誰も知らなかったココ・シャネル  Hal Vaughan  2012.12.5.


2012.12.5. 誰も知らなかったココ・シャネル
Sleeping with the Enemy  Coco Chanel’s Secret War          2012

著者 Hal Vaughan 1928年生まれ。アメリカのジャーナリスト、ノンフィクション作家。パリ在住。第2次大戦及び朝鮮戦争で軍務に就く。朝鮮戦争ではアメリカ国内でタクティカル・インテリジェンス(戦略上重要な情報の処理)に従事。冷戦時代には、アメリカ国務省海外勤務員としてカラチやジュネーヴなどで秘密情報活動に携わり、CIAの作戦の数々に関わる。GATTケネディ・ラウンドの際にアメリカ副大統領のスポークスマンを務めたり、ベトナム戦争時代のサイゴンでの勤務もあり。ジャーナリストに転じてからは、新聞社、通信社、ラジオ局の特派員やレポーター、ドキュメンタリー映画のプロデューサーとしてヨーロッパ、中東、東南アジアで活躍。

訳者 赤根洋子 翻訳家。早大大学院修士課程修了(ドイツ文学)

発行日
発行所

ナチスのスパイだった!
ベルリン陥落時のソ連奪取文書から決定的証拠を発掘、話題の書を独占翻訳!
解かれた封印に世界の新聞が騒然!
ヒムラーの命を受けて、旧知のチャーチルに接触、連合国との和平を図ろうとしたナチスドイツの工作員「F-7124」「ウェストミンスター」のコードネームを持つそのスパイは、ココ・シャネルその人だった
本書は、自らもCIA職員として戦後の諜報に携わった著者が、フランス、ドイツ、ソ連、英国、米国などの機密解除文書と徹底的な調査をもとに、シャネルがドレスを作らなかった空白の期間、ナチスドイツ占領下のパリで何をしたのかを、初めて明らかにした一級の歴史ノンフィクション
ドイツの占領下のフランス。外交官を名乗るドイツ人大物スパイの愛人となったシャネルは、ナチスの諜報活動に従事する。ナチスの狙いは、イギリス国王の従弟の元愛人であり、チャーチルにも通じる彼女の人脈だった。
ピカソ、コクトー、イギリス国王、ロシア皇帝の従弟とも親交を結び、戦時下を生き延びた怪物シャネル。ベルリン陥落時にソ連軍が奪取した文書を、フランス在住のアメリカ人ジャーナリストが発掘。衝撃の事実を描いた異色の評伝


プロローグ
1972.10. シャネル死の直後、崇拝者にして上得意だったポンピドー夫人の主催でシャネルの生涯と業績を讃える公式展開催の直前、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙が、「フランス情報機関の記録保管所から発見したショッキングな文書が公表されるので公式展は延期になるだろう」と暴露し、「ドイツの占領時代、シャネルの愛人だったディンクラーゲ男爵がドイツ諜報機関(おそらくゲシュタポ)のエージェントだった」と主張
パリとニューヨークで同時出版される予定のレジスタンスの元闘志ピエール・ガラントのシャネル伝には、彼女の対独協力の決定的な証拠が掲載されるという
パリのファッション業界ではかねてから、ナチス占領時代にシャネルがリッツでシュパッツという綽名のドイツ人と同棲していたという噂が流れていた
折悪しく、アメリカの歴史学者がフランスの対独協力者に関する本を刊行、ナチスに対するペタンの協力が自発的なものだったことを証明した
44.8.パリ解放後、復讐の嵐がパリを荒れ狂う ⇒ シャネルも標的にされ、アメリカ人兵士にNo.5を急いで配るが、国内軍に逮捕され尋問を受けるも、駐仏英大使ダフ・クーパーを通じてチャーチルが介入したお蔭ですぐに釈放され、ローザンヌに逃れてディンクラーゲと合流。当時シャネル61歳、ディンクラーゲ48
対ナチス協力罪を裁くための特別法廷 ⇒ 最初に裁かれたのはペタンとラヴァル、いずれも死刑判決だが、ペタンは老齢のため恩赦。総計160,287件の審理で7,037名が死刑、実際の処刑は1,500で、他は懲役刑に減刑
46.4.シャネルを緊急召喚 ⇒ 判事が問題にしたのは、ディンクラーゲとの関係ではなく、対独協力者ヴォーフルラン男爵と組んで対独協力をしていたとの容疑
イギリスの亡命したドイツ軍情報部のエージェントがMI6に、「シャネルがヒムラーにスパイ行為の実行を申し出た」と告白しているが、判事が目にしたとは思えない

