世界を変えた100日  National Geographic and Getty Images  2013.4.18.


2013.4.18. 世界を変えた100日 写真がとらえた歴史の瞬間
100 Days in Photographs Pivotal Events that Changed the World      2007

編者 National Geographic and Getty Images
National Geographicについては、別ファイル『2013.3.26. ピュリッツァー賞受賞写真全記録』参照

著者    Nick Yapp

訳者 村田綾子

発行日          2008.10.27. 第11             2009.1.1. 2
発行所           日経ナショナル ジオグラフィック社

地理知識の普及を目指し1888年に設立された米国のナショナル ジオグラフィック協会は、第一線のジャーナリストと写真家が、何年もの歳月をかけて取材した綿密な記事と写真を掲載する雑誌『ナショナル ジオグラフィック』誌の発行で知られる。一方、ゲッティ イメージズはスチール写真から動画まで扱う世界最大級のイメージコンテンツプロバイダーで、多くの著名報道カメラマンを専属に抱える。本書では、両者が初めてタッグを組み、それぞれのフォトライブラリーから選りすぐった写真で、世界の100日を綴った。各写真の背景を解説する筆者は、写真を通して歴史を紐解く分野などで多くの著作がある。BBCのテレビやラジオの番組制作やニューヨーク・タイムズ紙のコラム執筆の経験を持つ

写真が発明されてから間もない頃から、カメラのレンズは数々の決定的瞬間を切り取ってきた。リンカーン大統領暗殺の実行犯グループの処刑、第1次大戦開戦の引き金となったオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フェルディナント大公の暗殺の現場、原爆が投下された直後の広島の街…。
戦慄の場面を克明に写し取る一方で、カメラはまた、心を打つ光景もフィルムに収めていく。エイズに対する偏見がまだ根強かった頃、幼い患者をローマ法王が抱きしめた瞬間、スマトラ沖地震で家族に津波の危険を知らせようと高波が迫り来る沖へ向かって走り出す母親の姿・・・・・。
本書は、写真という技術が世に生まれてから現代に至るまでの世界の特別な100日を、詳細な解説とともに、第一線のカメラマンの作品を通して語る一冊。いままで見えなかった歴史の真実が見えてくるかもしれない。

1.   1851.5.1. 第1回万国博覧会開催
英ビクトリア女王の夫アルバート公の発案
湿板法という画期的な写真技術が考案されたばかり
世界最大のダイヤモンドやインドの象が展示
多くの国が対立し戦争状態にあった時代に、万博がより安全で金儲けにもなる戦いの場を提供したことは意義深い

2.   1854.10.25. 「死の谷」に向かった600の兵
ナポレオン3世の仕掛けたクリミア戦争(185456)で、英軍騎兵隊がロシア軍の包囲するバラクラバの谷に突入
戦争写真家の誕生

3.   1857.11.18. 英国軍、籠城の地獄絵
東インド会社の専横に反抗したインド人傭兵の反乱
鎮圧はしたが、東インド会社は解散、以後英国政府による直接統治が始まる

4.   1858.1.30. 不運続きの超大型蒸気客船 ⇒ リバイアサンの進水
イザムバード・キングダム・ブルネル(180959)は、英国を代表するエンジニアで起業の天才。橋・トンネル・蒸気船・機関車の建造、鉄道網の整備を手掛ける。鉄道の延長として初の大型蒸気船グレート・ウェスタン号をニューヨーク向けの定期航路用に建造して大成功、さらに初の鋼鉄の蒸気船で世界最大のグレート・ブリテン号を建造、さらに1854リバイアサン”(後のグレート・イースタン号)を建造するが、大き過ぎて寄る港がなく、就航機会がないままブルネルは死去。6年後客船として航行する機会のないまま売却

5.   1859.6.30. 激流の上の綱渡り
フランス人曲芸師シャルル・ブロンダン(182497)が、ナイアガラの1.5㎞上流を米国からカナダに向けて渡る

6.   1863.7.3. 南北戦争、死の行進
南軍の挽回を期したゲティスバーグでの総攻撃の3日目、リー将軍が最後の賭けに出る
ピケット少将率いる歩兵師団14千に北軍の大砲が炸裂、死者7千を出す敗北に、リー将軍は「すべて私の責任」と語ったという
戦争の趨勢は決したが、その後も2年続き、両軍とも悲劇を重ねる

7.   1865.4.14. リンカーン大統領暗殺
南部連合国を支持する人種差別主義者で俳優のジョン・ウィルクス・ブース他によって暗殺。4人の絞首刑の現場写真が公開

8.   1869.5.10. 米大陸横断鉄道の完成
1862年 太平洋鉄道法制定 ⇒ 大陸横断鉄道の建設開始。ネブラスカ州オマハとカリフォルニア州サクラメントの両方から線路を敷設
この日、ユタ州(当時は准州)プロモントリー・ポイントで接続、開通記念式典挙行

9.   1869.11.17. スエズ運河開通

10.    1871.3.18. パリ・コミューンの蜂起
普仏戦争でプロイセンに敗北した第二帝政が709月の崩壊、臨時の国防政府が成立したが、プロイセン軍がパリを包囲すると、パリ市内で臨時政府に対する革命が起き、コミュナールと名乗る集団が赤旗を掲げる。決起したのはマルクス主義に触発された革命分子で、1792年王制廃止当時の輝かしい日々の復活を目指した。
パリ市外でプロイセンと和平を結んだ政府がパリを包囲、お互いの殺戮が繰り返され、コミューンは息絶えたが、教会と国家、左派と右派、富める者と貧しいもの、軍と政府に分裂した国家が残り、フランスが再び1つになるのは第1次大戦でさらに多くの血が流された後のこと

11.    1889.5.6. エッフェル塔、公開
経済不況から一触即発の状況にあった社会不安一掃のために企図されたパリ万博のシンボルとして建造。高さ300m1931年エンパイア・ステート・ビル完成までは世界一

12.    1890.12.29. インディアン大虐殺
先住民族を強制的に移住させた時代の悲劇の1つ。サウスダコタ州ウンデッド・ニーの野営地からオマハの保留地へ移動させようとして抵抗され、虐殺に発展
責任は問われず、逆に政府の騎兵隊には名誉勲章が贈られた

13.    1897.6.22. 英国女王、栄光の式典
ビクトリア女王(18191901)の在位60年記念式典挙行

14.    1900.1.24. 第2次ボーア戦争の失策
南アフリカにおける英国とオランダ系移民のボーア人(現在のアフリカーナー)との間の生存競争 ⇒ ボーア人の建国したトランスヴァール共和国に世界で最も豊かな金鉱脈が発見され、争いに火を注ぐ。大英帝国の終焉の始まりを告げる

