アスピリン・エイジ  編者Isabel Leighton  2013.2.9.


2013.2.9. アスピリン・エイジ 19191941
The Aspirin Age (1919-1941)        1949

編者 Isabel Leighton ニューヨーコのブロードウェイで舞台生活を送った後、『春よもういちど』その他の劇作で名声を博す。第2次大戦中は女性特派員として活躍。ファッション誌『ヴォーグ』編集者、ラジオ解説者としても知られる

訳者 木下秀夫 1908年長野県生まれ。東外大英語科卒。同盟通信ニューヨーク特派員を経て、現在時事通信取締役第一編集局長兼事業本部長

発行日           1971.4.30. 初版発行
発行所           早川書房

13-01 ワルシャワ蜂起 1944』で、訳者(梅本浩志)がアメリカの対外政策を批判した際に言及した本

(編集者の言葉)
両大戦間のアメリカの物語。20年代30年代の合衆国は、この世のものとは思えないような、不思議な魔法の国だったかのように見える。この間の多くの事件は、今からみるとアメリカ全体に投げかけられた1つの呪文――熱病的な、気違いじみた、そして必ずしも恩恵的でない呪文の一部であったかに思われる。アメリカは、ある時は禁酒により、またある時は熱病に冒されたような時の歩みによってもたらされた頭痛と頭痛の間を彷徨ってきたかに思われる。このわきかえる年月の間に、私たちは全てを癒してくれる万能薬を探し求めて来たのだが、結局与えられたものはアスピリン程度のものに過ぎなかった。『アスピリン・エイジ』と名付けたゆえんである。
各章を受け持ったのは、いずれもこの時代と密接な関係を持った有名な著述家。一部は実際に参加した人によって物語られる
この物語は、アメリカが今後二度とお目に懸れないほどに精神的に若かった時代に起こった興味ある事件の、単なる記録ではなく、この不思議な、ほとんど夢遊病的だったと言える時代を再現したものである 
歴史的な考察を加えるにはまだあまりにも早い
悲劇のみ強くして、喜劇の弱い時代だった
真実と妄想、平生とヒステリーの年月だった
サッコとヴァンゼッティがこの時代に死んでいった。同じ様に禁酒も亡びた
だが、新たに生まれたものも多い、その一部がここにある

Ø  1919    ヴェルサイユの忘れられた人々 (ハリー・ハンセン)
著者は、当時米紙の特派員としてパリ講和会議に立ち合い
1919.1.18. 仏大統領ポアンカレ―が講和会議の開会を宣言
ポアンカレ―の開会の演説:「ヨーロッパの生んだ娘アメリカは、こんど海を渡って、その母親が奴隷の地位に突き落とされるのを救い、文明を救済した」
各国の利害の違いは会議開催前から明らかで、アメリカ大統領が出席するのは、利害の調整者としての役割が十分果たせなくなるとして反対する忠告もあったが、ウィルソンは一顧だにせず、結局ひどい目に遭うことになった
会議の観もののうちでも、アラビアのローレンス大佐
に率いられたアラビア人の代表団が会議の席に現れたときほど、みんなの好奇心を掻き立てたことはなかった ⇒ 彼等の到着とともに、会議は小アジア関係の問題と取り組むことになるが、これが今日に至るまで、世界中の国々に取り付いて離れない、悪魔のような問題になろうとは、夢想だにする者もなかった
1917年 バルフォア宣言 ⇒ イギリスが、パレスチナにユダヤ人国家を建設すると約束。フランスが真っ向から反対
ロシア問題も対立の種で、フランス以外はロシア国内の全ての党派を纏めて公正な選挙の素地を作るべきと提案したが、ツァー政府に債権を持つフランスだけはボルシェヴィキの行き過ぎを強硬に非難
会議の最大の成果は国際連盟だが、アメリカは大統領が考えたこの大事業を拒否 ⇒ ヨーロッパ諸国の利害衝突調整のために駆り出されるのはご免という空気に変わってきた
もう1つの成果が国際労働局の組織で、全世界の労働者の労働条件の改善・向上をめざす
ウィルソンは、パリ講和会議における、痛ましい悲劇の主人公 ⇒ 庶民階級のためにあらゆる生活の分野における機会均等への憧れを、彼ほど力強く代弁した指導者はいない。国家の利益より世界の団結のために、全人類の利益のために測り知れない影響を残すが、夢を持っていたが見通しがきかなかったために、国際連盟生みの親にはなったが、アメリカ国民の支持を失い、平和にも失敗
「パリでは、ウィルソンではなく、ヒューマニティが失敗したのだ」

Ø  1920    イッジーとモーのあっぱれな手柄 (ハーバート・アスベリー)
著者は新聞記者。長年にわたり、アメリカの道徳と慣習とを研究
1920.1.16. 憲法第18次修正 ⇒ 禁酒法施行(通称ヴォルステッド法)
2人の取締官の物語
イッジーことイザドア・アインシュタイン ⇒ 40歳のニューヨークの下っ端郵便局員が取締官公募に応募。ブルックリンを管轄し、取締官に似つかわしくない風貌を利用して正面からもぐりの酒場に乗り込んで成果を上げる
相棒にスカウトしたのがモーことモー・スミス ⇒ ニューヨークで小さな煙草店を持っていたモーを説得して、2人で組んで活動、2人とも小柄でデブ
2人の活躍が新聞を賑わす ⇒ 大統領とプリンス・オブ・ウェールズに次ぐ人気
創意と工夫による道化芝居さながらの捕物が5年続く ⇒ 全米に広がったが、アル・カポネやジョニー・トリオ、フランキー・イェールなどの大物とは遭遇していない
2人の手柄話が連日新聞報道されることに嫉妬した取締本部が、神聖な職務を冒涜するものと2人に警告、25年末に異動させようとしたのに対し、2人が辞職して新聞から消える

Ø  1921    わが魂に輝く太陽       (ケリー・マクウィリアムズ)
著者はカリフォルニア州の住宅・移住委員、社会問題や少数民族問題を扱った著書がある
本編の主人公エイミー・マクファーソン(旧姓ケネディ)修道女がロサンゼルスで絢爛たる生活を送っていた大部分の時期を通じて、その近所に住んでいた
オンタリオの農場で生まれ、宣教師になって全国を遊説、彼女が「奇跡の女」として登場するために運命づけられた舞台として最後に選んだのが、病人と老人の住家、自殺の町、カリフォルニアの有名な人生の終わる土地とされたサンディエゴ。説教のための集会で見せた病気治癒の行事(車椅子から立ち上がって歩いたという類の話)が全米に広まり、信者が殺到
23年ロサンゼルスのエコ・パーク湖(ダウンタウンの北西?)の畔にアンジラス寺院を建設
大好況を背景に、移住者の町ロサンゼルスで、古い愛着心や忠誠心から解き放たれた人々が新しい信仰を求めて寺院に殺到、エイミーも持ち前の嗄れ声と肉体的な活力を武器に演出効果抜群に人々を導き、瞬く間に名声を得て大金持ちになる
彼女が全生涯を通じて好んで歌った聖歌のリフレーンが「太陽、今日わが魂にが輝く太陽」だった
26年ロンドンのアルバートホールで、外国人女性として初めて宗教行事を行う
その直後に失踪、大事件となるが、1か月後にロスに姿を現し、歴史的な物凄い歓迎を受ける ⇒ 愛の逃避行だったにもかかわらず、誘拐事件として当局に犯人逮捕を要求したため、逆に自分の首を絞める。真相の暴露を求める世論に抗しきれずに刑事告訴されたが、彼女に買収された地区検察官が事件を却下して無実に
その後の遊説活動は、支持者からの離反で惨めなものになり、結婚・離婚と生活も乱れて、ケネディ・ママとの派手な喧嘩騒ぎも物議を醸す
44年遊説先のオークランド(加州)で死去。睡眠薬の飲み過ぎで、自殺の可能性も

