明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト  今泉宜子  2013.4.23.


2013.4.23.  明治神宮「伝統」を創った大プロジェクト

著者 今泉宜子(よしこ) 1970年岩手県生まれ。明治神宮国際神道文化研究所主任研究員。東大教養学部比較日本文化論学科卒。雑誌記者を経て國學院大で神道学を専攻、2000年より明治神宮に所属。02年ロンドン大SOAS博士課程修了。博士(学術)09年より1年間フランス国立社会科学高等研究院客員研究員

発行日           2013.2.20. 発行
発行所           新潮社(新潮選書)

それは伝統の上に近代知も取り入れた、全く新たな神社の誕生だった
70万㎡にも及ぶ鎮守の森、「代々木の杜」とも称される明治神宮は鎮座から九十数年を数える。しかしその歴史は、全国で8万社を超える神社の伝統から見ればむしろ新しい。「近代日本を主張する明治天皇の神社」とはいかにあるべきか――西洋的近代知と伝統のせめぎ合いの中、独自の答えを見出そうという悩み迷いぬいた果ての、造営者たちの挑戦

まえがき
戦災で焼失した本殿を、創建当初の木造とするか、消失の恐れのないコンクリート造りにするかで議論、55年に社殿は木造檜造りと決まる
近代日本を象徴する明治天皇を祭る神社とは如何にあるべきか、その理想の姿を追求し実現することこそ、明治神宮造営に携わる人々の至上命題であり、その命題に挑んだぞ永事業の主要な担い手たちに焦点を当てて、近代と伝統のせめぎあいによる明治神宮誕生の力学を解き明かすことを主眼とする
造営に従事した主要人物のほとんどが洋行経験者、その代表的な人物として12名を取り上げる
誕生の力学こそ興味深い

第1章        運動体としての明治神宮
造営を実現に導いた運動の担い手に焦点を当て、その運動体がどのように展開していったかを追う
   民間有志の神社請願――渋沢栄一(18401931)
12名中最も早く異国の地を踏んだのは1867年パリ万博に慶喜の弟・昭武に随行した渋沢。帰国後近代日本の経済・実業界を牽引した彼は、明治天皇崩御直後から明治神宮造営事業をリード。娘婿の東京市長・阪谷芳郎等が中心となり、東京の有志による民間団体として設立される造営運動の母体「明治神宮奉賛会」を主宰 ⇒ 15年正式発足時は伏見宮貞愛親王が総裁、会長が徳川家達
天皇崩御直後に、東京市長が宮内省に陵墓の東京設営を陳情 ⇒ 宮内省では既にご大葬は青山練兵場でするが、御陵は「先帝の御遺志」により桃山城址に内定と公表
御陵に次ぐもので、大恩を受けた先帝の「御遺物御記念」を東京に作ろうとして。東京に明治神宮造営を求める民間有志の運動が本格化 ⇒ 中心が渋沢と阪谷
1周忌の諒闇明けから運動が具体化、両議会で可決、閣議決定を経て、「神社奉祀調査会」発足、鎮座地が東京・代々木の御料地に決まり、内苑は国費で、外苑は民間の寄附による造営が決まる ⇒ 内務省に明治神宮造営局設置(総裁は伏見宮貞愛親王)
   奉賛会の使命感――阪谷芳郎(18631941)
阪谷は元大蔵官僚、44歳で蔵相、08年退官、天皇崩御直前に市長就任
阪谷の父親と渋沢は一橋家御用人時代に出会い、渋沢を攘夷から開国に視点を変えさせたのが父親だったという
外苑造営事業の寄附は7百万人から7百万円(目標4.5百万円)に達したが、物価の高騰から資金不足に陥り一時工事を延期したこともあって、関東大震災に遭遇、新たな資金を手当てするためにさらに竣工を24年末まで延期。最終の総工費は8.3百万円
26年 外苑を明治神宮に奉納する外苑竣工奉献式執行
内苑の予算は最終的に5.2百万円、20年に鎮座祭を終え、工事竣工
27年 奉賛会解散
内苑鎮座祭の奉祝方法を巡り、東京府・市、東京商工会議所を中心とした実業家有志の3者合同での実施が確認され、その後の明治神宮大祭の原型となるが、明治神宮氏子組織とでもいうべき民間の協賛団体として27年に発足したのが明治神宮祭奉祝会であり、終戦まで毎年11月の大祭の資金を提供し演出してきた

