モーツァルトとナチス  Erik Levi  2013.3.14.


2013.3.14.  モーツァルトとナチス 第三帝国による芸術の歪曲
Mozart and the Nazis: How the Third Reich Abused a Cultural Icon    2010

著者 Erik Leviエリック・リーヴィー ロンドン大ロイイヤル・ホロウェイ校音楽学科准教授。ケンブリッジ大、ヨーク大、ベルリン音楽大(現ベルリン芸術大)で音楽を学ぶ。専門は20世紀ドイツ音楽。オールドバラ音楽祭やBBCの録音で伴奏者を務める傍ら、『BBCミュージック・マガジン』でCDレビューも担当

訳者 高橋宣也 慶応大文准教授(近代イギリス文学)。慶應大大学院博士課程修了。199901年ロンドン大訪問研究員

発行日           2012.12.5. 印刷               12.25. 発行
発行所           白水社

序文
過去の歴史的偉人や偉大な芸術家を自分たちの政治目的に利用した支配体制は多いが、ナチほど徹底的に行ったものはない
その活動に真剣さと体面を付与するため、また同時に過去との連続性を保つために彼らが取った政策はそうした偶像を自分らのイメージに合うように作り変えることを必要とした
平和を叫ぶ方法の1つが音楽祭やそれに類する行事。その頂点が1941年のモーツァルト没後150年の記念行事だが、モーツァルトの世界観ほどナチスと相容れないものはない
モーツァルト操作の試みは、ナチスが国民の音楽遺産をどう扱ったかについて興味深い光を当てるだけでなく、ナチス体制を支持した人々が、神聖化された地位に置かれたモーツァルトをアーリア人種の文化的優越性の最も偉大な代表者の1人として確立すべく、いかに不合理で矛盾に満ちた行動に走ったかをも明らかにする


第1章        プロローグ――1931年 モーツァルト・イヤー
モーツァルト生誕175周年記念行事
31年はドイツにとって最悪の年 ⇒ 大恐慌の余波で瀕死の状況にあり、第1次大戦敗戦後も政府の手厚い補助を受けてきたドイツの音楽業界も一気に先行き不安定になった
ベルリン・フィルがベルリン交響楽団との強制的な合併により、不可避と思われていた解散を逃れたのもこの年
モーツァルト記念年の祝賀は限定的とならざるを得なかったが、それでも上演や出版の成果の多くは、その後の30年代における第三帝国内外のモーツァルト受容の指針となるものだった
アルフレート・アインシュタイン版の《ドン・ジョヴァンニ》出版 ⇒ 自筆譜がパリ音楽院に収蔵されていてアクセスが出来ず、独自に原作を呼び戻す形で再生された
《イドメネオ》の編曲対決 ⇒ モーツァルト初期の傑作が見直され上演されたが、いずれも原典に全面的な変更を加え、筋まで根本的に変質させていた。35年時点では、リヒャルト・シュトラウスの修正版がナチから推奨されていたが、台本担当はユダヤ人だった
ザルツブルクで開催の国際モーツァルト大会では、フリーメイソンとの関係に加えて、モーツァルトの民族的アイデンティティー(彼の音楽的発展をもたらした要素はどこまでがドイツ的でどこまでが非ドイツ的かという問題)が議論の対象に
反ユダヤ主義者で大ドイツ民族党を支持したエーリヒ・シェンクの提唱で「モーツァルト中央研究所」創設、モーツァルト研究の中枢にのし上がっていく

