最後の「日本人」――朝河貫一の生涯  阿部善雄  2012.12.13.


2012.12.13. 最後の「日本人」――朝河貫一の生涯

著者 阿部善雄 1920年台湾生まれ。のち福島県に移る。安積中学(現安積高校)で朝河の後輩。1945年東京帝国大学文学部国史科卒。東大資料編纂所教授を経て、現在聖心女子大講師。専攻は江戸時代史。

発行日           1983.9.26. 第1刷発行                85.8.5. 第6刷発行
発行所           岩波書店

1994.8.18. 岩波書店「同時代ライブラリー」発刊

花井君に拝借

日本に生まれ、米国で活躍した稀代の歴史家の苦悩!
日露戦争から第2次世界大戦に至る激動の時代を、日米の架橋に身を挺した一リベラリストの生涯が、現代に生きる我々に問うものは何か

朝河貫一は米国で活躍した比較法制史の大家。その主著『入来文書』は、封建制の実証的研究として西欧歴史学界に強い影響を与えた。一方、『日露衝突―その若干の原因』『日本の禍機』など、その用の東西に渡る深い学殖から国際政治の分野でも貴重な発言を行い、日露戦争から第2次世界大戦に至る激動の時代を通して、日本外交への忠告と批判に全力を傾けた。日米の架橋に身を挺した彼の日本人としての自覚と祖国愛は、日米開戦を目前にして遂にルーズベルトに対する「天皇への親書運動」へと急転してゆく・・・・・。

序に代えて               国際文化会館理事長 松本重治
本書は近来の一大快著、初めて朝河を日本に紹介
日本の生んだ世界的歴史学者朝河貫一先生の生涯とその業績を見事に描いている
先生の性格・情熱・学殖と理想、そして特に、同時代史の重要事件についての先見の明確さと、行動の勇気とが鮮烈に浮き彫りにされている
関東大震災で東大法学部研究室も、芝の自宅も焼かれてしまったので海外留学した際、エール大のアーヴィング・フィッシャー教授を頼り、教授から朝河先生を紹介され、以後直接薫陶を受けた
APUPIは「現代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士」の訃報を報道、スターズ・アンド・ストライプスシも追悼文を掲げ、横須賀基地では半旗を掲げたが、博士の愛した祖国の2大新聞は、非礼にも単に死亡記事に2,3行割くのみであった
無知の故とは言いながら、先生の生涯と業績に対する、日本における妥当な評価の欠如は、許され難い
先生の大いなる足跡をよく継ぐものはない。その意味で、最後の「日本人」であると信じる

朝河貫一の再評価                エール大学歴史学科教授 ジョン・W・ホール
注目すべき朝河教授の活動は以下の2
①東京大学史料編纂所を中心とした日本の学者との学術的交流 ⇒ 191719年に主として史料編纂所で中世文書の研究に専心。その間の交友やその後の比較封建制度史を中心とした論文を通して、彼が日本の学界に与えた影響は、高く評価される。イギリス史やフランス史専門家の文書分析法を身に付けた教授は、中世文書を駆使しての日本政治社会経済史分析の先駆者となる。
②国際知識人としての姿 ⇒ 日本の各界の指導者たちとの文通は膨大な量にのぼる。彼等との間では、国際的見地から日本の政策や行動を絶え間なく批評し続けるとともに、在米日本人としてアメリカの態度・行為の局外批評家としての役割を果たす。国際関係上の最高の理想的倫理観をもって、2つの祖国を批評し続けた

30年前に日本の学界とエール大が協力して結成された朝河貫一著書刊行委員会の成果

1.    少年のさくら
虚弱に生まれた貫一は、教育熱心な継母の努力で学力をつけ、7,8歳の頃には「神童」とか「朝河天神」などと呼ばれ、学力試験でも学校を代表して最優秀の成績を上げた
1892年福島県内唯一の中学だった安積(あさか)中学を首席で卒業した時は英語で答辞を述べ、英人教師ハリファックスはその文章の見事さに感じ入り、「やがて世界はこの人を知るであろう」と語ったと言われる
アルバイトをしながら東京専門学校に入学、2年の時終生の恩人となるダートマス大学長ウィリアム・J・タッカーから学費・舎費免除の申し出を受ける
専門学校では坪内逍遥の講義が人気で、朝河も受け逍遥に語学の才能を認められ何かと支援を受け、朝河も逍遥を生涯尊敬
小学校の同級生で、醤油醸造業「たまりや」の嗣子・渡辺熊之助に渡航費借用を申し出る
1895年 東京専門学校を首席で卒業
同年秋 朝河の才能を高く評価した徳富蘇峰、大隈重信、勝海舟の援助で、漸く渡航費を工面して渡米

