トクヴィルが見たアメリカ  Leo Damrosch  2013.2.18.


2013.2.18.  トクヴィルが見たアメリカ現代デモクラシーの誕生
Tocqueville’s Discovery of America                   2010

著者 Leo Damrosch 1941年マニラで米国聖公会宣教師の子として生まれる。50年家族とともに米メーン州へ。イェール大卒後、英政府マーシャル奨学生としてケンブリッジ大トリニティ・カレッジ留学、修士号取得。プリンストンで博士号取得。18世紀イギリス文学が専門。89年ハーヴァード大着任。現在同大名誉教授。ルソーの伝記Jean-Jacques Rousseauで知られ、同書は全米図書賞の最終候補。ハーヴァード大教授のデイヴィッドは実弟

訳者
永井大輔 1974年生まれ。東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。0305年英オックスフォード大留学。現在法政大、武蔵大兼任講師。専門は19世紀アイルランド史
高山裕二 1979年生まれ。早大大学院政治学科研究科博士課程修了。政治学博士。現在日本学術振興会特別研究員。専門は政治学・政治思想史。『トクヴィルの憂鬱』で渋沢・クローデル賞、サントリー学芸賞受賞。

発行日           2012.11.15. 印刷             12.10. 発行
発行所           白水社

はしがき
1831年春 トクヴィルは司法官時代の同僚の友人のボモンとともに9か月に及ぶアメリカ合衆国を巡る旅に出た。25歳で判事修習生、アメリカにおけるデモクラシーの試みに強く惹かれ、4年後に『アメリカのデモクラシー』を著わし、瞬く間に古典的名著となる
トクヴィルが遭遇したアメリカは、理念通りにデモクラシーを具現化したものなどではなく、混乱と激しい競争の中で急速に変貌しつつある社会だった
1830年代を通しても、国としてまだ未熟。ジャクソンという初の大衆的な大統領が選ばれたばかりで、階級間、地域間、人種間の緊迫した関係が強烈に意識されていた
トクヴィルの旅に付き添えば、アメリカ史に於いて大変な重要性を持つ時代、しかしながら独立革命と南北戦争について本が氾濫する中でほとんど注目を浴びてこなかった時代のアメリカを、彼個人の視点から一緒に発見できる
トクヴィルが生み出したものは、デモクラシーにそれ本来の性質として市民に何らかの特徴を生み付ける傾向があるのはなぜか、という大きな謎の幾つかを構造的に解き明かすものだった ⇒ この若い国は旧世界にはない独自の歴史的・地理的利点を享受、18世紀の建国者たちは既に数世紀に渉る伝統として世襲貴族のいない植民地での自由を受け継いでいたし、開拓用の土地はほぼ無限に広がり、強大な隣国がないことで大規模な軍隊を維持することも中央から統制を受けることも不要
フランスに生まれ育ち、身分関係に根差した暴力革命を目の当たりにしたトクヴィルにとって、驚くほど安定していたアメリカについてその理由を知ろうと決意
同じ年の暮れに、チャールズ・ダーウィンもビーグル号で航海に出ており、両者には奥底の部分で似通っている点がある ⇒ 鋭い観察力と洞察力
1830年代は大転換期 ⇒ 「市場革命」と「通信革命」が同時進行していた

第1章        トクヴィルの来歴
軍功によって得たフランス貴族(帯剣貴族)の生まれ。父親は王制に仕える行政官。母方も法服貴族(裁判官) ⇒ 1830年シャルル10世が、野党が勝利を収めた選挙結果に反発して議会を解散したため、オルレアン公を担いだリベラル派によって退位させられ、父親も退職。トクヴィルは司法官を続けたが新政府では居心地が悪く、ボモン共々刑務所制度研究を口実にアメリカ派遣を願い出て、自費を条件に18か月の調査旅行に出る
38日の航海中に英語を習得。

