周五郎伝 虚空巡礼  齋藤愼爾  2013.8.19.

2013.8.19.  周五郎伝 虚空巡礼 

著者 齋藤愼爾 1939年京城市生まれ。俳人、深夜叢書社主宰。2010年『ひばり伝 蒼穹流謫』で芸術選奨文部大臣賞受賞。山本周五郎の少年少女小説集『春いくたび』『美少女一番乗り』の編集に携わる

発行日           2013.5.20. 印刷             6.10. 発行
発行所           白水社

序章
学恩=師と仰ぐ人から受けた学問上の恩 ⇒ 著者にとって周五郎の作品こそが学恩
60年安保の挫折で、陰々滅々たる日々を過ごしていた時に出会って救われた
周五郎の最大の顕彰者は、木村久邇典(192320104767年の20年間、著作の校訂、編集、考証、編纂を行う)99.9%突き止めた
木村久邇典 19232010。中大法卒。労働文化社(編集担当者として初めて周五郎に会っている)、朝日新聞記者を経て別府大等の教授を歴任。4767年の20年間、周五郎の著作の校訂、編集、考証、編纂を行う
『太宰治論』の奥野健男は、太宰と周五郎の読者は重なり合うと指摘 ⇒ 弱く、貧しい失意の人々への熱い眼差しを向け、無類の小説世界を作り上げ、その作品は読む者の心を洗い、人間に対する深い愛情と信頼を甦らせてくれるという共通点がある
長い支配秩序により馴致され形成された人間の精神の「上昇指向」の定型に対する反逆の倫理としての「下降指向」が原点で、絶えず自己を破壊し、自己の欠如感覚を決してごまかさず、かえって深化させていく、そうすることによって既成の社会の一切の秩序に反逆し、その秩序を内側から崩壊させる
周五郎曰く、「私は自分が見たもの、現実に感じることのできるもの以外は、殆ど書かないし、英雄、豪傑、権力者の類には全く関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足や喜びの中よりも、貧困や病苦や失意や、絶望の中に、より強く私は感じることができる。「古風」であるかどうかは知らないが、ここには読者の身辺に直ぐ見出さる人たちの、生きる苦しみや悲しみ、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびが探り出されている筈である」
生涯の座右の銘: 「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久に定住を望むな、この世は巡礼である」(スウェーデンの作家ストリンドベリ(18491912)の『青巻』の巻末の箴言)
その生涯は虚空巡礼であり、その作品は全て虚空への投擲であった

第1章        故郷と現郷
年譜では出生地が韮崎市とされるが、本籍ではあっても本当の出生は初狩村
周五郎激賞の中で、鶴見俊輔の書評(周五郎の『小説の効用』1962)のみが周五郎像を怜悧に捉えている ⇒ 周五郎は「普通の人」の子として生まれ、努力もしない平凡な人を常に見ていることを通して、努力的な人間の肖像が架空の英雄像として浮き上がらないことが可能になった。周五郎の英雄伝が独特の現実性を備えているのはこのことに裏打ちされている。結婚してからも家庭生活を持ったことのない彼の暮らし方は、彼の妻の心の広さと志の高さによって可能になった
出生地の謎 ⇒ 主家滅亡に際し、足軽大将だった祖先は韮崎に帰農したが、祖父の代1904年に家運が傾き、22年初狩に移住、そこで周五郎が祖父が認めない織子との間に生まれたが、4歳の時に水害で祖父母を亡くした上に莫大な借財を背負い込んだのが不幸の始まり
博覧強記の周五郎が出生地を本籍と食言した背景 ⇒ 内部に複雑に屈折したものがある
滅多に己の来し方を語らなかった
甲州というふるさとに嫌悪の情を示し、甲州人を痛罵してやまなかった ⇒ 面従腹背、吝嗇、依怙地で偏狭、特に甲州女はいけない、女房に持ったら家庭にはいたたまれないとして、暗に井伏鱒二が太宰に甲州女を娶らせたことを非難
尾崎士郎: 「山本君は、質屋で育ったせいか、着物の生地を裏返すようにして人間を見る」 「曲軒(へそまがり)」の綽名をつける
周五郎の北方指向には、本人の吐露する凛冽な風土への憧憬、希求があるが、それに狷介、孤高、高邁、孤独を加えたい
作家にとっての「風土」とは ⇒ 敏感すぎるほど敏感な周五郎が、不遇、屈辱感から深く鋭い傷を心に負い、山梨を離れたことは疑いなく、石もて故郷を追われたという被害者意識のようなものがこびりついていたという

