ジェイコブズ対モーゼス  Anthony Flint  2013.2.23.


2013.2.23. ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーコ都市計画をめぐる闘い
Wrestling with Moses                  2009

著者 Anthony Flint ミドルバリー大卒後、コロンビア大学グラデュエイト・スクール・オブ・ジャーナリズム卒業。ジャーナリストとして25年、主にボストン・グローブ社に勤務。都市計画並びに開発、建築、都市デザイン、住宅、運輸関係を取材。現在マサチューセッツ州ケンブリッジのリンカーン土地政策研究所所属

訳者 渡邉泰彦 慶大経卒。ペンシルヴァニア大ウォートンスクールMBA。東京三菱銀行2000年退任後三菱地所にて丸の内再開発事業に携わる。アーバンランド・インスティチュート・ジャパン会長。日本ファシリティマネジメント推進協会副会長などを歴任。現在慶大ビジネススクール顧問、筑波大大学院システム情報工学科客員教授

発行日           2011.4.20. 第1
発行所           鹿島出版会

『フェリックス・ロハティン自伝』で、訳者が言及
雑誌『アーバンランド』の書評欄で見て翻訳を思い立つ

槇文彦
連邦政府、ニューヨーク州都市の強力なバックアップのもとに、第2次大戦を挟んでのその前後、1970年代までニューヨークのマスター・ビルダーとして君臨したロバート・モーゼスと、一介の住民代表でフリー・ジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズとの間の30年間にわたるワシントンスクエアパークとその周辺環境の保全をめぐる壮絶な闘い。私のように当時のニューヨークをよく知る者にとっても本書は次の2点で貴重な資料を提供している。1つは現在、都市計画を学ぶ者にとってバイブルとも言える必読の書、ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』外貨に生まれたか、その誕生の背景が明らかにされていること。もう1つは今日、日本でも常に直面する「開発か保全か」の問題の本質が既に鮮やかに描き出されていること。固有名詞が多いにもかかわらず、大変読みやすい訳になっている

序章 混乱と秩序
1968.4.10. ニューヨーク州運輸局職員の呼び掛けで始まったローワーマンハッタン・エクスプレスウェイの公聴会で発言台に立ったのは、ジェイン・ジェイコブズ。51歳の著作家にして市民運動家。『アメリカ大都市の死と生』の著者であり、近隣破壊を招く都市再生事業と闘う人として全国的に有名。ペンシルバニアの炭鉱地域出身。7年に亘って同事業を立ち往生させていた
公聴会妨害のかどで逮捕されたが釈放
1940年に同事業を提案したロバート・モーゼス(18881981)にとって、唯一やり残した事業
1920年代にニューヨーク州知事アルフレッド・スミスの下で働き、同州の州務長官を務め、34年の知事選で大敗、以後州政府の執行機関の長をいくつも務める。68年当時の最大の権力の源は、連邦政府の資金を使ったトライボロブリッジ&トンネル公社の総裁(16年を6期務める)

第1章        スクラントン出身の田舎娘
ジェインは1934年ニューヨークに転居、ジャーナリストを目指し、作品を投稿し始めると、『ヴォーグ』からフリーランス契約のオファーが来る。建築技師と結婚。戦時情報局に勤務。グリニッジ・ビレッジのロフトを改装した家に住み、都心生活のパイオニア
戦後、共産主義や社会主義への疑惑が強くなるなか、シカゴのゲットーの貧困者や弱者の英雄に惹かれ市民運動に傾倒したため、赤狩りの対象となって国務省を追放。建築の世界に入り、フィラデルフィアの都市再生計画(全米の大規模実験の対象)の最新情報を取材
それまでの都市再生運動は、混雑し不健康な場所から貧困住民を駆逐し、一からやり直してどこへ行っても同じような退屈極まりない景観を生み出していた
ジェイコブズの目から見ると、都市計画家とは地域社会に大きな変化を押し付けておいて、その結果をきちんと評価しようともしない傲慢な自惚れ屋に過ぎない
1956年グロピウスが教授だったハーバード大デザインスクールで開催されたアーバンデザイン総会で、ボスに代わって講演、都市再生計画の新しい動きを批判し、現状の混沌とした街路の存在を取り込んではどうかと提言
大方のエスタブリッシュメントには不快感を与えたが、『フォーチュン』の編集長の目にとまる
「ダウンタウンは人々のものである」は、近代都市計画評論家としてのジェイコブズの名を広めると同時に、モーゼスとの闘いにおける先制の一撃となる ⇒ アッパーイーストを18ブロックに渡って取り壊すリンカーン・センターを「死後硬直」の典型だと名指しで批判