第1章        修道院の反ユダヤ教育
幼少時代を修道院で送る ⇒ 勤勉と清貧という規律に縛られる。カトリックの教義と神学の主なテーマは罪と懺悔と贖罪
ユダヤ人への憎悪を教えこまれる ⇒ シャネルの反ユダヤ主義は言葉の上だけではなかった
20歳でお針子として働き始め、23歳でカフェで歌手のアルバイトをした時に裕福な騎兵隊将校と知り合って愛人となり、貧乏生活に終止符。さらに2年後将校の友人のアーサー(愛称「ボーイ」)・カペルとの愛人となって、婦人帽の店を開く援助を受ける ⇒ カペルとは11年続いたが、その間彼の支援で帽子屋から婦人服店へ、さらに地方に出店、300人の縫い子を雇うまでになり、シャネルというメゾンをフランスのクラフトマンシップのブランドに育て上げ、自社で高級布地の生産まで始め、上流社会に上り詰める
カペルはイギリス貴族令嬢と結婚するが、1年余りで交通事故死。シャネルにもかなりの遺産を残すが、シャネルは「彼の死は私にとって怖ろしい打撃で、すべてを失った」と嘆く

第2章        No.5誕生
同じ様に修道院で育ったピアニスト、ミシア・セールは、ベルギーの資産家の親戚の遺産を相続、パリの社交界で奔放な生活を送り、多くの画家たちのモデルにもなったり、ロシアバレエ団のディアギレフとの親交でも勇名を馳せたが、ある晩餐会でシャネルに会って一目惚れ、お互い斬っても切れない仲になる ⇒ お互いモルヒネ常用者
シャネルは、「狂騒の1920年代の女」ココを創造し始め、新時代のシンボルになっていく ⇒ 35歳の時、ウール・ジャージー素材のトラベルスーツとテーラード・ブラウスの組み合わせとかスポーツドレス、ローヒールの靴といった、カジュアルな「プア・ルック」を高級婦人服市場に売り出す。アメリカにも名が売れ、ジャージー素材が大流行
1次大戦中、連合国がどこもドイツに勝つことに気を取られていた最中、ファッション誌関連の編集者はシャネルに関心を集中。シャネルは運転手つきのロールスロイスに乗り、顧客はドレス1着に7千フラン(現在価値で3600ドル)払っていた
1次大戦で敗れたドイツ軍の中に騎兵隊少尉のディンクラーゲ男爵がいた ⇒ 代々軍人の家系で、戦後はヴァイマール共和国政府のもとでドイツ軍情報機関に「諜報員F-8680」として採用 ⇒ 33年以降はナチスに吸収。スパイでありながら外交官特権を享受
20年代のパリは、作家・音楽家・画家・彫刻家などあらゆる種類の芸術家のメッカ、アメリカも禁酒法の成立で金持ちは大挙してパリに逃げ出す
シャネルは、「リトルブラックドレス」やボアのようにしなやかな筒状のドレスによって、女性たちをゴテゴテと飾り立てた物体からしなやかなシルエットに変えた。自分で稼ぎ、自由に愛し、男の指図を受けずに望むままに生きたい、という女性たちの欲求と女性解放の旗頭として「偏見から解放された、同性愛的アバンチュールにも尻込みしない女」の代表として、財を成す
常に新しい男を征服しようとしていたシャネルは、ストラヴィンスキー、ピカソ、ロシアのパヴロヴィッチ大公に目をつけ接近。シャネルの言葉に、「いくつになっても、愛されていると感じられないことは拒絶されたと感じることと同じ」というのがある
芸術のパトロンとしても有名な存在 ⇒ ストラヴィンスキーとの深い付き合い
深い友情が40年に亘って続く貧乏詩人ピエール・ルヴェルディとの付き合いも始まる
ロシア皇帝の従弟のヴロヴィッチ大公は、皇帝の不興をかって前線に出されたのが幸いして革命の手を逃れ、フランスに亡命、シャネルと知り合って高価な宝石類を提供、それが後にシャネルの首元を飾り、「コスチュームジュエリー」という新しいジャンルに乗り出すきっかけを与える ⇒ 大公との交際期間は「シャネルのスラブ時代」と呼ばれる。この時代香水ビジネス参入への契機となったのも大公との交際だった
亡命したロシア皇帝の公式調香師の援助で、1921年シャネルNo.5誕生。グラースでしか入手できない高品質のジャスミンがベース、今でも製法は秘密 ⇒ ユダヤ人ヴェルテメール兄弟に製造・販売を委託。両者の関係は、後に法廷闘争などに発展したが、特に弟はシャネルを生涯愛し続け、最終的に彼が彼女を窮地から救う
新たな富と名声を築いたシャネルだったが、フランス社交界の最上層部にはまだ受け入れられず ⇒ イギリスの上流階級との対等の付き合いが必要
24年の年末から正月にかけてのコートダジュールで遂にイギリス上流階級とも付き合いが始まる

