雑誌の王様 評伝・清水達夫  塩澤幸登  2013.8.16.

2013.8.16.  雑誌の王様 評伝・清水達夫と平凡出版社とマガジンハウス
The King of Magazines

著者 塩澤幸登 作家・編集者。1947年生まれ。世田谷出身。早大文卒。70年平凡出版入社。雑誌編集者を経て02年より作家活動に入る。ノンフィクション作品多数

発行日           2013.6.20. 初版印刷         6.25. 初版発行
発行所           河出書房新社

序 かつてこの地上に雑誌の王様とも言うべき編集者が存在した
王様は清水達夫、天才的編集者。王国の名は平凡出版、相棒は創業者の岩堀喜之助
清水は、戦後大衆雑誌の革命児
平凡出版社は83年にマガジンハウスと改名、いまも存続しているが、往古のマガジンハウスと今のマガジンハウスは全然違う出版集団
王国の住人は、自由にものを考え、規則や規制はほとんどなく、独創を尊び自在な発想で、自分の作りたいものを作る、それでもって出版界でも突出した給料をもらうという闊達なサラリーマン生活を謳歌

第1章        覚醒
筑紫哲也と井上ひさしが対談で、「戦後雑誌のすべての源泉は清水達夫の雑誌作りにある。すべてはマガジンハウスというか昔の平凡出版から始まった」と語り合ったのは1985年。この時王国は隆盛の極みにあり、同時に重大な転換点を迎えていた
戦後の雑誌は、平凡出版が作り、それを集英社(小学館の子会社)とかのメジャーがフォロー、ブラッシュアップすることによって広がっていった
雑誌が定期的に生み出す利益に較べれば、どんなベストセラーでも大したことはないので、焦って単行本なんかで儲ける必要はないというのが王国の国是
80年代に入ると平凡社の業績が悪化、麹町の自社ビルを売却、社長が「真面目にいい本を作っていこう。向こう(平凡出版)はいい加減なモンを作っててなんてことだろう」といったのを聞いた清水が激怒して、マガジンハウスという社名に変更する決断をした
戦後の大衆紙の基本形を作ったのが清水で、その雑誌が戦後最初に手掛けた月刊『平凡』
清水から始まる平凡出版の編集者の系譜が、次々と現れた戦後の新しい雑誌を生み出すメインストリームとなった
雑誌『平凡』が出版界で不気味な存在として頭角を現すのは50年代中頃。忽ち百万部を超えるが、大凡のインテリたちはどう捉えればいいのか迷い、「大衆の興味に迎合することで成功した低俗な雑誌」との評価が多かった
雑誌には、読者とどうかかわるかという問題があり、それは二重構造になっていて、その問題の基部には「人間とは何か」と言う基本認識の問題が隠されている。そこがちゃんと見えていないと編集の仕事は面白くもないし、深化もしていかない
『平凡』が本当にすごかったのは、メディアとして(当時まだその言葉はなかった)、雑誌がジャーナリズムであるという認識だけでなく、読者の生活のツールとして役に立つということに気付いて、それを追求したこと ⇒ 手を伸ばして生活情報を手に入れる楽しみを編集的に追求した雑誌
雑誌の力によって、大衆の生活に大きな影響を及ぼし、大衆に社会参加させ、社会の文化の質や構造、大衆の生活内容まで作り変えてしまう、そういう雑誌を作ったし、その後の新しい雑誌を創刊させるたびに同じことを繰り返しやって見せたのが清水
昭和を代表する編集者として花森安治の名が挙がることが多いが、むしろ異端児であって、メインストリームを作ったという役割はしていないし、花森の『暮らしの手帖』はむしろ大政翼賛会での自分の仕事に対する反省から、もう時代に騙されない、時局に便乗しないという固い不可逆的な決意の上に成立したものであり、広告を受け付けないというのも時代への強い心理的反動の表れの1つではないかと見える
清水や岩堀も大政翼賛会の同僚だったが、密かに非国民的なことを考えていた不良従業員
60年代後半、若い世代に中心的に読まれていたのは、見栄雑誌としての『朝日ジャーナル』と1964年創刊の『平凡パンチ』で、学生運動の衰退とともに部数を減らしていく ⇒ 編集長の交代により、サブカルチャー・マガジンのリーダー的存在という色合いを失い、マスマガジンとして芸能雑誌化して部数の回復に奮戦
全盛期にいて、編集方針に敏感に反応したのが五木寛之。『青年は荒野をめざす』の連載が終わると、講談社の『週刊現代』に本拠を移して『青春の門』の連載を始める
『夢顔さんによろしく』の西木正明(本名鈴木正昭)も移動で編集部からいなくなる
『パンチ』の表紙400冊余りを描いた大橋歩も、71年暮れにマンネリズムに嵌って自ら仕事を降りるが、その後『宝島』(旧『ワンダーランド』)の表紙を描いている
清水が直接陣頭指揮して作った雑誌は『アンアン』までだが、その後も平凡出版=マガジンハウスから出された新雑誌は、清水の編集者としてのありようの、時代ごとの作家的表現の産物で、時代に合わせて作家が作品を作るように時代の要請に対して機敏に反応して作り出された雑誌なのだ

第2章        創業神話
岩堀喜之助と菅原幸基が『陸軍画報』の用紙の配給権を譲られて、新しい雑誌をやろうと考えたのは45.8.末のこと。岩堀が大政翼賛会にいたときの同僚だった清水に声をかける。雑誌『平凡』は運命のいたずらのように世に生まれた雑誌だった
岩堀は、時事通信社の新聞記者から、軍の宣撫官、大政翼賛会で軍の慰問を担当
清水は、大政翼賛会に入る前、電通で『宣傅』という雑誌を作っていた。ユーモア作家志望の文学青年
元々は総合雑誌に近い柔らかな讀み物が並んだ文芸雑誌を目指したのだろうが、唯一編集経験のあった清水には無理で、芸能娯楽雑誌に転換
45.11.月刊誌『平凡』創刊 ⇒ A5サイズ、活字に飢えていたこともあって3万部完売
百万部を超える急成長を遂げたが、55年中頃に返品率が急騰したのが転換点
併せて税務署の査察が入る ⇒ 追徴金で収まるが、大量の使途不明金の出たことが社内的な不信を生み、社員が平等な株主となった会社に衣替え

