ザ・ロスチャイルド 渋井真帆 2013.9.13.
2013.9.13. ザ・ロスチャイルド
The Rothschilds
著者 渋井真帆 歴女。1971年生まれ。94年立教大学経済学部経済学科卒業。都市銀行、専業主婦、百貨店販売、証券会社等を経て2000年に独立。現在まで㈱エムエス研修企画 取締役、人材育成コンサルタントとして活動。2012年処女小説『ザ・ロスチャイルド』で第4回城山三郎経済小説大賞受賞。2013年、同作品で小説作家としてデビュー。その他ビジネス書の著書多数
夫は、渋井正浩㈱エムエス研修企画代表取締役。88年東北大経卒。協和銀行入行。05年退職。現在は金融機関での社員研修を中心に、一般企業や日経新聞社などの研修・セミナー講師として活動中
発行日 2013.6.20. 第1刷発行
発行所 ダイヤモンド社
1796年 フランクフルトの郊外の森で、ユダヤ商人の三男ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドは、恋人エルザと将来を誓い合った。しかし、攻め込んできたフランスの歩兵によって陵辱されたエルザは自ら命を絶つ。絶望するネイサンの前に現れた敵将ナポレオンは、「男は拳の力か金の力を持たなければ愛する者を守れない」と言い放つ
復讐を誓うネイサンは脱走し、新天地の英国で貿易事業を始める。幾多の困難を乗り越え、金融業者としての地位を確立していく
ついには対仏同盟各国に戦争資金を拠出するまでになり、金融面からナポレオンとの「戦争」に突入する
19世紀、ヨーロッパ全土を震撼させた2人の怪物、ナポレオン・ボナパルトとネイサン・マイヤー・ロスチャイルド。2つの正義、2つの理想、男たちが目指したものは何だったのか?
Ø 1825年 11月 ロンドン・シティ
ナポレオン戦争で勝利したイギリスは、物価の沈静を背景に1821年金本位制に復帰、金利も低下すると低利調達した資金を金利の高い外債で運用する動きが高まり、スペインから独立したばかりの中南米諸国の債券に購入者が殺到。ヨーロッパ中が投機熱に浮かれるが、1825年カリブ海周辺諸国への移住計画が頓挫して参加者たちがイギリスに帰国したのを機に全てが逆転、瞬く間に債券が売り浴びせられ、中南米国債のデフォルトに端を発した暴落で多くの銀行が倒産。イングランド銀行の金兌換停止の危機に際し、ネイサン・ロスチャイルドが投機資金を吸収して巨利を稼いでいた投資家から預かった金10百万ポンドを金利3%で提供。経済危機を救った功労者として、「金融界のナポレオン・ボナパルト」と称えられた
フランクフルト5人衆 ⇒ フランクフルトの長兄アムシェル、ウィーンの次兄サロモン、ナポリの弟カール、パリの末弟ジェイムズ、ロンドンの三男ネイサン
Ø 1796年 7月 フランクフルト
ヨーロッパ中でユダヤ人が迫害と差別を受ける中、古銭・骨董美術商だったネイサンの父マイヤー・アムシェルは、ヨ-ロッパで最も富める君主の1人だったヘッセン=カッセル公ヴィルヘルム9世のお抱え銀行家となって例外的な「宮廷ユダヤ商人」となった。1618年以来領民を訓練し傭兵として各国に賃貸、特にアメリカの独立戦争で巨万の富を築く
フランス革命の際、傭兵事業の拡大に資金が必要となったヴィルヘルムに資金を提供して取り入ることに成功
19歳のネイサンが恋人と一緒にいる処をフランス兵士に取り囲まれ、恋人が目の前で陵辱される。そこへナポレオンが現れ、91年憲法でユダヤ人にも完全市民権を与えていたところから、命を救われるが、愛する者を助けたければ拳か金か、どちらかの力を持たねばならないと聞かされる
Ø 1798年 8月 フランクフルト
ヴィルヘルムは、反フランス同盟の各国に秘かに資金提供、それを手伝ったのがロスチャイルドで、ドイツ聖ヨハネ勲章まで手にする
当時ヨーロッパの暮らしの必需品のほとんどがイギリス原産かその植民地からイギリスを経由だった。折しもエジプトでネルソンのイギリス艦隊がフランス軍に圧勝、制海権を取り戻したのを機に、成人したばかりのネイサンがイギリス行きを決意
父は、5本の矢の故事をひいて5人の子どもを諭し、ネイサンのロンドン行きを認める ⇒ 条件が3つ、①金は自分で調達しろ、②商売の面倒は見ない、③家族であることを忘れるな
Ø 1798年 9月 ロンドンヘ
渡英の途中で知り合ったユダヤ人女性の父親がロンドンの大資本家で、マイヤー・アムシェルとも取引があり、その元で働き、情報の重要性を学ぶ
Ø 1799年 5月 マンチェスター
3か月後マンチェスターで自分の会社を興し、綿布の買入れを試みるが、大半の生産品はロンドンの仲買業者が一括買い取っており、商品が手に入らない
たまたま破綻寸前の機織りの所で、即金買い取りで商品を手に入れる
Ø 1800年 7月 アムステルダム
ネイサンの即金払いが評判となって新たな仕入れ先を拡大、現金仕入れのため安く手に入れた綿布はフランクフルトでも圧倒的な価格競争力を手に入れる
