明治維新は「戦国時代からはじまっていた!」  跡部蛮  2012.11.26.


2012.11.26. 明治維新は「戦国時代からはじまっていた!」 戦国武将と幕末志士を結ぶ点と線

著者 跡部蛮 1960年大阪市生まれ。大卒後出版社勤務などを経てフリーの著述業に。別名にて経済・社会関係のノンフィクションを執筆する傍ら、大学院で日本史を学び、東京歴史ミステリー研究会を主宰。時代と時代を結ぶ「点と線」に着目し、様々な歴史の謎を解明している。

発行日           2012.11.11. 第1刷発行
発行所           双葉社(双葉新書)

村木さんが、「坂本龍馬が明智光秀の子孫か?」と書いた変な本が出ているので、買って欲しいと言ってきたもの

週刊大衆連載『戦国ミステリー捜査隊』及び『日本史ミステリー捜査隊』から抜粋、大幅な加筆・修正を施し、一部書き下ろし

「関ヶ原の遺恨」が徳川幕府を崩壊させた!
15代にも及ぶ徳川幕藩体制を崩壊させ、新時代を切り拓いた明治維新。その陰には、幕府への強い反発を持つ長州や薩摩、土佐の志士たちの奮闘があった。なぜ、彼等は強大な敵であり、日本を支配する幕府に死を覚悟して立ち向かったのか―――。その答えは、遡ること360年前。天下分け目の関ヶ原での因縁が深く関係してる。

戦国と幕末「12の謎」
其の1               奇襲でなかった厳島合戦――5倍の大軍に勝利した毛利軍の勝因とは?
安芸吉田城主の毛利元就の名を世に知らしめた厳島合戦で、手兵5千の元就が、暗愚の主君大内義隆を討ち果たしたばかりの陶晴賢の25千を厳島に誘い出して奇襲をかけ勝利したとされるが、毛利軍の動きは陶勢に捕捉されていたことが分かっているのに、なぜ勝利できたのか

其の2               なぜ上杉謙信は川中島で武田の「啄木鳥の戦法」を見破ることが出来たのか?
善光寺平支配のための拠点・海津城を巡る戦いで、信玄が山本勘助の進言を入れて、信玄方遊軍が謙信の守る妻女山を攻撃して謙信が出て来たところを本隊が撃つという「啄木鳥(きつつき)の戦法」を取ろうとするも、謙信が事前に見破って先に引き揚げたとされるが、どうして事前に見破ったのかは謎

其の3               織田信長が著名な「天下布武」の印を途中、マイナーチェンジしたのはなぜか?
1575年権大納言、更に右近衛大将となった信長は、その2年後「天下布武」の印を、馬蹄形から円形に変え、すぐ後に使用を止める。元々は信長が稲葉山城主斎藤龍興を降した際、宗恩沢彦(そうおんたくげん)という禅僧が選定した銘文で、元は「布武天下」だった
著名な印に対する信長の不可解な行動の意味は?

其の4               徳川家康が「御生涯御艱難第一」のピンチ(神君伊賀越え)3日足らずで切り抜けた理由とは?
本能寺の報を受けて家康は追腹を切る覚悟だったが、本多忠勝に諌止され三河へ帰って再起を期すが、堺から僅か3日で伊賀越え、北伊勢からは船で岡崎まで辿り着く。なぜ一行は無事帰国できたのか?

其の5               「王になろうとした」と資料が語る「豊臣秀吉の野望」に纏わる謎の真相とは?
秀吉は征夷大将軍になれず、やむなく関白に就いたというのは誤りで、「将軍ノ官」を授けるとの勅定が下ったのに秀吉が断った記録がある。それでは秀吉はどういう権力を欲しがったのか。「王」つまり皇族になろうとしたのか?

其の6               新撰組最大の功績とされる「池田屋事件」で本当に長州藩士らは京都を焼き尽くす「テロ」の実行を計画していたのか?
818日の政変で京から追い払われた長州が天皇奪回計画を立てて集結したのが池田屋で、新選組による阻止によって維新の実現が3年は遅れたと言われるが、窮地に立った長州は御所への放火というテロ行為まで考えていたのか?

其の7               「禁門の変」は長州の暴発だったのか?――秀才久坂玄瑞が描いた「必勝策」とは?
幕府が2万で守る御所を、僅か2千の長州が仕掛けた「禁門の変(蛤御門の変)」は、単なる長州の暴発ではなく、吉田松陰門下の秀才・久坂玄瑞の「必勝策」が実現1歩手前まで漕ぎつけていた?