Ø  1923    都合よく死んだハーディング大統領 (サミュエル・ホプキンズ・アダムズ)
ニューヨーク紙の記者、小説家。ハーディングに関する優れた研究があり、本編で暗殺説を粉砕、新しい研究を通じて全く新しい、重要な事実、最後のアラスカ旅行とそれに続く劇的な死について、世に知られなかった事実が初めて明らかにされた
1923.8.1.急病になってサンフランシスコの病院に収容されたハーディング大統領が危機を脱したと侍医が公表 ⇒ 誤診を側近も知っていたし、2日後に脳溢血で逝去
地方紙の編集長だった頃、演説していたのが政治の舞台裏で取引をする政治商人の目にとまり、突然のように州上院議員選挙に出馬して当選、知事選には負けたものの、合衆国上院議員に。半分以上は議席におらず、重要法案を提出したこともないまま、20年の大統領選で行き過ぎた理想主義から国民の支持を失っていたウィルソンの対抗馬として出馬、共和党からでれば誰でも勝てる状況で、候補者争いの間隙を突いて10回目の投票で選出
閣僚に一流人物を配し、大統領の無能をカバーしたが、大統領にたかってひと儲けしようと企む「オハイオ・ギャング」たちが暗躍、地位を利用して荒稼ぎ
23年には議会の調査委員会が動き始め、夫人は女性問題で夫を攻めたて、黒人の血が混じっているとした暴露本に対しては異常なまでの回収を行い、株投機の失敗による個人的な借金も嵩んで、ついには健康を害するまでになる
政権の舞台裏での疑獄事件の露見が迫り、辞職のみならず自殺者が出るに及び、大統領はアラスカに気晴らしで行くつもりだったが、精神衰弱が悪化、側近を呼んで事件の真相を確かめた結果、心臓動脈結塞症で危篤状態に、一時小康状態となったが、それまでだった
ハーディング政権が遺した「不道徳の残滓」は、取り巻きの全てを巻きこんだスキャンダルとなり、何人もの閣僚等が刑務所送りとなったり、さらなる自殺者を出したりした
ハーディングの死後を穢す記録は、妾が自らの関係を書いた『大統領の娘』を出版してさらに泥を塗り、ベストセラーとなった『ハーディング大統領の奇怪な死』によって大統領の死が嘘で固められたが、死に立ち会った人々の潔癖さによって事実が歪められることはなかった
当人はその意志もなく、知りもしなかったにもかかわらず、史上空前の腐敗、堕落した政権のお先棒に担がれていた。彼の罪ではなくアメリカ国民の罪であり、任務を果たすだけの能力がないことが露見した時、国民は自分たちの責任は問わずに、彼の責任を追及した
これがハーディングの悲劇だった

Ø  1923    ココモにおけるキュー・クラックス・クラン (ロバート・カフラン)
ほぼ100%がプロテスタントで、KKKの勢力が最も強力なココモ(インディアナ州)出身のジャーナリスト、カトリック教徒。フォーチュン誌他に在籍、現在はライフ誌の編集委員
1923.7.4.ココモでKKR騎士団の大会開催、20万を超える参会者の前でデイヴィッド・C・スティヴンソンが中部3州の代表に就任
1次大戦が、不自然に中途半端に終了したため、戦争へと煽り立てられた民意の持っていきどころとして、仮想敵を見つけ出すことになり、カトリック教徒、ユダヤ人、黒人、外国人を標的とした「アメリカをアメリカ人に」という運動に繋がった
アメリカの排外主義は、建国以前の昔から直面してきた重大な問題で、1830年代にヨーロッパや極東からの移民が急増した際に、南部や中西部のアメリカ人の間に恐慌をもたらした
アメリカの歴史の中のもう1つの大きな流れが反カトリック主義で、そもそも建国からしてカトリック教の圧迫から逃れて新大陸に来た人によってもたらされたものであり、1920年代になって同じ傾向の排外主義と合流、勢いを増して表面化した
KKRは元々南北戦争直後に誕生、1901年に啓示を受けたというシモンズが動き出し、15年に正式に再誕生したが、その姿は南部の自治権回復を期した当初に比べてかなり歪んだものであり、外国人、ユダヤ人、カトリック教徒を締め出した
勢力の高まりの最中にスティヴンソンが、目をつけた女の強姦致死罪で終身刑を受け、彼と関連した州政官界の醜聞が暴露され、それを機に衰退に向かい、35年には総本部の建物がカトリク教会に変貌するに及んで終焉。最終的に解散したのは44
九ラン運動の最たる問題は、あらゆる段階において、一般アメリカ人がクラン運動なるものがどんな意味を持つかを全然意識しなかったこと ⇒ 社会悪を治療するのは一般民衆だが、一般民衆の真の敵はありきたりの無智である

Ø  1924    能なしのカルヴィン・クーリッジ (アーヴィング・ストーン)
著者は風変わりな職業の後カリフォルニア大学経済学教師から、伝記作家へ。43年の著書で、大統領選で敗れた人々を対象とした研究成果を発表。当然勝つべくして敗れ去った人々、逆に敗れるべくしてホワイトハウス入りした人々が意外に多いことを明らかにしているが、そのうちで最も皮肉で、かつ手に汗握らせた選挙戦が24年のクーリッジとデイヴィス
史上最も仕事をしない大統領を志し、見事に志を遂げたが、その間にも世界は経済不況に突進、現在世界を席巻しつつある社会主義革命の招来に最も責任ある人物となる
腐敗とは無縁だが、無為の罪
ヤンキー的節約主義の生けるシンボル ⇒ ホワイトハウスで唯一若干の蓄財をした大統領として歴史に残るだろう
ヴァーモントの農家に生まれ、寡黙で、社交を軽蔑。アムハースト大では模範生でドワイト・モロー(カーネギー財閥の主宰者、クーリッジ政権下のメキシコ大使、リンドバーグ大佐の義父)と親交。卒業時にはクラス一の政治オーガナイザーとみられる雄弁家
地元で弁護士になった後、政治活動のスタートは市会議員で、一段づつ上っていった ⇒ 変革という意識は全くなく、想像力もアイディアも、創造力もなく、政治的実績はなし
1919年マサチューセッツの知事時代、ボストン市の警察が待遇改善を求めてストライキに立ち上がった際、市長からの調停要請にもかかわらず6日も事態を放置した後、漸く全文14語の声明「なん人も、時と所の如何を問わず、公共の安全を脅かすストライキをあえてする如き権利はありえない」を出し、軍隊による鎮圧を命じた。この声明が全米の新聞の賞賛の的となり、1920年副大統領、23年大統領へと繋がる
この放任主義の哲学こそ、彼をホワイトハウスの主人公にしたし、30年代にはアメリカを経済恐慌に叩き込んだ
両大戦間で、アメリカの歴史が最低の地位に落ち込んだのは1920.6.ハーディングが大統領候補に指名された時で、この時アメリカ史上で類例を見ない最も腐敗した上院議員の陰謀が行われた。大酒呑みの博打男、ワシントンの「小さな緑の家(オハイオ・ギャングの巣窟)」に入り浸り、あるいはニューヨークの三流ホテルに情婦の連れ込みをやったこの男こそ、南北戦争直後の再建時代に、ワシントンを荒らしまわった詐欺師、ペテン師の群れにも匹敵すべきギャング団の手に、政府のあらゆる機構を譲り渡した人物。その同伴者にクーリッジが選ばれたのは、ハーディングが大統領候補になったことに対する、一部良心的な共和党の人々の反動とみるべき。ところが、クーリッジは政府部内の恐るべき腐敗と不正に気付きつつ、何等の対策もとろうとしなかった
マサチューセッツ上院議員の時も、上院を通過する法案の数を30%削減したことを自慢したが、大統領になってからはその仕事を70%も削減、14時間以上は働かなかったし、議会を通過する法案の数を減らすとともに、連邦政府各部局の予算に大鉈を振るって人員を削減するとともに機構も縮小
自ら進んでやったことといえば党内政治で、自分の支持者を要所要所に据え、24年の再選を確保する下準備に余念がなかった
1924年クーリッジは、民主党のジョン・デイヴィスの8百万票に対し、倍近い得票で再選されるが、デイヴィスこそ大統領に最も相応しいの器の1
大統領就任後は、「アメリカの仕事はビジネスである」とした俗悪実利主義思想に基づき、特定の産業、特定の利益の代表者を関税委員会に任命し、彼等の自由に関税を決めさせたり、投機こそ新規事業の起爆剤だとして政府が金融業者に干渉しないことを保証
27年春FRBが経済界の危険信号を見てとり、投機取引の量に制限を加えようとした時も、アンドルー・メロン財務長官と共にまだアメリカ経済は飽和点に達していないとの声明を出す
28年の大統領選を前に、誰にも相談することなく突然出馬の意思なしと表明、何の説明もなく、周囲を慌てさせた ⇒ 大恐慌に遭って、他の人々は金を失っただけだが、クーリッジは彼の一生の信条と哲学を失い、すっかりへこたれて絶望状態となり、人々はクーリッジが彼等の味方ではなく不倶戴天の敵だと気付くようになり、クーリッジもまたおぼろげながら、古い友人たちが彼に対してどんな感情を抱くようになったかを悟り始める
退任後4年生きたが、死の1,2年前になってようやくアメリカを見舞った悲劇がどんなものであるかを知り始めた
少なくとも現在の世界は、もはやクーリッジのような無為無策な人間を奉るだけの余裕はなくなった。再びこのような誤りを犯せば、人間の手ではもはや如何ともなし難い大災厄が世界を見舞うこととなるだろう

