ウィーン・フィルとともに ワルター・バリリ回想録  Walter Barylli  2012.11.24.


2012.11.24. ウィーン・フィルとともに ワルター・バリリ回想録
Ein Philharmoniker Einmal Anders(いつもと違うフィルハーモニカー)     2006

著者 Walter Barylli 1921年ウィーン生まれ。5歳からヴァイオリンを弾き始め、ウィーン国立アカデミー(現ウィーン国立音大)に学び、その後ミュンヘンでロイターに、更にウィーンでマイレッカーに学ぶ。36年ミュンヘンでソリストとしてデビュー。3817歳でウィーン国立歌劇場管弦楽団及びウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に入団。39年両楽団の第1コンサートマスターに就任。並行して独奏者としても活躍したほか、45年にはウィーン・フィルの同僚たちと「バリリ四重奏団」を結成、59年頃まで精力的に録音や世界各国へのコンサートツアーを行う。当時の演奏は、ウェストミンスター・レーベルに多数収められており、現在でも歴史に残る名演として多くのファンに愛されている。57年にバリリ四重奏団の一員として初来日。67年ウィーン・フィル楽団長に就任。73年に惜しまれつつ引退、69年頃から行っていた後進の指導へと活動の中心を移す。86年ウィーン音楽院教授の職を退き、ウィーン楽友協会理事に就任

訳者 岡本和子 オーストリア社会・文化史研究、通訳・翻訳家。慶應大及び上智大非常勤講師。48歳までパリ、8歳から高校卒業までウィーンで育つ。ウィーンの独仏バイリンガル・スクール卒、仏バカロレア取得後帰国。慶應大美学美術史学科(音楽学、音楽史)卒、東大大学院ドイツ語独文学科修士課程修了。専攻はオーストリア文学史。NHK衛星放送の独・仏定時ニュースの同時通訳のほか、各種国際会議の通訳を務めるほか、クラシック音楽の世界にてFM音楽番組や雑誌で司会、インタヴュアー、エッセイスト、プロデューサーとしても活躍。CD解説文の翻訳、英独仏語の歌曲やオペラの翻訳・字幕も多数手掛ける。

発行日           2012.10.31. 第1刷発行
発行所           音楽之友社


はじめに
貧しく、生きていくだけで精一杯だった20年代から30年代。そんな厳しい時代であったにもかかわらず、両親は美しいもの、特に音楽を楽しむ心を忘れなかった。こうした両親の人生観がわたしに与えた影響は大きい
2005年 オーストリアでは50年前と60年前の出来事を追悼する様々な式典が開かれた
終戦、国家条約、そして空襲で破壊されたこの国の象徴であるブルク劇場と国立歌劇場の運営再開…・
ベルヴェデーレ宮殿で連合軍4か国の外相とオーストリアのレオポルド・フィーグル首相が国家条約の調印に臨んでいたのとちょうど同じ時間に、私たちウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はアンドレ・クリュイタンスの指揮で第8回定期演奏会を弾いていた。当時の私たちはベルヴェデーレ宮殿で起きていたことがどれほど歴史的に重要だったか、あまり理解できていなかった
1955.11.5. 国家行事の締めくくりのイベントとして国立歌劇場が再び華やかに幕を開けた ⇒ 記念コンサートの模様はテレビで生中継されたが、途中ドキュメンタリーが放送され、我々夫婦は45年に歌劇場が空襲に遭った時のこと、そして戦時中の出来事を実際目の当たりにした生き証人として証言を寄せた

1914年 両親は、前線に向かう兵士と停車場で兵士に花を渡す小娘として出会い、一目ぼれで結婚。ハプスブルク帝国崩壊で、両親の苦労が始まる。ウィーン市内で食料品店を開く
国立音楽アカデミーでヴァイオリンを学んでいた叔父に手ほどきを受けたのが、ヴァイオリンに馴染んだ最初

