原発とメディア  朝日新聞連載  2011.10.3.~12.12.27.


2011.10.3.~ 朝日新聞夕刊連載 
原発とメディア 第1部 「平和利用」への道
新聞などのメディアは原発をどう報じ、どう論じてきたのか。安全神話の形成にどうかかわってきたのか。その道のりを振り返る。
1-1       元科学部長の悔恨
新聞、雑誌が原子力の「平和利用」による明るい未来像を描き出していた時期に、湯川秀樹がオフレコと念押しした上で言った話:原子力発電は感心しません。放射能の怖さをもっと認識してもらわないと。平和利用、平和利用というが、そんな生易しいものではありません
64年から朝日新聞の科学部長を務めた高津は今、悔恨を込めて語る:原子力の安全性の問題を、もっと紙面で取り上げるべきだった
英国物理学者バナールの言葉:幻想をできるだけ排除することだ。未来は、あらゆる望みや願いを託するのに、あつらえ向きの場だが、科学的予測においては、そういう願望は極めて人を欺きやすい道案内である
1-2       原爆が落ちた日
広島原爆投下翌日の朝日の報道(僅か5行の記事)6750分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このために同市付近に若干の損害を蒙った模様である
地元紙、中国新聞は、社屋が焼けて新聞の発行が出来なくなり、社員が「口伝隊」を編成し、メガホン片手にトラックの上からニュースを流す
長崎原爆では、NY Times記者ウィリアム・ローレンスが唯一の従軍記者として上空から取材、「それは()新しい種類の生き物だった」との談話を米陸軍省が発表
長崎原爆当日の午後、長崎市の北東約20㎞、諫早郊外の田んぼで、米軍がパラシュートで投下した爆風観測用の装置が回収され、その装置に貼り付けられた1通の鉛筆書きの手紙が回収された。宛名は「サガネ教授へ」
1-3       嵯峨根遼吉への手紙
物理学者嵯峨根遼吉宛の手紙:戦争を継続すれば、日本の全都市は絶滅されてしまうよりほかないことを、貴国の指導者に確証し、この生命の破壊と空費を停止するために、君が全力を尽くすことを切望する
署名はなく、「君がアメリカに滞在中、科学研究の同僚であった3人の友より」とだけあったが、嵯峨根が手紙を読んだのは9月末
嵯峨根(1905):物理学者長岡半太郎の息子。湯川や朝永と同世代。東大に学び、3538年カリフォルニア大放射線研究所で、原子核の人工破壊に使うサイクロトロンの考案で39年にノーベル賞を受けたローレンスに学ぶ。43年東大教授。戦中は海軍の依頼で原爆製造の検討に参加したが、完成に10数年かかるという理由で断念。
長崎原爆当日、トルーマン大統領はラジオを通じて演説:日本が降伏しないならば米国は今後もこの爆弾を日本都市に投下し続ける
816日の朝日新聞(チューリヒ発):原子力についてスウェーデンの物理学者は「人類の歴史の新しき時代を画するもの」と述べ、米重工業界は「自動車もこの新動力を僅かに詰めただけで数千キロを走破することができるようになる」と論じている
嵯峨根は、その後一貫して原子力の開発に力を注ぐ
1-4       2,3週間後の原爆死
移動演劇隊さくら隊は広島滞在中に被爆、9人中5人が即死、女優の園井恵子は被爆時無傷だったが、8日に神戸に避難したが、やがて高熱が出て、頭髪は抜け落ち、目はうつろに座って、すごい形相となり21日死去。同僚も背中にかすり傷程度だったが、極度の食欲不振と高熱で入院、白血球が1/10程度に激減、24日に容体急変で死去。担当医は、被爆当時やその後大した異常が認められないが時を経るにしたがって健康を害ってくる人たちに対する早急にして適当な措置が一刻も早く取られねばならないと訴えた。被爆から2,3週間が過ぎて死者が増えていった
810日大本営の調査団は、本爆弾を原子爆弾と認め、その根拠の1つとして「著しい白血球の減少は、放射線の影響と判定」
825NY Times:「原爆のウラニウム核分裂により生じた放射能は死者数を憎大させつつある」という日本の同盟通信の報道を伝えると同時に、原爆開発を主導したオッペンハイマーの「広島の地表に、感知できるほどの放射能などあり得ない。残っていた少量の放射能はたちまち消失したと信じるに足る十分な根拠がある」との談話を併せて掲載
1-5       「放射能で苦しむ者は皆無」
95日中国新聞に東大医学部都築教授の見解掲載:原爆当日広島にをらず、その後やってきた人で数日間勤労作業などに従事した人の健康状態については、相当の症状を呈し、また死亡した人もある
同日の英紙Daily Express1面にも広島を取材した豪記者の記事掲載:病院には、爆弾投下時全然傷を負わなかった者が薄気味悪い後遺症で死んでいく。髪の毛が抜け、青い斑点が現れ、耳鼻口からは出血
96日には米国原爆投下計画の副責任者ファーレル准将が海外特派員との会見で発言:死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能のために苦しんでいるものは皆無
米国は残留放射能の危険性を既に43年に把握していたが、それを否定したのは原爆投下を国際法違反と見る日本側の主張に裏付けを与えたくなかったから
1-6       載らなくなった被爆写真
1945.8.30.朝日新聞 最初に被爆の写真を掲載したが、朝日が被爆の惨状を正面から採りあげたのはこの頃まで
45.9.15. 「原爆使用が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪」だとする鳩山一郎の発言報道によりGHQから2日間の発行停止命令 ⇒ 「占領軍に対する破壊的批評」禁止の10か条の「プレスコード」が通告され、新聞・図書の事前検閲が開始されたが、具体的な基準は示されず、各紙は自主規制に入り、円滑な新聞の発行が最優先とされ、被爆写真の掲載はなくなる
45.10.30. 一般向けの解説書「原子爆弾」を朝日新聞が発刊、著者は嵯峨根 ⇒ 一部が検閲で削除

1-7       「原子力時代」の到来
45.8.20. 朝日紙面 ⇒ 敗戦直後の前田多門文相は、「日本は敵の科学に敗れた、それは原爆によって証明される」として、日本の「科学立国」を説く。原爆が科学の進歩の象徴とも受け止められた
45.9.25. 朝日紙面 ⇒ ワシントン発の記事として、米国が原爆の兵器使用から科学利用へと転換したことを伝える
46.1.22. 朝日社説 ⇒ 「原子力時代の形成」と題し、原子エネルギーの平和利用こそ画期的出来事とし、世界歴史の形成にどうかかわるかに注目せよと説く
47.9.30. 東大卒業式での南原総長訓示:「人間革命と第2産業革命」と題し、原子力の発見が第2産業革命をもたらすことを予見し、今や人類は自滅するか復興するかの岐路に立ち、人間復興のためには人間自身の革命が必要と説く
その時点で稼働している原子力発電所は世界に1つもなかった ⇒ 原子力が何をどう変えるのか実態が分からぬまま「原子力時代」は独り歩きを始める
1-8       死刑になってもよい
原爆の悲惨を世に伝えねばと考え実行した人は同人誌などに集まる市井の作家や詩人たちで、惨状を伝える小説や歌集が密かに刊行 ⇒ 原爆表現に関する検閲が、他の分野に比べ特に厳しかったわけではないとの見方もあった
新聞などのマスメディアは、原爆について書くことを検閲の手前で自主規制した
47年秋 理論物理学者武谷三男が朝日論説副主幹と「原子力の問題」と題して対談、武谷は日本の電力飢饉など原子力があれば一ぺんで解消するといい、新聞も「原子力を人類の繁栄と幸福のために使うということは絶対に必要」と評論
1-9       放射線の影響を過小評価
48.8.6. 朝日 「原爆症完全に消滅」として広島逓信病院長の談話発表
被爆の惨状を語る報道が姿を消す一方で、原子力の危険性を実際より小さく見る記事が時折新聞・雑誌に掲載
原子力の「平和利用」に意気込む者たちも、放射線の危険性を過小評価して「夢の未来像」を描き、メディアはそのまま伝えた
49.9. ソ連タス通信がソ連の原爆保有を報道
50.1. トルーマン米大統領が水爆の開発を指令 ⇒ 米ソ核軍拡競争に突入
50.6. 北朝鮮軍が南侵開始
1-10    原爆使用宣言、批判せず
50.11.30. 米大統領「原爆使用考慮中」と表明 ⇒ 主要各紙は、検閲が49.10.すでに終了していたにもかかわらず、3度目の原爆使用に対し異議を唱えず
51.3. 米原子力委員会・国防総省が「原子兵器の効果」と題する解説書を編集 ⇒ 武谷・豊田利幸ら6人の理論物理学者により邦訳が出されたが、「原爆による人体への影響は少ないと考えられ、広島・長崎では、内部の放射能に由来する疾病や障碍は全く報告されていない」という記述に対し疑問を持つことなく「科学的分析を紹介する義務を痛感した」と「訳者序」に書いた
54.2. 都築正男ら日本の医学者と米国の医学者による討議が初めて実現
1-11    原子力研究開始に反対論
1952.4.28. サンフランシスコ講和条約発効
52.8.6.号アサヒグラフ 「原爆被害の初公開」と特集、被害者の写真を多数掲載
52.9.11. 朝日新聞 被爆者の診療活動に当たっていた都築正男の「原子爆弾とはどんなものか」と題する寄稿で放射能障碍の脅威を語った
52年夏 占領中禁止されていた原子力研究開始の声が上がる ⇒ 10月学術会議で原子力問題を検討する調査機関の設置を政府に勧告するよう提案 ⇒ 被爆した広島大理論物理学研究所長三村剛昻が反対したほか、学者たちは総じて慎重な反応
1-12    中曽根議員、訪米
53.7. 改進党代議士中曽根が米国留学(4か月)中に、カリフォルニア大にいた嵯峨根と懇談 ⇒ 嵯峨根は原子力開発に積極的、放射線の危険については楽観的、嵯峨根から原子力開発を進める国家意思を法律と予算で明確にすることを勧められる
53.9. 東京で国際理論物理学会議開催 ⇒ 朝日新聞の座談会でインドの原子力委員長が、原子力は危険より利益の方が大きいと主張
1-13    中曽根の回想に事実誤認
53.12.8. アイゼンハワー大統領演説 ⇒ 原子力平和利用のための国際協力促進を訴える ⇒ 朝日も社説で評価
中曽根は近年の回想でこの演説を米国で聞いたと言い、「Atoms for Peaceとして米国が原子力政策を変えた」と言っているが、これは事実と反する ⇒ 演説の直前国会で質問に立っていて、「米国で大統領演説を聞き、日本も早く着手しなければと痛感した」という筋書きは成り立たない
湯川秀樹もそのころ、「科学が進歩するのはマイナスの方もだんだん大きくなっていく。そういう危険を完全に防ぐことは科学の力でもできない」と、科学の限界に気付いていた
1-14    急浮上した原子力予算
54年元旦 讀賣が「ついに太陽をとらえた」と題する連載で原子力研究の過去と現在・将来を見渡した ⇒ 後に科学技術庁長官などを歴任して原子炉の導入に力を注ぐ正力はまだ原子力の「ゲ」の字も知らなかった
同日の朝日は英哲学者ラッセルの寄稿を掲載 ⇒ 原子力兵器を念頭に、過去150年間、技術は進歩したが、人知は進歩しなかったと綴る
54.3. 原子炉製造費補助260百万円という予算の修正案が成立 ⇒ 学術会議は原子力研究への慎重論が大勢で中曽根(当時法案を提出した改進党衆議院議員)に抗議したが、「学者がぼやぼやしているから、札束で頭をブン殴ってやる」と追い返される ⇒ 政治に押されて、計画もなしに日本の原子力開発が動き出す
1-15    原子炉予算を削除せよ
54.3.3. 原子炉予算衆院通過 ⇒ 翌朝朝日は社説で、具体的計画もないことを理由に「予算削除」を主張、原子力政策の根本方向を論議するのが先決とした
毎日、讀賣とも、政治に引っ張られる形で、原子力に前のめりになっていった
物理学者杉本朝雄:原子炉から出る放射性物質の処理に関連した技術は人道上のことでやるべきこと多く、原子炉自身の安全性と同時に、廃棄物の捨て場所も問題
原子力開発には重大な問題が伴うことを、当時の新聞は広く読者に伝えなかった
1-16    ポケットに「死の灰」
54.3.14. 第五福竜丸が焼津に帰港 ⇒ 讀賣が16日に、「ビキニ原爆実験に遭遇し23名が原子病」とスクープ。放射能降下物を「咄嗟の思いつき」で「死の灰」と書く
1-17    恐ろしくとも踏み出せ
23名は東大病院に入院、診療を主導したのは都築正男 ⇒ 急性放射能症と診断
讀賣 ⇒ 如何に欲しくなくとも原子力時代は来ている、恐ろしいからと背を向けているわけにはいかない
米両院合同原子力委員長 ⇒ 報道は誇張
岡崎外相 ⇒ 米原水爆実験にはできるだけ協力する
朝永振一郎 ⇒ 地震の対策をせずに原子炉の予算だけあっても有効に使えるかどうか… 
武谷三男 ⇒ 放射線の危険がそれまで考えていたより「遥かに大きい」ことを知る
1-18    原子炉はいらない
新聞の社会面が連日のように「放射能マグロ」や「放射能雨」のニュースを報じ、街に原水爆実験などへの反対の署名運動が広がる
物理学者の多くが原子力開発に前のめりになる中、被爆者の治療に当たっていた都築は、原子力の研究はいいが原子炉を作るより、放射能障碍の研究所でも作るべきと主張し、新聞もその発言を大きく報じたが、さらに掘り下げることはなかった
1-19    日本に原発を
54.8.12. 讀賣主催「だれにもわかる原子力展」 ⇒ 原水爆の脅威と原子力の平和利用を一緒に紹介
54.8.30. 米国の原子力法改正 ⇒ 2国間協定により原子力技術や核物質を相手国に供給が可能となる
9.23. 第5福竜丸の無線長久保山愛吉死去 ⇒ 死因は放射能症と発表され、原水爆禁止の声が高まったが、米国は「輸血による黄疸」と発表
11月には、米原子力委員会が、機密解除された原子力発電関連の文献を日本に提供
1-20    広島に原子炉を
55.1.1.讀賣のトップに「米の原子力平和使節」の日本への招聘の社告掲載 ⇒ 平和利用キャンペーンを大々的に繰り広げる
55.1.4. ビキニ事件の漁業被害を廻り日米両国合意 ⇒ 2百万ドルの賠償支払。日本の要求の半分の見舞金支払いで、米国は事件の責任を認めないまま収拾を図る
55.1.11.米国が日本に原子力発電に使われる濃縮ウランの提供を提案 ⇒ 見舞金と濃縮ウラン提供の間に一種の取引があったのではとの疑惑
55.1.27. 米議会で「広島に原子炉を建設すればキリスト教的な善意の恒久的な記念塔となる」との演説 ⇒ 日本からの反対の声に押されて提案を取り下げ
1-21    正力松太郎、国政に進出
55.2.27. 総選挙で、「原子力の平和利用」を公約した正力が当選(富山2区、日本テレビ社長、讀賣新聞社主、69歳、警視庁を虎ノ門事件で引責辞任、部数5万の讀賣を買って大新聞に育てた) ⇒ 米側から原爆反対運動を潰す妙案を尋ねられ、平和利用による産業革命を政治活動で実現しようと、突然出馬を決意
当選後、讀賣は積極的に平和利用を報じる
1-22    米国の世界戦略の下で
55.4.14. 朝日が濃縮ウラン貸与申し出の事実をスクープし、平和利用推進とはいえ、米国と慌てて協定を締結することへの疑義を唱える
Atomic Imperializmと言われる米ソによる核兵器製造と平和利用への協力でそれぞれの陣営の拡大と結束を図る動きが活発化
55.11.米国との原子力協定に調印
1-23    田中慎次郎の警告
55.8.6. 第1回原水爆禁止世界大会(:広島)
同日から朝日は「原子雲を越えて」と題する連載開始 ⇒ 原爆開発からビキニを経て「平和利用」へと続く日本の原子力の歩みを辿り、平和利用の未来図を描く
8月 第1回原子力平和利用国際会議(国連主催、於:ジュネーブ)
朝日社説 ⇒ 開発計画の根本をしっかり立てなければならないと強調
朝日特派員の田中 ⇒ 人類の遺伝に及ぼす放射能の問題が未解決のまま原子力時代に突入することへの問題提起・警告を発する
この年の新聞週間の標語 ⇒ 新聞は世界平和の原子力
1-24    原子力博に36万人
1955.11.1.から6週間 原子力平和利用博覧会(讀賣、米広報庁主催、於:日比谷公園) ⇒ 費用はすべて米国もち。原子力が「幸福の源」のように理想化。各地を巡回し各地の有力紙が主催・後援。京都・大阪では朝日が主催
55.11. 正力が国務大臣(原子力担当)となり、翌月には原子力基本法など3法成立
1-25    のみ込まれた慎重論
56.1.1. 原子力委員会設置 ⇒ 原子力政策の決定機関、正力国務大臣が委員長
5年以内の原子炉建設を明言。中曽根は、放射能を怖がるのは馬鹿だと放言
原子力開発の促進に向けた官民の動きは急 ⇒ 4月に東海村の原子力研究所設置決定、5月に科学技術庁発足(正力が初代長官)
湯川秀樹は、原子力の利用開発は基礎から着実に作り上げるべきと主張したが、推進論にのみ込まれ、安全性についての議論を欠いたまま原子力発電の早期実現へと走り出す
1-26    原水爆時代の原子力博
3月、米政府は日本の衆参両院の原水爆実験禁止要請決議に対し、実験の継続はやむを得ないと表明
56.5.5. 米国がマーシャル諸島でこの年最初の水爆実験実施
1-27    広島で原子力博
広島での開催にあたり広島原爆被害者連絡協議会は、被爆資料の同時展示を申し入れたが拒否、逆に「平和利用!」一色にすると明言 ⇒ 「平和利用」の危うさを新聞はまだほとんど語っていなかった
1-28    原子力施設、茨城に
56.4.6. 原子力委員会が日本原子力研究所(原研)の東海村設置を決定
いはらき新聞(現茨城新聞) ⇒ 将来は日本唯一の科学観光地としてにぎわうことを予想し、県民の協力を呼びかける
東海村報(村の広報誌)に開業医が投稿 ⇒ ジャーナリズムの歯の浮くような宣伝記事に踊らされて村民が投機的な気分になって浮き足立つのは厳にいましむべき
56.6.13.朝日 ⇒ 米科学アカデミーの報告書を掲載:「放射能廃棄物は原子戦争より多くの放射能を放出する。人体の安全、海空ならびに食糧衛生を守りうるか、人類の能力が試される日の来るのも遠いことではない」
1-29    「原子の火」ともる
57.8.27. 臨界に到達(エネルギーを発する核分裂反応が持続して起きる状態)
その日の朝日夕刊コラム「三角点」(現在の「素粒子」) ⇒ 原子の火ともる。人類の平和と幸福の、行く手を守る灯台の火ともなれ
朝日茨城版に「原子力の豆知識」連載 ⇒ 原子炉の運転や使用済み核燃料の処理には強い放射線がつきものだが、保健物理学者たちの努力で放射線障碍は事実上存在しなくなった(冊子として自費出版したが、土産物屋で飛ぶように売れた)
1-30    「廃液飲んでも大丈夫」
その頃国会では核兵器保有の是非を議論 ⇒ 岸首相は当初「核兵器保有は憲法上適当でない」としながら直後に「自衛権の範囲内なら許される」と翻す
岸の腹にあるのは、「平和利用」の顔をした「兵器としての原子力」への期待 ⇒ 当時既に米国務省は日本が10年後には自力で戦術核兵器を保有することを予測していたことが85年に判明した
59.10.2. 原研の廃棄物処理場で作業員が廃液を浴びる事故 ⇒ すぐ洗い落とした結果異常なしとしてそれ以上の報道はなかった
59.10.10. 皇太子(現天皇)が原研を見学、特に廃棄物処理などについて熱心に聞かれた
1-31    漂流する関西原子炉
57年後半、関西地区での研究用小型原子炉(研究炉)建設を巡り、候補地で反対運動 ⇒ 宇治市、高槻市(阿武山)、交野市が反対、最終的に熊取町に設置決定
59.11.9.朝日社説 ⇒ 研究上有益として建設容認論に立って「十分な管理能力と責任感とがあればむやみに危険を恐れる必要はない」と書く
この時期、原子炉の安全性を廻って本格的な論争が起きた
1-32    公開討論会でやらせ?
57.10.10.朝日国際面 ⇒ 英国でのプロトニウム製造のための軍事用原子炉事故で大量の放射性物質が大気中に放出
当時日本で導入が検討されていた英国コールダーホール型原子炉が地震に弱いことが判明 ⇒ 国会でも安全性について議論、社会党がNHKの公開討論会でやらせがあったことを追及
客観的な基準に立ってその安産性を検討し、判断すべき信頼性の置ける組織が存在しないことが問題とされた
1-33    原子炉近くに小学校
58.9.5.朝日社説「原子力発電の現状と日本の錯覚」 ⇒ 世界の原子力発電は未だ初歩的な技術的問題を抱えており、導入を急ぐ政府や産業界に警鐘
英原子力公社の専門家も近隣の居住者の制限を条件としたが、東海村は条件に適合しないばかりか、近くには米軍の水戸射撃場もあった
1-34    ある地方紙社長の変心
茨城県岩上知事が米軍空爆演習の際の誤爆の危険性を訴え、茨城新聞も原子炉の安全性を問う論評を繰り返し、不測の事故への対応に懸念を表明
中曽根科学技術庁長官が、飛行機が落ちても安全と語る
茨城新聞社長が訪欧、原子炉を視察した後、爆弾やジェット機が垂直墜落しても安全なので、茨城県民よ、原子力発電所を2つでも3つでも受け入れようと呼びかけ
1-35    疑問振り切り、建設へ
59.11.9.原子力委員会専門部会が原子炉を「安全」と答申 ⇒ 委員の1人物理学者の坂田昌一は答申に責任が持てないとして辞任、原子炉には未知の要素が多く、全ての専門家が同時に素人であることを忘れてはならないと警告、国会でも証言
米軍射撃場の問題を朝日は報道せず、米軍が使用を止めたのは11年後の71(日本への返還は73)、核爆弾の模擬弾投下を米国の文書から突き止めたのは2000年のこと
1-36    疋田桂一郎(社会部記者、35歳、後に天声人語担当)の原研ルポ
57.5. 朝日に科学部創設、57.10. ソ連が人類初の人工衛星打ち上げに成功
59年秋 朝日に異色のルポ「原子力研究所を見る」 ⇒ 若手研究者の本音を探るが、実態は「原子炉の運転も一度覚えてしまえば退屈、古びた実験のおさらいでしかない」
1-37    新聞協会、欧米視察団を派遣
61.6. 東海村で日本初の商業用原子炉となる東海発電所の起工式
朝日新聞の論調が積極的、楽観的に ⇒ 注意して取り扱う限り危険ではないと
64.4.10. 「欧米原子力事情視察記者団」(新聞・通信11) ⇒ 日本の反対運動や、近未来の石油資源枯渇を前提に原子力開発を急務とする日本とは違う姿を見る
1-38    増殖炉の開発に備えよ
原子力視察団は、帰路米国で「殺人原子炉」を見る ⇒ 脳腫瘍に中性子線を当てて治療したが、患者43人全員死亡。末期患者のみで文句は出なかったが、日本の新聞にも触れられなかった
この年、中国・東北・九州各電力が原子力発電に乗り出す方針を発表、東京電力も福島大熊町/双葉町に原発用地を確保、66年着工を公表
朝日は社説で、使った燃料より多くの核燃料を生成する、と謳う増殖炉の開発方針を固めよと号令
開発に反対だった物理学者三村剛昻も、自動車事故で年に1万人以上死んでも自動車は捨てず文明は前に進んでいく、原子力発電も放射能の公害の如何にかかわらずやらなければならないと、考えを変えた
1-39    安全性の広報に努力せよ
66.9.1. 東海発電所営業運転開始 ⇒ 日本初の商業用原子炉。総工費465億円
66.9. 中曽根他が中電の芦浜原発予定地を視察したが、漁民等のデモに遭って断念
朝日は社説で、原発の安全性は疑わず、住民に安全性を理解させるための努力を行政や電力に求めた ⇒ 反対運動が起こるのは啓発が足りないという考え
1-40    ビキニ事件を忘れるな
68.3.朝日「声」欄に、第5福竜丸を沈めるな! との投書 ⇒ 被爆後水産大の練習船として使用、廃棄されようとしていたが、美濃部都政が展示館として保存
その後もメディアは、安全性についての十分な吟味を欠いたまま、原子力開発を全体として是認し励ましてきた

