日露戦争史 その1  半藤一利  2012.11.29.


2012.11.29. 日露戦争史 1

著者  半藤一利 1930東京生まれ。東大文卒。文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、取締役を経て作家に。『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『昭和史 1926-45』『昭和史 戦後篇 1945-
89(毎日出版文化賞特別賞)

発行日           2012.6.20. 初版第1
発行所           平凡社

初出 隔月刊の総合文芸誌『こころ』(2011.6.創刊)Vol. 16連載

「軍人は常に過去の戦争を戦っている」の言葉通り、昭和史や太平洋戦争をより深く知るために、日露戦争史が必要

プロローグ     明治3724
近代日本史のノー・リターン・ポイント ⇒ 第2次大戦前は40.9.27.の三国同盟締結。明治期では04.1.12.御前会議 ⇒ 全員が戦争不可避と主張する中で、天皇は「なおもういっぺん外交交渉を続けてみよ」との指示
陸軍兵力は、現役将校7500、下士官兵19万、他に予備・後備役あわせて235
ロシアのアジア正面の動員は30
海軍は、ロシアの東洋艦隊192200トンに対し、日本は318千トンに加えて、アルゼンチンが建造したばかりの春日と日進をイギリスの仲介で購入、2週間以内に到着
24日 天皇が戦争の「裁可」を下す決断 ⇒ 涙潸々(せんせん)として下る

第1章        日英同盟が結ばれた日
01.1.22. ヴィクトリア女王逝去 ⇒ イギリスの栄光に翳り。ボーア戦争で苦戦。ヨーロッパでは大陸随一の陸軍を誇るドイツに圧倒され、ロシアとフランスが接近してロシアがアジアで南進を計る(滿洲に兵力を常駐)
96年 露清秘密協定 ⇒ 日本を敵視し、その攻撃に対して共同の防衛を約束。日本はその存在を知らずに日露戦争に突入したが、清国は局外中立を厳守
満韓交換論を主張する伊藤博文が日露協商の交渉をするためにロシアに行ったすきに、小村寿太郎外相を中心とする日英同盟派が山縣、桂首相を動かして同盟締結にこぎつける
伊藤は、私人としてロシアを訪問するが、皇帝ニコライ2世、知日派のウィッテ蔵相、ラムスドルフ外相等に大歓迎を受けるが、日本による韓国併合には難色
02.1.30. 日英同盟締結 ⇒ 英国外相ランズダウン、駐英公使林董(ただす)が調印

第2章        不可解! ロシアの背信
対露問題できりきりしていた人心が、日英同盟締結で、憑き物が落ちたように恐露病がいつしか癒えた
同時に、01年秋に就任したばかりのルーズベルト大統領が、天皇に心からの友好の気持ちを表明した親書を送ってきたり、日英と歩調を合わせるかのように清国の対露政策を、アメリカの門戸開放・機会均等との提唱に反していると強く警告を発し、日本政府が小躍りした
02.3.16. 露仏同盟強化を宣言、同盟の効力はアジアにも及ぶと、さながら日本を恫喝
露西亜では皇帝を取り巻く2つの派閥抗争 ⇒ 穏健派はウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンで、強硬派は侍従武官ベゾブラゾフ、プレーヴェ内相、アレキセーエフ海軍大将
ドイツの皇帝カイゼルがニコライの後ろにいて、「黄禍」(カイゼルが言い出した言葉)との戦いを煽る
日英同盟の締結と、ロシアが譲歩した露清条約により、日本政府も陸軍も戦争の危機が遠のいたことを喜んだが(実際にも02.10.ロシアが滿洲からの撤兵を開始)、海軍は決して楽観することなく従来からの六・六艦隊計画(戦艦6、巡洋艦6)を進め、02年戦艦三笠(15,362t)がイギリスのヴィッカース社で完成、兵力も36千と3倍増になり、自信をつけてきた ⇒ 三笠の乗組員をイギリスまで運んだのが日本郵船の北米航路の貨客船信濃丸で、05.5.27.「敵艦隊見ユ」の第1電を三笠にリレーしたのもこの信濃丸
陸軍もイギリスとの間に協定書を締結したが、南ア戦争が終結したばかりで消耗しきった英国陸軍のアジアでの支援は期待できず
陸軍の大御所山縣にとっては、海軍一辺倒の増強が気に入らず、そのうえ、元々大元帥陛下を輔翼する大本営の幕僚長は統帥一元化のために陸軍の参謀総長と1本に絞っているにもかかわらず、海軍からは戦時には参謀総長と海軍軍令部長が同時に首席幕僚となる改定案が持ち出され、神経を逆なでされている
03.4. ロシアによる第2期滿洲撤兵の約束を破るどころか兵力を増強し清国の列強による分割すら公言しだし、日本の北韓における権益擁護すら危うくなってきた

