐の人物像は、いかなる時代にも通じ得る、普遍的なものであるということ
原田甲斐が死を拒否する姿勢を激しく要求しているのは、晩年の周五郎が宗教へ傾倒する兆しを表しているかもしれない
『樅の木』の中で最も人口に膾炙したのは、70年のNHK大河ドラマ(演出・吉田直哉、甲斐・平幹二朗、宇乃・吉永小百合)だが、茂木草介の脚本が宇乃の悲劇性を高め一層の視聴率の獲得を狙って、中途から口がきけなくなるよう改変されたのを周五郎が激怒して元に戻させたことがあったが、この姿勢は周五郎が小学校時代に泣き虫の混血児の事を揶揄して歌った詩に対し、恩師が激怒して、「人間の肉体的な特徴を、故意に悪意を持って誇張するようなことは絶対にしちゃいかん」と言った教えに遡ることができるかもしれない
『樅の木は残った』は、1959年毎日出版文化賞ということになったが、直木賞同様周五郎は固辞、出版元の講談社のみが受けるという変則な受賞となった



Wikipedia
樅ノ木は残った』は、山本周五郎歴史小説江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動伊達騒動」を題材にしている。
従来は悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)を主人公とし、幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、新しい解釈を加えている。4部からなり、本編の合間に藩の乗っ取りを企む伊達兵部(伊達宗勝)とその腹心・新妻隼人の密談を対話形式で描く断章が幾たびも挿入されている。
1954720日から1955421日まで、中断の後に1956310日から1956930日まで『日本経済新聞』に連載され、書き下ろしを加え、1958講談社(全2巻)で刊行された。1959毎日出版文化賞を受賞した。現在は新潮文庫版が刊行されている(改版全3巻)。周五郎作品の中でも最も多く映像・舞台化されている。
ストーリー[編集]
主人公の原田甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれているが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとした、穏やかな日々を過ごしていた。しかし彼のいる17世紀半ばでは、まだ藩政の絶対主義が確立しておらず、藩祖の血脈という権威を背景とした有力者たちが、地方知行の経済力を基盤として権力闘争を繰り広げていた。この闘いが原田と彼の友人、家臣たちの運命を変えていくことになる。
仙台藩の3代藩主伊達綱宗は、江戸の吉原での放蕩三昧を理由に、若くして幕府より隠居を申し渡された。綱宗には非難されるほどの遊興の覚えはなかったが、仙台藩主の座は嫡男である2歳の亀千代(後の伊達綱村)に移され、綱宗の叔父にあたる伊達兵部が後見役として実権を掌握した。
世間の人々は、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂した。老中の酒井雅楽頭(酒井忠清)と兵部の間に、いずれは仙台藩の半分を兵部に与えるという密約が交わされているとする風聞は、藩内に渦巻き、誰もが疑心暗鬼に囚われていく。
兵部は綱宗の過度の遊興がでっち上げであることを隠すために、吉原に同行した側近の畑与右衛門を夫人もろとも暗殺した。かろうじて逃げ延びた娘の宇乃は、近所に住む甲斐に救われた。綱宗が最も信頼していた甲斐は、綱宗の隠居後は後見役の兵部の勢力に取り込まれ、国老の地位を与えられた。兵部の一派のやり口に反発する藩内の人々は、甲斐に冷たい視線を浴びせ、友人達も彼の元から去っていった。それでも一人、甲斐は淡々と職務をこなしている。そんな甲斐の心中を覗こうと雅楽頭は様々に仕掛けてみせるが、この絶対的権力者を前にしても、甲斐には畏れも反発も何一つ波立つ様子はなかった。
舘において保護をしている宇乃を前にして、甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語った。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅の木に己の生き様を重ね合わせているように思えた。
藩内の権力を欲しいままにする兵部の一派は、他の伊達氏一門と激しく対立し、ついに幕府への上訴という事態に発展した。これは仙台藩にとって、幕府に取り潰しの名目を与えかねない危険な行為であった。兵部は万一の場合の安全弁として、かつて雅楽頭から送られた密約に関する自筆の書状を甲斐に託し、評定の場へと差し向けた。
史実によると、江戸の酒井雅楽頭邸で行われた評定の席で劣勢に陥った甲斐は、上訴の主である伊達安芸(伊達宗重)らを斬り殺し、自身も斬られて死亡したことになっている。これが世に言う「伊達騒動」である。しかし、伊達家の人々の殺害を命じたのは、密約の書状が世に出ることを恐れた雅楽頭であった。あえて全ての罪を被り、絶命する甲斐。これまで人々の蔑みの目にも、何も語らず耐えて来た甲斐の望みはただ一つ、たとえ己が悪人の汚名を着ようとも、仙台藩を無事に存続させることだったのだ。
映像化作品[編集]
·         青葉城の鬼(1962年、大映京都、主演:長谷川一夫、監督:三隅研次
·         樅の木は残った(1964年、東京12CH、主演:実川延若
·         樅ノ木は残った1970年、NHK大河ドラマ、主演:平幹二朗
·         樅の木は残った(1983年、フジテレビ時代劇スペシャル、主演:仲代達矢
·         樅ノ木は残った(1990年、日本テレビ里見浩太朗時代劇スペシャル)
·         樅ノ木は残った(2010年、テレビ朝日系ドラマスペシャル、主演:田村正和