第2章        ドイツ人モーツァルト
1933年ナチスの政権獲得から3か月の間にドイツの音楽界に激震 ⇒ 政治的、人種的に不適切と見做された著名な音楽家が一挙に仕事を奪われたり国外追放を余儀なくされた
フリッツ・ブッシュ(ドレスデンの首席オペラ指揮者)はナチのデモで指揮を中止、クルト・ワイル(作曲家)は国外へ退避、ブルーノ・ワルターの場合は公演の安全の保証が出来ないとして降板を余儀なくされたためその後の予定をすべてキャンセルしてオーストリアに引き揚げ
次のナチの手は法的手段 ⇒ 職業管理再建法により不適切と見做された音楽関係者の雇用契約を事実上停止
一方で、ナチスの大義に合うとされた音楽家が誇示される ⇒ ワーグナーはもちろん、ブルックナーの場合はヒトラーが自らをブルックナーに重ねるようなところがあったり、ブルックナーがワーグナーを崇拝していたり、ユダヤ人の支配する音楽評論界で不当に迫害されたということなどがナチスの確かな偶像として提示された。2人以外ではベートーヴェンがナチスの原型として最重要視。バッハ、ヘンデルの場合は、都合の良いところだけを強調
モーツァルトの場合は、堅固なドイツ国民主義者として確立させようとした ⇒ それまでモーツァルトについては、ニーチェのいうコスモポリタンな人物との評が20世紀初頭の音楽家たちによって共有されていたが、モーツァルト研究が進んで書簡集が明らかにされると、ドイツに対する愛国心の表現に焦点を当てることができるようになった ⇒ 本格的な分析もないままに選び出した書簡は、恣意的に繰り返し強調される
リヒャルト・シュトラウスによってモーツァルト復権が進められ、その成果としてザルツブルク音楽祭があるが、そこではユダヤ人優遇の傾向が強く、ここを突き崩す試みは政権誕生直後から始まる ⇒ ドイツ人芸術家の参加を認めず、一般ドイツ人訪問者の鑑賞も妨害する一方、ドイツ国内でモーツァルトに関連する音楽祭を各地で立ち上げ
オーストリア側のプロパガンダに対抗するため、ナチスはモーツァルトを愛国的ドイツ人として打ち出す ⇒ モーツァルトの曲の一部を使って勝手に《ドイツ賛歌》を出版し、学校の合唱用として活用(編曲したのがユダヤ系学者だったのは皮肉)
モーツァルトとワーグナーの音楽的、美的共通性を発見しようとする努力もなされた
名前自体をドイツ的真髄とみなし、ハイドンと同様、北方人種とディナール人種(バルカン地域の白色人種の下位区分)の混成だとした
作品の中からも、モーツァルトの使う音楽言語の有機的な性質は、ゲルマン的な性質そのものと見做され、イタリアからの影響はほとんど無視された

第3章        モーツァルトとフリーメイソン――ナチスに不都合な問題
ナチスが、モーツァルトのものの見方と活動を、自分たちの理念に合うようにどう利用し歪めてきたかに焦点 ⇒ モーツァルトの愛国心、フリーメイソンとの関係、ユダヤ系台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテとの協働作業に焦点
ヒトラーは、フリーメイソンをユダヤ人の謀略組織と見做し、彼等が世界を制御しているとの偏執的恐怖心から、徹底して攻撃・弾圧
《魔笛》とフリーメイソンとの繋がりこそこのオペラの理解の本質をなすという主張は夙に有名だが、ナチスはモーツァルトがフリーメイソンに殺害されたという噂を盾に、モーツァルトは《魔笛》において反フリーメイソンという主題を打ち出したと曲解 ⇒ フリーメイソン的イメージを排除した新演出が公表、強要され、従来の演出にとって替わる

