ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史 Alain Baraton 2013.9.26.
2013.9.26. ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史
L’Amour
a Versailles 2009
著者 アラン・バラトンAlain Baraton 庭師、作家。ヴェルサイユの庭園で30年以上働く。数あるヴェルサイユの庭園の中でも著名な「トリアノンの庭園」の主任庭師を務める。歴史に造詣が深く、ヴェルサイユの庭園に関した書籍を多数出版。ガーデニングをテーマにしたラジオ放送にもたびたび出演
訳者
園山千晶 1973年上智大仏文卒。出版社勤務、国際会議運営会社東京を経て2010年よりフリー。レコードジャケット、映画祭のパンフレットなどの翻訳を手掛ける
土居佳代子 夫の仕事でフランスに滞在したのを契機に翻訳の勉強を始める
村田聖子 1972年青学大仏文卒。法律事務所勤務
発行日 2013.3.29. 第1刷
発行所 原書房
ルイ13世からマリー・アントワネットの時代まで、絢爛豪華なブルボン王朝を彩った一癖ある女たちは、どんな愛をどんな場所で囁いたのだろうか? 「宮殿」「庭」を切り口に、ヴェルサイユ宮のベテラン庭師だから書けた、国王、王妃、愛妾たちの愛と欲望の人間模様。どんなガイドブックにも載っていない「裏」ヴェルサイユ!
序章 控えの間
1982年のサミットがヴェルサイユで開かれた時、アメリカの2人の記者が王妃の間に籠って密かに愛を交わしていたという
第1章
陰気な沼地ヴェルサイユ
ヴェルサイユ発祥の陰には、1人のフランスの王妃と高級聖職者との凄惨な愛の物語がある ⇒ 1572~73年宗教戦争のただ中、弱体化してルーヴル宮に隔離された状態の王家ヴァロワ家に代わって権力争いが熾烈化。王妃カトリーヌ・ド・メディシスの寵臣でパリ大司教のジャン=フランソワ・ド・コンディが、シャルル9世の財務長官保有のヴェルサイユの土地を、王妃の力を使って強奪したもの
牛の売買が行われていたくらいで、湿気がひどく伝染病が蔓延した土地だったが、野生動物が豊かで狩りにうってつけで、後の王アンリ4世はしばしばコンディの招待で狩りに来て、そのあと女を抱いた。パリから僅か20㎞しか離れていないが都とは別世界が広がる
アンリ4世をヴェルサイユに惹きつけたものは、お忍びの女遊び
第2章
ルイ13世の不器用な愛
ヴェルサイユを変身させたのは、本人には全くそのつもりのなかったルイ13世
1610年9歳で王位を継ぐが、摂政となった母の王妃マリー・ド・メディシスから、身体的にも精神的にも弱すぎるとして政権から遠ざけられ、ヴェルサイユに最初の小さな城を建てて自分の権威を誇示しようとした ⇒ 3000haの土地を買い集め小さな城を建て1624年に初めて泊まり、フィリップ・ル・ロアの設計であずまやを建てる(煉瓦色の東屋として現存)
1613年 ルイ13世はアンヌ・ドートリッシュ」と結婚するが、初めての子どもは23年後のルイ14世、続いて1640年には第2子フィリップ・ドルレアン誕生
ルイ13世は、父アンリ4世の女たらしの才能は引き継がず、男妾に向かう
1622年近衛騎兵隊創設
第3章
ルイ14世の冷厳な母アンヌ・ドートリッシュ
1638年 ルイ14世誕生 ⇒ ディユドネ(神の賜り物)と言われた。激しく憎しみ合っていた両親のもとに生まれ、ルイ13世死に際しては、まだ遺体に温もりが残る間に夫の遺言状を破棄、自ら5歳にも満たない新王の摂政となって、母后として輝きたいと願う
アンヌは、1615年スペインからブルボン家に嫁いできた、ルーヴルの峻厳と言われるほど堅苦しい女性、ルイ13世の治世30年に続く王妃摂政の5年間はプラトニックラブが支配
ルイ14世は早熟だったことに加えて、35年に亘る禁欲の日々に、周囲は欲情の限界にきており、王に性の手ほどきをするのが国を挙げての一大レジャーとなる
ルイ14世は、王妃の想い出から逃れるために、ヴェルサイユに移ることを決める
第4章
扇とついたてと秘密の愛
1661年 権力を付けてきたルイ14世がヴェルサイユの建設開始
1663年 最初の「公認」の寵妃として侍女だったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールをミサに伴う ⇒ 子供たちも認知。63年にはオランジュリー(オレンジ園)が、65年にはタピーヴェール(緑のじゅうたん)や鏡の製造所が造られた