15.    1903.12.17. ライト兄弟の初飛行
ノースカロライナ州北部キティホークの海辺で、ウィルバー(18671912)とオービル(18711948)のライト兄弟が、12秒で36.6mの飛行に成功、59260mに伸びる

16.    1905.5.28. 日本海海戦
04.2.8.旅順港のロシア艦隊を日本艦隊が宣戦布告なしに奇襲
機雷が海軍の武器となった初めての戦争

17.    1905.6.14. 戦艦ポチョムキン号の反乱
日露戦争敗戦で士気が最悪になっていたロシア帝国黒海艦隊の戦艦で、乗組員がスープに蛆虫が入っていたことを契機に士官と殺し合いとなり、反乱者は戦艦を占拠、オデッサでは反乱者に呼応するように労働者がゼネスト。ルーマニアで投降したが、17年のロシア革命の布石となる事件

18.    1908.9.27. フォード、T型車を発表
ヘンリー・フォード(18631947)が、ベルトコンベアを利用した革新的な生産ラインから大量生産車第1号を生み出す ⇒ 1941.8.4.最後の1台出荷

19.    1909.4.6. 初の北極点到達
米海軍大尉ロバート・E・ピアリ(18561920)が、若い頃からの夢を実現
1911年に議会による調査を経て正式に北極点到達が認定された

20.    1909.7.25. ドーバー海峡初横断
フランスのルイ・ブレリオ(18721936)が、ロンドンの『デイリー・メール』紙の1000ポンドの賞金に挑戦して達成

21.    1911.7.24. マチュピチュの発見
米国エール大の若い教授ハイラム・ビンガム3(18751956)が、失われた都市ビルカバンバを探す旅の途中で発見。マチュピチュとは「老いた峰」の意。1440年頃インカ皇帝パチャクティが築いた都市、建築学的にも芸術的にも見事な遺跡

22.    1911.12.14. 南極点、初到達
ノルウェーのロアル・アムンセン(18721928)は徹底した職業探検家
11年英国の探検家ロバート・ファルコン・スコット大佐(18681912)と南極点一番乗りを競うレース。スコットはアマチュアで、アムンセンの犬ぞりに対し有用性の実証されていないガソリン燃料の動力そりを妄信。準備周到なアムンセンが南極点に到達したとき、スコット隊は580㎞も離れ壮絶な死を遂げる。アマチュアの熱意の敗北だった

23.    1912.4.14. タイタニック号沈没
ホワイト・スター・ライン社の世界最大の豪華客船の処女航海に出た1317人の乗客と891人の乗務員のうち1496人が、航海4日目に氷山との衝突による進水で沈没した船と共に海に沈む

24.    1913.6.8. ある女性運動家の抗議死
英ビクトリア朝の中産階級生まれのエミリー・デイビソン(18721913)は、婦人参政権を訴えて、エプソム競技場のダービーで最終コーナーにかかった国王ジョージ5世の持ち馬の前に飛び出して蹴殺されるが、5年後に参政権が実現

25.    1914.6.28. 第1次世界大戦前夜
サラエボでフェルディナント大公夫妻のパレードに若い民族主義者が手榴弾を投げ、後続車に当たって爆発、随行員が負傷。歓迎式典終了後、予定になかった負傷者を見舞いに行く大公夫妻の車列に別の実行犯が割り込んで大公夫妻を銃撃、知事官邸に到着直後に死亡
市民による写真報道の最初の写真 ⇒ 警備隊が容疑者を連行する現場を捉えている

26.    1915.4.24. アルメニア人大虐殺(ジェノサイド)
1次大戦の戦前から戦中にかけて、オスマン帝国で1.5百万のアルメニア人が死亡。記録に残る最初の大虐殺。帝国では二級市民として扱われ、キリスト教徒のためイスラム教徒からは不信心者として迫害。張本人は外相のタラト・パシャ(18741921)。トルコ政府は事実を認めていない

27.    1917.10.25. ロシア10月革命
皇帝ニコライ2世の処刑の後を継いだケレンスキーの臨時政府がいた冬宮を、レーニン支持者のアントーノフ=オフセエンコ率いる赤衛隊と海兵隊が襲撃、その日のうちにレーニンとボルシェビキが権力を掌握。翌日全ロシア・ソビエト大会において、人民委員会議に政権が譲渡された

28.    1917.11.20. 史上初の戦車戦
英陸軍によって、膠着状態の西部戦線で初めて戦車を終結した大規模攻撃が実施され、ドイツ軍の虚を突いて、大戦終結へと結びつく

29.    1919.1.4. ドイツの革命危機
戦争終結にはドイツ皇帝の退位しかなく、ヴィルヘルム2世は前年11月退位を宣言してオランダに亡命。ベルリンは労働者で溢れ、ローザ・ルクセンブルクト、カール・リープクネヒトの極左派が第2のロシア革命を目指して武装蜂起した(1.4.)が、帰還兵士を中心とした右派義勇軍に鎮圧され革命は失敗、共産革命の脅威は除去

30.    1919.6.28. ベルサイユ条約調印
1918.11.11.午前11時戦争終結

31.    1922.10.28. ムッソリーニのローマ進軍
ムッソリーニは狡猾な政治家。19年極右団体を結成、2年後社会主義者とうわべだけの和解協定を結びファシスト党を設立、政権を獲得。第1次大戦の戦勝記念のデモを乗っ取ってローマ進軍を計画。首相が戒厳令で対抗しようとするのを、国王が反対したため、そのままローマに入って勢力を拡大、1年半後には独裁を宣言

32.    1922.11.26. ツタンカーメン王の墓発見
アマチュアのエジプト考古学者、第5代カーナーボン伯爵ジョージ・エドワーズ・スタンホープ・モリニュー・ハーバート(18661923)が、最後にもう一度死の谷での伝説的なツタンカーメンの墓の発掘調査に出資、英国の考古学者ハワード・カーター(18741939)が実際の発掘に従事。3つの黄金の棺を始め膨大な出土品を発見。1929年までに、王墓発見の関係者11人が不自然な死を遂げている

33.    1927.5.21. 大西洋横断飛行の成功
20年代にニューヨーク~パリ初飛行に25千ドルの賞金が出されたが成功者は皆無
チャールズ・リンドバーグ(190274)が、実業家の援助で単葉機を設計・製造。軽量機のため積載量は厳しく、約5600㎞の飛行に必要な量より4リットルだけ多い1707リットルのガソリンに、サンドウィッチ4つと水筒2本分の水を用意。5207:40amロングアイランドのルーズベルト飛行場から飛び立つ。アイルランド、イングランドを経てパリのル・ブールジェ飛行場に2110:24pm着。賞金と米空軍殊勲十字章と名声を獲得。その後英国に飛んで、解体されてワシントンに帰還、再度組み直された