第4章        モーツァルトをアーリア化する
1781年モーツァルトがウィーンに居を定めてから、多数のユダヤ系の同僚や知己を得た。中でも《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《コジ・ファン・トゥッテ》3部作の台本を書いた宮廷劇場付き詩人にしてカトリックとなったユダヤ人ロレンツォ・ダ・ポンテとの3部作共同作業は、他の不可侵の名作(シューベルトの《白鳥の歌》、シューマンの《詩人の恋》、ビゼーの《カルメン》等)と同様レパートリーから除外することは不可能 ⇒ 台本作家だけを中傷・誹謗
ポンテのイタリア語のオペラは、ドイツではドイツ語で上演されたが、ドイツ語版で一般的だったのは19世紀末の著名なユダヤ系ドイツ人指揮者ヘルマン・レヴィ作のものだったため、ナチス傘下のドイツ文化協会が中心となってアーリア化された別の訳が行われた
3部作以外でもユダヤとの繋がりの気配が少しでもあれば、どの作品でも翻案と改変の格好の的となり、アーリア化の努力が進められる
1940年モーツァルトの《レクイエム》のラテン語歌詞の代わりにドイツ語の訳をつけることとなり、ヘブライ的言葉から「清める」翻案が提唱された ⇒ ウィーンでの41年のドイツ帝国モーツァルト週間の最終コンサートでフルトヴェングラーが演奏した折には元の歌詞で行われており、第三帝国時代にイデオロギー的翻案の対象となった主要作の最後であったことは間違いない
ドイツ音楽の名作にユダヤ人が侵入してくる危険性に対する戦闘活動は続く ⇒ 定番のヴァイオリン協奏曲で、確立されて久しいカデンツァ――その多くはユダヤ人作曲だった――の使用をソリストたちが一向にやめたがらないことを問題する。44年の放送録音ではヴァイオリニストのヴァルター・バリリがクレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とモーツァルトのヴァイオリン協奏曲ニ長調K.218を演奏しているが、第1楽章と第3楽章ではヨーゼフ・ヨアヒムのカデンツァが使われている。この習わしを「国民としての誇りと威厳の恥ずべき欠如」の表れと批判したが、ブラームスやモーツァルトの協奏曲でヨアヒムやカール・フレッシュのモノばかり使う慣習にとって代わるくらいの価値あるカデンツァを創作するよう、現代の作曲家に呼びかけているが、この頃にはもうそれに応えるほど熱意のある人はいなかった