第2章        2人の恩人
幼少のことは、子供たちにも話そうとしなかったし、年譜製作にあたる木村にも前歴調査は勘弁してほしいと何度も念を押したという。初狩については一言半句もかたらず、故郷を峻拒し続けた
武田の豪族の末裔であるということを誇っていたにもかかわらず、質屋の小僧にならなければならなかった屈辱から、年表では学歴詐称のようなことも言っている
自らは、「山梨県人ではない。しいて言うならば下町で育った東京っ子だ。なぜなら精神形成期を木挽町で育ったから。第2の故郷は幼少期を過ごした横浜」と言って憚らない
東京に出てきて入学した小学校についての記憶はないが、2年から6年まで通った横浜の西前小学校については自身で書いたものがある
西前小学校の学友によれば、学力はあったが経済的事情から県立横浜一中(通称神中、現在の希望ヶ丘校の前身)の試験は受けず、学歴コンプレックスと家庭の貧しさが終生の引け目として周五郎を支配していたとしているが、本人は1学期だけでつまらないと判断して中退したという。教練の教師の批判までしたが、当時はまだ中学に教練の教師はいなかった。還暦過ぎのクラス会で、神中受験の話が出て、受験者の中に周五郎の名が挙げられなかったことに憤然として抗議したというエピソードがある
中学進学を断念して木挽町の山本周五郎商店(きねや質店というチェーン店の1)に丁稚奉公、父親は周五郎の給料の何年分かを前借したというから、とても進学どころではなかっただろう。何年間もの給銀を親権者に前借された境遇にある若い男女が作品に登場するのも、作者自身が臍を実際に咬んだ体験によって裏打ちされた、血を吐くような思いで描かれたもの
作品に「理想的な父親像」が書かれることが少なかったのも、少年時代のトラウマ
西前小学校の授業で、「小説家になれ」といった水野先生を終生の恩人の第一人者とし、奉公入りした山本周五郎商店「きねや」の店主山本周五郎(雅号・洒落斎)生涯第二の恩人と呼ぶ ⇒ 両者との邂逅がその後の運命を決するうえで決定的なものとなる

第3章        三十六少年の夢と失意
周五郎がしきりに太宰に会いたがり、『太宰治論』の著者奥野健男の「山本周五郎はたたきあげた職工だ」という評言に会心の笑みをもたらしたり、太宰ゆかりの人が褒めてくれるのを嬉しそうに聞いたりした
横浜時代、隣家の息子2人が「きねや」に奉公、その主人の人徳を聞き及んで周五郎の父親から、「親戚筋に当たるところに手伝いに行け」と言われ、父親の嘘を信じて丁稚に出たのが真相で、父は前借金で「甲子屋(きねや)」という名前の小料理屋を開業、終生この質屋店主を親戚と思い込む。隣家が古本屋で、周五郎はその本をほとんど読み尽くしていた
周五郎独自の時代小説の方法論として有名な科白、「慶長5年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなく、その時に、道修町の、ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしか、であって、その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探求するのが文学の仕事」 ⇒ 慶長5年は周五郎が丁稚に出た大正5年を想起、道修町は木挽町であり、自らの体験を背景にしている
木村は、周五郎が16歳の時『萬朝報』の懸賞小説に応募して『南桑川村』が佳作になったと書いていたが、没後15年経って『萬朝報』にそのような記事がないのを知る ⇒ 周五郎の食言が死後も木村を奔走させ、翻弄する。周五郎の構築した創作というフィクションの世界は微動だにしないが、その人生、人格、人間性は次々と破綻を見せる。あたかも周五郎が歴史から復讐されているかのように

第4章        初恋の虚と実
きねやの長女志津子との「出会い」と「別れ」の事件 ⇒ 66年河盛好蔵との対談でも、自らの回顧談でも、洒落斎が周五郎を正則英語学校や大原簿記学校へ通わせ、いずれ長女と娶わせ跡継にと期待していたようなことを言っているが、5歳下の志津子への想いはあったとしても、店の仲間も洒落斎の末娘も言下にその可能性を否定。学校へは全ての丁稚が行かされていたので、周五郎だけを特別扱いしたことはない
洒落斎は47年卒中の悪化で死去するが、実の父以上に慕っていたという周五郎の姿は見舞いに一度訪れただけで通夜にも葬式にもない ⇒ 「人間としての人格を失った姿を見ることは残酷で、とても耐えられない。通夜や葬式に行く時間があったら、読者尾のためにより良い小説を書く努力をする、それが自分にできる親父への唯一の孝行。人間の付き合いは生きている間だけのことで、お互い現在の人間関係を大切にしなければならない」
洒落斎の末娘は、小説家山本周五郎が、遠い親戚だとか、父のことを真実の父親といっているが、震災後も店に戻らず、作家になってからも何十年もの歳月消息の無音を通した周五郎の気持ちが理解できない、と言っている
周五郎夫人の言でも、言行不一致はよくあることで、「ときには二枚舌ねって言ってやった」こともあるという
志津子は18歳で急性盲腸炎で死去、周五郎は子の「初恋」のことを『青べか日記』に「静子」の名で登場させている
ストリンドベリと周五郎に共通するもの ⇒ 理想主義、求道精神、零落しきった父を持ったこと