第2章        マスター・ビルダー
1936年 トライボロブリッジ(現ロバート・ケネディ橋)完成、ヘンリー・ハドソン・ブリッジ完成
モーゼスは、40年代初めに住宅事業に着手。42年に州議会が再開発会社法を承認、公的利用の目的で土地収用権の行使が認められる ⇒ スラムを取り払い、大規模な住宅・商業施設の建設を目論むが、当初の精緻な細部への関心を失い、大規模な長方形の構造体や十字形をした建物がお定まりとなり、建設件数だけを重視するようになる
新たに建設された住宅は、低廉住宅と言えど、「荒廃した」地域住民にとっては高嶺の花ばかりで、転居を保証されたはずの低所得者層や少数民族家族が落ちこぼれ、「黒人排除」とまで皮肉られた
1955年 ブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマーリーが、モーゼスの市内改造でファンから遠くなった球場を建て替えようとしてモーゼスに候補地の整備を要請したが、万博跡地を考えていたモーゼスと意見が対立した結果、ドジャースはロサンゼルスへ移転

第3章        ワシントンスクエアパークの闘い
55年 モーゼスが、ワシントンスクエアで終わっている5番街を南に延ばそうとの計画が具体化、周辺のスラムを撤去し、近代的な建物と幅広道路ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイに入れ替え、ウィリアムズバーグ橋に結び付ける計画
ジェイコブズが、ニューヨーク市の活動家としての第1歩を踏み出す
この地域は、イギリス軍隊の将校たちが保養地として選んだ場所、18世紀終わりの黄熱病蔓延の時には公共墓地。1826年に市長が独立宣言調印50周年記念事業としてワシントンスクエアパークと命名。高級住宅地として賑わい、19世紀終わりにはワシントン大統領就任100周年記念事業としてアーチ門が設立
35年 モーゼスが初めて、荒れ果てたと見做した公園の近代化を提案、公園の角を削って環状交差路を作る案だったが、反対運動と戦争によって中断。50年に改めて計画を公表
52年にいったん撤回されたが、54年に復活。猛烈な反対運動に遭って58年遂に計画撤回されただけでなく、パーク内への車の乗り入れも禁止された
今日では、このパークはセントラルパークと同様、民間資金で管理委員会によって運営
この敗北に加えて、モーゼスの部下による不当利得行為のスキャンダルが重なって、彼と彼の都市再生についての否定的論説が初めてニューヨークの主要紙に載り、彼の神秘的雰囲気をなし崩しにしていった