34.    1929.10.29. 世界大恐慌
2129年 ダウ平均は5倍に上昇。9月初旬からの1か月で17%急落。1024()にはさらに暴落。ロックフェラーとモルガンが市場に介入して持ち直したが、29日再び12%暴落、悲劇の火曜日となり、以降世界を巻き込んだ大恐慌へと発展
強欲と無知、アメリカン・ドリームの盲信が原因

35.    1929.11.29. 南極点上陸、初飛行
米国海軍のリチャード・E・バード少将(18881957)は飛行機操縦の天才、航空計器を開発。まず北極点に挑戦、直前で引き返したが、挑戦が称賛され、南極への資金提供を受ける。アメリカ基地に3機持ち込み、同年1月には探査飛行を開始。前日基地を飛び立ち、翌日未明0:30am南極点を通過

36.    1930.4.5. ガンディーの塩の行進
モハンダス・カラムチャンド・マハトマ・ガンディー(18691948)が、英国による塩の専売に象徴的抗議を行うため、インドのアフマダバードからアラビア海沿岸を目指して24日間400㎞を歩き通して、この日ダンディーに到着し翌日海岸の塩を含んだ泥の塊を掴んで言った、「この塩で、私は大英帝国の土台を揺さぶっている」
人々はガンディーに従って製塩の運動に参加、ガンディーは投獄されたが、やがてニューデリーの総督府に招かれ、翌年にはジョージ5世に謁見、独立に向けた準備が始まる

37.    1934.10.16. 毛沢東の長征開始
毛沢東率いる中国農工紅軍の史上最も注目すべき大行軍となる長征が、追い詰められた江西省南西の井岡山から始まる ⇒ 10万人が370日間で12.5km(欧米の研究では1/2以下とみられる)を踏破、35.10.19.目的地の陝西省北部の延安に到着したのは約7
目的は、国民軍から逃れるとともに、共産党の基盤である地方の農村への回帰。1年後には紅軍の全4部隊が合流

38.    1936.8.3. ヒトラーの夢砕く勝利
アーリア人種の優越性を見せつけるというヒトラーの夢を砕いたのは、アラバマ州出身の22歳の黒人ジェームズ・クリーブランド・オーエンス(191380)で、100m金メダル(1003)2位も米国の黒人ラルフ・メトカーフで1004
ヒトラーに冷たくあしらわれたのは、オーエンスではなく大会初日の走り高跳びで優勝したアフリカ系米国選手のコーネリアス・ジョンソン。ヒトラーが握手を拒否した時、オリンピック委員会は、メダリスト全員と握手するか、誰ともしないのかどちらかにするようヒトラーに進言、ヒトラーは後者を選んだため、オーエンスが100m200m、走り幅跳び、4100mリレーで優勝した時はヒトラーは握手に応じられなかったのが真相
ドイツは、大会最多のメダル89(内金33)を取ったが、アーリア人による制覇は果たせなかった

39.    1936.12.10. 王位を捨てた英国王
ジョージ5世の長男にしてプリンス・オブ・ウェールズのエドワード皇太子が、31.1.10.結婚運の悪かった米人女性ウォリス・シンプソンに紹介され、ほどなく恋に落ちる
当時、英国人の大半は離婚を恥ずべきことと考えた時代
36年ジョージ5世の逝去でエドワードが皇位を継承。ウォーリスは離婚調停を始める。エドワードがボールドウィン首相に結婚の意志を伝え、首相は慰留、世論も猛反対だったが、国王の意志は固く、この日退位文書に署名、翌日ラジオで退位を宣言、その日のうちに弟ヨーク公がジョージ6世となって即位
愛する女性なしでは国王として重責を担い、義務を果たすことができないと分かって、自ら決断したので、この帝国を忘れたわけではなく、みんなのために最善であることを考え抜いた結果だと説明
エドワードは、ウィンザー公となり、戦時中はフランスに住み、後にバハマ諸島の知事に任命

40.    1937.4.26. ゲルニカ空爆
スペイン北部のゲルニカ入江に位置するバスク海岸沿いの町。スペイン内戦(193639)の激化で、フランコ将軍率いる反乱軍がビルバオ進軍の途上、独伊空軍が主体の航空部隊により3時間にわたって45tの高性能爆弾が投下され、市人口の1/31600人が死傷
交通の要衝も兵器工場も爆撃されず、中世のバスク会議がその木の下で開かれたという聖なる樫の木も無傷で、爆撃は単に若いパイロットの爆撃の予行演習に過ぎなかった

41.    1940.5.10. ナチスの電撃戦
39.9.ポーランド侵攻後鳴りを潜めていた西部戦線に、突然ヒトラーがノルウェーとデンマークに侵攻、次いでこの日ベルギー、ルクセンブルク、オランダへの電撃戦(ブリッツクリーク)を開始、大量の戦車を先頭にした突撃だが、元々作戦を考えたのは英国軍人
3日後には真の目標だったフランスに到達、より強い火力の戦車を有する英国遠征軍の反撃に遭いつつも622日にはフランスを降伏に追い込む

42.    1940.9.7. ロンドン大空襲(ブリッツ)
ドイツ空軍(ハルトバッフェ)と英空軍(RAF)との戦い、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)がこの年7月開始、1229日のロンドン市外への激しい空襲で終わる
英空軍の殲滅が無理だと悟ったゲーリングがロンドンの計画的破壊を命じ、この日最初の市街地空爆を開始、空襲は41.5.11.まで続き突然終わる。43千の市民が犠牲に

43.    1941.12.7. 真珠湾攻撃
7:53am360基の爆撃機が真珠湾を奇襲、戦艦8隻、駆逐艦3隻、小型戦艦11隻、軍用機200機が破壊され、2400人以上が死亡(うち1177人は戦艦アリゾナの乗組員)
日本軍の損失は航空機38機と小型潜航艇5隻、その数時間後南方への攻撃を開始

44.    1943.1.31. ドイツ軍、冬将軍への降伏
41.6.ヒトラーの対ソ侵攻バルバロッサ作戦開始、42.9.スターリングラードを包囲するが、冬になって包囲する側が包囲され、ヒトラーに撤退を拒否された包囲軍は飢えと寒さから降伏、この敗退が大戦の最も重要な転機となり、ヒトラーが将校の信頼を失う