2.    父上様母上様
アルバイトで小遣いを稼ぎながら勉学に励むが、ほどなく深い絶望感に苦しみ始める
96.3.から1年半にわたり、徳富蘇峰の『国民新聞』に米国生活の実態見聞録を寄稿 ⇒ 一貫して流れるのは、日本とアメリカの社会の比較と批判の精神
日本人は強烈な義理心の民、義理に原則を求めるが、義理は差別的・自己満足的
米国人は鮮烈な感情の民、自由で屈託なく、至上の理想に精進。情緒つまり鮮麗な感情は平等的であり、他人との関係において親密的
98年、初めて日本の外交姿勢を論じる(『国民之友』) ⇒ 世界史の流れを論じ、アメリカ史に例証を求めながら、日本外交が確固たる道義を掲げないと、ロシアの黄禍論を背景とした東進政策を阻止できない。外交方針は文明最高の思想と一致しなければならず、そのようにあってこそ初めて東洋における義務を悟り、また世界に対する地位も獲得することができる。他国の私利に対抗して自国の私利を剥き出しにしても何も得られない
2つの国家・社会に向けての比較精神は、やがて日本史に対する自由な科学的究明の道を探り出そうとする方向に進み、日本史の考察をより客観的にするためには、他国の法制的・社会的発達との比較が重要と考え、比較制度史の開拓に進む ⇒ 卒論の中で、封建制度史は、日英独仏のそれぞれが世界史の立場から比較考察されなければならないと主張
99.5. 卒業を控え、タッカー学長から、歴史科の中に東洋と西洋の関係を比較研究する学科の新設とその教授への就任を打診される ⇒ まず学資の面倒を見てくれるというオファーのあったエール大学大学院歴史学科へと進む。帰国を期待していた両親も積極的に応援
大学院の学位論文の課題は、大化改新の世界史の中での究明 ⇒ 02.6.Ph.D(哲学博士)の学位授与。『日本書紀』の記述を、中国の政治思想と制度史の観点から描き出し、制度上の矛盾を明確にするとともに、『日本書記』に見られる詔勅の作為や編者の誇張と誤りを実証的に指摘した。アメリカの学界から高く評価され、最も優れた東洋解釈者として迎えられる ⇒ 日本の学界で正面切って評価・紹介されるのは1938年坂本太郎の『大化改新の研究』刊行まで待たねばならなかった
02.9. ダートマス大の極東史の専任講師 ⇒ 東洋史と東洋文明、東西交渉史を講義
05.10. エール大学院で知り合った農場の娘ミリアムと結婚 ⇒ 父の許可を得たのちの07.9.ワシントンの日本大使館において青木周蔵大使の媒酌で神式の結婚式を挙げる
05.8. 日露講和会議出席 ⇒ 直前の著書『日露衝突』がアメリカ国民に大きな影響を与え、日本弁護・平和論の講演が各地で好評を博す
06.2. 一時帰国

