本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.


2012.12.17. 本当は恐ろしい万葉集 歌が告発する血塗られた古代史

著者 小林惠子 1936年生まれ。岡山大法文学部文学科東洋史専攻卒。独自の史観に基づき、日本古代史に新たな光を当て続ける

発行日           2003.10.10. 初版第1刷発行
発行所           祥伝社

林康夫君推薦

『万葉集』は単に著名な歌人の秀歌を集めたものではない。正史である『古事記』『日本書紀』に、記すわけにはいかなかった暗黒の史実を反映させた、政治的な歌集でもあるのだ。歴代天皇を初め、為政者たちが歌で暗示する「血塗られた古代史の真実」とは――――


『万葉集』 ⇒ 4500以上の歌を網羅、奈良時代末期に編纂された日本最古の歌集。聖武天皇の近臣・大伴家持が編者に関わり、表記は万葉仮名
なぜ「序文」がないのか、編者名も著作年代も確定しないのはなぜか
当時日本列島は文物の流入だけでなく、民族の流入も盛んで、後世とは比較にならないほど政治的にもアジア全体と密接な関連があった。文化としての文字も例外ではなく、朝鮮半島および日本列島は中国の漢字をそのまま借用
『万葉集』の胎動期は、日本の漢字定着と軌を一にする ⇒ 東アジア文化圏の文字表現の一様式として『万葉集』が位置付けられ、完全に日本化した和歌『古今集』『新古今集』などとは歌の表現方法、内在する意味、意図などに根本的違いがある
万葉仮名とは、漢字に日本語の発音を当て嵌めたもの(日本語の発音に漢字を当て嵌めたもの?)。「あしひきの」を「安思比奇能」と書き、解読が難しい ⇒ 『万葉集』が成立するとひらがなの発明によりとって代わられる
本書は、『万葉集』編纂者が密かに語ろうとしている政治裏面史を解明しようとするもの

第I部           額田王と「天皇暗殺」
第1章     額田王は「帰国子女」だった
「大和三山」の歌は、この頃の蘇我蝦夷(えみし、入鹿の父)父子一族を廻る中大兄皇子と大海人皇子の内在した確執を歌ったもので、額田王との三角関係を歌ったものではない ⇒ 古代日本語ではなく、朝鮮の古語「吏読(いど)」で読むと明確になる
額田王は大海人皇子(後の天武天皇)との間に十市(といち)皇女を生んだのち天智妃になったとされるが、元々天智の血縁だった 
663年の対唐国戦の「白村江の戦い」以後、中大兄皇子と大海人皇子の間の亀裂が決定的となり、中大兄皇子の妹の額田王が重荷となった大海人皇子は、額田王を家臣に与えている
額田王は、中大兄皇子の父親である百済武王(舒明天皇)が新羅渡来の女に産ませたと考えるのが自然、その後新羅で育ったからこそ、「吏読」と万葉仮名の2通りの歌を詠めた
万葉仮名を吏読する技術を発案したのは、舒明・額田王父娘だった ⇒ それが可能なのは来日2世まで。中大兄皇子や柿本人麻呂は1世、2世で読めるのは山上憶良と大津皇子、弓削皇子(天武天皇の子)

第2章     歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた
『万葉集』を古代朝鮮語で読み解く試みはされたが、同時代の朝鮮の歌が少ないため、現在の学問的常識では読めないというのが通説 ⇒ 古代の両国語に通じた上で当時の政治的動きを正しく把握していればある程度の解読は可能ではないか
古代朝鮮の文書によれば、歴代天皇は朝鮮渡来とされる
万葉集の最初の鍵を握る人物は武王こと舒明天皇

