キャプテン・クック 世紀の大航海者  Frank McLynn  2013.6.7.

2013.6.7. キャプテン・クック 世紀の大航海者
Captain Cook: Master of the Seas          2011

著者 Frank McLynn 1941年生まれ。著述家、歴史家。ストラスクライド大(グラスゴー)客員教授のほか、複数の大学で教鞭をとった。本書を始め、ナポレオンやR.L.スティーヴンス、ユングと言った人物の伝記を手掛け、近年はマルクス・アウレリウスについての著書も出版

訳者 日暮雅通 1954年生まれ。翻訳家。日本文藝家協会会員。日本推理作家協会会員
日本におけるクック航海記の伝記刊行のエポックは、1990年初めのビーグルホール編による『17,18世紀大旅行記叢書』で、クックの航海日誌を編纂したもので、ビーグルホールのライフワークでもあり、クック伝の定番だが、それから40年を経て進んだ研究成果を踏まえ、「さらに生き生きとした筆致で」「資料や証拠、クックのキャラクターをさらに深く読み込んでいる」と言われるのが本書

発行日           2013.3.31. 第1刷発行
発行所           東洋書林

第1章        ヨークシャーの徒弟            A Yorkshire Apprenticeship
クックは測量士として、また星を利用した航海士としても非常に高い能力を持っていた。彼の数々の発見と、それを正確に描写した地図は、同時代の人々にとって計り知れない助けとなった(各章冒頭に掲載)
クックを最初に海へいざなったのは石炭 ニューカッスルからロンドンへ向かう石炭運搬船で経験を積み、さらにバルト海の材木輸送ルートを知るようになった
陸上の発見における最も輝かしい功績は、ヨーロッパ人探検家によってアフリカで成し遂げられている ⇒ アフリカ探検5人組: リヴィングストン、バートン、スタンリー、スピーク、ベイカー。いずれも上流階級の不適合者やはみ出し者(バートン、ベイカー、スピーク)か、極貧や窮乏という生まれを克服した者のどちらか
クックも後者
肉体面でこの上なく恵まれていたクックは、17歳の時港町で溢れかえる漁業と大洋の話に大海原に乗り出していく興奮を感じ、商船員としての技能を学べることを期待して3年の年季奉公に行く ⇒ 決定的な転換点となり、帆船を操る技術習得に天賦の才を示す
トマス・ジェファソンが後に語ったように、イギリスの優れた船乗りは常に、ニューカッスルからロンドンまで石炭を運んで仕事を覚えた船員たちだった ⇒ 北海は100ftの波が起こり予測のつかない強風でも悪名高い海、慎重で熟練した腕前が必須
航海士として3年足らず、見習いから初めて9年で異例の航海長の地位を提示されたが、それを蹴って海軍へ
英国海軍は、18世紀において昇進が能力主義で行われる唯一の組織であり、捕獲した敵艦の価値に従って直接分配が受けられる旨味があったため、野心的な男が選択する理に適った場所であり、クックがクエーカーという背景と影響からほぼ完全に脱却したと思われる ⇒ 元々権力崇拝者であり、信仰には無関心

第2章        七年戦争                         The Seven Year War
〈ペンブローク〉の航海長として7年戦争の頃ハリファックスで越冬したクックは、ノヴァスコシア沿岸の海図を作り、測量に関する新たな手法を展開
1755年 海軍入隊。60門艦〈イーグル〉に配属。一介の水平としての入隊だったが、すぐに才能を認められて航海士に昇進
北アメリカを巡る英仏戦争の勃発で、イギリスは海軍力を強化、各地で仏海軍を撃破
クックの傑出した海図が勝利に貢献

第3章        ニューファンドランド島の地図製作  Charting Newfoundland
1765年クックは〈グレンヴィル〉の船長として、フォーチュン湾を含むニューファンドランド島沿岸の測量を行う。彼自身の名前で出版することを海軍本部が許可したその地図は、政治的にも商業的にも大きな価値を持った ⇒ 航海長に昇進
1763年には北米大陸の東海岸からフランスを一掃、クックも小さなスクーナーを与えられ、初めて自船の船長となり、その船の名前を新首相の名に因んで〈グレンヴィル〉と命名
1764年 自船〈グレンヴィル〉でニューファンドランド島の測量を開始。66年には現地で日蝕も観測して天文学者としても非凡なところを示す
67年 探査の総決算として詳細な地図が完成 ⇒ 後の自身による太平洋の偉業でかすむ結果となるが、17631775年はニューファンドランド島における英国漁業の最盛期であり、通算5年に渡る彼の仕事がその成功を可能にしたと言っても過言ではない