第3章        英国王室の傘の下で
23年のクリスマスごろ、ウェストミンスター公爵の娘のケンブリッジ公爵夫人に育てられたという貴族の娘ヴェラの仲立ちで、ウェストミンスター公爵ヒュー・リチャード・アーサー・グロヴナー(愛称「ベンドア」)からの招待を受ける。同時にヴェラの紹介でプリンス・オブ・ウェールズのエドワード(「王冠を賭けた恋」で退位)からも言い寄られる
ベンドアは2度目の妻と離婚、シャネルとの恋愛関係は5年間、交友関係は生涯にわたって続く。お互い反共、反ユダヤ、親独だった
チャーチルもこの頃シャネルと知り合い、30年以上にわたり友情と感嘆の念を抱き続けた
ベンドハはシャネルとの結婚を切望していたが、後継ぎができなかったことに加えシャネルでは王族に受け入れられないとチャーチルに諌められて思いとどまった
アメリカの大恐慌が世界に波及する頃、ディンクラーゲ夫妻(妻の母親はユダヤ人)は、1年の大半をコートダジュールで過ごし、対独協力者を物色し始めていた

第4章        ハリウッド進出
大公の紹介でハリウッドの映画プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィン(ポーランドのゲットー出身のユダヤ人)と面談、ハリウッド映画の衣裳デザインを委嘱
いくつか仕事を引き受けてはみたものの、彼女の美学には、ハリウッドの俳優や監督が映画の魅力を高めるために求めていた、分かりやすいセックスアピールが欠けていたために、仕事の評価は低かったし、衣裳を手掛けた映画はどれもヒットしなかった
ニューヨークでは、デザインをコピーし、宣伝と広告に大々的に投資することによって巨額の利益が生み出されるのを見て、大量販売に関する貴重な授業を体験できた

第5章        ディンクラーゲという男
1930年 シャネルNo.5に関連してヴェルテメール兄弟を告訴 ⇒ 数年後に敗訴
35年 ディンクラーゲ男爵がパリのドイツ大使館「特別官」に任命 ⇒ フランス当局以前から正体を見破っていた。35年のユダヤ人を対象とするニュルンベルク法制定により、夫妻は離婚(偽装)。一時北アフリカで反仏プロパガンダを組織
34年 シャネルはリッツに転居。ディンクラーゲとどこに接点があったかは不明
39.8. フランスは軍隊を動員、ディンクラーゲはスイスに逃れる。夫人は逮捕され強制収容所へ

第6章        お針子たちのストライキ
34.2. 独伊と連携する右派組織が共産主義者の小集団とともに、暴力的な手段で政府転覆を図ってデモ
36.4. 選挙では人民戦線が圧勝、その余勢をかって労働者はゼネストを開始。シャネルの従業員も同調、世論の支持を得て労働者側の勝利に終わる
39.9. 開戦を機にシャネルは全員を解雇して仕返し。メゾン・シャネルを閉鎖
戦争のニュースと防空訓練ばかりの毎日にシャネルは苛立つ
英仏とドイツとの間に戦端が開かれたが、当初は何の動きもないように見えたので、イギリスはこの状態を「インチキ戦争」と言い、フランスは「奇妙な戦争」、ドイツは「居待ち戦争(ジッツクリーク:ポーランドへの「電撃戦(ブリッツクリーク)をもじったもの)」と言った
開戦時、ディンクラーゲはスイスに避難するも、スイス当局からもスパイ容疑で訊問され、国外退去へ
39.6. ドイツのオランダ・ベルギー併合、ムッソリーニの対仏宣戦布告で、シャネルもパリを逃げ出し、ピレネーの麓へと向かう