3.    日露戦争と朝河
04.11. 『日露衝突』が英米で出版 ⇒ 開戦に至るまでの国際関係の推移と経済の発達を客観的・学問的に研究し、両国の衝突の原因を明らかにする。ベースは、98年の「日本の対外方針」と04.5.のエール大学の『エール評論』に発表した『日露衝突――その若干の原因』と題する論文。日本の国運を救う道として、清国の中立と韓国の保全に対する日本の立場を明確にしたことは注目に値する
朝河の活躍を最初に日本に伝えたのは『国民新聞』だが、アメリカの世論を日本に傾けさせるのに超人的な役割を演じた彼の事績は日本の外交資料に片影だに留められていない
講和会議に先だって金子堅太郎がルーズベルト大統領に送った日本側の交渉案は、04.10.エール大学で開催された日露講和に関するシンポジウムの結論に基づくものであり、シンポジウムの開催には朝河の舞台裏での努力が不可欠であった
06年の帰国に先立って、日本関係の図書や資料の増強を呼びかけ、その時は日本図書館設立の構想は賛意を得られなかったが、後にエール大学と米国議会図書館における日本関係図書の大コレクションへと発展
06.2. 帰国 ⇒ 見届けるように父急逝
07.8. 帰米
08.11. 『日本の禍機(坪内逍遥の命名)』を書き上げ09.6.日本で出版 ⇒ 日本の有識者や青年・学生に至るまで広く読まれることを期待して、日本の危機の原因を指摘したうえで、日本にとって最重要なことは反省力のある愛国心だと強調、中国の領土保全と列国の機会均等の2大原則とする外交こそ日本の方針であるべきと説く
東京専門学校以来の間柄であった大隈とも何度も手紙をやりとりして、日米清の3国関係の将来について日本の指導者の覚醒を強く願う

4.    日本外交への忠告
07.10. エール大学講師 ⇒ 日本文化史の講義と図書館の「日本・中国コレクション」の管理者に任命(のちに「東アジアコレクション」部長として定年後も含め40年に亘って任に当たる)10.5.助教授
日本史学界の最高峰で東大史料編纂所長だった三上参次との交流 ⇒ 1911年明治天皇が南朝正統論を是認したことから、南朝を正統とし北朝を非とするよう教科書の改訂が強要され、南北朝並立論だった学界の主流派は苦境に、三上も北朝の系統に立つ宮中と政府の間に入って苦衷を味わい、朝河との間に文通があった
学術交流大使としての活躍 ⇒ 訪米する日本の各界の代表を米国の識者に引き合わせ
13.2. ミリアム死去。子供はいない。以後孤聳の道を歩む
14.8. 第1次世界大戦で日本が膠州湾租界地の引き渡しを要求すると、アメリカの輿論が一斉に日本非難となったことを受け、朝河は大隈に、「アメリカの歴史と文化から生まれた民情であり、日本はぜひ参考にしなければならない」と警告
15.1.8. 対中21か条の要求で朝河の怒りは最高潮に ⇒ 日本の覇権なきアジア外交の基本精神を説き、日中の共利共進、東洋の自由、東西協調の3原則を守るべきとした

5.    日本文化交流上の巨歩
17.7. 2度目の帰朝 ⇒ 日本の封建制度における土地所有の研究のため東大史料編纂所に留学。東大寺文書、京大所蔵古文書、伊勢の神宮司庁文書、徴古館文書、唐招提寺文書、入来院文書(鹿児島県)、阿蘇文書を研究する傍ら、各地で講演、19.9.帰米
23.9. 関東大震災に当たっては、全焼した東大図書館の復興に協力、全米各地の大学や図書館に呼びかけて贈書を依頼。故国の罹災学生の救済についても奔走

6.    『入来文書』完成への道
19.6. 入来院文書調査 ⇒ 入来院氏は鎌倉時代以来の豪族、江戸時代初め島津に服属。明治から三代経たのちも山間地の故に頑なに変貌を拒んできたため、入来院氏の古文書が日本の封建制度の資料として最も優れたものの1つであることを看破、とりわけヨーロッパの封建社会と日本のそれを比較する場合、最高の武家文書であると考えた
対象は、11471640年の文書、狭い地域の長期にわたる変遷を物語る
『入来院文書』のアメリカでの出版の許可ももらう
1955年頃から朝河の著書『入来文書』の再評価の声が国内に高まり多くの歴史学者が入来の里を訪れる ⇒ 朝河の学説の系譜をひくライシャワーも62年に訪れている
20.4. 日本の友人への手紙で、現下の世界情勢と日本の全世界的な反動政治姿勢に対して警告を発している ⇒ ウィルソン米大統領の失策が一原因となって、連合国側の友誼が敗れ去り、表面は調和を装っているが内実は反目、その中で日本は旧式な態度と行為によって中国や朝鮮に対して、また国内の社会や教育に対して抱いている思想は、もはや国際社会に通用せず、はるかに前世界的な響きすらもっている
21.6. エール大新総長の就任式で野口英世と対面。大学は野口に名誉理学博士号を贈る ⇒ 同じ福島出身でも両者の学究の姿と人格には著しく相違。朝河が厳しい精進の道を歩み続けたのに対し、野口は享楽の淵に沈むことも辞せず振幅の激しい面があった。朝河が野口を歓迎、夜中まで馬鹿話の相手となって研究のための貴重な時間を割くなどということは後にも先にもこの時だけだったろう
2425年 エール大学に留学した松本重治を特に可愛がった
29年初 『入来文書』公刊 ⇒ エール大とオックスフォード大から同時出版。朝河の名を世界の歴史学界に決定的なものとした。日本の封建時代の政治上の変遷と封建社会の本質を明らかにすると共に、ヨーロッパの封建社会と比較することによって日本社会の発達を人類社会の発達の中に克明に位置付けることを目指した
日本の封建制度に対する理解の出発点となった