45.    1944.6.6. ノルマンディー上陸作戦(“オーバーロード作戦”)
ドイツは、連合軍の大規模なフランス進行を予測するも、上陸地点までは分からなかった
アイゼンハワーが選んだのは、海岸の広いノルマンディーで、シェルブールの大きい港は攻撃用舟艇の輸送に適していたから。前日の予定だったが、悪天候のため24時間延期
オマハビーチでのドイツ軍の激しい迎撃もあったが、当日夜までには156千が上陸

46.    1945.4.11. ホロコーストの終焉
強制収容所は目新しいものではなかったが、ナチスの収容所がこれほど悪名高いのは、そこが効率性とサディズムの組み合わせによって運営されていたから
多くが最終的解決のための場所となり、帝国内のナチスを根絶やしにする場所になった
44日に米機甲師団がオールドルフの強制収容所に到着、この日は他の歩兵師団がワイマール近郊のブーヘンバルトに来て惨状を目の当たりにした

47.    1945.8.6. 広島、原爆投下
連合軍がドイツに対抗する形で原爆開発を開始(“マンハッタン計画”)、ニューメキシコ州のロスアラモスの研究所でオッペンハイマー(190467)以下の科学者が2種類の原爆製造、ルーズヴェルトに因んだリトルボーイとチャーチルに因んだファットマンと名付けられ、45.7.実験に成功。20億ドルの成果を試すべく広島が選ばれた
機長の母親の名を冠した爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された原爆は、米人捕虜23人を含む約8万人を即死させ、最終的には広島の人口35万のうち14万人が死去。3日後には長崎にファットマンが投下され、6日後に日本が降伏

48.    1947.8.15. 印パ分離独立
40年初頭、英国が日本に敗北すると、インドでの英国の威信が失墜、独立要求が強まる
45年総選挙でのチャーチル敗北と、47年ルイス・マウントバッテンの総督就任により、総督が警告を無視して英軍のインド撤退を言明したため、国内が混乱、ヒンドゥーとイスラムによる近代初の宗教戦争に発展。混乱の最中の815日英国の統治終了し、インドは2つの宗教によって分離独立することとなった

49.    1948.5.14. イスラエル建国
1897年バーゼルでの第1回シオニスト会議で建国宣言、20年後バルフォア宣言でイギリスが建国に賛意、国際連盟もパレスチナをイギリス委任統治領とすることを認める
ナチスの虐殺によりユダヤ人国家建設の必要性を訴える声の高まりを受けて、国連総会でパレスチナをユダヤとアラブに分割することが決定される
46.6.450人の難民がパレスチナ沖合で難破、国際世論は乗客を英雄視
この日、英国の委任統治が終了、新生国家イスラエルが誕生し、米国が承認

50.    1948.6.24. ベルリン封鎖
東西に分割されたドイツの復興の差が顕著に表れたのがベルリン
この日、ソ連が西ベルリンへ向かう陸路の交通を遮断、西ベルリン市民を屈服させようとしたため、西側が24時間体制で空輸を開始。米英の空軍が462日間278,228回で2,326,406tの物資を空輸、フランスは90日で新空港を建設(現在のテーゲル空港)

51.    1949.2.1. 巨大望遠鏡の初使用
1917年カリフォルニア州パサデナのウィルソン山天文台で研究を始めたエドウィン・ハッブル(18891953)が、地上で最も強大な100インチのフッカー望遠鏡を使って23.10.セファイド変光星が移動していることを発見、宇宙が有限ではなく膨張を続けていることを実証 ⇒ アインシュタインもかつて膨張説を唱えたが後に撤回、撤回を「人生最大の失敗」と述懐したという
大戦後ハッブルは、ヘール200インチ(口径5.08m)望遠鏡の設計と建設に全てを捧げる

52.    1950.9.15. 朝鮮戦争、仁川上陸作戦(“クロマイト作戦”)
50.6.25.北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に侵攻、冷戦が始まり、国連が米国軍(後国連軍)による武力対応を承認、7月米海兵隊が朝鮮半島に上陸するが、釜山まで押し込まれる
マッカーサー元帥(18801964) 指揮する国連軍が反撃を開始、この日北朝鮮軍の背後の仁川に大量の軍隊と物資を投入、中国が北を支援して激戦となり、53.7.27.の停戦までには米軍25千、韓国1百万以上、北と中国はさらにそれ以上の死者を数える

53.    1952.7.2. 小児麻痺への勝利
30年代にワクチンの開発が始まり、48年にボストンの小児病院の研究グループが人体組織を使ったウィルスの大量培養に成功。米国の医師ジョナス・ソーク(191495)が、不活化ワクチンを作り、この日ポリオから回復した子を対象に治験開始、効果を確認してポリオに罹ったことのない子供たちにも接種して発病者がなかったことを確認。2年後には全米でワクチンの接種を実施。5年後には罹患例は1/10に激減

54.    1953.2.28. DNAの分子構造発見
50年代初め、科学者たちはデオキシリボ核酸DNAの研究にしのぎを削る ⇒ この日、フランシス・クリック(19162004)のアイディアにヒントを得たジェームズ・ワトソン(1928)が閃きの瞬間を迎える。のちにこの偉業がモーリス・ウィルキンス(19162004)の研究に基づくことが認められた。ロザリンド・フランクリン(192058)の撮影したX線回折写真も重要な役割を果たしたが長らく発見の貢献者として顧みられず、死後4年の62年、他の3人と共にノーベル賞受賞
⇒ 誤植:ノーベル賞はフランクリンを除く3人のみ。死後のノーベル賞は例がない
12-11 生命科学者の伝記を読む』参照

55.    1953.5.29. エベレスト初登頂
1924.6.「そこに山があるから」で有名な英国の登山家ジョージ・マロリーは、エベレスト頂上まで数百メートルの所で消息を絶つ。装備は防寒の役を果たしていなかった
53.3. 英国の第9次遠征隊(隊長ジョン・ハント)に参加したニュージーランドの養蜂家エドモンド・ヒラリー(19192008)とシェルパのテンジン・ノルゲイ(191486)がこの日11:30am頂上に立つ

56.    1954.3.9. マッカーシズムの終焉
ジョゼフ・マッカーシー(190857)は、兵役記録を偽り、敵を中傷しながら瞬く間に政界の階段を上り詰め、47年ウィスコンシン州の共和党上院議員就任すると同時に、民主党閣僚たちへの攻撃を開始
反共ヒステリーを煽るというアイディアは、カトリックの神父に吹き込まれたもの。上院選再出馬でこの戦術を使って成功。朝鮮戦争に対する国民の不安を利用して赤の恐怖を現出、反撃した者は僅か。さらに彼の矛先は陸軍高官に向かい、売国奴を糾弾
大統領選で彼の支援を受けたアイゼンハワーは、彼の行為に激怒、敵対者たちが反撃を開始し、この日テレビ番組で彼を告発。半年後に上院は彼の譴責決議を採択。マッカーシーは3年後に急性肝炎により死亡