第7章        ホテル・リッツ
フランス政府の降伏により、シャネルはパリに戻り、ドイツ軍将校に溢れ返るのを見る ⇒ 40年秋にはおよそ30万人のドイツ人がパリやその近郊で暮らしていた
ドイツ軍に捕虜となった甥の救出のためドイツ高官への接近を企図 ⇒ 占領軍がほとんど接収していたリッツの部屋に戻れたのもディンクラーゲのお蔭
上流階級の暮らしは、占領下でもほとんど変わらず、ドイツ人の開くパーティーにはシャネルもよく出かけた

第8章        ナチスのスパイとなる
ドイツ・アプヴェーアにとってシャネルはフランスのみならず、イギリスやスペインにも有力なコネを持つ、完璧なエージェント候補だったところから、甥の救出やNo.5の利権の奪還を餌にシャネルと取引。以後シャネルは、もう1人の対独協力者ヴォーフルラン(F-7667)とペアを組む
41年 シャネルは、「エージェントF-7124」としてアプヴェーアの台帳に登録。コードネームは「ウェストミンスター」 ⇒ 最初の任務が8月のスペイン行き。甥は釈放され、香水ビジネスの奪還も有利に運ぶ

第9章        香水利権争奪戦
ヴェルテメールはいち早くナチスによるユダヤ人追放を予測し、アメリカに逃げるとともに、香水ビジネスについてもフランスの航空機製造会社に経営を任せる形を取り、自らは莫大な資産、信頼できる企業家として確立された名声によって、アメリカでの成功は約束されていた
兄弟は、40.8.パリの会社からNo.5の製法を盗み出し、アメリカで製造を開始。南北アメリカで爆発的に売れるとともに、米軍PXにも納入、さらに売り上げを伸ばす ⇒ 直接手を下したのは、ハーバート・グレゴリー・トーマス。大戦中はCIAの前身であるOSS(Office of Strategic Servicesアメリカ情報機関)に入りフランスで諜報活動を指揮。ヴェルテメール兄弟のフランス脱出も助け、戦後は在米シャネルの社長を30年に亘って勤める

第10章     ヒムラーの密使
42.11. 米英軍が仏領北アフリカを奇襲(「トーチ作戦」) ⇒ フランスではドイツ占領軍がBBCの海外向け放送の視聴を禁止していたが、どこの家庭でもこっそりと受信、BBCは繰り返しフランスが解放された暁にどのような罰が「対独協力者」を待ち受けているかについて、事あるごとに警告を発していた
シャネルはとっくに「水平協力者(横になる=寝る)」のレッテルを貼られていたし、42年にはライフ誌が、フランス人対独協力者のブラックリストを公表した
ペタンの右腕だったダルランがアメリカに寝返ったが、ドゴール派の愛国者に殺害され、それを機にドイツが全フランスを占領、ナチスに接収されそうになったトゥーロンのフランス艦隊は自爆
43年になると、それまでは何とか占領を受け入れようとしていたパリ市民の中も、ドイツ的なもの全般を排斥する機運と、連合軍が勝利するという希望が広がり、年末頃には公然たる敵意と抵抗が明確化
フランス国内にいる自由フランスの闘士や共産党員による対独協力者に対する暴力がますます激しくなるにつれ、シャネルとディンクラーゲもドゴールのレジスタンスの復讐をどうやって逃れるか考えざるを得なくなる ⇒ 43年にシャネルがコートダジュールで言った「フランスは当然の報いを受けたのよ」との言葉はレジスタンスによってロンドンにも伝えられていた
ベルリンへの連合軍の空爆が始まり、ディンクラーゲはシャネルをスペインに送ってイギリスとの仲立ちをさせようと本部に提案。イギリスでもベンドアは、ソ連がヨーロッパ全体を制圧することを恐れ、英独単独講和に積極的
ゲシュタポ長官のヒムラーは既に敗戦を予期、イギリスとの講和の道を探り始めていた
43年秋シャネルがベルリンに呼ばれ、ヒムラーの右腕だったシェレンベルクに会い、スペイン行きを指示される ⇒ イタリア人と結婚していたヴェラをスペインに呼んで一緒にイギリス大使経由王族に接近しようとしたが、ヴェラが裏切って周囲は全てドイツのスパイであることをイギリス当局に暴露、シャネルは直接チャーチルにヴェラ救済のための手紙を書き、チャーチルが奔走することに