Ø  1926    ジャック・デンプシーとの闘い (ジーン・タニー)
両大戦間で最も盛名を謳われた1人。文学者のプロボクサーと呼ばれるようになった経緯を語る。28年に負けてもいないのに世界ヘビー級王者から引退し、実業家となってコネチカット州スタンフォードの名士になったことには触れていない
1次大戦後、ラインラントに駐留するアメリカ軍兵士を慰問するため、ヨーロッパ出征群の中から選手団を組織して各地に派遣しており、著者はライト級のチャンピオンだった
アメリカ本国では、彗星のごとく現れたジャック・デンプシーが、ヘビー級チャンピオンのジェス・ウィラードに挑戦するという話でもちきり
著者も、いつかデンプシーを倒すのは防御にすぐれた敏捷な選手で、それこそ自分のボクシングだという思いが頭を掠める
最初の「世紀の闘い」「百万ドルの試合」と言われたデンプシー対カルパンティエ()の前座に復員兵の特権で出場 ⇒ 初めて間近に「人殺し」の綽名を持つデンプシーの試合ぶりを観察、自分の確信を深める。同時に右のストレートによろめいたことも分かった
ライト級チャンピオンから始まって挑戦者の地位獲得に辿り着いたが、世評は一方的に自分の不利どころか、「代用ボクサー」が挑戦権を獲得したのはインチキだとまで言われた
チャンピオンとの試合を前に、練習中文学書を読んでいたのが新聞記者の目にとまり世界的なニュースとなる ⇒ シェークスピアが好きだと答えたのが、シェークスピアとタニーの伝説となる。1917年フランスの戦場に向かうある海兵隊員が1gでも荷物を減らさなければならないのにシェークスピアを2冊も持ち歩いているのに驚いたが、その海兵隊員と一緒に出征した著者は、船酔いで自分の上着を汚された見返りに1冊をもらって彼に指南を受けながら読んだのがシェークスピアに傾倒するきっかけとなり、ボクシングの試合の緊張を忘れさせる効果があった。そんな話が「大シェークスピア学者のタニー」となって言いふらされるようになった
試合当日、著者の思い通りに1回から右の攻撃でチャンピオンを圧倒。フィラデルフィアに試合中降り続いた糠雨が、足を使う著者のようなボクシングには不利だったが、強打を誇るチャンピオンにとっても足場が固まらずパンチの威力を減じていた。10回判定で圧勝
本当の事件は、翌年のシカゴでのリターン・マッチで起きた「長いカウント」を巡る論議。優勢に試合を進めていた著者が、7ラウンドでデンプシーの最も気をつけなければいけない左スウィングをまともに食らい、そのあと記憶にはないが7つの強打を食らってダウン。以前のデンプシーの試合で、ダウンした相手が完全に立ち上がる前に追加のパンチを繰り出したことに抗議が殺到し、選手が中立のコーナーに戻るまではレフェリーがカウントを始めてはならないと規定された。今回もデンプシーが著者に覆いかぶさるように突っ立ったままだったので、レフェリーはコーナーに戻るまでカウントを始めなかった。これが4秒間のペナルティとなって、カウント2の時に著者が意識を取り戻す。キャリアで初めて喫するダウンだったが足に来ていなかったので、その後は足を使って勝利に結びつける
興行主が3回目の試合を持ちかけてきて、著者は引退前にもうひと儲けしようと受けたが、デンプシーが拒否。弱い左顎を庇うため肩で顎を隠していたところから、パンチが目の辺りに集中、それが打撃となって失明するボクサーが多かったところから、デンプシーも盲目になることを恐れていたため

Ø  1927    サッコ=ヴァンゼッティの最期 (フィル・ストング)
著者が地方紙の記者当時の27年、処刑直前のニコラ・サッコとバートロメオ・ヴァンゼッティにインタビュー、生涯で最も思い出深い経験となる。その後小説家に転向、アメリカを主題として書かれた小説のうちで最大の問題作となった『ステイト・フェア』を発刊
フィル・ストングの小説『ステート・フェア』にもとづいた故オスカー・ハマースタイン2世の脚本をリチャード・ブリーンが脚色、「青春の旅情」のホセ・フェラーが監督したミュージカル映画。撮影は「アンネの日記」のウィリアム・C・メラー。映画の中で歌われる歌曲の作詞はハマースタイン2世が生前に書いたもので、作曲はリチャード・ロジャース、音楽監督・指揮はアルフレッド・ニューマンが担当。出演者は、「七面鳥艦隊」のパット・ブーン、「ペペ」のボビー・ダーリン、「ワン・ツー・スリー」のパメラ・ティフィン、アン・マーグレット、トム・イーウェルなど。チャールズ・ブラケット製作。
舞台は現代のテキサス。農場主のフレイクには、妻のメリッサとの間に長男のウェイン(パット・ブーン)とその妹マージー(パメラ・ティフィン)とその妹マージー(パメラ・ティフィン)と2人の子供がある。今年も恒例のステート・フェアが開催されると、フレイク家はそれぞれ自慢の出品物と共に、一家をあげて出かけて行った。豚、漬物、スポーツカー等々である。ウェインは、愛用のスポーツカーでステート・フェアのスピード競争に出場、見事優勝した。ここで彼は美しいドサ廻りの芸人エミリーと知り合った。一方、妹のマージーは、会場でテレビの実況放送の司会者ジェリー(ボビー・ダーリン)と知り合った。ジェリーは最初は単なる浮気心で彼女に近づいたのだが、彼女の純情さにうたれ本心から愛するようになった。兄のウェインも妹に負けない純情型、エミリーにすっかりひかれた彼は、彼女のアパートを訪れ愛をうち明けた。翌日、農産物の品評コンクールでは母親メリッサの漬物と父親の豚が一等を得た。そんな間にもマージーとジェリー、ウェインとエミリーの仲はますます睦まじくなるばかり。ウェインはエミリーの名前を書いた愛用車でスピード競争の決勝戦へ出場、そんな様子を見た母親はエミリーがまともな娘でないことを心配した。母親の心配はもっともと、エミリーはウェインのもとから姿を消した。マージーの恋人ジェリーも、仕事が終わると突然会場から姿を消した。だが、ステート・フェアが幕を閉じてから数日、失恋のマージーを迎えに現れたのはほかならぬジェリーだった。喜びの妹と初恋に破れた兄。フレイク一家にもやがて明るさがよみがえるだろう。...
トルストイ的な自由意志論を信奉、人間は先天的に弱肉強食を超越した精神的な慎み深さを持っているが、この自己抑制は法と権力という不自然な制限が除去されてこそ初めて確立されるという考えで、全く実際的でない理論ではなかったが、無政府主義と区別するのが困難
1919年マサチューセッツで起きた2件の強盗殺人事件の容疑者として2人を逮捕、乗っていた車に合衆国政府を始め諸国の政府を攻撃する宣伝ビラが満載されていたのと、2人が仲間を庇おうとして尋問の答えがしどろもどろだったために、疑いを深める
大戦からの帰還兵士が就職できずに不満が高じ、過激主義が全土に脅威をもたらし、それが赤恐怖症と相まって、取締りが行き過ぎていた
徴兵の忌避もあって前々から目をつけられていた
陪審は、最初から犯人と決め付けてかかり有罪となり、判事も広告を認めなかったのですべては終わったはずだが、不審に思った弁護士の申立てにより、その後7年間決着が伸ばされた ⇒ 古いアメリカの伝統を尊ぶ弁護士が、知己の野心的な裁判官が偏見を基礎として無辜の民を殺すことが出来るという事実に気づき、それを看過できないとして個人的に非常に大きな犠牲を払ってまで立ち上がる
度重なる弁護士の申立てに裁判官は相当こたえたようで、7年後の判決の言い渡しの時は被告の顔をまともに見られなかった
国内外を問わず、インテリ層は死刑囚に同情、非難や講義の声を上げるが、2人の属していた階級に近づくほど2人への批判が高まる
19272人の処刑執行、ヴァンゼッティは刑務所長に「自分は潔白だが、私をこういう運命に導いた人々を許す」と言い、所長は刑の執行終了後所定の発表を行うことさえほとんどできないほどだった。裁判官も、上級裁判所判事への昇進は叶わず晩年は恵まれなかった
2人の有罪か無罪かはいざ知らず、決して「誰にも認められず、誰にも知られず、人生の敗残者として」は死ななかった