第4章        グリニッジ・ビレッジの都市再生
ワシントンパークでの運動の成功をベースに、『アメリカ大都市の死と生』の執筆に取り掛かる ⇒ 都市計画の「被害者」の事例研究と、何が都市を繁栄させたかの解説。ビレッジの生活を子細に観察しながら、地域住民は彼女が「脱スラム化」と名付けた自発的なやり方で、地域を改善する力をもっている、住民が自力で、民間と公共資金の双方を活用して建物の再生を図り、その結果地域の経済的文化的多様性を維持するとの信念を持つ
61年 脱稿直後に、自らのビレッジの住まいが「荒廃地域」に指定されたことを知る
64年万博の会長に選任されたモーゼスが巻き返したが、住民側が勝利
『死と生』の中で、ジェイコブズはモーゼスの都市計画の独善性を1つづつ批判 ⇒ 多様性のある密集こそ理想的とした。60年代までのアメリカでは、20年代のゾーニングの考え方のまま、「使用目的」ごと、あるいは生活の基本的機能ごとに厳しく分離することを良しとしていたが、現代の都市においては、使用目的の違うものが近接して混在状態になっている。それは無秩序の混乱とは違い、複雑で高度に発展した秩序を象徴するものとした
本が発刊されると、「現状維持の弁護」と決めつけたり、批判が噴出したが、政治的スペクトルからいえば自由主義論者(リバタリアン)の側に属していて、保守派の中にも支持者が多く出た。各地から講演の要請が飛び込む
ニューヨークの歴史保存運動にも注力
ウェストビレッジの都市再生計画を撃退したために、低廉住宅供給計画も廃止に追い込まれ、グリニッジ・ビレッジ全域にわたって不動産投機が激しくなり、多くの住民は法外な不動産価格ゆえに地域から締め出されてしまった ⇒ ジェイコブズは、自らの持論を実践するために、「ウェストビレッジハウス」構想の具体化に走る。無機質な高層住宅の代わりに、42棟の5階建てのレンガ造建物を近隣に調和させるように建て、総戸数475戸。恐怖と犯罪の忌まわしい代名詞となっていたエレベーターは排除。賃借人は人種的にも多様でなければならなかった。市民主導の再開発プロジェクトに対し、市当局は関心を示さず、何度も許認可を伸ばされ、総コストも8百万ドルから25百万ドルに膨れ上がったが、69年にようやく許可が下り、74年に完成、76年には満杯となった
都市再生全盛時代にモーゼスや彼の後継者たちが建てた高層住宅にとって代わるものを、近隣住民が責任をもって実際に考え出したところにジェイコブズの本当の勝利の意味があり、都市計画の新しい専門家として脚光を浴びる