第5章        関東大震災と周五郎
震災で、山本質店は一旦解散、周五郎は、友人と共に友人の須磨の姉を頼って関西へ

第6章        須磨寺での女性開眼
元々質屋を嫌っていた周五郎が、これ幸いと西へ逃げたというのが真相の湯だが、神戸に行った経路(汽車から船まで諸説)や滞在期間(5か月足らずから足掛け4年まで)、周五郎というペンネームを使い始めた時期、関西での遍歴等々、周五郎の記憶違い、意識的(確信犯的という化)思い込みに発する疑問が山積
罹災証明があれば、国鉄はどこまで行っても無料
車中で知り合った朝日新聞の記者の紹介で、大阪の朝日本社を訪ね、震災の見聞を『罹災日記』と題した原稿にして初めての稿料20(家賃2か月分)を手にするが、現行は掲載されず、紹介してくれた記者の名前も朝日の社員にはいない。その金を手にして豊岡に遊山に行き短期間そこの新聞社の記者になったと言っているが、その記録も残っていないし、寄宿先の友人の姉「須磨寺夫人」も否定
「須磨寺夫人」の証言では、神戸滞在は24.1.まで。『青べか日記』に2425年の除夜の鐘は神戸でとの記載があることについては、正月ごとに遊びに来ていたと言い、24.1.に分かれるときには「山本周五郎という名の小説を見たら私が出世したと思ってくれ」と言っていたと言い、その当時すでにペンネームとして使っていた。『須磨寺附近』も読んだが事実ではないと断定
『須磨寺附近』は26年『文芸春秋』に発表した文壇処女作 ⇒ 須磨に寄宿していた当時の恋のアバンチュールがテーマ。懸賞小説(後世周五郎は、終生懸賞に応募したことはないと言っていた)で、選考に当たった菊地寛が、感激もなく水準も低いとして周五郎を含む4点に賞金を50円づつ分けた。朝日の時評では、最初の10行で小説のヤマが見え、ありふれたことをありふれたように書いただけと酷評
「神戸もの」は、他にも同じような登場人物で、似たようなストーリーを描いたものがある
共通するテーマ ⇒ 「年上の女」「女性の中に潜む魔性」。戦後「岡場所もの」の諸作品に見る女の性の瑞々しさ、生々しさ、美しさ、哀れさ、悲しさは群を抜いて巧みだが、その頂点に来るのが『おさん』で、女性開眼の中心にあるのが『須磨寺附近』

第7章        洒落斎と周五郎
周五郎にとって24.1.25年は空白時代 ⇒ 須磨での数か月が周五郎を人間的に大きく変えたのは間違いない
周五郎のワイ談は下品であり、下劣、何より露骨 ⇒ 女を「もの」として扱い、人間として見なかったことからの必然
荷風と周五郎には共通するものが多い ⇒ 女に関する倫理的なものの欠如。菊地寛嫌い、売文専業の徒として憎むこと執拗を極めた
神戸の関西学院に菊地寛が講演に来た際、周五郎が原稿を売り込んで断られたとの話も、『関西学院史』には菊地来校の形跡は見当たらない
山本周五郎のペンネームの由来 ⇒ 『文藝春秋』に投稿した際、編集者が誤って「山本周五郎方清水三十六」とあったのを間違えて山本周五郎で発表したという本人談が定説になっているが、文壇デビューの登竜門ともなる懸賞小説の入選者発表で大出版社がそんな事務的ミスをするはずがないので、元々本名を書かなかったのではないか
無断で名前を使われた洒落斎の反応は一言、一行すら残っていない。勝手に使用したことについて、お詫びなり釈明があってもよさそうだが、恩人の遺族に対しても生涯それに応えることはなかった
直木三十五の本名は植村宗一。「植」を分割して「直木」とし、年齢の三十一をつけて命名し、毎年1つづつ増やして三十五で止めた
新国劇へも応募、29年には東京市主催の児童映画脚本の懸賞募集にも応募、1等当選。同時受賞者が「三田文学」の1歳年下の今井達夫で、この機に終生の文学上の交わりを結ぶ
馬込文士村 ⇒ 23年尾崎士郎が人妻だった宇野千代と略奪結婚して移り住んで以来、作家、評論家などが梁山泊のように集まってきて、田端文士村や荻窪阿佐ヶ谷文士村、本郷菊富士ホテルに倣って名づけられた。周五郎が今井に誘われて移り住むのは31年のこと
24.1. 上京した周五郎は、「きねや」には戻らず、日本魂社に入社(京橋の帝国興信所を母体とする出版社)。編集次長の彦山光三(後に相撲協会の『相撲』編集長を経て相撲評論家に)とウマが合い、8歳下の彦山夫人の妹・中川末子に焔のような恋を感じるが、結局は独り相撲に終わる
矢継ぎ早に作品が発表され始め、『日本魂』にも俵屋宗八のペンネームで作品を発表するに至り、28年会社をクビになり、背水の陣と覚悟
木挽町にも無心に行くが拒絶される ⇒ 両者の決定的な溝になった?
29年東京市の懸賞募集当選では500円を得るが、2度の北海道旅行ですべて費消
木村は、周五郎を文壇有数の浪費家というが、吝嗇だったことをいう人も多い

第8章        ヴェルレーヌとストリンドベリ
28年浦安移住 ⇒ 深川から蒸気船で2時間半を要する辺鄙な漁村
移住してから1年数か月間の日記が、没後『青べか日記』として公表 ⇒ 傑作『青べか物語』に因んで名づけられた
会社をクビになった後、自らを鼓舞する記述が溢れる
この頃、ストリンドベリの『青巻』を読了、後に座右の銘となった最後の言葉に感激したとの記述があるものの、誰の訳で、出版社がどこか、一向に明らかではない
ストリンドベリには、芥川の『羅生門』『鼻』(15)にも影響がみられるが、周五郎がそれらの作品に接したのは、自らストリンドベリを読んだ後のようだ
明治40年前後における自然主義運動は、因襲打破、偶像破壊、現実暴露に、まずイプセンが受容され、次いでストリンドベリが一世を風靡、全作品の3/8が『白樺』に翻訳掲載され、多くの作家に影響を与えたが、周五郎以外『青巻』に触れた作家はいない
ストリンドベリの死亡記事における紹介文: 根本的に世間と調和する分子を欠いており、女性に対する憎悪の念は多少発狂の気味を交えていた
同時に、ヴェルレーヌの「撰ばれてあることの恍惚と不安の2つわれにあり」(太宰の『晩年』によってひろく知られるようになった言葉)を引用、ナルシストの一面を見せる