7.    大陸侵攻への警告
30.7. 歴史学助教授から身分が保障された歴史学準教授へ ⇒ 33.7.正教授待遇
31.6. ダートマス大から名誉文学博士号
32.10. フランスの歴史学紋章学会から、ニューヘブンにおける名誉会員に任命
31.9. 満州事変勃発 ⇒ 今日における国際的な日本非難は、日本政府の説明不十分と武力行使にあるとして、国際的な正義の立場から厳しい忠告を発する。自由主義から国家主義へと変わりつつあった先輩の徳富蘇峰宛にもその非を指摘する厳しい批判を送る
37.7. 正教授に昇進 ⇒ 外国の大学における初の日本人教授の誕生
全体主義の指導者たちを指して「国民の幸福と犠牲を買い取る者たち」と非難し、国家総動員法に続く日本政府の「東亜新秩序」に対し、自由主義・民主市議の立場から、日本の大陸政策に含まれる暴走を筆誅、新秩序を根本的に考え直し、賢明な改造を成すべきことを日本の有識者たちに訴え続ける
40.2.齋藤孝夫の反軍演説に対しても、徹底した反省のない中途半端な態度と批判、日本の政治には半熟と雷同が支配しているが、これこそ日本にとって恐るべき危機の原因と喝破

8.    ヒトラーの自殺予言
39.10. 村田勤への書簡でヒトラーの自殺を予言 ⇒ 9月に宣戦布告なしにポーランドへ侵攻し、10月初めに英仏に対し和平提案をしてきたことを受け、和平提案は失敗に終わること、ヒトラーの新秩序論は暴論で、民主国家に対する不理解から受け入れられないと分かった後は自暴自棄に走り、最後の悲劇を迎えるであろう。狂的英雄であり、自身の悲劇がそのまま国家の悲劇に発展していった
朝河は、自由主義を人類が到達した最高度のものと信奉するが、同時に最も困難な政体であるとも言い、困難の所以はこの政体の地盤となっている個人個人の責任感がすこぶる緩みやすいからで、個々人が絶えず自分は道義的であるか、公民的であるかを自省する必要があると強調
日本を破滅に追いやりかねない4つの国難を明確に認識していた
   ドイツのファッショ体制の崩壊
   米英両国を敵とすること
   中国が日本を不倶戴天の敵とし、世界がこれに同調すること
   日本の敗戦による急展開の中から危険な運動が出現すること
ナチス勃興の頃からドイツ人の国民性に興味を持ち、ドイツ史におけるその位置づけとナチズムの位置付けの解明に注力 ⇒ 将来の発展を志す場合、その理想を単なる過去の自己拡大に置くという危険をもっているので、ドイツと対等の同盟国は存在し得ず、同盟も君主族に奉仕族を隷属させる意図しかない