其の8               死を覚悟した高杉晋作「決起」成功の奇跡はなぜ起きたのか?
「禁門の変」で粛清された正義派に代わって藩政打倒のために僅かな人数で挙兵した高杉晋作は、幕府まで向こうに回してどうして成功したのか?

其の9               「薩長同盟」締結の際の薩摩側の不可解な行動の謎?
「薩長同盟」が薩摩側からの呼び掛けで実現しながら、呼び出した桂小五郎となかなか話を始めようとしなかったり、いくら密約とはいっても書面を交換しなかったり、不可解な行動が多い

其の10           最大のミステリー「坂本龍馬を切ったのは誰か?
67.11.15.近江屋で龍馬と中岡慎太郎が殺害されたが、下手人は?

其の11           龍馬暗殺に絡む「土佐藩関係者」4名の不可解な行動の謎?
龍馬暗殺前後の、中岡も含めた土佐藩士たちの行動の謎をさぐる

其の12           なぜ新政府軍は江戸城総攻撃を目前にしながら、無条件降伏勧告を引込めたのか?
314日の「勝海舟・西郷隆盛」会談によって新政府軍が強硬な態度を軟化させた理由

第1章        戦国時代「未解決事件」を追う
其の1        信長の天下布武構想と源頼朝
信長の天下布武構想は源頼朝と深く関わる
信長と秀吉がともに清盛の子孫を称したのは、当時流行していた「源平交代思想」によるもので、足利将軍家(清和源氏)や土岐一族(清和源氏)の明智光秀に代わって天下を掌握したため
信長は、頼朝が武家政権の骨子となる守護・地頭制発足に当たって「天下之草創也」と言ったことを意識している
頼朝は、1190.11.9.権大納言となり、11.24.に右近衛大将に任命 ⇒ 厳密には右近衛大将就任をもって、幕府発足となる。1週間で右近衛大将を辞任。信長も同じ手法を踏襲
森蘭丸 ⇒ 22歳になっても元服せず、美濃岩村(恵那市)5万石の大名になってもなお信長の側で児々姓と同じ身なりをしていた

其の2        神君伊賀越え事件の裏
本能寺の変の時、家康は信長から招かれて「本能寺茶会」に出席のため堺を出立
途中で異変を知らされ、落ち武者狩りにあって死ぬよりはと、知恩院で追腹を切ることを覚悟したが、意思を翻して三河に戻る
その伊賀越えを警護したのが服部半蔵率いる伊賀・甲賀の者 ⇒ 信長が伊賀の乱で伊賀者を撫で斬りにした際、家康は庇護したことへの恩返し
本能寺の変を家康に知らせた京の豪商・茶屋四郎次郎が、伊賀越えを進言するとともに、あらかじめ金をばら撒いていたという話もある

其の3        厳島合戦は「奇襲にあらず」
陶軍は毛利軍の動きを掌握してはいたが、暴風雨でよもや上陸してこないと思っていた陶軍に油断があったのが敗因、しかも25千はいなかった可能性も高い
元就の勝利を決定付けたのが来島衆(村上水軍)で、周防に逃げ帰ろうとする陶軍の船を襲い、再起を不可能にさせた

其の4        河越夜襲は「存在そのものに疑問あり」
北条氏康の武蔵河越城が、元の城主扇谷上杉勢の大軍に包囲される。氏康は謀略によって相手を油断させ、夜襲を敢行して城を奪回したとあるが、『関東古戦録』には、既に死んだ武将が活躍する場面も描かれており、信憑性に疑問。兵力にしてもどこまで差があったかは不明で、差がなければ夜襲などする必要もなかったかもしれない

其の5        秀吉の「王位簒奪未遂」事件
秀吉は、始め平氏を称していたが、その次には「藤原氏」となる
源氏でなければ将軍になれないという話は俗説
秀吉は、信長の志を継ぐ形で関白職を望む ⇒ 将軍より、「万機に関(あずか)り白(もう)す」関白の方が幅広い権限を持つと考えたのであろう
関白を巡り、近衛前久の息子で左大臣の近衛信輔と二条昭実が争い、秀吉が間に入って一時自分が関白に就任(前久の養子として)、そのまま居座る ⇒ 武家関白として、公家や諸侯を斬り従え、信長の果たせなかった野望を実現