第2章        第一印象――ニューヨーク市
ニューポートに上陸。ニューヨークまで乗ったアメリカ人フルトンの発明になる蒸気船にいきなり度肝を抜かれる
ニューヨークの人口は20(2位はボストンとフィラデルフィアで6)、大建造物はなく、キャナル・ストリート辺りまでしか居住地はなかった
フランスからの調査団ということで歓迎される
アメリカ人が大言壮語を好んで用いること、会話の仕方は知らないが議論はする。語るのではなく主張する。国民的自惚れに満ちている
アメリカでは、社会全体が混ざり合って中産階級になったように見え、誰もが潜在的には社会の底辺から頂点に上昇し得る
大金持ちがいる一方で、普通の労働者は、地位と安定を失いつつあり、最初のストライキが組織され始めようとしていた
ほとんどのアメリカ人が家庭使用人として働くことを不本意としていた
厳しい人種差別 ⇒ 有色人種は常にのけ者
アメリカ人女性の意志の堅い貞節に当惑する一方で、未婚女性の社会的自由に驚く

第3章        「すべてが新しい世界の証明である」
トクヴィル達の在米生活 ⇒ ニューヨークに57日、フィラデルフィア32日、ボストン26日、ボルティモアとワシントン各1週間
7月から西部への旅に出る ⇒ 乗合馬車を利用
バッファローでインディアンに会う

第4章        森のロマンス
デトロイトまで達したが、どこに行っても同じ人間、同じ情念、同じ習俗があり、どこでも同種の開明的な部分と同種の蒙昧な部分があった
最僻地の村でフランスのファッションを追いかけているのに驚愕
開拓地で真に人を惹きつけるのは、土地を富に変換する機会
安価な土地が入手可能なことが、東部の人間の欲求不満のはけ口となっている
モントリオールからセントローレンス川を下ってケベックまで行き、見捨てられたフランス人が大勢いるのに出会う

第5章        ボストン――精神の状態としてのデモクラシー
9月にボストンに到着 ⇒ 帰国命令を受け取るが無視
初めてヨーロッパ社会の口調と作法を持つ上流階級を発見、共和主義社会の中の奇妙な例外として興味を持つ
アメリカのデモクラシーの根底にある2つの大原則見出す
   多数派は概して常に正しく、それを超える精神権力は存在しない
   各個人、各社会、各郡・州は、それ自身の利害の唯一正当な判定者であり、他の者の利害を害しない限りで、何ぴとも干渉する権利を持たない

第6章        フィラデルフィア――寛容の精神、結社の伝統、禁獄の実情
10月フィラデルフィアに
保護関税に反対する自由貿易派の集会に出会う

第7章        「西部」のデモクラシー
11月末吹雪の中をピッツバーグへ
更にオハイオ川を下ってシンシナティへ ⇒ 当時は陸路で辿り着くのが不可能に等しい辺鄙な地域に商行為をもたらしたのは航行可能な河川からなる交通網。浅瀬に乗り上げたり、衝突して沈没したり、かなりリスクの高い移動手段であり、トクヴィル達も何度も危ない目に遭っている
同じころアメリカからイギリスに帰った作家のトロロープは、間もなく『内側から見たアメリカ人の習俗』を出版したが、行動理念や習慣すべてに嫌悪感を露わにしていた。勝手にファーストネームで呼ぶような下卑た馴れ馴れしさに辟易としたと書かれていたが、トクヴィル達はもっと客観的に観察していた
シンシナティに来て、眩いほどに移り変わりながら、凄まじい勢いで自らを作り出している様子、楽天的な精神が高揚を見せる様に圧倒される
川旅の間トクヴィルは、奴隷制と社会、経済の密接な係り合いに直面、「自由な土地」オハイオはきちんと耕作されて栄えているのに対し、ケンタッキー側は手入が行き届かずみすぼらしかった ⇒ さらに南部へ旅を続けていくにつれ、奴隷制及び奴隷制が連邦に及ぼす脅威に関して知識を深めていく
オハイオでは、民主的な衝動には機会が無限に開かれていることに感銘を受ける ⇒ 前例はおろか、伝統も、慣習も、優勢を占める思想すらも一切持っていない、政治、階級、社交、宗教のいかなるしがらみも持たない人口集団を見て、これこそ無制限・無節度のデモクラシーだと考えた
中産階級でも一国を統治することができる ⇒ 政治家が凡庸でも、情熱や教育が不十分で振る舞いが俗悪であっても、実際の役に立つ英知を提供し続けるのは間違いないし、それで事足りる
全人口のうち膨張を続けている部分に初等教育が用意され、高度な政治意識が実現。徳が高いということではないが、どの国民とも比較にならないほど開明的で、公の問題に対する理解、法律や判例に関する知識、国の利益に対する感覚やそれを理解するだけの能力、これらを持ち合わせた者の数は世界のどこよりも多い
個人主義が公共の利益を損なうのではなく、それに寄与している ⇒ 公共の場では、出自や、経済的状況に関係なく対等
多種多様な人々を結びつけて1つの国民を作ってしまうのは、社会の哲理として個人の利益があって、それを全体の利益と1つにさせている