第5章        ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイ(別名ローメックス)
61年 モーゼスは、600マイルに及ぶ道路建設の集大成として高速道路建設事業のレベルアップを準備。それは冷戦に対応して56年に全米州間高速道路法案に署名したアイゼンハワーの構想と平仄を一にし、連邦政府が費用の90%を負担
マンハッタンを横切る5本の高速道が計画される ⇒ ジョージ・ワシントンブリッジ、125丁目、57丁目、34丁目、ホランドトンネルの5カ所
ジョージ・ワシントンブリッジを建設したニューヨーク港湾公社が、最初に手を付けたのがトランスマンハッタンエクスプレスウェイ。後世最も悪名高きプロジェクトと言われる初めての市中横断高速道クロスブロンクスエクスプレスウェイ(インターステイト95、全長7マイル)をその後建設するためで、ブロンクスの人口密集地域を1マイルに渡って切り裂き、1500を超える世帯が転居を余儀なくされ、194863年にかけ、128百万ドルかけて建設。住民の反対をねじ伏せた当時のモーゼスの絶大な力を見せつけたものであり、市民を暴力的に蹂躙したケーススタディとして、今日に至るまで語り継がれている。活力溢れた多様性に富んだ移民集団をバラバラにし、ブロンクスの急激な経済的、社会的衰退のきっかけとなった
ルートを僅か2ブロック南にずらすだけで数百世帯の家屋が撤去されずに済むと陳情したが、聞く耳を持たず、連邦政府資金的各事業の模範例として謳い、フロリダからメインまでを繋ぐインターステイト95の欠落部分を仕上げて完結させるという貢献を果たし、アイゼンはーの要請に見事に応えた
次いでモーゼスが手をつけようとしたのが34丁目とホランドトンネルの2本。既に41年に公共事業に取り憑かれたラガーディア市長を説得して都市計画委員会の新動脈道路網の基本計画に盛り込ませていた。56年の新法により350百万ドルの90%が用意されてようやく具体化に向けて動き出す
34丁目の計画は、リンカーントンネルからミッドタウントンネルに抜けるもので、30丁目に並行して走る道路だったが、最初から激しい反対運動に遭い、66年市長となったリンゼイが無用の公共事業として却下され、モーゼスの最後の望みがローメックスとなった
ホランドトンネル入口とイーストリバーに架かる2つの橋、マンハッタンとウィリアムズバーグを結ぶ道路は、長い交通混乱と渋滞の解決策として、実現可能のように見えた
またインターステイト78の延長として、連邦政府資金の活用が可能だった
マンハッタンの南端のツイン・タワー構想も含まれていた
地元の牧師が、ジェイコブズの令名を聞きつけて、反対運動への助力を要請 ⇒ ワシントンパークやウェストビレッジのケースと酷似しているところから、すぐに運動に参加することを決めて動き出す
60年市がルートを承認したが、反対運動の激化とともにマスコミまでが否定的な報道をするに至って市長も尻込み、62年末には計画を否決、合衆国中でインターステイト計画がポシャった初めての例となる ⇒ この凶悪プロジェクトが最終的に死滅するまでには何回も葬り去る必要があった
64年モーゼスがトライボロー公社の6期目の総裁就任宣誓でローメックス復活の狼煙を上げ、賛成派が勢いづく。ワグナー市長も最後の任期で寝返り、道路建設を容認して、入札準備に入る
ニューヨーク市長選に立候補した下院議員リンゼイがジェイコブズの強い味方となる
もう1つの強い見方が歴史遺産保存運動の台頭で、60年代に本格化。ニューヨーク市民が結束して歴史的建造物の取り壊しに反対を始めた ⇒ ペンシルバニア駅も含まれ、史跡保存委員会によって認定され市によって追認されたハウイットビルはまさに高速道建設地に立っていた