さらに、原料の仕入れにまで手を広げ、必要になった運転資金をアムステルダムの新興銀行から調達
Ø 1804年 12月 ロンドン
04年 ナポレオンの帝政が復活
05年 開戦。ナポレオンは、トラファルガー海戦では大敗したが、アウステルリッツで挽回、ヨーロッパ中にその支配を確立する
Ø 1806年 11月 ベルリン
ベルリン勅令=大陸封鎖令発布 ⇒ フランスとその衛星国によるイギリスとの通交の全面禁止。海上封鎖のできないフランスが大陸に水際でイギリスからの物資の流入を阻止
Ø 1806年 11月 ドーヴァー
ネイサンは、渡欧の時以来親しくなった船長と密かに封鎖を破る手立てを考える
伝書鳩を使って大陸の情報を収集
Ø 1808年 1月 マンチェスター
Ø 1808年 3月 ロンドン
Ø 1808年 5月 カレーへ
フランクフルトのロスチャイルドが、騙されて密輸を密告されそうになったところをネイサンが救うとともに、フランス警備隊を買収して、イギリスの金をフランスに持ち込み、イギリスを支払場所とするために価格が1/5以下に暴落していた手形を金で買い取り、手形をロンドンに持ち帰って満額で回収し巨利を博す。ロンドンの債務者の信用情報が役に立つ ⇒ パリにジェイムズが派遣され拠点を築く
Ø 1812年 1月 ロンドン
1810年 農業国のロシアが大陸封鎖で農産物の輸出先を失い財政逼迫したため、禁を破ったのを機にナポレオンがロシア遠征の兵を起こす
イギリスは、スペイン・ポルトガルと協力してイベリア半島のフランス軍を追い払おうとするが、財政的に逼迫、ネイサンに協力を仰ぎ、ネイサンは金塊の輸送に代わって手形の使用を考案し、軍資金を安全に届ける
Ø
1812年 2月 パリ
ネイサンは、ベアリングに代わってフランス侵攻の財政担当として、イギリス政府から公式に任命される
6月のナポレオンのロシア遠征に対しても、ネイサンがロシアに資金援助の労を取る
9月 マイヤー・アムシェル死去
Ø
1813年 6月 ドイツ・ドレスデン、マルコリーニ宮殿
ロシア遠征には失敗したが、ナポレオン軍は対仏同盟軍にリュッツェン他の戦いで辛勝するが、ネイサンを通じてイギリスの資金援助を得た同盟軍は10月のライプツィヒの戦いでナポレオンを撃破、皇帝を退位させエルバ島へ幽閉
ルイ18世がパリに凱旋して王政復古となったが、新王の華やかなパリ入城費用を融資したのはロスチャイルド商会
Ø
1815年 3月 ロンドン
ウィーン会議はアンシャン・レジームの完全復活を目指す反動的な王侯貴族に支配され、各国とも戦争中にロスチャイルドによって資金提供を受け、戦後の恩返しを誓っておきながらすべてを反故にし、戦時中のイギリスからの補助金業務契約も打ち切られ、賠償金の取り扱いからも外される
ナポレオンのエルバ島脱出で情勢が一変、同盟諸国は資金不足に直面し、イギリスの補助金を必要とし、イギリスは再びネイサンに金貨の調達と補助金支払業務を一任、各国政府も嫌々ながらロスチャイルドとの契約を復活させた
Ø 1815年 6月18日 ワーテルロー
ナポレオンにとって、同盟軍は個別には十分撃破出来たが、ワーテルローにイギリスとプロイセンが合流、瞬く間にフランス軍は敗北
Ø 1815年 6月19日 カレー
戦勝の知らせは、ドーバーの嵐の中を、ネイサンの交遊関係を使ってウェリントンからの知らせより1日早くネイサンにもたらされる
Ø 1815年 6月19日 ロンドン
イギリスの戦勝で金が暴落する危機に陥るところを、ネイサンの取り乱した姿をイギリス軍敗退と早とちりした市場はイギリス国債を売り浴びせる。ネイサンは逆にすべてを買いまくって発行残高の60%近くを抑えたところでその日の市場が終わり、そこへ戦勝の報がもたらされる ⇒ 近の暴落を補って余りある利益が転がり込んだ
Ø 1821年 5月 ロンドン
ナポレオンがセントヘレナに流され死去した後、フランクフルトでフランス兵に囚われナポレオンに会った時、ナポレオンがネイサンの資質を見抜き、密かに料理人のデュナンに命じて逃れさせたことを知る
エチケット ⇒ ワインボトルに貼られたラベル
Ø 1826年 11月 ロンドン
ネイサンは、拳と金のほかに人の絆という力を手に入れた
ネイサンの4人の息子 ⇒ ライオネル、アンソニー、ナサニエル、マイヤー
ロスチャイルド家創始者の息子ネイサン・マイヤーと同時代に生きたナポレオン・ボナパルトを描く意欲作。
ナポレオン軍のフランクフルト侵攻により恋人エルザの命が奪われ、ネイサンはナポレオンへの復讐を誓います。
ネイサンはロンドンに渡り、父親の手助けを借りず単身、貿易事業に乗り出します。
ナポレオンによる「男は拳の力か金の力を持たなければ愛する者を守れない」という言葉やエピソードの端々にあらわれるユダヤ商人の非常な駆け引き、財を成す秘訣など、読ませます。
