大原孫三郎――善意と戦略の経営者  兼田麗子  2013.4.5.


2013.4.5. 大原孫三郎――善意と戦略の経営者

著者 兼田麗子 1964年下田市生まれ。04年早大大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(学術:早大)。現在早大日本地域文化研究所客員准教授。専攻は社会・経済・経営・政治史・思想

発行日           2012.12.20. 発行
発行所           中央公論新社(中公新書)

「わたしの目には10年先が見える」「新事業は、10人のうち23人が賛成した時に始めるべきだ、78人が賛成したときには、遅すぎる」――経営者と社会事業家の二足のわらじを履き続けた大原孫三郎。クラボウやクラレなど、多くの企業を創立・発展させるとともに、町づくりに貢献。3つの研究所を設立し、総合病院や美術館をつくった。社会改良の善意をいかにして行動に移していったか、その波乱に満ちた生涯を辿る

大原孫三郎とは
経済社会的格差の拡大によって労働運動や社会運動が頻発する時代に、地主と小作人、労働者と資本家の利害は一致するとして、共存共栄を目指し、社会をよくするための対策を考え、積極的に講じていった
自分の一生は失敗の歴史だったと述懐
幼少期から金持ちの息子だということで色眼鏡で見られてきたため、強い人間でなければならないと悟った
ことから、反抗精神が植えつけられた
1902.5.14. マタイ伝四章を読み、悪魔の手から救い出されたことを知って、天職を知ったという
總一郎曰く、「生前の父は、非常に判りにくい性格の持ち主で、尖鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かってはいろいろな組み合わせや強さで発散したため、人によって評価がまちまちだった」
孫三郎を正しく評価する機は熟している

第1章        使命感の誕生――反抗の精神を培った10
倉敷は天領(幕府の直轄地) ⇒ 村々のまとまりである組合村から惣代庄屋が選出、関係域内全体に関することを共同で負担・解決しようという活動がなされ、代官所から一定の行財政・地方行政が委任されていた。早くから民衆参加型の共同体運営が行われていた
「倉敷義倉(ぎそう)」 ⇒ いざという時の救貧活動のため毎年米などを供出する制度で、運営の難しさから下火となっていたが、孫三郎の祖父は進んで協力、「倉敷奨学金」を設けて学資援助を行った
大原家は、代々繰綿仲買商。祖父・壮平の代の明治維新後、土地制度改正により窮乏して農地を手放す農民から土地を買い集め大地主となる
倉敷に「簡塾」を開講、謙受説(満は損を招き、謙は益を招く)を体得 ⇒ 父・孝四郎のモット―でもあり、倉敷紡績や倉敷絹織の社章に「二三(にさん)のマーク」を採用したのも、常に2,3番の謙虚な気持ちで不断の努力を続けるべきとの意味が込められている
父は、縁戚の儒者の家から養子に入る
東京専門学校(早稲田の前身)に入るが、金持ちの息子と聞いて寄ってきた悪友にそそのかされ、15千円の借金(総理大臣の年俸が10千円)まで作って呼び戻される
99年 岡山孤児院の運営に奮闘していた石井十次を級友から紹介され、その活動に感激・感化され、孫三郎の精神と人生が大きく転換
二宮尊徳の報徳思想の影響 ⇒ 「推譲、他譲」が社会貢献への道を拓く
ロバート・オーエン(17711858) ⇒ 空想的社会主義者。最大多数の最大幸福を追求。孫三郎はオーエンの姿勢に経営者の役割の理想型を見出し、報徳思想と共に自分の実践に活かした

第2章        家督相続と企業経営――倉敷紡績と倉敷絹織
01年 福山の庄屋の娘と結婚 ⇒ 先祖は福山義倉を始めた人、父は県会議員、初代議長、福山藩校の流れを汲む福山誠之館の初代校長
東京から連れ戻された後、最初にやった事業は教育 ⇒ 奨学金制度の整備、備中出身の学生のための備中館を東京に設立、小学校長たちの応援で倉敷教育懇話会設立
04年 家督相続 ⇒ 兄2人が夭折
倉敷紡績所(1888年孝四郎が出資して設立、初代社長に) ⇒ まず寄宿舎の改革に着手(後に社宅)。飯場制度(労働者の請負)を廃止
06年 腸チフス流行で死者を出した責任を取って孝四郎が社長辞任、孫三郎が社長に。同時に倉敷銀行頭取も引き継ぐ
工場労働者の福利厚生の充実に、ドイツのクルップが従業員を手厚く処遇していることを知り参考とする
26年 多角化の一環として倉敷絹織設立、人絹事業へ進出 ⇒ 初の産学協同となった京化研究所(京大工学部と連携して設立)で人絹研究開発を進めていたもの。他社が外人技師を雇って膨大な人件費に苦労したのとは対照的
人は事業や生活で主張を実行すべきであり、自分は主張のない仕事は1つもしないように、主張のない生活も1日として送らない