第3章     「天皇暗殺」と額田王
武烈王妃だった額田王は、唐国の後援によって、新羅が百済を攻めるという危機を、裏読みして中大兄皇子に知らせた
白村江の戦の前夜にも、額田王が裏読みで知らせた ⇒ 熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 前年滅ぼされた百済再興のため勇んで出陣する歌だが、裏の意味はいやいやながら従う人の歌になっているため、舒明天皇の皇后である斉明天皇の作(額田王が代作)とされるのと符合
半島への出兵に消極的だった斉明天皇が毒殺された可能性があり、側近として天皇と行動を共にしていて、積極派の大海人皇子に想いを寄せる額田王が関わっていた可能性が高い
間人(はしひと)皇女の即位 ⇒ 中大兄皇子の同母の妹、孝徳天皇の妃

第4章     額田王の「最後の歌」が意味すること
複雑な手口で政治がらみの真相を語りかけ、また隠蔽して後世の者を悩ませる。いずれが正しいかどうかは、結局歌の作者や編纂した人でないと分からない

まとめ
額田王は、百済武王(後の舒明天皇)と新羅女性との間に生まれ、少女時代、新羅と百済の和平のため、新羅武烈王と政略結婚させられ新羅に行った
武王没後、異母兄の中大兄皇子と共に倭国に帰国
中大兄皇子は高句麗の大海人皇子と共闘して蘇我一族を滅ぼすため、額田王を大海人皇子と政略結婚させ、両者の間に近江朝の大友皇子の妃となる十市皇女が生まれた
立場上からも額田王は、中大兄皇子と大海人皇子の対立緩和に努めたが、大海人皇子が中大兄皇子の即位を妨害することを止めることは出来なかった
中大兄皇子が即位して天智天皇となるや、倭国は内乱状態になり、天智天皇は間もなく行方不明に ⇒ 671年大友皇子即位するも、672年には大海人皇子が挙兵、大友皇子を殺して即位し、天武天皇となる
額田王は天武朝になると沈黙。1人娘の十市皇女も謎の死を遂げる
たぐいまれな文才に恵まれた額田王は、少女時代から政争の具とされ、悲劇の生涯を送る

II部 消された天皇
第1章     「持統天皇」は高市皇子である
天智天皇の死の謎

第2章     天武天皇への呪い
有名な歌は、歌の良し悪しよりも政治的に重要な意味を秘めている歌が多い
持統天皇(天智天皇の子・高市皇子)の歌 春過ぎて… ⇒ 「天」の付く香具山の歌の場合は、歌った人物が倭国の主、つまり天皇になったという即位宣言の意味を込めており、天武朝が過ぎて大津皇子が即位したが、結局天智朝の私が天下人になったとの意。その裏には忠臣・柿本人麻呂の支援があった
人麻呂の歌 東の野にがぎろひの… ⇒ 東は天武朝が滅びて、西の天智朝になった

第3章     悲劇の政治家・柿本人麻呂

まとめ
高市皇子は、中大兄皇子が済州島に追放された不遇な少年時代に済州島土着の女性との間に生まれた
中大兄皇子が天智天皇として即位した際、唐国の意向もあって年下の大友皇子が立体子したため、不満だった高市皇子は大海人皇子側に立って暗躍、十市皇女も加担
壬申の乱で大友皇子が殺されると、外国勢をバックにした大海人皇子が倭国を簒奪して天武天皇となるが、唐国勢によって殺され、天武天皇の子だが母が天智天皇の娘だった大津皇子が即位
大津皇子は、反対派の高市皇子や、草壁皇子、鸕野皇女(一般には持統天皇として知られる)等によって粛清。皇太子の草壁皇子の順番だったが、空位のまま死去。漸く高市皇子が即位して持統朝となる
柿本人麻呂は、百済の貴族として生まれ、「白村江の戦」の後に倭国に亡命、天武天皇に歌人として認められるが、高市皇子の即位に賭け、持統朝10年に多くの歌を詠む
持統朝の後、天武天皇の長子である文武天皇が即位すると、人麻呂は遠ざけられ、天智天皇の娘である元明天皇が即位すると、流罪先の石見で処刑