第11章     なぜ対独協力の罪に問われなかったのか
44.6.連合軍のノルマンディ上陸は、シャネルやその他のナチス協力者らにとって恐ろしい瞬間
7月のヒトラー暗殺未遂事件以後、ディンクラーゲはパリから逃亡
元恋人の詩人ルヴェルディはレジスタンスにいて、シャネルのスパイの相棒だったヴォーフルランを捕縛、収容所に送る
セルジュ・リファール(バレエの振付師、シャネルの友人)は自らオペラ座の粛清委員会に出頭して1年間の出演禁止を言い渡されるが、彼のナチスへの協力を考えると、驚くほど軽い罰
817日ユダヤ人を乗せたアウシュヴィッツ行きの最後の列車がフランスを出発した数日後から激しい市街戦が始まる ⇒ 24日夜自由フランス軍の前衛部隊がパリに到着
2週間後シャネルも逮捕・尋問されたが、チャーチルの命で解放されスイスに避難 ⇒ チャーチルの介入の背景には、シャネルが対独協力の罪で法廷に立たされると、ウィンザー公爵夫妻やその他の貴顕がナチス協力者だったことを暴露する恐れがあったためという説もある
モーリス・シュヴァリエ、ジャン・コクトー、サシャ・ギトリ、セルジュ・リファールらに司法の判断が下される中、シャネルは審理を延期させることに成功
解放後、34万の対独協力者が正式の裁判なしに処刑
ディンクラーゲ夫人はパリから逃げ遅れた12千のドイツ人の1人 ⇒ 自らユダヤ人として保護を求めて出頭したが、ドイツ人と共に収容所へ送られるが、フランスの友人の嘆願で救出され、更に国外退去命にも反してフランスに留まり78年死亡
46.5.対独協力を扱うフランス特別法廷がシャネルに対する訴訟手続きを開始 ⇒ シャネルがエージェントとしてアプヴェーアに登録されていることが突き止められ、ヴォ―フルランの証言に基づいて追及されたが、甥の救出の口利きだけは認めたがそれ以外の証言内容については、香水ビジネス利権の奪還支援の件も含めすべて否定。最初のスペイン行きも香水の原料買付と言い張り、シェレンベルクのために行った2回目については判事の追求すらなかったし、ディンクラーゲとの4年間の関係についても問い質されることはなかった ⇒ ヴォーフルランは禁固6年の判決を受けたがシャネルとの関係は取り沙汰されなかった
49年時点で、フランスに対するシャネルの裏切り行為を立証する証拠を積極的に集めようとする当局関係者はいなかった ⇒ 彼女の対独協力の詳細な情報は、フランスを占領している間にドイツ当局がベルリンに持ち去り、終戦時ソ連情報将校がモスクワへ送り、そのままソ連情報機関の資料として85年頃まで文書庫で眠っていた。その後フランスとソ連の間で協定が結ばれ数千件に及ぶ書類が返還され、最近になってようやく機密扱いを解かれ日の目を見た
ローザンヌに戻ったシャネルの対独協力の4年間が表沙汰になることはついになかった
ディンクラーゲは、スイスからもリヒテンシュタイン(リヒテンシュタインの国民になると自動的にスイス入国が認められる)からも入国申請を却下されたあと、キールでイギリス兵に尋問され、大金所持の罪で逮捕(多額の外貨をもって占領地域間を無申告で移動することは犯罪行為)、金は没収されたが釈放され、スイスへと向かう