第4章        太平洋での挑戦                 The Challenge of the Pacific
壮大な南方大陸(テラ・アウストラリス)”が存在するという可能性に多くの人が魅了され、海軍本部がクックを最初の航海に派遣した理由の1つもそれだった
68年まではとても教養ある人間とは言えなかったが、ニューファンドランドから新しい世界へと解き放たれた後は、人類学、言語学、植物学という新しい学問を受け入れ、熱心に独習することで優秀な海軍技師から知的好奇心溢れる、自ら学びとる人間へと変身、ほとんど学者とも言える知識を持ってさらなる業績を上げていく
これを可能にしたのは、絶対不可欠なナポレオン張りの幸運をクックが持っていたこと
金星の太陽面通過を正確に観測したいという強い要望を持つ王認協会が、海軍に支援を要請、海軍は68.4.クックを海尉に昇格させたうえで、金星観測のため南太平洋へ派遣
太平洋を初めて横断したのは、ポルトガルのマジェラン率いるスペイン艦隊で、1520年南アメリカの南端を経由、あまりに順調な航海のために99日間すべての列島を見過ごしたのちグアムに到着、そのあとフィリピンのセブ島に上陸して現地の政治と戦いに巻き込まれて客死、5隻のうちの1隻だけが面目を保つに足るクローブの貨物と共に喜望峰を経由して母港に帰りついた ⇒ 太平洋の大きさが地球表面の1/3にも及ぶことを明らかにするとともに、スペインの支配を太平洋全域に拡大することに貢献
スペインに次いで太平洋の探検をしたのがオランダ。東インド会社の保護下もあって、ジャワからオーストラリアに初めて上陸。徳に活躍したのが1643年タスマニアを発見したアベル・ヤンゾーン・タスマン
フランスも七年戦争直後に「太平洋熱」が起こり、優れた数学者で冒険家のブーガンヴィルが国の指示で世界周航に派遣された ⇒ フォークランドのスペインからの引き渡し、新しい中国へのルートの開拓と、本国に持ち帰る未知の植物の発見を目的に、176768年に完結。68.4.タヒチに到着、「新シテール(”新たなる快楽の島")」と名付ける
イギリスの太平洋探検が始まったのは七年戦争で勝利を挙げてから
1767年イギリス海軍のウォリス艦長がヨーロッパ人として初めてタヒチ発見 ⇒ 原住民の抵抗を受けながらヨーロッパ水兵とポリネシア娘との熱烈な性交渉の最初の例となり、2つの文化の間の関係を特徴づけ、そして損なうことになる
南緯40度に人口50百万以上の巨大大陸があるというまことしやかな話が冒険家の心をくすぐったが、1760年代の世界周航者4人すべてがその存在の兆しすら発見できていなかった
基本的に、太平洋は風と潮流については合理的に予測できる大洋で、大洋の両端である北緯3055度の間と南緯25度以南では信頼性の高い偏西風が支配しているとはいえ、暴風で時化ている。そのほかに信頼性の高い風としては、北緯15度付近から25度の間で吹く北東の貿易風と、赤道から南緯20度の南東の貿易風があった。東太平洋の南赤道海流はペルーからフィリピンまでの定評あるガリオン船ルートとなり、一方の西太平洋の黒潮と北太平洋海流、カリフォルニア海流がマニラからアカプルコへのガリオン船の帰路ルートとなった
クックの船は〈エンデヴァー〉369トン、3本マスト、106名で出港、公式の科学者(植物学者と画家を乗せた初の太平洋航海となり、それまでで最高の科学的探検航海となる。グレイハウンドや羊等生きた動物も積み込む。驚くのはアルコールの量で、1日当たりの配給量はビール1ガロン、あるいはラム酒1パイントで、船員は航海中殆どほろ酔い気分だったと当たり前のように記録している
壊血病の予防策は既に発見
早くから緯度は正確に求められたが、18世紀初頭では経度測定は遅れていた ⇒ 海上で正確に動き続ける時計が考案されていなかったためで、クロノメーターの改良により問題は解決

第5章        タヒチとの初めての接触      First Contacts with Tahiti
1769年タヒチで測量して作った地図(73年出版)は、沿岸部の内陸航行の技術と陸上の三角測量による技術を巧みに組み合わせた傑作だった
クックへの指令は、金星観測のほか、南方大陸の探索、タスマンが報告していたニュージーランドの測量であり、先住民、土壌と熱帯産物・鉱物・植物の調査と標本の採取
68.9. マデイラ島(北大西洋の現ポルトガル領)を出発、リオ、ホーン岬経由で南太平洋へ
     ノローニャ島:現代の航海者のほとんどがリオから北東に太平洋を進むと必ず行き当たる島
従来のマジェラン海峡(南端から若干内陸に入ったルート)経由に代えて、ル・メール海峡からホーン岬(南端)を通過したが、世界中で初めてと自賛された両地点の正確な経度の測定によってこのルートがその後のパナマ運河開通までのすべての船にとっての好ましいルートとなる
69.4. セント・ジョージス島(タヒチ)到着 ⇒ 若干の抵抗を受けながらも原住民族から歓迎。問題はタヒチ人の盗癖と、性交渉の見返りに鉄を要求されたため船内の釘などの鉄製部品が船員によって盗まれたこと
好天にもかかわらず金星の観測には失敗 ⇒ 「薄暗い陰」に覆われていて正確な観測は出来ないというのが科学的結論
タヒチ島の測量をした後、地元の聖職者ツパイアとその従者を乗せて移動

第6章        快楽(キュテラ)の島            The Isle of Cythera
タヒチ人ツパイアが〈エンデヴァー〉によるポリネシアの無数の島々探検の有能な水先案内人となるが、クックと乗組員はソサイエティ諸島の社会構造についてもっと注意深くなるべきだった
クックは3回の航海で3度タヒチを訪れ、タヒチ人に対する態度は積極的かつ好意的、子細に観察して記録を残しているが、あくまで現象面に留まり、文化の深い構造や深い意味のほとんどを見過ごしている ⇒ 宗教にしても社会の組織にしても当時のヨーロッパを基準として見ようとしたための限界で、宗教は4つの主神だけの多神教であり、権力は垂直方向と水兵方向(=地域的)に分配され、権力と影響力の核心はマナと呼ばれる聖俗両方の魔術的力と考えられていた
皮肉なのは、性という好奇の対象となる問題の陰となって、クックの偉大な発見と大洋制覇が無視されてしまったこと ⇒ クックは、職務が妨害されたり性病がさらに広がらない限り水兵と現地女性との性関係に関しては寛容ではあったが、基本的には不道徳と見做していたために孤立、ヨーロッパ人とポリネシアとの接触における最も有害な遺産として太平洋の島々を「新たな快楽の島」として広めた責任をブーガンヴィルに負わせたのは、今でも生きている太平洋のそのイメージを広げた責任が根本において不寛容だったクックにあるとも言える

第7章        オーストラレイシアでの苦難 Peril in Australasia
ニュージーランドが有名な南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニアタ)”でなく、単なる島であることを証明するため、クックは暴風の中で島を周回し、根気強く測量
69.10. ニュージーランド到達 ⇒ 好戦的なマオリ族との衝突を繰り返しながら、測量のための全島の周回航海に成功、超自然的なまでに正確な地図を作製
南緯40度より先についての見通しは出来ないまま、「新オランダ(オーストラリア)」の東海岸とニューギニアの探索に向かい、新オランダの陸地全体をニュー・サウス・ウェールズ“」と名付け、ジョージ国王の名の下に全体の占有を宣言。グレートバリアリーフの岩礁に船を致命的なまでに傷つけられながら、浅瀬や珊瑚堆、低島を辿る航路を明確にした業績も忘れられない。さらにニューギニアに向かいオーストラリアとは別の陸地であることを証明した後で、敵意あるメラネシア人との遭遇を避けバタヴィア経由で帰路に就く