1.        オーストリア共和国~相次ぐ改革
ザイペル首相がジュネーヴの民族同盟に働きかけて援助を得たのが改革の成功へのきっかけとなる

2.        転機の1
少し生活状態が改善。叔父の指導でヴァイオリンの稽古は続ける

3.        夏、涼を求めて
両親がピアノを購入
27年 失業と貧困が原因で市民革命に発展
国立アカデミーに合格、マイレッカー教授のクラスに配属。弦楽器クラスだけを対象にした「フリッツ・クライスラー賞」という学内コンクールに32,33年と連続優勝
34年 防衛弾が蜂起、ドルフス政権による弾圧が始まる
33年 ウィーンで著名なヴァイオリニストのロイターと出会い、翌年ミュンヘンの師の家に下宿して修行が始まる
36.5. ミュンヘンでデビュー、以降ソリストとして演奏旅行したり録音したり活躍
38年秋に国立歌劇場とウィーン・フィルでヴァイオリンのポストに数席空きが出ることになり、オーディションを受け無事パス。9月から晴れて楽団員となる
収入の安定した国家公務員となる一方、国内外でのソリストの演奏活動も並行して行う

4.        運命の日~1938.9.1.
最年少楽団員として末席に座る ⇒ オーケストラの経験がなかったので、合せるのが大変、オーケストラで演奏することの楽しみや、交響曲、オペラ等の演奏の楽しさを知る
国立歌劇場管弦楽団とウィーン・フィル双方を兼任する4人目(他の3人はマイレッカー、シュナイダーハン、ボスコフスキー)のコンサートマスターのポストが新設されることになり応募、39年シーズンからコンサートマスター契約に変更
ソリストとしての道も捨てきれなかったところ、マイレッカー教授の勧めで、自らの名を冠した弦楽四重奏団を作る(43年初め頃設立し、オーケストラと並行して演奏)
ドイツによる併合でウィーン・フィルハーモニー協会の解散令が出たが、フルトヴェングラーの尽力で撤回されるとともに、ベルリン・フィルと同等の権利が認められ、楽員が兵士として招集(ミスタイプ)されずに済む
39年の末の2日間、ウィーン・フィルの定期演奏会の公演で、クレメンス・クラウスが最初のニューイヤー・コンサートを指揮、プログラムは全てヨハン・シュトラウス父子の作品、バリリも出演(41年の第2回から元旦に開催)
クラウスは、バリリが36年デビュー後に、ドレスデン国立歌劇場のコンサートにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のソリストとして招聘してくれ、その後も何度か共演
42年 戦禍のウィーンでウィーン・フィル創立100周年の豪華な記念式典挙行、リヒャルト・シュトラウスから祝辞には、「今さらウィーン・フィルに賞賛の言葉を届けるなど、ウィーンにわざわざヴァイオリンを持っていくに等しい、余計な行為と言える」とあった
フルトヴェングラーは、レオノーレ序曲第3番のリハーサルで、ありったけの情熱を込めてクレッシェンドの激しい動きをするがオーケストラがついて行かない。「その箇所にはクレッシェンドが書かれていないので」とコンサートマスターに優しく注意されたフルトヴェングラーは、「確かに。でも、あまりにも美しくて!」と答えたという
43年 ウィーン国立歌劇場ではカール・ベームが総監督に就任、アンサンブル強化に尽力
43年 フルトヴェングラーと共に中立国のスウェーデンやデンマークに演奏旅行に出る
43年 ザルツブルク音楽祭は、創立者の1人がユダヤ人の天才演出家マックス・ラインハルトだったため、ナチスは廃止しようとしたが、ウィーン・フィルが自分たちの自主公演にすることで開催が認められたが、後押ししてくれたのがクレメンス・クラウス。「ザルツブルクの演劇・音楽の夏」という名称に変更、演奏は全てウィーン・フィル、指揮はクラウス
ウィーン・フィルの定期演奏会も、ニューイヤー・コンサートも予定通り行われていたが、団員が狂気の時流に乗らずに済んだのは、ひとえにフルトヴェングラーのお蔭で、オーケストラは永遠に彼に感謝しなければいけない
44年も国立歌劇場の公演は6月末まで継続。その後すべての劇場が閉鎖。45年空襲に遭う前の国立歌劇場の最後の上演はリヒャルト・ワーグナーの《神々の黄昏》、指揮はクナッパーツブッシュ
448月の「ザルツブルクの演劇・音楽の夏」では、リヒャルト・シュトラウスの新作オペラ《ダナエの恋》の世界初演を予定、直前のヒトラー暗殺未遂事件ですべての音楽・演劇祭の中止が命じられたが、作曲家立会いの下に実行され、シュトラウスから感謝の言葉がかけられた
この年の夏、ベルリン当局はウィーン・フィルにあと1つだけ公演を許可 ⇒ フルトヴェングラーの指揮でブルックナーの交響曲第8番を演奏
ウィーンでの定期演奏会は続けられ、楽友協会は常に完売。45年のニューイヤー・コンサートも例年通り開催し大成功、追加公演が行われた
戦争中に写真館の女性経営者リリアン・ファイヤーと知り合い結婚 ⇒ 軍人の息子で国家公務員が完全なアーリア人以外と結婚するのは如何なものかという非難があったが無視
演奏会のポスターを手書きにしながらも続けられ、当時の政権下の最後の公演は42