第3章        地域の企業経営とインフラ整備
91年 倉敷銀行設立(孝四郎が頭取に) ⇒ 196行が合併して第一合同銀行となり、孫三郎が頭取に
27年 取引のあった近江銀行が取り付けに ⇒ 重役が私財を提供。取締役だった孫三郎は大阪の別邸と中国合同電気株計550千円。矢面に立って整理に尽力した阿部房次郎(東洋紡績社長、孝次郎の父)と監査役の養父・阿部市太郎の2人で2.15百万円
30年 第一合同銀行と山陽銀行が合併して中国銀行となり、孫三郎が頭取に
09年 倉敷電燈設立 ⇒ 倉敷の町に電力を供給、中国電気を合併し、供給先を拡大
2か月後、蒸気機関から電気への転換に伴い、倉敷紡績が火力の自家発電所を建設し吸収
16年 水力発電所の津山電気と合併し、備作電気となり、さらに合併を繰り返し供給地域を拡大 ⇒ 26年中国合同電気の設立。中国電力となるのは大戦後の51
13年 中国民報社(92年設立)の経営引受け ⇒ 新聞の影響力の大きさに関心を持っていた。36年山陽新報と合併して山陽中国合同新聞、48年に山陽新聞社に社名変更、『山陽新聞』は岡山県の県紙として現在に至る
「不偏不党、専ら正義を旗印として中国言論界の権威たらん」というのが孫三郎の思い

第4章        地域社会の改良整備――市民の生活レベル向上のために
02年 「倉敷を東洋のエルサレムに」と日記に書く
07年 電話の設置 ⇒ 孫三郎が設備費用を負担して電話局を誘致
07年 岡山に陸軍第17師団設置 ⇒ 誘致による弊害を危惧して倉敷への誘致に反対
12年 火力発電所の騒音問題 ⇒ 郊外に移転
25年 伯備線誘致 ⇒ 山陰とを結ぶ路線の起点を倉敷に誘致
19年 倉敷住宅土地設立 ⇒ 都市計画事業を遂行
26年 橋、トンネルの普請 ⇒ 皇太子の巡啓に際し私財を供出
道路作り ⇒ 現在の倉敷中心部の主要道路が出来る
公会堂、図書館、運動場等の設置計画もあった
23年 倉敷中央病院開院 ⇒ 予算15万の10倍をかけて建設、市民に開放

第5章        3つの科学研究所――社会の問題の根本的解決のために
10年 大原奨農会農業研究所 ⇒ 貧しい小作人の救済のため、大原家小作俵米品評会を開催して品質の向上に努めるとともに、幅広い農業支援を目的に大原奨農会発足
24年には農業研究所を設立し、学術研究中心に方針を転換、成果を還元し農業改良に貢献
19年 大原社会問題研究所 ⇒ 石井の孤児救済事業を引き継ぎ、貧困の問題を取り上げる。労働問題・社会事業を中心に大内兵衛、森戸辰男、長谷川如是閑、笠信太郎等が参画したため、孫三郎が目論んだ社会改良のための実践的な調査研究というよりマルクス主義を中心とした学術、思想研究へと特化、危険思想の培養所と見られるようになり、警察の干渉が重なる。孫三郎は運営にも経営にも口出ししなかったが、周囲の不満は募る
28年の共産主義者が大量に検挙された3.15事件で研究所の関与が発覚、孫三郎からの独立が決まり、戦時中は鮎川義介の支援を受けていたが、戦後大内兵衛が総長を務めた法政大に合併されることになり、同大の附置研究所となって今日に至る
21年 倉敷労働科学研究所 ⇒ 工場の女子労働者の環境改善をテーマに発足、29年には全工場での深夜業が廃止され、研究の成果は婦人の深夜業禁止を含む工場法改正の有力な支えとなった。栄養面や大気条件でも社会に成果を発信。冷房付きの空調試験工場の建設も計画されたが不況と関東大震災で頓挫。現在のアイビースクエアはその名残
その後研究対象を一般に広げるため、大原から独立、現在でも川崎市で活動を続ける