9.    大統領への親書運動 金子英生(エール大図書館東アジア部長)執筆
41.10. 金子堅太郎宛に書簡 ⇒ 狂瀾を既倒に廻らすべく、ドイツの敗戦の予告と日本の改革論、軍国日本の解体を吐露。米国の立場を全く顧慮しない日本の対米外交姿勢への致命的な欠陥を指摘
30年来の親友であるハーバード大フォッグ美術館東洋部長のラングドン・ウォーナーとの間では、天皇へのルーズベルト大統領親書懇請運動に発展 ⇒ 41.11.ウォーナーの提案に対し朝河が起草、それをウォーナーがワシントンの要人に持って回った。ポーツマス講和とペリー訪日の際の2件の前例をひきながら、日本の国民性と歴史への理解や、元首や国民が政府によって立たされている苦境に同情し、心ならずもとらされてきた不幸な国策の転換を求める感動的な訴えだった
41.12.6.21時グル―駐日大使宛に打電されたが、郵便局から大使に配送されたのは日本時間の7日午後10時過ぎ(防諜目的で配送を10時間ずらしていた)であり、大使が東郷外相に親電についての拝謁を依頼したのは8030分、アメリカで親書の全文が新聞に公開されたのは開戦後の8日。内容もインドシナ進駐問題に集中した特定行動への抗議に終わっていた
親書送付は既に10月半ばにルーズベルト大統領が考えていた ⇒ 37.12.揚子江で日本軍が米国砲艦を撃沈した時に抗議の書簡を送ったのに続く第2弾で、厳しい警告的意見を述べた草案だったが、発信は見送り。11.26.野村・来栖の両大使も大統領親書に望みを託そうとして本国で拒否されたが、在米大使館経由で米国識者に働きかけ
124日のルーズベルト大統領と駐米英国大使ハリファックスとの会見では、大統領がまだ親書による戦争回避の可能性に言及していた
8日未明、東郷は東条に伝え、2:40参内したが、1:30には第1攻撃隊は発進していた

10. 敵国内の自由人
開戦後も朝河には学問研究と行動の自由が保障されていた ⇒ エール大学での講義は42.6.の定年まで続き、定年に当たっては名誉教授の称号が贈られた
敵国人登録をし、資産はすべて凍結されたが、学長からは「大学と学問への貢献はエールには報いきれないものでありあらゆる援助を惜しまない」との申し出を受ける
43.8.「戦場地域文化財・歴史遺物保護救助アメリカ委員会」(通称ロバート委員会)発足 ⇒ ウォーナーと角田(つのだ)柳作(県立福島中学の英語教師、コロンビア大日本文化研究所創設、開戦後抑留されたが、コロンビア大同僚の尽力で解放)が日本の文化財リストの作成に奔走するが、朝河の助言があったことは十分想像される
42.11.戦争終了後における日本救済委員会の活動についても、朝河がウォーナーに対してきめ細かくアドバイス。日系2世より日本語を学ぶアメリカの青年男女を、能力と性格を基準に選ぶべきとの人材起用の判断基準は、そのまま国務省内に発足した戦後研究会が採択したものと同じ
44.10. アーヴィング・フィッシャー宛の手紙で、米国内での天皇処刑論の高まりに対し、日本において大改革が行われた場合、必ず天皇の是認と支持が必要だった事、天皇が人民の心中に改革遂行の義務感を呼び起こした上全ての反動的な反対を沈黙させてきたと説く
朝河はアメリカの対応についても厳しく批判 ⇒ 41.12.15.に大統領が議会宛の「特別教書」で日本を糾弾したことに対して、長年君主が置かれてきた非常に微妙な立場に対する理解力を欠くものとし、大統領教書が日本でどう扱われたのか詳細を明らかにしないままに、天皇を不当に共犯者のように仄めかすのは短慮であると指摘。ハル・ノートについても日本人の性格を理解していないが故の内容と指弾
戦後の新しい国際連合構想についても、2つの条件①構成国全体が平等であること、②加盟国の国民が国際的機関が費用になった事実を強く認識すること、が成り立たなければ計画通り作動しないと断言
アメリカの政治伝道者的な言動に見られる謙虚さの欠如を批判し、アメリカの民主主義の自己再教育が必要とまで言った
今度の戦争は、自由主義そのものの弛緩への刑罰とし、イギリスに比べてアメリカは長い間指導者がいなかったとし、洞察と識見を生み出す想像力が欠けていたと批判

11. 永遠のニューヘブン
一国の国民性を世界史の流れの中で位置づけた上、目前の国際関係においてそれを検証することは、歴史学の最終目的
日本の国民性批判の中で重要なのは、「無争の迎合」という日本人の欠陥 ⇒ 日本人の画一的忠誠は、共同体内部における家族・村等を地盤とした感情的和合に事づいて倫理的にしつけられたもので、たやすく妥協する根深い習性を形成
48.8.夏休みでバーモントの山のホテルに滞在中、心臓麻痺にて死去。享年74