5.        日記
終戦までの数週間につけた日記
空襲が激化する最中、当局からウィーン・フィルに、ザルツブルクでクレメンス・クラウス指揮の下、俗に「信義のコンサート」と呼ばれる公演を行うよう命令が下り、慰問公演を行う
410日未明ロシア軍がドイツ軍を駆逐してウィーン市内に侵攻、楽団員は揃って地下室に潜り共同生活を続ける ⇒ ロシア兵に脅かされながらも、漸く被害の比較的少なかった楽友協会に戻ることが出来、419日には舞台に上がり、クラウス指揮でチャイコフスキーの交響曲のリハーサルを行っていた ⇒ 427日にコンツェルトハウスで戦後初のウィーン・フィル公演開催

6.        新しい門出
戦後の10年間、オーストリアは連合国4か国の占領下におかれ多くの国民が苦労を強いられたが、それまでとは比べ物にならないほど安らかな日々を送ることが出来た
敵味方の間に最初の友情の橋をかけたのはやはり音楽 ⇒ 454月ソヴィエトから超一流の有名な(オーストリアでは無名)3人の演奏家がウィーンのコンツェルトハウスのモーツァルト・ザールで終戦後最初の演奏会の1つを開く ⇒ オイストラフ、アヴャトスラフ・クーセヴィツキー、オボーリンの3人。プログラムは全てシューベルトのピアノトリオ
終戦合意から間もなく、ナチス時代に数人の同僚が取った政治的姿勢について処遇を決めるため、ウィーン・フィルの楽員からなる特別委員会が設置され、責任を問われた同僚のほとんどは、「ただ同調しただけ」と見做され、「非ナチス化済み」でお咎めなしとなり、すぐに国立歌劇場とウィーン・フィルの仕事を続けることが出来た。しかし、声高にナチスへの支持を表明していた2人トランペットノヘルムート・ヴォビッシュとコントラバスのヴィルヘルム・イェルガーの2人は2年間の職務停止。ヴォビッシュは再びオーディションを受けて復帰。クラウスやクナッパーツブッシュ、フルトヴェングラーも2年間の出演禁止
ウィーン国立歌劇場のアンサンブルによる戦後初の公演 ⇒ 45.5.1.フォルクスオーパーにて、アントン・パウリク指揮モーツァルトの《フィガロの結婚》でシーズン幕開け

7.        終戦後最初のシーズンを迎えて
戦後第1回目の年間定期公演シリーズ ⇒ 指揮はヨーゼフ・クリップス(ナチス時代に指揮活動を禁じられ、戦後のちに伝説となる「ウィーン風モーツァルト・スタイル」を築いた第1人者)、ルドルフ・モーラルト、フェリックス・プロハスカ、カラヤン
46年夏からザルツブルクでの活動も再開 ⇒ ザルツブルク音楽祭の名称に戻る
47年 戦後初の海外公演でフランスへ、指揮はクリップス
同年秋 ブルーノ・ワルター指揮でのエジンバラ公演も印象的。天才的芸術家との戦後初の劇的な再会で大変な緊張感に包まれた。アインザッツを前にワルターが一言「既に音が大きすぎます」。第1共和政時代のウィーンと同様車が左側通行だったことに驚く。
チケットは完売、大成功だったが、もう1つ我々若手に大きな経験をもたらした ⇒ マーラーの音楽を初めて知った

ショルティとの想い出 ⇒ 当初お互いの関係はあまり良くなかった。ショルティの方が手こずっていたというべきか。アメリカのオーケストラを指揮していた彼は、指揮棒を振り降ろした瞬間に音が鳴ることに慣れていたが、我々はそれを固すぎると考え、指揮棒が振り降ろされてから少し間を置いて出るのが我々の音の出し方だった。徐々にお互いの癖に慣れて素晴らしい名演が実現

