銀嶺に向かって歌え 小川登喜男伝  深野稔生  2013.7.31.

2013.7.31.  銀嶺に向かって歌え クライマー 小川登喜男伝

著者 深野稔生 1942年東京浅草生まれ。戦争末期に仙台に疎開。現在仙台市在住。公益法人日本山岳ガイド協会所属。無名山塾仙台塾長。広告デザイン事務所代表。20歳から登山を始め、文献と山を繋ぐ行為に自分の地平を見つける

発行日           2013.3.12. 印刷               3.22. 発行
発行所           みすず書房

「行為なくして山はない。情熱なくしては、いかなる偉大なことも起こりえない。山への情熱は、山に行くことの内に純化されるだろう。」(東北帝大山岳部ルーム日誌より)
小川登喜男(190849)。東京浅草の生まれ。旧制東京高等学校在学中より登山を始め、東北帝大山岳部(192831年在籍)では、草創期のスキー登山によって、蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍。さらに東京帝大山岳部(193134年在籍)では、谷川岳一の倉沢や幽ノ沢、穂高岳屏風岩、剣岳の雪稜などを初登攀した。昭和初年代を代表する天才クライマー
登山史ではその名のみ高い小川だが、ほとんど山行記を残さず、また肺結核で早逝したこともあって、登山の内実や人物についてはほとんど知られていない。伝説の””孤高のと呼び慣わされる所以である。著者はたまたま、東北大山岳部の部室に遺されていた日誌を目にする機会を得て、そこに小川等の生々しい肉筆を発見する。部室や蔵王小屋に集う岳友たちとの交情、山行報告、思索と随想、帝大生たちの青春、登山がロマンであり、文化であった時代――
日誌を基に、関係者の証言や稀少な文献を精査して、小川登喜男という稀代の登山家の肖像を初めて明らかにした力作評伝

本書執筆のきっかけは、1980年頃、東北大の山岳部室で小川の肉筆を見つけたこと。11.3.の東北大震災で遣り残してはならないこととして取り上げた。


第1話     国境稜線に立つ――1930年夏
717日 谷川岳一の倉沢の奥壁に挑戦 ⇒ クライミングにおける新しい時代の扉を開く。小川と田名部+1
谷川が信仰の山、生活の山から「近代スポーツの山」へ変わる転機は1920年。慶應義塾山岳部員だった大島亮吉(18991928)1927年に来て、「近くて良い山」と世に紹介。青学大の小島らが二ノ沢左俣を一の倉沢初登攀に成功、数日後東北帝大の小川パーティーが初見参で三ルンゼ(岩溝)を初登攀し、幽ノ沢、マチガ沢と初登攀を重ね、冬季初登攀にも成功
大島亮吉は、1929.7.慶應義塾山岳部部報に、谷川岳東面を紹介したが、その14か月前に穂高の4峰頂上から転落死。大島こそ、イギリス人登山家ママリーの思想を翻訳し、日本にアルピニズムというイギリスの文化を持ち込んだ人
成蹊から東北の山が登りたくて東北帝大に来た1年後輩(年は3つ上)の成瀬岩雄(190584)と、1930年末に冬山でばったり遭遇して意気投合。成瀬が大島と山仲間だったことから、小川の大島への傾倒が深まる

第2話     東北帝大山岳部の生い立ち――1923年春
創部は1923年。その前身は二高の山岳部で、1914年の創部

第3話     三日月のアヴェ・マリア――19284
1928年 小川入学。1921年設立の旧制東京高校の第1期生で、山岳部を作って山にのめり込んでいた
小川の登山記録で最初に現れるのが1924年の八王子の高尾山から小仏峠への縦走 ⇒ 後年世界的な指揮者となる朝比奈隆がお目付け役として同行
東京高校の同級には、日向方斎、清水幾多郎、内田藤雄(駐西ドイツ大使:『諏訪根自子』参照)、平井富三郎らがいた
25年には上高地から槍ヶ岳登山に参加するが、その後単身穂高岳までの槍穂縦走を敢行、17歳にしてはなかなかの難コースで、天賦の才を窺わせる
28年には三つ峠でのクライミングも実施
28年 相当の経験を積んだ新人として東北帝大山岳部に参加
部室には、ノートが置かれ、ルーム日誌として、部員が自由に思うことを書き連ねた
蔵王ヒュッテが出来てからは、ヒュッテンブッフも置かれるようになり、当時の様子を語るタイムカプセルとなる
1929.2. 厳冬の船形山に挑む ⇒ 小川と田名部。厳冬期に仙台から往復約60㎞の山越えを2日間で踏破した行動半径は類を見ない ⇒ 不確かな地形を行く山行で、地形図をとことん読みこなす技術を身につけていた