第9章        最初期の少年少女小説
『須磨寺附近』と同時に、少女小説も書き始め、45年まで114篇もの少年少女小説を俵屋宗八ほかのペンネームで、少年少女雑誌に発表 ⇒ 博分館の『譚海』の編集長だった作家の山手樹一郎の指導で、新婚生活を支えるための手段として描かれた
没後の座談会「山本周五郎の人と作品」で、戦後山周自身が『小説新潮』に作品を持ち込んだところ、「うちは汚れた作家は使わない」と言って断られたが、それからガラガラ変わって、67年から刊行を始めた『山本周五郎小説全集』は同社の個人全集としては最多巻数(38)を記録する全集となったし、81年から第1回配本の始まった『山本周五郎全集』(30)は全巻合わせた総ページ数ではさらに上回るものとなった
少年少女小説は殆ど収録されていない
作者自身、作品の切り抜きや、単行本を手元に保存しない建前だったので、戦前の大衆娯楽誌までを完備する図書館も少なく、殆ど散逸の状態にあったため、全てを網羅する全集の復刻は絶望的と思われたが、没後続々と作品が発見され、新しい全集として発刊 ⇒ 作者の文壇的地位も低く、戦前の少年少女作品に対する評価は一部の例外を除き今までは低かった

第10章     旺盛な少年少女小説の執筆
29年浦安を脱出し、30年宮城県亘理村出身の女性と結婚、腰越に新居
相手は、30年夏の心労から軟性下疳で慶応病院に入院したときに受け持った看護見習い
山本に連れ添い、想像を絶する辛苦に耐えて、一言も弱音を吐かなかった、芯の強い女性だったが、終戦直前に膵臓癌で死去、享年36
周五郎は、小説に対する純と通俗の誤った先入観を、実作によって打破するため、ひたすら研鑽していく ⇒ 少年少女小説にも珠玉作が多い

第11章     馬込文士村での執筆生活
新婚3か月で馬込文士村に転居。当時の主なメンバーは、尾崎士郎を囲むように、川端康成、今井達夫、朔太郎・犀星の周辺に三好達治、他に倉田百三、高見順、佐田稲子、画家の川端龍子、小林古径等。尾崎が当時の雰囲気を次のように書いている:誰も彼も不遇で生活は苦しかったが、一旦この村に入ったが最後、没落する感情の中で、忽ち息を吹き返した
文士間のなぐりあいが続く中で、周五郎は主役の1
山岡莊八の戦争責任を糾弾する。純粋な青年たちを扇動し、死地へ追いやったという。そういう周五郎は無辜なのか。聖戦を謳歌する作品、国策に便乗するような作品は一篇も書かなかったと言われているが、些か疑念がある