8.        愛しきザルツブルク
37年のザルツブルク音楽祭は、結果として常連だった多くの音楽家や演劇人との別れの年となる ⇒ オーケストラ・コンサートでの指揮者ではロジンスキ、クナ、ワルター、トスカニーニ、フルトヴェングラーが、オペラではトスカニーニ、ワルター、クナがいた
38年夏の準備には、トスカニーニ、ワルター等が、「こうもり」をラインハルトの新演出、新進の若手指揮者カラヤンによる上演を企図したが、全て新しい政権の意向に沿った内容に変更され、このようなセンセーショナルな企画が実現されなかったことは誠に残念
38年の指揮者は、オーケストラではクナ、エドヴィン・フィッシャー、ベーム、ヴィットリオ・グイ、フルトヴェングラーが、オペラではフルトヴェングラー、ベーム、クナのみ
バリリは39年からウィーン・フィルの一員として毎年参加、40年にはレハールが自作のオペレッタの名曲を、ウィーン・フィルを自ら指揮して聴かせるという珍しい演奏会で弾いたことが忘れられない
フランツ・スッペ、カール・コムツァーク、リヒャルト・ホイベルガー、カール・ツィーラー、ヨーゼフとヨハン・シュトラウスの作品を並べたコンサートを巨匠のクナが指揮するという一風変わった公演もあった
エルンスト・アンセルメ、ウィレム・メンゲルベルク、バルビローリ、ミンシュといった客演指揮者も我々の指揮台に立った
ウィーン・フィルの団員にとってザルツブルクは第2の故郷、第2の妻(53年結婚)が所属するウィーン国立歌劇場合唱団も音楽祭に欠かせない存在
名指揮者ミトロプーロスと初めて共演したのもザルツブルク。いきなり管楽器奏者を一人一人名前で呼んで大変な記憶力の持ち主であることに驚かされたが、オペラのリハーサル中にあまりにも早い死を迎えたのは残念
59年 バリリ四重奏団はザルツブルク音楽祭での最後の公演をおこなう

9.        バリリ四重奏団
戦後メンバー2人が交代、楽友協会で定期的に演奏会を開き、戦時中禁止されていた作曲家の作品を積極的に採りあげる ⇒ クルシュネク、エゴン・ヴェレッシュ、バルトーク、ヒンデミット

10.    カルテットと南米へ
50年のブラジル・アルゼンチン・ツアーは、戦後招聘された最初のヨーロッパの弦楽四重奏団となリ、直前にチェロのハンス・チェッカが急逝したにもかかわらず、50日間の公演を無事こなし大成功、翌年の招聘もすぐに決まる
翌年の公演後、ザルツブルクまでの間にヴィオラのグリューンベルクが急逝し、一旦四重奏団の活動は休止したが、シュナイダーハンの四重奏団でシュナイダーハンが辞めることになり、その第1ヴァイオリンとして加わる ⇒ 楽友協会総裁から、「ムジークフェライン四重奏団」の名でシリーズをやらないかとの提案があり、同協会の歴史上初めて協会の名前を持つ協会お抱えのカルテットが誕生、それ以外は「バリリ四重奏団」の名前で活動
他のメンバーは、第2ヴァイオリンがオットー・シュトラッサー、ヴィオラがルドルフ・シュトレング、チェロがリヒャルト・クロチャック(55年にウィーン・フィルの首席エマヌエル・ブラベッツに交代)
57年の世界ツアーが頂点
60年 個人的事情でカルテットを去る

11.    世界をめぐる弦楽四重奏団
57.10.12. 北米、日本を巡るツアー
ニューヨーク・デビューはカーネギーホールの小ホール
初の訪日は、ラジオ東京(TBS)の招き
43公演

12.    ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団長として
67.1.69.1. 楽団長に任命 ⇒ シュトラッサーの後任
ウィーン・フィル創立125周年記念行事が最大の仕事

13.    悲痛な音
右腕を垂直に伸ばせなくなり、音を発するときに支障をきたすようになる
他のコンサートマスター仲間に助けられながら73年まで両方の仕事を続けることが出来たが、35年の勤務を経て退職

14.    教育活動
69年 ウィーン市立音楽院のヴァイオリンと室内楽のクラスを受け持つ ⇒ 個人レッスン以外では初めての教える経験
ウィーン市の音楽学校経営委員会委員長も経験し、教育改革や教師の待遇改善を行い、8665歳で教職も退く
楽友協会の理事に ⇒ 理事会のボックス席には男性しか入れない。夫人は別席を用意