2部 「容認の内実」
2-41    ウラン濃縮実験をスクープ
天然ウランは、99.3%のウラン2380.7%のウラン235からなる。ウラン235が核分裂を起こす。ウラン235を濃縮すると高効率の核燃料を作ることができる
69.3.理化学研究所が濃縮の基礎実験に成功 ⇒ 朝日が1面トップに
70.3.敦賀原発完成、万博に「原子の明かり」を送る
70年前後を境に反原発の世論高まる中メディアの姿勢が鋭く問われた ⇒ 朝日は容認の立場で、原発に甘いとの批判を浴びる ⇒ 「容認」の内側に何があったのか
2-42    大阪万博に6400万人
政府関係者らは、展示から原爆の記憶を排除したところに日本と世界の未来像を描こうとした ⇒ 「日本館」の原爆の惨禍をうたったタペストリー「かなしみの塔」が分かりにくいということで広島から英文パンフレットを取り寄せて配布しようとしたが政府が許可せず、さらに別の展示館では原爆や戦争の写真が展示制作者に無断で撤去された。一方電力業界の「電力館」では高速増殖炉の展示で原子力の未来が語られた
原子力開発の推進者は、原子力アレルギーの払拭に躍起、国民的理解の獲得に邁進
2-43    福島原発、運転開始
60年代半ば以降公害問題が激化、人々の関心が高まる中で原発に対しても厳しい視線が注がれるようになる
71.3.26. 1号機営業運転開始(国内4番目) ⇒ 地元紙は社説で「県勢振興の新たな誘因」と期待しつつも「安全対策に慎重を期する」と注文
大熊町の中学の校庭には放射線監視装置が設置された
70.7.朝日の社説で「将来の原子力公害への備え」を強調、それまでの論調に変化
70年代に入り、原発の建設ラッシュに原発批判が高まる
2-44    早すぎた社説
71.5. 共同通信 ⇒ 米国が開発した軽水冷却型原子炉の緊急炉心冷却システムに重大欠陥発見のニュース ⇒ 原子力委員会は調査団を米国に派遣したが、その結果が出る前に朝日は社説で「欠陥原子炉騒ぎの教訓を生かし、独自に原子炉の安全性を高める努力をすべし」と主張、騒ぎに幕を引きたい政府や業界に手を貸した形
2-45    「国策支持が朝日の方針」
軽水炉の安全性をめぐる米原子力委員会公聴会の記録を手にして、安全性について紙面で取り上げることを提案した記者に対し、科学部デスクは編集権を盾に却下
さらに突っ込んで、国策を監視するのがジャーナリズムの役割と食い下がり、部会で討議することを提案したが、編集権に属する事柄は大衆討議には馴染まないとして取り上げられなかった
2-46    原子力の監視は社会の責任
72.6.朝日ジャーナル「疑惑深まる軽水炉の安全性」として、新聞に書けなかったテーマを載せる ⇒ 「緊急炉心冷却システムが改良されるまでは原発運転を中止すべし」との意見が米原子力委員会の規制官から出されたことも明るみに
米国の原子力開発の主導者が、「原子力は安価で豊富な電力を社会に供給するが、その代わり社会は不測の事態が起きないよう原子力を監視しなければならない」と主張
記事を書いた記者は北海道に左遷
2-47    計画拡大を容認
71.1.宮城県女川町長選挙で原発反対派が40%強 ⇒ 各地で原発建設が地元民の反対に遭う ⇒ 柏崎市荒浜地区では原発賛否の住民投票で80%以上が反対
72.3.13.朝日社説 ⇒ 原子力開発を推進する原子力委員会による大型原子炉の安全性審査に疑問
72.6. 原子力委員会は、「原子力利用長期計画」の規模を2倍に拡大 ⇒ 朝日は社説で疑念を表明、開発は容認しつつ疑念解消には並々ならぬ努力が必要と説く
長期計画はその後段階的に縮小 ⇒ 当初1kw2009年度は48百万kw
2-48    伊方原発(愛媛)巡り住民訴訟
73.8.27.朝日が1面トップで報道 ⇒ 設置許可手続きが違法
74.1.1.朝日社説 ⇒ 7310月の第4次中東戦争による石油危機により、代替エネルギー技術の現状から、当面原子力の発展に期待せざるを得ない
2-49    放射能データ捏造事件を追え
73.11.科学技術庁長官が閣議で、石油危機を受けて「エネルギー問題解決の鍵は原子力利用にあり、原発の建設が急務」と発言、政府・電力業界に同様の声が高まる
74.1.共産党不破書記長が、原潜入港時の放射能測定でデータ捏造と政府を追及
問題は原発にも波及し、検査の杜撰さが浮き彫りに ⇒ 朝日が他紙をリードして監視体制の杜撰さを報道(朝日の科技庁担当記者が大熊由紀子、当時33)
2-50    「原発で被爆した」と提訴
74.3.参院で公明党が3年前の敦賀での被爆が原因で放射線皮膚炎になった問題を取り上げ、政府の対応を追及 ⇒ 74.4.原電相手に提訴。大熊も取材を進める
2-51    「ナゾだらけの皮膚炎」(74.4.18.朝日記事の表題)
朝日「みんなの科学」欄に、原告主張への疑問を提起したのが大熊 ⇒ メディアや世論が1つの方向(反原発)になだれ込むのは危険と感じて書いた記事
2-52    電源三法の成立を黙認
74.4.27.原子力委員会が安全性確保できるとして福島第2原発の建設の許可を答申
74.6. 電源三法成立 ⇒ 発電量に応じて電力会社から集めた税金を公共事業として発電所の地元自治体に配分し、原発建設の停滞を打開しようとするもの ⇒ 大手紙は「黙認」
福島の双葉町で原発反対運動をしていた社会党県議が3回連続落選のあと原発容認に考えを変え85年から町長を5期務めた
2-53    原子力船むつ、放射能漏れ
69年進水、70年むつ市大湊港に接岸、72年核燃料積み込むも沿岸住民の反対で釘付けに、74.8.強硬出港した直後、出力2%の段階で放射能漏れ ⇒ 朝日は微弱と報道したが、国際放射線防護委員会の基準値を超えていた
政府による調査の結果、原子炉の設計ミスを認める
2-54    不安だが、やむを得ない
事故にもかかわらず政府の積極姿勢は不変 ⇒ 74.10.朝日が社説で、未解決の課題が多いことを理由に政府計画(85年に60百万kw)の見直しを主張
福島の地元紙は原発推進の立場、世論は「不安だがやむなし」が大勢
2-55    「事故は確実に起きる」
76.2.NY Timesの記事「原発建設に反対してGEの社員3人が辞表」 ⇒ 原発の事故は必ず起きる、ただ、いつどこかはわからないとした内部告発し、議会証言でもとりあげられた ⇒ 朝日ジャーナルが証言記録を掲載
2-56    連載「核燃料」始まる
76.7. 証言記録を受けて、朝日解説面の連載「核燃料 探査から廃棄物処理まで」 ⇒ 担当大熊、48回にわたり原子力技術の基礎知識と先端情報を紹介 ⇒ 現場の技術者が多く登場するが、外国人ばかりで日本人は登場せず
美浜原発に事故隠しの疑い発覚、社会党が国会で追及
2-57    避け得ない選択
連載「核燃料」は最後の5回で様相が変わる ⇒ 安全への技術の開発は不可能ではなく、資源小国日本にとって原発は不可避 ⇒ 編集局長賞
76.10.弁護士連合会の原子力開発に関する報告書では、「本質的な危険性が軽視されている半面、安全性がことさら強調され、住民不在のまま進められてきた」と指摘、「核燃料」にはこうした問題提起はなかった
76.12.関電美浜原発が燃料棒の損傷事故を4年隠していたことが判明
2-58    原子力への協力度
連載「核燃料」が原発の安全性を強調したことについては、社内でも異論はあったが、社外ではもっぱら「朝日の持つ原子力に対する協力度の現れ」との評価になった
2-59    「核燃料」に厳しい批判
「核燃料」が単行本として発刊 ⇒ 大熊は「反原発側の知識不足に驚き、実地の基礎的知識を持ったうえで正しい判断をして欲しいと願って書いた」と記したが、「推進派の出したPR本」とまで言われた
2-60    激論、共同研究班
77.2. 朝日新聞が社内に「原子力共同研究班」発足(キャップ大熊) ⇒ 基本姿勢はイエス・バットだったが、どちらに力点がるのかは判然としない
2-61    だれのために闘うのか