Ø  1927    リンドバーグ物語 (ジョン・ラードナー)
著者は、32年ヘラルド・トリビューンの記者としてリンドバーグ誘拐事件の報道に当たる
1927.5. リンドバーグによる大西洋横断無着陸飛行成功 ⇒ 1人の英雄が単独で何か目立つことをやるのを称賛する「個人主義」の時代に於けるクライマックス
リンドバーグが、人一倍内向的で超然たる態度を取りつつも、いつも世間にもてはやされようとする紛れもない本能を持つという逆説が、彼を分析しようとする人を悩ませた
祖父がスウェーデンからの移民。本人は陸軍で飛行士の訓練を受け、25千ドルの賞金を目指して横断飛行に臨む。スポンサーはセントルイスの株式仲買人の未亡人で、乗機を「スピリット・オブ・セントルイス」と命名。最初のサンディエゴからセントルイスまでの処女飛行はアメリカ航空界における最長距離の無着陸飛行、続いて大陸横断の最短時間横断記録も樹立
520(出発は7:51am)から21日の朝にかけて、一片の好奇心が世界を揺り動かすほどの緊張にまで、凄まじい勢いをもって発展していった興奮はまずあるまい。あの飛行を知った人は恐らく1人残らず、その飛行中のいずれかの時に自分がどこにいて何をしていたのかを、今日でさえ正確に思い出すに違いない
5776㎞を、33時間29分で飛び、21日夜パリ・ル・ブールジュ飛行場に安着
以後、リンドバーグが世界にもたらしたのは狂気沙汰の乱痴気騒ぎ、新聞記事はもとより、手紙、電報、勲章授与、一気に大佐に昇進、クリーニングに出したものは戻ってこず、書いた小切手は現金化されず、歌が作られた
本人も、社会生活は昔と完全に縁が切れ、近寄り難く、社会の最上層部に属する者として尊敬される人物でなければならないと思い込むようになる。多くの栄誉の中からも清潔で尊敬されるものを選び、航空会社の顧問や株主に就任
飛行から2年後に、メキシコで知り合った駐メキシコ米大使の娘アン・モローと結婚
リンドバーグの名声を維持する上で極めて重要な役割を果たしたのは新聞記者で、彼も自分の思い込みを具体化させるために新聞を利用、相当程度にまでは成功していた
1932.3.1.長男誘拐、警察と新聞に手を引くよう要請、相手も確かめずに身代金を払った挙句に72日後に遺体発見。2,3か月もたたないうちに連邦議会は「リンドバーグ法」を制定、連邦警察が州を越えて自由に誘拐犯を追跡できる権利を認めた。以後4年に亘って新聞に関連記事の載らない日はなかった
34年犯人逮捕、翌年処刑された直後、リンドバーグ夫妻はイギリスに移住 ⇒ 生まれたばかりの二男の写真が新聞に載ったことが引き金だったが、元々白色人種の当然の優越性、強者による弱者の支配といった考えに共鳴して、その通りにならないアメリカ社会を「道義が廃れている」とか「秩序が乱れている」と言って非難していたことも底流にある
イギリスでは、数日を経ずして新聞が追っかけを拒否、リンドバーグが望む以上のプライバシーが与えられたが、リンドバーグは直ぐに退屈して、国王や皇族、高位高官との気紛れな出会いを楽しむようになり、ヨーロッパ各国を訪問
ゲーリングを訪問してドイツ空軍の力を見せつけられ、一方でソ連の非効率を目の当たりにして、リンドバーグはイギリスのボールドウィン首相に「ヨーロッパの西部における戦争はドイツの勝利に終わる。英仏は宣戦布告することなく、ドイツがソ連に侵入して東方に拡大するのを黙認すべき」と説いたが、ボールドウィンが従わないことに憤慨して、首相の「愚鈍」に対する嫌悪感を強め、結局はアメリカに戻ってくるが、終戦までの彼の言動は自身の専門分野において、次から次へと間違った予想ばかりしており、洞察にせよ予見にせよ、全ては航空の世界が蓄えていた大きな変化を否定しようとするものだった
39年米国帰国後は孤立主義者として全米を遊説して回ったが、教養ある人々と感情に走る人々の双方から非難攻撃を受け、彼の演説も冷静と慎み深さを失っていく。多分に名声を利用された面もあるが、40年の大統領選を不正なものとして弾劾、両派とも参戦派であり、戦争を賄っているのは「ユダヤ人の金融資本」だと決めつけたり、太平洋戦争直前には「近代の航空力をもってしても大洋を渡って遠征し、上陸作戦に成功するのは実際的でない」と批判、パール・ハーバーの10日後には「白色人種がモンゴル人種に対して団結する代わりに戦争で分裂してしまった」と嘆き、陸軍長官のスティムソンに陸軍に入って国のために尽くしたいと言ったが、一市民として尽くした方がいいと言って断られた
大戦間の出来事は全て結末がつき、過去のものとなったので、客観的に振り返ることが出来るが、リンドバーグの物語だけはそうではない。これは1人の人間の生命と性格の物語であり、その人間がまだ生きていて、彼の性格が依然影響力を持っているからである
戦争中リンドバーグは海軍航空隊で技術指導的な助言を与えていたし、戦後も彼の孤立主義者としての処方箋を連邦議員たちに伝授していた
自分自身を過小評価したり、世間から相手にされないことを過大評価したりしたことはなかった
そろそろ彼の4番目の物語が生まれ出る機会が熟しているかに思われる