第5章        モーツァルト・ディアスポラ(離散)
ナチスに迫害されてドイツ国外で活動を続けざるを得なかった、強い影響力を持った音楽家や音楽学者を扱う
ナチス・ドイツを逃れた難民が、モーツァルトのことを「言語によらない崇高な文化」の恐らく最も偉大な具現者であり、異郷にあっても「アイデンティティーの繋がり」を感じ続けることのできる人物と認める人は数多くいた ⇒ アインシュタインも生涯にわたってモーツァルトへの執着を抱き続けた1人。13歳の時にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを発見し、10代の単調な日々を超越、純粋で内的な美の世界へと目を開かせ、30年代自主的にドイツから逃れたものの、モーツァルトへの気持ちが萎えることはなかった
逃れた先の国でもモーツァルトが議論の余地なく音楽の正典に入っていたのは特に音楽関係者にとっては重要と同時に、モーツァルトの個性と文化的背景には、啓蒙主義の体現者、人道主義者という面が見られたのは重要
1933.6.ユダヤ人社会のみを対象とするユダヤ人によるユダヤ人のための文化的活動の組織としてユダヤ文化同盟の設立が許可され、《フィガロの結婚》の公演も始まったが、事前検閲によりモーツァルトの作品の上演は難しくなる
34年オペラの伝統が瀕死の状態にあったイギリスで、裕福な地主ジョン・クリスティーがバイロイトやザルツブルクに触発されてグラインドボーン音楽祭を始めたが、モーツァルトをメインに、指揮者サー・トーマス・ビーチャムに仕切りを頼むが愚行として拒否され、ナチスから亡命していたフリッツ・ブッシュと演出家カール・エーベルトを起用、歌手雇用の責任を総監督ルドルフ・ビングに負わせる ⇒ ナチスの迫害の後では楽園も同然で、モーツァルト3部作が原語で歌われ、ミュンヘンやザルツブルクを上回る出来栄えで大成功を収める
本家のザルツブルク音楽祭の方は、芸術を何よりも上位に据えようという高尚な望みを掲げてはいたものの、ドイツ国境に近いという地理的位置と、オーストリア共和国の不安定になる一方の情勢のため、その活動が激しい政治騒動に巻き込まれずにいることはほとんど不可能であり、1920年の第1回からモーツァルトを中心にしつつも、より広い見地から作曲家、作品を選んでいたのに対し、汎ゲルマン主義的なヒトラー寄りの一派からの攻撃に晒され、ナチの政権獲得によってあからさまな妨害が始まる ⇒ ドイツ人が国境を越えて音楽祭に行く場合には1000マルクの税が賦課され、ドイツ人観客は激減
ナチスによってドイツを追われた偉大なモーツァルト指揮者のブルーノ・ワルターが33年にザルツブルクに戻ると聴衆がナチスへの抗議を込めて熱狂、その模様はニューヨーク・タイムズの1面を飾った。翌34年にはワルターは《ドン・ジョヴァンニ》の新演出を、ザルツブルクでの伝統を破ってポンテのオリジナルのイタリア語で上演、ワルター自身は威厳ある沈黙を守ったがナチスへのある種の意見表明であることは疑いない。以後3年に渡って上演が続く
ワルターとは対照的に、この時期のフェスティヴァルにおいて指揮者のもう1本の柱だったトスカニーニは、33年のバイロイトがナチスに取り込まれたことに抗議して契約を打ち切り、自らヒトラーに電報を打って反ユダヤ主義政策を弾劾、さらにはナチスに受け入れられようとした音楽家との関わりを問答無用に拒絶。3437年にはザルツブルクに登場
37年秋に発表された翌年のプログラムではトスカニーニもワルターも入っていたが、翌年初めのナチスによるオーストリア併合で実現せず。トスカニーニはすでにニューヨークにいた。ワルターは、フランスのザルツブルクに匹敵する音楽祭の創設の招聘に応え、フランス市民権を取得したが、演奏会へのウィーン歌劇場の歌手の出演の許可を出さなかったり、ウィーン国立歌劇場指揮者だった時の脱税の言いがかりをつけられたりして妨害

第6章        「真に人道主義的な音楽」――亡命者たちのモーツァルト
ユダヤ人音楽家が感じるモーツァルトへの崇拝の念は、第三帝国時代には殊の外強く表に現れた ⇒ 人道主義者、道徳的力の源、民族の境界と宗教の境界を超越する文化的イコンとしてのモーツァルトを明示することが一段と必要になっていた
30年代、40年代のモーツァルト研究の第1人者として、音楽学者で批評家のアルフレート・アインシュタインの右に出るものはいない ⇒ 31年版の《ドン・ジョヴァンニ》の監修(1章参照)のほか、ユダヤ系故にドイツの大学で教職を得られず、新聞等の音楽評論家として生計を立てねばならず、33年永遠にドイツを去り、39年アメリカに定住。37年にモーツァルト作品ケッヘル番号目録を大きく拡大した第3版を完成(初版は1862年で551ページ、今回は984ページに増加)
オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュもモーツァルト学者として画期的な働き ⇒ 第1次大戦後、シューベルト研究で国家の名誉称号である教授の称を受けたが、併合後は市民権を剥奪され、辛酸を舐めた後、戦後に数々の業績を残す
小説家のアンネッテ・コルプは、モーツァルトについての伝記的研究を刊行(1937)