外部からの批判に大熊は「反原発は非科学だ」として反論、それに対し外部からは「ジャーナリズムはだれのために闘うのか」と問いかけ
2-62    「原発内部を撮らせて下さい」
四日市の公害を撮った報道写真家の樋口が原爆皮膚炎の患者(1-50参照)を訪ね、下請け労働者の被爆問題を取り上げる
2-63    原発内部をカメラ取材
77.7. 樋口が原電の厳しい監視下で内部撮影を行う
2-64    伊方訴訟、住民側敗れる
77.11. アサヒグラフが樋口の写真を破格の扱いで掲載 ⇒ 原発の闇部分が初めて公開された
伊方訴訟 ⇒ 安全性を巡る法廷論争は国が守勢に立たされ、原発審査会の杜撰な審議振りも明るみにされたが、松山地裁、高裁、最高裁とすべて原告敗訴
朝日社説 ⇒ 安全審査に手落ちがないことと、真に安全かどうかは別問題
原告弁護団 ⇒ 原発の安全性についてジャーナリズムが独自の視点で問題点を抉り出すことはほとんどなかった
2-65    推進と反対のはざまで
79.8. 東電柏崎が抜き打ちで杭打ちに着手
新潟地裁では、設置許可取り消し訴訟進行中
大熊がエネ庁原電課長他との座談会で「地震が来ても、建屋が堅固で完全に気密性が保持できれば人々は安心するので、安全性のデモンストレーションになる」と発言
2-66    科学技術はだれのものか
79.1. 土木学会誌に朝日新聞科学部長が、評論家や机上の空論を唱える物理学者らによる反原発の声に対し、現場から安全性を訴えるべきことを主張 ⇒ 「原発が安全」という信念自体どこまで科学的なのかは疑問
74.7. 朝日ジャーナルの巻頭言 ⇒ 科学技術を独走させてはならない。工事者側が「絶対安全」などという非科学的なことを安易に言ってきた付けが「住民の抵抗」だ
2-67    スリーマイル島原発で事故
79.3.28. 装置の故障+人為ミスの連鎖による史上最悪の事態に ⇒ 現地からは「原発側の隠蔽が混乱と不安を惹起」との記事に対し、電気事業連合会平岩会長(東電社長)は「日本では米国のような事故発生の恐れはないと信じる」と語る
2-68    事故の教訓
事故発生から1か月間に全国の新聞で96の社説 ⇒ 多くが安全対策の強化を求めたが、原発廃止を論ずる社説はなかったし、日本の原子力政策を根本から問い返すことにも繋がらず、「安全神話」は生き延びる
大熊は、装置の故障や捜査員の未熟な判断が原因で、炉心溶融からは程遠く、住民避難は必要なかったと強調したが、その後深刻な現実が次々と判明
2-69    福祉のための原子力
大熊は、社会福祉の観点から原発容認論を説明 ⇒ エネルギーが不足した時にまず第一にしわ寄せを受けるのは社会の下積みなので、エネルギーの不足を起こしてはならない。薬害は問題だが薬を無くせとはならないのと同じことを原発でも考え、反原発を批判したまでで、「推進側に寄り過ぎ」との批判は根拠も薄く不正確。84年に論説委員となり、以降17年にわたり主に福祉や医療分野の社説を執筆
2-70    社論は「イエス・バット」
79.8. 朝日社内で原発取材記者を集めて研修 ⇒ 「バット」を強調、手放しの原発肯定論には立たないことを明示しようとしたが不徹底に終わる
2-71    記者たちの戸惑い
反原発運動を報じるが、反対の立場から記事を書くことは認めないとの社の方針
2-72    読売の巨人、朝日の科技庁
研修会の模様が「社外秘」の編集局報「えんぴつ」に掲載され外部に漏洩、朝日に編集方針公表の要求がくる
80.9. 放射能廃棄物の相模湾投棄による汚染報道でも朝日は、科技庁の見解をそのまま無批判に掲載、紙面モニターだった科学評論家から「読売の巨人びいきの偏りと同様、朝日には科技庁辺りへの肩入れがあるみたい」との批判
2-73    必要条件か、努力目標か
「イエス・バット」は、手放しの容認でないところを示すことに意味があったが曖昧、朝日の立場はあくまで「努力目標」 ⇒ 先に「イエス」ありきで、原発報道が緊張感を欠く要因に ⇒ 批判と反対は違う。原発を監視し、問題のある事実を報道するのはジャーナリズムの責務、その責務をどこまで果たしてきたのかが問われる
2-74    実態暴いたルポライター
79.10. アサヒグラフが水木しげるのイラストで「原発の闇」と題するルポを掲載
81.3. 原発被爆訴訟の大阪地裁判決 ⇒ 疑わしいが証拠不十分と結論 ⇒ 判決直後から敦賀原発での事故隠しの実態が明らかになったが、最高裁まで結論は変わらず、原発が情報を独占し秘匿する構造は今日まで変わらずに来た
2-75    元日の1面をねらえ
ビキニ事件の被災船は、延べ約1000隻以上だが、第五福竜丸以外の被害の報道はない中、79年朝日西部本社が貨物船「弥彦丸」の取材に着手、乗組員全員の追跡調査を実施、8人が病死(うち4人が癌)、生存者38人中25人が何らかの体調不良を訴えていた(うち18人に入院歴あり)。その結果を元日の1面に載せようとしたが、本社が科技庁に照会したところ、因果関係が特定できないとの回答
2-76    「部長が、つかまりません」
科技庁の回答により、朝日の東京・大阪・名古屋は掲載を見送ったが、西部本社だけは差し替えが間に合わずに掲載
追跡調査をしなかったこと自体が問題で、科技庁こそ実施すべき立場だった
2-77    いわき支局の決断
79.3.スリーマイルの原発事故で関心が高まったこともあって、いわき支局が地元福島第一原発とその周辺を取材して福島版にルポを連載しようと動き出す
2-78    春の日差しの中で
79.5. 福島版で連載「原発の現場」開始 ⇒ 原発とその周辺で何が起きているか、広く地域社会全体を取材して事実をありのままに書くのが方針。電源三法交付金で潤う地域社会の変化にも目を向ける。「将来必ず原発問題と直面する子供たちが、今は屈託なく素直で明るい」と結ぶ

3部 「対立のはざまで」
3-79    科学部の新しい血
スリーマイル事故の事後報道で、炉心溶融があったとする担当者と科学部長の間で論争、朝日としては大事故とはみなさなかったが、炉心溶融は85年に確認
柴田鉄治が新しい科学部長に就任、原発についての見解を「先を急いで安全性を軽視することは許されない」と公表
80年代以降、原発事故が相次ぐ中で、推進、反対両派の対立が解けぬまま、メディアは事故報道に追われるばかり。何が欠けていたのか
3-80    科学部長の抗体
柴田は理学部出身、労組委員長も務め、社内での言論を自由に戦わせることの大切さを信じ、社内で議論を活発に起こす
3-81    暁の記者会見
81.4.18.午前5時 通産省が敦賀原発の放射能漏れ事故の記者会見。そのほかの事故の隠蔽も発覚、朝日の連日の報道が、原発側からは敵に回ったと見做される
柴田の方針は、是々非々
3-82    チェルノブイリの衝撃
86.4. 北欧の広い範囲で平常の6倍に上る放射能検出、ソ連の放射能関連施設での放射能漏れが疑われるとの報道 ⇒ 8月にロシア語の報告書公開。当初作業員のミスとされた事故原因は91年にソ連原子力安全監視委員会が制御棒の設計の欠陥が主因と結論付ける
日本では考えられない事故とされ、朝日も「日本の原発も安心できない」という研究者の論文は載せたものの、日本でも深刻な事故が起こり得るという視点で記者が掘り下げた記事には欠けていた
3-83    盛り上がる反原発運動
チェルノブイリの影響が世界各地で現れ、日本でも15都県で雨水から異常値検出
科技庁は「直ちに健康に影響を与えるものではない」と発表したが、原発事故の影響の予想外の大きさと早さに驚く
世論調査でも、原発推進に対し初めて反対が賛成を上回る
3-84    史上最悪事故の社説
86.5.1. チェルノブイリ事故後初の朝日の社説(大熊が執筆) ⇒ イエス・バットの社論に沿ったもの。86.8.世論調査で賛否が逆転した後でもなお「安全性を高めることによってのみ不安は解消される」と論じている。新たな錬金術が生まれたとも
88.4. 朝日の原発推進の論調に変化 ⇒ 立ち止まって原発を考えよう
3-85    テレビで是か非か激論
「原子力推進はマスコミの義務」として、テレビの世界でも原発の是非を正面から問う番組は敬遠されてきた
88.7. 「朝まで生テレビ!」で賛否両派20数名による討論が実現 ⇒ 賛成派にとってもアピールの場としては魅力 ⇒ 視聴率は通常より低かったが第2弾が実現
3-86    国内初のECCS(緊急炉心冷却システム)作動
91.2.美浜2号機が自動停止 ⇒ 初のECCS作動。朝日は周辺の関係者の動きを追う。福井県では70年に営業運転開始以来、「絶対安全」の触れ込みとは違いトラブルが続き、対応のため原子力専攻の職員を採用、自治体の中では最も原発に詳しかった
3-87    あらわになった情報隠し
95.12. 「もんじゅ」事故 ⇒ 高速増殖炉、国産技術で作られ、核燃料サイクルの根幹をなす原発。2次冷却系で液体ナトリウムが漏出したが、事故を軽視した動燃の対応がまずく、世論の指弾に応えるための社内調査を担当した総務部次長が自殺
福井・新潟・福島の県知事が、原子力政策見直しを求める提言書を橋本首相に提出
3-88    存亡の危機迎えた動燃
動燃の隠蔽に各紙は社説で糾弾。朝日も核燃料サイクルについて推進から見直しと転じていた社論を凍結に切り替え
97.3. 東海村の動燃で使用済み核燃料の再処理工場で廃液処理施設が爆発、国内では前例のないレベル3の事故 ⇒ 動燃は解体的出直しで新たに核燃料サイクル開発機構と改組
3-89    被曝による犠牲者
99.9. 東海村の民間ウラン加工施設JCOで国内初の「臨界」事故(国内最悪のレベル4)、後に作業員2名死亡 ⇒ 朝日は社説で「『原発20基増設』を虚構として旗を降ろすべき」と主張
東海村村山村長(元常陽銀行ひたちなか支店長)は、メディアより根深い危機感を抱き続け、東北大震災の後の11.10.村内にある東海第2原発の廃炉を提案
3-90    臨界事故が発した警告
事故後に原子力安全委員会の事故調査委員会が最終報告書 ⇒ 『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならないという一文が注目
95年のもんじゅ事故以降、データの隠蔽とか捏造などの不正の質がかなり変わってきて、そのトドメを指すものが東海村の臨界事故
臨界事故の社会的影響の研究 ⇒ 原子力に「関心がある」=「不安を持つ」
3-91    省庁再編の死角
原子力の本格的な規制機関が期待されたにもかかわらず、011月の省庁再編で実現した形は経産省の傘下に、原発を推進する資源エネルギー庁と、規制する原子力安全・保安院が収まった ⇒ 原子力行政の担い手に対する関心は低調で、09年民主党が政策集で独立性の高い原子力安全規制委員会の創設を謳ったこともあって、政権交代を分離の絶好の機会ととらえる声も上がったものの、マスコミから省庁再編の監視が不十分だったことを原発報道の反省点に上げたのは、福島の事故後
3-92    東電のトラブル隠し
02.8.30.朝刊各紙が東電による原発の自主点検データ29件の改竄を報道 ⇒ 福島・刈羽での欠陥の内部告発が契機で、東電の会長以下トップは引責辞任
不祥事は報道されたが、長期的視点に立って掘り下げた記事も長持ちする論説もなかった
原発の安全を過度に強調してきた電力会社の企業体質は変わらず、スリーマイルヤチェルノブイリが外側から原発の信頼に傷がついたとしたら、東電の場合は内側から崩れた
3-93    地震学者の執筆打ち切り
03.2. 静岡新聞で95年から続いた「論壇」の執筆者の一人だった地震予知連絡会会長を務めた茂木氏が降りた ⇒ 原発の耐震性に疑問を投げかける論考を数回掲載し、最終回は「原発立地と地震想定」と題し、浜岡原発稼働継続を異常と指摘 ⇒ 新聞社より「原発のことは勘弁して欲しい」と言われ降板、中電の圧力を感じる
3-94    記者OBからの報道批判
「原子力報道を考える会」(97年発足、原発に関わってきた科学記者OBと学識経験者で組成) ⇒ 原発報道の正確性、公平性に対する問題提起が目的。原子力を袋叩きすることで、人々の気持ちが原子力から離れていっていいのかと問いかけ
3-95    「事故待ち」だった報道
「考える会」の発言をメディア側は、推進派に寄り過ぎと反発する一方で、メディア内部で原発報道を検証する動きが乏しかったのも否定できない
新聞・テレビとも常に「事故・トラブル待ち」で、平時に独自の視点で問題を掘り起こしたり、公表に頼らず独自取材を深める報道は少なかった
3-96    元通信社記者の問いかけ
共同通信の記者が原発報道に疑問を抱き、退職して反対運動に身を投じ、原発を巡る新聞の社説をテーマに研究 ⇒ 朝日は主張を変えたときに過去への反省がないと批判するとともに大量のデータが主張の異なる一方に独占されると、報道も「現状追認」や「権威的」になる可能性があると指摘
3-97    ブレーキかけながら追認
終戦以降の朝日の社説を分析研究の結論 ⇒ 原発推進のためのハードルは上げたが容認は不変 ⇒ 東海村の事故で死者が出た99年こそ社論の転換点だったと
3-98    イエス・バットの寿命
イエスの度合いを下げていくのはチェルノブイリ以降
「イエス・バット」は公表されていないが、その都度軌道修正してきたものの、社内外でその変容を意識していた人は一握りだけ
3-99    対話への模索
96.4. 原子力委員会が、反原発派も参加した円卓会議設置したが、影響なし
02.9. 女川町で賛否両派による「対話フォーラム」開始
3-100  二分法の構図
「専門家の推進派」vs「非科学的で感情的・思想的な反原発派」という古い構図が、原子力ムラを存続させ続ける力になった
日本で過酷な事故は起きないという専門家の信念とメディアは共存していた
3-101  原子力村をめぐって
朝日に「原子力村」という言葉が登場したのは98年 ⇒ 反原発運動の旗頭だった高木の発言。政産官学からなる利益共同体で、組織目的に無批判に同調する。円卓会議でも名前を公表する学識経験者は少ない
3-102  原子力村の手法
エネ庁が原発報道を監視し、取材に圧力をかけたり、都合の悪い記事には反論したり、内部告発の本を出版しようとすると一括買い上げを持ちかけたりしてきた
3-103  核燃料サイクル(使用済み核燃料を再処理、プルトニウムを再度使用)の是非
「消費した以上の燃料を生み出す」として「夢の原子炉」と呼ばれた高速増殖炉は、原型炉もんじゅの事故で行き詰まっているなか、核燃料サイクルのコストは直接地中埋蔵に比べて2倍もコストがかかるという旧通産の試算も公表せず ⇒ 原子力委員会は再評価の結果、経済性では劣るがエネルギー供給の安定性等を勘案し核燃料サイクル維持を決定 ⇒ 11.9.委員会は「原子力政策大綱」見直しを再開
3-104  警鐘鳴らした学者の辞任
04.8. 美浜原発で蒸気漏れ事故、放射能漏れはなかったが作業員5人死亡
05.8. 宮城県沖地震で女川原発が想定を超す揺れを経験 ⇒ 耐震指針の見直しを開始したが、地震と原発災害が複合発生する「原発震災」を警告して浜岡原発の廃炉を主張した学者が委員を辞任
07.7. 新潟中越沖地震では柏崎刈羽原発が震度6強に見舞われ、ますます危険性が高まる ⇒ 原発建設の過去40年は地震活動の静穏期、今後は活発に
3-105  苦い教訓は生きたのか
07.7.の地震で、新潟日報は原発立地の経緯を追及、売却益4億円が田中元首相邸へ運ばれたこととともに、東電が03年に再評価して活断層の可能性を認定していたことを発表させ、東電は防災拠点の免震重要棟を各原発に建設したが、この教訓はメディア全体では共有されず、国も東電も変わろうとはしなかった
3-106  過熱報道だったのか
読売が社説で、他社報道を諌めるかのような「メディアによる過熱報道批判」を掲載
それに対しメディア内部からは、原子力業界との距離感をどう考えているのかという批判もあった
翌年新潟日報の45回連載の検証記事「揺らぐ安全神話」が新聞協会賞を受賞、耐震安全性は基本的に確保されたという専門家もいるがそれだけで済ませていい問題かというのが取材班の直感だったと書いたものの、2年半後の未曽有の危機を予期したメディアはなかった