   青年団の奉仕と修養と――田澤義鋪(18851944)
内苑造営の予算には樹木購入費用が含まれず、最初から神宮の森造りは献納樹木なくしては不可能だった ⇒ 造営局長の発案、全国から献納樹木を募集、地方自治体や学校等の記念事業として展開され、95千本以上が集まる
19年 青年団奉仕開始 ⇒ 物価高騰による賃金支払い圧迫から、造営局は各地方青年団の参加を募る。209団体13千名、延べ11万人に達した。企画立案したのが造営局総務課長の田澤義鋪。以前から農村青年教育に注力、「青年団の父」と呼ばれる
同郷の作家・下村湖人の『次郎物語』の主人公が心酔する青年塾理事長のモデルでもある
1908年発足したイギリスのボーイスカウト運動に範をとって、日本の将来を担う有為の人材育成の場としての青年団活動を直接訴えると同時に同志を広げる絶好の機会が明治神宮造営の現場で、労働力不足を補うためというより、積極的に造営の機会を活用しようとした ⇒ 数十名単位で10日間の合宿作業、宮城の拝観や名所旧跡、養蚕の見学も
外苑工事にも118団体約43千名が参加
20年の鎮座祭直後、造営に奉仕した全国青年団によって、日本青年館設立が決まり、青年団員の「11円醵金」によって外苑敷地内に完成
聖徳記念絵画館 ⇒ 80ある絵は11枚で奉納者が異なり、自ら画家の揮毫料を支払い、奉賛会を通じて明治神宮に奉納した。渋沢は79年米前大統領と明治天皇が浜離宮中島茶屋で対談する図(「接待委員会」の総代が渋沢)、西郷と勝の「江戸城開場談判」はそれぞれの孫吉之助と勝精が連名で、「赤十字社総会行啓」は赤十字社が奉納。大半が画題に何らかの縁がある個人・団体が寄贈者に
幸田露伴著『渋沢栄一伝』
栄一に至っては、実に其時代に生まれて、其時代の風の中に育ち、其時代の水によって養われ、其時代の食物と灝気(こうき)とを摂取して、そして自己の躯幹を作り、自己の精神をおほし立て、時代の要求するところのものを自己の要求とし、時代の作為せんとすることを自己の作為とし、求むるとも求められるとも無く自然に時代の意気と希望とを自己の意気と希望として、長い歳月を克く勤め克く労したのである。故に栄一は渋沢氏の家の一児として生まれたのは事実であるが、それよりはむしろ時代の児として生まれたと云った方が宜いかとも思われる
阪谷芳郎も田澤義鋪も時代の児であり、明治神宮造営は時代の指導者たらんという使命感を持った人物をその運動の中核に得たといえる