第6章        芸術支援――大原美術館と日本民藝館
30年 大原美術館創設 ⇒ 大恐慌勃発の翌年、直前に夫人病没の中での開設。心友児島虎次郎(大原奨学生)との縁で着手。欧州留学に派遣した児島の提案で西欧の名画を蒐集、21年に帰国して展覧会を開催したところ、全国から人が集まり大盛況となった。児島が28年急逝、友を偲ぶものとして美術館の建設を考える
32年 濱田庄司の作陶展覧会を倉敷商工会議所で開催 ⇒ 地域に根付いた文化的産物が必要と考えていた孫三郎が初めて柳宗悦と出会い、特産物の候補として製作活動を支援
柳が民芸に入ったきっかけは朝鮮白磁の美しさに圧倒されたからで、民族と芸術の表裏一体生を確信した柳は、朝鮮の工芸、芸術品を蒐集してソウル郊外に朝鮮民族美術館を設立。36年には孫三郎の資金提供によってその日本版を駒場に創設。用と美を両立する民芸の推進者に共鳴した孫三郎は、民芸作品を積極的に生活に取り入れ、身をもって普及の一翼を担った
孫三郎の支援は、信念と理想、人間関係が大きな鍵 ⇒ 建築家の薬師寺主計(大原美術館の設計に関与)、日本舞踊の井上八千代、音楽研究科の兼常清佐、新派の花柳章太郎、日本画の土田麦僊(代表作『大原女』は孫三郎が所蔵)等を支援

第7章        同時代の企業家たち――渋沢栄一と武藤山治
渋沢栄一
事業活動のみならず、公益性や社会文化貢献事業にも尽力した企業家としては、東の渋沢、西の大原
渋沢(18401931) ⇒ 経済と倫理の調和を追求した企業家の先駆者。その代表的な活動が養育院(72年ロシア皇太子東京訪問に際し、帝都の恥を隠すため応急的に浮浪者収容の仮施設として設置)。財務担当から事務長、初代院長として唯一終生関わる
人道的見地からの慈善事業の重要性を説くとともに実践
渋沢が帰結するのは、惻隠・人情・人道、そして共生・協同・社会への御礼という考え方であり、このような観点で、社会は養育院事業の推進に関与すべきと主張
武藤山治
19年 工場法公布
岐阜出身。祖父が農村改良、困窮者救済に尽力。父は県会議長から衆議院議員。山治は福澤の薫陶を受けその教えである自由主義と経済合理主義を実業界で体現。福澤の甥で三井銀行理事の中上川彦次郎、その義弟(妹の婿)・朝吹英二に見出され、系列の鐘紡に転じる
最大の懸案だった労働力不足に対し、先駆的な職工優遇政策で女子労働者の勤続の長期化に先鞭をつけたのは武藤率いる鐘紡 ⇒ 注意箱、社内報、購買組合、共済組合、女学校、職工学校、休憩室などの制度・設備が導入。家族主義・温情主義・愛
三者の比較
渋沢 ⇒ 滅私奉公的概念が強い。共同と公利に重点
武藤 ⇒ 平等な対人関係。伝統的なタテの封建思想が強い一方、近代的企業家色が強い
孫三郎 ⇒ 渋沢と比較すると、個人・民力・平等に注目し、「下」からの度合いが強い
武藤との比較では、温情主義だけでは労働問題は解決しないと批判的であり、キリスト教的ヒューマニズムや人格平等感に基づいて労働者の待遇改革を図るとともに、公私ともの利益とは無関係は社会的事業に積極的にも貢献
「まず人間・使命あり」「人間そのものがその人のすべての財産である」という考え方に基づき、科学的・文化的に人間らしい幸福を追求するという視点が両者よりも強かった

第8章        晩年と有形無形の遺産
36年 狭心症発作
39年 社長辞任
43年 発作再発により死去
人作りという無形の遺産が、戦後日本の復興期や経済成長期にリーダーシップを発揮し、大きな役割を担う ⇒ 大原奨学会、奨学生による大原会(養子主義)を通じた人材育成
土光敏夫も奨学生の1