第8章        故国へ向かって                 Homeward Bound
帰路の海域は、広範囲にわたってオランダ人航海者による海図に記されていたものの、現存するオランダ領東インド諸島の地図は不正確で不明瞭だが、より強力な海運国(イギリスを念頭に置いていた)に領地を占領されることを防ぐために意図的にそうした場合もあった。クックが〈エンデヴァー〉による最初の航海を終えて故国へ向かった時も、地図から読み取れる期間より長い日程を要した
70.9. ティモール島着
71.1. バタヴィアを発ってインド洋に向かうが、赤痢の蔓延で僚友の多くを失う
71.3. ケープタウン着、71.7.ディール帰着により世界周航完了
71.8. ジョージ国王に拝謁
72.3. 第2回目の航海のため海軍が2隻の艦船を購入、クックが後に〈レゾリューション〉(426t)と命名される船の指揮官に任命される。もう1隻は〈アドヴェンチャー〉(340t)

第9章        南極大陸                         Antarctica
2度目の航海における合計3回もの南極海への探検航海は、恐らくクックの発見と航海における最大の偉業。他の船乗りが漸くクックの最南端地点を超えたのは19世紀半ば。彼の全航海範囲を航海するには20世紀の蒸気機関の技術を待たなければならなかった
クックの2度目の航海で、〈レゾリューション〉の乗組員たちは4か月の間地獄の様な南極海の航海に耐えてきた。その彼等にとって、ダスキー湾は至福の投錨地だった
72.8. ロンドン発、アフリカの西海岸沿いにケープタウンに下ったのを序幕として5
1幕は72.11.4か月でケープタウン出発から南極大陸を目指した南の大洋への航海 ⇒ 海図なき海域で、100日間、100ftの波があったという荒波にもまれ、寒さと戦いながらも氷山の一角を確認、731月に史上初めて南極圏(南緯6636分、東経3935)に入り、3月ニュージーランドに到達

第10章     トンガ人とマオリ人            Tongans and Maoris
クックが77年に発表した南極航海の記事には、南太平洋にある数多くの島の緯度・経度がクック自身によって測量され、記されている
2幕は、73.4.~ 南緯45度のサウス島の南端を目指す ⇒ 悪天候に祟られながらも、タヒチに到着、さらに西のトンガタプ島経由でニュージーランドに戻る

第11章     太平洋の制覇                    Mastering the Pacific
ニューヘブリディーズ諸島(現在のバヌアツ)は、クック以前の探検家によって地図に記されていたが、彼はこの諸島すべてを入念に測量した地図は、優れた測量技術と地図作成法が実を結んだ傑作の1
3幕が73.12.~ 南東へ針路を取り、南緯62度で再び流氷野に突入、64度で氷山との衝突の危険に巻き込まれながら12月に2度目、翌1月には3度目の南極圏へと入り(南緯109とあるが、西経の誤り?)、彼にとって最南端となる71(西経106)に達する ⇒ これほどの南までスループ帆船で侵入したのは驚異的な偉業
4幕が74.4.~ タヒチで船の補修と食料を調達した後、南西に向かい、フィジー、エスピリトゥ・サント島、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)の観測を通じてすべてを地図にすることを考える

第12章     失われた地平線――南方大陸 Lost Horizon: The Great Southern Continent
クックの2度目の航海における南極海奥地への探検は、困難と危険に満ちたもの。最初の氷山に出会う直前に発見した島は、彼が当時の君主に因んでジョージア島と名付けた。クックはこの島の入り江や岩礁の多くに、ときとして手に負えなくなる反抗的な乗組員たちの名前を付けた
バヌアツの後、74.9.すぐ西の地図に載っていない島(太平洋で4番目に大きな島)に到達、
ニューカレドニアと命名(カレドニアはクックの故郷スコットランドの古名)して探査した後、ニュージーランド経由南へと向かい、クック海峡(北島と南島の間)経由ホーン岬に向う
5幕は75.1.南米南端のフエゴ島を出たところで猛烈な強風と吹雪に遭遇、島を離れたところで大浮氷群の北端となるクック言う所の放れ氷loose ice”に出会い、その後北に転じて、自ら君主に因んでサウス・ジョージアと名付けた新しい陸地経由、故国へ戻る
連続する巨大なうねりが、南方大陸はでっち上げとは言わないが夢物語だとクックに再確認させる
2度目の航海は、彼の功績において頂点をなす。広大な南洋を探検し、南方大陸の存在を論駁。南太平洋の主要な諸島のほとんどを地図に記し、経度を確定することによって、以前の発見のすべてが全体の中で意味を成す整合性のある大洋地図を作り上げた
僚友船の〈アドヴェンチャー〉がロンドンに連れ帰ったタヒチ人・オマイは、クックが戻った時にはすでに社交界で引っ張りだこだったが、クックは批判的だった

76.2. 3度目の航海の話が起こり、改装された〈レゾリューション〉に加え、最新型の〈ディスカヴァリー〉(298t)に決まる ⇒ 目的は北西航路の開拓。喜望峰からインド洋経由でタヒチに入り、シベリアのロシア海域までアメリカの太平洋岸北西全てで詳細測量を行う
1,2回目の航海で手を焼いた科学者(植物学者、バンクスとフォルスター)は、今回連れて行かず

第13章     最後の航海                      The Last Voyage              
ヴァン・ディーメンス・ラント(タスマニア)住民に幻滅を感じ、また逆風に航行を遅らされたクックは、島を一周しようとせず、そのせいで地図も本当は繋がっているように描かれている
76.7.ケープを目指して出航、104度目のケープタウン訪問、12月ケルゲレン諸島(南緯49度、東経70)発見
クックの人が変わり、より狭量になり、船員への鞭打ち刑の回数が増えるとともに、乗組員より「野蛮人」を大事にしているのを見て、乗組員の間にクックへの侮蔑の念が広がる