4部 安全神話の崩壊
4-107    巨大津波の警告を報じず
産業技術総合研究所に活断層・地震研究センター長の岡村は、09.6.の部会で東電に、貞観地震の巨大津波で城が壊れたと語る ⇒ 地層調査で、津波は450800年に1回、最後は1500年頃に発生したことが分かっていた
東電は、継続検討を約し、保安院は津波の評価が取り上げられる見通しと述べたが、岡村の警告についての判断は先送りされ、大震災後まで報告は公表されなかった
会議を傍聴していた朝日の記者も、貞観地震は今後の課題と捉え、報道は震災後になってからで、事前の警告報道の力不足だったと悔やむ
4-108    見過ごされた国会論戦
2010.5. 京大原子核工学卒の共産党吉井議員は、全電源喪失の怖れとその際の炉心溶融の可能性を指摘、保安院トップも認めたが、報道した一般紙はなかった
メディアも、「想定外」を見通す想像力が欠かせないとしつつ、一般論では記事に取り上げにくいことを認める ⇒ 人工衛星が地球に落ちるのは、確率が低くても期限がはっきりしているのでニュースになる
4-109    「炉心溶融」の判断
11.3.12. 炉心溶融の可能性を示唆した保安院の広報担当が更迭、保安院は「核燃料棒の損傷」と表現を変える ⇒ 高濃度汚染水に核燃料が溶けない限り出てこないヨウ素131やセシウム137が確認され、専門家の中には「炉心溶融」を確信する声があり、朝日は3.29.「汚水流出、どこまで」と題する記事の冒頭に「燃料溶融、地震翌日から?」と記載。東電が溶融について認め公式に表明したのは515
4-110    会見を記録した弁護士
元産経記者で弁護士に転じ報道被害問題に取り組んだ日隅(ひずみ)は東電・政府の合同会見に通い続け、東電の「冠水は出来ないが数値は落ち着いている」とか原子力委の「年100mmシーベルトまでは影響ない」との虚偽答弁を暴き、「健康への影響がないというのは正しくない」との訂正を引き出したが、メディアは報道しなかった
4-111    放射能汚染の苦悩
諏訪中央病院の名誉院長・鎌田實は、91年以来チェルノブイリ事故の患者の治療を続け、福島でも低線量被曝の悩みを伝え、マスコミが原発にメスを入れないことに疑念を持つ
TBS報道局の下村が菅政権の広報担当内閣審議官となり、放射能情報を分かりやすく発信するためにホームページの刷新に努める
4-112    原子力推進団体との距離
1956年 日本原子力産業会議発足 ⇒ 平和利用推進のための課題解決に向けて主体的に行動する目的で、電力、機器メーカー、青森県など271社が参加。06年「日本原子力産業協会」と改称
当初大手紙も参加していたが、現在は加盟への批判もあって退会、地方紙等7社が加盟 ⇒ 経費削減が主たる理由で、報道の中立性の毀損を懸念する声はなかった
4-113    社説の転換
11.7.朝日が社説を転換 ⇒ 原発ゼロ社会を将来目標とするよう提言
福島の事故を受けて、各紙とも自己批判を含め原発容認からの転換へと舵を切る
4-114    無関心の果て
福島原発事故の真の原因は、「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」
事故後著名な学者が、警告を聞きつつ見過ごした無念さを告白
4-115    「立ち位置」の差
事故直前に出た東大生の福島原発の真実を追った修士論文が、原発事故発生で脚光を浴び、単行本として出版、毎日出版文化賞受賞
民間事故調で菅首相の細かい対応が批判の的となり、各紙もこぞって「菅氏の『人災』明らか」と採り上げたが、事故調の同席者によれば、東電・保安院等関係者が固まって動かなかった結果首相が対応せざるを得なくなったことが問題とされたのであり、メディアの報じ方に先入観があったのではないか、立ち位置は影響しなかったのか
4-116    推進派の懺悔
11.9. 原子力安全・保安院の元官僚が雑誌に、経産省の立場から振り返った懺悔ともいうべき論考を掲載、従来の問題点を列挙した ⇒ 技術より政治という慢心
11.4. 推進側内の慎重派学者が連名で事故への対処態勢構築を求める緊急建言
一般紙の建言の扱いは地味、元官僚の論考を載せた雑誌も同年内には休刊
4-117    リアルタイムで伝えず
スリーマイルの報道でも、矛盾する情報に立ち往生した
福島事故報道でのメディアの反省 ⇒ 事態に追い立てられ、検証が疎かに
最悪シナリオがリアルタイムで報道されず、メディアの実力が有事にそのまま出た
4-118    失敗だった原子力報道
朝日の元役員・記者の現在の考え ⇒ 「イエス・バット」論を主導した岸田は今でも同じだと思い、柴田は原子力報道の歴史を失敗と認め、原発の是非を国民投票で問うべしと語る。編集委員の竹内は、変える意思のない国策を前に報道にも限界があったと認めるが、福島の事故が原子力頼みのエネルギー政策も、それに寄り添ってきたメディアの姿勢もひっくり返したという
4-119    元役員たちの悔恨
元社長中江は、原発について社内で積極的に意見を表明したことはなかった
広島支局で原爆報道をライフワークにしてきた内海元専務は、核廃絶の訴えは重ねたが、平和利用の危険性についての根底からの想像力が欠如と悔やむ
4-120    歴史に耐える報道を
02年原研の研究報告の中に、「最大の危険は、地震による全電源喪失でもたらされる」との指摘を見つけたが、記事にはしなかったことが悔やまれる ⇒ 戦時下で軍部に都合の悪い記事は諦めるという自己規制の空気が蔓延していたのと似ている
朝日は113月下旬から週1回原発デスク会を開催 ⇒ 節目となるニュースや企画について議論を戦わせ、歴史に耐えうる原発報道にしていこうとする気概と認識が生まれてきた。暗然たる現実を前に、丹念に事実を掘り起こすしかないと期している

5部 司法
5-121   原発裁判と社説
03.1. 「もんじゅ」設置許可無効確認訴訟の名古屋高裁金沢支部判決で設置許可が無効とされ初めて原告が勝訴を契機に、もんじゅ稼働を柱にした核燃料サイクル政策の見直しを社説に謳う ⇒ 「廃炉を含め、見直しを」の見出し
原発という「国策」に影響するような力は司法にはないと侮っていなかったか
原発に反対し、危険性を訴えてきた住民が、行政や電力業者に情報公開を求め、公に議論できた唯一の場が裁判だった ⇒ 四国伊方原発訴訟が嚆矢
5-122    深まらなかった議論
「廃炉」までは影響が大きいとして社論を転換するまでの議論はなかった ⇒ 福島の事故を受けて、一過性に終わった過去を反省し、「原発ゼロ社会」を将来の目標とするよう提言
高裁の判決では、国の安全審査の重大な誤りが招く炉心崩壊へのシナリオを克明に描いていた ⇒ 住民による原発裁判は40年前に四国で始まっていた
5-123    予定地住民の怒り
68年 四国電力による原発建設計画 ⇒ 原発であることを隠して土地買収先行
69.7. 地元紙がスクープし表面化 ⇒ 90%近くが契約済みだったが、破棄が相次ぎ、元町長を中心に「反対共闘委員会」発足。町を二分する争いに発展
73.8. 国や電力会社を議論の場に引っ張り出す唯一の手段として松山地裁に提訴
5-124    法廷の熱気
朝日愛媛版も、「政府任せだった原子力行政の在り方を初めて公開論争の場に出させた意味は大きい」と採りあげ、法廷の熱気を伝えようとした
5-125    地元との温度差
住民側が安全審査の杜撰な様子を質していく法廷のやり取りからは、科学的にも論理的にも原発の安全性に疑問がもたれる内容だったが、国側は「エネルギー政策に関わるもので司法審査には馴染まない」と主張、朝日本社(大熊:当時本社科学部記者)も「訴訟が図らずも原子力推進体制を充実させるという副産物を生み出した」と書き、現地発の報道とのずれが感じられた
5-126    判決の意義
78.4.25. 松山地裁判決は住民敗訴 ⇒ 住民の提訴の資格は認めたが、安全審査には問題ないと結論付けた ⇒ 翌日の朝日社説は疑念が残ると言及したが、「判決の意義」という記者座談会の記事は、判決で明快に「安全性」を認知され「宣伝効果」があったとの論調が異彩を放つ
5-127    司法の「限界」
控訴直後の79.3.にスリーマイル事故発生するも、国側は設計・構造の違いから事故は起きないと断言し、83.3.証拠認否も終わらないまま裁判長が結審を宣言 ⇒ 84.12.の判決で住民敗訴
判決では、裁判所は専門技術的な問題を判断する立場になく、司法審査にはおのずと限界ありと明言 ⇒ 新聞も「限界説」に理解を示し、住民訴訟による解決には消極的姿勢を見せた
5-128    原発裁判の枠組み
92.10.29. 最高裁判決 ⇒ 事前に期日が伝えられなかったため原告不在のまま敗訴。チェルノブイリや美浜原発の事故もあったが事故への言及はなし
同日、福島第2原発を巡る最高裁訴訟でも住民側敗訴
司法の限界を認めた上で、行政の判断に不合理な点がなければ、その判断を受け入れる姿勢を維持 ⇒ 現在でもこの考え方の「枠組み」が司法判断の基本
新聞各紙は、行政判断尊重の立場に寄り過ぎているとの批判
5-129    核防護の壁
85年 高速増殖炉「もんじゅ」訴訟 ⇒ 建設の差し止めと設置許可無効を訴求
国内初の「原型炉」、プルトニウム管理=核防護を理由に情報は一切公開されず、訴訟の場でどこまで引き出さるかが訴追の目的
92.7.もんじゅへの初のプルトニウム燃料搬入 ⇒ 非公開にもかかわらず、原発に反対する団体の監視で、東海村からの搬送の様子が大きく報じられた
5-130    訴える資格
87.12. 福井地裁判決 ⇒ 許可無効の行政訴訟は原告適格無し(影響が小さいため)として却下 ⇒ 89.7. 名古屋高裁では、20km以内の住民の適格性を認定(時間的に避難の可能性があるかどうかが基準) ⇒ 92.9. 最高裁判決では、原告全員に適格を認め(「重大な被害」を受ける住民の安全は法律上保護すべき)、許可の有効性判断のため原審に差し戻し ⇒ 提訴から7年経って漸くスタート地点に着く
5-131    最高裁の「見解」
92.10.朝日に「最高裁行政局が安全見解」の記事掲載 ⇒ 最高裁が原告適格を認める上での障碍として、「法廷での口頭弁論を大衆運動の舞台にしてはならない」との見解があり、それに基づいて事故による直接被害の及ぶ範囲を限定しようとしていた
5-132    周知の事実
朝日は、最高裁行政局の消極的見解が「裁判官の独立」に反するのではないかと指摘
行政訴訟で原告適格を狭く捉える姿勢は、「行政追随」と批判される司法のあり方の象徴で司法界では「周知の事実」 ⇒ 04年司法制度改革で原告適格を拡大する法改正
5-133    想定外の事故
設置許可無効を巡る差戻審は、国と動燃の情報開示拒否のため進展しないまま、94.4.もんじゅが臨界を迎える
95.12. もんじゅのナトリウム漏れ事故 ⇒ 安全審査で想定していなかった事故で、審査の「誤り」の可能性が出てきた
5-134    トップの証人尋問
98年夏 証人尋問の最後に原子力安全委員長出廷 ⇒ 安全審査の際、原子炉からナトリウムが漏れても、鉄板が敷いてあればその下のコンクリートまでは及ばないので、コンクリートの水分と反応して爆発する恐れはないとしていたが、事故の検証で漏出したナトリウムが燃えて鉄板を溶かすことが判明、証言でもその可能性があることを認めた ⇒ 安全性の審査の信頼性を疑わせる事態だと報道
5-135    役割の軽さ
00.3. 差戻審判決 ⇒ 原発の安全性を問う係争中に重大事故が起こったことを裁判所がどう受け止めるかが注目されたが、判決は国の判断に不合理な点はないとして原告敗訴。事故を起こした構造部分が、国の安全審査の対象となる「基本設」計に含まれていないという理由は、あまりに世間の常識と乖離しており、行政の追認に終わった判決は、原発政策における司法の役割の「軽さ」を浮き彫りにした
5-136    初めての勝訴
03.1.27. 名古屋高裁金沢支部判決 ⇒ 設置許可無効を確認。再現実験の結果を重視するとともに、審査を事業者任せにしたことを捉え、安全審査に対する国の姿勢を厳しく批判 ⇒ 高裁が「進行協議」という当事者間だけの議論の場を活用したため、メディアは具体的なやり取りをフォローできず
5-137    判断の回避
05.5.30. 最高裁判決 ⇒ 再現実験の結果だけで行政の判断が違法とまでは言えないとして2審判決を破棄、国の安全審査に不合理な点はないとして、原発そのものの適否に立ち返った独自の判断を示すことを避けた ⇒ その後の原発訴訟にとって大きな壁 ⇒ 今回の事故で司法のありようにも疑義が呈されている
朝日は、高裁判決を踏まえ、原子力政策と司法との関係に新たな局面をもたらすとし、最高裁判決でも司法がチェックするルールを示すと期待したが言及はなかった
5-138    現れた活断層
95年の阪神大震災後の住民訴訟からは「耐震性」に焦点 ⇒ 特に「活断層」の研究が進み、愛媛伊方原発でも沖合の海底活断層が活動期に来ていることが判明
2000年伊方2号機の判決 ⇒ 住民敗訴。活断層についての判断は間違っていたが、耐震性に問題なしとしたが、研究成果が司法判断に影響を与えたことは評価
5-139    「追認」への警告
06.3. 北陸電力志賀原発2号機訴訟 ⇒ 初の原発運転差し止め判決。政府の地震調査委員会が大地震発生を予測、住民が放射線被害の具体的な可能性を立証したにもかかわらず電力側が反証しなかったため、地震による事故の危険性ありと結論
訴訟の動きに対するメディアの動き鈍く、裁判の法(のり)を超えているとの批判も
当時の金沢地裁井戸裁判長は、現在弁護士で原発訴訟の弁護団にも加わるが、「行政が混乱しないようにと『追認』していては司法の意味はない」と断言、メディアの姿勢にしても「問題意識も持っているとは感じられず、政府の原子力政策に乗っかっているだけで役割を果たしていない」と批判
5-140    割り切られた危険性
07.2. 中部電力浜岡1,2号機運転差し止め訴訟(静岡地裁)では耐震性が最大の争点 ⇒ 斑目(現原子力安全委員長)が中部電力側の証人として、「複数のトラブルが同時に起こらないと考えるのは1つの割り切り」だと証言
9月には中越沖地震発生、柏崎刈羽原発から黒煙が上がる ⇒ 想定の2.5倍の揺れであり、耐震指針に疑義
5-141    敗訴、そして震災
07.10. 浜岡原発訴訟判決 ⇒ 「具体的な危険とは言えない」として敗訴
06年改訂された耐震指針は適用されていなかったが、旧指針であっても審査基準を充足しているし、老朽化や人為ミスにも安全確保の努力をしていると評価
静岡朝日テレビは、原発による風評被害や国の地震想定、原発立地への交付金配布等の諸問題を採り上げたが、全国版に採り上げられることはなかった
志賀原発訴訟も09.3.高裁判決は「安全が確認された」として逆転敗訴、最高裁でも確定 ⇒ 原発史上、住民勝訴の確定がないまま福島の事故が起きた
5-142    潮目は変わるか
震災で裁判所の判断は変わるか ⇒ 浜岡訴訟の東京高裁では、「電力側が安全性を立証できなければやめるのは当たり前」と発言
被告が負うべき立証責任を、実際には住民に負わせてきた姿勢を変えられるか
メディアも変われるか ⇒ 原発訴訟についても取り上げることは少なく重視してこなかったが、法廷の変化を見届けることも報道の大きな責任の1