第7章        モーツァルト上演とプロパガンダ――オーストリア併合から大戦終結まで
ナチスが本腰を入れてモーツァルトに関心を持ち始めたのは38年のオーストリア併合以降なので、3845年にかけてのモーツァルト関連のプロパガンダと演奏活動に焦点を当て、特にザルツブルク・フェスティヴァルのナチス化と41年の没後150年記念祝賀を採りあげる
ザルツブルクの人々は、ナチス管理下でのフェスティヴァル再建の見込みと、モーツァルトの故郷ドイツへの帰還を歓迎 ⇒ フルトヴェングラー指揮による《マイスタージンガー》で開幕したが、プログラムはモーツァルトが中心、ただしイタリア語のままで上演
ワーグナーとモーツァルトの取り合わせは失敗、39年以降はザルツブルクでのワーグナーの上演が禁止され、モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスが中心になっていく
39年には、モーツァルテウムは国立音楽院に昇格(41年帝国音楽大学に格上げ)、クレメンス・クラウスが院長となる
ナチスほど、過去の文化的偉人の記念年を政治的プロパガンダに利用した政党は他にない
その最初が、政権に就いた1週間後のワーグナーの没後50年祝賀 ⇒ ヒトラーがライプツィヒを訪問。次いで33年夏のバイロイト。2年後のバッハとヘンデルの生誕250
その集大成が41年のモーツァルト没後150年祭 ⇒ 年間を通じ、またドイツのほぼすべての主要都市で、モーツァルトを称えた各種の行事と研究が目白押し
ゲッペルスは、プロパガンダの強力な手段として放送の価値を高く評価、記念年には放送においてもモーツァルトの作品に力点が置かれた

第8章        ドイツ帝国主義に利用されるモーツァルト
ナチス占領地域でドイツの文化的帝国主義の兵器としてモーツァルトが如何に用いられたかを吟味 ⇒ ナチス体制の名残が戦後のモーツァルト関連の諸問題に影を落としている
モーツァルトは国内での士気高揚に利用されるとともに、占領地域におけるドイツの文化拡張主義に役立つように操作された
チェコでは、モーツァルトを奨励することで、彼等の文化的、知的生活を占領側が恣意的に作り替えようとした ⇒ モーツァルトは、1787年プラハのエステート劇場で大成功を収める《フィガロの結婚》を観劇、大変な賛美を受けて圧倒され、「ぼくのプラハの人たちはぼくを分かってくれる」と言い、この断言がプラハ文化の歴史に刻まれている。この年、モーツァルトとダ・ポンテはプラハ上演のために《ドン・ジョヴァンニ》を委嘱され、世界初演は同年に行われ《フィガロ》に劣らぬ成功を収めた。プラハのモーツァルト崇敬は世紀を超え、1918年のチェコ共和国創建時にいたチェコ人(過半数)とドイツ人(35)の垣根をも超越
ポーランドでは、モーツァルト祝賀への意味ある形での参加を禁止
西側諸国に対しては、各地にドイツ協会を創設して、占領下にある知識人と呼ばれた地元の音楽界の従順な人々との積極的な共同作業が強調された ⇒ 占領下のフランスでは、駐仏ドイツ大使オットー・アベッツが文化を管轄、過酷な人種純化政策を実行する一方、フランスびいきだったことから両国の建設的な協力関係の気運醸成にも注力。その1つがドイツ協会創設により、モーツァルト音楽を両国の友好を深める魅惑の武器として活用。41年のモーツァルト記念年にはベルリン国立歌劇場のパリ・オペラ座への来援を後援
オランダ、ベルギーでは、かなり控えめにモーツァルト記念年の行事が行われた
同盟関係にある諸国に対しては、外交的接触の象徴として用いられた