66年リンゼイが市長に当選、喫緊の経済復興と建設関係者のストの脅威に直面、モーゼスの計画を若干縮小した代替案を提示して工事開始を宣告したが、地域破戒には違いなく、激しい反対に遭う
67年にはジェイコブズはベトナム反戦デモにも参加、留置場に行く
68年ローメックスの公聴会で逮捕されたジェイコブズの罪は、騒擾罪、騒乱扇動・損害罪、公務執行妨害の罪と重くなったが、反対に支持者も増え、逮捕に抗議するとともに、ローメックス計画推進への打撃ともなり、69年リンゼイが計画は「永遠に」葬り去られたと宣言
ジェイコブズは、司法取引に応じて、治安紊乱だけを有罪と認めて釈放される
68年ネルソン・ロックフェラー知事が、トライボロー公社をメトロポリタン運輸公社MTAに改編、橋、トンネル、道路、地下鉄、通勤鉄道を一括して運営することとし、モーゼスはコンサルタントの地位に降格。71年にはローメックスを州間高速道路資金適格リストからも外す
最後にモーゼスが提案した大規模プロジェクトは、ロングアイランドのオイスターベイからコネティカットとの州境にあるライ、ポートチェスターを結ぶ6.5マイルの橋だったが、これも消え去る。市民の同意を取る仕組みもなければ、配慮も皆無で、今や時代遅れの代物で、ニューヨークの偉大なマスター・ビルダーとしての大出世物語は終わった

終章 それぞれの道
68年ジェイコブズはトロントに移住、そこでも同様な叛乱に手を貸す
ローメックスでの彼女の活動が原動力となって、全米の都市近隣で高速道路建設に反対する一連の市民抗議が起こり、計画が中止に追い込まれた
80年代になると、ローメックスの計画道路だったブルームストリート沿いに20世紀を代表する素晴らしい都市開発の成功物語、ソーホーが出現。一方、68年以降マンハッタンに新たな高速道路は造られていない
ローメックスとの闘いに端を発した運動は、80年代の初めにはもう一歩前進して、モーゼスの時代に建てられた邪魔な道路の取り壊しを考え始めた ⇒ サンフランシスコでも89年の地震で倒壊したエンバカデロ高架道路が撤去され、地上レベルの大通りに変わる
高速道路の建設がさらに大量の車両を招き、結果として無意味だという過激な主張は、今や「誘発需要」現象として知られ、広く容認される
アメリカでの開発事業は、ジェイコブズの活動によって全く変わった ⇒ 近隣地域の利害関係に対して配慮し、手続きを進めるに当たりああらゆる段階でコミュニティを巻き込み、「コミュニティ特典合意」を提供して便宜を図るなどして、一般市民を冷たく踏みにじっていると思われないよう努めている
モーゼスの、情熱と野心と、ひたすら権力を追求したあげく築いた全人生が否定されたが、最近になって彼の残した業績の再評価が行われている ⇒ モーゼスの社会インフラ建設と、ジェイコブズのコミュニティの絆重視の考え方の両方が、都市が生き続け繁栄するためには必要
ジェイコブズ劉少奇の思慮に富んだ当時の市民参加運動は、今では単なるNIMBYイズム(not in my backyard)という抗議運動に矮小化された
ニューヨーク市長ブルームバーグは、2006.6.28.をジェイコブズの日と宣言。
アメリカ都市計画協会は彼女を讃えて、近隣地域革新計画への全国都市計画優秀賞を作る。ロックフェラー財団と都市芸術学会が授けるジェイン・ジェイコブズ勲章は、「都市環境の独創的な活用を通じて、多様性に富み、活動的かつ安定した街づくりにあたり、先見性あふれる取り組みを実行・・・・その抜きんでた成果は、ジェイコブシアンの根本理念と実務とに恥じない」業績を表彰している。最初の受賞者は、野菜市場の創立者とブロンクスにおけるゴミ搬送基地のリサイクル事業だった