6部 青森・下北半島
6-143   現場に引き戻されて
青森に原子力行政の矛盾が凝縮 ⇒ 六ヶ所村には廃棄物を集めながら稼働していないし、原子力船『むつ』の寄港等に加え、原子力施設が集中
6-144   核施設の冬景色 ⇒ 下北半島の原子力施設(北から順に記載)
   大間原発 ⇒ 建設中断中
   むつ科学技術館 ⇒ 96年原子力船『むつ』の廃船に伴い、母港があったむつ市に開館、原子炉展示中 ⇒ 廃止の可能性
   使用済み核燃料中間貯蔵施設 ⇒ むつ市に建設中
   東通原発 ⇒ 東北電力1(停止注)2(計画)、東電1(建設中断中)2(計画)
   核燃料サイクル施設 ⇒ 六ヶ所村の再処理工場(試験中)、ウラン濃縮工場、MOX燃料加工施設(建設中断中)、低レベル放射性廃棄物埋設施設、高レベル放射性廃棄物一時貯蔵施設
朝日は、「『脱原発』の声が上がらない下北」と、「原発との共生」が進み反対が盛り上がらない現状を報じたが、ここに至るまでメディアはどう報じてきたのか
6-145   「原子力センター」構想
69.5. 新全国総合開発計画が閣議決定され、「むつ小川原開発」が立ち上がる ⇒ 70.1.青森県知事も日本一の原発基地造りの受け入れを表明、経団連と一緒に「公社」を設立したが、当初から「核燃サイクルを備えた原子力センター」として構想されていたことをメディアは伝えていなかった
6-146   地元紙の大型連載
2000年 東奥日報が「むつ小川原」の検証記事を連載 ⇒ 70年の連載では開発を賛美する論調
6-147   原子力船がやってきた
開発計画に続いて、原子力船が横浜に代わって母港となったむつ市に向かう途中で青森に姿を現し、歓迎ムードが伝えられた
地元の受け入れ表明の前に国から押し付けられるというボタンのかけ違いが起きる
6-148   火を恐れる野獣なのか
原子力問題の出発点こそ、67年の原子力船問題で、9月に政府がむつ市に母港を決定、11月には市と県が受諾、すべて上から下へ、しかも拙速で
地元の反対運動に対し、原子力船開発事業団の西堀栄三郎(1次南極越冬隊長)が東奥日報に書いた反論 ⇒ 今日原子力の平和利用を恐れるのは、文明から置き去りにされた原子アレルギー患者で、時代遅れも甚だしい、火を恐れる野獣の如し
6-149   首相の「おみやげ」
むつ市大湊港が母港に決まった経緯 ⇒ 佐藤栄作首相が、青森出身の時事通信長谷川社長に『キミの故郷にいいおみやげがあるよ』と言った
67年母港に着いた「むつ」は、原子炉を積み込み出力上昇試験に出るのを待ったが、放射能による海水汚染を心配する漁民の反対で74年まで釘付けに
並行してむつ小川原問題を巡る騒動が惹起
6-150   石を投げつけられた知事
71.10. むつ小川原開発の住民対策説明に六ケ所村を訪れた青森県知事が、反対派の怒声と投石にあって逃げ帰った ⇒ 村では反対が76.6%、村を挙げて反対
6-151   競い合う地元紙
71.5. 地元紙デーリー東北の連載が大きな反響を呼ぶ ⇒ 「あすを呼ぶ『むつ小川原』巨大開発いよいよスタート」とあり、開発礼賛と取られ兼ねないタイトルだが、開発の利益を考えると疑問点も多いとし、疑問点に焦点を当てる
6-152   農民・漁民の中へ
朝日も取材競争に参加するが、六ヶ所村では読者がいないばかりか、大新聞=金持ち新聞=開発賛成派と見られ取材は難航
漁民の反対理由 ⇒ ホタテ養殖が軌道に乗り出稼ぎに行かなくて済むようになり、豊かになった漁民の海洋汚染への警戒感が滲む
6-153   屈辱の特ダネ
73.11. 朝日が青森市長汚職の特ダネを掲載したが、同時期に行われた六ヶ所村村長選挙で開発に反対する現職を落とすために革新陣営の力を分散させようとした囮事件だったことが後に判明 ⇒ 反対派の村長は僅差で敗れ、以後開発推進派が続く ⇒ 特ダネ競争が政治に利用されてはいけないとの教訓となった
6-154   深まる国と地元の溝
74年は日本の原子力行政にとって転機の年 ⇒ 電源3法が成立し、原発立地の自治体に交付金を拠出し建設を進める
国の絶対安全を盾にした強硬姿勢に、青森県知事が「むつ」の母港返上を示唆 ⇒ 直後に「むつ」は強行出港、臨界実験に成功した後放射線漏れの事故を起こす
6-155   東京の記者をつるしあげ
「むつ」が放射線漏れ事故を起こして50日間漂流 ⇒ 現地からは反対の立場に立った記事が多く出されたが、東京の科学部は殊更小さく扱おうとして対立
6-156   「むつ」の放射能漏れ?
乗船記者が、「放射漏れ」と書いたにもかかわらず讀賣が「放射漏れ」との見出しで、騒ぎが大きくなった ⇒ 出力2%での事故により試験を中断、あのまま続けていたらどうなっていたことか
6-157   現場にいたからこそ
乗船記者は乗船時から「隠蔽体質」を感じた ⇒ 3人の記者団だったが、同乗していなかったら事故は隠蔽されたかもしれない。隠そうとする事実を暴くには記者が現場に迫るしかない。3人の得た教訓はその後生かされただろうか
6-158   長官の涙と船長の苦渋
専門家に安全と説明されて強引に出向を指示した科技庁の森山長官は、裏切られた思いで涙し、指示の実行に悩んだ船長は「むつ」を漂流物とするのが最善の策だと国の施策を批判
自民党総務会の鈴木善幸会長が新母港を決めるとの収拾策を決めたため、50日ぶりで母港へ帰還
6-159   社説は何を書いたか
74.9.讀賣の社説は、原子力行政の無責任体制を批判。地元紙も強硬姿勢に傾く
74.10.朝日も社説で、推進と規制の矛盾する2つの機能を原子力委員会あるいは科技庁(委員長と長官は兼務)という1つの組織で受け持つことに問題があると指摘
6-160   誘致の裏に要請あり
母港撤去を約束した期限の77.4.になっても動きはなく、78.10.になって漸く修理のため佐世保に向かう
朝日は77.3.から「むつ」をテーマにした連載を掲載、取材中に新事実が次々と現れる ⇒ 母港決定に際し、青森県からの誘致の声が出るよう国が要請していた
6-161   大湊再び母港に?
「むつ」の「打ち出の小づち」 ⇒ 佐世保の岸壁使用料で揉めたが、原子力船開発事業団が割高な使用料を払う ⇒ その場凌ぎでどこからか金が出てくる体質
鈴木善幸が首相になって、行き処のない「むつ」の大湊再母港化に協力を求める
6-162   "大芝居で新母港へ
80.8.大湊の再母港化しかないという状況に対し、漁連は協定違反として猛反対
科技庁の原子力局長に呼ばれた県副知事が反対のダメ押し案として現実にはありえない同じむつ市内の外洋に新しい定係港建設案を提示したのが現実になっていく
6-163   流れ変えた特ダネ
81.1. 讀賣が特ダネ ⇒ 新母港に関根浜(外洋)浮上 ⇒ 事態はその方向に向かって動き出し、メディアが実質的に新母港選定の役割を果たす
大湊再母港化案がつぶれたのも讀賣が特ダネで「極秘で廃液貯蔵」や「廃液の陸奥湾廃棄」を報じたから ⇒ 担当の讀賣青森支局員が清武英利(11年ナベ恒に反旗)
6-164    「海盗り」の記録
関根浜のドキュメンタリー映画 ⇒ 土本監督作『海盗り――下北半島・浜関根』
土本は前作でも原発事故を取り上げ、今回も地元漁民の要請で乗り出す
県水産部が許認可権を盾に漁民に漁業権放棄を迫る実態を炙り出す
6-165    「むつ」廃船論から廃船へ
科技庁や自民党内にも廃船論が出て、朝日も社説で同調したが、讀賣はとるものを取ってから廃船と主張、現実は讀賣の方向へ動き、90年の実験終了を予定
88年新母港完成(総工費1000) ⇒ 廃棄物の搬入港になるのではとの地元の懸念が現実化するが、その前に六ケ所村に核燃料サイクル基地がやって来る
6-166    「核燃料サイクル基地」浮上
84.1.1. 日経のスクープ ⇒ 核燃料サイクル基地をむつ小川原に建設(総工費約1兆円) ⇒ 東通村原発、大間に続き下北半島を原子力半島化するもの
原子力産業会議の新年会で科技庁長官が計画を認め、電事連も青森に協力を要請
ただ、この時点では7月に国家石油備蓄基地が出来ただけ
6-167    なぜ六ケ所村だったのか
六ヶ所村で工業団地開発を進めていた第三セクター「むつ小川原開発会社」のプロジェクトが石油基地だけで挫折、破綻寸前だったものを核燃料サイクル3点セット(ウラン濃縮工場、低レベル廃棄物貯蔵施設、再処理工場)の誘致で救済しようとした
6-168    世論調査をしてみたら
地元紙による取材合戦の中で世論調査を実施 ⇒ 賛成・反対・その他各1/3
調査結果を尻目に、県や村は受け入れを急ぐ
6-169    無視された欧州の警告
青森県議団が欧州の核燃料サイクル施設を視察 ⇒ 受け入れが前提の視察で、反原発の動きは対象外。ドイツでの「経済性より安全性が重点。批判は安全性をどんどん高める」との発言や、フランス施設での火災事故の際の停電で安全装置が働かなかった等の事実は無視。六ヶ所村村長も帰国後「安全は確認できた」と発言
6-170    似ていた全国紙社説
84.4. 電事連が県に立地協力を求めたことに呼応して、全国紙はいずれも自主的核燃料サイクルの確立支援の社説を掲載。地元紙は安全性優先を強調
6-171    全面広告の攻防
85.4. 地元紙に、賛否両派から全面広告が載る ⇒ 85.4.9.受け入れが決定
6-172    知事の「哀れな道」発言
49日は「反核燃の日」 ⇒ 青森県知事が受け入れを決めた日を今も忘れない
864月のチェルノブイリ事故で知事は強気に出る ⇒ 「農家のための開発を拒否すれば救われない。頑なに先祖伝来の土地だけを守る哀れな道を辿るだろう」と発言、農民の怒りに火をつける
6-173    吹き荒れる反核燃の嵐
チェルノブイリを契機に89年頃頂点に達する「反原発ニューウェーブ」が日本列島を襲う ⇒ 六ヶ所村の核燃施設の事業許可申請が出された時期にあたり、そこへ知事の舌禍事件発生、県内が反核燃に染まり、直後の参院選で反核を掲げた革新系が史上初の当選、六ヶ所村長選でも核燃凍結を訴えた土田が当選
6-174    地元紙の企画協力費事件
88.5.7.週刊現代が、「電事連からデーリー東北新聞社に『原発口止め料』16百万円」の記事を掲載、新聞社は「年間の連載企画への協力費」と弁明
中間管理職7人が首を賭けて追及した結果、社長の減俸などの処分実施
6-175    地元放送局の奮闘と圧力
青森放送のテレビが『核まいね(駄目だ)』シリーズを放映、日テレでも一部全国放送 ⇒ 科技庁からの訂正要求を言論統制・報道介入として反発、社内でも上司から中止を命じられたが放映を強行するも、93年外圧に屈して打ち切り
6-176    国から「核燃広報費」
科技庁とエネ庁が、核燃料サイクル関連広報委託費として8594年度に42億円計上 ⇒ 特にテレビへの支出が多く、テレビ局側も「番組提供(テレビ局独自の企画・制作)」と「広報番組(提供者と調整が必要で、自己規制しがち)」は性質が異なるにもかかわらず、「提供…」と表示しながら実質広報番組を流していた
6-177    押し戻した核燃推進派
90.4. 六ヶ所村にウラン濃縮施設が完成、遠心分離機搬入 ⇒ 表門から搬入と発表しておきながら裏からこっそり搬入、既成事実を積み上げ反対派を屈服させようというやり方に地元はさらに反撥するも、翌年の知事選は推進派の4選、県議選では社共全敗となり野党消滅
6-178    原子力船「むつ」の最期
88.1.新母港関根浜に移動後、90年度までに実験終了、5年程度で廃船という計画に従い、90.3.最後の洋上試験へ、原子力での航行に初めて成功したが91年実験航海終了後は原子炉を撤去して海洋観測研究船「みらい」に生まれ変わる。原子炉は同年開館の「むつ科学技術館」に展示 ⇒ 原子力行政の矛盾を残したままだった
6-179    「核燃疲れ」に核のゴミ
92年濃縮工場と廃棄物埋設施設操業開始、190億の電源三法交付金が予定され、既成事実と巨大な事業者を前に、村では核燃を語ることが「タブー」になり始める
高レベル放射性廃棄物の中間貯蔵も追加され4点セットに
6-180    最終処分地決まらぬまま
95.2. 新進党系初の県知事誕生 ⇒ 元は自民党で、単なる世代交代と見られていたが、フランスから返還される高レベル放射性廃棄物がむつ小川原に着いた際、「青森を最終処分地にしない」との国の文書に異論を唱え、科技庁は新たな確約書を提出して接岸が認められたが、最終処分地はいまだに決まっていない
6-181    逆風ついて原子力半島化
県知事が交代した95年が転機の年 ⇒ 民生安定上支障がなければ国策に協力
大間原発(下北半島北端) ⇒ フルMOX(ウランとプルトニウムの混合酸化物)の改良型軽水炉として着工、世界初で安全性未確認
95.12.高速増殖炉「もんじゅ」初のナトリウム漏れ事故 ⇒ 青森が誘致に動いていた
六ヶ所村の東通原発1号機 ⇒ 98年着工、05年営業運転開始、大震災以降停止
6-182    地元紙の検証記事
東奥日報とデーリー東北が2000年に検証記事の連載を開始
原電理事の発言「世論は二項対立的でどちらかに傾斜する傾向がある。メディアが煽り立てると対話を困難にし、問題解決が遠のく」
3.11の後、「震災で原発の電源があんなに簡単に破壊されるとは想像もしなかった、マスコミも甘かった」(デーリー東北記者)
6-183    浸透する「核燃マネー」
88年以降、六ヶ所村に200億円を超える電源3法交付金+50億円の固定資産税
89年電事連の出資などで「むつ小川原地域・産業振興財団」設立。基金100億円を運用、94年度に電事連の寄附25億円で「核燃サイクル事業推進特別対策事業」が始まり、県内全域の自治体に資金が渡る仕組みが出来た
04年末、再処理工場でウラン試験が始まり、後戻りが難しくなった
6-184    被災した新聞社
デーリー東北編集局長 ⇒ 3.11で腹が据わる。原発再稼働を拙速と批判
六ヶ所村の再処理工場では貯蔵プールから水が溢れ、東通原発では海水漏れがったが、周辺への影響はなかったものの、報道の行間に不安感が滲む
6-185    3.11後の新聞論調
核燃サイクルの存続をどう論じたか ⇒ 朝日と毎日は中止、讀賣は継続を求める
讀賣 ⇒ 平和利用を前提にプルトニウムの活用を国際的に認められ、高水準の原子力技術を保持してきた。これが潜在的な核抑止力としても機能
東奥日報 ⇒ 原発推進から「脱原発」に転換。25万部(全国紙の10倍以上)の役割は大きい
6-186    心配する青森県出身者
下北半島は今後どうなるか ⇒ 出身者の懸念をよそに、六ヶ所村は核燃城下町に、大間原発は3.11の後建設工事中断中、関根浜には使用済み核燃料の中間貯蔵施設を市長が誘致、来秋操業予定
6-187    「原子力県」に報道の力を
11年 県知事選の公約で、青森には原子力安全対策検証委員会発足
青森には地元紙が3つあり、競いながら原子力ムラの秘密主義を暴いて欲しい