Ø  1929    瓦落(おち)=それはこういうことだった (サーマン・アーノルド)
著者は、大暴落の時ウェスト・ヴァージニア大学法学部長。初期ニュー・ディール政権の種々の地位につき、ルーズベルト大統領のブレーンの1人。反トラストの重鎮
1929.1.1.誰もが明るい見通しを持って新年を迎えた
28年の大統領選で共和党のフーヴァーが民主党のアル・スミスを21百万対15百万で破るとダウ工業指数は300に急騰。9月第1週には381のピークをつけるが、そこから下落が始まり、1024日にはパニックとなり、1113日にクライマックスを迎え、ダウ平均は198.7にまで落ち込む
遠因は19年のヴェルサイユ条約 ⇒ 政治家がヨーロッパの旧地図の改訂版を作り上げている間に、主要国の実業家は別途集まり、政治上の国境を無視した巨大な商業帝国を作り上げる手段方法を議論していた。大量生産と大規模な消費によって世界の様相は一変、自由通商の時代は過去のものとなり、独占企業の支配が始まる
大暴落前の独占資本と、宗教改革前の教会には興味ある類似点 ⇒ 競争相手を打破する力をもっていた。教会の武器は聖礼への参加を拒否することであり、独占企業の武器は財政的援助の拒否
30年初頭に於いてすら、産業界や財界の指導者は楽観論を公言して憚らなかったが、32年の選挙では財政支出を4倍に増やしても景気が戻らないのに不満を募らせた大衆の意向は民主党に傾き、ルーズベルト大統領によって設立されたTVAを目玉とするニュー・ディール政策が動き始める
産業の集中排除が始まるが、軍事的価値が支配的になると、全て後回しになって、全軍需契約の90%以上が少数の大企業王国に与えられ、資力と権力がさらに集中された

Ø  1930    ラジオの神父とその信者 (ウォーレス・スティグナー)
著者は、ハーバードのコープランド記念講座の講師で、カフリン神父の教義の驚くべき影響を実体験
1930.10.30. 大恐慌の深刻な影響が各方面に浸透し、社会不安や悲劇が報じられていた頃、デトロイト市の放送局を通じて日曜ごとに児童向けの講話を始めたのがカフリン神父で、前途に望みを持たせる話は20世紀の偉大なる肉声の1つに数えられるほどの人気となった ⇒ この国を台無しにしたのは国際金融業者であり、共産主義者だと説き、視聴者の圧倒的な人気を獲得、1ドル紙幣を同封して投書してくる信者が急増、それを利用して個人攻撃へと大衆を扇動したが、主義主張はころころ変わり、言動も粗野になって化けの皮が剥がれていく。36年の大統領選には独自の候補者を擁立したが惨敗し事前の公約通り引退。熱狂的な支持者によって復帰した後、ユダヤ人いじめ、労働組合締いじめ、共産主義者いじめを目的に暴力手段を振るい始め、40年に連邦検察局に一旦検挙されるが無罪。国内の国家主義者、孤立主義者、ナチの同乗者の中心人物となり42年にはスパイ取締法違反で逮捕
神父が、矛盾に満ちた不真面目な主張にも拘らず、数百万の人々のひたむきな信仰を勝ち得たことはよく考えてみる必要がある ⇒ 政治の面では既に成熟したと考えられ、極めて大きな個人の自由を多年にわたって享受してきた長い伝統をもつアメリカ人のような国民ですら、ひたすらに指導者に率いられることを渇望し、指導者が前進すれば盲目的に追従するというところまで来ていた、という事実はよく頭に入れておく価値がある

Ø  1931    スター・フェイスフル嬢のなぞの死 (モリス・マーキー)
著者は、ニューヨーカー誌の記者として、どんな事件にも顔を出す「遊軍記者」としての地位を初めて開拓、同誌に掲載された彼の多くの記事はジャーナリズムの古典と言われる
1931.6.8.ニューヨークのロングビーチで若い女性の美しい死体が上がる。スター・フェイスフルという詩的な名前に新聞が飛びつく
スターは4日前に失踪、失恋の腹いせと若い頃凌辱された仕返しに、通りすがりの男に復讐をした後自殺しようとしたが、じらされ辱めを受けた男によって逆に殺害されたと推理したが、その頃には単なる自殺として片づけられていた

Ø  1933    アメリカを震撼させたニュー・ディールの100日間 (アーサー・M・シュレジンガーJr.)
著者は、歴史家でピュリッツァー賞受賞作家。ローズベルト大統領の時代を描く野心的な著述の材料を集め、新聞・雑誌に多くの論文を寄稿
1933.3.3.真夜中、銀行がバタバタと倒れる中、フーヴァーの任期が終了し、ローズヴェルトの就任式(当時は就任まで4か月のギャップがあった)
2133年の政府ほど、財界の思い通りに忠実に動いた政府はない。財界が不安定な資本主義を永遠の繁栄に変えることのできる万能薬を発見したと国民に思い込ませたため、29年以降の恐慌では成す術もなく、年を追うごとに混乱と混迷は深まるばかり
フーヴァーは、経済的な回復は生産者及び消費者自身の活動によって実現されるべきものとして、連邦政府の活動に厳重な制限を加えるべきとの持論を、現実を犠牲にしてまで押し通した ⇒ 32年前半には革命になりかかったが、ワシントンの議事堂に押し掛けた不満分子はマッカーサー大将が出動して鎮圧、中西部の農民の間にも暴動の雰囲気
33.2.15. ローズベルト狙撃、5人負傷(うちシカゴ市長はのちに死亡)。「落着いて、私は大丈夫だ!」のローズヴェルトの力強い言葉に、アメリカの全国民が新しい指導者への全幅の信頼を寄せるようになった
就任式当日、事態は最悪になり、銀行は閉店。すぐさま議会を開催し、4日間の銀行休業を布告。その間に非常銀行法案を可決、均衡財政の確立を優先
ニュー・ディールは、AAA農業調整局の誕生から始まる ⇒ 農産物の生産制限実施により、農産物価格の吊り上げ。その後矢継ぎ早に議会に教書を送る
410日のTVAテネシー流域開発公社設置案こそ最も成果の上がった実験
締め括りが517日のNRA産業復興法提出、公正競争の規律を通じて産業の自治を規定
33年前半の興奮と不安の間、平然としていたのは大統領で、危機において栄える人物
政府の複雑な問題を庶民階級の誰にでもわかる簡単なものにして伝え、ホワイトハウスと一般大衆との間にできた親密関係こそ、いまだかつてどんな大統領でも得たことのないような彼の強い支持勢力となった
多くの人々も、この100日ほど興奮の日を送ったことはあるまい ⇒ すぐに次の恐慌の波が来たものの、束の間の晴れ間にアメリカ国民は痛めつけられた敗北感を振り落とし、自分自身の運命は自分の手で切り拓くことが出来るという古くからの確信を取り戻した

Ø  1934    大入り満員、ディオンヌの5つ子 (キース・マンロー)
著者はカナダの日刊紙記者。5つ子姉妹誕生の報道が契機となって、3744年に5つ子の正式な「支配人」となり渉外を受け持つ
34.5.28.オンタリオ州の貧乏農家に5つ子が7か月足らずの早産で誕生 ⇒ 医者ですら大きな望みは持っておらずあらゆる手を尽くしていたが、その間にも金に困っていた父親をそそのかして地元教区の牧師が5つ子をシカゴの万博に出場させる契約に調印、世間の非難を浴びる ⇒ 数百ドルの契約だったが、4年半後にニューヨークの博覧会の時は興行師が1百万ドルを提示
5日目に聞いた体重は1162g1077g992g820g820g5人で4871g。一両日中にはさらに減って4500gを割る
報道陣や見物人でごった返したが保育室に近寄れるのは限られた人だけ
著者は、生後1週間べったり付き添い、12時間の睡眠で世話を手伝いながら書き続けた ⇒ 3年後に新聞記者を辞め、5つ子の支配人となり、全ての面倒を見ることになる
7年後に、採りあげた医師と良心が仲違いをして両者は関係を発ち、医師は危険な手術を受けたあと2年して死去