第9章        エピローグ――ナチスの遺産
終戦後連合国側の新聞雑誌は、ドイツの人々を理性ある諸国民の仲間に引き戻すにはどうすればよいかという議論で溢れ、音楽の領域でも彼等の意識から攻撃的な国家主義の最も過激な側面を根絶する努力が見られたものの、連合国側は完全に協調のとれた非ナチ化措置を遂行することには失敗 ⇒ ワーグナーと違って、モーツァルトはイデオロギー的なお荷物とはならず、ナチスの側でモーツァルトと深く関わっていたとしても、大多数の人が45年より後でも無傷なままでドイツ-オーストリアの音楽界でまともな地位に返り咲くことが出来た。モーツァルトについてはわざわざ名誉回復する必要などなく、ポンテの3部作はイタリア語で上演されるようになり、フリーメイソンを巡る論争も雲散霧消
第三帝国時代にモーツァルトの音楽につけられた不愉快な意味合いが急速に抑制され、占領軍側によって寛容な空気が生み出されたこともあって、モーツァルト・ディアスポラに遭った人の中には、自分を追放した故国とある種の和解がしやすくなったことは確か ⇒ フリッツ・ブッシュは51年西ドイツでの指揮活動を受け入れ、演出家のカール・エーベルトも54年ベルリンの劇場管理者の地位に戻る。ブルーノ・ワルターも47年の第1回エディンバラ・フェスティヴァルでウィーン・フィルと感動的な再会を果たし、49年には戦後初めてウィーン・フィルとザルツブルク・フェスティヴァルに登場してモーツァルトを振ったが、完全な帰国を考えた亡命者はいない
ドイツへのいかなる同調も頑なに拒み、ナチス体制に順応した同業者に対しても宥和的態度を拒否んだのがアルフレート・アインシュタイン ⇒ 彼の完全版のモーツァルト論は英独語で刊行され、いまだにドイツでのモーツァルト学の模範とされ続けているのは皮肉だが、49年にはモーツァルテウムの国際協会による金メダル授与の栄誉も断っている
戦後モーツァルト受容での最大の変化は、彼をドイツ人としてではなく、オーストリアとだけ結びついた人物とするようになったこと ⇒ 最も露骨に行われたのは生誕250年の2006年のこと
国民的アイデンティティーを再建したいというオーストリア人の欲求は、ウィーンの音楽生活の驚くほど迅速な復活にも表れている ⇒ 占領軍の後押しもあって、国立歌劇場は破壊されていたが、455月には別の劇場を使って《フィガロ》で活動を再開(ドイツ語だがヘルマン・レヴィ訳に回帰)。ザルツブルクもアメリカの占領下に置かれたが、45年夏から軍関係者向けにではあったがフェスティヴァルを再開
何年にもわたってオーストリア人は自己憐憫に浸り、外に向かっては、自分たちはナチスの犠牲者であって共謀者ではないというイメージを打ち出そうとしてきた。過去と向き合うことを拒むこうした姿勢のお蔭で、オーストリア併合後のナチスによるモーツァルト利用に重要な役割を果たしていながら、戦後オーストリアの文化生活に対しても力を持ち続ける人々もいたし、国家から最高の叙勲を受ける人までいた。ナチスのモーツァルト歪曲に積極的に関与しながら、戦後もモーツァルテウム財団に関与し、「オーストリアの文化概念のもっとも傑出した守り手の1人」として宿敵ブルーノ・ワルターと同じ年にオーストリア共和国への貢献をもって金メダルを授与された者がいた。こうした不穏な継続性は、56年のモーツァルト生誕200年にあたってザルツブルク・フェスティヴァル当局が表明したメッセージが、41年の没後150年記念のシーラッハによる飾り立てた言葉に驚くほど似通っていることに現れている
過去の暗い余韻と向き合う契機となったのは、1995年にオーストリアが第二共和国50周年とヨーロッパ連合加盟を祝した時で、ウィーン国立歌劇場がナチズムとの妥協的関係を露わにしたコンサートと展示会を企画 ⇒ ナチスの検閲の不条理を浮き彫りにするとともに、38年以前にも反ユダヤ的論調が蔓延していたという事実を際立たせた
2006年にはさらにモーツァルトへの視点が移動 ⇒ 政治家によって、オーストリア人にして同時にヨーロッパ人でもあると見做される。欧州連合理事会の議長国を務めたオーストリア首相ヴォルフガング・シュッセルは、生誕250年の誕生日に、ヨーロッパの首脳をザルツブルクに招いて、たまたまソ連がアウシュヴィッツを解放した日でもあるところから、両者をヨーロッパというアイデンティティーの正反対の2面を示すことに思いを致すよう求め、モーツァルトの音楽こそヨーロッパに共通の文化的秩序とアイデンティティーをもたらすものとしたが、反応はいまいちだった
ナチスによるモーツァルト利用の残滓は、いまだにポーランドとドイツの間にしこりを残している ⇒ 1つはポーランドの基礎構造と芸術遺産がナチスによって破壊されたこと、もう1つはベルリンのプロイセン国立図書館の貴重な収蔵物の大規模な疎開の復活
収蔵物の最も貴重なコレクションは、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハの自筆譜や音楽資料。戦時中各地に分散して保管されたが、終戦時ポーランドの管轄区に入ったものはポーランドの国庫に入るものとされ、戦後長らくポーランド政府も沈黙を守っていた
81年に漸く西側作家の探索努力が実って所在が明らかにされるとともに、一部の資料が東ドイツに返還されたが、ドイツ統一後は交渉が頓挫、ドイツ側が資料のことを「最後のドイツ側捕虜」と表現したことにポーランド人が激怒
ゲルマンの伝統と遺産という認識の中心には、モーツァルトを自分たちの文化の中核的な表看板として理想化しようという心情があり、それがモーツァルトの貴重な文書を民俗の恒久的な遺産の1つとして取り戻したいという欲求を駆り立てたのだが、ナチスの文化政策と戦争による破壊によってポーランドに残された甚大なる傷を過小評価しないことが大切。かつて自分たちを迫害した者たちに資料を渡さないからと言って責められない