7部 福井・若狭湾
7-188   40年後の不在
2012.7.1. 大飯原発再起動 ⇒ 元福井新聞の記者で40年近く反対運動に関わっていた女性が直前に癌で逝去
7-189   テーマの発見
65.10. 日本原子力発電が敦賀に福井県初の原発許可申請 ⇒ 70年大阪万博会場に敦賀原発1号機から送電された「原子の灯」が話題に
当時福井新聞は、労使紛争の最中、不当労働行為による解雇無効の勝訴を得た
7-190   陸の孤島
69.4. 大飯町議会が原発誘致議決 ⇒ 嶺南地方優遇との指摘に対し、県知事は地元からの開発と抱き合わせにした誘致が活発との回答
大飯町は、55年に3つの村が合併して町制を敷くが、定期船で繋ぐ大島半島と「本土」に二分 ⇒ 関電が半島縦断道路と「大橋」の建設を見合いに原発建設を計画
7-191   「密約」の波紋
69.4. 町長が関電と「仮協定」締結 ⇒ 町が土地買収、住民対策で全面的な協力を確約したが、原発事故に誘発された反対運動が町長リコール運動に発展
7-192   混迷する「工事中止」
71年 リコール開始後に町長辞表 ⇒ 大飯町の町造りが朝日全国版に
反対派に推された新町長は「中止」から徐々にトーンダウン ⇒ 町議会が工事中止決議案を否決
7-193   謎の原発PR
福井新聞 ⇒ 1899年創刊。2011年下期の発行部数は207千部で普及率75.5%は徳島新聞に次ぐ2
70年頃正体不明の原発推進側の主張を紹介する特集記事が月1回程度掲載 ⇒ 欄外に小さく「PR」とあり、広告主は関電と日本原電。新聞広告倫理綱領では広告主の名称等が不明確で責任の所在の不明なものや広告であることが明確でなく編集記事と紛らわしい物は掲載を拒否又は保留するとあり、申し入れによってようやく72年から両社の名前が明記
7-194   地元紙の論説委員
72.3.10. 福井新聞1面トップに、連合赤軍事件の記事の横に大飯原発を巡る地元の紛争の斡旋に知事が乗り出すとの記事 ⇒ 論説委員が、安全と地元合意を求める現実路線の意見を掲載
72.4. 県、大飯町、関電3社間で、「紛争を収め、平穏に建設を進める」前提で建設を中断する協定締結 ⇒ 工事再開の是非がその後の焦点に
7-195   最初の再開問題
原子力委安全審査会の委員が出席して「安全性に関する説明会」開催するも、対立は解けないまま、総額246億円(町の一般会計歳入の61倍に相当)の地域振興計画がまとまり、原発の建設工事再開 ⇒ 地域振興の既成事実の積み重ねで強行
7-196   影を見据えたい
72.3. 福井新聞に「原電を考える」と題した連載開始 ⇒ 万博での「原子の灯」から2年間にトラブルが相次ぎ、新規立地の計画が地元に深刻な対立を招いており、 半島地元民の切実な声を吸い上げ、原発の危険性を活断層の恐れも含め報道
7-197   反原発県民会議の発足
76.7. 大飯町長リコール運動を契機として原発反対県民会議発足
原発行政の質的変化 ⇒ 安全確保、地元の理解と同意、地域の恒久的福祉の「原発3原則」を掲げ、原発を梃に地元市町村の振興を図り、県民全体の県益を引き出す方向へ。自治省は県に国内初の「核燃料税」を認め、高速増殖炉建設促進に繋がる懸念をよそに、県民会議はまず既存原発の事故隠しへの対応を迫られる
7-198   原子力戦争
76.12.関電美浜原発1号機の燃料棒損傷事故を4年も隠蔽 ⇒ 同年7月出版の小説『原子力戦争』(著者:田原総一朗、当時12チャンネルのディレクター)が事故疑惑を指摘、さらに内部告発をノンフィクションとして追加したこともあって、国会で取り上げられ、エネ庁の調査の結果事実と発覚
7-199   反原発6人組
関電の事故隠蔽を機に、県民会議と京大原子炉実験所の小出裕章ら若手助手からなる「反原発6人組」との協力関係が深まる
損傷した燃料棒を茨城の日本原子力研究所に送るため唯一格納可能な容器を保有する京大実験所に依頼、京大も原因調査のためのデータ提供を条件に貸出に応じる
7-200   究明と報道の「壁」
メディアは、事故隠蔽を批判したが、地方と本社の間には温度差
京大実験所も事故原因の究明に取り組んだが、企業秘密の壁に阻まれる
7-201   推進派の新聞
76.8. 『日刊福井』発刊 ⇒ 熱心な原発推進論者で地元創業の熊谷組のオーナーで福井選出の参議院議員、地元では「天皇」の異名のある熊谷太三郎が、福井新聞から社員を38人も引き抜いて創業。福井新聞は直ぐに組合との協調路線に転換、防戦に回る
7-202   変なうわさ
76.3. 高浜原発3,4号機誘致を町議会が承認 ⇒ 若狭への集中を懸念して知事は慎重だったが、78年県も同意
78.3. 地元で漁協の組合長らが多額の金を受け取ったとの噂 ⇒ 関電から地元の5漁協宛各70百万円の漁業補償金という事実を突き止め特ダネに
7-203   真夜中の電話
78.4. 特ダネ発表の締め切り直前に関電から訂正の依頼 ⇒ 朝日大阪本社から記事内容がリークされ、関電からの申し入れで同社のコメントが大幅に削除
町長は77,78年度計5億強が関電から「地域振興事業資金」として高浜町の一般会計に入れられていた
7-204   個人口座に町予算
県と漁協への合計9億余りの金は、県議会の誘致議決の前後に渡って、町長の個人口座経由振込 ⇒ 朝日が抜き、福井新聞も例外的な熱心さで報道
7-205   分かりにくい実態
県が実態調査に乗り出したが、「協力金」の受領に問題なしとの結論
県史には「寄附金は各種の団体等の事業・行事に提供されており、全容把握は困難」
7-206   接待攻勢
関電側からのメディアに対する接待攻勢が激しく、「良識」以外に歯止めがなかった
7-207   寄附金と自治体
紛争に連動して大飯町の用途が指定されない一般寄附金額が激しく上下 ⇒ 大半は関電からのもので、町の広報誌も年々原発寄りに
町長には中曽根首相から感謝状が贈られ、ものが言いにくくなっていった
7-208   2度目の再開問題
79年のスリーマイル事故で、関電は「事故とはメーカーが異なり、保安管理問題なし」と発表したが、通産の指示により全ての原発の停止と再点検を決定、72年の工事再開問題に続く2度目の再開問題に直面
7-209   原発事故と統一地方選
スリーマイル事故は統一地方選の最中に起きたが、原発を巡る政策論争は素通り、県知事も4選を果たし大勢は変わらず、町議選は無投票
大飯1号機は試運転中に異常が見つかり営業開始が遅れたために15億円の固定資産税が町に入らず、見返りに関電は6億円の寄付金を支払う ⇒ 朝日が指弾
7-210   国と県「攻防の原型」
79.5. エネ庁が「現状でも支障なし」と原子力安全委員会に報告、県も防災計画の見直しは緊急時の国の責任体制を明確にする暫定的な措置でよいとして再開に合意、今回の大震災後の大飯再稼働の政府・県の対応と酷似
反対派の動きは、72年の工事中断の頃とは異なる広がりを見せ始める
7-211   広がる「地元」
再稼働反対運動の中で、「立地地元」から「被害地元」へと運動の和が広がる
県が判断を国に一任する形で「事実上の承認」となったが、住民団体の意向を無視できなくなったのは事実
79.7. 稼働1か月後に計器故障による誤信号で自動停止し、炉心冷却システム(ECCS)が作動するトラブル発生するも、住民の反発をよそに2日後再開
7-212   立場の差
81.4. 敦賀原発1号機放射能漏れ事故「暁の記者会見」 ⇒ 検査手抜きの赤旗特ダネで隠蔽が発覚したこともあって、事故の規模に比較して報道が過熱
7-213   「原発利権」を追う
原発推進派の『日刊福井』では、オーナー熊谷の政敵である中川知事の金の流れを追う ⇒ 中川は戦後初の地元出身知事、在任20年間に原発15基中14基が着工、原発を梃に国から振興策を取りつける政治手法を福井に定着させた
7-214   公開ヒアリング
80.1. 高浜増設を巡る公開ヒアリング開催 ⇒ 原子力安全委員会発足後初の開催で、当初はマスコミも評価したが、回を追うごとに形式化したため批判に回る
7-215   議会は民意の代表か
原発増設の可否につき大飯町住民が住民投票条例を直接請求する署名を集め、必要数(有権者の1/50)2倍の署名を集めたが、町議会では否決
同じ構図がその後若狭地方で繰り返される ⇒ 議会が民意を反映していない
7-216   「あなたも合掌組」
86.4.26. チェルノブイリ事故が深刻さをあらわにするにつれ、報道も不安を仰ぎたてる
大飯町出身で事故当時も同町にいた作家・水上勉は住民の自己の受け止め方を聞いて歩き、楽天的なのが気にかかると、何本かの随筆に著わす ⇒ 知事が「今は合掌するしかない」というのを聞いて思わず「あなたも合掌組でしたか」と口走った
7-217   1989人の署名
93.9. 敦賀原発増設で住民投票条例を求めて署名集め ⇒ 原電が区長や校長に圧力をかけたことが発覚する中、有権者の1/4の署名を集めるが、議会はまたも条例案を否決
7-218   県民意識調査
93.9. 朝日が第2回の意識調査実施 ⇒ 回答率69%、増設反対56%(賛成18%)、説明が不十分61%(十分17%)、原発立地が地域の発展に役立つ33%(否定31%84年調査では67%が役立つと回答、事故などを経て意識に変化)
96.11. 第3回 ⇒ 高速増殖炉「もんじゅ」の再開否認51%
98.7. 第4回 ⇒ プルサーマル利用反対33%(初めて条件付き賛成31%を超える) ⇒ 00年住民投票の直接請求(有権者の21%が署名)を高浜町議会が否決
11.7.』第5回 ⇒ 老朽化原発の建替え反対65%、もんじゅ廃止賛成55%
12.4. 第6回 ⇒ 大飯原発再稼働に県外同意必要59%
議会や首長が住民の意識を代表しなくなっているのが鮮明 ⇒ 新しい自治のありようが必要
7-219   日刊福井のその後
92.1. 熊谷太三郎死去 ⇒ 熱心な原発推進論者で、日刊福井はその推進論を展開したが死去と共に経営危機に陥り、中日新聞に吸収され、福井新聞の抗議もあって紙名を「日刊県民福井」に変更して存続
7-220   「悪性リンパ腫多発地帯」
94.11. 週刊プレイボーイ誌が取材で訪問した敦賀市で聞いた噂から、敦賀原発周辺1141世帯を対象に白血病等の実態を聞き取り調査、地元住民や自治体の抵抗の中、60%の回答から得た結果、過去3年の死亡率が全国平均の2.3倍、冬場の風下3集落では12.2倍というスクープ記事を掲載、県や地元自治体に未曽有の拒絶反応を惹起
7-221   激しい拒絶反応
プレイボーイ誌のスクープに、地元自治体や関電、原電、動燃が抗議
福井新聞は、抗議の様子をこまめに報道したが、全国紙は県の独自調査を示唆
7-222   県の反論と専門家の見解
プレイボーイ誌は県や電力会社による本格的な疫学調査の必要性を説いたにもかかわらず、科技庁から古いデータに基づく反論があったのみで、論争終結
地元住民の間で囁かれてきた不安は拭い去られないまま放置
7-223   海外からの批判
科技庁の反論に対しドイツから批判が寄せられ、詳細に分析すれば原発立地の方が常に相対リスクが高く、近年になるほど上昇していると指摘
今回改めて取材しても、県・電力事業者とも疫学調査はしていないと回答
何らかの兆しが指摘された以上、詳しく調べるのは行政の責務だし、高い公正性と公開度が保障され、調査結果が社会に受け入れられる新たな仕組みを作る必要
敦賀市内に繋がる国道の8カ所に交通遮断基設置 ⇒ 台風・大雨用で原発とは無関係とするが…
7-224   「ビデオ隠し報道」
95.12. もんじゅのナトリウム漏れ事故のビデオ映像を動燃が隠したことが発覚 ⇒ 美浜事故に比べれば子供っぽい隠蔽ではあったが、地元紙の大々的な報道に対し、朝日東京最終版は13番目の記事、翌日の福井版には詳報 ⇒ 地元紙も今回の大飯再稼働では別の側面を見せる
7-225   地元紙の「独自性」
未曽有の原発震災後の大飯原発再稼働問題と並行して3つの動き ⇒ 核燃料課税を停止中の原発からも徴収(地元自治体の税収増へ)、北陸新幹線の県内延伸実現(去年は一蹴された)、事故時対応のため原発への道路の複数化実現(総工費422億円は国・電力2社が負担)
いずれも原発再稼働との関連には言及せず
福井新聞1面から再稼働の記事が減る ⇒ 首相が政治判断すると発言した日も全国紙が1面トップにもかかわらず福井は4
7-226   大飯原発の再稼働で
12.7.1. 大飯原発再起動 ⇒ 福井新聞は「『新しい現実』直視を」と訴える
72年の対立は「立地地元」の問題、79年スリーマイル事故の際の再稼働問題は「被害地元」の概念を生む、今回の再稼働は消費地の都市住民もエネルギー政策に意思表示をすべきという意見が強く現れ「消費地元」の概念。「消費地元」と「立地地元」をもっと結びつける努力をメディアはしなければいけない