57.    1956.9.9. プレスリー、テレビに出演
53年 メンフィス州で「黒人の音と感性を持った白人」を探していたレコード会社のオーナーがエルビス・プレスリー(193577)の歌を聴いてレコードを売り出す決心をする。プレスリーは数ドル払ってプロ歌手としてスタートを切る
55.8.RCAに移籍。翌年1月の初レコーディングが《Heart Break Hotel》で同年の全米チャート1位。テレビに初登場、7月の《I Want You, I Need You, I Love You》が瞬間全米1位、続く《Hound Dog》《Don't be Cruel冷たくしないで》の両面シングルは11週連続1位となり、ポップス史上に残る商業的成功
この日、初出演の「エド・サリバン・ショー」で《Hound Dog》を歌う前にエルビスが「世界で一番悲しい曲」として紹介 ⇒ 視聴率は空前の82.6%、60百万人が見た
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58.    1956.10.23. ハンガリー動乱
56.2.フルシチョフは、党大会で前任のスターリンを殺人者と断罪。東欧諸国の革命を煽る
この日、ハンガリーのスターリンと呼ばれた共産党第一書記マーチャーシュ辞任要求のデモにより改革派の首相が就任したが、114日ソ連の戦車部隊がブタペストに侵攻、傀儡政権を樹立。民衆は武装蜂起するが鎮圧され、強硬な共産党体制が支配を奪還
西側諸国は、第二次中東戦争で応援する余裕がなかった

59.    1957.9.4. ある黒人生徒の初登校
55.5.31.最高裁は、「ブラウン対トピーカ市教育委員会」裁判で公立高校における人種差別を違憲としたが、実施は簡単にはいかなかった ⇒ アーカンソー州リトルロックでは57年秋から黒人が白人のみのセントラル高校に入学することになるが、夏休み最後の日、知事が明日同校は「黒人立ち入り禁止」になると声明。州兵が出動して警備する中、黒人の登校はひとまず延期となるが、電話連絡の取れなかった1人がこの日登校、行く手を遮る白人生徒たちの様子が全世界に放映され、人種分離主義者も大打撃を受けた

60.    1957.10.4. 人工衛星第1
55年アイゼンハワー大統領は、2年後の国際地球観測年の人工衛星打ち上げ構想を発表
この日、ソ連が史上初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ ⇒ 重量は米国の8倍、米国の第1号は58.2.の予定で、それまでにはスプートニク第2号はさらに6倍の重さで野良犬のライカまで乗せて打ち上げられた
米ソを含む22か国が、平和目的でのみ宇宙探査をすることに同意

61.    1959.1.2. キューバ革命軍の勝利
58.12.腐敗したフルヘンシオ・バティスタ政権打倒を掲げた革命家による5年に亘る武装闘争は、カストロとその弟チェ・ゲバラらが率いるマルクス主義ゲリラによる全土制圧であっけなく終了、元旦にバティスタはドミニカに逃亡、翌日カストロらが首都に入り、カリブ海における共産主義の前哨基地となる

62.    1959.7.17. 人類の祖、発見!
1931年英国人チャールズ・ボイスの資金援助を受け、ルイス・リーキー(190372)がタンザニアのオルドバイ峡谷で考古学的遺物の発掘に従事。流感でテントにいた日に妻メアリーがアウストラトピテクス・ボイセイの化石を発見、180万年前の初期人類の頭骨。人類直系の祖先ではないが、共通の祖先から分かれた初期の種で、人類の進化の年表を塗り替えた

63.    1960.1.23. 地球、最深部に到達
地球の裂け目でいちばん深い場所は、グアムの南西約340㎞、北太平洋西部のマリアナ海溝の最深部チャレンジャー海淵。1951年この海域の深度調査を初めて行った英国海軍の測量船の名前に因んで命名
この日、深海潜水艇トリエステ号が米海軍の輸送艦でマリアナ海溝に向かう。トリエステ号はスイスのエンジニア、ジャック・ピカールが建造した後アメリカに売却したもので、この日はピカールが調査に参加、米海軍ウォルシュ大尉と5時間かけて海底に到達、11,521mを記録(後に10,916mに修正)、海底での圧力は1平方インチあたり8t以上、海底は「明るく澄んでいて、しっかりした珪藻土の軟泥でできている」と表現。海底には20分留まっただけで、窓にひび割れが見つかったため浮上、水面まで3時間15分を要した

64.    1960.9.26. 大統領選、テレビへ
選挙戦の一環として初めてテレビが利用されたのが1960年の大統領選 ⇒ ケネディ(191763)、ニクソン(191394)ともテレビの影響力を承知していたため4回の討論会に同意、第1回目がこの日シカゴのCBSスタジオで収録。議題は国内問題で、ケネディは福祉と経済に触れ、「米国が再び動き出す時が来た」と語り「私たち民主党は動く準備が出来ている」と結び、守勢に立たされてニクソンは数字を挙げて現政権を擁護。テレビ視聴者は殆ど健康そうに日焼けして自信に溢れたケネディの勝ちと考え、ラジオの視聴者は引き分けと見做した。この反応の違いはテレビの力を顕著に物語る

65.    1962.10.24. キューバ危機
62.10.14.キューバ上空を飛んだ米国のスパイ偵察機がミサイル基地を発見。米国国家安全保障会議は、空爆か海上封鎖によってソ連とキューバを交渉の場に引きずり出すかの選択を迫られ、後者を選ぶ。「封鎖」は戦闘行為となるため「隔離」と呼びかえる
10.22.ケネディはフルシチョフに基地とミサイルの撤去を求めるが、キューバは軍を出動させ、フルシチョフはキューバに向かうソ連の補給船団の航行続行を指示
10.24.フルシチョフが船団の航路を変更させ国に戻すとともに、米国が攻撃しないことを条件にミサイル撤去を約束
同日米国防総省は、U2型スパイ偵察機がキューバで消息を絶ったと発表、別の米軍機も攻撃を受けたと報告、予備役召集までしたが、10.28.ミサイル撤去に公式に合意して終息

66.    1963.8.28. キング牧師の演説
63.3.マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(192968)が、非暴力直接行動による公民権運動の大規模な行進実行を宣言 ⇒ この日ワシントンで25万人がワシントン記念堂からリンカーン記念館までを平和的に行進、米国史上最も有名な2つの演説――ジョン・ルイスの「目覚めよ、アメリカ」で開幕し、キングの「私には夢がある」で閉幕。
大行進は、64年の公民権法と65年の投票権法の成立に結び付いた