其の6        「将軍・足利義輝襲撃」の理由
室町13代将軍義輝は、「剣聖」塚原卜伝や上泉信綱から剣術を伝授された「剣豪将軍」だったが、三好・松永の政権奪取の陰謀に遭って壮絶な最期を遂げる ⇒ 義輝は、三好らの陰謀に対抗して上杉謙信に助けを求めたが断られている。信長も義輝に謁見しているが、その時は義輝が美濃の斎藤義龍(道三の嫡男)と天秤にかけ、信長を暗殺しようとしている

其の7        豊臣秀次切腹「秀吉の真の狙い」
秀次粛清の真相 ⇒ 乱行と言い謀反と言っても根拠は薄弱、領主だった近江八幡には名君とする事蹟や伝承が残っているところから、秀頼の誕生によって甥秀次の存在が邪魔になった秀吉の陰謀であることは明らか。この事件により諸将への信頼を失なったことが豊臣家滅亡の伏線となる

其の8        清洲会議の虚と実
本能寺の変で憤死した信長の家督を決める宿老会議で、秀吉は信長と共に討ち死にした信忠の嫡男三法師に家督を継がせることを決めたが、信長の三男信孝が三法師をとりこんで離さなかったために、秀吉は信長の二男信雄(のぶかつ)を擁立、勝家を賤ヶ嶽に撃ち信孝も降伏させ三法師を取り戻したが、そのまま信雄を織田家の跡取りとした

其の9        川中島「両雄一騎打ち」の真相
川中島の戦いでは両軍18千のうち1/3が死んだとされるが、その中に「両雄一騎打ち」の記述や、それを偲ばせる資料が存在する ⇒ 『甲陽軍鑑』の記述には誤りが多く、直接対決はありえない。山本勘助も架空の人物、似た武将はいたが「啄木鳥の戦法」を進言したかどうかは分からない
上杉勢が川中島に進出するのは、刈入れ時期を狙って「苅田狼藉」を働いて食料を確保するため
謙信が、武田勢の動きを見破ったというより、「苅田狼藉」のために山を下りたところ、濃霧が晴れて両軍が"出会い頭"の死闘になったのが真相ではないか

其の10     北条勢降伏は「石垣山一夜城」の存在にあらず
秀吉による天下統一の最終章となった小田原ノ役で、天下の堅牢として知られた城をどのようにして攻略したのか
笠懸山の山中に塀と矢倉を組み「杉原の白紙」(播磨国杉原村で作られる和紙)を貼って前面の木々を伐採すると、忽然と山城が出現したように見えた ⇒ 石垣に見えたところから、「石垣山一夜城」と呼ばれ、後世、山の名前も石垣山となった
秀吉は、長期戦を覚悟してあらかじめ笠懸山に築城を命じており、実際に城が完成して10日後に北条氏が降伏 ⇒ 築城を北条方に完全に秘匿するのは物理的に不可能であり、一夜城に驚いて観念したというより、北条家内の離間や周辺の北条方の諸城を落とされたことが降伏の真の理由だろう

其の11     小田原ノ役「忍(おし)城水攻め失敗」の真犯人
北条方の武蔵国忍城(行田市)を守るのが城主の長女・甲斐姫。攻める石田三成が「戦下手」のレッテルを貼られる ⇒ 実際は、高松城で成功した水攻めを秀吉が指示したために、元々沼地の高台にあった城はびくともせず、逆に甲斐姫に利用されせっかくの新設の堤を破られ多勢の水死者を出した

第2章        幕末「重要事件」の真相に迫る
其の1        「坂本龍馬・中岡慎太郎殺害事件」の真相と黒幕
真犯人は諸説あり、最初は新撰組と言われたが事件とは無関係で、下手人は幕府の見廻組
黒幕については、武力討伐を主張していた薩摩藩が、慶喜を新政権の中心に据えようとしていた龍馬が邪魔になったという説もあるが、見廻組が犯人であれば、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の役人を殺傷したこともあり、幕府に指名手配されていたと考えるのが正当

其の2        「坂本龍馬・中岡慎太郎殺害事件」と土佐藩の陰謀
当時の土佐藩は、乾(後の板垣)退助や谷千城の倒幕派に対し、後藤象二郎らの大政奉還派が主流を占め、「薩土盟約」により大政奉還の実現を容認させることに成功
龍馬の海援隊は大政奉還派、中岡の陸援隊は武力倒幕派
2人がお互いに相手を説得しようとして斬り合いになったという説まであるが、土佐藩の藩内抗争が絡んでいる可能性は否定できない