Ø  1934    モロ・キャッスル号の惨劇 (ウィリアム・マクフィ)
著者は、イギリス商船の機関長、11年からアメリカに移住。海洋小説家に転じる
本文は、134人の命を無用に奪った30年代初期の海の惨劇の物語。事故の原因につき、確実かつ権威ある意見をのべている
34.9.8. 174回目の航海で3日前にハバナを出港してニューヨークに戻るモロ・キャッスル号11520tが乗客318人、乗組員231人を乗せ、土砂降りの雨の中荒れ狂う大西洋をニュージャージー州バーネガット沖合を通過、アンブローズ海峡で水先案内人と落ち合う予定
前夜船長が夕食の席で気分が悪くなり、1,2時間後に死去。1等航海士が代役
3時前に汽缶室から火災、船内はパニックに ⇒ 本能的に不可避的な天才と考えられたが、実際被害を大きくした原因は強硬と無能
周辺は通過船の多い航路で、周囲に多くの船がいたが、燃えさかる船が30kmhもの強風に向かって全速力で走り続け、一向に救助信号を発しないのを不思議に
機関長が最初の避難ボートで脱出してしまい、船内でも避難の指示はなく、火災報知機の音も小さく、乗組員が消防用具の使い方も知らず、最新の設備も役立たなかったのは、乗組員が原因 ⇒ 船内規定集もなく、乗組員の大半は海員証明書を偽造した外国船員で、実地訓練もしていなかった
乗組員のうち最後まで船に残ったのは船長以下15名、沿岸警備隊の監視船に曳航されたが、途中で綱が解けてニュージャージー州アスベリー・パークの砂浜に座礁
田舎の海水浴場だったアスベリー・パークに見物客が殺到、市長は入場料を取って見世物にしただけでなく、「海岸所有者権」なるものを振りかざして、自らの指示に従わない事故の検証に来た船舶検査局や連邦検事局、保険会社のチェックも追い返そうとした
共産党員による放火説も出て、事故査問会もそちらに気を取られて、乗組員の不手際については追求しなかった
船の所有会社はロイド保険から帳簿価格より多い4,186千ドルを受領しながら生存者への賠償を渋り評判をさらに落とす
火災とモスクワの関係がないことが分かってくると、世論は生贄を要求したのに応えて、裁判では船長・機関長を有罪としたが、控訴審では無罪、商務長官や連邦議会も一定の対応策を講じることとしたが、それだけで事件は世間の記憶から薄れる
事故で合点がゆかないのは、火災の原因と、最新式の船が信じられないほどの速さで燃えた理由 ⇒ ボイラーの手入れが悪いと煙突の基部が過熱して熱の絶縁物を破壊し、周囲の木造の造作物に引火したと考えるのが一番事実に近いのではないか
責任を問うとすれば、統制のない出鱈目のアメリカの商船隊(本船も海軍から補助艦に指定され、莫大な補助金を使って建造)であり、無知と怠惰の海員を放置したアメリカ労働総同盟の海員組合に対する態度であり、一般社会も自国の商船隊に何等関心を持たなかったのは責められるべき

Ø  1935    アメリカの独裁者、ヒューイ・ロング (ホッディング・カーター)
ニューオーリンズの記者、ルイジアナで反ロング派の新聞創刊、サウスカロライナの新聞社を買い取る。46年自由主義的な論説に対しピュリッツァー賞
1932年 民主党のヒューイ・ロングはルイジアナ州政界の「顔役」として押しも押されもせぬ地位を築くに従って、州政界の腐敗も侵攻
ルイジアナは、フランスの植民地に始まり、1803年アメリカが15百万ドルで買い上げて自由が実現したが、民主主義は存在せず、特殊の地位を固めていた少数の者によって支配されていた。南北戦争までは上流階級の腐敗、政治の堕落、市民の利益を作為的に無視することの連続
ロングは、州北部の貧しい農家の生まれ、雄弁の才に恵まれ弁護士となって政界入りを窺い、最初が州鉄道委員会委員、24年では百姓を味方に州知事選で善戦、既成勢力の顧問弁護士としても活躍、2835歳で州知事に当選、議会を買収して民衆の好む施策を次々と実行し支持を上げ、勢力を伸ばすと同時に、独走を始める。さすがの州議会も、反対派の買収や公金横領に対し知事を弾劾にかけ、下院は通過するが、ロングによって買収された上院で否決。以後ロングは復讐心に燃えて買収と実力行使で反対派を封殺
不況に喘いでいた州では公共事業が活発化、失業者を吸収してさらに支持を増やす
32年知事の任期半ばで合衆国上院議員に転じ、傀儡を州知事につける ⇒ ローズヴェルト大統領とも手を斬り、民主党上層部に喧嘩を売る
34年には荒唐無稽な国富再配分を唱えて、大衆の支持を全国に拡大、アーカンソーの上院議員選では独力で奮闘し候補者を当選させ、さらには大統領選を窺う勢いだった
1つの議会が、人民の政治上の権利と、経済上及び一身上の安全をこれほどまでに完全に1人の人物に渡してしまったことは考えられない ⇒ 選挙管理人も自分の好きに選び、秘密警官を任意に配置し、州検事総長も意のままに動かし、州税務委員会は自由に課税、教職員の任免すら牛耳る
35.9.ロング暗殺で幕
3236年著者はルイジアナで自分の新聞を出版。ロングの味方となる様再々圧力をかけられ、無視すると活動に対する嫌がらせになったが辛うじて残った
36年の州議会議員に立候補するも、ロング派には歯が立たず、ロングの後継者が当選、政治の腐敗はそのままどころか、36年の大統領選で州の支持を取り付けるために民主党の飴がばら撒かれた
39年ごろから、ロング派に内部対立から崩壊の兆しが現れ始め、40年の選挙で漸く反ロング派が勝利、遅まきながら州の大掃除を断行。44年、48年の選挙でもまだロングの残滓が選挙に現れる
ロングの出現の背景には、ルイジアナの州民が200年もの間抑えられてきたあげく、彼等の要求するものを達成させてくれる救世主の出現を待ち望んでいたことと、ロングの敵がバラバラの勢力でしかなく、民主政治を叫んでも実益が伴わなかった
ロングは決して革命論者ではなく、単に権力が欲しくて権力を求めるだけで、アメリカの土地から生まれた本当の意味の他に類例を見ない独裁者

