世にも奇妙な人体実験の歴史  Trevor Norton  2012.10.23.


2012.10.23.  世にも奇妙な人体実験の歴史
Smoking Ears and Screaming Teeth A Celebration of Self-Experimenters
2010
表題の内容については本文第13章参照

著者  Trevor Norton 英国リヴァプール大学名誉教授。専攻は海洋生物学。海の生態系について啓蒙活動を行う一方、科学史にも興味を持ち、科学者たちが挑んできた実験を自ら追試してきた

訳者 赤根洋子 翻訳家。早大大学院修士課程修了(ドイツ文学)
解説者 仲野徹 1957年大阪府生まれ。阪大大学院医学系研究科教授。分子生物学者。細胞の分化、エピジェネティックス制御などを研究テーマとする。おもしろいノンフィクションの紹介を目的とする「HONZ」に参加

発行日           2012.7.10. 第1
発行所           文藝春秋

マッド・サイエンティストの世界
古代ローマの潜水夫が口にオイルを含んでから海に潜ったという実験の追試を思いついてやってみた。が、見事に失敗。オイルを飲み過ぎて1週間下痢に苦しんだ
どうして科学者はそんなことをするのか
これは、利他精神と虚栄心、勇気と好奇心の奇妙な物語

第1章        淋病と梅毒の両方にかかってしまった医師――性病
18世紀において医者とは、医薬に精通した教養ある内科医か、鋸で実際に手を下す外科医かのどちらか、古代以来の言い伝えや俗説にどっぷりつかっていて、医学研究は停滞、医療水準は数百年間ほとんど向上していなかった
スコットランドの農家出身のジョン・ハンター(1728)が外科を商売から科学へと変えた(天然痘ワクチンの開発者エドワード・ジェンナーの師)
解剖に熟達し、戦時中は軍医として銃創治療の権威
解剖用の遺体を確保するため、以前は遺体盗掘が横行したり、近年では臓器移植のために葬儀屋が臓器を暴くことまでしている
ハンターは、また人工授精や臓器移植の先駆けであり、王立協会員に選出され、性病研究の権威となった
当時は患者全体の1/4が性病(ヴィーナスの病) ⇒ 主なものは梅毒と淋病
ハンターは、淋病と梅毒は単に進行段階が違うだけで同一の疾患だという仮説を立てて、それを自分の体で確かめようとした ⇒ 淋病患者の膿をペニスに塗りつけたが、患者が同時に梅毒にかかっていたため、いきなり梅毒の症状が現れ、慌てて有毒な水銀で口を繰り返し漱いで治療した
アラバマ州では、黒人の梅毒が白人と同じように進行するかどうかを調べる研究が行われた。梅毒に感染した貧しい黒人小作農を40年間観察、告知もされず、治療も受けられず、ただ検査漬け。アメリカ公衆衛生局から資金提供さえあり、医学界も州の政治家も公認。1972年にあるジャーナリストによって暴露され、1997年クリントン大統領が謝罪
当時、自分を実験台にする勇気を持っていたのはハンターだけだった。しかしその後、大勢が彼のあとに続く

第2章        実験だけのつもりが中毒者に――麻酔
1804年 華岡青洲が、母の死と妻の失明の代償として麻酔を発明して乳がんの摘出手術に成功したが、鎖国の日本の情報は世界に広まることはなかった
ハンフリー・デービーが、医療気体研究所で、亜酸化窒素を麻酔剤に使うことを研究したが、「笑気ガス」として一時的な快楽用にしか用いられないまま40年放置 ⇒ 1844年コネティカットの歯科医が目をつけて抜歯の際に使ったところ、無痛でできた
次いで、硫酸とアルコールを混合すると発生するジエチルエーテルの方が効果が高いことが分かり、手術に成功するとともに、「麻酔」(Anesthesia:「無感覚」の意のギリシャ語)という言葉を初めて使う ⇒ ひどい臭いが肺を刺激して、麻酔が効くまで患者はのた打ち回る
1847年クロロホルム発見 ⇒ 爆発物の研究中に興奮剤の塩素エーテルを作ろうとして間違ってクロロホルムのアルコール溶液を作ってしまったが、これが甘美なアルコール飲料として大人気となる ⇒ 16年後にエジンバラの産科医ジェームズ・シンプソンが出産にクロロホルムを投与、無痛分娩に成功。数週間のうちに同病院でのすべての手術に利用された
安全性が確立されたと思った頃死亡例が急増、クロロホルムの適量と心臓麻痺を引き起こす致死量が紙一重であることが分かるのは、それから何年も経ってからのこと
最初の局所麻酔が成功するのはさらに40年後 ⇒ コカインは最初モルヒネ中毒の治療薬として喧伝。コカコーラの原料としても使われ、当初は鬱とヒステリーの治療薬として販売された。若き日のフロイトも早速興奮剤及び媚薬としての効果をテストするばかりか、自らの読者に「繰り返し摂取しても依存性はない」と保証までしており、そのうちコカイン中毒に。眼科医が手術に使用して成功したが、コカイン中毒を誘発。1886年ドイツ人外科医アウグスト・ビールが腰椎穿刺の手術の際、脊髄に注入すればそこより下の筋肉の神経をブロックすることが出来るのではと考え自ら実験台となって実施して成功し、その後の外科手術を一変させた
現在は、コカインではなく、より依存性の少ない合成薬が使われる
南米の先住民係に使用していた矢毒が呼吸筋は麻痺させるが心臓を停止するものではないことが分かってその麻痺作用を応用しよう実験したが、呼吸筋が麻痺したのに周囲が気付かず、自ら実験台を買って出た医師は唾液を飲み込むことが出来ずに、危うく自らの唾液で溺れ死にそうになった