しかし、何か物足りない。
ネイサンが兄弟4人と袂を分かつようにしてロンドンに行ってからの苦労も、予定調和的に解決します。
おそらくネイサンは誰にでもかわいがられたり愛されたりする人物ではなかったはず。
しかし、小説内では誰もがネイサンに引き寄せられます。彼自身はとても庶民的な人だったようですが。
一方、末弟のジェイコブのほうがユニークな性格で小説の登場人物としては魅力的です。
しかも後半は、ロスチャイルド家の話になってしまいネイサンの存在が薄い。
結果、ネイサンとナポレオンの生き方や信じるものの対比などが弱くなってしまいました。
渋井さんのビジネス書は好んで読んできましたので期待が大きかったのかもしれませんが
少々、薄味のロスチャイルド家物語に感じられました。
ナポレオン軍のフランクフルト侵攻により恋人エルザの命が奪われ、ネイサンはナポレオンへの復讐を誓います。
ネイサンはロンドンに渡り、父親の手助けを借りず単身、貿易事業に乗り出します。
ナポレオンによる「男は拳の力か金の力を持たなければ愛する者を守れない」という言葉やエピソードの端々にあらわれるユダヤ商人の非常な駆け引き、財を成す秘訣など、読ませます。
しかし、何か物足りない。
ネイサンが兄弟4人と袂を分かつようにしてロンドンに行ってからの苦労も、予定調和的に解決します。
おそらくネイサンは誰にでもかわいがられたり愛されたりする人物ではなかったはず。
しかし、小説内では誰もがネイサンに引き寄せられます。彼自身はとても庶民的な人だったようですが。
一方、末弟のジェイコブのほうがユニークな性格で小説の登場人物としては魅力的です。
しかも後半は、ロスチャイルド家の話になってしまいネイサンの存在が薄い。
結果、ネイサンとナポレオンの生き方や信じるものの対比などが弱くなってしまいました。
渋井さんのビジネス書は好んで読んできましたので期待が大きかったのかもしれませんが
少々、薄味のロスチャイルド家物語に感じられました。
Wikipedia
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer
Rothschild, 1777年9月16日 - 1836年7月28日)はドイツ出身のイギリスの銀行家。イギリスにおけるロスチャイルド財閥の祖。
マイアー・アムシェル・ロートシルトの息子としてフランクフルト・アム・マインに生まれる。ドイツ語読みではナータン・マイアー・ロートシルト。1798年、21歳のときマンチェスターに移住し、織物貿易と金融業で成功。のちロンドンへ移り、為替手形貿易で身代を築いた。
5兄弟のなかで最も先導的であった彼はナポレオンになぞらえ「総司令官」、他の者は「師団長」と呼ばれていた。
1816年、兄アムシェル・マイアーとザーロモン・マイアーがオーストリア皇帝から男爵の位を授けられ、貴族の称号であるvon(フォン)やde(ド)を名乗ることを許された。1818年にネイサンもまた叙爵されたが、貴族の称号を名乗ることを、彼自身はむしろ嫌っていた。見慣れぬ称号を名乗ることで、イギリスの隣人たちと距離が出来てしまうことを恐れていたと言われている。
事業[編集]
ネイサンの事業における最も有名な逸話が「ネイサンの逆売り」である。当時ロンドンの株式市場が大きく注目していたのが、フランス皇帝ナポレオンの戦況であった。彼の勝利によるフランスの躍進は、同時に経済の中心を奪われる事を意味していたからである。特に1815年のワーテルローの戦いの勝敗が焦点であり、勝てば売り、負ければ買いと言われていた。そんな中、独自の情報網でナポレオン敗北の報をいち早く入手したネイサンは、セオリーと逆に猛烈な売りに出た。彼の情報網を知る市場はナポレオンが勝利したと判断し即座に反応、売りが集中して株価は暴落した。そこでネイサンは買いに転じて多くの株を紙屑同然の値段で取得。午後に証券取引所が閉まった時点で、取引所に上場されている全国債のうち62%を取得していたという。その後ナポレオン敗北が報じられて株価が急上昇した事で巨額の利益を得たのである。これにより300万ドルだった自己資産は75億ドル、実に2500倍に増えた。
他にも、1808年から1814年にかけての半島戦争では、自らの国際的な商業ネットワークを利用して、イベリア半島出征中の大英帝国軍に軍資金を送った。1818年、プロイセン政府に500万ポンドを融通して債券を発行させ、自らの事業の礎を築いた。1825年から1826年にかけて、流動性危機を回避するために英国銀行へ充分な貨幣を供給し、ロンドンの金融街の大立者となった。ロンドンで彼が設立した投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズは、今日なお存続している。
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