III部 『万葉集』成立の謎を解く
第1章     『万葉集』の「序文」は、なぜ失われたのか
『万葉集』最大の謎は、いつ編纂され、編者が誰か、今もって確定していないこと
歌の数からいっても、多様な作者を網羅していることからいってもとても1人では纏めきれない
序文は、後世になって消された? ⇒ 天武系天皇によって発想され、天智系天皇によって抹殺された
『万葉集』に続く歌集は『古今和歌集』 ⇒ 序文に、905年醍醐天皇の勅命により紀貫之が編纂と明確に記されている
『古今和歌集』の漢文の序文には、『万葉集』が平安初期の平城(へいぜい)天皇が勅命し編纂させたとあるが、平安時代に編纂されたとはだれも思っていない
『古今和歌集』の和文の序文には、奈良時代に広まったとぼかしている ⇒ 紀貫之等が序文を破棄し、平城天皇時代に成立したとすり替えたのではないか
『古今和歌集』が初めて『万葉集』の存在を公にしたが、桓武天皇の時代に成立した奈良時代の正史である『続(しょく)日本紀()』には『万葉集』に関する記事は見当たらない
平城天皇は、桓武天皇の次の天皇。在位806809年。政争によって退位させられた後「薬子の乱」で復位を画策し失敗し幽閉、直径も断絶
『万葉集』の勅命を降し、後に否定されたのは聖武天皇ではないか? ⇒ 平城天皇と境遇が似ている。家持が聖武天皇の忠臣として仕えた
785年 桓武天皇の寵臣・藤原種継が大伴一族により暗殺、張本人の桓武天皇の弟とその東宮で一族の長老だった家持は既に死去していたが、事件に連座したとして除名、息子らは流罪。この事件の結果、桓武天皇が反逆者家持が中心になって編纂した『万葉集』をこの世から抹殺しようとしたため、公文書としての地位を失い、以後は民間で伝世された?
元々万葉集は漢字ばかりの歌集 ⇒ 平安時代に振り仮名されたものであり、奈良時代のオリジナルではない。人によって解釈が著しく異なるし、誰も読めずに残された歌もある
『万葉集』の最古の写本 ⇒ 平安末期、後鳥羽上皇時代の1184年成立の『元暦校本』
『定家本』 ⇒ 鎌倉初期、『新古今和歌集』の編纂者・藤原定家が源実朝に送った写本
一般的に使われていたのは、鎌倉中期、僧仙覚が校訂したもの ⇒ 平仮名で別行に書いてあった訓読みをカタカナで訓をつけた(「新点」という)
『西本願寺本』 ⇒ 鎌倉末期、後奈良天皇が西本願寺に下賜されて伝わった新点
『万葉集』は、漢字のもつ意味を日本語に意訳して発音する表意文字と、漢字の発音そのまま日本語に当て字する表記文字の2つから成立 ⇒ 表音文字は、3世紀ごろ中国江南の呉国の発音が日本に入って6世紀ごろまで主流となり、『万葉集』は『古事記』同様、呉音が主体。万葉仮名には法則というほどのものは見られない
11世紀後半成立の『栄花物語』には、「高野女帝(孝謙天皇(聖武の後)のこと)の天平勝宝5(753)に左大臣・橘卿ほかが万葉集を撰ばせ給」とあり

第2章     天智朝と天武朝の見えざる影
恋歌の「相聞(そうもん)」と葬送の際の「挽歌」で成立している巻二は『万葉集』の中の白眉

第3章     なぜ『万葉集』は雄略天皇の歌から始まるのか
巻一の最初の歌は雄略天皇 ⇒ 倭国支配宣言。457年即位。晋以降の中国の王朝を南朝と言い、南朝に朝貢し(て倭王として認められ)た倭の五王の最初が仁徳で最後が雄略となるが、実質列島を統治した痕跡があるのは雄略が最初