第12章     直木賞辞退
『青べか日記』に皇紀を用いた背景 ⇒ 当時の国策的風潮が、児童にまで呪術的国体原理主義を刷り込ませようとしており、そのシンボル操作が皇紀2600年という元号。周五郎も銃後の老幼婦女に向かって「わが国土を守ろう、城と生死を共にしよう」と国史に残る「忍城」の教訓を臆面もなく垂れている
(17)直木賞(43年上半期)辞退のこと』⇒ 賞の目的は知らないが、もっと新しい人、新しい作品にあてられるべき。新人と新風を紹介する点にこの種の賞の意味がある
対象は『日本婦道記』と題する30編の読み切り連作を『小説日本婦道記』としたもので初期の代表作
時局を踏まえ国家理念にしっかりと立脚したとして受賞作に押される ⇒ 戦後になって時局と無縁だったとか、作者の意図が国策的なものとは異なったところになったとの評が出てきたり、本人も戦後に、「女だけが不当な犠牲を払っているというのは心外で、不当な犠牲を強いられたら日本の女性だって甘んじている筈はない」と話しているが、婦人解放も叫ばれていない戦前の日本でそんなことは考えられない
芥川賞では、3年前の第11回で、幸田露伴の甥・高木卓が辞退、文藝春秋の社長だった菊地寛が憤然として、「受賞が決まった時点で受ける名誉は同じ、あとは賞金だけの問題なので、辞退して謙譲の徳を発揮した積りでも、世間的には辞退によってさらに効果的になったのと同じ。素直に受けてくれないと審査する方は迷惑。ましてや審査員の鼎の軽重が問われてはやりきれない」と憤懣をぶちまけている
審査員は、中野實、井伏鱒二、吉川英治、岩田豊雄(獅子文六)、岸田國士、大佛次郎ほか
周五郎は、この菊地の言に対し、「権威主義だ。それがどれほど文学を毒しているかわかっていない。文学に賞を与えることのむつかしさを、もっと謙虚に反省すべき」と批判
菊地の逆鱗に触れて、今東光のように筆を折らねばならぬ事態に追い込まれないとも限らない状況を承知で、周五郎には利害を超えた覚悟があった ⇒ 『須磨寺附近』で冷たくあしらわれた1点を己の命運のためにも生涯見つめ続ける
明治人の気骨を示す逸話 ⇒ 12年の第1回文芸選奨
候補は、漱石『門』、藤村『家』、荷風『すみだ川』、白鳥『微光』、谷崎『刺青』、与謝野晶子『春泥集』と、沙翁劇翻訳者坪内逍遥と『プラトン全集』翻訳者の木村鷹太郎の8
審査員は、鷗外、上田万年、露伴、抱月、桂月、饗庭篁村らと文部省役人
8回の投票で決まらず「選奨なし」で閉会するが、物笑いになることを恐れて格好をつけるために、逍遥を文芸功労者として表彰することに衆議一致。逍遥は辞退するが、抱月の説得で落着。逍遥は、賞金2,200円の1/2を文芸協会へ寄附、残りの大半を彼と関係の深かった二葉亭四迷の遺族に贈り、残りを山田美妙と國木田独歩の遺族に分け与え、どの遺族も干天の慈雨に感激。35年逍遥他界の際政府は勲1等の奏請を打診したが、生前勲3等を拝辞しており今回遺族も拝辞。衆議院は学芸会では福澤に次いで全会一致で弔辞を呈す
周五郎の好意は伝説化され、反権威、狷介孤高の象徴として語り継がれるが、逍遥のような選択もあったことを思えば、魂の濁りを感じないわけにはいかない。受賞が嫌なら拒絶し、沈黙すべきだし、ましてや周五郎辞退のコメントは言わずもがな
芸術院会員を辞退した際の大岡昇平の応答「戦争で俘虜になった過去があるから」、武田泰淳は辞退したことを死後まで公表せず、内田百閒、木下順二も辞退。菊地寛は会員だったが戦後戦争責任を問われて辞任
作家は常に同じようなことを問われている。先頃、村上春樹がスペインで文学賞を受けた際のスピーチで、賞金は3.11の義捐金として寄附すると言ったことに、地元の市民がノーと言ったという。聖書には「右手のことを左手に知らせてはいけない」という、つまり施しというものは他者に知らせるべきものではないという言葉がある。以て瞑すべき、気を引き締めるべきだが、村上春樹にしてこの体たらくだ
39年「国民徴用令」が、41.10.には作家の南方への報道班員としての徴用が始まる
左翼運動に関わった人 ⇒ 大宅壮一、高見順、武田麟太郎
不敬罪、軍人誣告罪に問われた人 ⇒ 石坂洋次郎
進歩的知識人 ⇒ 三木清、清水幾多郎、中島健蔵
外国留学経験者や外国文学に造詣が深い人 ⇒ 今日出海、小田嶽夫
中国戦線での兵隊経験者 ⇒ 火野葦平、里村欣三、倉島竹二郎
周五郎は、面接した陸軍の担当官に、「小説家は小説を書いてお国のために尽くすのが本分」と言って徴兵を免れているが、そんな言いぐさが通用したのか
従軍した文士が佐官待遇で、軍とつるんでいい思いをしていたことを批判している一方で、戦時中の物資不足の中でも編集者たちから豊富な物資の提供を受けていたことを認めており、語るに落ちる
『戦中日記』(没後発刊)でも、贅沢な食卓の模様が記され、翼賛選挙で国家主義者に投票したことが書かれている
戦時中、日本文学報国会に、プロレタリア作家同盟出身の作家までがバスに乗り遅れまいと加盟した中にあって、中里介山はその評議員就任を拒否
周五郎の報道班員辞退の真相 ⇒ 徴兵の待遇は、当然学歴によって違い、給料も差が付けられたので、その辺りに辞退の淵源があったのではないか。身分や本俸を伝えた後相手に復唱を命じるので、その場にいるものすべてに伝わる。文士たちは、文壇での地位や収入の多寡などを斟酌されて階級や給与が決められただろうが、東京帝国大出身は一様に中佐待遇、井伏で少佐だったことを考えると、周五郎はそれより下位になっただろう
徴用文学者たちの東南アジア行の体験は、昭和文学史上の「タブー」として隠蔽されてきた
周五郎が山岡荘八の戦争責任を追及する資格があるのか疑問

第13章     『柳橋物語』の恋愛像
『小説日本婦道記』を新潮文庫に収録する際、周五郎自身が撰定し11篇に絞った ⇒ 主人公に共通するのは、等しく私利私欲を捨て、人のために誠心誠意無償の精神を貫く女人像だが、決して盲目的な忍従、自己犠牲ではなく、『葉隠』の「忍ぶ恋」を含有させている
49年発刊の恋愛小説の傑作『柳橋物語』⇒ 発表時の反響は、作者の期待にそぐわぬもの。一般読者から周五郎の代表作として認識されるのは、55年河出書房刊の『山本周五郎全集』に収録され、その解説を担当した扇谷正造の評価によるものと言われる
周五郎が「義理人情の作家」と言われることを激しく拒んだ背景には、『人生劇場』で義理人情の作家として持て囃されていた馬込時代の尾崎士郎との葛藤があったのはほぼ間違いない ⇒ お互いガキ大将的素質を持つ似たもの同士であり、近親憎悪的なものだったが、作品を読む限り、義理人情以外の何ものでもない