8部 マネー
7-227   消えた東電情報誌
2011年夏 東電が営業所で無料で配布していた情報誌『SOLA』廃刊 ⇒ 1989年創刊(脱原発の世論が高まった頃)、数万部発行、発行元は朝日のOBが関わった井田企画、編集長は元朝日の編集委員、記事も相当部分朝日の人間が自らの人脈を使って書いていた
11.8. 週刊現代が「東電マネーと朝日新聞」と題した特集記事で『SOLA』を採りあげ、東電がオピニオンリーダーの朝日を抱き込もうとしたと指摘
朝日の編集委員や論説委員が名前と経歴を東電に利用されたと悔やむが、数百万の報酬をもらっていたのは事実 ⇒ 朝日は04年以降現職が無届で社外講演などをして報酬を得ることを禁止
福島の事故後、大手メディアが東電からの広告費で「原子力村」の一員になったとの批判が強い。電力10社は近年広告宣伝に年1千億円前後も費やし、国や業界団体も独自の広報予算を組んでいた ⇒ 検証していく
7-228   元論説主幹の対談
SOLA』に元朝日論説主幹の対談記事が連載される ⇒ 相手は東電や経産省、青森県知事等で、原発の必要性を論じる。記事には毎回「朝日の論説主幹に就任、社論を代表した」との略歴が添えられていた
SOLAへの一般の認知度は高くはないし、編集長らが朝日の原発報道に口出しした形跡もない。東電の広告宣伝のための普及開発関係費269億円(10年度実績)の中で発行にかかった費用は微少とはいえ、もとは利用者が支払う電気代
7-229   再就職した記者ら
電力会社が用意した朝日記者の「再就職」のケース ⇒ 原発容認の「イエス・バット」を考えた元論説主幹が定年退社後8501年の間関電広報誌「縁」の監修者に、併せて9212年まで原発の安全性を研究する関電の研究所の最高顧問(食客)
関連団体への再就職も少なくない ⇒ メディアOBたちが原発推進の世論誘導に手を染めてきたのは間違いない
7-230   3.11中国ツアーの発覚
電力とメディアの近い間柄を明るみに出したのは、東日本大震災
大震災発生時、東電勝俣会長他電力幹部とマスコミ人計20人が「愛華訪中団」として北京に滞在中。東電は清水社長もならにいて、東電トップの危機管理が問題に
「訪中団」を組織したのは出版界の重鎮(石原氏)で、各界指導者と中国指導者との定期的交流を期して継続的に行われてきたもの(東電トップが団長となるケースが多かった)
メディアの参加者の負担は15万円、中国要人への土産代に充当。東電の出費は自社分のみというが、残りの費用は誰が払ったのか
11.3.31.号で週刊文春(元編集長が参加)が「東電のマスコミ懐柔策」と指弾
メディアの筆が鈍るとの疑念を持たれる可能性もあった訪中団、震災がなければ表面化しなかった
7-231   サロンの後ろに
石原氏は、1956年に反全体主義・反共主義を旗印に知識人グループを立ち上げ、月刊誌『自由』には保守系文化人が集まった ⇒ 東電からの支援も隠さない
東電は他にも高名な科学者や科学系ジャーナリストとの人脈も築く ⇒ 科学情報誌『ILLUME(イリューム)』を創刊し、無償で配布。朝日の論説委員らも協力
電力会社は良きパトロン ⇒ カネは出すが、口は出さない。でも支援を受ける側はパトロンそのものの批判は出来ない
東電の「普及開発関係費」は、チェルノブイリ以降急増、10年度269億円の内訳はテレビ・ラジオに70億、広告・広報掲載46億などと示されたが、サロン作りの実態はまだ不明
7-232   再稼働提言に重鎮
12.3. 首相宛に「エネルギー・原子力政策懇談会」(経済界中心)が再稼働提言 ⇒ マスコミの重鎮が名を連ねる。讀賣は社論に沿った提言と言い、フジとテレビ東京は個人の資格で参加と説明。正力以来原子力とメディアは緊密であり、チェルノブイリで反原発の声が高まった際にも、原子力産業会議会長で日経の円城寺元社長は、ファッションの様な反対運動は尋常ではなく、敢然と戦うべきと所信表明
7-233   「エネルギー大政翼賛会」
マスコミを含む日本の原子力推進体制の源流を辿るとある人物に行き着く ⇒ 橋本清之助(81年歿、享年87)。「原子力界の陰のプロデューサー」と呼ばれる
橋本は大政翼賛会の創立に関わり、翼賛政治会の事務局長。正力に原子力の知識を伝授。産業界に日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)創立を働きかけ、600社の参加を得て56年初代事務局長に就任。財閥復活への促進剤となる一方、「原子力文化」なる言葉を作り、原子力の啓蒙を図るため「日本原子力文化振興財団」の設立を画策、初代常任監事就任。核兵器には反対したが、反原発運動への嫌悪感は隠さなかった
7-234   原価から除外
11.11. 東電の料金値上げの議論の際、メディアは広告費をもらうことで原発批判が出来なくなってきたとの指摘があり、料金査定の下になる原価から広告費除外の主張 ⇒ 朝日は編集と広告が切り離されており、指摘された事実はない
電力10社の「普及開発関係費」 ⇒ 05年度1,037億、10年度866億。トヨタ(半減)などに比べて減少率が少ないのは、電気料金の原価として認められてきたから
指摘を踏まえ、12.3.の新ルールでは、原価参入を必要不可欠の広告費に限定、各社とも広告費全体の内容を見直し、極力絞る。広告費を減らしていくのは必至
7-235   朝日に原発関連広告
電事連の原子力広報体制が強化された74年当時、メディアには原発をPRすると反対派が押しかけて来るとの雰囲気があったなか、74.8.朝日が原発推進の意見広告掲載を敢行、讀賣が「面目が立たない」として追随
石油危機で経営が厳しかった新聞業界にとって、電力の広告はありがたかった
毎年原子力の日”(1026)の政府の原子力広報が地方新聞に掲載されるようになったのも、朝日への掲載が道を開いた
7-236   「広報は建設費」
朝日・讀賣に続き毎日の広報局からも原発のPR広告出稿の要請あり、電事連事務局としては毎日が反原発キャンペーン記事を連載中だったことから、電力各社からの反対を懸念したが、毎日が「原発記事の扱いを慎重にする」と言ったので、1年遅れでPR広告を掲載 ⇒ 毎日の社長室は、「当時の事実関係は不詳だが、広告掲載のために記事に手心を加えることはありえない」
事務局は、電力各社にも、「原子力の広報には金がかかる。単なるPR費ではなく、建設費の一部と思って考えて欲しい」とお願いしている
7-237   増える原発広告
原発広告が新聞に載るようになった70年代半ばから10年余り、原発が重要なエネルギー源の役割を果たす、という雰囲気が社会に広がりつつあった
1987年 その動きに危機感を持った雑誌『広告批評』(編集長天野祐吉)が原発特集 ⇒ 民間の調査・研究団体「原子力資料情報室」が新聞の原発広告を採り上げ、一方的に原発の安全性や必要性を強調する内容を批判
推進側は容易に掲載料金を負担できるが、反対派には簡単に使える手段ではない
11.5. 「市民の意見30の会・東京」が初めて反戦・反核を訴える意見広告を出す
7-238   反対側の疑念
増える新聞の原発広告を苦々しく見ていた人がいる
93年には電力業界が74年に止めたはずの政治献金が広告費の名目で実質的に再開 ⇒ 自民党の機関誌などに巨額の広告費が出されていた(3年で25億、電事連の年間広告費は50億にも)。メディアからも電力と政界の緊密関係を追及する声は上がったものの、原発広告で利益を得るマスコミも同じ原発推進側に見えた
7-239   翼の上にも
原発広告は新聞以外の媒体にも広がる ⇒ 全日空と日航の機内誌にも安全性をPRする広告が掲載されたが、事故後掲載の要請はない
7-240   広告塔の値段
著名人を利用した広告に、通常の10倍もの出演料を支払っていた ⇒ すべて電力料金に反映
福島事故直後佐高信は、「電力会社に群がった原発文化人25人への論告求刑」と題し実名を列挙した上で、札束で世論を買占め、頬を叩く業界のやり方を雑誌で批判
7-241   電力業界の別動隊?
原発広告を追うと、電力業界と資金面で関係が深いとみられる「フォーラム・エネルギーを考える」という民間団体に出くわす ⇒ 90年に著名人をメンバーに集めて発足、現在の代表は神津カンナ、事務局は公益財団法人「生産性本部」で他の民間原発推進団体とも連携していたが12.3.でエネルギー関連事業は中止、引き継いだのは経済界の広報団体「経済広報センター」(会長は経団連会長)で、今後新聞社とタイアップした広告は予算的にもできないとしている
7-242   各地にPR施設
原発に併設されたPR展示施設にも巨額の費用投入 ⇒ 00年竣工の九電玄海原発の展示館(総工費99)の隣には町立の「次世代エネルギーパーク」が来年オープン予定、総工費14億余りの2/3は県と町がプルサーマル導入に同意した見返りの核燃料サイクル交付金を充当(両方の建設に町長の実弟が社長の岸本組が関与)
PR施設は「観光地巡り」にも組み込まれている ⇒ 家族で行ける割安ツアーも原発の安全性を伝える手段として利用された
7-243   「温暖化対策」切り札に
86年チェルノブイリ事故までの「原発必要論」の根拠は石油危機対策
事故後環境が一変、次に飛びついたのが地球温暖化 ⇒ 福島事故後も「CO2を排出しない電力としてPRを続ける
7-244   「抗議してます」
原発を巡り、電力業界がメディアに圧力をかけたことはないのか
電事連は、メディアの報道に対し、都度「当会の見解」と称して不的確とか事実誤認との指摘をしてきた ⇒ 巨大スポンサーとして君臨するものの発する「抗議」の「ブラフ効果」は計り知れない
福島事故の際の東電のテレビ会議の映像にも、「TBSのサンデーモーニングの報道に抗議している」との発言が記録されている
7-245   監視網「TCIA
TCIAとは、「東電+CIA」のこと ⇒ 東電社内に、原発地域住民の詳細なデータベースが蓄積
広告会社が興信所を使って調べた住民情報を電力会社に出し、見返りに広告出稿を求めたという話もある
いずれも裏付けを取るのは難しいが、反対派が抱いてきた不安は計り知れない
7-246   記者の身上調査
メディアに対する電力業界の「監視」 ⇒ 72年北陸電力による富山県内記者80人を対象にした身上調査・ランク付けが発覚。火力発電所建設への反対運動が広がり、原発計画が各地で動き出していたことに呼応
7-247   「ヒロセ現象」封じ
「ヒロセ現象」 ⇒ チェルノブイリ事故の翌年87年に、作家・広瀬隆が『危険な話』を出版して原子力の危うさを指摘、その後の反原発運動に一般市民を巻き込む導火線となった
原発推進側は封じ込めにかかる ⇒ 電事連は全国紙5紙に月1回のペースで全面広告を、通産省も原子力広報推進本部を設置、関係省庁を巻き込んで反撃に出る
原子力文化振興財団の全国紙へのシリーズ広告は94年時点で301回に及んだ
7-248   営業からの「抗議」
広瀬が日本テレビ系の「11PM」に出演した際、関電からの抗議を受けた営業が内容にクレーム、司会の藤本義一が怒鳴りつけて放送は続けられた
テレビ東京の名物ディレクターだった田原総一朗も、77年にある月刊誌の連載で大手広告会社と東電が組んで反原発の住民運動対策をやっていたと書いたため、その広告会社が「連載を続けるならスポンサーを降りる」と圧力をかけ、テレビ局から「連載を止めるか会社を辞めるか」と迫られて退社。テレビ朝日の「サンデープロジェクト」でも、原子力を扱う回は東電にスポンサーを降りるよう交渉し、了解を得た ⇒ 田原は言う。「電力にカネがあるから原発報道が出来ないというのはウソ。マスコミ側の自己防衛に過ぎない」
7-249   番組制作者の異動
1992年 日本テレビ系列の広島テレビがドキュメンタリーで日本のプルトニウム利用の問題を取り上げ、社長が放映に難色を示したが、周囲の応援で放映、93年度「地方の時代賞」映像コンクールの大賞を取る ⇒ 中国電力と電事連から圧力がかかり、中電は別番組のスポンサーの予定を降りた
直後に制作者等が異動になったのは、テレビ会社の「自己規制」だったかもしれない
7-250   電力会社が勉強会
2008年 大阪毎日放送が京大原子炉実験所の小出裕章ら熊取(町の名)6人組を採り上げたドキュメンタリーを深夜に放映 ⇒ 直後に関電社員による勉強会が開かれ、報道内容への無言の圧力となる
電力会社の意に沿わない内容には、CM引き揚げで報復 ⇒ 真っ当な反原発番組はスポンサーが少なく、深夜やローカルに追い遣られる
7-251   CM界のタブー
90.6. テレビ朝日系列の瀬戸内放送で放映されたCM2回で打ち切り ⇒ 放映を求めて訴訟を起こしたが、最高裁は放送事業者の判断を尊重するとして棄却
11年 「通販生活」が原発再開是否への国民投票を呼び掛けた特集号のCMも、テレビ朝日から放映を拒否 ⇒ 表紙だけは映された
電力業界以外が発する「原発」の2文字に対し、テレビCMの世界は昔も今も神経を尖らす
7-252   清志郎の曲
88年 「素晴らしすぎて発売出来ません」 ⇒ 朝日に掲載された東芝EMIの広告。RCサクセションのシングルに忌野清志郎(09年逝去)がつけた原発反対の替え歌の歌詞が原因で発売を自粛、結局他社から出されたが、東芝EMIは取材を拒否
7-253   電力業界の接待
電力業界とメディアの間に癒着や不透明な関係はあったのか ⇒ 原発を題材にした作家に電力会社の広報から接待の申し出があったり、原発施設を名目にメディアが宴席に招かれたり、核燃サイクル開発機構の会議費にマスコミ分としての支出が計上されたり、接待を通じてメディアが電力業界の思い通りになるのではとの危惧が強くあった
7-254   記者クラブの価値
電力業界を取材する記者が入る「エネルギー記者会」は、電事連広報部の隣にあり、以前から電力各社の広報担当との緊密な関係が続いている ⇒ メディア各社とも常識の範囲での付き合いを規定、企業側からも会社の情報を載せようと思ったら社内に常駐してもらったら維持費もかからず記者を囲い込めると考えた
7-255   民放の電力役員
フジやテレビ東京の社外監査役に電力会社の元役員が就任、トップ同士の親しい関係を考えれば、メディアの社員がそれに影響されないはずはない
放送年鑑掲載の202社中1/3は、主要株主に電力会社名があり、番組審議会委員に電力会社幹部の名前がある
7-256   世論対策マニュアル
「反原発」の声を封じ込めるためにメディアの活用を説いた国費で作成されたリポートが、科技庁が日本原子力文化振興財団に委託した『原子力PA(Public Acceptance)方策の考え方』 ⇒ 中心を担った「原子力PA方策委員会」の委員長は、讀賣の論説委員。世論の導き方やメディアとの関係の築き方を詳細に説く
7-257   地方紙での座談会
原発から出る高レベル放射性廃棄物を地下に閉じ込める「地層処分」場を探すために発足した「原子力発電環境整備機構NUMO」や、使用済み核燃料の最終処分場の必要性を説くエネ庁も、各地で地方紙と共同主催でシンポジウムを開き、その内容が地方紙の紙面を作る。NUMOの広報活動費は180億円(0010)に上る
新聞で原発推進側の主張に沿った紙面が作られることを危ぶむ ⇒ 新聞が、広告収入と引き換えに、政府の宣伝機関として機能してはいなかったか
7-258   広告会社への批判
広告会社は、エネ庁の競争入札に参加するほか原発関連の催しなどを積極的に手掛ける ⇒ 広報素材の作成、広報戦略の策定、説明会、意見聴取会開催等々
12.3.アサツー・ディ・ケイ作成の原発・放射能に関するQ&A集 ⇒ ネット上を流れる原発や放射能に関する情報を調査・分析した質問集と専門家の回答をまとめたものだが、ネット監視ではとの批判に加え、内容の稚拙さと74百万円という契約額の高さに批判が集中
7-259   「呪縛」を解いて
広告料や人的交流を通じて繋がっていた電力業界とメディアの関係を問う検証が進む ⇒ 原子力『村』に入れば、NHKでも政権与党の政治的圧力を軽減できる
新聞社やテレビ局が批判を受ける中で、一部ラジオ番組やジャーナリストのネット・メディアやブログ、ツイッターによる発言が強い共感を呼んだ
原発推進に異を唱えた人々は迫害されてきた。「戦争責任」がうやむやにされてきたように、「原発推進責任」も同じ道筋を辿るのか、と危惧する

9部 子ども
7-260   広告に人気漫画
電力業界と国は原発を子どもにどのように教え、メディアはどう関わって来たのか、漫画や教科書、小学生新聞を通して探る
70年代後半から一般大衆向け原発PRを本格化させたが、そのターゲットの1つが子ども ⇒ 「今後開発が必要なエネルギーは?」との意識調査に対し「原子力」と答えた小学生の割合が5年で半減したことに危機感をもった一理科教師が原発への啓蒙は小中学生に視点を向ける必要があると訴えたことに応えて、81.10.から人気アニメを使った子どもを対象とした広告が始まる ⇒ 単に原発を紹介する内容であり、メディアも問題にしなかった
7-261   偽アトム
手塚治虫は反原発で、電力業界からの「鉄腕アトム」を原発のPRに使いたいとの依頼をすべて断っていたが、78年「漫画社」(72年設立、08年解散)から別人がアトムを使った漫画で原発の成功談を書いた漫画冊子が出され関係者に納入された
手塚の死後出されたエッセー集の1節「アトムの哀しみ」:「鉄腕アトム」が科学による繁栄を幸福に描いた漫画と誤解されることに「迷惑している」と切り出し、「ひたすら進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくかをも描いたつもりです」
7-262   アニメ版アトムの親
「鉄腕アトム」は、63年から始まったアニメ版の大ヒットで国民的な知名度を得る(64.3.には最高視聴率40.3) ⇒ 脚本を書いたのは、アニメ「エイトマン」の脚本を書いていたSF作家の豊田有恒。手塚に才能を見込まれ、オリジナル脚本を書くためにアニメ版アトムに参加。SF作家仲間と原発を訪問、その魅力に嵌り、成果を「ルポ 航時機(タイムマシン)アトム』と題して原子力文化振興財団の広報誌『原子力文化』に連載。豊田は「原発好き」を公言したが手塚と話したことはない
豊田は、原発見学の夕食代を払ったり、高い原稿料の一部を返却したりしたが、財団は手塚に拒否された穴埋めを豊田で果たそうとしたのではないか
7-263   漫画家とつなぐ
漫画家と電力業界を繋いでいたのは「漫画社」 ⇒ 漫画界の大御所が役員に並ぶ。大口得意先に電力推進派がいて内部で議論の上反原発派からの依頼は拒否。児童漫画家は少なく子ども向けという意識はなかった。本は依頼者の一括購入が条件。中心メンバーの高齢化とアニメ制作への転換に失敗して解散
7-264   漫画家の収入源
「漫画社」の大立者は、戦争前後に活躍した似顔絵と政治風刺の名手・近藤日出造で、自らの事業失敗で作った数千万円の借金を取り戻そうとして、体制サイドの主張を漫画で具現、79年死去時は殆ど負債を清算していた ⇒ 「原発は必要」というのが彼の信念でもあった(友人談)が、死後も漫画社は漫画家の「収入源」として続く
7-265   「確信犯」
近藤の死後跡を継いだのは鈴木義司 ⇒ 04年死去まで原発に詳しい漫画家として登場。後ろめたさに躊躇う仲間を誘い込んで積極的に原発を取り上げる。自ら「確信犯」と称して原発PRへの協力に戸惑いはなかった
7-266   プライド
83年 赤塚不二夫事務所に廣済堂出版から東電の依頼ということで科学を易しく解説する漫画を書いて欲しいとの依頼あり、テーマの1つが原発だったが、ブレーンだった長谷邦夫は、事務所が経営的に厳しかったものの、スポンサーの言われるままに「賛原発」物は書きたくなかった ⇒ 中立の立場で構わないということになったので、反対意見も盛り込んで作成したが、東電から買い上げの話は没になる
出版の翌年チェルノブイリ事故が起こり、長谷は自分の判断の正しさを知る
7-267   巨匠の後悔
かつて原発PRに参加した漫画家は今、何を思うのか
松本零士は88年朝日大阪で関電の広告を書く ⇒ 原発を見学し漫画でリポートする内容。「原発は危険だがエネルギー政策上は必要」が持論で、広告にも最後に、「専門家ではないので原発の技術的可否は判断できない」と入れたのは松本の拘りだった。今回原発が地震に対応できていなかったことを知って愕然、被災者に合せる顔がないと言い、こんな広告は二度とやりたくないと言った
震災後、原発PRに関わった漫画家は雑誌などで批判され、松本へも矛先は向いた
7-268   伝えたいものは?
原発推進側は、子供を対象に漫画を使ったPRを企図したが、漫画家にとって原発は創作意欲を掻き立てるテーマではなかった。富永一朗も園山俊二も広告の注文だから書いたので、原発をどうこうしようという気がなかったから書けたと言う
7-269   自主訂正要求
80.6. 教科書検定に残る異例の「事件」 ⇒ 文科省が科技庁からの抗議を入れて中学地理の教科書の「原発には放射能漏れの危険があり、原発予定地ではどこでも住民の強い反対運動が起きている」との記述を「自主訂正」するよう要求。「危険」を「不安」に、「どこでも」と「強い」を削除した。国会で野党が「不当な圧力」として追及したが、メディアは記述を変えさせたことより教科書編集に介入したことを問題視し、原発問題自体を掘り下げることはしなかった
7-270   ひとこと
「自主訂正」事件続報 ⇒ 次回3年後の検定に「危険」を残した同じ文章を出して通ったが、後から「指示漏れ」があったと言われ、「危険」を「不安」に、「反対運動が」を「反対運動も」に修正。原発は文科省の担当外で検定も杜撰、一方原発を巡る意見を誰が発したのかは不明なるも教科書が書換えられたのは事実
7-271   夢を語る教科書
原子力は教科書にどう書かれてきたのか ⇒ 終戦後原子力を巡る記述は希望に満ち溢れていた。国を再び発展させるには科学の力しかない、原爆は誤った使い方で平和利用が本来の道、科学は人を幸せにする、と夢を語っていた
7-272   原子力への疑念
戦後の教科書で称賛されるばかりだった原子力関連の記述が、実際は電力と医療くらいしか利用できず、他方安全性への疑問が出始め、60年代から減り始め、78年には大気汚染や放射能漏れに対する安全性を問題とした懐疑的な記述が載る
国民の意識調査でも、「幸福のために自然を征服」は68年をピークに急降下
7-273   文部省の意思
原発の教科書への記載が批判的になったことに対し、80年以降文部省は検定意見という形で意思を表明 ⇒ 領土や歴史問題に較べると抵抗は少なかったが、原発の2度の大事故の時と04~05年の地球温暖化が議論された時は強い指導があった
7-274   記者たちの慣れ
原発推進派にとって、チェルノブイリ以後の最後の切り札は「クリーンなエネルギー」であり、教科書検定でも指導 ⇒ 04,05年はほぼすべての原発記述に突出して多くの検定意見が付き、クリーンエネルギーが強調されるよう変更されたが、メディアでこれを報道したところは皆無どころかその記憶すらなく、福島事故の際も「ここまで深刻な事故が起きるとは想定できなかった」と悔やむ
7-275   不適切な教科書
96年以降、日本原子力学会が小中高校の教科書を調べ続け、結果を「提言」として文科省に持参。取り纏めは後の原子炉安全審査会長 ⇒ 間違った内容や偏った記述によって子どもをミスリードしないようにとの配慮だったが、何がミスかは不問
7-276   提言の結末
提言を受けた教科書会社は殆ど対応しなかったが、03年に「炉解体や管理コストを加味すると発電コストは他に比べ割高」との記述を「間違い」とした提言を渡された公明党の原子力専門家の議員がした後、05年に文科省が検定意見をつけ削除された ⇒ 議員も偶然知って問題にしただけとし、文科省も質問とは無関係という
学会は、今年3月の提言の冒頭で「福島事故を未然に防げなかったことを反省」しているが、今後も教科書の記述は注視すると話す
7-277   ぜったい安全な設備
67年 朝日の姉妹紙として『小学生新聞』創刊 ⇒ 翌年原子力の大特集以降、頻繁に関連記事が登場、69年福島稼働直前に集中した記事には「ぜったい安全な設備」「地震にもだいじょうぶ」等の記載。誰が書いたかは不詳
7-278   推進と懐疑
同じ姉妹誌『朝日中学生ウィークリー』も含め、社論を掲げて主張する新聞とは違い、推進から懐疑まで幅のある記事が入り混じる ⇒ 単なるニュース解説、科学の解説(原発推進の内容がほとんど)、地域ニュースの一環の3つに分類される
7-279   原発見学
77年 朝日小学生新聞に原発特集として、子供が学ぶ形をとる記事体広告(企業見学の報告記事の体裁をとる)掲載。小学生新聞ならではの広告
紙面には広告ではなく「PRのページ」と書かれていた ⇒ 新聞社の広報部員が記事を書き、通常の「広告」とは区別されるが、企業宣伝の性格は否定できない
7-280   どう伝えるか
朝日小学生新聞の記者は、原発を子供たちにどう伝えたのか ⇒ 82年からの全都道府県紹介の連載コーナーで原発関連は7回取り上げ、チェルノブイリでは子供たちに癌が増えていることを書こうとしたが、どこまでが原発の影響かは不明
わかりやすく書こうとういう模索が続く
7-281   その後
一理科教師(9-260参照)はその後も小中高生への意識調査を続け、放射能関連の事故発生のたびに、「公害が多い発電所は」との問いに「原子力」との答えが急増 ⇒ 原発推進派のPRにもかかわらず、子供たちの意識を左右するのはメディア