第2章        永遠の杜
「大都会のオアシス」とも称される明治神宮の広大な森を築いた林学者が主人公
林苑計画のフロンティア ⇒ 古来、「杜」は「社(やしろ)」と共に神社を表し、神社が「鎮守の森」とも親しまれたように、明治神宮も広大な森があり、社殿が並ぶ区域(玉垣内)は内苑全体の1/15、主要な樹木はくすのき()、しらかし()、すだじい()の常緑広葉樹
人為により数百年のスケールで神聖な森を造ることに積極的な価値を見出していたが、具体的にどんな技術で可能になるのかについての議論は皆無。ここに登場したのが以下の造営局の3名、40代、30代、20代の東大農学部の先輩・後輩
内苑敷地となったのは代々木御料地で、もとは彦根藩井伊家の下屋敷で、その庭園は明治天皇・皇后も散策される庭だったが、それはほんの一部で、御料地の大半は不毛原野
森厳な神社林に相応しいのは針葉樹だが、森林帯上暖帯の東京では煙害にも弱く不可能
   森のビジョン――本多静六(18661952)
日本林学会の父。埼玉県久喜市出身。東大農学部の前身である東京山林学校に学び、彰義隊生き残りの元頭取本田家に婿入り(娘は日本で3人目の女医)、婚家の支援で1890年林学の本場ドイツに留学、ミュンヘン大学に移って通常の半分の年月で学位を取得。帰国後の成果が日本最初の洋風公園である日比谷公園の設計
「日本森林植物帯論」を主唱、明治神宮林苑計画の理論的な拠り所となる、その土地の気候風土に最も適した樹木を選び植栽しようという生態学的な理論
本田の理論は、明治神宮東京論に反対する根拠となったが、渋沢から東京に造るということで寄附を集めたと説得される ⇒ 渋沢と本多は田澤と共に修養団活動に関与した間柄
現在、本人の発案で実現した「本多静六博士奨学金」として故人を偲ぶとともに13年には久喜市に本多静六記念館がオープンする予定
   「林苑計画」の実事――本郷高徳(18771949)
「明治神宮御境内林苑計画」の立案から造成事業の実際までを最前線で預かり、鎮座後の管理にも造営局の技師として唯一関与
造園学の先駆者。東京河田町生まれ。高師附中卒。ノイローゼから地質学専攻を断念して帝大農科大学へ。教職に就いたところを本多に呼び戻される。姉の嫁ぎ先に養嗣子として入り本郷姓に、さらに結婚して義父の援助で06年ミュンヘン大留学、学位取得。11年帰国後は農家大講師、17年造営局へ
針葉樹林こそ神社の森に相応しいという発想を逆転し、煙害に耐える樹木で永遠に維持可能、そのような樹木が森厳な神社林を構成すると考えた ⇒ 自然に忠実に従った「森林美学」の実践として100年かけて天然林相の実現を目指す
1段階 ⇒ 仮設の状態。赤松・黒松を主木に成長の速い杉・檜等の針葉樹を植え、下層に将来の主林木となる樫・椎・楠等を配する
2段階 ⇒ 杉・檜が松を圧倒、数十年後に最上部を支配
3段階 ⇒ 樫・椎・楠の常緑広葉樹が支配木となり、その樹間に杉・檜の大木が混生
4段階 ⇒ 樫・椎・楠がさらに成長し、針葉樹は消滅、最適の天然林相に達する
ネットでは没年を1945年とするが、回顧録『吾が七十年』を執筆中であり間違い

   術から学へ――上原敬二(18891981)
日本の造園学の創始者。林苑造りの理想と技術を普遍化し、学問として確立。深川の材木店に生まれる。家は宮家造林掛。帝大農科大学で本多・本郷の下で林学を学び、神社境内の設計にあたり全国の官幣大社40社を実地調査、神社境内林の理想形として仁徳天皇陵を上げる ⇒ 時の大隈総理から伊勢神宮のような杉の巨木林と言われたのに対し、杉の適地・不適地を実証的に挙げて反論、説得した
林学博士として海外を視察した後、東京農大の一隅を借りて東京高等造園学校開校 ⇒ 明治神宮の造営を通して日本の造園学が誕生
日本造園学会に「上原敬二賞」を創設して個人を顕彰