伊達騒動は、江戸時代前期に伊達氏仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。
綱宗隠居事件[編集]
仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧[1]であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩池田光政[2]柳川藩立花忠茂[3]宮津藩京極高国[4]と相談の上、老中酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。
にもかかわらず綱宗の放蕩は止まず、ついに1660万治3年)79に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。718に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。
なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる[5]。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)であったために、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もある[6]
寛文事件[編集]
一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。
綱村が4代藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝(政宗の息子。兵部少輔。息子が酒井忠清養女を娶る)や最高の相談役である立花忠茂(2代忠宗の娘婿)が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山大学常辰が、その失脚後には宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔(甲斐)もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題(幕府派遣の目付への挨拶の順番を故意に取り違えて伊東家を貶めた)に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。
かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達氏)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫(登米伊達氏。3代綱宗の異母兄)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案[7]を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。
寛文11年(1671125日、国老・柴田朝意は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。
同年37日に伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。
同年327に当初予定の板倉邸から大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。
刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。
派閥は以下のとおり。役職は「仙台市史」より抜粋。
·      反伊達宗勝派(柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が伊東重孝の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い)
·       伊達安芸宗重(一門、反奥山派反宗勝派)
·       柴田外記朝意(奉行、宗勝から奥山派とされた)
·       古内志摩義如(奉行、宗勝から奥山派とされた)
·       茂庭周防良元(若年寄兼評定役)
·       片倉小十郎景長
·       里見十左衛門重勝(小姓頭、旧反奥山派)
·       伊東七十郎重孝
·       蜂屋(谷)六郎左衛門可広(聞役)
·       田村顕住(出入司、渡辺と原田から宗重派とされた)
·      主な伊達宗勝派
·       伊達兵部少輔宗勝(一門大名、後見役。当初は田村宗良同様に奉行の案を追認するだけであったが、後に実権を掌握)
·       奥山大学常辰(奉行筆頭、初期には綱宗や立花忠茂の信任により宗勝以上に実権を握り、内分分知両後見人と仙台藩との関係を巡って宗勝や田村宗良と対立し、失脚)
·       原田甲斐宗輔(奉行、当初は宗勝からは悪評価を受けていたが、奥山失脚後に宗勝の太鼓持ちとして台頭)
·       津田玄蕃景康(若年寄兼評定役)
·       高泉長門兼康(江戸番頭)
·       志賀右衛門由清(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)
·       浜田一郎兵衛重次(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)
·       今村善太夫安長(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人。寵臣の中心人物)
·       横山弥次郎右衛門元時(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人)
·       早川淡路永義
·       渡辺金兵衛義俊(目付小姓頭。寵臣の中心人物)