第5章
憂い顔のラ・ヴァリエール夫人
63年に最初の子を産んだルイーズは極度に衰弱、王の寵愛を侍女時代の同僚だったモンテスパン侯爵夫人に取られる
第6章
パリからヴェルサイユへ
女神の体と知性を併せ持ったモンテスパン侯爵夫人が、ルイーズに代わってルイ14世の関心をひきつけ、74年には公式の寵妃の立場を手に入れる
第7章
もう森へなんか行かない
モンテスパン侯爵夫人は、もともと王妃によってルイ14世の弟フィリップの妻であるアンリエット・ダングルテールの侍女として呼び寄せられたが、忽ちその美しさと賢さがパリ社交界の注目の的となり、ピレネーの居城に籠ろうとする侯爵を振り切ってパリに残り、王の寵愛を手にする
侯爵は、コキュの象徴である鹿の角を押し立てて妻の葬式をする ⇒ モリエールの戯曲『アンフィトリュオン』となってパリ中が笑い転げた
貴族に取り入るためにヴェルサイユの周辺には売春宿がはびこり、ついには梅毒の蔓延を懸念した王が1687年売春宿禁止令を出すに及んでヴェルサイユ詣でが姿を消した
第8章
モンテスパン夫人の庭
王の寵愛を受けた貴婦人たちは自分の影響力の大きさとその証を宮殿の周りに残したが、他の貴婦人によって痕跡を消し去られることを繰り返す
その中で最も庭園に愛着を持ったのがモンテスパン夫人で、その好みによって作らせた庭が「陶器のトリアノン」(2番目に正室となったマントノン夫人によって「大理石のトリアノン」に建て替えられた)
造園家ル・ノートルによって作られたヴェルサイユの庭園は、至る所にボスケ(樹林)が設けられ、そこにはベンチが置かれてお供に邪魔されずに睦みあうスペースとなる
第9章
信心家の猫かぶり マントノン侯爵夫人
1683年 正室のマリー=テレーズが急性敗血症で死去。代わって正室の地位を手に入れたのが、王の庶子たちの養育係だったマントノン夫人と呼ばれていたスカロン未亡人
平民の娘がどん底の生活から這い上がり、サロンに迎え入れられ、高級娼婦によって「一人前の女」にしてもらい、最初は作家スカロンと結婚、1660年25歳で夫と死別、ルイ14世の側近だったヴィラルソー侯爵と近づきになり、モンテスパン夫人を知ることになって、その子供たちに近づき手馴つけ、69年に庶子の養育係となり、王の目に留まる
スカロン未亡人は、館と爵位(セットだった)を手に入れるため王から金を引き出し、マントノン城を買い侯爵夫人の肩書を手に入れる
ルイ14世は、マントノン夫人の教えによって信心深くなっていったとされるが、若い頃放蕩を尽くした夫人が敬虔な信仰家になったのはいい年になってから ⇒ 宮殿も舞踏会は禁じられ幽霊屋敷と化し、王の死後はサン・シールの修道院に隠棲して余生を全う
第10章 迷宮のような私的空間
ヴェルサイユには、式典のための広間等絢爛豪華な外向きの空間グラン・ダパルトマンと、迷宮のような私的な空間プチ・アパルトマンがある
大きな部屋にはどれもいくつかの小部屋が造りつけられている
第11章 最愛王ルイ15世
ルイ14世の死によって寂れ放置されたヴェルサイユは、貴族の称号を持たない庶民にとって、かわいい子を誘惑するチャンスの場となった
1722年、14世の曾孫であるルイ15世が幼い婚約者であるスペインの王女マリアナ・ヴィクトリアを伴って宮殿に戻ってくる ⇒ その後幼すぎて子が産めず婚約解消
ルイ15世は次第に頻繁にヴェルサイユに姿を見せ始め、パリと同様の乱交パーティーが始まる
立派な業績を遺したわけでもないのに、新しい世が始まったという時代の波に乗って、ルイ15世は民衆にも愛され、「最愛王」の称号が捧げられた
第12章 平民愛妾ポンパドゥール夫人
1721年生まれのジャンヌ=アントワネット・ポワソン、後のポンパドゥール夫人は、母から美貌を受け継ぐが、修道院に送られる
ルイ15世は、ポーランドの落ちぶれた貴族の娘マリー・レグザンスカと結婚
ジャンヌは、修道院を出た後、デティオールという徴税請負人と結婚するが、夫が妻を社交家に連れ出して自慢、ついには宮殿の仮装舞踏会に潜り込み、ルイ15世の目に留まる
ルイ15世によって、男性相続人がいないポンパドゥール家の侯爵位が与えられ、ヴェルサイユに住み、20年以上にわたり宮廷に君臨し続ける
第13章 ポンパドゥール夫人の衣装ケース
1764年夫人が亡くなった時、残されたのは涙にくれる王と空っぽの金庫
「ポンパドゥール・スタイル」というファッションスタイルを残したファッションリーダーであり、宮廷一エレガントな女性と言われた