第3章        都市のモニュメント
参道及び外苑造営計画の立案者とその計画変遷の諸相に焦点
林学系に対して園芸を出自とする農学系、さらには土木建築の工学系との主導権争い
「建築」(工学系)の伊東、「構造」(工学系)の佐野、「公園」(農学系)の折下。いずれも1915年設置の造営局に所属。外苑工事では計画案の策定から工事の監督指揮まで一線を預かり、竣工以後も管理運営に助言
3人とも山形出身 ⇒ 日本の都市インフラを築いてきた技術者には東北出身者が多いが、これは薩長土肥に対し、奥羽越列藩同盟で朝敵となった東北人の立身出世は、専門性を身に付けた技術官僚として能力を発揮することだったからと推測
   山形のエンジニア三傑――伊東忠太・佐野利器・折下吉延
明治神宮奉賛会の嘱託として外苑造営のため欧州視察し、ロンドンの「散在式公園計画」よりパリの「連絡式公園計画」(並木道で公演間を繋ぐ)を評価し、外苑の銀杏並木を手掛ける
伊東忠太(18671954) ⇒ 父は医者。帝大工科大学造家学科に入り建築を学び、助教授。後に自ら建築学科に改称。0205年世界を一周(専門だった法隆寺の源流を求めて大半をアジアで過ごす)
佐野利器(18801956) ⇒ 地主だったが没落。養子に行って、伊東が改称した2年後に建築学科入学。世界初の耐震構造論を確立、シスコの地震を視察、ドイツ留学を経て「家屋耐震構造論」で工学博士の学位取得。留学の成果が、絵画館や宝物殿のコンペ審査に生かされている。自宅は大和郷
折下吉延(18811966) ⇒ 元新庄藩士の息子。帝大農科大学進学。明治末年には新宿御苑勤めも経験。19年奉賛会と内務省の市区改正委員会から海外視察に派遣、成果は公園行政に反映。3大公園(隅田、錦糸、浜町)の設計・施工を指揮
伊東による社殿は、上代からの神明造や、近世の権現造ではなく、中古からの流造に落ち着く
当初代々木口(北参道口)を主道としたが、鬼門のため南を正・表参道とした
内苑と外苑と繋ぐ表参道が現在の形になった背景は不詳 ⇒ 内苑南側の代々木練兵場の敷地の一部を内苑に取り込んだ際、代々木練兵場への行幸道路と一緒に計画された
表参道が初日の出の方角に作られたという都市伝説は、確認できない
外苑 ⇒ 当初の計画から、各スポーツ団体の施設建設陳情により大分拡張された
絵画館の裏手に楠が土壇に立つのが「葬場殿跡記念物」で、明治天皇の御棺(轜車じしゃ)を安置。こここそが外苑の出発点、隠れた中心
1923.9.1. 関東大震災 ⇒ 外苑が最大のバラック村に。7千坪に1883世帯6758人を収容
後藤新平の指揮下で都市計画を推進した人物と明治神宮造営事業に携わった主要人物はかなり重複 ⇒ 本多静六、佐野利器、阪谷芳郎、折下吉延
裏参道の最終形は折下の設計 ⇒ 乗馬道と植樹帯を備えた幅9間の公園道路
26年 表参道に震災の罹災者の住宅問題解決のために内務省によって設立された財団法人同潤会がアパート137戸を建設、佐野利器の耐震耐火建築で、模範的な都市生活を提供
同年、都市計画法に基づき、明治神宮周囲が日本で初の風致地区に指定 ⇒ 対象は表参道、裏参道、西参道の各線両側18mで、地域全体が「都市のモニュメント」となった
戦災で社殿のほとんどを消失、戦後再建され、58年に遷座祭 ⇒ 社殿計画の中枢には伊東に代わって角南隆。佐野が鉄筋コンクリート造りを主張したが、折下が「理屈抜きの感情だ」とした伊東の神社木造論が通る

第4章        記憶の場
外苑の中で最も重要な施設と意図されていた美術スペース、聖徳記念絵画館の成り立ちに迫る ⇒ 2011年国の重要文化財指定
明治天皇の事績を描いた絵画を展示するために、26年日本最初の美術館として竣工
「御降誕」から「初雁の御歌」までの前半40点が日本画、「グラント将軍と御対話」から「大葬」までの40点は洋画。原則11(小堀鞆音のみ3)、すべて絵画館のために一から描かれた作品。壁画完成は36年であり、通算21年をかけたプロジェクトだった
絵画館の成り立ちのすべての過程が、「過去」の「評価」に関与する行為
   画題選定と国史編纂――金子堅太郎(18531942)
当初は11万円で購入し、50枚程度を考えていた、画題選定に6年を要す ⇒ 画題として相応しい歴史的事象を調査し考証する過程でもあった
国史編纂事業とも関連 ⇒ 明治末期から国の歴史編纂を担う2つの事業が動き出す。1つは文部省の『大日本維新史料』の編纂、もう1つが宮内省の『明治天皇紀』
絵画館委員会の議長は、2つの国史編纂事業の総裁でもあった金子堅太郎
金子が憲法発布直後の議会制度調査のための欧米視察の折、西欧の学者から得た有益な勧告の中に「国史編纂事業」があった ⇒ 国体及び国史無くしては憲法も砂上の楼閣
金子が悲願としたのは、通史の刊行と欧文翻訳だったが、国の2大事業にはその計画はなく、歴史編纂の成果の一般公開は絵画館で現実となり、33年には英訳もされている
一方で、奉賛会は伊藤公爵家から寄贈になった憲法記念館も併せ、2大国史の稿本共々明治神宮に図書館を設置して所蔵すれば正倉院と同じような意義があるとして具体化が進められたが、関東大震災により伊藤家寄贈の所蔵資料のほとんどを消失し、構想そのものが立ち消えになった