第4話     青木小舎に思索生活を探して――1929年冬
福島の西、吾妻連山の五色沼近くにあった元青木製板小舎で、昭和初期に五色温泉の宗川旅館が再興、青木小舎としてスキー・ツーリストたちによって吾妻連峰登山の足掛かりとされていた小屋。後に東海大が譲り受け、1962年「緑樹山荘」として再建されたが、冬は閉鎖
19298月 奥穂とジャンダルムの間に突き出るロバの耳ピークにチャレンジ。天狗のコルから岳沢へ通じる急斜面の雪渓で小川がグリセードで下り始めた後、田名部が続いたが突然前のめりになって転倒・落下、危うくガレた岩場に激突する直前小川が身を挺して田名部は九死に一生を得る
29.9. 蔵王小屋竣工 ⇒ 総工費1500円のうち、2/3以上は部員やOB、学内関係者からの募金。4647年の冬に倒壊
30.1. 東大スキー山岳部の剣沢での雪崩遭難、6人死亡 ⇒ 小川は、一度と言えど知り合った人物の遭難にショックを受け、自らの小さな怪我と重ねて山での避け得ないアクシデント、生と死の想念について想いを深めたのであろう
『銀嶺に輝く―報告と追悼』
東京帝国大学スキー山岳部(Tokyo Imperial University Ski Alpine Club = TUSAC
 TUSAC1923(大正12)年に誕生した。1930年代頃までの部には他の大学山岳部には見られない特色があり、これが後年まで続く自由闊達で体育会系運動部によくある上下関係の少ない、TUSACのチームカラーの源をなしている。そのひとつは、TUSACが旧制高校山岳部で既に第一級の登攀経験をもち、日本の登山界を代表する錚々たる群雄の集まりで、山仲間ではあっても上下関係のないサロンであったこと、もうひとつ、私大のように予科~大学という一連の続きがなく、また例えば三高~京大といった特定高校との結びつきもなく(一高~東大というのも戦後の神話)広く全国の高校から集まったため、先輩・後輩という意識があまり生まれなかったことである。(東大運動会スキー山岳部ホームページより)
 戦後は1959(昭和34)年10月の滝谷遭難で6名の部員を失うという悲劇があったが、海外に積極的に挑戦、1963年バルトロカンリ(7312)1965年キンヤン・キッシュ(7852m、遭難発生のため撤退)1971年チューレン・ヒマール(7371m)、1980年シブリン(6543m)、1984K76943m)などの登攀に成果を収めている。
内容
 1930(昭和5)1月、TUSACOB窪田他吉郎、田部正太郎、その岳友松平日出男、慶応大学学生土屋秀直、芦峅寺ガイド佐伯福松、佐伯兵次の6名が、剣岳登頂を目指して剣沢小屋で天候の回復を待っている時、大雪崩に襲われた小屋が壊滅、睡眠中の6人全員がその小屋の中で遭難死した。 120日、第2回捜索隊により全員の遺体が収容されたが、遭難から10日以上経っていたにも拘らず、窪田氏は収容直前まで生存していたことが分った。さらに遭難から4ヵ月半経った5月末、TUSACのメンバーが遭難跡から田部氏と窪田氏の手帳を発見、この手帳から遭難が19日であることが判明した。この二つの手帳は、遭難とその後の状況の説明と、近しい者達への遺書であり、遭難した両人の誠実な人柄を物語っており、死に直面した人間の悲痛な心境をありのままに伝えている。
 「銀嶺に輝く-報告と追悼」は、TUSACが遭難のあった年の7月に発行したもので、山行のための準備から遭難に至るまでの報告、雪崩発生の原因、捜索状況、遺書の解読、多数の写真からなる“報告”、窪田、田部両君の経歴、思い出などの“追悼”の2部から構成されている。雪崩の原因については、鶴ヶ御前(2776.6m)手前のコルから発生した乾燥新雪雪崩が、約400mの落差を流下して小屋を直撃したものと考えられた。
 「剣沢に逝ける人々」は、遭難に対する社会的反響が大きかったこと、「銀嶺に輝く」の購読希望者が多く、用意した600部では間に合わなかったことから、OB会である山の会が前著の報告を整理、一部訂正し、前著に入っていなかった他の4名の追悼も入れて、梓書房から翌1931(昭和6)1月に発行した。

