ウェブ社会のゆくえ 「多孔化」した現実の中で  鈴木謙介  2013.10.15.

2013.10.15.  ウェブ社会のゆくえ 「多孔化」した現実の中で

著者 鈴木謙介 76年福岡生まれ。都立大大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。現在、関西学院大社会学部准教授。専攻は理論社会学。「文化系トークラジオ Life(TBSラジオ)メインパーソナリティーを務めるなど多方面に活躍

発行日           2013.8.30. 第1刷発行
発行所           NHK出版(NHK Books)

ウェブ社会は、つながりを取り戻せるか
会議中やデート中、目の前の相手がSNSを見始めたら?
スマートフォンが飛躍的に普及した今日、ウェブの情報空間がリアル空間と結びつく「多孔化」は、私たちの生きる現実を大きく変容させ、社会のつながりを揺るがしつつある。いま、最も注目される社会学者が、「ソーシャルメディア疲れ」する若者の自己の有り様から、震災以後の日本社会の共同性の危機まで、多孔化した現実のゆくえを探る、待望の書き下ろし!

はじめに
ウェブは、現実の空間に、政治的あるいは経済的なフィルターを通したうえで成り立っているもので、現実から切り離されたバーチャルな世界をイメージしてもほとんど意味がないし、お互いの優劣を論じても無意味
バーチャルとリアルの対決ではなく、目の前の現実と画面の中にあるもう一つの現実との間の折り合いをどうつけるかが問題
現実空間の中にウェブが入り込み、ウェブが現実で起きていることの情報で埋め尽くされるようになると、かつて「現実の空間」だと思われていた場所に、複数の情報が出入りし、複雑なリアリティを形成していることに気付く。こうした現実空間に情報の出入りする穴がいくつも開いている状態のことを「現実の多孔化」と呼ぶ。現実が多孔化し、その穴を通してさまざまな人の思惑がバラバラに入り込んでくるようになると、「この現実」における他者との共生関係をどのように維持すべきか、それが本書の課題
課題は2
1つは、リアルとバーチャルの優先順位が混乱し、ときにリアルの方が蔑にされるときに、親密な他者との関係のあり方や考え方に変化が生じるということ
もう1つは、物理的な距離の近さと親しさの関係が不明瞭になると、ある空間の中に生きる人々が、ある「社会」の中に生きているという感覚もまた、確かさを欠くものになるのではないかということ
本書では、このような「空間」と「情報」を巡る様々なレベルでの葛藤や対立を、主として社会学の視点から描き、理解することを目的とする
東北大震災を機に、空間の情報化が社会の分断を招く一方で、その特性を生かして多様な人々の間を取り結ぶ様な「情報」で、意味的に分断される空間をハッキングするという課題に挑戦することになった

第1部        現実空間の多孔化
第1章        ウェブが現実を侵食する
現実の多孔化が生じる理由を、主として社会経済的な背景を追いながら解説
拡張現実 Augmented Reality ⇒ 人が知覚する現実環境をコンピュータにより拡張する技術、およびコンピュータにより拡張された現実環境そのものを指す
モバイル情報通信機器の普及により、「情報」によって「現実」の在り方を変化させるような技術や事例が登場 ⇒ 現場にいる人よりメディア情報に触れている人のほうがその場で起きていることに詳しいケースがある
「情報空間」 ⇒ デジタル情報技術によって物理空間に生み出された「意味の空間」
「意味の空間」 ⇒ その空間が持つ意味を中心に定義される空間のこと。「家」「部室」等
「セカイカメラ」 ⇒ 空間に新たな意味を付加するような情報空間。画面に映し出された場所に関する情報(エアタグ)を周囲に表示するアプリで、拡張現実の一種
より重要なのは、「他者とのコミュニケーションComputer Mediated Communication」によって意味が生み出されるような情報空間
ウェブはいま、モバイル機器の普及と高機能化、そして通信環境の整備などを背景に、現実の空間を上書きするようなコミュニケーションによって、現実空間を多孔化しつつある ⇒ 監視社会化して、監視されたデータが現実にとって代わる
ウェブ上で交流している相手が皆、現実の生活でも密接に関わっている相手だとしたら、ウェブが作り出した現実と、そうでない現実の両方に足をかけながら、どちらが自分にとって、社会にとって大事なのかを、自身の判断として選びとらなければならない