1994.8.18. 岩波書店「同時代ライブラリー」発刊の際に追加された解説  井出孫六
朝河少年が歴史に目を開いていく背景には、二本松藩の砲術指南を勤める家柄で、戊辰戦争で会津の先鋒として戦い潰滅して朝敵の汚名をきせられた二本松の戦争の傷跡が影を落としていたのではないか
官に頼らずにアメリカ留学という難事業に青年を立ち向かわせた原動力は一体なんだったのか ⇒ アメリカからドイツを見、一転して日本を振り返るという二重の比較文化史的視点を若い学徒が出発点から獲得していいたことは注目に値する
異郷に来て、人類史上における日本の相対的な地位を知り、歴史学研究によって日本に報恩しようと決意(1900年の年頭にあたっての「自戒」を込めた戒律)
日本封建制研究の原初的モチーフが"武士道の本質を見極めることにあったと思わずにいられない ⇒ 表題「最後の日本人」を選んだのも、その思いは繋がっている



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朝河 貫一1873明治6年)1220 - 1948昭和23年)810)は、日本歴史学者イェール大学では“Historian”“Curator”(キュレーター)、“Peace Advocate”(平和の提唱者)として評価されている人である。
生涯 [編集]
福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士宗形正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)69年に正澄が、夫を天狗党討伐の際亡くして未亡人となっていたウタの嫁ぎ先の朝河家に婿入り。
武士を離れた夫婦はどん底の生活苦を味わいながらも、1874明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島県福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。
1878(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。その後、川俣小学校高等科(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)へ移り、1887(明治20年)10月、蒲生義一に就いて英学を学ぶ。
1888(明治21年)、現在の福島県福島市杉妻町にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積(あさか)高等学校)に入学する。1889(明治22年)、現在の福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は郡山市の宮本家に下宿し、そこから通学する。福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。
1892(明治25年)3月、同校を首席卒業の後、5月〜8月まで郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語教授の嘱託を勤める。
1892年(明治25年)12月、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し、1895(明治28年)首席で卒業。同校在学中に大西祝坪内逍遙夏目漱石等の教えを受ける。またこの時期、横井時雄により洗礼を受ける。
1895(明治28年)、大西祝大隈重信 徳富蘇峰勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学する。
1899(明治32年) 米国ダートマス大学を卒業する。
1902(明治35年)イェール大学大学院を卒業する。1902(明治35年)Ph.D.を受ける。
1902年(明治35年)ダートマス大学講師となる。
1905(明治38年) クラウンポイントの教会でミリアム・キャメロン・ディングウォールと挙式する。
1906(明治39年)〜1907(明治40年)米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国する。(第1回帰国)
1906年(明治39年)9月〜1907(明治40年)6月早稲田大学文学部講師となる(英語を担当する)
1907(明治40年)再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任する。
1907年(明治40年)ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。
1910(明治43年)同大学助教授となる。
1913大正2年)ミリアム・朝河と死別する(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)。
1917(大正6年)〜1919(大正8年)東京大学史料編纂所に調査・研究のため一時帰国する。(第2回帰国)
1930昭和5年)イェール大学準教授となる。
1937(昭和12年)日本人初のイェール大学教授に就任する。
1941(昭和16年) 日米開戦を避けるため、天皇宛米国大統領親書草案をラングドン・ウォーナーに渡す[8]
1942(昭和17年)同大学名誉教授となる。
1948(昭和23年) 同大学図書館日本部長兼キュレーターを勤める[9]
1948年(昭和23年)バーモント州ウェストワーズボロで死去する。遺体はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地に埋葬される。また、福島県二本松市の金色(かないろ)墓地に墓が建立されている。
業績 [編集]
第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群。)の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”The Documents of Iriki” (『入来文書』1929、昭和4年)である。マルク・ブロックアナール学の歴史学者とも交流があった。