67.    1963.11.22. ケネディが暗殺された日
ダラスのエルム通りをパレード中に凶弾に倒れる
11.29.公式調査委員会の調査開始、10か月後、陰謀はなかったと報告
76年第2の公式調査委員会設置、暗殺から3年の間に18人の重要証人の死が相次いでいると指摘したが、依然として真相は闇の中

68.    1966.5.16. 文化大革命
この日公式に幕を開けた毛沢東の文化大革命の目的は、共産革命の加速と、社会の安定を優先する修正主義的な経済政策を実行した党員(走資派)の一掃だったが、歴史上類を見ない驚異の粛清となった ⇒ 実際の行動は毛沢東から直接命令を受けた紅衛兵
翌年春には国内の大部分が混乱、2年後毛沢東は大革命の勝利を宣言したが76年まで続く

69.    1967.6.1. ビートルズバンドを組む
67年ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮してコンサート活動を行う、という考えられないアイディアがアルバムの形で実現。史上初のコンセプト・アルバムとなり、音楽史上最も革新的で成功した作品となる
サイケデリックな衣装を着た架空バンドの4人がカメラに収まった
グラミー賞の4部門で最優秀賞を取り、批評家が称賛、ファンが崇拝、美術界はジャケットの大切さを認識(ジャケット・デザイン賞もとる)

70.    1967.6.5. 第三次中東戦争
56年の第二次中東戦争以降、ナセル他のアラブ諸国の指導者は定期的にイスラエルを糾弾している中、66.11.ヨルダン国境付近でイスラエルの国境警備隊の装甲車が地雷に触れて死者を出したのを契機に、対話より武力衝突となり、ティラン海峡からイスラエル船舶の通行を締め出す措置を契機に第三次戦争が開始、イズラエルの猛烈な速攻により11日の停戦時にはガザ地区、シナイ半島はもとより、ゴラン高原までイスラエルの手中に陥る

71.    1967.7.6. ビアフラ内戦と飢餓
60年代半ばのナイジェリア東部ビアフラ州の飢饉は、内戦が生み出したもの
この日、政府軍が独立を宣言したイボ族の故郷ビアフラへの攻撃を開始、以降3年にわたって物資の供給を遮断した結果、1百万人以上の住民が死亡、大半は餓死。子供たちは蛋白質の欠乏で起きるクワシオルコルで死亡(筋肉がやせ衰え腹部が膨れ上がる)
国際赤十字委員会が史上最大規模の救済活動を行い、必需品の空輸により凌ぐ
内戦は70年に集結、ビアフラはナイジェリアにゆっくりと吸収されていく

72.    1968.5.14. パリ、五月革命
60年代には、世界の各地の街頭で民衆のデモが繰り広げられた。目的は政府の転覆
パリではこの日のゼネストを挟んで1か月以上紛争が続き、機動隊は躊躇なく武力を行使、ドゴール大統領が条件付き譲歩と改革を約束してようやく終息

73.    1968.8.20. チェコスロバキア侵攻
68.4.再び民主化への要求が高まり、共産党第一書記のドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」システムの導入を主唱、後にプラハの春と呼ばれる
モスクワは強硬姿勢で対応、この日他の東欧諸国軍がソ連と一緒にプラハに侵攻、チェコ市民の怒りと抵抗に火が付いたが、ソ連はドゥプチェクを連れ去り抵抗は鎮圧

74.    1969.7.20. 人類初の月面着陸
61.4.ソ連のガガーリンが宇宙へ、3週間遅れでアメリカのシェパードが続く
69.7.16.ケープケネディ(現ケープカナベラル)からアポロ11号が打ち上げられ、4日と6時間45分後のこの日ニール・アームストロング船長とエドウィン・バズ・オルドリンが乗った月着陸船イーグル号が月面の静かな海に着陸、月面への第1歩を踏み出す
21時間の間、2人は岩石を集め、ニクソンと電話をし、星条旗を立てた後、地球に帰還

75.    1969.8.15. ウッドストック開催
「ロックの時代の到来」
ニューヨーク州サリバン郡ベセル近くのマックス・ヤスガー農場の240haの牧草地でこの日から3日間開かれたロックの祭典。予想の2倍の45万が詰めかけ
地元の警察と住民にとっては、果てしなく長い悪夢 ⇒ イベントの中止を求めて訴訟まで起こる
主催者の若い4人「ウッドストック・ベンチャーズ」が2.4百万ドルの借金を完済するまで時間がかかったが、フェスティバルは大成功

76.    1972.2.21. ニクソン大統領の中国訪問
冷戦の中で中国との関係がソ連との交渉上有利と確信したニクソンとキッシンジャー(安全保障担当補佐官)が密かに工作して、大統領の北京訪問にこぎつける
強行日程で上海、杭州まで訪問、2週間後中米関係の正常化に合意、ニクソンの外交政策は完全な勝利を収める

77.    1972.9.5. オリンピック・テロ事件
パレスチナのテロ組織「黒い9BSO」のメンバー8人がミュンヘン・オリンピック村のイスラエル選手宿舎に侵入、選手2人を射殺、7人を人質として、囚人の釈放などを要求したが、逃走用ジェット機に乗り込んだところで銃撃戦となり、イスラエル選手団11人、テロリスト5人が死亡、残る3人のテロリストは逮捕されたが後に釈放

78.    1974.8.9. ニクソン大統領辞任
中ソとの外交交渉やベトナム戦休戦で世界一流の政治家と見做され、大統領再選も果たしたばかりのニクソンだったが、選挙中のマクガバンに対する不正工作が噂され、73.6.17.ワシントンのウォーターゲート・ホテルでの民主党大会に不法侵入した事件に関する上院特別調査委員会でニクソンの関与が明らかとなり、大陪審はニクソンを「未起訴の共謀犯」とし、連邦最高裁も全員一致でニクソンの犯行を記録したテープの提出を命じ、弾劾手続きが進む中、この日辞任

79.    1975.4.30. サイゴン陥落
75.3. 北ベトナム軍が73年の停戦ラインを越え、圧倒的な力で進軍。フォード大統領はこの日の前日南ベトナムに残る全米国民に避難命令を出す
この日、南ベトナムの大統領が無条件降伏を発表
米国大使館から避難する数千人の人で大混乱の様子が米国にテレビで中継
最後まで残った米海兵隊員11人が大使館を離れたのは7:52pm2時間後北ベトナムの戦車が南ベトナム大統領官邸に突入