第14章 ルイ15世と「鹿の園」
セックスそのものに溺れたルイ15世の欲求を満たすために、かつて狩猟用の鹿の飼育場だったところに「鹿の園」と呼ばれた小さな小屋を建て、若い子を探しては住まわせた
第15章 後釜争い
何人かの令嬢がポンパドゥール夫人の後釜になったが、最後は娼婦出身で33歳年下のジャンヌ・ベキュで、デュ・バリー伯爵と結婚させ伯爵夫人として宮廷に入る ⇒ 周囲の批判をよそに王の寵愛は死ぬまで続き、マリー・アントワネットとは激しく憎み合った
第16章 デュ・バリー夫人の放蕩
40年以上を放蕩の内に過ごしてきた男の性欲を奮い立たせたデュ・バリー夫人の献身的な愛は、ありとあらゆる想像力を掻きたてて全てを快楽へと誘いかける ⇒ 食べ物を一皿取るごとに着ているものを脱ぐというストリップ夕食会が開かれる
第17章 梅毒と痘瘡
当時最も恐れられた病気が梅毒と痘瘡
ルイ15世は梅毒を恐れていたが、1774年に死んだときは痘瘡だった
第18章 追い詰められるマリー・アントワネット
周囲から死を待たれていた哀れな王に馴れ馴れしく甘えていったのは義理の娘(孫の嫁)マリー・アントワネットだけだった
1770年にルイ16世と結婚したが、16世はアンリ4世よりも女性が苦手だったルイ13世に似ていたため、欲求不満に苛まれる
ルイ15世の死で、統治の責任が若い夫妻にのしかかり、さらなるストレスとなる
「赤字夫人」と呼ばれる浪費家だったのも、これらのことが原因
第19章 アントワネットの秘められた愛、そして死
1773年、不具の夫に愛してもらえないマリー・アントワネットの前に現れたのがスウェーデン近衛軍のフェルセン伯爵だったが、プラトニックで終わるが、フランス革命ではフェルセンはフランス王家に援助の手を差し伸べる
欲求不満解消のため、伊達男たちを呼び込んで乱交パーティーに及び、ただでさえオーストリアから来たと蔑まれていた評判をさらに落とす羽目に ⇒ ルイ17世はルイ16世とは似ても似つかない顔をしている
第20章 庭園では今も・・・・・
現代でも庭園の茂みで愛し合うカップルを見かけるのは日常茶飯事だったが、ヴェルサイユが甚大な被害を受けた1999年の大嵐以来、庭園にはカップルが寄り付かなくなった
訳者あとがき
ネット版フィガロに掲載された本書の紹介文、「ヴェルサイユ宮殿の庭師が、庭園を案内し、そこここで足を止めながら、かつてそこで生きた王たちの素顔や、禁じられた恋、奔放な性、女性たちの野望を語り、荘重なヴェルサイユ宮殿に血を通わせてくれる」
「現役の庭師が恋愛という極めて私的な切り口から語ったユニークな歴史」だと高く評価する声と、「スキャンダラスすぎる」と批判する声が賑やかに行き交って、フランス人の歴史好きと、ルイ王朝好きをうかがわせる
ヴェルサイユの女たち アラン・バラトン著 歴代国王と女性たちの裏面史
日本経済新聞朝刊2013年5月12日付
王とベッドを共にしようと、血道を上げる女性の群また群。母親たちの売り込み合戦も半端ではない。傍らでは自分の美徳は淫乱なことだと言ってのける女らが闊歩する。こんなすごいシーンが毎日繰り広げられたのは、17・18世紀のヴェルサイユ宮殿である。
(園山千晶ほか訳、原書房・2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
三十年来庭師としてヴェルサイユで働いてきた著者によって、臆することなく語られるのは、ルイ十三世からルイ十六世までの、国王とその女たち(王妃・寵姫〈ちょうき〉)の奔放な愛欲物語である。中心にいるのは、いずれ劣らぬ美貌のモンテスパン夫人、マントノン夫人、ポンパドゥール夫人そして王妃マリー・アントワネットであるが、この物語が、あくまでヴェルサイユ宮殿とその庭の、建設の発端(じめじめした陰気な沼地だった)から見事に造成され豪華なバロック風宮殿が建てられるにいたる過程と絡めながら語られていくのがミソである。
宮廷の社交界を美しく彩る寵姫たちは、皆、優雅で上品な育ちの良いお嬢様かと思いきや、彼女らの多くが淫乱で娼婦に近い成り上がり者だったと知れば、ガッカリするだろうか。いや嫉妬と憎悪が渦巻き、陰謀がめぐらされ、熾烈な競争がなされる宮廷で、王の寵愛獲得のために、必死で美貌を磨き色道を突きつめようとした彼女たちは、それはそれで時代のスター、輝かしい女性だったと言わねばなるまい。