第8章        ニューオリンズを目指して
ミシシッピ川と昔のフランスの植民地を見ようとニューオリンズに向かう ⇒ メンフィスまでは陸路、そこからは凍結したミシシッピ川を大型蒸気船で下る
1830年 インディアン強制移住法 ⇒ ジャクソンとその仲間たちは非常識な安値でインディアンの土地を何千エーカーも買い取って財を成した。みすぼらしい格好をした強制移住させられるインディアンの一団を目の当たりにしてトクヴィルは、文化の抹殺として非難
ニューオリンズでは、人種ごとの上下関係が厳しく定められているのに心痛

第9章        馬車で南部を往く
1月陸路ノーフォークに向って出発、12日間で走破
いわゆる南部的な生き方は、1790年に発明された綿繰り機によって大規模な綿花栽培が可能となり、奴隷労働が拡充され実質的な資産と見做されるようになり、その結果白人による事実上の貴族的社会となったことから生まれた
北部に対して南部人が抱く敵意の激しさに圧倒 ⇒ 輸入品に重税を課す連邦法の無効化を巡り議論沸騰
奴隷制に関しては、この種の従属以上に自然に反し、人間の心の隠れた本能に反するものを想像することは不可能として、その不道徳性を指摘しつつ、圧倒的な力が行使されない限り南部は決して変わらないだろうと結論づける
アメリカ植民協会が後にイベリア共和国となる土地をアフリカに購入し、黒人を同地に戻す議論が盛んに行われていたが、現実味を欠いた議論に終始

第10章     期待はずれの首都
1月ワシントン着 ⇒ 人口3万の小都市に過ぎなかった
3月祖国に戻る ⇒ アメリカによって大きな名声を手にしたが、ボモン共々再びアメリカを訪ねることはなかった

第11章     名著の完成
執筆を前に、確実に判っていたのは、デモクラシーこそ未来の波であること
妥協尽くしの現状のリベラルのことを評価せず
辞職、イギリス人モトレーとの交際再開、上から見下したような家族の抵抗を克服して35年結婚
監獄に関する報告書は1年後に『合衆国における行刑制度とそのフランスにおける適用』と題して出版、思慮に優れ委曲を尽くしていると称讃
35年『アメリカのデモクラシー』の原稿が完成し、版元を探すも、最初に目を付けたシャルル・ゴスランはこの本に期待が持てず500部以上刷るのを断ったが、瞬く間に大反響を巻き起こすと度肝を抜かれた ⇒ 英語訳はジョン・スチュアート・ミルが「独創的で造詣が深い」と評し、同書の目的は「デモクラシーが到来するかどうかを明らかにすることではなく、到来したときにそれをどのように利用するかということ」だと鋭くまとめている
ニューヨークで世話になったジョン・C・スペンサー(タイラー大統領の財務長官)からも、「我々の連邦政府を描写、いやむしろ明確に規定したのであり、その正確な精密さはアメリカ人の手によっても乗り越えることはできない」と評され、トクヴィルもこれ以上の賛辞はないと言って喜んだ
自著の実績により、名高き精神政治科学アカデミーの会員に選出、さらに37年に下院選へ出馬したが、首相の後援の申し出を断って無党派で出たため落選、翌年の補選で当選。ボモンも2度落選の後繰り上げ当選
政治活動を通じて、『デモクラシー』を完成していないと確信し、第2巻の執筆へと向かい、アメリカの事例を参考に本当の主題をフランスに移し、同国人に説得力を持つように分析を展開しようとした ⇒ 5年後に同名の第2巻を出版。自己の主張と名声を確実なものとする