80.    1977.10.26. 最後の天然痘患者
天然痘は、3000年前インドかエジプトで発生
1798年英国の医師エドワード・ジェンナーの発見した予防ワクチンで希望の光が差す
1967年疫学者ドナルド・ヘンダーソン率いるWHOの医師団が撲滅キャンペーンを開始、徐々に感染源を根絶やしにして、この日ソマリアで最後の患者として認定
1980.5.8. WHOが根絶を宣言

81.    1979.1.7. ポル・ポト政権崩壊
ポル・ポトの本名はサロット・サル(192498)、フランス留学中につけられた綽名がポル・ポトで、「政治家になりそうな人」の意
特に優秀ではなかったが、過激派組織の中で頭角を現し、62年カンボジア共産党の書記に上り詰める。60年代中頃、過激派を弾圧した国家元首シアヌーク政権下で支持を拡大
70.3.米国の支援を得たロン・ノル将軍のクーデターが起き、シアヌーク政権転覆
シアヌークは北ベトナムの説得で共産党と手を結ぶ
4月の米国と南ベトナム軍のカンボジア侵攻に対抗して、ポル・ポトは中国の支援で共産党(クメール・ルージュと改称)を強化して立ち向かうと同時にプノンペンを制圧して大虐殺を開始
78.12.ベトナム軍がカンボジアに侵攻してクメール・ルージュを打倒、この日シアヌークも中国へ逃亡。以後20年にわたってクメール・ルージュによる悲惨なゲリラ戦が展開

82.    1979.11.4. テヘラン米大使館占領

79.1.イラン国王モハンマド・レザー・パフラビーの専制体制が崩壊、イスラム教職者のホメイニ(190089)が後釜に座り、全外国人が国外退去して初めてイランの最終勝利があると宣言。2週間後に米大使館襲撃
この日、革命派の学生たちが米大使館を占拠、人質63人を取る ⇒ カーターは西側のイラン資産凍結で対抗。4月人質救出作戦に失敗、米兵8人死亡して計画は中止
81.1.20. 444日後に解決、人質は無事解放

83.    1980.8.31. 「連帯」認められる
レフ・ワレサ(1943)率いる独立自主管理労働組合「連帯」が公認され、反共産主義の考えと運動が広がり、ソ連崩壊へと繋がる
共産党主導の労働組合中央評議会に対抗して自由労働組合を結成、80年夏レーニン造船所を中心に10百万以上の労働者の指示を受けてストに突入、反体制活動家を釈放させる

84.    1985.5.16. オゾン層破壊
南極大陸には、世界の淡水の70%、氷の90%がある
対流圏(地上10㎞まで)の上が成層圏(1050)、成層圏の1530㎞にあるオゾン層は太陽光に含まれる紫外線のうち生物に有害なものを吸収する
この日、『ネイチャー』誌にオゾン層の調査結果が発表され、あまりに低い濃度に驚く
87年『モントリオール議定書』調印 ⇒ オゾン層破壊の原因と考えられる人口化学物質の生産と消費を段階的に廃止する国家協定

85.    1985.7.13. 「ライブ・エイド」開催
フィラデルフィアとロンドンでコンサートが同時開催 ⇒ アイルランドのバンドのボーカルだったボブ・ゲルドフがエチオピアの飢餓の報道を見て衝撃を受け、音楽関係者に声を掛けてチャリティー・プロジェクトを立ち上げ。呼応したハリ-・ベラフォンテがアメリカで立ち上げたのが「USA for Africa」で、制作した曲が《We are the World
コンサートには錚々たる面々が集まり、大成功の裡に70百万ドルの収益となる

86.    1986.1.28. スペースシャトル爆発事故
チャレンジャー号の打ち上げに失敗。この年計画した15回の最初
一部技術者が発射延期を求めたが強行。スコビー船長から「出力上昇」の応答が最後
外部燃料タンクが分解したときに「局所的な燃焼」があったと報告されただけ

87.    1986.4.26. チェルノブイリ原発事故
V.I.レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所4号炉で史上最悪の爆発事故発生
原因は、作業員の人為的ミス、原子炉の設計上の欠陥など、諸説入り乱れたまま
前日操業を停止し試験が行われていたが、キエフから電力供給量を増やせとの要請が入り、急遽経験の浅い夜間作業員によって実験が続けられ爆発に至る。原子炉の作業員はもとより、消火作業に当たった消防士もほとんどが1年以内に死亡。蒸気爆発を防ぐため事故処理作業員たちが自ら猛火の中に入った
ウクライナ、ベラルーシ、ロシアはいまに至るまで汚染に晒されている
ベラルーシの国土の99%が汚染され、9歳の娘は大人の2倍もの大きさの頭を持つ奇形

88.    1987.5.4. 世界、エイズ対策に動く
人類がいつ後天性免疫不全症候群AIDSに感染したのかは不詳、最初の症例の報告は816月。ヒト免疫不全ウィルスHIVの感染が起きたのはそれより数年早い
81.7.『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事が西側諸国への警鐘 ⇒ ニューヨークとカリフォルニアの同性愛者のうち41人が致命的な珍しい癌に罹患。8人が2年以内に死亡
87年 バローズ・ウェルカム(現グラクソ・スミスクライン)が初の抗エイズ薬を製造
社会的な転換期は、英国のダイアナ妃が公の場でエイズ患者と握手したとき
政治的な転機がこの日、世界保健総会WHAで世界エイズ戦略が採択
87.9.サンフランシスコのミッション・ドロレスを訪問したローマ教皇パウロ2世は、「教皇、万歳!」と叫んだ4歳のエイズ感染児を抱きしめた。この子は6年後逝去

89.    1989.6.4. 天安門事件
中国人民は、五・四運動から70年、建国から40周年の節目に何らかの形で抗議をするのに相応しい年だと考え、天安門でデモを企図。春先から広場の学生は着実に数が増え熱気を帯びてくるが、共産党機関紙は「反革命動乱」と断罪、学生は座り込みで応じる
ゴルバチョフ来訪を前に、世界のメディアが押し寄せて見守る中、戒厳令が布告され人民解放軍が出動。前夜から配置に就いた戦車隊がこの日正午までに広場を一掃。戦車隊に1人で立ち向かう青年の姿が世界中に配信されたが犠牲者の映像が流れることはなかった

