フォークナー、ミシシッピ エドゥアール・グリッサン 2013.1.13.
2013.1.13. フォークナー、ミシシッピ
Faukner,
Mississipi 1996
著者 エドゥアール・グリッサンEdouard Glissant 1928年マルティニック島生まれ。詩人、小説家、評論家、思想家。現代カリブ海文学の第一人者にしてフランス領カリブ海発「クレオール」思想の代表的論客として注目。本書に於いて、後期グリッサンの詩学思想〈全-世界〉を背景に、アメリカスの時空間のうちにフォークナーを位置付ける壮大かつ重厚な読解を試みた。2011年パリにて没
訳者 中村隆之 1975年東京生まれ。フランス語圏文学研究(主にカリブ海地域文学)。東外大大学院博士後期課程修了。マルティニック島及びフランス本土(パリ)での研究滞在を経て、現在明治学院大非常勤講師
訳者解説 ~ グリッサン、全-世界
グリッサンは分類できない文学者。どの作品も既成のジャンルに収まらない。「詩集」から入り、散文的な詩論でルノドー賞受賞当時は自身「詩人」と述べるように、詩を創作の源泉とする本人の根源的認識であり、生涯自らを「詩人」と言い続けた
『フォークナー、ミシシッピ』は、フォークナー論ということも出来るが、一般の評論とは趣が異なり、あくまで著者の視点から見えたフォークナーであり、〈全-世界〉のヴィジョンに於いて捉えられたフォークナーである
〈全-世界〉のヴィジョンとは、グリッサンが辿り着いた世界に対する認識や見方で、世界が今や一体化しているという認識(クレオール化とは、混淆であり雑種化)があり、世界中の全ての人によって形作られるヴィジョンだということ
グリッサンの見るフォークナー文学における根源的な問いとは、南北戦争後の南部白人の共同体の正統性をいかに回復するかということ。正統性の回復は、南北戦争後の没落する旧家に生まれたフォークナー本人の希求でもあるが、輝かしき戦前の時代を懐かしみつつ南軍敗北の武勲詩を歌うことだけでは決して回復されない。それは「呪い」や「劫罰」としか名付けられない何かが南部の土地を支配しているからで、この何かが南部の名門家系を決定的に崩壊させるのである。この問いを掘り下げるためにフォークナーは、南部共同体の成立の起源にまで遡り、その成立のうちにヨーロッパ人入植者が行ってきた土地と奴隷の所有という二重の非正統性を認める
フォークナー作品に於いて白人男性の血統によって保証される正統性は、2つの血の混交、即ち近親相姦と人種間の混血によって脅かされる。とりわけ黒人の血が混じることは、フォークナー作品に於いては容認されない混交の事例
フォークナー、ミシシッピ エドゥアール・グリッサン著 歴史の断片から創作する作家
日本経済新聞朝刊 書評 2012年9月23日
一応、フォークナー文学をめぐる「評論」と呼ぶこともできる。
(中村隆之訳、インスクリプト・3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
だが、本書は「評論」と呼ぶにしては息の長すぎる叙述法によって、あたかも著者自身がフォークナーの文学の特徴として挙げる「渦」や「めまい」を作りだすかのように、結論を宙づりにする。
フォークナーはアメリカ深南部ミシシッピ州の小さな町を舞台に、白人の家系の没落や崩壊を描き出した。南部白人にそうした破滅をもたらす「病毒」は、プランテーション経営の前提となっていた「奴隷制」であり、そこから派生する人種問題だった。フォークナーの作品において、人種差別はイデオロギーではなく、一人ひとりの心の内奥の問題として描かれた。白人純血種への偏執によって、皮肉にも「混血」の裏切りを受ける『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンのように。
本書のタイトルの一部「ミシシッピ」は、州名であると同時に、呪われた「宿命」を背負わされた歴史の〈場〉の象徴でもある。
だが、それらの文学作品は、果たして黒人奴隷の末裔たちの読解に耐えるのかどうか。グリッサンのフォークナー論はそこにかかわり、作家の実生活と創作における人種差別をめぐる分裂/葛藤を扱っていて、大変興味深い。
ただし、それだけではない。本書には、フォークナー作品の読解という表向きの顔の下に隠された、もう一つの企図があるのだ。
それは、〈クレオール文学論〉とも〈世界文学論〉とも呼びうる、自己の文学論を提示したことだ。その特徴の一つは、本書で〈痕跡〉とも〈踏み跡〉とも訳されている歴史の断片、アフリカ奴隷のような無名人たちが遺した欠片から、小説を創作するということだ。
それは権力者の遺した史料から「ナショナルヒストリー」を書く試みとは正反対の創作行為である。
言うまでもなく、数多くの世界の作家たちがそのことに取り組んでいる。我が国でも、大江健三郎や中上健次のみならず、目取真俊(「ヤンバル」)、古川日出男(「トウホグ」)、田中慎弥(「赤間関」)など、優れた作家たちがそれぞれの「ミシシッピ」を掘り下げて、歴史の暗部をえぐり出している。
(明治大学教授 越川芳明)
Wikipedia
ウィリアム・カスバート・フォークナー(William Cuthbert Faulkner, 本名:Falkner, 1897年9月25日 - 1962年7月6日)は、アメリカ合衆国の小説家。ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠であり、南部アメリカの因習的な世界を「意識の流れ」を初めとする様々な実験的手法で描いた。代表作に『響きと怒り』、『サンクチュアリ』、『八月の光』、『アブサロム、アブサロム!』など。1949年度ノーベル文学賞受賞。