第3章        編集革命
椎根和は、清水の編集理論について、戦後社会が必要とする考え方を戦前から用意していた人だったという。60年代末に「メディアはメッセージである」と言ったのは、カナダの社会学者マクルーハンだが、そのことを清水は戦前から気付いて雑誌編集を行っていたのだと指摘
椎根和は、早大出身、婦人生活社の編集者を経て入社、『平凡パンチ』で三島由紀夫を担当。80年代の黄金時代の編集長。『Hanako』の発案・創刊者
大先生に頭を下げるより、『平凡』独自のスターを発掘 ⇒ 生沢徹(F1ドライバー)、立川談志、伊丹十三
創刊後、大手の本格参入で、中小新興の出版社がバタバタと倒れる中、平凡は映画会社が配るスチール写真を多用し、レコード会社から歌手のポートレートを入手して、それに流行歌の歌詞を採録、デザインして並べるという発想が当たり、47.12.からは大衆文化現状リポートに重点を切り替えて部数を伸ばす
最初にテーマに選んだのは、映画・音楽=芸能だが、あと次々に新雑誌を創刊させていく発想の原点には、特定の文化ジャンルに拘らず、時代のエネルギーをどうやったら雑誌に封じ込めることができるかという観点が強くあった ⇒ 人々は常に新しいものを追い求めて生きるものだという人間社会の本質への気づきと、その移り変わっていく「時代」を雑誌の中で表現しなければならないという信念
48.2.から、現在の週刊誌サイズに変更 ⇒ 46年創刊のビジュアル化した文芸誌『ロマンス』が先行して成功していたが、表紙に挿絵画家の絵を用いていたものを、写真に置き換え、夢よりリアルを追求したことで、必然的にノンフィクション=事実、現実をそのまま雑誌に充満させた。この変化が『平凡』を雑誌として全く新しい存在にした最大の原因
写真を使って、徹底的に編集したことで、実際に世の中の動きを伝える、月刊平凡なりの、あるいはその時代なりのジャーナリズムになっていった
それだけに、81年新潮社が『フォーカス』を創刊した時は、清水は抜かれたと言って激怒

第4章        編集革命・セックス編
井上陽水と浜野安宏の極めて70年代的な発想は、平凡出版=清水が戦後すぐに気付いて雑誌作りの主要な柱の1つにした「男女の恋愛と性」に関わる編集思想にかなりきちんと通底している。清水の編集理論の背後に隠された最重要キーワードは「セックス」
1970年『アンアン』創刊 ⇒ 「平凡パンチ」の時と同様の読者へのメッセージ、「あなたはこうした方がいい」というマニュアル性が重要な編集要素として存在、他雑誌と差別化
恋愛や夫婦愛などの問題を雑誌が扱うと、低俗、露悪などぎついエログロになりがちなのだが、そこをエログロに走らず、品性高くきちんと編集して見せた雑誌は『平凡』以外になかった
セックスの解放もしくは商品化は、敗戦から11か月もの間誰も手を付けなかった
467月号の『平凡』が起死回生の一打として企画した『濃淡古今名作濡れ場全集(ラブシーンぞろひ)』が、偶然にもGHQ主導の初のキッス・シーンを挿入して大ヒットした映画『はたちの青春』の封切りと重なり、爆発的に売れた
ただ、清水が編集の天才であった第一の所以は、「性」というテーマを重要だと認めながら、あくまでも生活の中の一部分のものとしてしか扱わなかったこと ⇒ セックス目当ての読者は安定的な定期購読者ではないとの見極め
70年代パンチに山口百恵やピンクレディーを持ち込んで、雑誌の内容を芸能化して部数を1.5百万部まで引き上げ最高記録を塗り替えたが、清水は雑誌のメッセージと読者の関係が不毛に見えたのか、不興だった
84年の正月特大合併号で、『オッパイがイッパイ』と題して、その頃はやったノーパン喫茶の女性100人の胸ばかりの写真をグラビアにした時も、清水は怒る ⇒ 編集者なりの咀嚼がないということだったのだろう
こういうテーマが持つ微妙な効用と害毒、毒にもなれば薬にもなる強さと危うさをよく知っていたのだろう
48.2. B5判への変更 ⇒ 読む雑誌から見る雑誌への転換。雑誌グラビア処理の全く新しい世界を打ち出し、その手法は他の雑誌にも次々に採用されていく。映画のスチール、歌手のポートレート。歌詞の文章原稿、手書きのイラストの4つの要素を巧みに並べてイメージを交錯させ、ビジュアル情報として提供。これを機に部数が急激に伸び始める
49.3. 小糸のぶの連載小説『乙女の性典』が始まって10万部を超え20万部に迫る

第5章        日本橋少年
立原道造と黒澤明、詩人にして建築家と画家にして映画監督、清水の生い立ちを解明するための最重要キーワード人間がこの2人。立原とは同じ日本橋の生まれ、黒澤とは中学が同窓
清水は1913年日本橋の生まれ。父は宮大工の次男坊、母は鰹節のにんべんの大番頭の娘。父が別の鰹節問屋で働いていたところをにんべんにスカウトされ、大番頭の娘を貰って跡継となった
清水が立原や堀辰雄と別な道を歩むことになったきっかけは関東大震災 ⇒ 立原は、一旦流山に避難したが、数か月後には戻って元の久松小学校に復学しているが、清水は家族で根岸に避難した後お茶の水に引越し、小石川林町小学校を総代で卒業、推薦で京華中学へ、デザイナー志望だったが試験の落ち、2浪して立教予科へ。35年中退、38年電通の広告図案家募集を見て入社
この時代のお茶の水から雑司ケ谷、池袋にかけては東京の一番の文化の先進地帯、一番最初に開かれた山手という趣があった。お茶の水は多くの大学が集まる東京随一の文教地区、講談社が大日本雄弁会をして音羽に居を定めたのが1909年、立教が築地から池袋の移転したのも1918(大学昇格は22)
黒澤が荏原郡大井町から小石川に引っ越してきたのが7歳の1917年 ⇒ 中学卒後画家を目指し、いきなり二科展に入選するが、以後は先細りで、26歳の時東宝(当時PCL)撮影所の門をくぐって映画界に入る
同窓の黒澤と清水は、何度か仕事を交錯させている ⇒ 清水が『宣傅』でも『平凡』の創刊2号でも、さらに『平凡パンチ』の創刊号でも黒澤の作品を取り上げている