訳者あとがき
強権的なモーゼスの手法に対する世論の批判が高まるなか、州知事ロックフェラーによって閑職に追い払われたモーゼス。さらにロバート・カロの痛烈な摘発本『パワーブローカー』は失意の彼にとどめを刺した。一方、ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』は、ニューヨーク市民のみならず全米市民の共感と支持を獲得した。ベトナム戦争を契機に高まってきた反政府、反権力運動にも後押しされ、勝利を手にしたのはジェイコブズであったことは間違いない。しかしながら、近年アメリカでモーゼスの業績を再評価する動きが始まった。長期的視野に立った社会インフラ投資の必要性が叫ばれ、経済の膠着状態を打破するために、第2のモーゼスの出現が待たれているという


Wikipedia
ジェイン・ジェイコブズJane Butzner Jacobs191654 - 2006425)は、アメリカ合衆国の女性ノンフィクション作家・ジャーナリスト。郊外都市開発などを論じ、また都心の荒廃を告発した運動家でもある。最も反響を呼んだ著作は『アメリカ大都市の死と生』(1961)であり、『都市の経済学』(1986)と並び都市計画研究の重要な古典となっている。『壊れゆくアメリカ』(2004)が遺作となった。
略歴 [編集]
米国ペンシルベニア州スクラントン生まれ。ジェイコブズは1933高校を卒業。地元の商業学校で速記を学んだ後、就職する。
最初に就いたのは、貿易雑誌の秘書で、やがて編集者となった。ヘラルド・トリビューン日曜版にも多くの記事を書いていた。後に戦争情報室(en:Office of War Information)の記者になった。1944建築家ロバート・ハイド・ジェイコブズと結婚、二人の息子がいる。
高速道路の急速な建設への反対運動や、都市の再開発に対する問題提起が、ジェイコブズの生涯のテーマであった。ニューヨークグリニッチ・ヴィレッジに住んでいた当時、道路建設、再開発の計画が公表されると反対運動の先頭に立ち、ローワーマンハッタン高速道路の建設が中止になった1962には反対合同協議会の議長を務めていた。この計画は再び持ち上がり、ジェイコブズは1968410逮捕されている。
1969カナダオンタリオ州トロントに移住、スパディナ高速道路(Spadina Expressway)の建設に反対している。この頃、デモンストレーション中に2度逮捕されている。
ジェイコブズは、州都トロントは、オンタリオ州より強く独立性を持つべきと主張している。1997にはトロントが「Jane Jacobs: Ideas That Matter」という会議を開いている。これはジェイコブズの著書のタイトルから取っている。会議の最後に、ジェイン・ジェイコブズ賞が創設され、トロントのバイタリティーに貢献した人に贈られている。
アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』(渡邉泰彦訳、鹿島出版会、2011年)は、第二次世界大戦前後より30年以上、以上ニューヨーク州・市の都市計画に大きな権限があったロバート・モーゼスとの、環境保全をめぐる闘いの記録である。
アメリカ大都市の死と生 [編集]
ジェイコブスはアメリカの大都市が自動車中心になり、人間不在の状況になっていることに疑問を持ち、1961年に近代都市計画を批判する著書『アメリカ大都市の死と生』(The Death and Life of Great American Cities)を刊行して、反響を呼んだ。
ジェイコブスの挙げる例によると、ボストン市内にイタリア移民が多く住む地区(都市計画家から見れば再開発の対象となる地区)があるが、ここではほとんど犯罪が起こっていない、一方ボストンの郊外でも犯罪が多発している地区がある。ジェイコブスは、安全街路の条件として、常に多数の目(ストリートウォッチャー)が存在していることなどを指摘している。
都市が多様性を持つための条件として、ジェイコブスは次の4つを指摘した。
1.  混用地域の必要性
一つの地域を住宅地やオフィス街など単一の用途に限定させず、2つ以上の機能を持つべきである。これは近代都市計画の単調なゾーニングに対する批判である。
2.  小規模ブロックの必要性
いくつものルートが利用できることで、そのつど新しい発見がある。大規模開発によるスーパーブロックへの批判である。
3.  古い建物の必要性
新しい建物ばかりでは、儲けの多い事業しか存在できなくなってしまう。再開発により一気に街が更新されてしまうことへの批判であり、古い建物も残した多様な都市をイメージしている。
4.  集中の必要性
高い人口密度で、子供、高齢者、企業家、学生、芸術家など多様な人々がコンパクトな都市に生活するべきである。
多様性は魅力的で活力のある都市の条件であるが、従来の都市計画ではまったく顧みられなかったとして、ル・コルビュジエ輝く都市など、機能優先の近代都市計画の理念を批判した。
ジェイコブズの影響と批判 [編集]
ジェイコブズの影響は広い範囲で認められ、一般には、20世紀後半の都市計画思想を一変させたといわれる。近年の創造都市論の源流とも考えられている[1]。創造階級論のリチャード・フロリダも、ジェイコブズに深い影響を受けている[2]。日本では、塩沢由典の『関西経済論』がジェイコブズの思想を地域の経済発展を考えるベースとしている[3]
ジェイコブズへの批判としては、実行可能性がなく、また、開発者と政治家による政治を無視していると言われている。これらの批判に対し、ニューヨークデトロイト市1960年代スプロール化が進行したことを例にして反駁している。
ロバート・ソローは、著作「経済の本質」への書評[1]で、ジェイコブズの批判対象についての無知と、きちんとした既存の資料を調査検証なしに、少数の逸話を過度に一般化する傾向について強く論難している。
著作 [編集]
·         The death and life of great American cities, Vintage Books, 1961.
『アメリカ大都市の死と生』 黒川紀章訳(抄訳、鹿島出版会1969同:SD選書1977
『アメリカ大都市の死と生』山形浩生訳(全訳、鹿島出版会、2010)
·         The economy of cities, Random House, 1969.
『都市の原理』 中江利忠加賀谷洋一 (鹿島出版会、1971新版 SD選書、2011
·         The question of separatism: Quebec and the struggle over sovereignty, Random House, 1981.
·         Cities and the wealth of nations: principles of economic life, Random House, 1984.
『都市の経済学-発展と衰退のダイナミクス』 中村達也・谷口文子訳(TBSブリタニカ 1986)。再刊:中村達也訳『発展する地域 衰退する地域/地域が自立するための経済学』ちくま学芸文庫、2012、解説:片山善博塩沢由典
·         The girl on the hat, Oxford University Press, 1989.
·         Systems of survival: a dialogue on the moral foundations of commerce and politics, Random House, 1992.
『市場の倫理 統治の倫理』香西泰 日本経済新聞社1998日経ビジネス人文庫2003
·         The nature of economies, Random House Canada, 2000.
『経済の本質-自然から学ぶ』香西泰・植木直子 (日本経済新聞社、2001
·         Dark age ahead, Random House, 2004.
『壊れゆくアメリカ』 中谷和男 日経BP2006




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