第12章     アフター・アメリカ
代議士に当選したことにより、トクヴィルは自分の愛するフランスに大きな貢献をする態勢が整ったと期待したが、余生は概ね失望の歴史に終わる ⇒ 議会内の抗争に
41年 フランスの知識人の間では最高の栄誉であるアカデミー・フランセーズの会員40名の1人に選出
イギリスに倣って、フランス植民地の奴隷制廃止に尽力 ⇒ 48年に実現
植民地主義は別問題で、自国の植民地保持は支持。ただし、現地の文化は尊重すべきと説き、人種差別には断固として反対
アメリカの奴隷制についても発展への阻害、栄光への汚辱として批判 ⇒ 1854年カンザス・ネブラスカ法によりルイジアナ購入地(ミズーリを除く)で奴隷制を禁止したミズーリ協定が廃止され市民投票で奴隷制が認可されるようになる。この南部に対する譲歩に反対して共和党が結成。その2年後西部準州への奴隷制拡大を唱えて民主党のブキャナンが大統領に当選すると、トクヴィルは身の毛もよだつような悪災の拡大を人道に対する最大の罪と非難の手紙をアメリカの友人に送る
48年フランス第二共和政発足 ⇒ 国王が参政権拡大を撥ねつけ労働者たちによる暴動に発展、退位を余儀なくされる。マルクスの『共産党宣言』発表の直後
トクヴィルは新憲法起草の参与に任命され、権力の中枢に入るが、2つの世界の板挟みになって苦しむ ⇒ 49年外相。51年ナポレオンの皇帝就任によって政治生命は終わる
執筆の世界に戻り、『回想録』を書いて48年の革命およびその直後の時期の自らの体験を綴る
次いで『アンシャン・レジームと大革命』に取り掛かるが、喀血により未完に終わる

訳者あとがき
『アメリカのデモクラシー』の下敷きとなったトクヴィルのアメリカ旅行それ自体に大きな関心が払われたとは言い難かったが、本書は体系的かつ魅力的にトクヴィルのアメリカ旅行を再構成している
実体験に基づく興味深いエピソードが満載
本書の目的は、トクヴィルを語るだけでなく、彼の訪れた当時のアメリカを語ること、そしてその向こうに現代さらには未来の「アメリカのデモクラシー」を展望することであり、そのために邦訳の副題が付けられている
26歳の異国の青年による観察が今日なお、政治的立場を問わず多くの人によって称讃されるのは、単に傍観者としてデモクラシーの矛盾を指摘しただけではなく自身がアメリカにおける人類初のデモクラシーの実験に驚き、魅了されたから ⇒ 新世界に対して偏見に満ちた他の旅行者たちと鮮やかな対比を示す
人種的な不平等に関する鋭い洞察、南北戦争を予見するような連邦内の亀裂の指摘を称揚する一方で、当時既に存在した経済的不平等を見落としたとの批判も踏襲している










トクヴィルが見たアメリカ現代デモクラシーの誕生 []レオ・ダムロッシュ
[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)  [掲載] 朝日 20130113   [ジャンル]歴史 
旅と思索の軌跡、リアルに追体験