第3章        インチキ薬から夢の新薬まで――薬
薬草学が植物学と医学の元
20世紀初めまで、経験を積んだ開業医でさえも致死性の病気にはほとんど成す術を持たなかった
巷には、インチキ医者と、いい加減な薬草を適当に混ぜ合わせた薬が溢れていた
手術の恐ろしさと、正規の医者の治療費が高額だったところから、患者は自己判断してインチキな薬に頼ることが多かった
患者に代わって医療従事者がモルモットの役を果たすようになってから事態は変わり始める
1803年薬に含まれる有効成分の発見に努め、アヘンの有効成分からモルヒネを発見
1858年 ニトログリセリンの血管拡張効果が心臓病に効くことを発見
2006年ドイツのバイオ企業が委託した新薬の治験は最悪の結果を招く ⇒ TGN1412というモノクローナル抗体の一種、病原体を撃退する抗体を人工的に再現したもので、開発したイギリスなどの科学者たちはノーベル賞を受賞。21世紀の医療の大いなる希望で、現在数十種類が実際に医療現場で使われ、さらに多くの種類が試験段階にある。T細胞と呼ばれる白血球に働きかけて細胞分裂を活発化させ、免疫システムを増強することによって増殖するリンパ性白血球の悪性細胞を攻撃させる。そのため、免疫システムのメッセンジャーであるサイトカインを大量に放出させるという致死性の過剰反応を起こし、治験者に異常な後遺症を与えた

第4章        メインディッシュは野獣の死骸――食物
経口摂取する最も複雑な物質は、薬品ではなく有機化合物
昔から何でも口にしたが、一変したのはヴィクトリア朝時代 ⇒ 文明化には食の規律が必要とされ、「特別な使用」に供されるために創造されたものだけを食すべしとされた

第5章        サナダムシを飲まされた死刑囚――寄生虫
人体の組織全体が消えてしまったとしても、体中に分布していた寄生虫がその後に残り、人形(ひとがた)を識別することが出来ると言われるくらい、寄生虫は人体のあらゆる臓器に取りつくことが出来る ⇒ もっともおぞましいサナダムシは最長39mにもなった
20世紀に入ってからも、死刑囚を使って危険な実験することは珍しくなかった
サナダムシは比較的無害だが、回虫の動きは活発で臓器を詰まらせる ⇒ 1人の腸から5千匹出て来たこともある
住血吸虫はもっと危険
感染経路や、人体への影響を調べるために、医者が進んで実験台になって寄生虫を飲み込んだ
マラリアは、マラリア原虫という微生物によって引き起こされる。原虫の基本的なライフサイクルは1898年までに解明され、ある種の蚊によって媒介されることが判明。血液の中で増殖し、赤血球を破壊する ⇒ 1971年漸く効果的なワクチンのアイディアが生まれ、囚人に加えて医師が自己実験に乗り出す。X線照射によって弱って無害になった原虫を人体に注射すれば、抗体になると考えた ⇒ 実験は成功し1986WHOからも表彰されたが、大量生産が効かず集団予防接種には向かなかったため、現在に至るまで問題の解決には至っていない
有用な寄生虫 ⇒ 子どもの頃の寄生虫感染は免疫システムの強化に役立つ。アレルギー疾患や喘息に罹りにくい。住血吸虫の感染者に糖尿病や慢性関節リウマチや多発性硬化症の発症等の自己免疫疾患に係る病気が少ないことも分かっている