第14章     最後のタヒチ                    Tahiti: The Final Phase
3度目の航海におけるクックは、かつての優れた探検家とは変わっていた。タヒチへ向かおうとして、季節風を読み違えフレンドリー諸島(トンガ諸島)に港を見つけたものの、予想外に長引いた逗留期間中先住民による盗みに悩まされる
77.9. タヒチを発って北東へ向かう

第15章     幻想を追って――北西航路    Quest for Illusion: The Northwest Passage
有名な北西航路の発見の試みが失敗に終わり、それまでに存在したベーリング海峡とアラスカ及びシベリアの沿岸線の地図が不正確であることが判明。クックは後世のため、その改訂に注力。トマス・コンダーによる178486年の地図には、クックの航路(1778.8.9.)とともに、彼の死後〈レゾリューション〉と〈ディスカヴァリー〉の指揮を引き継いだチャールズ・クラークの航路(1779.7.)も書き込まれている
77.12. クリスマス島(現キリバス共和国)に到達、翌1月にはハワイ諸島を発見(クックにとって唯一の「最初」の発見)、食料が豊富で安いのに驚く
78.3. オレゴン到着、北米大陸西岸を北上、ベーリング海に入って、ベーリング海峡を超えてシベリア東岸まで達し、「氷のない」北極海に向けての航海が始まったが、北緯70度を超えると1012フィートの堅い壁の氷原が海面の上に浮かぶ。ベーリング海特有の氷棚で北極まで航行できる可能性はなかった
78.8. 自身の最北端地点となる北緯7044分に達して南下。帰りのアラスカ半島ではロシア人の毛皮商人とも会って物々交換した後、ハワイに向けて出発

第16章     ハワイの悪夢                    Hawaiian Nightmare
クックは1778.11.にサンドイッチ諸島に戻ったが、理由不明だが翌年1月まで上陸せず。航海図には何週間もの間ハワイの北沿岸を奇妙なジグザグの航路で動いていたことが記されているが、乗組員を懲らしめようとしたためか、それとも先住民を護ろうとしたのか、あるいは目的を失っていたのか不明
ハワイへの途上、今回の航海中最悪の凶暴な嵐に遭遇
ようやく辿り着いたハワイでは、7週間にもわたって荒れる海に艦船を漂わせるだけで、上陸しようとしなかった ⇒ 理由は不明だが、既に艦長と乗組員の間には悲惨な断絶が生じており、船員を罰するために強行した可能性もある
クック自身の統率力にもほころびが見えるとともに、長い航海で露呈した艦船の欠陥について海軍委員会の無能さを雄弁に攻撃し始める
年明けに漸くハワイ島西岸ケアラケクア湾に投錨、暫くは原住民とも友好的な関係がつづいたが、次第に険悪な関係となり、特に食欲旺盛な水兵たちの長期滞在が島の貧弱な食糧事情に深刻な影響を与え始めていたところから、2月初め測量のための航海に出発することを決め地元部族とも盛大な別れの儀式をしたものの、艦船の損傷のひどさに、クックは上陸して大掛かりな補修が必要と考えケアラケクア湾に戻る

第17章     ケアラケクア浜の悲劇         Tragedy on Kealakekua Beach
ケアラケクア湾 ⇒ ハワイ島コナから南へ3040km
嵐で傷んだ〈レゾリューション〉を修理するためケアラケクア湾に戻るという可能性を喜んだ者は乗組員にも先住民にもいなかった
戻ってきたクックに対し、部族長が約束が違うと怒って住民を扇動、昼間の熱気から守るためにアンカー・ブイに係留して沈められていた大型カッターを盗んで解体。流氷海域で先導役となる大型カッターを失えば北西航路の探索を放棄するしかないクックは、地元民のカヌーを差し抑えるため湾を封鎖するとともに自ら武装部隊を率いて上陸、族長を連行しようとして住民と揉め、武力で威嚇したのが仇となって窮地に。海で待機していた部下ウィリアムスンに迎えを要請したが、クックに敵意を抱いていた指揮官は沖に留まり、クックは戦士に殴り殺される
           〈バウンティ〉の氾濫
クックの死にはいくつもの疑問が残る ⇒ 海兵隊員たちの悲惨で杜撰な行動の謎(マスケット銃は半分の兵が発砲している間に残りの半分が再充填するのが当たり前にもかかわらず一斉に発砲していたり、海兵隊員たちが銃剣もつけずに断固たる攻撃を行わなかったり)。最も卑怯なのはウィリアムスンで、このときは部下を買収して証言をさせなかったが、その後不当に勅任艦長に昇進したものの79年のオランダとの海戦で臆病な行為で軍法会議にかけられ海軍から追放されている
悲劇の「鍵」として通説となっているのは、3度目の航海に出たクックが置いて疲れており、頑固さと短気の度を強め、海軍本部の命令と扱いにくいポリネシア人、太平洋の苦難の3つからくるストレスに耐()えられなくなったというもの
残された〈ディスカヴァリー〉の指揮官は、報復より外交を選択、遺体の回収を交渉するが、既に細断され一部は焼かれたことを知って報復に動いた結果、遺体の一部が返還され正式な葬儀が行われ、地元との関係にも部分的に平和が戻る
カメハメハはクックとの経験から、白人との同盟こそが進むべき道だという結論を出し、やがて彼は全ハワイ諸島の支配者となる
多神教の神の1人と見做されていたクックは、死後も神と真剣に考えられていたことは疑いなく、その後島を襲った数々の不運――火山の爆発、性病、絶えず続く戦乱――はクックの報復だとさえ考えられ、彼の怒りをどう宥めればいいのかとヨーロッパ人が尋ねられるほどだった
その後2隻はカムチャッカで補給を受け、再度北西航路探索に乗り出すが、氷に阻まれて正式に探索を断念、樺太から日本の測量に向かうが79年は嵐の年で断念し、そのままマカオに向かう。インド洋、喜望峰を経由して10月テムズ川に投錨