フォークナーはその生涯の大半をミシシッピ州の田舎町オクスフォードで過ごしており、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。これらの作品はオノレ・ド・バルザック的な同一人物再登場法によって相互に結び付けられ、その総体はヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる。
生涯 [編集]
前半生 [編集]
1897年、ミシシッピ州の田舎町ニューオールズバニーに生まれる。4人兄弟の長男で、2番目の弟ジョン・ウェズレーも後に作家となる。父は当時は曽祖父が開業した地方鉄道の駅長をしており、フォークナー家がミシシッピ州に移ったのはこの曽祖父の代からである。曽祖父ウィリアム・クラークは弁護士として名を挙げ、南北戦争の際には義勇軍の隊長として出征、戦後は弁護士の傍ら事業や議会に進出し、さらに小説や紀行を書きベストセラーとなるなどした傑物であり、幼いフォークナーの尊敬の的であった。
一家はウィリアムが生まれた翌年にニューオールズバニーの北に位置するリプレーに移ったが、ウィリアム5歳のとき、祖父が地方鉄道の事業を手放したことから父が駅長を辞め、その関係でさらに同州オックスフォードに移った。以後フォークナーは生涯のほとんどをこの地で過ごすことになる。彼は10歳の頃から詩作をはじめたが、その反面学校での勉強には興味が持てず、高校を1年で中退している。しかしその前後にフィリップ・ストーンという4歳年上の法学生との交友が始まり、文学への関心が深かった彼の手ほどきで豊かな文学的教養を身につけることができた。
一時祖父の経営する銀行に勤めるなどしていたフォークナーは、第一次大戦勃発後に軍への入隊を希望し、1918年7月に英空軍に入ると訓練生としてカナダのトロントに送られている。しかし同年11月に戦争が終わったため、実戦に出向く機会のないまま少尉に特別進級し除隊となった。この際復員兵に対する特別措置を利用し、翌年9月にミシシッピ大学に特別学生として入学する。教養学科の授業を受けるがほとんど興味がもてず、1年で退学、しかしこの頃から大学の新聞雑誌に詩や小品を発表し始める。大学中退後は一時ニューヨークに赴いて書店で働き(この時の店の支配人が後述のアンダソンと後に結婚する)、短期間で戻って1921年にミシシッピ大学の郵便長となるが、1924年に免職となった。この年にストーンの尽力で第一詩集『大理石の牧神』を出版している。
作家活動 [編集]
1925年、ストーンの勧めでヨーロッパ旅行を思い立つが、その準備のために滞在したニューオーリンズでシャーウッド・アンダーソンと知り合い親しくなる。彼からの紹介でこの地の雑誌・新聞などに作品を発表し、またこの交友が刺激になって長編小説に着手した。1926年、アンダソンの紹介で最初の長編小説『兵士の報酬』、翌年に第二作『蚊』を出版。
1929年、長編第三作にして「ヨクナパトーファ・サーガ」の第一作に当たる『サートリス』を刊行。同年に代表作の一つである『響きと怒り』を完成する。しかしここまで作品はほとんど売れず、傑作とされる『響きと怒り』も当時はごく一部の批評家から賞賛を受けたのみであった。この年、幼なじみで離婚していた女性エステル・オールダムと結婚、二人の連れ子を引き取り、翌年オクスフォードに家を買って移り住む。南北戦争以前に建造された町で最も古い家屋の一つで、フォークナーはこれを「ローアン・オーク」と呼んで終の住処とした。
以後中短編とともに、『死の床に横たわりて』(1930年)、『サンクチュアリ』(1931年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)と傑作を発表していくが、当時フランスで紹介されて評価を受けるなどしたものの自国では評判が得られず、生活のためにハリウッドのシナリオ製作にも追われた(交流のあった映画監督にハワード・ホークスがおり、彼の監督作品『脱出』、『三つ数えろ』などの脚本を手掛けている)。そのような状況からの転機となったはマルカム・カウリーによって1946年に編まれた1巻本の選集『ポータブル・フォークナー』である。この書籍の出版によってフォークナーが急激に注目され、ほとんどが絶版になっていた著書が次々に復刊、1949年のノーベル文学賞の栄誉へと続いていくことになった。
1955年8月には日本を訪れており、長野のセミナーで自作について語った。この際、第二次大戦で負けた日本と南北戦争で負けた彼の郷里であるアメリカ南部は似通った宿命を背負っていると述べ、ここ十年間に次々と日本の新進文学者が誕生するだろうと示唆した。1962年6月、最後の作品で「サーガ」最後の作品でもある『自動車泥棒』を出版。同年7月、心臓麻痺によりオクスフォードに近いバイハリアの病院で死去。没年64歳。
作風・影響 [編集]
フォークナーの最初の長編『兵士の報酬』(1926年)は、第一次大戦で記憶力を失った青年の物語というロスト・ジェネレーションらしい主題の作品、また第二作『蚊』(1927年)はハックスレー風の風刺的な小説だが、フォークナーが独自の作品世界を生み出し始めるのは第三作『サートリス』(1929年)からである。ヨクナパトーファ・サーガ第一作に当たるこの作品は主題自体は第一作に近いが、旧家であるサートリス家の没落を、主人公の曽祖父の因縁の物語として多くの自伝的要素を盛り込みつつ書き起こしており、以後の独自の文学的世界へと踏み出す端緒となった。