第12章     過去を封印する
1945年以来、シャネルは自分とアプヴェーアや親衛隊情報部との関係を知っているインサイダーらの沈黙を金で買うとともに、自らの過去についてフィクションを創作し続ける ⇒ ゴーストライターを雇って回想録を出す
51年には、ニュルンベルク軍事法廷から6年の禁固刑を言い渡されていたシェレンベルクが不治の病を理由に釈放されると、獄中で書いた回想録の出版を恐れ、夫妻の生活を支援し、回想録の中でシャネルの名前を出さないことを約束させた
ディンクラーゲはいつの間にかシャネルと一緒に暮し、数年間行動を共にした後姿を消す
70歳のシャネルは、なお創造的アイディアとエネルギーに満ち溢れ、彼女の唯一ともいえる財産である才能は失われていなかった ⇒ 間もなくスイスでも香水を製造開始するが、それはヴェルテメール兄弟との24年の契約に違反
過去30数年にわたる確執にも拘らず、ピエール・ヴェルテメールはシャネルに対して感嘆の念と愛情を抱き続け、この違反に対してもシャネルの売上に対する取り分を2%以上に引き上げる(年百万ドル (現在価値で9百万ドル)以上)ことで妥協。シャネルを訴えることによって、戦時中の裏取引がすべて明らかにされかねず、その際の計り知れないダメージからシャネル・ブランドを守った ⇒ 2008年現在でもNo.530秒に1本売れ続けている
54.2.5.シャネルがクチュールにカムバック ⇒ 戦後初のシャネルのファッションショー開催。またしてもラッキー・ナンバーの5日だったが、ヨーロッパでは「憂鬱な回顧展」と酷評されたものの、アメリカでは好評。マレーネ・ディートリッヒがスーツを何着か注文、その中に「シャネル・スーツ」として56年に有名になるスーツがあった
シャネルのカムバックには35百万フラン(現在価値にして800千ドル)かかったが会社は破産状態 ⇒ ヴェルテメールが支援。シャネル名義の持ち株をすべて譲り受けるのと引き換えに彼女の支出の全てを肩代わりした。シャネルに求められたのは新しい香水の開発とクチュール・メゾンの経営だけで、シャネルにとっては非常に有益な取引であり、同時にヴェルテメール一族にとってもカネのなる木となった
56年秋 「シャネル・スーツ」を売り出し、ふたたび成功を収める ⇒ 風変わりな贅沢品を取り揃えることで有名なダラスのニーマン・マーカスに招待され、ファッション界のオスカーに当たるニーマン・マーカス賞を受賞。テキサスの牧場に興味を覚え、マーカスの牧場に招待されたが、西部風の食事はシャネルの好みに合わないことが判明。彼女はバーベキューにした肉と豆を皿からテーブルの下へぶちまけ、隣に座っていたエリザベス・アーデンのエレガントなサテンの上履きを直撃。ここでもシャネルは強烈な印象を残した
同じ年、シェレンベルクの回顧録の英語版が出版されたが、シャネルに言及した箇所は1つもなく、シャネルはほっと安堵した
70年 ブロードウェイ・ミュージカル《ココ》 ⇒ 主演はキャサリン・ヘップバーンで、舞台にはカンボン通りのサロンの有名な螺旋階段が再現された。ヘップバーンはパリでシャネルと数日間過ごす
62年頃、30歳下の独身の執事が新しい愛人に ⇒ 最晩年は女たちに囲まれ、愛の対象を男から女に切り替えたとファッション界では信じられ、若く美しいモデルたち(そのうちの何人かはレズビアン)が愛の対象となったが、シャネルの孤独は癒されず、常にパートナーを切望していた
81歳でカメラの前でポーズ ⇒ シャネルの「不朽のアリュエール(歩き方)」が写し取られている
70.6. 人生最高の栄誉は、死の8か月前に訪れる ⇒ シャネルの長年の顧客であり彼女の崇拝者だったポンピドー大統領夫人がエリゼ宮の晩餐会にシャネルを招待。シャネルは、「私の時代には自分の仕立屋を晩餐会には招待したりはしなかったものよ」とコメントしたという
71.1.10. リッツの自室で死去。最期の言葉は、「ああ、こんなふうに人は死ぬのね」
遺体は、自らローザンヌに用意してあった墓に葬られた
死亡時の資産は、10百万ドル(現在価値54百万ドル) ⇒ 愛人の執事が遺言を盾に分け前を要求して提訴、スイスの専門家は遺言を贋物と鑑定、フランスの専門家は本物と判断、法廷外で合意が形成されたとのことだが詳細は不明
76.3. ディンクラーゲ死去
77.2. ヴォーフルラン死去、享年65 ⇒ 出獄後、フランスとアイルランドで偽札事件など何度も詐欺事件を起こし服役