第6章        青春時代
百瀬博教(後出)が晩年の清水に、息子のように溺愛されていたことは知られていない。百瀬が死んで早や5年、彼のことは忘れてしまっただろうか。清水の大叔父、祖父の弟(寄席の席亭)は、市井の無頼漢というか侠客、百瀬と同じような不良だった
寡黙な清水は、晩年殆どものを言わず、隣の人にもメモで用件を知らせるような会話嫌い、人間嫌いになってしまったが、木滑と百瀬が石原裕次郎を通じて知り合い、木滑が社長になった後社長室に出入りしていた百瀬の人たらしに、清水が打ち解けた ⇒ 清水には息子がおらず、大学同窓という関係もあって親密になったのだろう
『宣傅』は、電通が発行、広告表現と雑誌編集を同時に、同じ範疇のテーマとして考える雑誌だった ⇒ 広告が雑誌の一部。43年廃刊?
広告も雑誌にとっては一つの情報提供の形と考え、柔軟に対応し居場所が作られた
夏目咲太郎というペンネームで『平凡』にも連載し、小説も書く ⇒ 作家として後世に影響を遺すことはなかったが、『平凡』の人気作家小糸のストーリーは岩堀と清水の合作
作家が編集者になることで作家的編集者が誕生、他にもその例はあるが、大衆風俗から政治経済まであらゆる人間的な営為を一つの水準線で捉え、それらすべてを同等の価値を持つものとして把握する発想や、言葉とは一線を画す絵、イラスト、挿画、デザインなど言語表現と同等の意味、機能を持つものとして認める柔軟性は清水だけの持つ特性

第7章        新雑誌挑戦
木滑(きなめり)良久と清水の間には一種、説明の使用のない独特の特別な繋がりがあった。木滑が平凡出版に入社した顛末は数奇なもの。会社始まって以来の大学新卒の新入社員
木滑は30年東京生まれ、立教大文学部史学科卒。ピカピカの進駐軍に憧れ、立教の広告研究会に所属して平凡出版に出入り。朝鮮特需がスターリン暴落に変わって就職難となり、岩堀の推薦でTBSを受けたが落ちて平凡出版に拾われる
当時の『平凡』は、『リーダース・ダイジェスト』に続いて百万部を突破する存在だったが、低俗な大衆娯楽誌として大学新聞の広告掲載すら反対されたほど ⇒ 大衆という言葉が一般化するのは54年の鶴見俊介著『大衆芸術』以降で、その頃『週刊朝日』が百万部を超える巨大雑誌出現の文化的な意味を探るべく岩堀の特集記事を書いて突如『平凡』が注目されるようになった
1960年『週刊平凡』の創刊に木滑がスカウト ⇒ コンセプトは「大衆文化を人間を通して報道する」 『平凡』と棲み分けさせるために毎号誌上を飾っていた美空ひばりを取り上げない編集方針をとる。創刊号の表紙はNHKの高橋圭三と都会派女優の団令子
表紙は、白バック全身、モデルは「みんなスターだ」という発想で、異分野の人の複数組み合わせ。センターのグラビアページの外注を請け負っていたのがアート・ディレクターの堀内誠一とカメラマンの立木義浩
広告ページはあまりなかったが、グラビアには必ずおしゃれなアパレルのファッション広告が入っていて、後にこの部分が平凡出版の雑誌作りを根底から変える
翌年には百万部を超え、編集長も2人体制となり、人材も加わるが、他方で『平凡』との境界が曖昧に
1964年『平凡パンチ』創刊 ⇒ 清水が直接編集を担当、『週刊平凡』は木滑に一任。1年半で百万部を超えるが、清水が編集を降りた途端部数が減少、67年に立て直しのために木滑が編集長に。70年に『アンアン』創刊のため転出するまで急回復させる
70年安保では、野坂昭如が安田講堂へ、三島由紀夫が騒乱の新宿へ、それぞれヘルメットをかぶり『平凡パンチ』の腕章を巻いて突撃取材し、落城した安田講堂に水攻めでふやけた『平凡パンチ』と『朝日ジャーナル』がたくさんあったという伝説が残る

第8章        守護神
牧葉金之助と甘糟章。平凡出版の黄金時代に貢献。牧葉は経営の具体策を一手に引き受けて政治を行い、甘糟は編集全体に欠かせない、多彩な才能を持った編集者
平凡出版の屋台骨を支えたのは、岩堀、清水に木滑、そのほかに守護神とも言うべき財務の牧葉と編集の甘糟(後の副社長)
1957年 岩堀の独裁体制から、社員の合議制へと移行させ、成績優秀な高収益体質の企業へと変身させた立役者が牧葉 ⇒ 11年生まれ。進駐軍で日本人従業員の労組の委員長を経験。52年嘱託入社、販売の現場責任者から、岩堀も清水も苦手だった会社の組織作りに着手、営業、総務、経理の実権を掌握。会社の立役者ではあるが、評判は良くない
甘糟は、29年横浜生まれ、東大文卒(22)、学研で4年受験雑誌の編集をやった後、平凡出版に入社、女性誌の雑誌発行に関わる ⇒ 入社後いきなり『週刊平凡』の特集デスクのキャップに抜擢。『平凡パンチ』の創刊とともに清水の編集部でも特集のキャップから、一時編集長をやるが病気で長期休養、71年『アンアン』の再建の編集長で戻る
木滑が自分が好きなことを中心にして同じ様な考え方や感覚の人たちと雑誌を作っていくのに対し、甘糟は芸能界の素人だけに、読者の側の情報を見極めた紙面作りをした