第5話     谷川岳そして次なる径へ――1930年冬
1927.3. 大島亮吉が慶應の仲間と共に谷川温泉から天神平経由8時間40分で谷川岳頂上に立つ ⇒ 谷川岳積雪期の発登頂。5月以降執拗なまでの探索行が始まるが、一の倉沢の岩場は穂高の岩とは大違いで断念。他のルートを詰めつつ本腰を入れて探究しようと思っていた矢先、28.3.穂高で遭難
大島の死後谷川への入山者は増えたが、東面の岩場に手を付ける者はおらず、30年の清水トンネルの開通間近になって東面の岸壁を目指すパーティが現れ始める
30.3. マチガ沢から西尾根に上ってトマの耳に立ったのが東面における積雪期のバリエーションとしては最初の登攀
5月 法大隊が二ノ沢左俣を目指したが1名滑落して撤退 ⇒ 一の倉沢最初の遭難。急峻で逆層、登りやすそうな見た目に反してスリップしやすく危険。現在まで800を超える死者数は世界のワースト記録でギネス認定。
30.7.17. 小川と田名部らは登山者として初めて国境稜線に立つ ⇒ 大島亮吉の遺志を継いだ最初の人物となり、谷川岳登攀隆盛の予言へと結びつく。パノラマとなって聳立する奥壁群の1つを底の厚い金属鋲を打った登山靴で、1本のピトンも使わずに登攀したのは驚くばかり
小川の先鋭的で華麗なテクニックが、どこでどう培われたかは不詳 ⇒ 辛うじて自身の書いた紀行文から推測するしかないが、道具も技術も科学的に追求された時代ではなく、やはり本人に生来備わっていた才能だけが発揮されたとしかいいようがない
小川、「山へ行くこと、それは芸術と宗教とを貫く一つの文化現象である」
3日後に第三ルンゼ(岩壁に食い込む急な岩溝)を完登、31.7.幽ノ沢左俣第二ルンゼ、幽ノ沢右俣・右俣リンネ、マチガ沢・オキの耳東南稜、31.8.穂高岳・屏風岩第一(弟と)・二ルンゼ、31.9.清水トンネル開通、31.10.谷川岳・一の倉沢第三・四ルンゼ完登、9月衝立中央稜、10月烏帽子南稜、一の倉沢コップ状岩壁右岩壁・右岩稜付近、32.1. 積雪期の奥穂・岳沢コブ尾根、積雪期の前穂北尾根・涸沢側III峰間リンネ(山頂に向かう急な岩溝、ルンゼとも)32.2.積雪期の一の倉沢一ノ沢から東尾根、32.4.積雪期の剣岳・八ッ峠I峰東面・I稜から5.6のコル(単独)、積雪期の剣岳・源治郎尾根(単独踏破・下降)32.7.西穂高岳山域・明神岳五峰東壁中央リンネから中央リッペ(支稜)32.8.前穂高岳・中又白谷、33.9.一の倉沢衝立岩中央稜、33.10.一の倉沢烏帽子岩南稜(使用ピトン僅かに3)をいずれも初登攀
31.3. 法学部心理学科を卒業、仙台を去って東京帝大法科へ学士入学
東北帝大の卒論は『近代に於ける夢に関する学説に就いて』 同期卒に赤星他

第6話     闇に飛ぶキューエルスフロイド――東京帝大時代
山登りをするために学士入学しただけあって、入学と共に山岳部の部室に入り浸り
32.2.の一ノ沢では下りで同行者が転倒、連れ込まれる形で小川も倒れ込み、2人がもつれ合って空中を飛ぶように霧の中へと没する。周囲は観念したが遥か下方の雪崩の雪塊の上に怪我だけで生き残り、次の雪崩の直前間一髪で脱出。積雪期の一の倉沢から東尾根を登って国境稜線に到達した初の記録であり、積雪期の一の倉沢での初の足跡、記念碑的登山。積雪期初下降、ガンマルンゼの積雪期初下降と霧が無く、とにかく冬の谷川でこのようなことをやること自体破天荒 ⇒ 積雪期に次の登山者が来るのは23年後の19553
32.4.積雪期の剣岳の単独登攀では、18時間15分の連続行動。翌々日にはチンネの頭まで縦走(積雪期初)1907年の発登頂から25年、剣岳登山の進展には驚かされる
32.8.朝鮮遠征 ⇒ 東京帝大山岳部初の海外登山に参加、外金剛(ウェクムガン)にある仙峯山群の放射状登山を楽しむ。海外がブームになりかけの頃だが、ヒマラヤやヨーロッパアルプスはまだ手が届かなかった。東京帝大山岳部は各大学の山岳部の寄合所帯だったが、これを機に連帯感が強まる
33.9.一の倉沢衝立岩中央稜では、ヨーロッパの映画で見た、ピトンを使いザイルでの吊り上げ技術を導入