第4章     天智・天武は雄略朝に映し出される

まとめ
『万葉集』とは
    7世紀後半以前の応神天皇時代の歌や雄略天皇の歌が載っているが、主題は7世紀後半以降で、天智・天武朝時代を投影させている歌集
    聖武天皇が譲位したのち、聖武天皇及び橘諸兄(もろえ)、大伴家持等によって発案
    20巻のうち、最初の巻一は藤原仲麿時代に完成され、天武朝賛歌で締めくくられる。巻二の完成時は天智系の光仁天皇(天智の子の志貴皇子の子で、白壁王)朝であり、主題には天智朝追悼の意味が込められる。巻一・二の編纂は家持
    家持は光仁天皇の息子の春宮(とうぐう)太夫。桓武天皇は家持に謀反の疑いを持ち、一族共々家持の労作たる『万葉集』をも抹消
    『古今集』成立時に、その編纂者等が天武朝正統を強調した『万葉集』の序文を廃棄し、奈良時代の歌を全20巻に再編纂して世に出した ⇒ いつ『万葉集』の題名が付けられたかは不詳
    前半は来日1世の歌で、朝鮮語で裏読みされている歌が多いのが特徴。後半は裏読みは少なく、家持の歌が主流
史実の告発という恐ろしい側面を秘めた歌集であり、『記紀』の記述を補う史書としての役割を果たしている事実を感じるだけで、本書の目的は達せられる

あとがき
『万葉集』を『記紀』に次ぐ古代史の資料だと思っていたが、理解不能な部分があり、『古今集』等の日本の歌集とも違う内容に不審を持っていたところ、1989年に李寧煕の『もうひとつの万葉集』を見せられ、同氏の古代朝鮮語読みと自分の歴史的解釈の間に一致した点があることを確認した。列島以外の国から征服者が波状的に列島に来て、君臨したという自分の説の正しさを確信
額田王と李寧煕との境遇の一致を知って、同氏の説が大筋で正しいと認識 ⇒ 朝鮮人を両親に持ち、日本で生まれ育ち、少女時代に韓国に帰国