 1831年春、仏貴族出身の判事修習生トクヴィルは友人ボモンと共に9カ月間の米国旅行に出発した。弱冠25歳。刑務所視察というのはあくまで口実。市民が大国を統治するという、人類初の試みから40年余りを経た米国の実情を探るのが真の目的だった。
 そのときの観察記『アメリカのデモクラシー』は高評価を受け、1841年には仏知識人の殿堂アカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。
 米国でも自国の本質を捉えた不朽の名著とされ、今でも保守・リベラル双方が主張の箔付(はくづ)けに好んで引用している。
 本書は当時の関係者の草稿や覚書、書簡をもとに『デモクラシー』の舞台裏を再構成した、いわばメイキング版である。
 馬車や蒸気船に揺られ、北米大陸の大自然に抱かれ、先住民の長からボストンの名士、さらには現職大統領まで貪欲(どんよく)に交わりながら米国理解という「生死をかけた真剣勝負」に挑んだトクヴィル。
 最良の映像評伝を観(み)ているかのごとく、本書はその旅と思索の軌跡を追体験させてくれる。
 黒人奴隷や先住民の境遇への憤り。階級・地域・人種の切迫した関係への懸念。ロシアと米国が「いつの日か世界の半分の運命を手中に収める」のではという予感。
 民主政と貴族政の狭間(はざま)で心が揺れ動くなか、喜怒哀楽に満ちた米国体験を自らの思想に結実させていくトクヴィルの姿は実にスリリングだ。『デモクラシー』の核をなす「心の習慣」や「多数派の専制」といった概念に込めた彼の想(おも)いがひしひしと胸に響いてくる。
 欲を言えば、「アメリカ人の重大な特典は……欠点を自ら矯正する能力をもっていることにある」という『デモクラシー』のなかの重要な指摘、すなわち米国の復元力をめぐる考察の背景にもっと迫っても良かったと思う。
 民族・宗教・言語の多様化、連邦政府の肥大化、党派対立の先鋭化、市場主義の遍在化、軍事大国化……。当時と今とでは米国も大きく様変わりした。
 トクヴィルはある草稿にこう書き留めている。「政府にとってもっとも難しい課題とは、統治することではなく、人びとにみずからを統治する方法を教えることだ」
 彼が賞讃(しょうさん)した米国の市民精神をオバマ大統領は現代の文脈においてどう解釈し、人びとをどう鼓舞してゆくのだろうか。
 『デモクラシー』の冒頭には「私はアメリカのなかにアメリカを超えるものを見た」という有名な一文がある。
 もしトクヴィルが今日の日本を訪れたのなら、この社会を、そしてこの国のデモクラシーをどう評価するのだろうか。
    
 永井大輔・高山裕二訳、白水社・2940円/Leo Damrosch 1941年生まれ。幼少期をフィリピンで過ごし米国へ。プリンストン大学で博士号を取得。ハーバード大学名誉教授。著書『ジャンジャック・ルソー 不安な天才』は全米図書賞の最終候補に。


トクヴィルが見たアメリカ レオ・ダムロッシュ著 25歳での訪問を詳細に分析 

[日本経済新聞朝刊2013年2月3日付
 トクヴィルといえば、建国から半世紀ほどのアメリカを訪問し、『アメリカのデモクラシー』を執筆したことで知られる。平等化の進む中での公共精神の行方、中央集権化と多数の専制の危険性、地方自治や結社の重要性など、その洞察は現代にまで及ぶ。
 ところが、考えてみると不思議なことがある。トクヴィルがアメリカを訪問したのは25歳のときであり、期間も9ヶ月ほどにすぎない。早熟の天才と言えばそれまでだが、貴族出身で、法律家の経験がわずかにあるだけの青年になぜあれほどの本が書けたのか。
 たいした社会経験もない青年が、短期間の海外訪問、それも別に仕事を抱えての滞在で「思想家」になるというのは、凡庸な我が身と比べるまでもなく、驚くべき事態である。その秘密を解き明かしてくれるのが、彼のアメリカ滞在を詳細に分析した本書である。
 最初に訪問したのはニューヨークである。当時のアメリカでは断然大きな都市であったが、ブロードウェイ沿いにはまだ豚が野放しになっている状態であった。トクヴィルは人々の旺盛な物質欲に驚きつつ、その勤勉さや独特な道徳性にも気づく。
 トクヴィルは、貴族出身ということもあり、中産階級が民主政治を担う能力について懐疑的であった。しかしながら、ボストンにおける地域自治の実践などを目の当たりにし、やがてデモクラシーは誤るが、同時に自己修正能力も持っていると認識をあらためる。
 トクヴィルが訪問したのは東海岸だけではない。遠く西部を訪問して開拓者とネイティブ・アメリカンの行く末を思ったり、ニューオーリンズを目指して、馬車旅や船の難破に苦しめられたりする。19世紀における旅の醍醐味を追体験できるのも本書の魅力だ。
 ちなみにトクヴィルは女性にもおおいに関心があり、同行した親友ボモンとともに、せっせと実践に励むさまが微笑(ほほえ)ましい。祖国の家族との私信を含め、等身大の若者が思考を深めていく過程を明らかにする本書は、いわばメイキング・オブ・『アメリカのデモクラシー』なのである。
(東京大学教授 宇野重規)