第14章     横浜への転居
15年の馬込時代、病床の妻と乳飲み子の世話を手伝ったのが筋向いの吉村きん。銀行勤めの傍ら足繁く出入りし、妻が膵臓癌で死去した後、自然な形で46年再婚 ⇒ 72年夫人の回顧録発刊。結婚直後に横浜に引っ越したのが結婚式であり新婚旅行だった
天性の無邪気さ、おおらかさで暢気で、およそ屈託のない人柄の下町娘・きん夫人と一緒になって、下町ものへの目処がついた
武蔵を仇と狙う話を喜劇仕立てにした『よじょう』を、吉川武蔵に対する反発として高く評価する向きもあるが、周五郎の晩年の弟子早乙女貢が、場面設定に時代性も地方性も感じられず風俗考証も出来ていないと不満を述べているのみならず、自らのアイディアに得意然としている作者の表情がここかしこにのぞき、それが鼻につく、評価に足らない作品
河盛好蔵にも褒められたが、自身は失敗作と認めている

第15章     『樅の木は残った』と60年安保
54年から日本経済新聞に連載の始まった周五郎の本格的長篇歴史小説の代表的決定打とされる『樅ノ木は残った』は、歴史の定説に対する否定であるばかりでなく、大衆文学の神聖伝説に対する否定
伊達騒動を機に、幕府に取り潰されそうになった伊達藩を守るために自ら逆臣の汚名を被って死んでいった原田甲斐の物語
「樅ノ木」であって「樅の木」ではない ⇒ 「ノ」は前後で同義語を表し、「の」は所有格を表すと、表題1つにも拘った
それまで大衆小説は純文学畑の批評家の対象になることはほとんどなかったが、この作品から周五郎を取り上げる批評家の顔触れが変わった ⇒ 吉川英治の作品する純文学の批評家から黙殺されていた時代に、文学史上の事件とも言うべきもの
作品を書くに当たって、殆どの資料を精密に調べたとしているが、大槻文彦の大著『伊達騒動実録』よりも、原田甲斐を中心として浮上させた真山青果の戯曲『原田甲斐の最期』の新国劇の舞台を見て
周五郎が歴史の新解釈によって人物評価の逆転劇を狙った初めての試みは、1953年の『栄花物語』の田沼意次の例があるが、学問上の変わった研究をいち早く取り入れる勉強家ではあったが、歴史の直接の発見者ではなかった
質屋の丁稚時代から温めていた題材であり、結婚して仙台の嫁の実家を訪問して伊達騒動の話を聞いて行ったという
周五郎の歴史小説は『樅ノ木』で終わるが、晩年には明智光秀と徳川家康を書きたかったようだ ⇒ それまでの田沼意次や由井正雪(『正雪記』1953)共々、主人公に共通しているものが見える
毎日文化賞に決まるが、周五郎が固辞、出版元の講談社が代わりに応じる変則受賞に

第16章     『青べか物語』の浦安
周五郎作品の中でも最高の芸術的熟成を示すものとする批評家が少なくない
62年映画化、監督川島雄三最晩年の作 ⇒ 森繁ら数十人のロケ隊が一か月あまりも浦安に分宿したが、地元の映画製作反対派と賛成派が対立、反対派は『青べか物語』が浦安住民の無知、卑猥、狡猾を故意に誇張した作品と読み、自分たちの愛すべき故郷の恥を天下に晒すものだとして反発

第17章     他者の発見
『その木戸を通って』(59年『オール讀物』掲載) ⇒ 周五郎文学の精髄であり、昭和時代の代表的小説(奥野健男)
「他者」であって「他人」ではない。「他者」は自己以外のもの、例えば「自然、社会」もそうだ。知識人にとっての他者は、「生活者、大衆」、この逆も真である。そういうものとして他者が存在するという「他者の発見」

第18章     晩年の周五郎
61年朝日新聞に江藤淳の「文芸時評」掲載 ⇒ 周五郎の『おさん』が批評。最初にして最後。大江健三郎の『政治少年死す』を腰砕けに終わり、ジャーナリスティックな素材に引きずられ功名心に燃えた作品とこき下ろし、同世代人としての江藤、大江の蜜月時代に終止符を打ったのに続き、『おさん』を『その木戸を通って』以来の佳作と持ち上げる
周五郎と画家との付き合いは、マスコミの原稿依頼が周五郎に集中してくる中で次第に途絶える ⇒ 周五郎自身も、画家連中がおよそ不勉強で、酒を人にたかるばかり、下手な挿絵などついていると逆にマイナスになると言い放ち、現に『青べか物語』等には挿絵がない