第9章        麒麟児
石川次郎と清水が初めて会ったのは、石川が高校生の195960年のこと。浜田山の出身で、木滑と共に雑誌創刊のスペシャリストとして大切に育て、頼りに模していた雑誌編集のニュータイプ、天才児だった
石川は、清水の娘と高校の同級生という関係から、『平凡パンチ』創刊号の表紙のイラストについて意見を求められたのがきっかけで清水から転職の誘いを受け、一旦は断るが、1年後の67年に入社。清水の顔面接だけで入社した最後の社員
木滑の下で『平凡パンチ』の立て直しに関わる
どこの出版社でも編集者たちの多くは、心の底では何とかして作家になれないものかと考えながら仕事をしていたが、石川には全くその気も編集者になる気すらもなかった
雑誌は誰のものか?という問題:
   編集長が作るモノで、編集長が絶対の権力者
   社員の編集者がいろいろに相談しながら方向性を決めて、皆で力を合わせて作っていくモノ
編集長とアート・ディレクターのどちらがエライかの論争に嫌気をさして木滑が辞めるが、これも元は同じ問題
平凡出版を辞めた木滑や石川の発想から『ポパイ』や『ブルータス』が創刊 ⇒ ロスに出掛けて目にしたアメリカ製品を『メイド・イン・USA・カタログ』と題して読売新聞社から出したのがバカ受けしたのを受け、その定期刊行化を計画、成功を確信した清水が木滑と石川に平凡出版に戻って刊行するよう説得。76年『ポパイ』として創刊、1年で11万部を、3年後には30万部を突破
次いで『ブルータス』に乗り出す

第10章     少数精鋭主義
清水と岩堀の平凡出版に君臨する様は、1619世紀のイギリス王国を連想させる。政治と宗教、理念と現実、法律と心情、2人は矛盾と亀裂を抱えたまま昭和という時代の波頭に立ち続けた
不世出のアート・ディレクター堀内誠一 ⇒ 32年向島の生まれ、父親もデザイナーで、子供の頃から家の中じゅう外国の雑誌だらけという環境に育つ。高一で中退、伊勢丹宣伝部の入社試験を受けて合格。清水が堀内の作品の見事さに惚れて、『週刊平凡』の創刊時の秘密兵器の1つとして口説き落とし、雑誌のセンターのグラビア「ウィークリーファッション」のすべてを任す ⇒ 『平凡パンチ』の「パンチ・メンズ・モード」へと形態を変えて受け継がれる
60年代後半、『アンアン』の創刊にあたって、『ELLE』の日本版として日本初めてのファッション誌を作るに当たり、堀内に任せる以外ないと確信した清水が持ちかけ、堀内が快諾して始まる ⇒ 社員は3,4人で、あとはそれぞれの専門家の協力を仰いだ
新編集システムへの挑戦だったが、必ずしも全編集者に理解されていなかったため、社員中心の本作りを主張する労組を通じて反対の声が上がり、挫折へと向かい、木滑が退社して甘糟の傘下で従来路線に従った雑誌作りが進む
男性誌は木滑が、女性誌は甘糟がという路線が出来上がる ⇒ 両者が競っていたのが黄金時代だが、次第にお行儀が良くて収益も上げていた女性誌のやり方が押し付けられるようになる

第11章     美神の非命
新谷雅弘は、堀内誠一のまだ57という若過ぎる非業の死について、悔しさを滲ませながら、ある雑誌の不成功が命を縮めたとして、2人は大きく傷つき、清水は堀内を失う
堀内は『アンアン』のアート・ディレクターを3年で引くが、その間「七面八臂の大活躍」(???)、そのセンスは『ポパイ』『ブルータス』でも存分に発揮される
1枚の写真を見せるだけですべてを理解させられるような表現が求められる ⇒ 清水も、雑誌は表紙が決まれが中身は自然とでいていくと考えたが、その発想を雑誌の中身の編集に持ち込んだ考え方で、その考え方の流れの中で全く新しい雑誌の開発に成功したのが木滑と石川だった
戦後の雑誌は編集技術的に言うと、「家型」と「列車型」
「家型」は、スタティックな材料並べで、読者の生活を想定して、対応した編集ラインで並べられていく体裁
「列車型」は、ダイナミックな材料の並べ方で、1つの特集テーマで雑誌全体を引っ張って勢いをつけるやり方
『ヒストリーズラン』という文学少年系の高校生のための甲子園を標榜して創刊された若者向けの珍しく硬派志向の雑誌 ⇒ 10代の少年兄弟が持ち込んだ企画で、マガジンハウスが創業40周年の記念事業として取り上げ。10代が創り、10代に贈る10代の雑誌として、志ある10代の少年少女に1つのステージを提供する試みとして利益を度外視して創刊を決める。誰も批判的で引き受け手がないまま、清水の懇請で堀内がアート・ディレクターを引き受けるが、編集責任体制不明確が致命傷となって創刊2号で廃刊へ ⇒ 清水の善意が仇になり、精神的な致命傷となる。堀内が病気で倒れ、清水も体調を崩す
87.8.堀内死去
直後に『平凡』『週刊平凡』の廃刊決定 ⇒ 年内で終了