90.    1989.11.9. ベルリンの壁崩壊
大戦終結後ベルリンは4つに分割して占領、さらに東西に2分 ⇒ 61.10.有刺鉄線の代わりに45㎞に亘る石壁が完成。49622.5百万に達した東から西への逃亡者は、6289年にはちょうど5千にまで減少
87年 境界に立ったレーガンがゴルバチョフに壁の撤廃を呼びかけ、その言葉が時流を捉える
89.8.23.ハンガリーがオーストリアとの国境における規制を正式に撤廃 ⇒ 翌月東ドイツからの観光客13千がハンガリー経由で西へ脱出。ホーネッカーが辞職へ
この日、新政権が海外旅行の自由化法を制定
89.12.25.ベルリンでコンサートが行われ東西ドイツ、米英仏ソの混成オーケストラ、合唱団がベートーヴェンの第九を演奏、”Freude喜び”Freiheit自由に変更して歌われた
半年後東ドイツ軍が公式に壁の撤去開始、90.10.3.東西ドイツ統一までには完了。3カ所だけが分断の過去と統一後の未来の象徴として保存された

91.    1990.2.11. ネルソン・マンデラ解放
ネルソン・マンデラ(1918)は黒人解放組織の指導者、64.4.終身刑宣告
88.12.何の前触れもなしに本土内の刑務所に移送、南ア共和国大統領デクラークはヨハネスブルクでの釈放を望んだが、マンデラは拒否、刑務所から普通に歩いて出ていくことになり、この日午後26年振りに右手こぶしを突き上げ勝利を宣言

92.    1991.8.6. ネット時代の到来
80年 英国の物理学者ティモシー・バーナーズ=リー(1955)が、ジュネーブにある欧州合同原子核研究機関CERNでの情報共有の仕組みとして発明したワールド・ワイド・ウェブに基づいて、この日初のウェブサイトが開設。同時にウェブ上の共通言語としてHTMLを、インターネットを通じたコンピューター上の情報伝送の手段としてHTTPも開発

93.    1997.2.22. クローン羊の誕生
別の個体と全く同じ遺伝子を持つ生物が初めて人工的に作られたのは1952年、おたまじゃくしのクローンだった
96.3.『ネイチャー』誌にエディンバラのロスリン研究所のイアン・ウィルマットのチームが研究内容の詳細を発表、未受精卵から細胞核を除去し、別の成羊の核を移植
この日、フィン・ドーセット種の雌羊ドリーが披露 ⇒ 関節炎や肺癌に罹患、平均寿命の半分の6歳で安楽死

94.    1997.8.31. ダイアナ元皇太子妃の死
ダイアナ元妃と世界一の富豪モハメド・アルファイドの息子ドディが乗ったメルセデスS280が、リッツの裏口から急発進、パパラッチが追いかける中、アルマ広場のトンネルの13番目の支柱に激突、ダイアナは3時間半後に病院で死去、翌日のこの日公表
事故をめぐる噂が各種飛び交う中、英国王室の人気は急落

95.    1998.12.19. 大統領の弾劾裁判
ホワイトハウスの実習生だったモニカ・サミーユ・ルインスキキーが42代大統領クリントンと不倫関係に陥ったのは95年秋。半年後国防総省への異動に納得しなかったルインスキーは友人に情事の秘密を打ち明ける。友人はそれをテープにとって、ホワイトウォーター疑惑(州知事時代の不正土地開発・融資疑惑)を調査中の独立検察官に話す
98.1.大統領は不倫関係を否定したため、検察官は偽証罪に問う報告書を作成
98年秋の中間選挙で民主党が予想外に議席を伸ばしたことを背景に、この日下院で偽証と司法妨害の嫌疑により弾劾が決議 ⇒ 1868年のジョンソン以来(1票差で否決)
99.2. 上院では偽証罪が4555、司法妨害も5050で無罪となったが、続く2000年の大統領選では共和党が勝利

96.    2000.9.28. 第二次インティファーダ
前日ガザ地区のユダヤ人入植地で、イスラエル国防軍の軍曹が爆死
この日、イスラエルのリクード党党首シャロンが、旧市街の一角を訪れる
インティファーダとは、イスラエル人とパレスティナ人の間の大きな武力衝突のことで、いろいろな出来事のどれが引き金か見方が分かれる。翌々日も衝突が起きて少年が殺されたが、数年経ってもどちらに殺されたのかは不明

97.    2001.9.11. 米国同時多発テロ
8:19amボストンのローガン空港をロスに向けて飛び立ったアメリカン航空11便の客室乗務員からアメリカン航空にハイジャックとの報告が入る
18分後、同じくボストン発ロス行きのユナイテッド航空175便がアメリカン航空機を目撃。5分後にハイジャック
8:46amアメリカン航空11便が790/hでツインタワー北棟の北側に激突、間もなくユナイテッド航空175便が950/hで南棟の南側に突っ込む
9:24amワシントンのダレス空港からロスに向かうアメリカン航空77便が乗っ取られ、その4分後ニューアークからシスコに向かうユナイテッド航空93便がハイジャックされ、9:37amアメリカン航空77便がペンタゴンの西側に衝突、ユナイテッド航空93便は10:03amピッツバーグ南東部に墜落、他の機の運命を知った乗客たちがハイジャック犯と格闘した末の墜落
世界中の人の目の前でユナイテッド航空175便の衝突と、2つのタワーの崩壊
午後4時ウサマ・ビンラディンの名前が最重要容疑者として浮上

98.    2003.3.20. イラク侵攻
人類史上初の、何もかもがカメラの前で展開された戦争
イラク政権が、国連大量破壊兵器廃棄特別委員会による査察を拒否したことで緊張が高まり、この日ブッシュ政権がサダム・フセイン政権に対する武力攻撃を開始 ⇒ 3週間余りで政権は崩壊、51日戦闘作戦終結を宣言。フセインが逮捕・拘束され、内戦へと発展、04.11.米軍による攻撃再開、06.12.フセイン処刑。すべてをカメラが伝えた

99.    2004.12.26. スマトラ島沖地震
正確な規模は不明だが、1900年以降4番目の大きさと推定、人的被害の大きさでは155683万の死者を出した中国華県地震に次ぐ
インド洋大津波の現象は、犠牲者数も不明だが、少なくとも283千人が死亡、1百万以上が家を失ったと考えられている
この日7:58amインド・プレートとビルマ・プレートの境界で過去最長の400㎞に及ぶ滑りによる地震が発生、直後の数時間激しい余震が相次ぎ、その後も数日間にわたって続く。地震発生から津波が上陸するまで15分、波の高さは上陸時で30m

100. 2005.8.29. ハリケーン・カトリーナ
8.23.バハマ南東で熱帯低気圧が発生、翌日熱帯性暴風となりカトリーナと命名、翌日カテゴリー1のハリケーンとなって南フロリダに上陸、一旦メキシコ湾に抜け暖かい海上で勢力を強め、最大風速80m/sec、カテゴリー5となって、この日ニューオーリンズに再上陸、町の80%が浸水し、都市の歴史の上で最悪の洪水となった
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