絶対王政時代は、神のような国王を頂点とする身分制社会だが、どんなにしがない者でも、最上位にまで登りつめる色の道が開かれていたのは、救いといえば救いだろう。あまりに人間的な国王と寵姫の愛欲生活を活写した本書は、公的な歴史像に転換を迫るユニークな裏面史である。ベテラン庭師ならではの発想や発見も鏤(ちりば)められている。たとえば、庭のボスケ(茂み)の利用の仕方である。著者は自らの経験から、ルイ十四世が、いかに散歩の途中でボスケに隠れて、人混みを避けてことに及んだかを、ことこまかに再現してみせているのである。想像力も存分に働かせているようなので話半分に受け取っておくほうがよいが、それにしても、楽しい快著だ。
(東京大学教授 池上俊一)
Wikipedia
ヴェルサイユ宮殿(Château de
Versailles)は、1682年にフランス王ルイ14世(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ベルサイユ宮殿とも表記される。
パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。
概要[編集]
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール、エチケット、マナーがうまれた
「水なき地に水を引く」
ヴェルサイユには近くに水を引く高地がない。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水なき地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。
「貴族を従わせる」
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「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナが村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
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「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。
「民衆の心をつかむ」
ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。夏、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。
沿革[編集]
マンサールによる増築、鏡の間を造る(天井画はル・ブランによる)
構造[編集]
儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
登録基準[編集]
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(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
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(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
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(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
その他[編集]
上空から見ると宮殿脇の庭園の一部がミッキーマウスの顔と酷似している。これは衛星写真の映像を見た人の指摘で判明した。このことは2007年1月27日放送回、「土曜プレミアム」枠で放送されたバラエティ番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」(フジテレビ系列)で『ヴェルサイユ宮殿の庭園を上空から見ると、あのネズミに見える』と紹介された。重要文化財であるヴェルサイユ宮殿の上空は飛行禁止であったため、フジテレビの問い合わせに対し宮殿の管理を行う関係者は、「全く知らなかった。こんな変な問い合わせをしてきたのは、あなた達が初めてだ。」と驚いた様子が放送された。
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