   歴史を描く――二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう、18641943)
画題選定に次いで画題考証の作業 ⇒ 二世芳柳は、嘱託画家として考証過程に立ち合い、参考下絵を描く
二世芳柳は、茨城県生まれの大工の子。初代は「横浜絵」を制作した職業絵師。明治天皇の肖像及び事蹟画を得意としていた。次男のパリ留学に際し、二世芳柳が養嗣子となり、長じて初代を継いだ。パノラマ(及びジオラマ)絵師として活躍、戦争画でパノラマ館が人気
1910年には日英博覧会事務局嘱託として渡英、欧州・アジアの各国を回る
21年二世芳柳らによる画題考証図が完成 ⇒ 「史実」と「写実」の追求は必ずしも同調せず、関係者らの思惑を乗せて対立に至る可能性すら孕む。下絵によって画家の構図にまで立ち入ることは「美術の本質」への冒涜として揮毫者からの反発も
さらには、奉納者の口利きで「実力」の乏しい画家が選出されることへの不満もあった
大観、玉堂、観山らは、「純粋に美術作品にすべき」と反対、揮毫者選定の委員会を辞任
画家選定の難航から、26年の外苑奉献式では5点しか完成・陳列されなかった
揮毫者が決まって作品制作段階に入っても「史実」と「写実」を巡るせめぎ合いは続く
「大葬」を描いた和田三造は、「写実的に象徴的を加味」して折り合いをつけたという
どの一瞬を実際の絵にするかという選択には、「絵画奉賛者」も大きく関与
二世芳柳も、「枢密院憲法会議」の制作を任され、26年に完成
31年には、金子の進言により、1枚追加した81枚の下絵を『明治天皇紀附図』として完成させ、『明治天皇紀』260巻と併せて奉呈され、芳柳も天覧の栄に浴す
80枚の絵画の揮毫者と奉納者は、Wikipedia『聖徳記念絵画館』参照

   永遠の空間へ――寺崎武男(18831967)
外苑聖徳記念絵画館建設のため明治神宮奉賛会から調査を依頼され、ヴェネツィアを拠点に活動した画家。19年から3年滞在、ルーブルの「ルーベンスの間」をモデルとした
明治天皇の聖徳を記念する形がなぜ絵画館だったのか ⇒ 外苑の敷地が青山練兵場跡に選ばれたのは大葬が挙行されたからで、とりわけ御轜車を安置した葬場殿跡は記念のなかの記念の中心だが、それとともに「青山練兵場全体の場所を1つの紀念碑と見做して、その場所に紀念として物を言わせることが理想になる」として葬場殿跡と絵画館を一体化していく様子が見て取れる。絵画館こそ「物を言う」外苑の中心だった
言う物は明治の通史に決まったが、どのように言うのか、通史を見せるための空間をどのように構成するのか、という問いに答えたのが寺崎。80枚中「軍人勅諭下賜」の揮毫者
寺崎が実現しようとした永遠の理想とは、「不変=普遍」であり、「耐久性」の問題であり、「保存」の問題だった
寺崎の父は山縣首相秘書官。美術学校卒業後ヴェネツィアを拠点に欧州各国で9年間ルネサンス芸術を学ぶ。ヨーロッパで最初の領事館が設立されたのがヴェネツィア、その地で日伊の架橋として記憶される存在(コメンダトーレ賞など受賞)。ヴァチカンの図書館にある天正遣欧少年使節の壁画(『扶桑万里の風』と題した作品で、絵画館壁画の参考として21年日本へ)を見て驚嘆、「壁画道の本質」を確信したのが絵画館壁画への情熱へと繋がる
絵画館の内部空間構成がヴェルサイユの「戦争の間」、ルーブルの「ルーベンスの間」に似ていることから、これらを範として絵画館に新たな国民芸術形成が期待されると主張
画材の耐久性に関しては、永久「保存」を念頭に和紙による基底材料(キャンバス)を実現
当時、日本画で正式とされる素材は絹だったが、絹より紙の方が湿気に強い
高知伊野町の製紙家中田製紙工場の努力で手漉きの1枚和紙が誕生、「神宮紙」と名付ける
自らも絵画館絵画を担当する洋画家としては例外的に「神宮紙」を使用
永久保存追求の持続として「修繕方法」の習得 ⇒ 28年にはすでに洋画の一部に黴が繁殖し始めて問題化