大原孫三郎 兼田麗子著 個人の尊厳を重視した経営者 
日本経済新聞朝刊2013年3月3日
フォームの始まり
フォームの終わり
 五百町歩という日本最大級の大地主で、倉敷紡績を擁した地方財閥の実質的な2代目、大原孫三郎の伝記である。時代は日本経済が動揺を繰り返した明治末から昭和前期にかけてである。孫三郎は、倉敷紡績の成長基盤を固め、合繊、電気、銀行、新聞など多方面の事業展開を行っただけでなく、大原美術館、総合病院、そして農業技術にかかわる研究所と労働問題のための大原社会問題研究所、民芸運動支援のための日本民芸館設立など様々な社会事業を行ったことで知られる。
(中公新書・880円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(中公新書・880円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書で著者は、経営者としての孫三郎に注目し、その新事業の将来性に対する鋭敏な感覚、先見性などを強調する。ただ巨大な家産をバックに、地域経済を支配していた地方財閥の事業展開として、孫三郎の行ったことがどの程度卓越していたのかは本書からはあまり伝わってこない。むしろ興味深いのは、孫三郎の社会とのかかわり、特に社会事業における姿勢に関する本書の議論である。
 孫三郎は自分の行う事業の立場を「人格向上主義」と表現するに至ったとされる。すなわち渋沢栄一のような国家主義的な公利でもなければ、武藤山治のような家族的温情主義でもなく、個人の人格の尊厳を、その社会事業ひいてはビジネスを含む事業全体の基礎に据えたのである。孫三郎の生きた時代は日本に西欧的な個人主義が急速に支持を広げた時代であった。地方都市の倉敷においてもそうであり、孫三郎のこの考え方は大正デモクラシーが地方のイニシアチブで推進されたことの一つの裏付けでもある。
 また彼の事業が単なるキリスト者的な人道主義や隣人愛によるものではなく、より積極的に個々人の人格や人的資本の質の「向上」を目指したことは特記されるべきであろう。紡績工場の女子労働者のために行った寄宿舎改良の大工事に見られる住みやすさと働きがい向上への配慮、小作人の技能と生産性を高めるための基礎研究推進に払った努力、本物の絵画をふだん目にすることのない画学生の教育を目的としての美術館の建設など、である。
 企業の文化事業の在り方、地方分権の進め方、日本社会における人的資本の意味など様々な問題を考えさせてくれる好著である。
(一橋大学名誉教授 寺西重郎)


Wikipedia
大原 孫三郎1880728 - 1943118)は日本実業家
倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。
社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補修学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。倉敷教会(後の日本基督教団倉敷教会)の最初の教会員。

来歴・人物 [編集]

岡山県倉敷市大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎1833-1910年)の三男として生まれる。大原家は文久年間村の庄屋をつとめ明治の中頃には所有田畑約800町歩の大地主となった豪家である。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1897(明治30年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。若年は富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り、専門学校時代も殆ど講義には顔を出さなかった。放蕩の果てに現在の金額で1億円もの借金を抱え、1901(明治34年)父親より東京専門学校を中退のうえ倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。
謹慎中に石井十次を知り、その活動に感銘を受けた。孫三郎は社会福祉事業にも興味を示すようになり、後に工員の環境改善や農業改善に取り組んでいる。明治34年、十次の紹介で石井スエ(のち、寿恵子)と結婚。倉敷紡績に入社。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。1902(明治35年)には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家児島虎次郎もこの奨学生となっている。明治38年にはキリスト教の洗礼を受け,同年に「日曜講演」を石井十次の勧めにより開始する。
1906(明治39年)、社員寮内で感染病を出し社員数名を死亡させた責任を取る形で父が辞任したため、倉敷紡績の社長となる。就任と同時に工員の労働環境改善を図った。従来の飯場制度を廃止し、従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営するよう改めた。工員の住居も集団寄宿舎から今日のような社宅に近い状態に改め、駐在医師や託児所までの設備も備えており、更には社員勧誘用の映画までも作った。また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。また、会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うために孤児院を支援。支援金額は現在の金額では数百億円に上ったといわれる。旧来の重役や株主は守旧的や利益主義であり当然これらの改革には反対した。これに対し後に口癖となった「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切った。
1914大正3年)に大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所の前身)を設立し、農業の改善も図った。また、社会問題の研究機関として1919(大正8年)2月に大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設。のちにマルクス経済学の研究が中心となり、大原社会問題研究所や孫三郎もまた特別高等警察から警戒された。だが戦後になり復興し、多くの貴重な書籍が発見されたり大原社会問題研究所は多くの政治家などを輩出した。1921(大正10年)には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設した。1923(大正12年)倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員のみならず市民の診療も行った。
工場を蒸気による動力から電気動力への転換を図り中国水力電気会社(現在の中国電力)を設立。中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となり、地元経済界の重鎮となった。さらに1926(大正15年)には倉敷絹織(現在のクラレ)を設立。
1930昭和5年)児島虎次郎に収集を依頼した各国の美術品を収蔵する大原美術館開館。1935(昭和10年)倉敷毛織を設立(後、倉紡に吸収合併)。1939(昭和14年)長男の大原総一郎に企業体を引き継ぎ引退。1943(昭和18年)倉敷市の自宅で死去。62歳だった。


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