終わりに                                    Conclusion
当時最高の探検家だったクックは、世界中のあらゆる場所を航海し、既に知られている場所についても驚くほどの正確さで地図を作り直した
偉大な陸上探検家ヘンリー・モートン・スタンリーと比較すると、2人とも極めて優秀な技術と冷徹な野心を持ち、無慈悲で、そして極限にあっても目的を果たすために危険から尻込みしようともしなかった。性的衝動を栄光への渇望に昇華させたように思える
クックは、その航海で地図と知識の体系にハワイとニューカレドニア、ニューヘブリデスを加えた。南方大陸が存在するとの説を完全に退け、南極大陸の外縁を確定しただけでなく、ベーリング海峡と北極海の南限を探検して極地での偉業に花を添えた。優秀な測量士で、ニュージーランドやオーストラリア東岸の正確な地図製作により、通説ではこの大陸の発見者は彼とされるようになった。すべての経度と、180度の緯度のうち140度分を踏破、20万マイル=地球8=月までの距離を航行
航海者としてはさらに偉大 ⇒ 経験の幅と深さに裏打ちされた多芸さを発揮
オーストラリアを植民地化する決定は、クックの影響力の強さの現れ
クックの新進船乗り「養成所」からは、有名な弟子が数人生まれた ⇒ ブライ、ヴァンクーヴァー
ポリネシアの先住民にとってクックの影響はあまり有益ではなかった ⇒ 歴史的研究においてクックが最も議論を呼ぶ点であり、その後の先住民社会の不幸な運命はクックの評価を大きく下げた。学者たちがほぼ一致しているのは、性病をポリネシアに持ち込んだのはヨーロッパの航海者だという点で、その典型例がクックのハワイ訪問だと言われる
クックにナポレオン後の時代の搾取と蛮行の責任を負わせるのは、時間軸だけで因果関係を捉える誤りのようなもので、その後の帝国主義の行為者ではありえなかったし、18世紀には誰も後の世界的規模の論理を理解していなかった
スタンリーの場合は、ベルギーのレオポルド2世をよく知っており、その意図を知りつつコンゴの探検を行なっているところから、ある意味で間接的な責任が生じ得る




キャプテン・クック フランク・マクリン著 太平洋に人生を刻んだ「庶民」 
日本経済新聞朝刊2013年4月21
 クックの探検航海が行われた176070年代は、カリブ海域での砂糖生産を軸に大西洋に資本主義が勃興し、イギリスで産業革命が始まり、アメリカ独立戦争が勃発するなど、庶民が歴史の前面に躍り出る大転換期だった。
(日暮雅通訳、東洋書林・4500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(日暮雅通訳、東洋書林・4500円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 この時期、七年戦争で北米大陸でのイギリスの覇権が確立され、英仏の覇権争いの場は太平洋に移る。南緯40度の海域に存在するとされた人口5千万の幻の「南方大陸」の発見と太平洋と大西洋を結ぶ北西航路の開発が、両国の探検競争の対象になった。英国海軍本部は偏西風が吹き荒れる海域での「南方大陸」の探査に、ニューファンドランド島の海図作成で成果を挙げた、叩き上げの航海長ジェームズ・クックを抜擢する。
 極貧の農場労働者の家庭に生まれ、ニューカッスルの石炭輸送船の徒弟から身を起こし、七年戦争期に、貴族が牛耳るイギリス社会で唯一庶民が能力で出世できる海軍に志願入隊したクックは、出会いと「引き」に恵まれ、人生最後の12年間に太平洋に自己の生きざまを刻むことになる。
 キャプテン・クックは、南極海・北極海の周縁部に及ぶ太平洋の全海域を3回にわたり地球8周分も航海し、南方大陸が存在しないこと、北西航路が航行不能なことを明らかにした。彼が、太平洋、諸島嶼(とうしょ)を地図化し、オーストラリア、ニュージーランドなどを英領と宣言したことはよく知られている。
 しかし、クックの本格的な評伝は意外に少なく、『航海日誌』の刊行にあたったビーグルホールのものなどに限られていた。本書は、該博な知識と膨大な資料を駆使して書かれた547頁に及ぶクックの本格的評伝である。歴史家の著者は、世間的な楽しみを「埒外」に置き去ったまま一生を終えたクックに私生活の資料が乏しいことを、選ばれた庶民になるためとして理解し、周辺資料、関連資料、航海記録などを深く読み込むことでクックの苛烈な生涯をいきいきと再現している。本書の7割は航海の場面に割かれるが、細部に及ぶ艦内生活の描写、タヒチ、ニュージーランド、ハワイ諸島の社会・信仰、船員と先住民の交流の記述は、18世紀の太平洋世界の理解に有用である。
(歴史家 宮崎正勝)


Wikipedia
ジェームズ・クックJames Cook, 17281027 - 1779214)は、英国の海軍士官、海洋探検家、海図製作者。通称キャプテン・クック (Captain Cook)
一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長英語版 (Post Captain) に昇りつめた[1]
太平洋3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し(第2回航海)、ニューファンドランド島ニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた(第1回航海)。
10代を石炭運搬の商船船員として過ごした後、1755に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わった。船員としての能力を認められたクックは1757に士官待遇の航海長英語版に昇進し[2] 、英国軍艦Solebay号の航海長として、セントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。クックの作成した海図はウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦(1759)の成功を導き、クックの存在は英国海軍本部と英国王立協会に注目されることとなった。クックは南方大陸探索の命を受けて、英国軍艦エンデバー号を指揮し、1766に第1回航海に出帆した。
クックは多数の地域を正確に測量し、いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、すぐれた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、これらのすべてであったと言えよう。また壊血病の予防に尽力し表彰されている。
3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。
かつてニュージーランドで発行されていた10シリング1940 - 1955)、5ポンド10ポンド紙幣(1956 - 1967)に肖像が使用されていた。

生い立ち[編集]

クックは、英国、ヨークシャー州ノース・ライディングの北東の村マートン・イン・クリーヴランドに生まれた。スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。父が農場の農事監督の職を得たため、家族と共にグレートアイトンの農場に移り、父の雇い主から学資を得て学校に通った。13歳になり父と共に働き始めた。16歳になったクックは、漁村ステイテスの雑貨店で徒弟奉公をするために家を出た。奉公中に店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。
1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビー英語版のウォーカー兄弟にクックを紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。1746に、クックは英国沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われた。この間、操船に必要不可欠な代数学三角測量法航海術天文学の勉学に励んだ。
3年間の徒弟奉公を終えたクックはバルト海の貿易船のブリッグ「フレンドシップ号」で働き始めた。1755にはフレンドシップ号の航海士に昇進していた。しかし、ひと月も経たぬうち、クックは、英国海軍に一介の水兵として志願入隊する。
1755年の英国海軍は、七年戦争に備えて軍備を強化していた。クックは、海軍に入った方が出世できるだろうと考えたらしい。クックは、水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士英語版に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格した[2]。この時、クックは29歳であった。