15.    愛する家族
ウィーン郊外のプレスバウムに住み、夏はザルツブルク郊外のヴァッラー(ヴァラー)湖畔の別荘で過ごす

16.    プレスバウムの家
57年購入、3600

17.    3人の息子たち
最初の結婚で2人の男児アンドレアスとゲオルク、2度目の結婚で1人の男児ガブリエル
上の2人は母親の写真館を引き継ぎ、3男は俳優、監督で戯曲も書く

18.    旅は人生を豊かにしてくれる
19.    再び日本へ
バリリ四重奏団もバリリ個人も、ウェストミンスター社と独占契約を結び、録音は全てウィーンのコンツェルトハウスで行っていたが、会社はいつの間にかなくなり、レーベルだけが残っていたが、日本のMCAヴィクターが録音のマスターテープをすべて買い取りCD化された
95年 ウィーンで長く活躍していたピアニスト今井顕からの誘いにより日本でマスタークラスを持つ
インタビューの通訳だった岡本嬢から自伝の出版を勧められ、この本が出来た

20.    私のフランス生まれの恋人
1830年 パリでジャン・バプティスト・ヴィヨームによって製作
1940年 ウィーンの有名なヴァイオリン制作者カール・カルテンブルンナーの店で手に入れた


訳者あとがき
今井顕からマスタークラス企画の手伝いを打診されたのが契機となってバリリと知り合う
本書を、東日本大震災のときに「演奏などしていてよいのだろうか」と深く悩み、時に無力感に苛まれ苦しんだ日本の多くのプロの演奏家たちに捧げたい。戦時中、様々な意味で極限状態にあったウィーン・フィルの1人の団員の貴重な証言から、何等かのヒントが得られるかもしれない


ウィーン・フィルとともに ワルター・バリリ著 戦争の混乱と名指揮者との交流 
日本経済新聞朝刊20121111日付フォームの始まり
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 ウィーンを拠点とするバリリ弦楽四重奏団は、1940年代から50年代にかけて活躍、LPレコードや57年の来日公演などを通じ、日本のクラシック好きにも愛好された。その気品ある演奏をいまもご記憶の方も多いだろう。
(岡本和子訳、音楽之友社・2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(岡本和子訳、音楽之友社・2400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 これはその第1ヴァイオリン奏者であり、同時にウィーン・フィルのコンサートマスターとしても長く活躍した、ワルター・バリリの回想録。
 21年、ハプスブルク帝国崩壊直後の混乱期のウィーンに生れ、生地とミュンヘンでヴァイオリンを学び、独奏者としての活動をへて、38年にウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーン・フィルの双方に入団。翌39年には、わずか18歳でこの世界有数のオーケストラのコンサートマスターの一人に昇格する。
 それはちょうど、オーストリアがナチス・ドイツに併合され、第2次世界大戦に参戦、やがて敗れてウィーンが大きな被害を受け、ソ連軍の占領下におかれる時期にあたっていた。
 前半は、この苦難の時期にあてられる。ウィーン陥落前後の日記には戦火と略奪への恐怖が詳述される。一方、演奏会や歌劇場での、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ベームなどの名指揮者の指揮ぶりも描かれる。戦後の、ワルターとのリハーサルでの最初の一言というのが、じつにこの指揮者らしくて愉(たの)しい。
 そして後半は、戦後のバリリ弦楽四重奏団の活動が中心となる。メンバーの交替をへて最後はウィーン・フィルの首席奏者ばかりの顔ぶれになったことや日本ツアーの模様など、その録音をいまも愛聴するファンには、当事者による回想は嬉(うれ)しい贈り物だろう。
 それほど厚い本ではないので、回想は断片的でムラがあり、同僚や指揮者たちへの批判的な言辞は避けられているから、記述はやや表面的だ。また、後半生の音楽活動を制限させた右腕の故障についても、簡単にしか触れられていない。だがこれらは、温雅な人柄の現れなのだろう。著者所蔵の写真や図版が多く、視覚面でも楽しめるのは大きな魅力である。
(音楽評論家 山崎浩太郎)


Wikipedia
ワルター・バリリWalter Barylli1921616 - )はオーストリ出身のヴァイオリニスト
ウィーンに生まれ、ウィーン音楽院フランツ・マイレッカーに師事。ミュンヘンフロリゼル・フォン・ロイターen:Florizel von Reuter)の指導も受けた。 1936にミュンヘンでデビューを飾り、1938にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に入団、1940には同団のコンサートマスターに昇格した。1945からはバリリ弦楽四重奏団(en:Barylli Quartet)を結成し、1959に右肘を痛めるまで活動を継続した。1969以降はウィーン音楽院で後進の指導に当たっている。
息子はオーストリアの俳優で劇作家のガブリエル・バリリ