続く第四作『響きと怒り』(1929年)で、フォークナーは作品の表現形式を一変させる。この作品では章ごとに別の語り手をおき、ことに冒頭の章に白痴の人物を語り手に置くことによってまず混乱した情景を提示し、それが他の章を読み進めるに連れて次第に物語が明確化していくという構成をとり、またこの作品から「意識の流れ」の手法によって、語り手の現実的な視点に回想や意識下の思考(これらはしばしばイタリック体で書かれている)を挿入することによって語りを重層化させる試みが行なわれている。そしてこれらに加えて、ある作品で主役として登場した人物を他の作品で言及したり、あるいは主要人物として再登場させるといった方法で各作品を結びつけ、作品世界に広がりを持たせている。
『響きと怒り』の語り手の一人クェンティン・コンプソンが再登場する『アブサロム、アブサロム!』(1936年)では、南北戦争の頃に南部にやってきた怪物的人物サトペンの一家の崩壊を、現代の若者であるコンプソンが関係者の証言を聞き、複数の証言者の語りが重なることによって再構成されていくという構造を取る。このほか「サーガ」外の『野生の棕櫚』では、「野生の棕櫚」と「オールド・マン」という別個の作品を1章ずつ交互に提示して1冊にまとめるといった実験的手法が試みられた。
このようなフォークナーの重層的な物語手法や方法実験、土俗的・因習的な主題を持つ物語世界は後世の多くの作家に影響を与えており、その中にはトニ・モリソン、ガブリエル・ガルシア=マルケス、莫言、日本人では井上光晴、大江健三郎、中上健次といった作家が含まれる。日本での著名な研究者は大橋健三郎や平石貴樹などである。
主要著作 [編集]
長編小説 [編集]
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兵士の報酬(Soldier's Pay、1926年)
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蚊(Mosquitoes、1927年)
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サートリス(Sartoris、1929年)※
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村(The Hamlet、1940年)※
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墓地への侵入者(Intruder in the Dust、1948年)※
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尼僧への鎮魂歌(Requiem for a Nun、1951年)※
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寓話(A Fable、1954年)
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町(The Town、1957年)※
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館(The Mansion、1959年)※
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自動車泥棒(The Reivers、1962年)※
短編集 [編集]
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これら十三篇(These 13、1931年)
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医師マルティーノ、他(Doctor Martino and
Other Stories、1934年)
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征服されざる人々(The Unvanquished、1938年)※
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行け、モーセ(Go Down, Moses、1942年)※
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それまでのヨクナパトーファ・サーガからの抜粋。ほぼ時系列順に、複雑なサーガ全体を概観できる
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駒さばき(Knight's Gambit、1949年)
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フォークナー短編集(Collected Stories of
William Faulkner、1950年)
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大森林(Big Woods、1955年)
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ニューオリンズ・スケッチ(New Orleans Sketches、1955年)
詩集 [編集]
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大理石の牧神(The Marble Faun、1924年)
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緑の大枝(A Green Bough、1933年)
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