第二に「平和の提唱者」としての業績がある。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説した朝河は、日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、日本に警鐘を発するため、1909(明治42年)『日本の禍機』を著した。『日本の禍機』で発した警鐘は、後に現実のものとなる。1941(昭和16年)11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河は第二次世界大戦中、戦後もアメリカに滞在したが、終生、日本国籍のままであった。
第三に「キュレーター」としての業績がある。1906年の第1回帰国では、米国議会図書館、イェール大学の依頼で日本東アジア関連図書・資料の収集を行った。イェール大学図書館には、『手鏡帖』(8世紀〜17世紀の主要な個人の仏書・手紙・歌書等の筆跡を集めた帖)、『青蓮院尊円法親王御筆』(青蓮院流の初祖、尊円法親王の御筆)、『竹取物語』(奈良絵本)、『厳氏孝門清行録』(朝鮮本)、『烈女傳』(漢籍)、『伊勢物語』(所蔵されているものは室町中期〜江戸前期に製作された奈良絵本)等が所蔵されている。これらの図書・資料は、欧米での日本研究や東アジア研究に必要不可欠なものとなっている。なお、20108月には、朝河の呼び掛けに応じ、日本在住の同大卒業生や当時の東京帝国大・黒板勝美が贈った21双の屏風の中に、東大寺を復興した僧・重源(1121-1206)1192(建久3)年に花押を記した文書を確認したことを、東京大史料編纂所が発表した。
朝河の数々の業績を讃え、2007(平成19年)10月にはイェール大学講師就任100年を記念し、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。この庭園は2000(平成12年)にニューヨークの国連本部にある「平和の鐘」公園を造ったアベ・シンイチロウによってデザインされた[12]。また、ダートマス大学には朝河貫一の業績を記したプラークが朝河貫一博士顕彰協会より贈られた。これに先立ち、2007(平成19年)9月には、外交官時代にイェール大に学び、自称「弟子」を自認する加藤良三駐米大使(当時)を招いたシンポジウムを福島県郡山市の安積歴史博物館で開催、500人を超す福島県民、安積高校生等に真の国際人・朝河について講演した。
トーマス・エドワード・ハリファックス [編集]
福島県尋常中学校時代の朝河に英語を教えたハリファックスは、英国(イングランド)ウィルトシャー州ウェストベリーに生まれる。1871(明治4年)から1874(明治7年)までの約3年間、工部省電信寮に電信技師として採用された後、中村正直の同人社や近藤真琴の攻玉塾等の私塾で英語を教える。その後ハリファックスは朝鮮に渡り、朝鮮で最初の王立英語学校「同文学」で朝鮮の関税職員や外交官等に英語を教えたり、ソウルプサン間の電信線工事に携わったりする。1890(明治23年)、福島県尋常中学校に赴任する。1892(明治25年)、時の福島県会がハリファックスの解雇を審議することを知った朝河は、「留任嘆願書」を提出した。しかしその後、ハリファックスの解雇が決まった。福島県尋常中学校を去った後、ハリファックスは長野県尋常中学校(現在の長野県松本深志高等学校)、朝鮮官立英語学校で教鞭をとる。愛嬢アグネス・フローレンス・ハリファックスと共に、韓国ソウル市のヤンファジン(楊花津)外国人墓地に埋葬されている。
著作 [編集]
§  『日本之禍機』(実業之日本社)、『日本の禍機』宗高書房1985年、『日本の禍機』講談社学術文庫1987
§  『朝河貫一書簡集』 書簡編集委員会編、早稲田大学出版部、1991
§  『入来文書』 矢吹晋訳、柏書房、2005
§  大化改新 矢吹晋訳、柏書房2006
§  『朝河貫一比較封建制論集』 矢吹晋編訳 柏書房、2007
§  島津忠久の生ひ立ち』 慧文社2007
参考文献 [編集]
§  『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』 阿部善雄 著、岩波書店1983
§  『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』 阿部善雄 著、同時代ライブラリー、岩波書店、1994
§  『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』 阿部善雄 著、岩波現代文庫、岩波書店、2004
§  『幻の米国大統領親書 歴史家朝河貫一の人物と思想』 書簡編集委員会編、北樹出版1989
§  『朝河貫一の世界 不滅の歴史家偉大なるパイオニア』 朝河貫一研究会編、早稲田大学出版部1993
§  甦る朝河貫一』 朝河貫一研究会編、国際文献印刷1998
§  『ポーツマスから消された男朝河貫一の日露戦争論』(横浜市立大学叢書) 矢吹晋著、東信堂2002
§  『「驕る日本」と闘った男日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』 清水美和著、講談社2005
§  ”Kan’ichi Asakawa―A Historian Who Worked For World Peace” 武田徹著、太陽出版、2007
§  『朝河貫一とその時代』 矢吹晋著、花伝社2007
§  『日本の発見 ー朝河貫一と歴史学』 矢吹晋著、花伝社2008
§  『朝河貫一論 その学問形成と実践』 山内晴子著、早稲田大学出版部2009
§  『「ふくしま」が育んだ朝河貫一シリーズ(1) T.E.ハリファックス』 武田徹他編、朝河貫一博士顕彰協会、2009
§  『「ふくしま」が育んだ朝河貫一シリーズ(2) 朝河貫一と四人の恩師』 武田徹他編、朝河貫一博士顕彰協会、2010
外部リンク [編集]
§  横浜市立大学名誉教授・矢吹晋HP 朝河貫一博士顕彰協会の紹介や著作目録がある。
§  朝河貫一博士顕彰協会HP 20045月に設立された。最近の活動、会報、写真帳等がある。