第12章     歴史を拒む
『平凡』最後の編集長・田中實は、高木清が73.1.に発行部数を153万部に押し上げて見せたときに、現場のグラビア・デスクのエース的な存在だった編集者。80年代、彼は木滑や石川の雑誌作りとは全然異なる縛りを受ける編集仕事を経験しなければならなかった
田中は、44年生まれ、67年の新卒入社。83年から廃刊までの編集長
成功した雑誌をきちんと市場に位置付けして、しっかりしたマーケットシェアを確保して、長続きする商売にしようとする仕事をする人間がおらず、みんなが新雑誌の創刊を目指していたのが低迷の原因
80年代に入ってからの芸能界の変化が背景にある ⇒ 大きな区切りで、78年のキャンディーズの引退、ピンク・レディーは年末の紅白を辞退してアメリカに進出しようとして失敗、失速、81年解散、80年山口百恵引退、質的転換が起こる。古き良き芸能界の終焉
軽薄な男女アイドル・タレントの大量生産体制が確立 ⇒ テレビを中心に広がるコマーシャリズムの構造の中で出来上がったタレント・プロデュース・メソッドが芸能界の主流に
『平凡』の廃刊の原因の1つに、タレント事務所間のトラブルに巻き込まれたことがあげられる ⇒ 少年隊で売り出したメリー・喜多川が、目の敵にしていたボンド企画が対抗して少女隊なるグループを売り出したことに激怒、その少女隊にカラーページを相当割いていた平凡にも怒りの矛先を向けてきた。さらには、ジャニーズ事務所の中のランクに応じてページ数を割くことを要求してきたり、表紙が男女ペアーだったため藤井郁也(現フミヤ)が「自分が女装しようか」と言い出したのに乗った編集部の態度に、「そんなことを考える編集長の雑誌にうちのコは載せられない」といちゃもんをつけたりしてきた
広告収入を当てにせず、販売部数だけで利益を見込んでいた雑誌は、販売部数が落ちれば当然苦しくなり、どうでもいい存在になるのは当たり前であり、誰もそれに異を唱えなくなっていた
『週刊平凡』の廃刊については、タレントのスキャンダル記事中心の雑誌作りからどう脱却するかという問題であり、芸能界ではなく現実の芸能に関わる場所で生きている人間たちの世界をきちんと取材できるかという問題だったが、元々テレビのある茶の間の週刊誌として創刊したにもかかわらず、70年代には「テレビは敵だ」とする考えが出て、テレビとの相互補助的な共棲的な関係を模索することなくテレビに対して対立的であろうとしたまま、80年代に部数が落ちてもその考えが変わらなかった
清水は、芸能人のインタビューマガジンのようなものを想定していた節もあるが、既に同様の形態で商業軌道に乗っていた『ジュノン』のことを考えると、あながち清水のアンテナが狂ってしまったとは決めつけられないが、実現することはなかった

第13章     女たちの平凡出版
北脇八千代が、父・清水の思い出を『オーマイ パパ』として綴る。そこには娘の見た知られざる父の素顔が書かれ、死の直前の清水の無念についても触れている
清水の娘によると、「父はお金には潔癖で、いつも祖母と母が家計の遣り繰りに苦労していた。中学生の頃、『平凡』は知的な人たちからはミーハーの雑誌と見下され、優等生の私はなんとなく気にしていた。平凡休刊の時も、1つの使命が終わったと感じ、また流れが変わったら原点に戻って出す積りでいた。公私のけじめに厳しく、就職の時も頼んでくれなかったし、レコード大賞の審査員の時も年々エスカレートする付け届けに嫌気して部下に代わってもらっていた」
清水は、俳句を晩年の道楽としていた ⇒ 号「凡亭」、同人誌『淡淡』主宰。大津に淡淡美術館という初の俳句美術館をつくる(娘の嫁ぎ先? 12.2.閉館?)
清水の中には、右翼も左翼もなく政治的信条とは無縁に、無原理無原則にただ美しいものを讃え、楽しいことを面白がるという虚空のような「フィールド」に成立した過激な唯美思想があった
『平凡』と『週刊平凡』の廃刊に加え、『平凡パンチ』もやがて切り捨てることにより、空前の高効率の収益事業へと変身。その基盤になったのが販売収入を上回るようになった広告収入
清水にしてみれば、新雑誌の創刊によって、その雑誌に広告を出したがるような状況を作る、つまり新しい広告マーケットを創るということでもあったのだが、普通にしていてもどんどん広告が入ってくれば、いまさらこれ以上新しい分野の広告開発など余りしたくないということになる
糖尿が進行、88年心臓にペースメーカーを入れ、92年入院先の東邦大附属病院で固いパンを喉に詰まらせ、それが引き金で急死
雑誌編集とは何か
かつてのマガジンハウスが専売特許のようにしていた新雑誌創刊の要諦は、世の中に既に広く存在する一般的な価値基準をどう破壊し、それまであまり重要でなかったものや考え方にどういう意味を持たせて、世間の人に再評価させるかというところに第一義的な本質があった。読者調査や、過去の動向から、それを打破するにはどうすればいいのかの見極めには、編集者の創造や独創性(=独断)に基づく方向性の決定こそが重要
そういう編集者が死滅して久しいが、今なお創刊に編集者生命をかけている人がいるとすればそれは淀川美代子 ⇒ 『オリーブ』、『アンアン』(立て直し)、『GINZA』、『MAISHA(インテリアショップと幻冬舎が組んで創刊したインテリア・マガジン)

第14章     その死とその後
私は、清水の死んだ92.12.28.の日記に「会社を辞める準備をしよう」と書いて胸に去来する個人的感慨を綴る。石川も辞表を出し、私は『ガリバー』の編集長を解任(雑誌が廃刊)。会社を辞めたのはその10年後
清水の死と同時に、社内の人事抗争もあって石川が辞職。著者も辞める時期と考えたが、退職後の準備のために実際に退職したのは10年後の01年暮れ
97年には木滑も社長を退任(67)、吉森規子が社長になり、労働環境に大幅な規制がかけられるとともに、メンズ・マガジンの看板を降ろし、ただの女性誌の出版社に過ぎなくなる ⇒ 以降現在に至るまで何誌か新雑誌を創刊するがうまくいったものはない
情報氾濫のネット社会の出現の中で、情報整理と価値基準の創出が主たる役目の人、つまり編集者の時代であることは間違いない
雑誌が成功するかしないかは、その雑誌が読者の全く知らないことを語っているかどうかで、氾濫する情報の中からどういう世界を提示して見せるかということが雑誌の持つ力
96年 清水の孫・朝子が、大阪支社にフリー・ライターで関与した後、正式入社、『Hanako West』編集長の後、東京に移って『Hanako』の編集長に抜擢されるや否や、あっという間に低迷していた雑誌を立て直す
Hanako』の再生と復活がマガジンハウスの復活を示唆しているのかもしれないが、90年に444人いた社員は現在230名あまりに減少