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『万葉集』は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇貴族から下級官人防人などさまざまな身分人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759(天平宝字3年)以後とみられる。
日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。
書名の由来 [編集]
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、
やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るので、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。
編者と成立年代 [編集]
『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など古来種々の説があるが、現在では家持説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
1.    1の前半部分(1 - 53番)
原・万葉集各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇柿本人麻呂が関与したか。
2.   1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇安万侶が関与したか。
3.   3 - 15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を支持する証拠は多い。元正天皇、市原王、大伴家持大伴坂上郎女らが関与したか。
4.   残巻増補…20巻本万葉集
延暦2年(783)頃に大伴家持の手により完成。
ただし、この『万葉集』は公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806)にようやく完成したといってよい。
「万葉集」は平安中期より前の文献にはない。この理由について、延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになったとする説[1] がある。
諸本と刊本 [編集]
万葉集は鎌倉時代に天台僧の仙覚校訂した仙覚系写本のほか写本刊本が存在している。
一方、仙覚系写本とは異なる藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集も存在し、1993(平成5年)には関西大学教授の木下正俊神堀忍により、元同大学教授広瀬捨三所蔵本(広瀬本)が冷泉本であることが確認された。広瀬本の奥書には甲府町年寄春日昌預1751 - 1836、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克1749 - 1805)の名が記されており、広瀬本の書写作業は甲斐国で行われていたと考えられている。
万葉集の構成と内容 [編集]
全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。
歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方があり、歌数も種々様々の説がある。
各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。
内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌挽歌の三大部類になっている。
§  雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
§  相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
§  挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。
表現様式からは、
§  寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
§  正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
§  詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
§  譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現
などに分けられる。
巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総下総常陸信濃四国の雑歌、遠江駿河伊豆相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野陸奥十二国の相聞往来歌、遠江駿河相模上野陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。
歌体は、短歌長歌旋頭歌の三種に区別されている。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。
§  短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
§  長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。
§  旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。
時期区分 [編集]
歌を作った時期により4期に分けられる。
§  1期は、舒明天皇即位(629)から壬申の乱672)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇天智天皇有間皇子鏡王女藤原鎌足らの歌もある。
§  2期は、遷都710)までで、代表は、柿本人麻呂高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇持統天皇大津皇子大伯皇女志貴皇子などである。
§  3期は、733(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
§  4期は、759(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持笠郎女大伴坂上郎女橘諸兄中臣宅守狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。
歌の作者層を見てみると、皇族貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から畿内東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。
歌風と万葉仮名 [編集]
「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵はこの集を評してますらをぶりと言った。
全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
万葉仮名で書かれた大伴家持の歌
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467
山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63
万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。 そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。
現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。
万葉集の影響 [編集]
『万葉集』と方言 [編集]
『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻174017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。即ち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。
東歌は東国地方の歌の意で、東国(今の長野県静岡県から関東地方東北地方南部まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90+5首)と不明の歌(未勘国歌。140+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。
防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、最も著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。
以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げておく。
§  昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻143483番)
(昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。)
比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家
§  草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻204420番)
(旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でお付けなさいよ、この針でもって。)
久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志
上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形を取ることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。
日本古来の物語の原型説 [編集]
万葉集は竹取物語や浦島太郎などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、竹取物語においては巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、竹取物語(かぐや姫物語)との関連が指摘され、巻9高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型とも解釈できる内容が歌われている。
万葉集の諸点 [編集]
巻頭の歌 [編集]
『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が、倭の五王の一人、雄略天皇の歌で始まっている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。
大泊瀬稚武(おほはつせわかたける)天皇の御製歌(おほみうた)
籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻11番)
篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
捕鯨 [編集]
万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、主に鯨類をさす。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。
§  巻 二
「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
§  巻 三
越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の 真楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて
§  巻 六
やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音(と)さわき 夕なぎに 櫂の声(おと)聞ゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干(しおひ)のむた 浦渚(す)には 千鳥妻呼び 芦辺には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり欲(ほ)りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも
外国語との関係 [編集]
1960年代には安田徳太郎が『万葉集の謎』において日本語の祖語はインド北部レプチャ語であるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた[2]
また、1980年代には、『万葉集』の言葉は古代朝鮮語と関係がある、またはそれにより解釈できるという意見が出され、一連の著作がベストセラーになったことがある。しかしながら、当時から日本語学の研究者の手によって徹底的な反論と批判[3][4]がなされている。背景としては、韓国併合を正当化しようとした「日鮮同祖」論、それを逆手にとった、日本の古代文化を朝鮮半島由来とする韓国特有の民族主義朴炳植李寧煕など)、さらに、それに同調する日本人(藤村由加など)の言説が存在している。
研究史 [編集]
近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖荷田春満賀茂真淵加藤千蔭田安宗武鹿持雅澄長瀬真幸本居宣長らが万葉集研究を展開した。
近現代には文学論文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉折口信夫佐佐木信綱土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝武田祐吉五味智英 犬養孝伊藤 中西進多田一臣上野誠佐竹昭広曾倉岑内藤明らが万葉集研究を展開した。
万葉集に由来する名前 [編集]
§  万葉まほろば線(奈良県にある西日本旅客鉄道桜井線の愛称)
脚注 [編集]
1.   ^ 上田正昭(京都大学名誉教授)
2.   ^ 安田徳太郎 『日本人の歴史 1 万葉集の謎』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1955年。ASIN B000JBGU8Q
3.   ^
§  西端幸雄 『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』 大和書房、199111月。ISBN 4-479-84017-6
§  西端幸雄 『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』 大和書房〈古代文化叢書〉、19948月、新装版。ISBN 4-479-84032-X
§  安本美典 『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』 JICC出版局、19902月。ISBN 4-88063-784-X
§  安本美典 『新・朝鮮語で万葉集は解読できない』 JICC出版局、19919月。ISBN 4-7966-0183-X。などがある。


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