第19章     虚空巡礼
61年『小説新潮』に『虚空遍歴』発表 ⇒ 『青べか物語』の一つの章として『私のフォスター伝』という題名で書く積りでいたもの。アメリカの天才民謡作曲家の生涯を読んだとき魂の根底から揺さぶられるような感動に駆り立てられた
『樅ノ木』と『ながい坂』『虚空遍歴』の3長編に作者の人生観、哲学、芸術観が集大成されている(奥野健男)
読物作者で長いこと埋もれていた周五郎に、活を入れ、後に天下の「山周」にしたのは、『講談雑誌』の編集長だった風間真一。作家の真髄を察知し、反骨心を煽ろうとして周五郎に「先月のはつまらねえ」と言って怒らせ、原稿料として渡した百円札を目の前で燃やされた当人、周五郎から疎まれ、原稿がもらえなくなり編集者生命を奪われた
『わが周五郎』等の著作がある土岐雄三も、周五郎の人間愛の実体に少しずつ疑問を持ち始めている ⇒ きん夫人が周五郎から流産を強いられたと聞いて直接本人に確かめたが返事を避けられた。避けたことが何よりの返事。流産も一度だけではなかったようだし、前夫人のお骨を家において、現夫人が汗水たらして家事育児につくしている前で、子供たちに「お前らのおふくろはあれだ・・・・・」といったという。きん夫人が周五郎の「良き伴侶」であったように、周五郎が彼女の「有難き伴侶」であったかは、どう考えても答えは否。風間同様、周五郎文学を世に出すための人柱の1人と思われてならない
64年『週刊新潮』に『ながい坂』連載開始 ⇒ 最後の長編小説。自らの来し方に仮託した自伝小説。『虚空遍歴』では身分を捨てひたすら「真・善・美」に生きるという反立身出世主義を描きながら、『ながい坂』では立身出世主義者を肯定的に描くという、近代以後の日本文学の常識に反することを試みている
周五郎自身が、いかに世俗的なことに背を向けて文学一筋に精進する人であったかということを多くの回想録に書いているのを読むと、些か意地になって恬淡としていたのではなかかと感じられるフシもないではない(佐藤忠男)
反俗的、反立身出世主義的な生き方こそは、文士のあるべき姿と考えるが、貧窮から身を起こして営々と努力して立派な人間になってみせるという、三つ子の魂もまた決して捨てることはできない――これが周五郎の「基本的な内面の葛藤」であったということ
最晩年には、形に添う影のように、常に側にいた木村久邇典を"破門"し近づけなかった
体力も衰え、気力もガクンと落ちこんで、ハリや粘りが失われていった

第20章     終焉
67年朝日新聞日曜版に『おごそかな渇き』連載開始 ⇒ 8回までで急逝により中絶
晩年宗教的色彩を深めるが、人間の中で宗教と信仰がどういう位置を占めているか探究
「人間の真価は、何をなしたかで決まるのではなく、何をなそうとしたかである」と口癖にしていた言葉の「何をなそうとしたか」を著者なりに考えてみたい
学歴コンプレックスという宿痾から終生解放されることはなかった
芥川の自殺にショックを受け、芥川の死を越え得る者のみが、今日以降自殺の誘惑なしに生きることができる。既に芥川が死をもって証明したものは、我々の知性の無力以外のものではなかった
芥川は、中産下層階級という自己の出身に生涯かかずらった作家、この出身階級の内幕は、先ず何よりも芥川にとって自己犠牲をともなった嫌悪すべき対象であったため、抜群の知的教養をもってこの出身を否定して飛揚しようと試みた。彼の中期の知的構成を具えた物語の原動機は、全く自己の出身階級に対する劣等感であったことを忘れてはならない。劣等感は自己階級に対する罪意識を伴ったため、出身を忘れて大インテリゲンチャになりすますことが出来なかった。彼の造形的努力の持続は、出身圏への安息観を拒否することに他ならなかったため、まず芥川の神経を破壊せずにはおかなかった。造形的努力に疲労を自覚した時、自己の安定した社会意識圏にまで、言い換えれば処女作の世界にまで回帰することが出来たならば、生きながらえたはずだ
周五郎についても、『青べか物語』の庶民の世界へ回帰することが出来たならば、どんなに豊饒な文学世界が現出したであろうか




周五郎伝 虚空巡礼 齋藤愼爾著 作家の生涯と作品に迫る評伝 
日本経済新聞朝刊2013年7月14
 曲軒と綽名され、さまざまな孤高伝説を持つ山本周五郎の「人と作品」を論じた作品は数多くある。俳人であり、周五郎の少年少女小説集『春いくたび』『美少女一番乗り』の編集に携わった著者は、この書き下ろし評伝の「序章」を学恩という言葉から始めている。「私にとって山本周五郎の作品こそが、学恩の意味するものに最もふさわしい気がしてならない」として、周五郎作品と出会い、傾斜していったプロセスを吐露している。
(白水社・3400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(白水社・3400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 60年安保世代である著者は、昭和351960)年の晩夏、学生運動からの挫折と人間関係の躓き(失恋)で失意の極点にあり、大学の寮に逼塞する日々を過ごしていたときに、周五郎作品と出会って救われたという。「私にとって、まさしく回心というべき体験であった」と振り返っている。
 敗戦後、周五郎がしきりに太宰治に逢いたがっていたエピソードを紹介した上で、奥野健男の『太宰治論』が太宰治と周五郎の共通点を指摘したことに触れている。「太宰治が三十九歳で自殺せず、もし生きていたら、山本周五郎のような生き方をしたのではないか」という奥野テーゼを、本書で「継承しようと目論む私」という自らのポジションを明記している。
 だが、周五郎の「人と作品」を検証していく過程で、「奥野テーゼの延長に、『周五郎伝』の座標軸を据えようとした当初の目論見はここに来て軌道修正を余儀なくされる」と変化していく。また、周五郎作品を半世紀を経て再読して「読後感が変化した」とも記している。その変化のありようをたどる面白さがある。
 周五郎の生涯を「虚空巡礼」ととらえ、太宰治はじめ、永井荷風、ヴェルレーヌ、ストリンドベリ、夏目漱石、宮沢賢治、中里介山、芥川龍之介らとの共通点と相違点を、さまざまな資料を補助線に分析していく。その分析方法に知的好奇心をかきたてるものがある。
 周五郎の生涯と作品に関わる矛盾や謎に迫り、序章の「回心」の意味とともに周五郎への熱い思いが伝わってくる。阪神大震災と東日本大震災に遭遇した現代人に問いかける評伝ともなっている。
(文芸評論家 清原康正)