第6章        伝染病患者の黒ゲロを飲んでみたら――病原菌
19世紀の初めまで、汚物回収のシステムは存在せず、風下の貧民街は病気の温床
感染の仕組みが不明 ⇒ 瘴気(しょうき)という悪臭によって空気伝染すると考えられた
1858年 ロンドンのテムズ川の「大悪臭事件」を機に、ロンドンの汚水をテムズ川の下流地域まで運ぶ下水道網の建設が決議された
1817年 インドからコレラの世界的大流行が始まる
最大の受益者は、1877年に生命保険を売り出したロンドンの牧師で、たった週1ペニーの保険料で、プルデンシャルは大企業に成長し、彼は大金持ちになった
原因究明のため、世界初の疫学調査が行われ、下水によって汚染された飲料水が原因であることを突き止めるが、発見者は1858年に死去、その成果が認められたのは30年後
同じ頃、パストゥールとコッホが、それぞれ別個に細菌説を展開、コッホがコレラ菌を発見、水によって運ばれることも分かった
黄熱病の感染経路の研究でも犠牲者なくしては進まなかった。ナポレオンの軍隊が黄熱病によって大打撃を受け、フランスはルイジアナなど広大な土地を売却することになり、黄熱病がなかりせば北米はフランス領になっていたかもしれない。黄熱病は肝臓にダメージを与え、黄疸を引き起こす。血液が凝固しにくくなり、胃の中に漏れ出した血液がどす黒い嘔吐物となって口から吐き出される。現在でも、病原ウィルスは特定されたが未だに治療法は見つかっていない
米西戦争の時、アメリカ軍が黄熱病によって多くの兵士を失ったが、ウォルター・リードを隊長とする陸軍医療チームがキューバに派遣され感染経路の究明に当たったが、全員が実験台になることを同意する旨の協定を結び、リードはワシントンに報告に向かう。イギリスのチームも参加し、勇敢な医学生が患者に添い寝したり嘔吐物を飲んだりして実験、仲間の何人かは犠牲となったが、結果は評価されず、他方実験の間に数千マイルの彼方にいた隊長リードは勇敢な先駆者として称賛されたうえ、彼の名はワシントンの「ウォルター・リード陸軍病院」として永久に残った ⇒ 実験に参加するより報告書を書いている方がずっといいという教訓になった
当初は、ワクチンが開発されても、必ずしも歓迎されず、多くは廃棄された
1980年代前半オーストラリアの微生物学者マーシャルと病理学者ウォレンが共同で、胃の中に生息する細菌を研究、十二指腸潰瘍では100%、胃潰瘍でも75%にヘリコバクター・ピロリという種類の細菌がいることを発見。自らピロリ菌の培養液を飲んで実験、ピロリ菌を除去すれば病気が治癒することを証明したが、先進諸国で採用されるまでには13年の年月が必要だった ⇒ 2005年ノーベル生理学・医学賞

第7章        炭疽菌をばら撒いた研究者――未知の病気
アメリカ疾病予防管理センター(CDC)のエピデミック・インテリジェンス・サービスは、世界中の伝染病の流行に対しいつでも出動できるよう待機 ⇒ 1967年のドイツでマールブルク出血熱が、次いで1976年にはスーダンとザイールでエボラ出血熱が発症、体中から出血して死に至る。出血熱には治療法はなく、地球上でもっとも致死率の高い病気
両者とも、洞窟に生息する蝙蝠がウィルスの保菌動物であることが解明された
伝染病を兵器として利用するというアイディアは非常に古くから存在 ⇒ 1346年黒海沿岸の都市を包囲したモンゴル軍が、伝染病の犠牲者の死体を城壁内に投げ込み、西に逃れた市民とともに伝染病も移動したのが、ペスト大流行の始まり
炭疽菌は、最初の大量破壊兵器の1つとなる
2次大戦前に研究が進む ⇒ 日本軍が炭疽菌爆弾を開発、外国人捕虜を使って効果を試す。ドイツ軍の使用に対してはイギリス軍も同様の兵器を準備、チャーチルもその使用に積極的だった。中でも肺炭疽の致死率が90%と高いことから、空中散布が研究された
アメリカでも炭疽菌爆弾が製造され、さらに大規模な製造工場が準備されたが、稼働することはなかった
2001年 フロリダ州の新聞社に白い粉が送り付けられ、アメリカの不安が現実のものとなる ⇒ 22人が感染、5人が死亡。炭疽菌の株がメリーランド州フォートでトリックの陸軍感染症医学研究所保管のものと特定されたが、研究チーム・リーダーの自殺により原因は分からず仕舞い ⇒ 管理体制の杜撰さが露見
131ページ 「2階にわたって」は「2回」の誤植