Ø  1936    王様とボルティモアの女 (マーガレット・ケイス・ハリマン)
著者は、特別な世界に生まれ上流社会の特別な社会教育を受けて育ち、上流の国際社交界の模様を書いて出版
1936年 エドワード八世がシンプソン夫人と結婚するために王位を捨ててウィンザー公になった時、夫妻は皮肉にも、イギリス帝国を統治するという現実的な重荷の代わりに、それより一層困難でつかみどころのない責任を引き受けることとなった
シンプソン夫人の旧名、ウォリス・ウォーフィールドの先祖は、一度は国王の座まで占めた彼女の夫の先祖より遥かに身分が高かった。アメリカのメリーランド州の最も古い名家の1つで、そもそもは1662年ときのイギリス国王チャールズ二世が、リチャード・ウォーフィールドに授与したハワード郡の土地に移住した一家。1662年はウィンザー公の先祖のハノーバー王家がイギリスの王位に就いたときより52年前、さらにハノーバー王家がその家名をウィンザーに変えた時より255年も前
シンプソン夫人は、1896年生まれ、1914年フィラデルフィアで社交界にデビュー、3年後にフロリダの海軍航空隊基地で教師をしていたスペンサー中尉と結婚、27年離婚、翌年ロンドンでコールドストリーム近衛連隊のシンプソンと再婚
ウィンザー公は、1894年ヨーク公(後の国王ジョージ五世)夫妻の子として生まれ、31年ロンドンでモーガン双生児の1人ファーネス夫人の主宰したパーティで初めてシンプソン夫人と出会う。伝統を破って離婚した夫人としては初めてジョージ五世国王夫妻に拝謁。王室や政府は渋い顔だったが庶民的な皇太子は勤労階級の同情を集め、国王になるまで続いたが、即位した後シンプソンの目覚ましい昇進に、特に国王自身の属するテンプル騎士団支部の会員に推挙するに及んで、一般イギリス人の感情が爆発
シンプソン夫人の機知を示す逸話
   サマセット・モームとブリッジをしていた時、モームに「キングを持っていながらどうしてあのトリックを取らなかったのか」と聞かれて、夫人は「私のキングはトリックなど取らない。ただ退位するだけ」と答えた
   劇作家と飛行機に乗りあわせ、「イギリスの王妃になるというのはどんな気分か」と尋ねられ、「不時着の飛行機に乗っているような気分です」と答えた
1936年即位に先だって、既に2ストライクを喰っていた(シンプソン夫人の交際と、第1回目のヒトラー訪問)が、即位後も顰蹙を買う行為を頻発 ⇒ 東海岸を視察して炭坑夫の生活状態はイギリスの恥だと発言(10年前にも同じ発言をして物議)したり、ウェールズでも失業者の救済に動くと約束したり、政府を驚倒させる
夫人の離婚で国王との結婚が現実味を帯びた時、一般大衆は国王に好意的だったが、それはイギリスの新聞が夫人についての報道を控えたからで、2度も離婚歴があると知って手のひらを返す。政府とイギリス国教会が反対したのも離婚が原因(国教会自体、ヘンリー八世がイギリス・カトリック教会から離婚を認めてもらえなかったために創設したもの)
チャーチルらの支持はあったが、多勢に無勢
結婚に反対する暴徒から夫人がカンヌに逃れる途中から国王に電話して、「退位なさってはいけません! あなたはお馬鹿さんよ!
36.12.11.下院議長が議会で国王の退位声明を読み上げる ⇒ 翌日国王自らラジオ放送を行い、船でウィーンの友人ユージーン・ロスチャイルド男爵のもとに向かうが、その船の名前が「魅惑の魔女Enchantress
37.6. 弟で跡を継いだジョージ六世がエドワードのために特別に設けたウィンザー公となって、シンプソン夫人とフランスで結婚
2次大戦が勃発した時、ウィンザー公は祖国イギリスのために奉仕を申し出て、イギリスとフランスの最高司令部の連絡将校に任命されたが、勤務地はフランスに限定
1940年 バハマ総督(イギリス領としては本国から一番遠い)としてナッソーに移住
45年 退官して、戦時中ロンメル将軍に一時占拠されたフランスのアンチーブの別荘で余生を送る

Ø  1937    シカゴの大虐殺事件――リパブリック製鋼事件 (ハワード・ファースト)
著者は、歴史小説家、伝記作家。第2次大戦中は戦時情報局の海外駐在員、新聞特派員として従軍。アメリカ労働運動の戦闘的左翼のスポークスマンと見做されている
1937.5.30.  リパブリック製鋼シカゴ工場の25000の労働者がスト、家族連れのお祭り気分だったが、工場に向かって行進し始めると、工場から警官隊が来て隊列を襲い、死者7名、負傷者100名を超える大惨事に発展
1次大戦後の労働運動 ⇒ パーマー事件が政府による共産党弾圧の嚆矢で、始まったばかりの共産党活動が地下に潜行。産業別労組のIWWが最も戦闘的だったが政府の弾圧の前に29年までは確固樽地位は築けず、30年代の不況によってようやくアメリカ社会の重要な要素として登場。産業の雄・鉄鋼業界でも35年頃から慶喜が業績回復の兆しが現れた中でCIOによる組織活動が活発化し、36年半ばにはUS Steelも含め多くの鉄鋼会社が組合と契約を結ぶが、抵抗する会社との間では闘争が先鋭化、その先頭に立っていたのがリパブリックのトム・ガードラーで、丸太小屋からのし上がって同社を再建・拡張して大手の一角を目指していたが、そのためには自分の使役する労働者の扱いは情け容赦もないひどいものだった
虐殺事件の背景には、アメリカの資本主義の最も反動的な勢力があり、ガードラーは労働勢力の力を試すために使われた試験台に過ぎない。彼を支持した株主・重役たちは黙認したし、報道も現場の凄惨な写真を掲載しながら労働者を「血に飢えた」暴徒と表現
シカゴの事件から10日後に別のリパブリックのミシガンの工場でもストを宣言、ピケの中に会社の雇った暴力団が乱入、流血の騒ぎとなるが、各地で同じような事件が頻発したが、いずれも社会の秩序を破壊する暴挙として労働者が非難され弾圧が正当化された。労働階級がこれらの組織闘争で蒙った人員の損害は、アメリカの軍隊が第2次大戦にたるまでのあらゆる戦争で失った兵員の損害を超えるとさえ言われる
以上は、クローズド・ショップの組合の下での惨劇だが、その結果アメリカにおける最大の労働者組織―CIOの産業別組織が生まれたし、反ファシズムの広汎な統一戦線のうちからヒトラーに抵抗する力と意志、世界をしてあの恐ろしい危機を切り抜けさせた力と意志が生まれ出れでた

Ø  1938    出張りの上の男 (ジョーエル・セイヤー)
著者は、派手な場面の鑑賞家、風刺小説家。新聞記者、ハリウッドの脚本書き。第2次大戦中はニューヨーカー誌を代表する従軍記者
38.7.26.ニューヨーク市警の交通違反呼び出し係の巡査が、マンハッタンで17階から飛び降り自殺を企てた精神病の男に遭遇。男は窓の外の46㎝幅の出張りの上に立ち、下の道は見物人で埋まる。男の妹と、知人が説得するが応じない。巡査が応援に駆け付けて説得に加わるが、丸1日かけた努力にもかかわらず、最後は飛び降りて即死
5番街の一帯の商店は10万ドルの損害を被ったとこぼしたが、その週末までには1百万ドルにも達する余分の収入を得た。社会に迷惑をかけたがそれ以上のお返しをしたという議論も成り立つ

Ø  1938    火星人の襲来した夜 (チャールズ・ジャクソン)
兆者は、30年代の最も成功したラジオ劇作家の1
38.10.30. 日曜の午後89時のラジオで放送された劇番組は、それまでの3か月半以上も他局の人気番組に押されて広告主が付かなかったが、その晩の『宇宙の戦い』は、火星人の地球襲撃を臨時ニュースの形式で放送したもので、本物と間違えた聴衆がパニックを起こして、実際に避難を始めたり、警察に押し掛けたりして大騒ぎとなる。番組内では前後4回にわたり「芝居である」旨の断りを入れていたが、騒ぎを止めることは出来ず、番組終了後も真夜中まで「虚構の作り話である」とのお断り放送を続ける羽目になった
架空の放送劇に、かくも簡単に大衆が恐慌状態に陥った原因の一部は、健全な想像力の欠如にあり、その背景には930日の西欧の4巨頭が会したミュンヘン会談でチェコの生贄と引き換えに一時的ではあったにせよ戦争恐怖症は終止符を打ったが、この1か月ほど世界の人々がラジオに関心を寄せたことはなかったという状況がある
912日にヒトラーがズデーデン地方のドイツ人の民族自決権を認めるべきと宣言して以降、連日のように臨時ニュースと新聞の大きな活字が猛烈な競争を演じており、戦争の恐怖が現実のものとして迫っていた
連邦通信委員会も、放送局の対応に瑕疵はなかったとして処分せず、放送局も放送劇の中に嘘のニュースは入れないと言明
常識的には、このようなラジオ放送に対して過剰な反応はしないが、いつ何時現実に起こるかもしれないという恐怖のうちに戦々恐々としているのは間違いない
これを聞いたならば、広島や長崎の人々も、あるいはやれやれと安心するかもしれない(意味不明)