エピローグ
アンドレ・マルロー 「20世紀のフランスからは3つの名前が残るだろう。ドゴール、ピカソ、シャネル」
カムバック以後、彼女のドレスや香水を愛用したセレブは数限りない
英雄と魔物、2通りのシャネル像がある ⇒ 詩人ルヴェルディは、19世紀的な男で、女性は弱いもの、恋する女は男の虜になると信じていたので、彼女の弱さと対独協力を許し、6070歳で死ぬ晩年、シャネルを許す詩を書いているが、侵略者ドイツ及びヴィシー政権と戦い、ナチスに協力した友人たちと絶交した断乎たるレジスタンスの闘士がシャネルに下した最終評価だった


訳者あとがき
著者が、ナチスのスパイだったシャネルを裏付ける証拠を発見したのは全くの偶然から
元々、シャネルの製法を盗み出そうとしたトーマス(9章参照)の経歴を探している際、埃をかぶったファイルの中からフランス警察の報告書を発見、そこにドイツ軍情報部のエージェントとしてのシャネルの名が、エージェント番号およびコードネームと共に記載してあった
2011.8.オリジナル版が出版されると大きな反響を呼ぶ。あくまで証拠に基づいてシャネルの対独協力を検証し、再現したのは本書が初めて。スパイの仕事はスパイだった著者によって初めて証明された
愛人だったディンクラーゲの正体も初めて暴かれた


誰も知らなかったココ・シャネル ハル・ヴォーン著 大戦中の出会いと「大恋愛」 
日本経済新聞朝刊 書評 2012年9月30
フォームの始まり
フォームの終わり
フォームの始まり
フォームの終わり
 ココ・シャネルの人生には2つの大きな秘密がある。1つは生れ育ち。親に捨てられて孤児院で過ごした青春時代をシャネルは決して語ろうとしなかった。もう1つは、第2次大戦中の日々である。店を閉じてから再びモード界に復帰するまでの15年間、いったい何があったのか。
(赤根洋子訳、文芸春秋・1900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(赤根洋子訳、文芸春秋・1900円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 秘密のなかでも、みじめな青春時代はあきらめない魂をあかしてむしろ熱い共感をよびおこす。これにたいして沈黙の15年は、シャネルの人生にダーティな刻印をきざみつける。対独協力者(コラボ)という汚名を。これこそこの華麗なデザイナーのタブーなのである。
 本書の目的はこれを徹底的に暴きだすことだ。著者はアメリカのジャーナリスト。CIAの諜報活動に通じていた経験を十全に活かして、シャネルの罪状の証拠文書を次々と並べてゆく手腕はさすが諜報活動のプロだと思わせる。
 さてそうして明るみにだされた真実は、訳書の帯にうたうとおり、「ナチスのスパイだった」のかというと、読後感は微妙にちがう。シャネルがフランス人やユダヤ人をナチスに売ったわけではないからだ。むしろことの核心は美貌のナチス情報部将校ディンクラーゲとの関係だろう。彼の何者たるかを知りつつ、57歳のココは恋に落ちた。男の方は、チャーチルはじめイギリスの有力者と親しい彼女の人脈を利用したかったのである。シャネルの方もドイツの捕虜になった甥の救出などの弱みがあった。
 こうしてできた関係はシャネル「最後の大恋愛」になったとあるが、これについては何の証拠書類もないので真相はさだかではない。ふたりの仲はドイツ敗戦後も続いた。もはや何の後ろ盾も財力もない男の立場ははるかに弱かったはずだ。彼がココを良いように利用した関係は終わり、むしろ男の方がシャネルを求め続けたのではないのか? そんな推測もなりたつほど、最後の恋の真実については歯切れが悪く、ものたりないが、これはないものねだりというべきだろう。
 いずれにしてもシャネルの人生の罪状は、本書の原題がずばり言うとおりである。すなわち、「敵と寝る」。
(仏文学者 山田登世子)


Wikipedia
ココ・シャネルCoco Chanel、本名はGabrielle Bonheur Chanel:ガブリエル・ボヌール・シャネル、1883819 -1971110)は、フランスの女性ファッションデザイナー

プロフィール [編集]

生い立ち [編集]

フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院修道院で育つ。田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。
「ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、「Qui qu'a vu Coco dans le Trocaderoトロカデロでココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。「ココット(囲われ者)」の短縮だったかもしれない

シャネル起業 [編集]

その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも落選ばかり。芸能界への道はあきらめ、この頃交際していた将校であるエチエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。
1910に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
1913に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。

シャネルの興隆から沈黙まで [編集]