第7話     もう一度穂高へ――生のきらめきを求めて
国産のピッケル製造に一役買ったのは1年後輩の枡田定司(190848、列車事故死)で、KS磁石鋼を発明した本田光太郎博士に憧れ東北帝大に来て大学院に残り、金属工学の研究者となる。後にダイキン工業の創業者の娘と結婚、同社常務に ⇒ ニッケル・クローム鋼の山内ピッケル(鉄工所の名前)が誕生。
帝大卒業後の小川は、41年枡田の紹介で尼崎鉄工所(大同製鋼と合併)に就職
鹿島槍は、当時のエリートクライマーの最大の目標 ⇒ 積雪期の北壁初登攀は1935.3.今西寿雄(65年マナスル発登頂)等の浪速高校山岳部員が達成
小川が近代登山の本質について言及、「ひとたび、激しい行為を通して強い生命の喜びを知り得た者にとって、心はただ自然を愛する自由な旅人ではなくなっている。彼の眼にはやはり山の美しさが映っている。彼自らの意欲によって開かれた山の激しい美しさが目覚め、その美が彼の心を惹きつけ、彼の魂に息苦しいまでの夢をつくり出す。その時山は、彼自らの生命をもって贏()ち取ろうとするプロメテウスの火となるのだ」
きらめきのない人生など不要。本当の生こそ死の向こう側にあり、それ以外に欲しい瞬間など存在しない。命をかける時、命は輝く。今日でも多くの登山家や冒険家に普遍的なテーマと言える
工場のベルトコンベアーに挟まれる事故で指を数本失い、小川の登攀人生は終りを告げる
45.8.6.阪神大空襲は四日市に赴任していて免れたが、2831年のアルバム以外すべてを失う
1948年肺結核、翌年死去



銀嶺に向かって歌えクライマー小川登喜男伝 []深野稔生
名ルートを拓いた登山家の情念

 なぜ人は山に登るのか。これは山に登らない多くの人が首をひねり、山に登る多くの人が回答を避ける、人間の実存に関する難問だ。その答えはありきたりな一片の言葉ではなく、山に人生を賭けた人間の行動と情念の中からしか見つからない。
 小川登喜男は1930年代に魔の山谷川岳や穂高岳の岩壁に名ルートを拓いた登山界の伝説の存在である。といっても今では多くのクライマーにとってさえ、岩壁登攀のガイドブックに初登者としてその名が記されているから知っている、というぐらいの謎の人物であろう。どういうわけか彼はほとんど山行記録を残さなかったらしい。
 東北の雪山や岩山で実績を積んだ小川は、慶応のイデオローグ大島亮吉の言葉に導かれるように谷川の岩壁に足を踏み入れる。鋲靴(びょうぐつ)やしめ縄みたいなロープなど、今では信じられないような貧相な装備で、今でも十分登りごたえのあるルートを次々と切り拓いていった。頼りになるのは蝶が舞うような登攀者としての天賦の才だけだった。
 大学山岳部のノートに残された思索的な言葉が印象的だ。彼は言う。登山とは「芸術と宗教とを貫くひとつの文化現象」であり、「強く激しい心の働きは芸術の創造における態度に」近づくと。その言葉は今でも山に命を削る者の気持ちを代弁している。登山家は風景や自然を楽しむのではない。画家が画布に情念をぶつけるように岩壁や氷壁に一本の美しいラインを描くために登るのだ。彼が記録を残さなかったのは山にすべてが表現されていたからに違いない。
 山はすべてを与え、同時にすべてを奪いもする。工場事故で指を失い、山を下りざるを得なかった彼の余生は、私には無惨に思えた。その後、結婚し平和な家庭生活を送ったというが、そこに本当の笑顔はあったのだろうか。
 命の瀬戸際に立つからこその光と影を見た。
    
 みすず書房・2940円/ふかの・としお 42年生まれ。日本山岳ガイド協会所属。『宮城の山ガイド』など。


Wikipedia
小川 登喜男1908 - 1949)は、日本の登山家東京都出身。
東京高等学校 (旧制)東北帝国大学東京帝国大学で、山岳部に属し、スキー登山により、蔵王八幡平で活躍し、東大では、谷川岳一之倉沢穂高岳屏風岩、雪稜などを初登攀した。 肺結核で若死にし、長く、その登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記の精査により、近年、伝記が上梓され、昭和の天才登山家と評されるまでになっている。


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