家族[編集]

34歳で、13歳年下のエリザベス・バッツ (1742-1835) 1762に結婚し、6人の子供 ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) を儲けた。陸での住まいはロンドンのイーストエンド(貧民街)にあった。クックの子供たちは、いずれも子孫を残さずに夭折したため、クックの直系の子孫はいない。

英国海軍でのキャリア[編集]

ジェームズ・クックの探検によるニューファンドランド島地図、1775
現代の測量技術によって描かれたニューファンドランド島
七年戦争(1756年~1753年)で、クックは、英国軍艦Solebay号の航海長として1759ケベック包囲戦に加わった。既に測量及び海図作成の技量を認められていたクックは、セントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与した。
1760年代のクックは、ニューファンドランド島の入り組んだ海岸の測量に取り組んだ。夏季でも常に海霧に覆われ、強風が吹き、冬は極寒となるニューファンドランド島海域において、帆船で測量を行うのは至難かつ危険な仕事であった。クックは、17631764に北西部、17651766にブリン半島とレイ岬の間の南岸、1767に西岸を測量した。クックの5年にわたる測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。
ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、クックは記した。
「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」
七年戦争でのセントローレンス川河口海域測量、1760年代のニューファンドランド島海域測量での功績により、クックは英国海軍本部と英国王立協会の注目を受けることとなった。

1回航海(1768 - 1771年)[編集]

赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海

タヒチへ[編集]

1766、王立協会はクックを金星の日面通過の観測を目的に南太平洋へ派遣した。英国海軍航海長(士官待遇だが、公式の指揮権を有さない)の階級にあった38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官たる海尉に任官し[1]、英国軍艦エンデバー号の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、大きな積載量、強度、浅い喫水、どこを取っても、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。クックは1768に英国を出帆し、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し[3]、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチ1769413に到着した。日面通過は63で、クックは小さな居館と観測所の建造を行った。
観測を担当したのは、王室天文官(グリニッジ天文台長)ネヴィル・マスケリンの助手、天文学者チャールズ・グリーンであった。観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定であった。もしこれが成功すれば、軌道の計算に基づいて、他の惑星の太陽からの距離も算出できるはずであった。金星の日面通過の観測当日、クックはこう記している。
63日土曜日。本日は期待通り観測に好適な日和となり、雲一つなく、空気は完璧に澄んでおり、金星の日面通過の全経路の観測にはあらゆる好条件が備わっていた。金星を取り巻く大気あるいは薄暗い影があまりによく見えたので、金星と太陽の接触、とくに第2接触の時刻の観測がきわめて困難になってしまった。ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりずれていた」
しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別に行った観測は誤差の期待範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。観測結果は別の場所で行なわれた結果と後に比較検討されたが、やはり期待したような正確な観測結果ではなかった。

タヒチからニュージーランドへ[編集]

天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての秘密指令を開封した。それは、海軍本部の追加命令に従って、伝説の南方大陸(テラ・アウストラリスTerra Australis)を求めて南太平洋を探索せよ、という指令であった。金星観測(しかもエンデバー号のような目立たない小さな艦で)を隠れ蓑にすれば、英国にとって今航海は、ライバルのヨーロッパ諸国を出し抜いて南方大陸を発見し伝説の富を手に入れる絶好の機会となろう、と王立協会は考えたのである。この説の特に熱心な信奉者が王立協会会員のアレキサンダー・ダルリンプルであった。
南太平洋の地理にきわめて詳しいトウパイアというタヒチ人の助力を得て、1769106クックはヨーロッパ人として史上2番目に(1642アベル・タスマン以来)ニュージーランドに到達した。クックは、いくつかの小さな誤り(バンクス半島を島としたり、スチュアート島を南島の一部と考えるなど)はあるものの、ニュージーランドの海岸線のほぼ完全な地図を作製した。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡(クック海峡)を発見した(アベル・タスマンは見落としていた)。

ニュージーランドからオーストラリアへ[編集]

クックは航路を西に取り、伝説の南方大陸の一部をなしているのか否かを確かめる目的で、ヴァン・ディーメンズ・ランド(今日のタスマニア)を目指した。しかし、エンデバー号は暴風で北寄りに流され、1770420金曜日、後にクックがヒックス岬と命名した陸地を目撃するまでそのまま航行した。計算によればタスマニア島はそこより南に位置しているはずだったが、南西に伸びる海岸線が目撃されたことから、この陸地はタスマニア島に繋がっているのではないか、とクックは疑った。この岬はオーストラリア大陸の南東海岸に位置し、結果として、クックの探検隊はオーストラリア大陸の東海岸に到達した史上初のヨーロッパ人となった。
クックが発見した陸標は、ビクトリア州南東岸のオーボストとマラクータのほぼ中間の岬であるとされる。1843年に行われた調査ではクックの命名が無視されたか見過ごされたため、岬には別の名前が命名されていたが、オーストラリア発見200年記念祭の折に、公式にヒックス岬と名称回復された。
エンデバー号は海岸線に沿って北上を続け、クックは測量と陸標の命名を次々に行った。1週間余り過ぎた頃、一行は大きな浅い入り江に入り、砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊した。そここそ、429に、クック一行がオーストラリア大陸に初めて上陸した、現在ではカーネルとして知られている場所である。多くのエイが見られたために、この入り江はクックによってアカエイ湾と命名されたが、後に植物学者湾と改称され、最終的には、博物学者のジョセフ・バンクスヘルマン・スペーリングダニエル・ソランダーによって採集された例を見ない貴重な植物標本を記念してボタニー湾(植物学湾)となった。博物学者たちは、後にオーストラリアの動物相植物相に関する最初の科学論文を上梓した。
一行の最初の上陸地は、入植地および英国の植民地の前哨基地にうってつけの候補地として(特にジョセフ・バンクスによって)、後に喧伝された。しかし、ほぼ18年後、1788のはじめに、前哨基地と囚人の入植地を設置するためにアーサー・フィリップ艦長率いる第一艦隊がオーストラリアに到着した際、ボタニー湾は聞いていたほど有望ではないとフィリップは判断し、代わりに北へ数キロメートルの上陸地へ移動した。そこはクックがかつてポートジャクソンと名付けたが、それ以上の探検はしなかった場所であった。フィリップはその場所をシドニー岬と名付け、シドニーの入植地が設置された。しかし、その後もしばらくは入植地はボタニー湾入植地と呼び習わされた。
最初の上陸の際に、クック一行はオーストラリア先住民のアボリジニと接触している。
海岸線を測量しながらクックは北へ船を進めた。1770611グレートバリアリーフの浅瀬にエンデバー号が乗り上げ大破したため、砂浜で修理が行われ航海は7週間の遅れを生じた(そこはエンデバー川の河口、現在のクックタウンの船着き場の近くである)。その間、バンクス、スペーリング、ソランダーはオーストラリアの植物の最初の大規模な採集を行った。乗組員と当地のアボリジニの人々との遭遇はおおむね平和的であった。当地のアボリジニが話したオオカンガルーを指すGuugu Yimidhirr語方言gangurru から、カンガルーが英語の仲間入りをした。