最終章 再生
親は無くとも子は育つ、とでも書けばいいのだろうか。今マガジンハウスには黄金の80年代を作り出した無頼で蕩児のようだった編集者は木滑を除いて一人もいない。そのマガジンハウスが、若い編集者たちの力で、彼等のDNAを受け継いで、新しい形で甦ろうとしている
5年ほど前から「雑誌大賞」という催しが始まる ⇒ 13.3.グランプリは『ブルータス』で次が『ポパイ』
『ブルータス』は、往年の輝きを失ったもののなんとか30年間続いてきた雑誌で、受賞は2度目
『ポパイ』もあれこれ悪口を言われ出してからも20年続いた(創刊は35年以上前)が、漸く前年のリニューアルが実を結んでの受賞。創刊時の誌面の雰囲気に近づいたのが成功の秘訣。新編集長自らも”Magazine for City Boys”という当時のキャッチコピーの復活を宣言
現在のマガジンハウスは、20数年の不在、空白の後、新しく雑誌を任された編集者たちが、かつての雑誌の王国の時代を自分たちのDNAとして存在する歴史として考え始め、そのことを今の編集作業の中でどう生かすのか、そこのところに立って本を作り始め、古い雑誌を立て直す作業を続けているので、もう一度復活するかもしれない
雑誌再生の問題は、日本社会全体の社会体制の再構築とか、日本社会の未来像をどう構築し直すか、国家と民族をどうするかという事柄と結びついている ⇒ その中で、「自分はこういう風に生きて行こう」という意志的な決断とそのことに対する努力の中に再生への道がある



後書き 最後の編集基準を求めて
自分の人生のちょうど半分を投じた出版社と、その集団の首領だった編集者について本を書いたのは、「運命の手」の成せる業で、書きたいことが多過ぎて整理できないまま書き始めた ⇒ インタビューを始めたのは06年。『平凡パンチの時代』を09年に、『「平凡」物語』を10年に上梓
当初1800枚だった原稿を1100枚にまで削った。削除したのは大半が自分に関わる話
最後の編集基準とはなにか
未来の社会を支える、誰かに向けて、私たちの夢の残骸を語り継ぐことが、自分たちのような仕事について者たちの最後の役割だという気がする。いずれこの作品から削除した700枚の原稿も作品の形に編集し直して読んでいただこうと思う



雑誌の王様 塩澤幸登著 プランを練り続けた編集者 
日本経済新聞朝刊2013年8月4日付
 出版不況が続いている。こういうと、「読書離れが進んでいる」と声が返ってくる。だが売上の減少が激しいのは雑誌で、ほんとうは雑誌離れというべきだろう。雑誌が売れなくなった理由は複雑だが、よく聞くのは「雑誌がつまらなくなった」「つまらなくなったのは編集者がサラリーマン化したからだ」という意見だ。
(河出書房新社・3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(河出書房新社・3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
 じゃあ、昔の編集者はそんなにすごかったのか。すごかったのである。資料、後書きも含めて542ページもある本書を閉じて、あらためてそう思う。
 マガジンハウスは「アンアン」や「クロワッサン」、「ポパイ」、「ブルータス」などを発行する出版社である。おしゃれでかっこいい出版社の代表だ。この会社について、創業者のひとり、清水達夫の人生をたどりながら、創業から現在までを内側から描いたのが本書である。著者は1970年に入社して、「平凡」や「週刊平凡」、「平凡パンチ」などの編集にかかわった。
 雑誌にはいろんなつくりかたがある。最近はマーケティング重視の理詰めでつくる雑誌が多い。清水達夫はそうじゃなかった。つくりたい雑誌をイメージし、それを現実化し、世に問うた。もちろん読者を獲得するためにさまざまな工夫をするのだが、根底にあるのは自分のつくりたい雑誌をつくることであり、そんな雑誌が世の中に受けいれられたら愉快だろうという思いだ。
 清水達夫は、つくった雑誌を大きく育てることよりも、新しい雑誌をつくることに関心があったようだ。死ぬまで新雑誌のプランを練り、創刊号の表紙をあれこれ考えていた。
 本書は清水達夫の評伝であり、マガジンハウス(旧社名・平凡出版)の歴史であるけれども、それ以上に、著者自身の半生記でもある。社内人事をめぐるドロドロした話も出てくる。悪く書かれた人にも言い分があるかもしれない。でも、そういうことをひっくるめて、人間くさくていいじゃないかと思う。雑誌は人間がつくるものであり、出版社は人間の集まりだ。
 もしかして、雑誌がつまらなくなったのは、人間くささが希薄になったからか?
(フリーライター 永江朗)

雑誌の王様 評伝・清水達夫と平凡出版とマガジンハウス []塩澤幸登
[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)  [掲載]朝日 20130901   [ジャンル]政治 社会 
天才的な編集者の時代の証言
 『平凡』『平凡パンチ』『アンアン』『ポパイ』『ブルータス』などなど、時代を先駆けた雑誌を作り続けてきたマガジンハウス(平凡出版から1983年に社名変更)。そこに清水達夫という天才的な編集者がいた。
 本書は清水と共に「出勤時間も取材費の精算も仕事の進め具合も服装も自由、食事代は会社の負担」という驚くべき雑誌の王国を作り出す岩堀喜之助たち、戦後の個性豊かな出版人の来歴、発言を丹念に追う。同時に、著者の雑誌論も強く打ち出されるから、編集に興味のある者、携わる者には必読の書だろう。
 特に清水の先見性、編集方針のブレなさは学ぶべき点だらけで、新雑誌創刊によって「社会の文化の質や構造、大衆の生活内容まで作りかえてしまう」こと、マーケティングよりは「身近な誰かをモニターにする」こと、「雑誌は表紙だ」など、のちにファッション雑誌などの常識になっていくことが清水の哲学によって古くから導き出されていた様を、著者は描き出す。
 そして、広告収入が販売収入を上回る「八十年代の中ごろ」から、出版界全般で雑誌がマーケットの後追いになっていく姿も。つまり雑誌が売れなくても広告で収益が上がるシステム以降のことも。
 こうして、本書は清水達夫の精神を克明に浮かび上がらせながら、木滑良久、石川次郎と続く編集人脈を写し出し、同様に時代を伴走したスターや文学者のエピソードにもすいすい寄り道する。その筆致はまさに雑誌的である。
 評者である私も、実は雑誌編集から仕事を始めた。先輩に「雑多な情報をうまくまとめるから雑誌なんだ」とよく教えられた。だからなのか、本書を読みながら、先輩編集者から教えを乞うような気分が続いた。楽しく味わい深い時間だった。「雑誌が王様」だった時代の、それは貴重な証言であり、これから再び王国を作る時の忠告でもある。
    