第2章        ソーシャルメディアが「私」を作る
なぜ現実の空間においても、ソーシャルメディア上の関係を気にせざるを得ないのか
日本のウェブにおける1つの特徴 ⇒ ウェブ上で実名を公開することを忌避する傾向が諸外国に比べて強い。韓国88%、フィンランド79%に対し日本は20%程度。にもかかわらずソーシャルメディアの普及率は高く、「日記」という形で自分のことを書きたがるのは、自分と一番遠い相手のコミュニケーションまでカバーするから
ソーシャルメディアに接続されたモバイルメディアが、人に見られることを意識した自己呈示の場であるがゆえに、そこから離れられなくなる可能性 ⇒ 「ソーシャルメディア上で認められる私」と「現実空間にいまいる私」の間に大きな葛藤を抱え込んでしまうことが考えられる。言い換えれば、ソーシャルメディアへの依存状態が、日常生活に支障を来すかどうかという程度の問題とは別に、特定の社会関係の中において独特の困難を生じさせるということでもある。デート中の携帯電話マナーもその例

第3章        ウェブ社会での親密性
バーチャルなものとリアルなものの間に、もはや優劣をつけることが不可能になっている
携帯電話を巡るマナーは、この20年近くの間に登場した問題の中でも非常に論争的なものの1つ ⇒ 個々人の内面だけでなく、その人を取り巻く関係の中で、その人がどのように考え、振る舞うかという視点が不可欠
社会学の概念で言う「役割」には2つのケース ⇒ 人の行動パターンを左右
   社会的な地位に附随して求められる行動や思考のパターン ⇒ 「教師の役割」
   特定の社会関係の中で選択される行動や思考のパターン ⇒ 「夫が死んだので子供の父親の役割も負う」ように、類型化された期待に対する類型化された反応とも言える
一般的にメディアの存在は、「空間をきちんと分ける」ことで立てられた役割間の壁を無効化する ⇒ メディアによってもたらされた別の空間での役割も期待される
「親バレ」「職場バレ」のように、自分を知り過ぎている肉親や、逆に遠すぎる関係の職場の上司がそのやりとりに参加すると、自己イメージを管理するコストが増大してしまうので嫌う ⇒ ネット上で匿名文化を理解するうえで重要なヒント
コミュニケーションの内で特に重要なものが「自己開示」
親密性と近接性が無関連化する ⇒ 地域や家族の中で育まれてきた親密性や近接性を疎んじるようになり、単身生活をして、その代わりに公的機関による監視を受け入れるようになったのが「プライバシーのコスト」
「素の自分」さえも、どのように、誰に見せるかを選択できることを権利だとみなす考え方の登場 ⇒ 「自己情報コントロール権」と呼ばれ、自分が理想としている自分を形成するのに不都合な情報=「黒歴史」(ネット上に残した過去の見られたくない記録)を消去することができる。親密さが自己の選択の問題になり、相手がリアルである必要はなくなる
1つしかない物理空間に、複数の意味が流入してくると、その空間をどのように意味付ければいいのかという点についてのポリティックスが発生

第2部        ウェブ時代の共同性
第4章        多孔化現実の政治学
空間が情報化されていくときに生じる分断が歴史的にどのような意味を持つか
匿名の人々を統合する不可視のシステムとしての「監視」の問題
ソーシャルメディアとコンサマトリー化 ⇒ ソーシャルメディアの普及によって、コンサマトリーな行為の「リアルタイム化」と「現実空間の連動」が進んでいる
コンサマトリー化 ⇒ 社会学上の用語で、何かの目的を持った行為ではなく、それ自体が目的であるような行為が社会の主流になっていく動きのこと
異なる情報空間が物理空間に無数に差し込まれることで、社会が分断される原理と。そうした社会を統合する原理の間のジレンマの事例
   テレビの普及が、一般化された他者像を社会的に共通のものにするという現象 ⇒ 文字メディアから放送メディアへの移行によって、メディアのメッセージの受け手が、送り手と何等かの対話を持ち、相互関係を結ぶ印象を持つようになり、肉声や映像で触れたその人は、メディア越しではあってももはや「どこかの他人」ではなくなる
テレビもウェブも現実の空間を超えて他者の期待を伝達することで相対的に現実空間の重みを失わせるという特徴を持つが、テレビが「外部の期待を内部に運ぶ」という機能を持つのに対し、ウェブはその「無限定性」故に「内部の期待を外部に漏らす」というリスクを帯びている
   公共空間での通信機器の利用制限 ⇒ モバイルメディアによって空間が詩的な意味で上書きされ、多孔化していく社会においては、私的な領域はむしろ公共空間においてすら確保され、その代償として自分の個人情報が何らかの目的で管理され、再利用されうることを受け入れなければならない。こうした「プライバシーのコスト」は、不可視化されたシステムによる管理を通した社会統合の原理ともなっている
   リスクの可視化(放射線量分布マップ)は、ある種の権力作用を伴い、人々の間に亀裂を生むが、必要なのは空間的には「地域の共同性」であり、時間的には「継承される共同意識」である
情報通信技術が空間の意味を書き換えることで生じる現実の多孔化は、人々の間で空間の意味を共有することを困難にする ⇒ 「多孔化による分断」が個々人の間のすれ違いだけではなく、社会全体にも深刻な亀裂を生む