其の3        池田屋事件「攘夷派の知られざる野望」
謎の多い事件
池田屋密会の目的は、新選組に捕縛された仲間の救出であり、「テロ」計画ではない
桂が逃げ回っていたというのも事実とは違い、中四国の諸藩を相手に長州藩に同調する「正藩同盟」結成に奔走していた
会津藩を始め京都守護職と言えど、まだ朝敵でもなかった公的な組織である長州藩を取り調べるわけにもいかなかったため、新撰組を使って襲わせた

其の4        薩長同盟の真の狙い
1866年 「薩長同盟」 ⇒ 龍馬が陪席し京の小松帯刀邸で締結された6か条の盟約。幕府の長征計画に対し、薩摩が全面的に長州へ協力する軍事同盟
薩摩の島津久光は公武合体派であり、長州の強硬論とは相容れなかったため、調整に手間取り、さらに6か条の密約にしても久光と桂との間に立った西郷が苦肉の策として譲歩した形を取ったため書面にも残せなかったというのが真相
両藩の温度差という問題を残しながらも、盟約の存在が時代を動かした功績は認められる

其の5        新撰組内ゲバ! 油小路の決闘の謎
龍馬殺害直後に起きた新撰組と元新撰組(高台寺党)の決闘
倒幕に傾いて行った元新撰組の制裁をするために新撰組が謀殺したとされるが、なぜ謀略にやすやすと乗ったのかは不明

其の6        蛤御門の変「長州暴走の真相」
京都にいた久坂玄瑞が、朝廷内の諸公会議で一旦開港した横浜の閉港を巡る議論が纏まらず攘夷論復活の兆しが見えたことを知って、818日の政変の仕返しを藩元に進言したが、池田屋事件で芽を摘まれた上に、薩摩を頼った反長州派の皇族公卿たが強気な態度に出たため頓挫、久坂は自刃

其の7        功山寺決起事件「成功の秘密」
蛤御門の変で朝廷に発砲し朝敵となった長州では、幕府に恭順の意を表する政権ができるが、これに反発したのが高杉晋作。「奇兵隊」を組織して藩政府に対抗。長州征伐の幕府軍は恭順する藩政府の態度を確認して引き上げた後、高杉晋作が功山寺で決起、不満分子を糾合して藩軍を夜襲、緒戦の勝利によって大勢が一気に倒幕へ傾く
功山寺は、京から長州を頼って逃げてきた攘夷派公卿5人の居所

其の8        鳥羽伏見の戦いの命運
大政奉還後、慶喜が新政府閣僚に加わる可能性もあったが、薩摩や岩倉らのクーデターで締め出される。慶喜は恭順の意を示すが、旧幕臣は納得せず、薩摩排除を要求して京都に軍を進め、鳥羽街道と伏見で薩摩との間に戦端を開く。会津・桑名の両藩を中心とした旧幕府軍が3倍もの兵力を持ちながら敗退した理由として、錦の御旗の登場が言われるが、元々旧幕府軍の先遣隊は慶喜の露払い程度の任務しか帯びていなかったために油断していたことと、大山﨑の要地を守備していた津藩(藤堂家)の裏切りが大きく戦局を左右
鳥羽伏見での戦いを契機に、慶喜は朝敵・賊軍となった

其の9        江戸城無血開城「2人の立役者」
315日の江戸城総攻撃に先立ち、新政府軍は旧幕軍に無条件降伏を要求
全日に勝と西郷が会談、西郷が大幅譲歩して411日の無血開城が決まる
講和内容に反して、榎本武揚は軍艦7隻を率いて脱走、鉄砲の多くも脱走者が持ち去り、旧幕府軍は新政府との約束を反故にしている
それだけ新政府が譲歩した理由は、慶喜の警護役の山岡鉄舟が、慶喜の命に従って西郷を説得し勝との面談に持ち込んだことと、イギリス公使パークスが戦乱による破壊を恐れて「恭順の意を表した敵将を撃つのは万国公法に悖る」と説得したことが背景にある