バリリ四重奏団 / ベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集
様々な人種と文化が交差して深遠に混じりあって作り上げられたウィーン気質。そんなウィーンの伝統を体現するバリリ四重奏団が1950年代初めに録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲全集。バリリ四重奏団は1945年に誕生し、1959年に第1ヴァイオリン、バリリの右ひじの故障のため解散しました。故障が無ければ、その後いったいどれほどの録音が残されたのだろうか、と惜しまれてならない流麗なアンサンブルがここに刻まれています。(ユニバーサル・ミュージック)

二十五年ぶりの再会 バリリの往年の名演を聴いて   
 「このような素晴しい音で、私の若い頃の演奏と再会することが出来るとは・・」スタジオで涙ぐんで耳を傾ける老紳士。その人こそ、往年のウィーン・フィルの名コンサートマスター・ワルター・バリリその人であった!
 この素晴しいキャッチ・フレーズは私を即座にレコード・ショップに走らせました。
いかにも「売らんかな」という姿勢が見え見えの宣伝文句が氾濫する昨今、評論家やレコード会社のではなく、演奏家自身が語った言葉というのは、同じ営みを生業とする小生の琴線を、いやがうえにもくすぐったのです。
 大学時代にさんざん聴き、また仲間たちと何度も合わせて楽しんだベートーヴェンのセプテット・・当時のレコードは「室内楽愛好会選定」と銘打った、しかし実体は悪名高き人工ステレオで、なおかつツメコミという、ものすごいものでした。
 でも小生はニセ・ステのウワンワンいう残響、それなりに好きだったし、ツメコミも貧乏学生にとっては、とても有難かったんです。
 ( なにしろセプテットがレコードの片面に全部入ってたんだから!!)
そんなレコードを、安物の卓上プレーヤーの擦り減った針で聴くものですから、フォルテのところでは「バリ、バリリ」と音が割れたりして、「うーんさすがバリリだ 」なんて感心していたのも、今となっては、懐かしい青春時代の思い出です。
 で、このマスター・テープによる、二十ビット・スーパー・コーティングを売り物とする新盤なのですが、その見違えるような素晴しい音に、まずビックリしてしまいました。
バリリ氏の、伸びやかでよく歌うヴァイオリンもさることながら、卓上ステレオ時代にはほとんど聴き取る事の出来なかったオットー・リューム氏のコントラバスの、何とよく歌っている事! ウィーン風のくすんだ音色と共に、しばし陶然としてしまいました。
 この一枚だけ、と最初は思っていたのですが、もういけません。 イマイチ苦手な木管グループのもの以外、全て購入の予約をしてしまいました。
 ( こんな素晴しいCDの価格を、一枚千九百円に抑えこんでくださったMCAビクターに、今とても感謝しています。) そして一人深夜居間で、あるいは車の中で楽しんでいます。
 バリリ氏のヴァイオリンを聴いていると、何かとても懐かしい気持ちを感じます。 思うに近年の演奏スタイルは「考えぬかれた、才気だった演奏」があまりに多く、そのような傾向にどっぷりつかってしまっている我々の耳には、バリリ氏の「自然な」演奏は、かえってとても新鮮に感じられるのではないでしょうか。
 今日はバッハのヴァイオリン協奏曲を改めて聴き、えも言われぬ感動を覚えました。
CD
のオビに、「そのせつない音色が聴くものの心を打つ絶品」とありましたが、まさに言い得て妙、厚手で鳴り切ったロマンティックな弦楽に乗って、旋律は心ゆくまで歌い込まれ、心にグイグイ浸み込んで来る・・・・私がレコードからこんな感動を覚えたのは、たしかリヒターの「マタイ」を、初めて耳にした時以来ではないかと思います。 
 この演奏を耳にした後では、最近ハヤリの古楽器による演奏・・・やたらせせこましいテンポ、ノンヴィブラートによる空虚で単調な音色、アーティキュレーションの過度な強調によるトゲトゲしさ等々・・・が、私にとっては何とも空しいものに思えて仕方ありません。
 演奏の様式を研究する事によって、その表現方法が多彩になっていく事は歓迎すべき事ですが、その方法は、あくまで心からの感動を得るための手段でなくてはならない、という事をひょっとしたら現代の古楽器奏者たちは、忘れがちになっているのではないか? という事にまで、思いを巡らせるような演奏でした。

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