 河出書房新社・3150円/しおざわ・ゆきと 47年生まれ。作家、編集者。70年に平凡出版に入社、01年に退社。



Wikipedia
清水 達夫(しみず たつお、19131022 - 19921228)は東京府出身の編集者マガジンハウス創業者、同名誉会長。
東京市日本橋区生まれ。父は鰹節問屋にんべんの大番頭。
立教大学予科で学生劇団や同人誌に参加。電通に入社してからは「宣傳」誌を編集したが、のち左遷されたので退職し、大政翼賛会宣伝部に入る。ここで岩堀喜之助と知り合う。
戦後、1945、岩堀の誘いで「平凡」誌を創刊。次いで「週刊平凡」「平凡パンチ」「anan」を創刊し、戦後を代表する大雑誌に育て上げて、雑誌の神様と呼ばれた。
事故死


株式会社マガジンハウス(MAGAZINE HOUSE, Ltd.)は、日本の出版社
若者向け情報誌『平凡パンチ』やグラビアを多用した女性誌の草分けとなった『anan』をはじめ、『ポパイ』『ブルータス』『クロワッサン』など数多くの雑誌を発行している。
旧社名は「平凡出版株式会社」。この社名は、戦前に講談社の娯楽雑誌に対抗するために平凡社が刊行し休刊中だった雑誌『平凡』の名前を譲り受けたことが由来である。平凡社との資本等の関係は無い。
平凡出版の発行による『平凡』は、戦後『明星』(集英社、現:『Myojo 明星』)とともに映画音楽で活躍する芸能人の情報を掲載した月刊誌として人気があった。しかし、創業者の判断により1987に休刊となる。
バブル景気時には流行を作り出す出版社として持て囃された。処女作を発表する以前から「小説家」を名乗ることで注目を集めた椎名桜子の売り出しにも深く関わった。しかし、バブル景気崩壊後の1990年代中盤以降はその勢いが低下するとともに、発行する雑誌の販売部数も低迷している。
最近は、低迷する出版界にあって「GINZA」「クウネル」「ターザン」「ポパイ」「カーサブルータス」「ブルータス」等、個性を発揮する雑誌を多数擁し、社名どおり雑誌というメディアの価値をしっかりと体現している。バブル期以降に創刊された雑誌には、架空の著名な人物の名前を冠することが多い。
略史
l  1945 凡人社創立、11月に雑誌「平凡」を創刊
l  1954 平凡出版株式会社に組織変更
l  1955年「平凡」発行部数140万部を突破
l  1959年「週刊平」創刊。
l  1960 「週刊平凡」100万部突破
l  1964年「平凡パンチ」創刊。若者向けの雑誌として一世を風靡する。
l  1965年「平凡パンチデラックス」(隔月刊)創刊。
l  1966年「平凡パンチ」100万部突破。
l  1968年「ポケットパンチOh!」(月刊)創刊。
l  1970年「anan」創刊。大型女性誌としてスタート。フランスの「エル ELLE」誌と提携した。集英社の「non-no」とともに人気雑誌となる。
l  1974年「スタア」(月刊)創刊。
l  1976年「ポパイ」創刊 "Magazine for City Boys"というサブタイトルでスタート。男性週刊誌のさきがけといわれる。
l  1977年「クロワッサン」創刊。ニューファミリー生活誌として創刊。
l  1980年「ブルータス」創刊。「男として生きる術を心得た、あらゆる男たちのために」が合言葉であった。
l  1981年「ダカーポ」創刊。「現代」が3時間でわかる情報誌としてスタートした。
l  1982年「エル・ジャポン」創刊。「Olive」創刊。"Magazine for Romantic Girls"というサブタイトルを使用した。
l  1983 会社名を「マガジンハウス」に変更。ニュージャーナリズム誌「鳩よ!」創刊。
l  1985 10代向け読者参加型雑誌「ヒストリーズラン」を創刊するも、わずか2号にて廃刊。
l  1986 フィットネス雑誌「ターザン」を創刊。
l  1987年「平凡」休刊。
l  1988 書籍部門開始、首都圏の娯楽誌として「Hanako」創刊。「Hanako族」などの流行語を生み出す。「平凡パンチ」休刊。
l  1989年「エルジャポン」を「クリーク」に誌名変更
l  1990 趣味の雑誌として「自由時間」創刊。Hanakoの関西版「Hanako WEST」創刊。
l  1993 ムック(ブックとマガジンの合成語)を本格的に発刊開始。
l  1994 「コミック アレ!」創刊。
l  1997 「ギンザ」創刊(月刊)。
l  2000 マン・イン・カフェ「リラックス」がリニューアル創刊。カフェブームの火付け役となる。建築とデザインのライフデザインマガジン「カーサブルータス」(月刊)創刊。読者参加型マガジン「MUTTS」創刊。
l  2002 PR誌「ウフ.」(月刊)創刊。「MUTTS」休刊し、「デジタルマッツ」を開始。
l  2003 ロハスブームに乗って「ストーリーのあるモノと暮らしを考える雑誌」、『クウネル』(隔月刊)創刊。
l  2004 コンサバティブな女性向けの雑誌「BOAO」創刊。
l  2005 夫婦で楽しむ生活をキーワードに「kakapo」創刊。
l  20068 リラックス休刊。
l  2007 「クロワッサンPremium」創刊(10)。「ダカーポ」休刊(12)
l  200811 BOAO」休刊。
l  20116 625日発売号の「クロワッサン」に、柳澤桂子のインタビューで発言した一部「放射線で傷ついた遺伝子、子孫に伝わる」を抜き出したものを掲載。ツイッター上で次々に指摘が上がったため公式サイト上で謝罪した。
主な発行誌
anan(創刊当初は「anan ELLE JAPON」)
クロワッサン(創刊当初は「anan famille クロワッサン」)
クロワッサンPremium
Casa BRUTUS(カーサ ブルータス)
janeジェーン)(ターザンの女性版)
クウネル
以前の発行誌[編集]
月刊平凡
週刊平凡(総合週刊誌)
平凡パンチ(若者向け週刊誌)
クリーク
自由時間
BOAO
Hanakoウエスト
ウフ
ベストセラーとなった書籍
『スピリチュアル プチ お祓いブック』(江原啓之
『図書館の神様』(瀬尾まいこ
『ダイエットSHINGO』(香取慎吾
『ベラベラブック-2』(香取慎吾・Sma STATION-2)なお、1巻目はぴあから発行。
『チョンマルブック』(チョナン・カン
出身者
吉田弘anan元編集長)
及川政治Tarzan元編集長)現在は有限会社ジョリーロジャース代表取締役編集者
石川次郎(編集者)
小黒一三(編集者)現在はソトコト編集長
ダグラス・クープランド(日米経営科学研究所プログラムに参加し、インターンとしてホノルルと東京でトレーニングを行い、東京ではマガジンハウスで勤務した)