第3章        戦国と幕末を結ぶ「点と線」
其の1        関ヶ原の合戦と幕末の諸藩
Ø  長州編 ⇒ 関ヶ原で家康が反論二分した毛利家に付け込んで、吉川元春(元就次男)3男で家督を継いだ広家を味方につけるが、勝った後約束を反故にしたばかりか、周防・長門に押し込められた。260年後の幕末になって、倒幕一辺倒で進むとともに、最後は鳥羽伏見の天下分け目の戦いで関ヶ原の恨みを果たした
Ø  薩摩編 ⇒ 関ヶ原当時、島津家は家中の反乱で兵を送れず、在坂の藩主弟が僅かの手兵を率いて西側に参戦しただけだったため、戦後家康が九州在の東国諸将に島津討伐を命ずるも、兵力を温存していたため難を逃れ、結局所領を安堵される。幕末には篤姫を将軍の正室として入れ、幕政改革に乗り出し、公武合体運動を進める。藩主久光は公武合体に拘ったが、最後は西郷らの説得に同意、大詰めで倒幕の主役となる
Ø  福岡藩(黒田家) ⇒ 秀吉の軍師黒田官兵衛如水は、中津12万石を与えられたが、その嫡男・長政は関ヶ原で家康に加担して活躍、その論功行賞で筑前52万石を与えられ福岡藩が誕生、関ヶ原の間に如水は九州平定に走るが、家康は無視。黒田家と毛利家は昵懇の間柄、毛利の改易阻止に長政が奔走。幕末の長州征伐に際し、佐幕派の黒田家は幕府と長州の間に入って周旋に乗り出す。高杉の決起に際しても、攘夷派公卿を匿ったり、西郷と高杉の面談の機会を持ったり、長州に加担している
Ø  津藩(藤堂家)編 ⇒ 1605年藤堂高虎(近江出身、浅井長政を皮切りに7回主君を変えた)は諸侯に先だって江戸に人質を送り、外様でありながら家康の全幅の信頼を得、冬の陣では先鋒の栄誉を与えられるが、幕末の鳥羽伏見の戦いでは京・大坂間の最重要拠点・山崎砲台の守備を預かりながら幕府を裏切り、幕府軍総退却の元となる
Ø  熊本藩(細川家)編 ⇒ 関ヶ原で東軍にいた細川忠興が家督を3男忠利に譲り、豊前小倉から肥後熊本54万石に入部して幕末を迎える。公武合体を説いた横井小楠(龍馬に影響を与えたが、維新後暗殺)を輩出したが、藩論は佐幕派で、朝廷から慶喜追討令が出たのを機に勤皇へ統一。江戸城受け取りの征東大総督府参謀として安場一平(先祖が大石内蔵助の介錯)の名が見える
Ø  佐賀藩(鍋島家)編 ⇒ 初代藩主は関ヶ原で西軍に与したが、その後九州で西軍武将を攻撃、その戦功によって佐賀35万石を安堵。幕末にはいずれの派とも距離を置き、もっぱら殖産興業に集中し産業や装備の近代化に努める。戊辰戦争では佐賀の大砲他近代的な技術力が貢献、藩閥政府の一角に食い込む奇跡を演じた
Ø  芸州藩(浅野家)編 ⇒ 浅野幸長(よしなが、秀吉の正室・北政所の義弟)が東軍に与したのは三成が嫌いだったからで、合戦後初代紀州藩主に。徳川の世になってからも豊臣家に忠誠を誓う。弟・長晟が家督を継ぎ、家康の娘・振姫を性質に迎え、芸州42万石を得る。長晟の甥長直が赤穂城主で内匠頭の祖父。長州征伐では幕府軍の本営となるが藩内は長州びいき。67.9.には薩長と三藩同盟成立したが、先ずは大政奉還だとして建白書を幕府に出したところから、朝廷から出た倒幕の密勅は薩長二藩だけになったものと思われる
Ø  土佐藩(山内家)編 ⇒ 藩祖・山内一豊は関ヶ原では東軍で戦ったが、開戦直前に居城の遠州掛川城を家康に差し出したのが評価されて長宗我部家に代わり土佐24万石を拝領。幕末の容堂は佐幕派。安政の大獄で謹慎を命じられた後、後藤象二郎の意見を入れ大政奉還を建白、鳥羽伏見では新政府軍に加わったものの戦意は低かった。最後には武力討幕派が勝って、陸軍総裁の乾(板垣)率いる土佐藩兵が東山道先鋒軍総督府の主力として活躍
Ø  岡山・鳥取藩(池田家)編 ⇒ 初代宗家は池田輝政の父恒興で、織田の側近、秀吉の側近として豊臣の姓を与えられる一方、家康の娘・督姫を正室に迎え、秀吉の死後家康に接近。関ヶ原後は播磨・姫路52万石となり、さらに徳川の縁戚もあって備前岡山、因幡鳥取藩を併せて江戸期を通じて繁栄、幕末の鳥取藩32万石の藩主は水戸藩主・斉昭の5男で慶喜の兄、岡山藩30万石の藩主も斉昭の9男でありながら、戊辰戦争では新政府軍として転戦
Ø  彦根藩(井伊家)編 ⇒ 井伊直政は徳川四天王の1人。三成の旧領を与えられ、佐和山城を破却して彦根城を築き彦根藩が立藩される。近江に所領を賜ったのは京に騒乱が起きた場合天皇を遷すという家康の深謀遠慮によるとされるが、桜田門外の変後は減封の上京都守護職も解かれる。幕府方の先鋒として参戦しているが、王政復古のクーデター後は新政府方につき、東海道の交通の要所大津を押さえ旧幕軍の命運を絶つ
Ø  米澤・仙台藩(上杉・伊達家)編 ⇒ 関ヶ原では上杉景勝(当時会津)が西軍、伊達政宗が東軍として東北を舞台に矛を交えたが、幕末には仙台藩62万石と米沢藩18万石は揃って「奥羽越列藩同盟」(奥羽25藩と北越6)を結成し新政府軍と対峙したが、鎮圧された
Ø  天童藩(織田家)編 ⇒ 織田の家督を継いだ信雄は、小牧長久手で秀吉と対抗したが、後に和睦し尾張伊勢両国の太守。小田原ノ役後家康が関東に国替えされた際、家康の旧領に転封されるが拒否して蟄居、家康のとりなしで復活、関ヶ原ではどちらにもつかず、大坂ノ役の際片桐且元と共に離反、戦後小幡(群馬県)などで5万石の城主、江戸後期に天童へ転封され2万石で幕末を迎える。名門の血筋として両サイドから重んじられ、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられ、佐幕派の庄内藩に攻められるが、「奥羽越列藩同盟」結成に伴い新政府から離れて参加