1921、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5、「No.22を発表した。
このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。
この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらう。しかし、ココはそれを気に入らなかったため、マリーに返す。この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。
1924、イギリスのウェストミンスター公爵(国王の従弟)と出会い、以降6年間に及び交際する。この間に彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。
ウェストミンスター公爵と別れた後交際していたポール・イリブ1935に急死。
1939、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。ココは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。以後、同年9月に勃発し19458月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、ココはフランスのファッション界で沈黙を守る。

対独協力と亡命 [編集]

第二次世界大戦中の1940、フランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、親独のヴィシー政権下となった際、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問されたりしていた人たちがいた一方で、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と愛人関係にあった。
このことから、1944シャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に、「対独協力者」としてフランス中からの非難を浴びて、シェレンベルクとともに戦後の数年間スイスローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。
20118月には、シャネルがアプヴェーア工作員であり、積極的に対独協力を行っていたことや反ユダヤ主義者であったとする書籍『誰も知らなかったココ・シャネル』(原題の日本語訳『敵と寝るココ・シャネルの秘密戦争』)が、パリ在住のアメリカ人ジャーナリスト、ハル・ボーンによって発表された。

ファッション界へのカムバック [編集]

1954、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったココは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へカムバックを果たす。
ココの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、「売国奴」と蔑まれたココやドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、ウーマンリブによって女性の社会進出がめざましかったアメリカでは熱狂的に受け入れられた。
翌年シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)の発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。

スイスの墓地 [編集]

1971、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で亡くなる。亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたスイスローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9No.130)に埋葬される。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。

デザインに対する姿勢 [編集]

ココは、コルセットが多用されていた1910年代-1920年代の女性服に対して抱いていた「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」という積年の疑問への回答として、愛人であったウェストミンスター公爵の故郷であるイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出した。
女性の自立を目指し、モデルに当時の女性としては斬新だった、ポケットに手を入れる仕草をして歩かせていた(クイズダービー」第686(1989422日放送分)3問目より)。それにより女性服にポケットを作った。
なおココはかなり痩せた体型だった。そのため、モデルとしてシャネルの服を着たココがきっかけで、現在に至るまで「ファッションモデルは痩せている方が美しい、という固定観念が生まれた」とされる。

伝記・評伝 [編集]

§  マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』 (山中啓子訳、ハヤカワ文庫で再刊、初版1971年、再刊1995年)
§  シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』 榊原晃三訳、ハヤカワ文庫NF 上・下、20098月)
§  エドモンド・シャルル・ルー 『シャネルの生涯とその時代』 (秦早穂子訳、鎌倉書房、1990年) 品切
§  ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』 (山田登世子訳、中公文庫2007年)
§  ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、文化出版局
§  ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子、原書房 2011年)
§  ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子、文藝春秋 2012年)
§  エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』 (深味純子訳、阪急コミュニケーションズ20099月)
§  ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』 中野香織訳、文化出版局 2002年)
§  クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、サンリオ出版 絶版
§  山田登世子 『シャネル-最強ブランドの秘密』 朝日新書2008年)
§  山口昌子 『シャネルの真実』 人文書院新潮文庫20084月に再刊)
§  藤本ひとみ 『シャネル』 (講談社、講談社文庫200812月に再刊)
§  海野弘 『ココ・シャネルの星座』 中央公論社、中公文庫で再刊)
§  秦早穂子 『シャネル20世紀のスタイル』 (文化出版局) 品切
§  安達正勝 『二十世紀を変えた女たちキュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ』 白水社

映画 [編集]

§  『ココ・シャネル Chanel Solitaire 1981年、イギリス・フランス) 
§  ココ・シャネル 2009年、アメリカ合衆国)
§  ココ・アヴァン・シャネル 2009年、フランス)
§  シャネル&ストラヴィンスキー 2009年、フランス)

演劇 [編集]

§  ブロードウェイミュージカルCOCO』(アラン・ジェイ・ラーナー作詞、アンドレ・プレヴィン音楽、1969年、アメリカ合衆国で初演/日本での初演は2009年)
主演:キャサリン・ヘップバーン(日本版は鳳蘭
§  ミュージカル『ガブリエル・シャネル』(脚本・作詞:齋藤雅文、演出:宮田慶子、美術:妹尾河童2009年に日本で初演)
主演:大地真央


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