第5章        多孔化した社会をハッキングする
空間的な再統合の可能性として、観光や聖地巡礼の事例
亀裂が生じる原因は、多孔化した社会を支える監視システムにある ⇒ 特に、安全を巡る情報が監視され、可視化されることで生じる分断の問題が重要。治安のいい場所と悪い場所が情報として明らかになることでその空間の意味を形成し、その差異が人々の間の格差につながる
亀裂を解消するのではなく、別な情報により上書きすることで、分断された社会を再統合することが必要 ⇒ 観光やアニメ聖地巡礼
シビック・プライド(市民が都市に対して持つ自負と愛着)という概念も、多孔化社会における分断状況を再統合へと導く手段として有効
人々の間を取り結ぶ原理としての共同体は、コミュニケーションによる現実の上書きという事態を伴っており、共同性と区別のつかないもの

第6章        「悲劇の共同体」を超えて
時間的な再統合の可能性として、死者の弔いと儀礼の問題
共同体の持続可能性という疑念に応えるのが抽象化された死者への呼びかけ ⇒ 喪失感を共有することで生まれる共同体意識
個々人が、その時の自分にとっての優先順位に従って空間を超えて寄せられる期待に応えようとするとき、現実の空間に様々な意味が流入し、空間の意味が分断されていくことが問題で、その他効果による意味の空間の分断が、社会全体においては人々の間にも分断をもたらすだけでなく、社会の意味を共有し継承することすらも困難にしてしまう ⇒ こうした問題への対処策として3つの道を提案
   現実の多孔化を受け入れ、社会における記憶の継承を断念する ⇒ リベラルで楽観的だが、社会政策の正統性をどう認めさせるかという課題が生じる
   死者に向けられた語りの場所、公的な式典を可能な限り温存する ⇒ 式典の儀礼性をどのように維持するのかが問題
   多孔化していく現実の空間全体を上書きするような情報で、実際には風化していく空間を、改めて儀礼化する ⇒ 広島の平和記念公園に仮想空間を持ち込んだモバイル情報サービスのような例
現実の空間をどのように感じ、生きるのかということは、ますます個人的な課題となりつつあるが、個人的な空間を共同体の集合的記憶の場へと接続する、非日常と日常の狭間のような空間を創造することが必要とされている



ウェブ社会のゆくえ 鈴木謙介著 生活の変化と「つながり」 
日本経済新聞朝刊2013年9月22
フォームの始まり
フォームの終わり
 日がな一日スマートフォンを手にして、移動中も会議中も、友人や家族に会っているときでさえ目の前には「いない」どこかの誰かとコミュニケーションを取る――一昔前ならこういった行為は「メディアに耽溺する病的な若者」として、指弾と排除の対象になっていただろう。しかし、21世紀を生きる私たちは、フェイスブックに登録している1000人の「友達」の動向を四六時中気にしている人物は少なくとも「コミュニケーション力の低い若者」ではないことを知っている。あるいは何ヵ月も顔を合わせていないがソーシャルメディアで毎日のようにやり取りをしている友人と、月に一度会食する友人のどちらを私たちは「親しい」と考えるかも明らかだ。
(NHK出版・1000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(NHK出版・1000円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 そう、気づいている人は少ないがインターネットの普及が産み落としたのはバーチャルな「もうひとつの世界」とそこに引きこもる若者たちではなく、「この現実そのもの」とそこに生きる私たちの生活の変化だ。両者は一見似通っているが、実は正反対のことを意味する。そして本書は後者を「多孔化」した社会と名付け、その長所と短所を併記しながらひとつひとつ、丁寧に検証したものだ。
 その手探りだが誠実な論述の果てに浮かび上がってくるのは、多様化と細分化の進むこの社会をどうやって再び「つなぐ」のかという問題だ。いまインターネットによってコミュニティは場所と紐づけられなくなり、ひいてはコミュニケーションの形態そのものが変わりつつある。この条件下では従来の歴史教育や地域コミュニティの運営ノウハウの多くが機能を大きく低下させる。
 一見、社会の分断を加速するだけのように思われがちな「多孔化」を経たからこそ可能な「つながり」とは何か。その答えを巡る議論はまだはじまったばかりだ。しかし、テレビや新聞のようにばらばらのものを統合して1つに「まとめる」のではなく、ばらばらのものをそのかたちをのこしたまま「つなぐ」という著者のビジョンのゆくえこそが、まさに今後のウェブ社会の「ゆくえ」そのものであることは間違いない。
(評論家 宇野常寛)



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