其の2        坂本龍馬は明智光秀の子孫か?
明智家の家紋は、美濃の名門土岐家の「水色桔梗紋」。坂本家も「組み合わせ角に桔梗紋」という土岐氏由来の家紋
光秀の居城は坂本城(大津市)、一方龍馬が長崎で旗揚げしたのが亀山社中で、光秀が丹波攻略の拠点として築城した「亀山城」
噂のルーツは、1883年『土陽新聞』に連載された坂崎紫瀾の伝記小説『汗血千里駒』
紫瀾は、土佐出身の自由民権運動家でジャーナリスト。龍馬を一気に有名にした小説
光秀の娘婿明智左馬之助光俊が坂本城落城の折、逃れて姓を坂本と改め、土佐に移り住んだという ⇒ 光俊は、謎の多い武将で確かなことは不詳
通説は、坂本城に戻った左馬之助が城を燃やし、自害したとするが、秘かに土佐に下った可能性はある
土佐には別の伝承も ⇒ 戦乱を嫌って山城から土佐へ逃げてきた避難民の大浜氏が、高知城下きっての豪商となって坂本家から郷士株を買い、大浜直海が分家して郷士となり、その曾孫が龍馬とされる。坂本家が明智の末裔だとしても大浜とは無縁となるが、大浜の名は近江の地名だとする説もあり、山城から近江を経て土佐に流れてきた可能性もある

其の3        本願寺が見た「戦国」と「幕末」
信長と10年戦争(石山合戦:157080)の末に降伏した本願寺(浄土真宗)が、秀吉の時代に顕如の嫡子・教如の跡継ぎに秀吉が介入し、顕如の3男・准如に門跡を継がせる。教如は家康を頼り、関ヶ原後に筋金入りの信者だった本多正信が本願寺の二分を進言し教如に東本願寺を、准如に西本願寺を継がせた
幕末には、東が幕府側に立ち宿舎や軍用米を提供、西は長州に兵士を提供(石山御坊時代にも織田軍に包囲された際、毛利水軍が織田勢を打ち破って兵糧を届け窮地を救った歴史がある) ⇒ 維新後、東は苦しい立場に追いやられるが、西と共に戊辰戦争の軍資金を新政府に出資する役割を担う






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