オーストラリアから帰国[編集]

エンデバー号の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、クック一行は、ヨーク岬半島の北端を通過し、オーストラリアニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。ヨーク岬半島を巡って、オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認すると、クックは1770822にポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。
この航海でクックはただ1人の船員も壊血病で失わなかったが、これは18世紀においては奇跡的な成果であった。1747に導入された英国海軍の規則に則って、クックは柑橘類ザワークラウトなどを食べるように部下に促した。クックが部下にこれらの食物を摂らせた方法は、指導者としての彼の優れた資質をよく物語っている。当時の船員は新しい習慣には頑強に抵抗したので、最初は誰もザワークラウトを食べなかった。クックは一計を案じ、ザワークラウトは自分と士官だけに供させ、残りを望む者だけに分けてみせた。上官らがザワークラウトを有り難く頂戴するのを見せると、1週間も経たぬ間に、自分らにも食べさせろという声が断りきれぬほど船内に高まった、とクックは日誌に記している。
その後、一行は艦の修繕のために、オランダ東インド会社の本拠地があるバタヴィアへ向かった。バタヴィアではマラリア赤痢が猖獗をきわめており、1771に一行が帰国するまでに、タヒチ人のトウパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなど、多くの者が病を得て亡くなった。出発からバタヴィアまでの27ヶ月の航海ではわずか8名だった死者は、バタヴィア滞在中の10週間とバタヴィアからケープタウンまでの11週間に31名に達してしまった。
1771612午後、エンデバー号は南イングランドのダウンズに投錨し、クックはケントで下船した。スペースシャトルのエンデバー号、またエンデバー川は、この第1航海におけるクックの船の『エンデバー』にあやかっている。
帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界でも時の人となった。しかし、ロンドン社交界でクックの数倍の人気者となったのは、貴族階級の博物学者ジョセフ・バンクスだった。バンクスはクックの第2回航海にも同行する予定だったが、船の構造に不満を爆発させ直前で自ら任を降りた。

2回航海(1772 - 1775年)[編集]

1回航海から帰還後、功績を認められて「軍艦を指揮する海尉」から海尉艦長英語版に昇進した[1]クックは、王立協会から南方大陸(テラ・アウストラリス)探検隊の指揮を委任された。第1回航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸とは繋がっていないこと、さらに、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらに南に存在するはずと王立協会はまだ信じていたのだった。
探検隊長のクックは、英国軍艦レゾリューション号を、トバイアス・ファーノーアドベンチャー号を指揮した。アフリカ大陸南端から東進した一行はきわめて高緯度の地域を周航し、1773117にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入した。これがいかに偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。南極圏の濃い霧によってはぐれた2隻はニュージーランドで落ち合った後、南太平洋を東進してさらに南下し南緯7110分まで到達した。その後もクックは探検を続けたが、ファーノーはマオリ族との戦いで部下を失い、やむなく先に英国へ帰還することになった。
クックはもう少しで南極大陸を発見するところであったが、南方大陸が人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打った[4]。補給のため北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かったが、オマイは第1回航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかった。帰り航海では、1774トンガイースター島ニューカレドニアバヌアツに上陸した後、南アメリカ大陸南端を回り南ジョージア島南サンドウィッチ諸島を発見した。一行の帰国報告によって、テラ・アウストラリスの伝説は沈静化した。クロノメーターが活躍し正確な経度の決定が行われたことも、第2回航海の大きな業績であった。ちなみに、クックは南サンドウィッチ諸島をサンドウィッチ・ランドと命名したが、後に発見したサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)と区別するため後代の英国が南サンドウィッチ諸島とした。英国は1908年に公式に領有宣言、これに対しアルゼンチンも1938年に領有を宣言した。
多大な業績を挙げたクックは、帰国後に直ちに勅任艦長(ポスト・キャプテン)に昇進し、同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。水兵から勅任艦長への栄進は、極めて稀な事例であった[1]壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からコプリ・メダルを授与され、フェローにも選出された[5]。しかし、未だ48歳のクックは海から離れるのに耐えられず、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出帆した。

3回航海(1776 - 1780年)[編集]