百瀬 博教(ももせ ひろみち、19402月20 - 20081月27)は、作家詩人格闘技プロデューサー。日本スノードーム協会事務局長[1]血液型AB型。総合格闘技イベントPRIDEとの関わりから、「PRIDEの怪人」の異名を持っていた[2]
東京都台東区柳橋出身。侠客の百瀬梅太郎の次男として出生。学生時代は相撲取りを目指し、私立市川高等学校では相撲部を創設して、関東大会2位、国民体育大会に出場した。立教大学文学部史学科在籍中も相撲部に所属し、同大学の相撲部は、百瀬と交流のある周防正行1992に監督した映画『シコふんじゃった。』のモデルになっているという[3]
大学時代は1960から赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で用心棒を勤めた。そこで俳優石原裕次郎と知り合うことになり[4]「弟分」を名乗ることとなる。用心棒として23歳のときから拳銃の密輸を始め、28歳のときに拳銃不法所持により警視庁へ出頭。その後、裁判前に秋田県に逃亡したが結局逮捕され、6年間の刑務所生活を送り、その間に読書生活を送った[5][6][7]
34歳で出所し、処女詩集『絹半纏』を出版[8]1988に『新潮』誌上で文芸評論家山本健吉に認められる[4][9][10]バブル経済の最中、債権の回収を行なったり、株式運用を行なったが、バブル崩壊により無一文になった。並行して作家の曽野綾子の進言により『新潮45』で1989から『不良日記』を連載[4]1992から『週刊文春』で『不良ノート』の連載を開始、その他『週刊宝石』で『百瀬博教交遊録』を連載し、エッセイを執筆するなど作家として本格的に活動を始めた。日本文化研究家のエドワード・G・サイデンステッカーとは1989年に共著を出版。テレビ番組制作プロダクションイーストの富永正人社長と親交を持ち、イースト制作の番組に出演した他、イーストライツが出版する雑誌『Free&Easy』に連載を持った[11]
格闘技愛好家としても知られる。プロレスラーアントニオ猪木と親交を持ち、総合格闘技イベントPRIDEには1999から関わりを持っていた。メディア登場時には「FOREVER YOUNG AT HEART」(心は永遠の若者)とプリントされた黒い野球帽を常に被っている事でも知られていた。大手ネット掲示板2ちゃんねるでの通称は「ピーチ」。「百瀬」の読み、「ももせ」を「桃」としてその英語読みから取られたもので、猪木はそのニックネームを知ると「ピーちゃん」と気に入っていた[12]
20081月27午前240分ごろ、自宅を訪れた知人が風呂場の湯船の中で意識を失っている百瀬を発見。救急搬送されたが、同日午後3時半ごろ、死亡が確認された[13]。 死の3年ほど前から体調を悪化させていたという[14]。映画『タバコ・ロード』について書いた文章が絶筆となった[15]2月20青山葬儀所でしのぶ会「不良ノート」が開かれ、アントニオ猪木、ビートたけし周防正行EXILEHIROら約700人が参列した[16]
死後1年経って、東京地裁の管財審査の法廷で破産処理決定。借金まみれの無一文で死ぬ

格闘技との関わり[編集]

元プロレスラーのアントニオ猪木とは、1992頃に知り合う。高校時代の後輩で芸能事務所ケイダッシュとプロレス団体UFO社長だった川村龍夫新右翼活動家の野村秋介と猪木のトラブルの仲介を頼まれたのがきっかけだった[17]1990年代末頃から猪木とは接近し、猪木の詩集をプロデュースするなどした。
1999に当時格闘技評論家の谷川貞治から総合格闘技イベントPRIDEを運営する森下直人社長を紹介され[18]PRIDE運営会社ドリームステージエンターテインメントが設立される際には3000万円を出資したとしている[19][20]
以後、2003年までPRIDEに関わり、アントニオ猪木とPRIDEに結び付け[21]、自らもプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在で[22]、試合に勝った選手がリングサイドにいる百瀬に挨拶へ向うのはPRIDEの名物ともなっていた[23]
それまで協力関係にあったPRIDEK-1、猪木が2003年末に分裂し、アントニオ猪木がPRIDEを離れた後は、百瀬もPRIDEから姿を消した。その後は、K-1PRIDEに対抗する形で立ち上げた総合格闘技イベントHERO'Sで格闘家高谷裕之を応援する姿が見られた[24]



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