綱村隠居事件[編集]
寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は綱村に諌言書を提出したが、聞き入れられなかった。このため1697元禄10年)、一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し、伊達家親族の高田藩稲葉正往は隠居願いを差し止めた。
その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。1703(元禄16年)、この内紛が5将軍徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。このため老中1701(元禄14年)就任)の稲葉正往は綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。これに促され、綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村には実子が無かったため従弟の伊達吉村5代藩主となった。伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになった。
題材にした作品[編集]
·         伽羅先代萩歌舞伎の演目
·         伊達競阿国戯場:同上
·         赤西蠣太志賀直哉の小説、およびそれを原作とした映画(伊丹万作監督、1936年、千恵プロ)、テレビドラマ
·         腰抜け伊達騒動:斎藤寅次郎監督の映画(1952年、新東宝)
·         樅ノ木は残った山本周五郎の小説、およびそれを原作としたテレビドラマ(1970NHK大河ドラマ他)
·         危し! 伊達六十二万石:山田達雄監督の映画(1957年、新東宝)
·         伊達騒動 風雲六十二万石:佐伯清監督の映画(1959年、東映)
参考文献[編集]
·         大槻文彦『伊達騒動実録』
·         『大崎外伝 恩讐を越えて(下)寛文事件その後』:大崎タイムス
·         「仙台市史・通史4・近世2」(仙台市史編さん委員会(仙台市博物館内)・平成16年)
脚注[編集]
1.  ^ 事実でなく、口実であるとする説もある。
2.  ^ 忠宗の正室は光政の叔母だった。
3.  ^ 忠宗の娘婿で綱宗の義兄だった。
4.  ^ 祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟だった。
5.  ^ 万治元年(165912月、隅田川三又で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた。」「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした。」などの逸話が残るが、実際はこの時代には吉原三浦屋に、高尾の名跡の遊女は存在していない。
6.  ^ 伊達騒動関係研究では滝沢武雄「伊達騒動新考」(『史観』第75冊(1967年)所収)が、近世天皇研究関係では久保貴子『近世の朝廷運営朝幕関係の展開-』(岩田書院・1998年)がこの説を採る。
7.  ^ 谷地を宗重が3分の1、宗倫が3分の2に分割する案。なお、後年の元禄10年(1697)に幕府による新たな国絵図の提出を求められたために、参考のために幕府より借用した正保国絵図で宗重の主張が正しかったことが判明するが、不幸にも仙台藩の持っていた控えが紛失したためか、奉行や後見人が証拠資料として参照していた形跡はない。



伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)は、伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。通称「先代萩」。

伊達騒動の概要[編集]

本作の題材となった伊達騒動は、万治寛文年間、1660から1671にかけて仙台伊達家に起こった紛争をいう。その史実については、伊達騒動その他関連項目を参照。
巷説においては、おおむね以下のような物語が形成された。
仙台伊達家の3代藩主・伊達綱宗は吉原の高尾太夫に魂を奪われ、廓での遊蕩にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部ら一味の仕掛けによるものだった。甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(4代藩主・伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る。
本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している。

現行「伽羅先代萩」の成立[編集]

伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳3年(1713)正月、江戸市村座で上演された『泰平女今川』である。
これ以降、数多く伊達騒動ものの狂言が上演されるが、特に重要な作品として、安永6年(17774月、大坂中の芝居で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』(奈河亀輔ほか作)と、翌安永7年(17787月、江戸中村座で上演された歌舞伎『伊達競阿国戯場』(初代桜田治助笠縫専助合作)、さらに天明5年(1785)、江戸結城座で上演された人形浄瑠璃『伽羅先代萩』(松貫四ほか作)の3作が挙げられる。
歌舞伎『伽羅先代萩』は、伊達騒動を鎌倉時代に託して描き、忠義の乳母・政岡とその子・千松を登場させた。『伊達競阿国戯場』は、騒動の舞台を細川山名が争う応仁記の世界にとり、累伝説を脚色した累・与右衛門の物語と併せて劇化した。現在『伽羅先代萩』の外題で上演される内容は、「竹の間」「御殿」「床下」は前者、その他は後者の各場面を原型としている。
天明5年(1785年)の人形浄瑠璃『伽羅先代萩』は歌舞伎『伽羅先代萩』を改作・浄瑠璃化したもので、現行「御殿」に用いる浄瑠璃の詞章はこの作品から取られている。
場面構成や科白・演出についてはこの他多くの派生形があり、「花水橋」「竹の間」「御殿」「床下」「対決」「刃傷」からなる現行の構成は明治半ばから徐々に定着したものである。
また明治以降、累・与右衛門の物語は『薫樹累物語』などの外題で、独立の狂言として歌舞伎・人形浄瑠璃で上演されるようになった。

物語の概要[編集]

現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の3部に分けることができる。それぞれが別系統の脚本によっており、全体をとおしての一体感は薄いが、一つの演目で多様な舞台を楽しめるところは本作の魅力でもある。
以下、各場のあらすじに解説を添える。

花水橋の場[編集]

廓からお忍びで屋敷に帰る途中の足利頼兼(伊達綱宗に相当)が、仁木弾正(原田甲斐に相当)に加担する黒沢官蔵らに襲われるが、駆けつけた抱え力士の絹川谷蔵に助けられる。
·         危機の中でもお大尽の殿様らしく優雅にふるまう頼兼、その威にたじろぐ刺客たちの滑稽な動き、力士絹川の颯爽とした立ち回りを見せる華やかな一幕。七代目澤村宗十郎の頼兼は鷹揚で古風な芸を満喫させる至芸だった。
·         絹川は、「伊達競阿国戯場」系の脚本では、頼兼の放蕩を断つため高尾太夫を殺しており、「薫樹累物語」では高尾の妹・累との因縁が描かれる。
·         頼兼による高尾殺しを描いた脚本もあり、まれに上演される(平成10年(199811国立劇場など)。