モーツァルトとナチス エリック・リーヴィー著 戦中・戦後の音楽の政治利用 
日本経済新聞朝刊2013年1月13日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 ナチス・ドイツによるワーグナーの政治利用はよく知られている。そもそもマッチョなヒロイズムを果てしなく煽(あお)るワーグナーの音楽こそ、ナチズムの原型そのものですらあるだろう。だがモーツァルトはどうか? そのロココ風の優美と官能と戯れとコスモポリタニズムは、一見ナチス的なものの対極にあると見える。そもそもザルツブルク生まれの彼はドイツ人ですらない。本来なら不道徳かつ不健全な退廃芸術の烙印(らくいん)を押されて上演禁止になっても不思議ではないところだ。だがナチスはなぜかモーツァルトを発禁処分にはしなかった。それどころか戦中の彼は、まるで「名誉ナチ党員のように持ち上げられた」。
(高橋宣也訳、白水社・4000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(高橋宣也訳、白水社・4000円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 モーツァルトのゲルマン化に嬉々(きき)と馳(は)せ参じたのが音楽学者たちである。大研究者たちの名前が次々に出てくる。彼らは戦中、至極真面目に「モーツァルトの音楽におけるドイツ性」を立証しようとした。またオペラの上演においては、ユダヤ人であるダ・ポンテのイタリア語の歌詞は、すべてドイツ語に翻訳されて歌われた。モーツァルト映画も作られた。とはいえベートーヴェンやワーグナーと違いモーツァルトは、どう小細工しようが、愛国心高揚には利用しようのないところがある。ナチスによるモーツァルトのアーリア化は、どことなく中途半端に終わった印象だ。
 興味深いのはむしろ、戦後オーストリアによるモーツァルトの、ほとんど恥知らずな政治利用である。戦後のオーストリアが、あたかも自分たちはナチスの被害者であったような顔をし、戦後決算を曖昧なままにしてきたことは、よく知られている。ザルツブルクも含めオーストリアの多くの都市が、実際はナチズムの巣窟であったにもかかわらず、である。そしてモーツァルトの音楽は、まさにそのコスモポリタニズムの故に、戦後オーストリアが「自分たちはナチスとは違う」というポーズをとるための金看板として、利用された。国境を超えたオーストリア的友愛のシンボルへと、奉られ始めたのである。まったく政治による文化利用ほど度し難いものはない。
(音楽学者 岡田暁生)

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