Ø  1940    ウェンデル・ウィルキー――その勇気とは? (ロスコー・ドラモンド)
著者は、ボストンの新聞記者、40年ワシントン支局長。40年の大統領選でウィルキーを取材して以降彼の死まで個人的に密接な接触を保った記録は現代史に貴重な貢献
ウィルキーは、かつてウィルソンを支持した民主党員で、32年にはローズヴェルトに1票を投じたが、40年には共和党の候補として大統領選を戦う
ウィルキーほど、自由に対して枢軸国の与えている脅威の本質をはっきりと認識していたアメリカの指導者はいない
インディアナ出身、祖父母は1848年ドイツの民主革命の弾圧を逃れてアメリカに移住。ニューヨークで弁護士
40年の大統領選は、共和党にとってはどのみち勝ち目はなかったが、ウィルキー以外の者が共和党候補になっていたら、同党は孤立主義に固まり抜き差しならないことになっていただろう。大統領選に敗北を喫しながらなお、戦争に勝つ上にウィルキーは4つの大きな寄与をしている
   共和党内の孤立派に挑戦し、その勢力を弱めた
   大統領選直後、共和党が「国家に忠実な反対党」となる様党内を説得 ⇒ アメリカ民主主義の最も純粋にして、最も優れたところを世界に示した
   共和党以外にも重きをなし、政府が採っていた以上の思い切った国防措置を取らせる
   アメリカ国外でも、自由の敵と戦っていたすべての人々に勇気と信念を与える
ローズヴェルトの国防強化に向けた国民の支持獲得努力に対し、当時個人的に国民に人気のあった孤立派の花形リンドバーグは、ドイツは敗れないがアメリカが攻撃されることはないと説いていたし、参戦反対を唱える「アメリカ第一委員会」は孤立主義を鼓吹、ヒトラーもアメリカの平和を愛する伝統を頼みとしてアメリカ以外の全てを枢軸国が征服するまでアメリカを参戦させずにおくことが出来ると信じていた
大統領選の最中、ローズヴェルトが、イギリスが西半球に持つ軍事基地と交換にアメリカの駆逐艦50隻を提供すべく、ウィルキーがこれを選挙戦の政治問題にしないと約束して欲しいと申し入れ、ウィルキーも無条件で応諾
政府の選抜徴兵制に関しても、反対すれば票が取れることは分かっていたが、採りあげず
ウィルキーが、本格的な対戦準備を具体的に提唱したのは40年の初頭、共和党代表に指名される前のことで、それ以来その努力を緩めなかった
空襲のロンドンに赴き、その体験から述べた証言が41.3.の武器貸与法実現に貢献
自由を守る戦いに向けて、各個人についても、産業や財政の面でもすべてアメリカが全面的に戦時体制に切り替えることを提唱。党派的利害を超越すべきとも説く
戦争の初めから、戦後の平和をどうするかということにも心を砕いていた ⇒ アメリカが本気になって国際問題の処理に当たらない限り、永続性のある平和は望めないとし、今からそのための平和機構の設立に着手しなければならないと説く
42.8.には49日間で世界を一周、勝利に向けた一致団結を説く ⇒ “One World”の思想を広め、同名の旅行記は世界でベストセラーに
ウィルキーが40年に共和党候補の指名を獲得できたのは、対立2候補(ニューヨーク市長のトーマス・デューイとオハイオの上院議員タフト)に国民的魅力がなかったからで、彼の進歩主義的な考えは当選すれば実業家としての本音が出て共和党本来の保守的な考え方になると期待してのことだったところから、党の保守派にとってはウィルキーが敗れてホッとしていた ⇒ ウィルキーは、民主党に対してそのニュー・ディール政策が経済的復興を成し得ず、国民の間に階級闘争と不和を助長したとして指弾する一方、共和党に対しても8年に亘ってウィルキーの提唱する社会改革の原則にも内容にも反対してきたのみならず、国防でも安易な逃避主義的事なかれ主義の立場を取ったことを糾弾
大統領選敗退後、「国家に忠実な反対党」を宣言してから、44年の大統領選の予備選で再指名を断念するまで、共和党の改革と政策の自由主義化のために活発な活動を展開
40年選挙では、ウィルキーの主張が共和党本来の主張から離れすぎていたために、国民がチグハグな政権に不安を感じて支持しなかったが、44年は国民の支持は得られたかもしれないが、その前に党が立場の違いから彼を斥けてしまった
44年両党の全国大会終了後、ウィルキーは雑誌に寄稿して両党の綱領を批判、直後にどちらを支持するか明かさないまま急逝。両党ともウィルキーは我が党の味方だと言い出したのは醜態
最後の病床でのインタビューを通じて知り得た限りでは、ウィルキーの最後の腹はまだいずれとも決まっておらず、最後まで自分の良心を貫き、最高の主義主張の実現に全力を捧げていた

Ø  1941    パール・ハーバーの日曜日――アスピリン・エイジ終わる (ジョナサン・ダニエルズ)
著者は、ワシントン詰め記者として文筆業に入り、大戦勃発とともに民間防衛局次長。4345年大統領の行政補佐官・新聞秘書(トルーマンにも仕える)
46.3. 議会の調査委員会の公聴会終了
パール・ハーバーは、両大戦間のほとんど避けることのできなかった宿命的な結論だった
平和と戦争の境目は、東部時間の午後150分。大統領発表は2:25pm(当時ハワイとの時差は5時間半)
0:32pm ハワイでは、飛行機探知機で北方に夥しい数の飛行機を探知していたが、アメリカ軍のものとして簡単に片づけられていた
1:10pm 日本大使館からハル国務長官あてに面談申し入れ ⇒ 1:45pmにセット、現れたのは2:0515分待たされたがその間にアメリカの1つの時代が終わりを告げた
1:48pm ワシントンの第3警備通信班がホノルルから至急電送付との受信 ⇒ スターク作戦部長からノックス海軍長官経由ローズヴェルト大統領へ。大統領の最初の指示はハル長官の召還。ハルは日本の大使を厳しく非難した後大統領のもとへ
アメリカの必要としたものは、ローズヴェルトという偉大な指導者とともに、自由と同時に忠誠も必要であることを国民の頭の中にしっかりと叩き込むことだった
その日、ローズヴェルトは少しも驚かなかった。既に前日、ハルの最後の提案に対する日本の回答電報を解読した大統領は戦争を予言し、日本の奇襲を防ぐために手を出せないもどかしさを訴える側近に対し、「平和を愛するアメリカが先に仕掛けることなどできない。いままで前科はない」と諭した
ルーズヴェルトは、ウィルソンが国際連盟という理想の夢を描いてヨーロッパから帰国した時、大統領の信任厚い若者として一行に加わっていて、20年の選挙では副大統領候補として絶望的な戦いに臨む
21年小児麻痺で半身不随に ⇒ 病気との闘いが彼に強い性格を養わせたとも言える
彼の能力が認められるにいたったのはアメリカが経済的崩壊から立ち上がって再建に邁進しようとしたとき、奇しくも就任式の翌日にはヒトラーに絶対的な権限が委ねられていた
2人の特異な人物が、世界政治における失敗の結果生まれた力によって政権を獲得するに至ったことは明瞭な事実と同時に、2人がその時代における基本的な対立勢力を代表したことも間違いない ⇒ 2人の根本的な相違は、ヒトラーが自分を指導者の地位に就かせる原因となった経済的厄災を犯罪と見做したのに対し、ルーズヴェルトはこれを愚鈍の所産と見做した。それゆえ2人の用いた手段と目的に決定的な違いが出た。ヒトラーはドイツ国民に生活の保障を他から奪い取って与えようとし、ルーズヴェルトはその保障を自ら作り出すことを考えた。そのためヒトラーは軍隊を建設したのに対し、ルーズヴェルトは学校や橋梁、道路を建設
重要なことは、ルーズヴェルトの指導の下に、アメリカが完成しかつ擁護しようとした民主主義には、本質的には結局何等の改変も、あるいは中断もなかったという厳然たる事実である ⇒ ルーズヴェルトの仕事は、ヒトラーに比べて比較にならぬほど困難なものだったが、一度たりとも民主主義の枠を逸脱したことはなかった
ルーズヴェルトが覚悟していた日本の奇襲は、予想以上の手痛いものだったが、計画的に博打を打って軍事的に時を稼いで勝利への基礎を築いた結果、結局はプラスとなった
奇襲によって、アメリカ国民の自由と忠誠が1人の指導者の下に一緒になり、民主主義の過程を通じて世界の激しい政略において勝利への道が拓かれ、記念すべき日となった


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