巷間では、ロンドン社交界で「高貴な野蛮人(ノーブル・サヴェッジ)」として大評判となりロンドン市民の好奇の的となっていたオマイをタヒチに戻すため(ジョージ3世にも謁見したが、社交界の貴婦人たちに対する淫らな行為を疑われ、浅黒い女たらしとの悪評を得たこともあって人気を失う)に航海が行なわれると噂されたが、第3回航海の公式の目的は、北極海を抜けて太平洋大西洋をつなぐ北西航路を探索することであった。クックは再びレゾリューション号の指揮を取り、チャールズ・クラークが僚船ディスカバリー号の指揮をとった。オマイをタヒチに返した後に、クックらは北へと進路を取り、1778にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となった。クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した。
北アメリカの西海岸を探検するためにクックは東へ航海し、バンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ村の近くに上陸したが、ファンデフカ海峡は見過ごしてしまった。この北洋航海でクックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検、海図を作製し、アラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。ただ1度の航海でクックは、アメリカの北西岸の大部分の海図を作製し、アラスカの端を突き止め、西方からベーリングロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を埋めてしまったのである。しかし、クックらが何度試みても、秋から冬にかけてのベーリング海峡は帆船ではどうしても航行できず、そこから北へは進むことができなかった。
ところで、長年の航海による精神的、肉体的ストレスの蓄積のためか、不調続きの航路探索のためか、クックは日毎に気難しくなり胃の不調にも悩まされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲と深刻なもめ事を起こすようになった。たとえば、アラスカで一行は海牛と見誤ってセイウチを仕留めた。「(残り少ない)塩漬け肉よりずっと良い」と、クックはセイウチの肉を船内で消費するよう命じたが、クックを除く多くの乗員の嗜好にセイウチの肉はまったく馴染まなかった。しかし、これを食べない者には船の通常の食事を禁じるなど、クックが自分の考えに固執したため船内には反乱寸前の緊張が生じた。このようなクックの精神的状態がその後の悲劇を引き起こす一因となったと、ビーグルホールら後の伝記作者たちは推測している。
レゾリューション号は1779ハワイ島に戻りケアラケクア湾英語版に投錨した。約1ヶ月の滞在の後、クックは北太平洋探検を再開したが、出航後間もなく前檣が破損し、補修のためケアラケクア湾に戻らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教上の複雑な事情ではこの突然の帰還は「季節外れ」で、先住民の側からすると思いがけないことだったため、クック一行と先住民の間に緊張が生じることになった。
1779214に、ケアラケクア湾でクックらのカッターを村人が盗むという事件が起きた。タヒチや他の島々でも盗難はよくあったことで、盗品の返還交渉は人質を取ればたいてい解決した。実際、クックは先住民の長を人質に取ろうとしたのだが、不安定な精神状態のためか、盗品の引き取りのために下船した際、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまった。塵一つに至るまですべて返還せよ、という木で鼻を括ったクックの態度に先住民らは怒り、また、長の1人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、と投石でクックらを攻撃し始めた。クックらも村人に向けて発砲し、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。小舟に乗り込もうと背中を向けたクックは頭を殴られ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。クックらの死体は先住民に持ち去られてしまった。
現地の宗教上の理由で奇妙な崇敬を受けていたクックの遺体は、先住民の長と年長者により保持され肉が骨から削ぎ取られ焼かれた。しかし、乗組員らの懇願によって、遺体の一部だけが最後に返還され、クックは海軍による正式な水葬を受けた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後はジョン・ゴアが探険を引き継ぎ、更にベーリング海峡の通過が試みられたが、これも季節外れで失敗した。レゾリューション号とディスカバリー号が英国へ帰国したのは17808月のことであった。

クックの教え子たち[編集]

その後、クックの下で働いた多くの部下達が、自身も目覚ましい業績を残した。代表的な人物を以下に挙げる。
·         ウィリアム・ブライ - 3回航海の航海長であった彼は、1787に帆船バウンティの指揮を委ねられ、タヒチへ赴きパンノキの実を持ち帰ることを任ぜられた。しかしながら、1789に乗組員の反乱が起こり、船から追放されて救命艇で漂流する憂き目にあった(バウンティ号の反乱)。生還を果たし、その後ニューサウスウェールズの総督となるも、その地で再び反乱に遭う。それはオーストラリア植民地史上、唯一成功した武装蜂起であった。
·         ジョージ・バンクーバー - 2回と第3回航海の士官候補生。後に1791年から1794年にかけて北アメリカ太平洋岸の調査航海を指揮した。
·         ジョージ・ディクソン英語版 - 3回航海に参加。後に自ら探検航海を指揮した。

脚注[編集]

1.   ^ a b c d ネルソンの時代(1800年前後)の英国海軍には、水兵から士官(海尉と航海長を指すと思われる)に這い上がった男が120人存在し、そのうちの22人が勅任艦長となり、22人のうちの3人が提督、最終的には海軍大将まで上り詰めた(「風雲の出帆 - 海の覇者トマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫、2002年、508頁、訳者の大森洋子によるあとがき)。1814年、ナポレオン戦争が終わろうとしていた年、最大規模にあった英国海軍は、戦列艦99隻、フリゲイト以下505隻を現役で運用し、乗組みの下士官兵は20万人を超えていたと思われる。指揮する士官は、将官が220名、勅任艦長が860名、海尉艦長が870名、海尉級の士官が4,200名を超えていた(「セーヌ湾の反乱 - 海の男ホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫、200815刷、410頁、訳者の高橋泰邦によるあとがき)。
2.   ^ a b 当時の英国海軍では、現在の海軍に通じる、『艦長(勅任艦長 Post Captain、海尉艦長 Commander、軍艦を指揮する海尉 Commanding Lieutenant 海尉 lieutenant  士官候補生 Midshipmen  下士官兵』の指揮系列と、『航海長 Master  航海士 Master's Mate  下士官兵』の指揮系列が併存していた。航海長は、複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職であった。航海長は、正規の指揮権を有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であった。現代の海軍とは異なり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかった。
3.   ^ ホーン岬の周辺海域は四季を問わずに大時化であり、偏西風の影響による強い西風と、西から東の(太平洋から大西洋への)速い潮流が常にあるため、風や潮流を無視して航海できる蒸気船が出現する前、帆船でホーン岬を東から西に周航して大西洋から太平洋に出るのは至難であった。西から東に周航して太平洋から大西洋に出るのは、やや容易であったが、困難を極めるのは同様であった。杉浦昭典 『海賊キャプテン・ドレーク』 中公新書、1987年、186-187頁。
4.   ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p177 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 20091015日第1刷発行
5.   ^ Cook; James (1728 - 1779)” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 20111211日閲覧。


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