竹の間の場[編集]

頼兼の跡を継いだ鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)の乳母(めのと)・政岡(千松の生母・三沢初子に相当)は、幼君を家中の逆臣方から守るため、男体を忌む病気と称して男を近づけさせず、食事を自分で作り、鶴千代と同年代の我が子・千松とともに身辺を守っている。その御殿に、仁木弾正の妹・八汐、家臣の奥方・沖の井、松島が見舞いに訪れる。鶴千代殺害をもくろむ八汐は、女医者・小槙や忍びの嘉藤太とはからって政岡に鶴千代暗殺計画の濡れ衣を着せようとするが、沖の井の抗弁や鶴千代の拒否によって退けられる。
·         もともと「御殿」とひとつづきの場だったが、浄瑠璃は用いず、純歌舞伎で演じられる。
·         通しの場合でも省略されることが多い。

御殿の場[編集]

一連の騒動で食事ができなかった鶴千代と千松は腹をすかせ、政岡は茶道具を使って飯焚きを始める。大名でありながら食事も満足に取れない鶴千代の苦境に心を痛める政岡。主従3人のやりとりのうちに飯は炊けるが、食事のさなかに逆臣方に加担する管領・山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。毒害の発覚を恐れた八汐は千松ののどに懐剣を突き立てなぶり殺しにするが、政岡は表情を変えずに鶴千代を守護し、その様子を見た栄御前は鶴千代・千松が取り替え子であると思い込んで政岡に弾正一味の連判の巻物を預ける。栄御前を見送った後、母親に返った政岡は、常々教えていた毒見の役を果たした千松を褒めつつ、武士の子ゆえの不憫を嘆いてその遺骸を抱きしめる。その後、襲いかかってきた八汐を切って千松の敵を討つが、巻物は鼠がくわえて去る。
·         本作中最大の山場であり、『伽羅先代萩』といえばこの場について語られることが多い。我が子を犠牲にしてまで主君を守るという筋書きは、現代的な感覚からは考えられないようなことだが、朱子学が幅を利かせた江戸時代に発達した歌舞伎や人形浄瑠璃の世界では常套の展開。
·         政岡は女形最大の難役の一つといわれ、五代目中村歌右衛門、その子六代目中村歌右衛門ら時代時代の名女形がつとめてきた。役柄自体は、肉親の情を抑えきる強さと子を思う母の弱さの両方を備えており、役者や演出によって様々な政岡像が描かれている。
·         栄御前が取り替え子を信じるくだりについて、浄瑠璃『伽羅先代萩』原文には、本当は忠臣方に連なる小槙が栄御前に予め嘘を吹き込んでいたという設定があり、「御殿」の幕切れに小槙が登場しそのことを告げる演出もある(平成16年(200411月松竹座など)。
·         栄御前の登場まで政岡がふたりの子役とやりとりする「飯焚き」の部分は、政岡役者が舞台上で茶の湯の手前を行うという演出だが、大きな筋の動きがなく短縮されることが多い。
·         明治なかばまで、八汐は女形ではなく、敵役のつとめる役だった。その後、敵役という職掌がなくなるにつれ、女形や立役が加役としてつとめることが一般的となったが、政岡をつとめる役者と対等の芸が要求される難役のひとつと考えられている。その意味でも、二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎は、丸本物狂言のコクと線の強さに色気を備え、八汐役者の双璧だった。

床下の場[編集]

讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく。
·         女性中心からなる義太夫狂言様式の「御殿」から一変して、せり上がりやすっぽんなどの仕掛けを用い、荒事の英傑と妖気漂う男性の悪役が対峙する名場面である。
·         仁木弾正は五代目松本幸四郎の当り役で、今日に伝わる仁木は基本的にこの五代目松本幸四郎が完成したものを踏襲している。さらに弾正の頬にあるホクロは五代目松本幸四郎の頬にあったホクロを模したもの、弾正のに縫い付けられた家紋は実は高麗屋松本幸四郎家の定紋四つ花菱紋など、これらはいずれも五代目松本幸四郎に敬意を払った「約束事」である。明治以後では七代目市川團蔵の仁木が大評判となった。戦後昭和になってからは二代目尾上松緑八代目松本幸四郎の仁木が特に味を出していた。
·         弾正がスッポンからせり上がってのち結ぶは「大入叶」(おおいり かなう)と書くようにという口伝が残されている。
·         大鼠が逃げ去る時に、ぬいぐるみを引き抜いて鼠色の衣の乞食坊主になり、そのまま花道のスッポンに飛び込むと、入れ替わりに七代目松本幸四郎の仁木がせりあがるという型を作ったのは六代目尾上菊五郎だった。