Wikipedia
アレクシ[1]=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville18057月29 - 18594月16)は、フランス人政治思想家

プロフィール [編集]

初め裁判官、後に国会議員から内閣外務大臣まで務め、3つの国権(司法行政立法)全てに携わった政治家でもある。実家はノルマンディー地方の軍人・大地主という由緒ある家柄であるが、フランス革命の際に主な家族や親戚のほとんどが処刑されてしまったため、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。
30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人で平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚した。1848二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る歴史家・知識人である。

年表 [編集]

·         1805年、729日、コタンタンの古い貴族の家に誕生。
·         1826年、6月、パリ大学で法学学士号を得る。
·         1827年、4月、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生となる。この時ギュスターヴ・ド・ボーモンと知り合う
·         18291830年、フランソワ・ギゾーの歴史講義で多大な影響を受ける。
·         1831年、4月、ボーモンと共にアメリカを旅行(322月迄)
·         1832年、5月、ヴェルサイユ裁判所陪席判事を辞職。
·         1833年、ボーマンと共に『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版、アカデミー・フランセーズモンティオン賞受賞
·         1835年、1月、『アメリカのデモクラシー』第一巻出版。
·         1835年、10月、メアリー・モトレーと結婚。
·         1838年、1月、道徳・政治科学アカデミー会員となる。
·         1839年、3月、バローニュ選出の下院議員となる。
·         1840年、4月、『アメリカのデモクラシー』第二巻出版。
·         1841年、12月、アカデミー・フランセーズ会員に選出される。
·         1849年、6-9月、オディロン・バロー内閣の外務大臣となる。
·         1851年、12月クーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。
·         1856年、6月『旧体制と大革命』出版。
·         1859年、426日、カンヌにて死去、5月トクヴィルに埋葬。
·         1893年、『回想録』出版。

思想・哲学 [編集]

トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治』(De la démocratie en Amérique)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福澤諭吉が紹介している。
彼は著作の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと考えた。だが同時に、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。

名言 [編集]

·         「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」(トクヴィル名言集)が有名。
·         「平等と専制が結合することになれば、心情と知性の一般的水準は低下の一途をたどるだろう」
·         「生きて活動し生産するものは全て、どんなに新しく見えても、新しさの背後には古い起源を有しているものである」
·         「民主主義国家は、自分達にふさわしい政府を持つ」、"In every democracy, the people get the government they deserve."  
TVドラマ 24 -TWENTY FOUR- 「リデンプション」 の劇中、アメリカ初の女性大統領、アリソン・テイラーの大統領就任式演説において引用されている。

著作 [編集]

·         アメリカの民主政治』(De la démocratie en Amérique1835年、1840年)
井伊玄太郎訳 講談社学術文庫 3[3]、初版1987
松本礼二 岩波文庫 4巻、2005 - 2008年(書名『アメリカのデモクラシー』)
·         『旧体制と大革命』(L'Ancien Régime et la Révolution1856年)
·         『フランス二月革命の日々 トクヴィル回想録』(Alexis de Tocqueville sovenirs1893喜安朗訳、岩波文庫、初版1988

出典 [編集]

1.   ^ フランス語のAlexisの語尾の-sは黙字だが(参考)、日本語の翻訳文献では小山勉訳『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫、1998年)や喜安朗訳『フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録』(岩波文庫、1988年)など、アレクシス・ド・トクヴィルと表記されることが多い。ただし松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫、2005年)では「アレクシー・シャルル・アンリ・モリス・クレレル・トクヴィル」と表記している。
2.   ^ 旧版は、講談社文庫2巻(第一部のみ)。この訳本は多数重版しているが、訳文そのものが難解で、研究者などから批判(阿川尚之も読書アンケートで批判、下記の研究文献でも「参考文献」に挙げられていない)が多い。他に井伊訳は『アンシャン・レジームと革命』(講談社学術文庫、1997年)がある。


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