Wikipedia
山本 周五郎1903(明治36年)622 - 1967(昭和42年)214)は、日本小説家。本名、清水三十六(しみず さとむ)。
l  1903(明治36年)山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)にて父・清水逸太郎、母・とくの長男として誕生。本籍地は北巨摩郡大草村若尾(現韮崎市)
l  1907(明治40年)初狩村が明治40年の大水害で壊滅的被害を受け、一家で北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居。
l  1910(明治44年)神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。
l  1916(大正5年)横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
l  1923(大正12年)徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年91日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
l  1924(大正13年)再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
l  1926(大正15年・昭和元年)『文藝春秋4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。1020日、脳溢血で母・とく死去。
l  1928(昭和3年)千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。10月、勤務不良により日本魂社から解雇される。
l  1929(昭和4年)東京虎ノ門に転居。
l  1930(昭和5年)11月、宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護婦・土生きよいと結婚。22女を儲ける。
l  1931(昭和6年)東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。
l  1934(昭和9年)626日、中風で父・逸太郎死去。
l  1943(昭和18年)第17直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。
l  1945(昭和20年)54日、膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。
l  1946(昭和21年)自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。
l  1959年(昭和34)『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
l  1961(昭和36年)文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
l  1967(昭和42年)214日、当時仕事場として使用していた旅館間門園別棟で肝炎心臓衰弱のため死去。享年65。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。

人物[編集]

l  趣味は、映画鑑賞、読書、酒を飲みに行くこと。
l  好きな酒は、ワインウイスキー
l  好きな食べ物は、肉類(洋食系)、チーズ蕎麦
l  一日に60本ぐらい煙草を吸っていた。

ペンネームの由来[編集]

ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿を用いた)、自身の出世作となった『須磨寺附近』を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説があるが、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。
しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも酒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。その為、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。

作風[編集]

作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。
また伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
『日本婦道記』で第17直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった、直木賞を受賞辞退した裏には、一説に賞を主催する文藝春秋菊池寛との不和が挙げられる。
担当した雑誌編集者は数多いが、その中では、博文館の雑誌『少年少女譚海』の編集者で後に名物編集長として知られた井口長次(『桃太郎侍』の山手樹一郎の本名)、朝日新聞社の担当記者だった木村久邇典などが知られる。
特に木村は、山本の没後は生涯にわたり、多くの評伝・作品研究を書き、『全集』(全30巻、新潮社)を編み、埋もれた作品を発掘、新潮文庫で再刊等を行った。代表作に『山本周五郎』(上下巻、新版アールズ出版)、他にも『書簡にみる山本周五郎像』(未來社)など20数冊を刊行。また数多の作品に登場する人物たちの台詞を集め、箴言集『泣き言はいわない』(新潮文庫、改版2009年)を出している。なお類書に、清原康正編『山本周五郎のことば』(新潮新書2003年)がある。
他に担当者の回想に、文藝春秋の編集者だった大河原英与『山本周五郎最後の日』(マルジュ社)がある。功績を記念し1988年より、新潮社などにより山本周五郎が発足した。
「日記」に、太平洋戦争中の全文を一挙収録した『戦中日記』(角川春樹事務所、201112月)が、近年の「評伝」に、『周五郎伝』(齋藤愼爾、白水社、20136月)がある。

逸話[編集]

·         尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は一言、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ」と言ってくれた。
·         若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
·         山本は、中原中也太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
·         山本の本名三十六は、明治36年生まれであったことから来ている。彼自身はあまり気に入っていない名前であったらしい。
·         ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。

主な作品[編集]

·         野の落日 1920年)
·         日本婦道記 1942年)               17回直木賞辞退
·         寝ぼけ署長 1948年)
·         栄花物語 1953年)
·         正雪記 1953-54年、1956年)
·         樅ノ木は残った 1954-58年)     毎日文化賞辞退
·         赤ひげ診療譚 1958年)
·         天地静大 1959年)
·         五瓣の椿 1959年)
·         青べか物語 1960年)               61年文藝春秋読者賞
·         季節のない街 1962年)
·         さぶ 1963年)
·         虚空遍歴 1963年)
·         ながい坂 1966年)
·         山本周五郎長編小説全集 新潮社全26巻、20136月より新版刊行




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