対決の場[編集]

老臣・渡辺外記左衛門(伊達安芸に相当)、その子渡辺民部、山中鹿之介、笹野才蔵ら忠臣が問註所で仁木弾正、大江鬼貫(伊達兵部に相当)、黒沢官蔵らと対峙する。裁き手の山名宗全は弾正よりで、証拠の密書を火にくべさえする無法ぶり。外記方の敗訴が決まるかというその時に、もう一人の裁き手の細川勝元(板倉内膳正に相当)が登場し、宗全を立てながらも弾正側の不忠を責め、虎の威を借る狐のたとえで一味を皮肉る。自ら証拠の密書の断片を手に入れていた勝元は、署名に施した小細工をきっかけにさわやかな弁舌で弾正を追及し、外記方を勝利に導く。
·         時代を応仁に取りつつも、現行の舞台は明治の活歴の影響をうかがわせる江戸時代劇風。名奉行を彷彿とさせる勝元の颯爽とした裁きと弾正の知能犯的悪人ぶりの対決がドラマの眼目である。
·         山中鹿之介、笹野才蔵、大江鬼貫などは、江戸時代の長大な脚本の中では他に出番もあったが、現行の場割りに削られた結果、目立った活躍の場がなくなってしまった。

刃傷の場[編集]

裁きを下された仁木弾正は、改心を装って控えの間の渡辺外記に近づき、隠し持った短刀で刺す。外記は扇子一つで弾正の刃に抗い、とどめを刺されそうになるが、駆けつけた民部らの援護を受けて弾正を倒す。一同の前に現れた細川勝元は外記らの働きをたたえ、鶴千代の家督を保証する墨付を与える。外記は主家の新たな門出をことほぎ深傷の身を押して舞い力尽きる。勝元は「おお目出度い」と悲しみを隠して扇を広げる。
·         外記を刺すときは、弾正が一旦外記に詫びいれ、直後に短刀で外記を刺し、花道付け際に一旦走って短刀を口にくわえ、両手で袴の股立ちを取り右足を踏み出し見得をする緊迫した型が残されている。通常は、この場面は上演されず、戦後でも、わずかに昭和43年(1968)に国立劇場で十七代目中村勘三郎がつとめたくらいである。普通は大広間で諸士が異変に気づき、傷ついた外記がよろぼい出るところから始まる。
·         この場は様式化され、大広間には雲竜の墨絵の衝立が置かれ、弾正の衣装は白のじばんに刀の下げ緒で襷をかけ、素肌に素網を着用するのが定着している。ここで見せる弾正の見得は、短刀を頭に振り上げる一本角の見得、左足のみで立って短刀を振り上げる鷺見得など美しい型を見せる。外記が勝元から墨付けを受け取るときははずした肩衣で受け取るのが型である。明治期の九代目市川團十郎、七代目市川團蔵、戦前の七代目松本幸四郎、戦後の二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎などの名優が弾正をつとめた。現在では三代目市川猿之助十五代目片岡仁左衛門などに伝わっている。
·         昭和11年(1936年)、日活製作の映画『赤西蠣太』では、原田甲斐役の片岡千恵蔵が、本作の刃傷の場を意識した乱闘を演じており、歌舞伎出身の片岡らしく重厚な名場面となっている。

派生演目[編集]

·         歌舞伎
·         慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ)、通称「伊達の十役」
三代目市川猿之助の復活狂言。復活といっても四代目鶴屋南北による文化12年(1815)の初演時の台本は早くから散逸して残らず、再構成には文化5年(1808)の『伊達競阿国戯場』再演時に大南北が改訂した台本を参考にしたことがうかがわれる。
·         裏表先代萩』(うらおもて せんだいはぎ)
『伽羅先代萩』の各場に市井の小悪党・小助の悪行を描く世話場を組み込んだもの。
·         早苗鳥伊達聞書』(ほととぎす だての ききがき)、通称「実録先代萩」
明治9年(1876)、東京新富座初演。江戸歌舞伎の制約を離れ、実在した登場人物を史実どおりの名で書いた二代目河竹新七(黙阿弥)の一連の実録物のひとつ。
·         人形浄瑠璃
·         『伽羅先代萩』
天明5年(1785年)版の『伽羅先代萩』を下敷きにして「竹の間」、「御殿」(飯焚き)、「政岡忠義」(栄御前の出以降)、「床下」の段が上演されている。




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