10部 3.11
10-282       原発のほうへ
         2011.3.11. 14:46pm 午後4時前、経産省別館にある原子力安全・保安院緊急時対応集中管理センターが、「15:42pm福島第一原発全交流電源喪失、警戒本部立ち上げ」を発表。朝日の福島総局長は全記者に取材を指示
記者の安全か現場取材か、原発事故でメディアはその姿勢が問われた
10-283       3キロ圏内に避難指示
20:50pm福島県が原発から2㎞圏内の住民に、21:23pm政府が3㎞圏内の住民に避難を指示 ⇒ 朝日も取材に出ている記者にメールで退避を指示
10-284       原発に近づくな
121:47am 朝日本社から福島総局と記者宛に一斉メールで、ベント検討中につき原発への接近不可の指示。政府も避難指示の範囲を3㎞から10㎞に拡大
13:50pm 原子力安全・保安院が1号機で炉心溶融の可能性が高いと発表
10-285       1号機建屋が爆発
1215:23pm 朝日福島総局長は、記者に30㎞圏内立ち入り禁止を指示
30㎞の数字はチェルノブイリ事故で強制避難させた時のもの。いわきは45
15:36pm 1号機の建屋で水素爆発 ⇒ 15:40福島中央テレビが放映
16:40pm 東電福島事務所が爆発音がしたと報道陣に説明 ⇒ 全国ネット放映
10-286       いわきから郡山へ
朝日の現場は、避難指示に対し「市民の避難が始まっていないのに記者だけ逃げて」と反発しつつ避難 ⇒ 18:25pm政府も避難指示を20㎞圏内に拡大
10-287       振り切れた線量計
13日 6人のフリージャーナリストが立ち入り規制前の福島第1原発に向かい、原発から3.5㎞の双葉町役場に到着、線量計が振り切れる。現場の様子を伝える映像がネット放送に流れアクセスが殺到
10-288       最悪の事態に備えを
1411.01am 3号機建屋が水素爆発、2号機の炉心溶融可能性大
156:00am過ぎ、4号機で火災、政府は2030㎞圏内の屋内退避指示
15日朝日夕刊トップで「最悪の事態に備えを」と呼びかけ
住民より先に記者が避難することの是非を指摘する声は社内になかった ⇒ 地元紙『いわき民報』は15日付けまでで発行を休止、NHK15日に30㎞圏内の取材を禁止
10-289       記者がいなくなった
16日 元朝日の記者でいわき支局長を最後に定年退職し、いわきで米作りをしている丸山が、いわきに常駐する記者がほとんど退避したことを知る ⇒ 現場に残って不安を抱える人たちに状況を伝えるのが報道に携わる人間の基本であり、97年には社の幹部を前に「原子力災害に備えよ」と訴えている
10-290       原則は「安全第一」
97.11. 丸山(当時つくば支局長)は、東海村の動燃事故直後に原発事故時の記者の対応について質問。事故時は、NHKのみ10㎞程の所に退避
安全優先の原則は今も変わっていないし、防護服等の装備も住民以上に持っていたのは、ここまでは頑張れというしるしだったはずではなかったか
10-291       JOC事故で現場へ
99.9.東海村のJOCで爆発事故 ⇒ 現場に駆けつけて夕刊に一報を入れる。身の安全より記事が優先。直後の健康診断では異常なかったが、原子力施設の事故の場合、情報が入るまでは現場に近づかないのが鉄則のはず
10-292       カメラマンの呼びかけ
317日 朝日本社で、希望者を募って現場に入れてはという意見が出たが、被曝のリスクを勘案して見送り。応援部隊の写真部員から各地の写真デスクに限定取材募集への呼びかけ(40歳以上、2時間以内、屋内取材のみ等の条件付き)
10-293       県外からの電話取材
顔見知りの記者にも呼びかけたがそれ以上動きは広がらず
県外から電話取材で記事を書き続けたが、住民より先に「逃げた」ことに苛まれた
10-294       11ミリシーベルト(法令で決められた一般人の被曝線量の限度)
13日の朝日報道 ⇒ 爆発現場敷地境界で1,015μシーベルト/時間を確認。法定限度を1時間で浴びる量に相当。以後許容量について触れなくなる
放射線業務従事者の年間上限は50ミリシーベルトとも書いた
法定限度は、英米独仏とも共通
18日 日本医学放射線学会も、「現状で健康への影響が懸念されるのは原発復旧作業に従事している人だけ」として冷静な対応を求める声明を出す
10-295       現場か、安全か
現場では30㎞圏内に入るべきとは思ったが、社の方針を破る勇気はなく、本社も危険回避を最優先にせざるを得なかった ⇒ 圏内に電話で取材すると、現場を見ろとの怒りの声が返ってきた
10-296       食料が届かない
21日 朝日の応援部隊が圏内に入って取材し記事を書く ⇒ いわき支局員が住民が避難してガランとなった任地に戻る
南相馬市長の食糧不足を訴える姿が動画サイトに載って世界に発信された
10-297       覚悟はどこに
25日 朝日のオピニオン欄に、原発から25㎞にある南相馬市の市長に圏外からインタビューした記事が載り、情報が届かないことを訴えていた
いま市長はメディアについて、「自分たちが危険を覚悟で住民を支えているときにメディアはどこにいたのか、メディアの覚悟はどこになるのか、メディア不信が染みついている」と語る
現地を取材する毎日の記者は、「会社が入るなというので休みを取ってきた」という
10-298       共同通信、20㎞圏内へ
共同通信は震災直後にフリージャーナリストのルポを配信したが、自らは41450歳以上の非組合員からなるクルーが編集局長の許可を得て20㎞圏内へ入る
10-299       普賢岳の教訓
91.6.3. 普賢岳の大火砕流により報道カメラマン16名他、取材に協力したり防犯のため警戒していた地元消防団員等計43名が犠牲となる ⇒ 警察の退避勧告にもかかわらず、危険地域内の定点での観測に固執したための被害で、地元からはマスコミへの非難が強い
朝日は、直前に撤退指示、逆に事故後は各社が避難する中島原市内に残って火山活動を取材、当時の責任者は「市民全体に避難勧告が出るまでは市民と共に歩む」「市民と危険を共にすることは報道陣として甘受しなければならない」と書き残した
10-300       ダブルスタンダード
45日以降、朝日にも30㎞圏内を取材した記事が載るように ⇒ 社内でも立ち入りを許可
朝日紙面審議会委員にも、「記者の安全重視に傾き過ぎていた」との批判がでた
元朝日記者は地元紙への寄稿で、「人体への影響はないとの大本営発表を報道する一方で、社員は自社判断で避難させるというダブルスタンダードを用い、それを住民や読者に知らせなかった」と述べ、元NHKの池上彰も、「ダブルスタンダードがあったらそれを明らかにすべきだった」と批判
その批判に応えようとここまで書いてきた ⇒ 朝日社説転換の経緯を報告
10-301       原発ゼロ社説
11.7.13. 朝日1面に論説主幹・大軒の署名記事「提言 原発ゼロ社会」とオピニオン欄には同内容の社説の特集が掲載される ⇒ 「イエス・バット」だった社説の基本路線を根本から転換する内容。原発ゼロに踏み込んだのは大軒の決断
10-302       長い検討
11.3.31. 菅首相が政府のエネルギー基本計画の見直し検討を表明
11.4.4.付け社説 ⇒ 原発が脆さを露呈した今、依存しない、あるいは依存度を極力小さくした社会を構想すべきと提案
11.4.20.付け社説 ⇒ 「脱・原発へかじを切れ」の見出し。まだ「ゼロ」の表現はなく、理想主義的な脱原発論では賛同が得られにくいとの意見が主流
10-303       大軒の決断
11.5. OBの意見も聞いて後押しされ、ゼロへの道筋を描き、核燃料サイクルの放棄も謳うことを決断
10-304       激論・部長会
編集会議での議論を繰り返す ⇒ ゼロというべきか否か。ゼロにする時期。経済活動への悪影響や社会不安への懸念。従来の社説への反省。安全を確認した原発の再稼働は認めるのであれば現実的との声が広がる
10-305       首相と連携せず
11.7.13. 「原発ゼロ」の社説 ⇒ その夜菅首相が脱原発を公言。辛うじて先行、方法と根拠を示せと批判
首相と主張が近いからこそ、「不偏不党」の朝日として画したい一線だった
10-306       ゼロへの道筋
社説の転換は、世論にリードされた部分もある ⇒ 1か月前の調査では74%が原発の段階的廃止に賛成
12.12.衆院選挙中も、ゼロへの道筋を示せと主張してきたが、選挙の結果は自民党の大勝で、脱原発の行方が不透明に
反省を忘れず、理想倒れや迎合主義に陥らない。以下にぶれずに原発と向き合うのか、メディアの姿勢が問われている

2012.12.28. 朝日新聞(夕刊) 連載を終わって
浮かび上がってきた反省点と教訓を今後に生かすには、問題の検証を怠らない姿勢が必要
  連載に携わった編集委員と記者の座談会
安全神話は原爆に始まる ⇒ 米国は放射能の害を限定的にしか認めず、メディアも平和利用を煽ったが、70年前後にようやく安全性に目を向けるようになったものの、「イエス」の姿勢は変わらず
チェルノブイリ以後も、原発が本当に必要かという本質的な議論がメディアにはなかった
原発立地在の記者は、原発が危険という認識はあったが、全国紙には載らなかった
ただ、地域には濃密な利益供与の構造がある
司法判断に委ねられたものの、裁判所は国や電力側の主張を最新の科学的知見として、それ以上の判断を放棄
メディアも、電力からの広告費などを通じて「原子力村」の一員と批判されたし、現に東電の広報誌作りに協力して報酬を得ていた
新聞の原発批判記事には決まって電力会社から抗議があった
手塚治虫は原発反対で、必ずしも科学が人を幸せにするとは限らないと描いたが、アニメ化された時にその部分が落とされ、科学全盛のプロパガンダとして流通したのは悲劇
既存メディアは独自の情報源に欠け、東電や政府の発表を超える報道が不足していた
メディアが現場から逃げたとの批判もあった ⇒ 住民が避難するより先に退避し、住民に声もかけなかった
民意を捉えるアンテナがマスメディアにはなかった ⇒ ネットでは、「メディアはウソつき」「不安を煽り過ぎ」という双方の声があった
「危険」と「問題ない」の両論併記にとどまり、間を埋める報道が足りない
今後の報道のあるべき姿 ⇒ 専門性の強化や組織内の体制、原子力を巡る各部門の連携に加え、「普段」と「不断」の両面で絶え間なく検証を続けていくことが求められている


「日本メディアの原発報道」 ニューヨーク・タイムズ東京支局長 マーティン・ファクラー
メルトダウンの可能性はもっと早く報道すべきだった
日本メディアの報道の根本的な問題は、政府は東電の発表を鵜呑みにしたこと
「アクセス・ジャ-ナリズム」と言って、メディアが情報を取るために情報源を批判しないという姿勢があり、イラク戦争の時にメディアが批判され、マスコミ不信に繋がった
新聞は信頼性を失ったら価値がない
記者クラブ制が「アクセス・ジャ-ナリズム」を助長している ⇒ クラブはあってもいいが、競争し、書かれていない記事を書かなくては意味がない
ニュース報道が自社の論説に引きずられないようにすることも大切
『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』発刊


2012.12.28. 朝日(夕刊)トップ
『原発保有9社、抗告2.4兆円』 稼働後42年間 米事故後に急増
7011年に、累計2.4兆円を超える普及開発関係費(広告宣伝費)を支出。スリーマイルで事故が起きた70年代後半から急増。メディアに巨費を投じ、原発の推進や安全性をPRしてきた実態が浮き彫りに
会社別では、東電の6,445億円で突出、次いで関電の4,830億円
地域独占の電力会社が、最近では自動車・家電並みの年1,000億円にも上る経費を計上
電気料金算定の際の「原価」に算入されていたが、12.3.経産省は必要不可欠なもの以外は認めないとした
福島事故後、東電が10年度分269億円の内訳を公表 ⇒ テレビ・ラジオに70億、広告・広報掲載に46億、PR施設運営に43
巨額を投じることでマスコミへの「発言力」を増し、原発の安全性を疑問視する報道には強く抗議してきた
福島事故後、ツイッターでは「メディアが電力業界からの広告費で『原子力村』の一員になった」との批判が噴出、電気料金見直しに向けた経産省の有識者会議でも、「メディアが広告費をもらうことで電力会社に依存し、原発批判が出来なくなっていた」との指摘が出た




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