第3章        世論沸騰「断乎撃つべし」
03.6. 陸軍大臣クロパトキン大将が訪日
ロシアは、鴨緑江流域の木材利権を活用するために国策会社を設立して河口両岸への進出を図る ⇒ 強硬派の根回しによって極東太守(総督)を設置しアレキセーエフ海軍大将を任命して懐柔、更に首相を置かないロシアでは実質首相の役を担っていた蔵相のウィッテも更迭、クロパトキンも休暇命令で追い払われ
メディアがこぞって戦争気分を煽り、国論が対露開戦で盛り上がる ⇒ 滿洲の占領すら言い出す

第4章        対露作戦計画成れり
03.10. 第3期撤兵でもロシアは一兵たりとも動かずどころかさらに増強
対露作戦の中心だった参謀次長田村少将が急逝、児玉内相が異例の降格で後任に ⇒ 親任官の内相から勅任官の次長では2段階の降格となるため、親任官の台湾総督を兼務。次期首相とも目された人物の参謀次長就任に軍部は喜んだが、平和的妥協を第一と考える天皇は戦争人事そのものと憂う
海軍も、戦争に備えて連合艦隊の編成を企図、山本権兵衛海相が中央の指示を確実に実行してくれる現場の長官として予備役寸前だった舞鶴鎮守府司令長官東郷平八郎を抜擢
03.8. 日露外交交渉開始 ⇒ 満韓問題に関する対露協商案を出すも拒否。ロシア側の開戦準備の時間稼ぎとしか見えない引延しに遭って、交渉は行き詰る
03.12. 帝国議会開催に当たっての議長奉答文で河野広中議長が対露優柔不断の内閣を弾劾、議会は通常の儀礼的奉答文と思って「異議なし」としたため、桂内閣は解散・総選挙へ ⇒ 世情不安が増し開戦論一色に
陸軍児玉次長、海軍山本海相の頂上会談で、大本営条例の改正(長州が作り上げた「陸主海従」を対等にしたことが日露戦勝利に有効だったが、太平洋戦争をみると歴史的快事と称讃ばかりしていられない)と、巡洋艦2隻の購入(「春日」と「日進」で、1日遅れていたらロシアに取られていた)が決まる

第5章        いざ開戦、そして奇襲攻撃
03年末 陸海軍とも臨戦態勢に入る
慎重派の旗頭は、伊藤博文と山縣有朋だが、山縣ですら「刀をさげての談判の時」と言う
年初にドイツ皇帝が、「朝鮮は貴国の物」と、ロシア皇帝を煽動
開戦は、巡洋艦2隻の到着の目処がついたところで行うこととなる ⇒ イタリアから回航される2隻にはロシア艦隊が付き纏ったが、英艦隊が威嚇して2隻を保護
04.1.16. 対露最後通牒、解答ないまま2.6.国交断絶を通告。2.10.宣戦の詔書発布
2.9. 仁川港に陸兵を上陸させた後、港内にいたロシア艦船2隻と戦端を開き両艦を撃沈
同日未明、旅順港を水雷戦隊が襲い、3隻を航行不能に ⇒ 暗闇で戦果不十分
夜明け後、連合艦隊本体による旅順港の敵艦隊への砲撃も開始 ⇒ 黄海の制海権は掌握したが、戦果は初期の狙い通りには上がらず
ロシアも攻撃を受けて、対日宣戦布告 ⇒ 日本が国交断絶だけで戦争を始めたという批判があるが、外交断絶の通告は戦争の前段階と見做され、国交断絶の通告の中にも「日本は以後最良と思う行動を取る」と記されており、宣戦と同義であることは国際法上も認知
石川啄木(18) ⇒ 渋民村小学校の教師。在京の先輩野村胡堂(22)からの号外売りの知らせを受け、祖国を「詩美の国」と讃え、「あらゆる不平を葬り去りて」と叫び昂奮
伊藤左千夫(40) ⇒ 「至大の快感と至惨の感慨とをもって全国民の脳髄は攪乱せられ」と友人に手紙
幸田露伴(37) ⇒ 7年振りの小説『天(そら)うつ浪』を前年9月から読売新聞に連載中だが、宣戦布告の日に中止となり、無念の思いを込めた読者への別れの辞を掲載
永井荷風(25) ⇒ 処女作品『夢の女』が認められたばかりで、タコマに語学習熟のため留学中。9日の日記で既に開戦を記載しているが、文学的に苦悶の毎日を送っていたこともあって扱いはそっけない

第6章        旅順港外戦と鴨緑江突破戦
旅順港口閉塞作戦に応募者が2000名 ⇒ 5隻の閉塞船に76名。2回目の作戦で水雷長広瀬少佐が戦死、閉塞船は湾口入口から550mにしか近づけず、結局功を奏したのは、ロシア艦隊の行動から航路を見抜いて機雷を設置したことで、旗艦の撃沈とロシア艦隊の至宝マカロフ提督の死亡に繋がる
森鷗外 ⇒ 第2軍軍医監として従軍。従軍詩歌集『うた日記』を出す
田山花袋 ⇒ 第2軍の従軍写真班として参戦。従軍の記録『第二軍従征日記』を刊行



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