結びにかえて
Ø  明治神宮造営とは、祈りの杜造りであると同時に、都市東京の未来を見据えた町造りであり、さらに近代日本の歴史継承を願い記憶の場を作ろうとする営みだった。そして、全国規模での造営運動展開を通じて、次代を担う人作りをも目指していたように、まさに多面的な要素を内包した創造行為であった
Ø  偉業を成し遂げた明治神宮造営の主導者たち、彼等の使命感を支えた原動力として、明治神宮に世界の中の日本を代表する姿を実現しようという気概があった。その多くが異国の地にそれぞれの専門領域を学び、「この国の形」を明治神宮に結実させようとした
Ø  多彩な顔触れの造営者たちが、時に火花を散らしつつ妥協なく理想を追求した試行錯誤の過程があったからこそ、内苑・外苑そして両者を繋ぐ参道から成る複合的な明治神宮コンプレックスの誕生が可能になった。専門も分野も異なる造営者たちが1つの舞台に集い、真正面から向き合って理想を闘わせることが出来たからこそ、ひとつながら多重な魅力が混然一体となった、明治神宮という地場の求心力が形成された
本書執筆の直接の契機は、2010年に雑誌『東京人』に執筆した随筆『明治神宮 造営者たちが見た西欧』で、発端は本郷が遺した一連のドイツ留学資料に出会ったこと


明治神宮「伝統」を創った大プロジェクト []今泉宜子
造営に挑んだ無数の庶民の姿
 明治神宮造営運動は、明治天皇逝去の2日後から始まったという。渋沢栄一関係の事業年表には、「御陵墓ヲ東京ニ御治定ニナルヤウ当局ニ陳情スルコトヲ協議ス」とあり、渋沢本人と娘婿で東京市長の阪谷芳郎を中心に広がっていった。
 明治天皇を祭神とするこの神社づくりに、どのような人物が、いかなる発想で、自らの存在を賭けて挑んだかを本書は説いていく。著者はこれらの先達の中からとくに12人の像を丹念に描くのだが、はからずも「近代日本」の造園学、公園学、林学など幾つかの学問体系が整備されていくプロセスも理解できる。造営運動の終始先導役を果たした阪谷は、後年の人びとにこの神社設立に身を挺した人たちの思いが伝わるよう、あるいは恥ずかしくない造営をと檄を飛ばしたのは自らの時代の能力を刻みこもうとの意思があったからだ。
 代々木の原生林が杜になり、そこに祈りの空間をつくりあげていく使命感。本多静六、本郷高徳、上原敬二ら林学や造園の専門家たち、とくに上原は神社境内林の理想形として仁徳天皇陵に注目したこと、伊東忠太、佐野利器、折下吉延らがそれぞれ自らの専門分野を生かした神社づくり、伊東の「社殿と社殿の調和」という発想に、当時の建築系研究者の先端精神を見ることも可能だ。
 内苑計画での林学系と農学系が神殿にひざまずく人たちの心理を考えて散策空間をつくったとの見方、聖徳記念絵画館に展示する「画題選定ノ方針」では、「(明治天皇を)正面ヨリ描クヨリモ寧ロ側面」とあるが、既存の解釈に対して著者独自の見方も示されている。12人の1人、「青年団の父」といわれた田澤義鋪は、全国の青年団を動員して具体的に造園を進めたが、田澤を見る著者の筆には畏敬の念があり、造営にかかわった無数の日本の庶民の姿がごく自然に想起されてくる。
     ◇
 新潮選書・1575円/いまいずみ・よしこ 70年生まれ。明治神宮国際神道文化研究所主任研究員。

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