ラングドン・ウォーナーLangdon Warner188181 - 195569)は、アメリカ美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。
略歴 [編集]
マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903ハーバード大学卒業。卒業後日本を訪れる。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。
中国における文化財の略奪 [編集]
中国では、敦煌壁画を剥がして持ち去るなど、文化財の略奪者と見る意見もある。
ウォーナーリスト [編集]
太平洋戦争時、日本の多くの都市地域空爆があったが、京都爆撃されなかった。この事実の理由として、ウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナーリスト)を作成して米政府に進言したから、という説がある。194511月の朝日新聞報道で取上げられ、以来広く一般に知れ渡っている。ウォーナーの知己である牧野伸顕の『回顧録』、近藤啓太郎の『日本画誕生』や岡倉天心村岡博訳の『茶の本』の解説(福原麟太郎)などにも、その旨の記述がある。
京都を救ったのはウォーナーであるという話に基づいて、19586月、法隆寺西円堂の近くに、供養塔、顕彰碑 ウォーナー塔(Warner Monument)が建立された。また、鎌倉にも同趣旨のプレートがある。さらに、ウォーナーへの感謝の胸像が作られ、米国の大学へ寄贈されたこともある。
一方、吉田守男の『京都に原爆を投下せよ』(朝日文庫『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』)によれば、その話はGHQ民間情報教育局の情報工作によるものである。吉田によれば、ウォーナーリストは、占領地域での文化財を保護し、(ナチスなどが)略奪した文化財を返還させ、弁償させるために作成したリストの日本版であった。リストに記載された文化財で、名古屋城、岡山城など空襲によって焼失したものは多数存在する。また、実際には、京都でも東山区馬町(1945116)、右京区太秦(416)、右京区春日(319)、上京区西陣626)、そして京都御所511)などと計20回以上の空襲に遭っており、原爆の投下候補地にもなっていた。京都が結果的に大規模な空襲を免れたのは、原爆の投下目標として温存されたためである。
奈良も、大規模な空襲こそなかったが、小規模な空襲や機銃掃射は多々あった。
その後、オーティス・ケーリ五百旗頭真の調査により、京都を原爆投下候補地から外したのは陸軍長官ヘンリー・スティムソンだったことが判明している。
ウォーナーリストに記載のある被災文化財 [編集]
§  仙台城(焼失)
§  大垣城(焼失)
§  名古屋城(焼失)
§  熱田神宮(一部焼失)
§  広島城(焼失)
§  岡山城(焼失)
§  永福寺(焼失)
§  松山城(一部焼失)
§  宇和島城(一部焼失)
§  首里城(焼失)
§  大阪城(一部焼失)
§  四天王寺(焼失)
§  寛永寺(焼失)
§  浅草寺(焼失)
§  皇居(焼失)
§  明治神宮(焼失)
§  増上寺(焼失)
§  帝国ホテル(一部焼失)
§  姫路城(一部焼失)
など
著書 [編集]
§  『万仏峡洞 - 9世紀仏教壁画の研究』(Buddhist Wall Paintings - A Study of a Ninth-Century Grotto at Wan Fo Hsia1938


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