第8章        人生は短く、放射能は長い――電磁波とX
ルネサンス期の医師パラケルススは、磁気に取りつかれた最初の医療者
磁気共鳴画像法(MRI)となって実現 ⇒ 地磁気の10万倍の磁場を生み出す磁石が必要だが、人体が耐えられるかどうか発明者のレイ・ダマディアンには分からず、同僚が実験台を買って出て、史上初の全身スキャンが行われた
電気の発見によって、「磁気治療」の流行が下火となる
電気治療の効果は古代から知られていたが、18世紀にはインチキ医者の天国となる ⇒ 20世紀に入ってからでもまだ電磁気パワーによる激しいショックが利用された
1895年 ヴィルヘルム・レントゲンによるX線の発見 ⇒ 高密度の物体以外は透過する光線で、造影剤の投与によって消化管内部の撮影が可能となった
X線は、人体に根本的なダメージを引き起こす危険性のあるイオン化放射線であり、被曝量によってリスクも増すことが判明 ⇒ レントゲン技師が次々と死亡
初期のX線管にはシールドが装着されておらず、鮮明な写真を撮るため照射時間も長く、1896年初めてX線を使って体内の異物(弾丸)を見つけたがその際の照射時間は2時間
X線による治療もおこなわれたが、後に壊死性潰瘍ができ、やがて癌化した
1895年 ピエール・キュリーは、磁力の研究で博士号取得、マリー・スクロドフスカと結婚。ウラニウムから放射される新しい形態の放射線がアンリ・ベクレルによって発見されたばかりで、キュリー夫妻はこの新しい放射線を研究することに決める
ウラニウムの様々な化合物化がすべて放射線を発することを発見、放射線がそれぞれの物質の化学的性質と無関係であることは明らかで、原子そのものの性質だった。マリーはそれを「放射能」と名付ける
ウラニウムは、ピッチブレンドという鉱石から抽出されるが、ウラニウムより高い放射能を持つ物質を求めて鉱石を精製、分離に成功し、祖国に因んで「ポロニウム」と名付ける
更に精製を続け、より高い放射能を発する「ラジウム」を抽出
レントゲン同様、「科学の精神に反する」として特許はとらない
ラジウムは、光だけでなく熱も放出し、その放射能の強さはウラニウムの百万倍
夫妻はラジウムを持ち歩き火傷を負ったが、火傷の原因がラジウムであることを証明、火傷の跡には難治性の潰瘍ができた。ラジウムから放出されるガスを吹きかけた動物は全て死亡
1903年夫妻はノーベル物理学賞受賞 ⇒ マリーは、ラジウム被曝の最初の兆候の貧血と流産で授賞式は欠席
1906年ピエールはラジウムガスの爆発で負傷、更に馬車に轢かれて即死
1911年マリーはノーベル化学賞受賞 ⇒ 2部門で受賞した最初
マリーはソルボンヌ大学に招聘され初の女性教授に。フランス科学アカデミーは女性の前例がないとして会員に選ばなかった
1次大戦中は、軍隊にレントゲン車を配備することに尽力
1920年代に入った頃からマリーの健康状態悪化、放射線によるひどい熱傷から何度も手術したが、最後は貧血で死亡 ⇒ 夫妻そろってパリのパンテオン内に埋葬
マリーの娘イレーヌは母親の跡を継いで科学者になり、彼女もノーベル賞を受賞したが、研究中に放射線を浴びたことが原因と思われる白血病で死亡
ラジウムを使った放射線治療が主要な癌治療法の1つになったことを彼女は喜んでいるだろうが、ポロニウムが後に原子爆弾の起爆剤として使われたし、2006年にはロシアの反体制派が暗殺された時にも使われたことを知ったらがっかりするであろう
カルルスバード近郊のホテルでは現在でも天然ラジウム温泉への湯治客を受け入れている
ラジウムは放射能を帯びたラドンガスを1000年に亘って放射し続ける ⇒ キュリー夫人が使っていたノートはいまだに放射能を帯びている
90年代半ばある核科学者が、半減期の短いプルトニウムの放射性同位体の注射を受け、70代の命と引き換えに人体にどれくらいの期間残留するか実験した ⇒ 0480歳で運動ニューロン疾患のため死去、鉛で内張りされた棺に納められ埋葬された

第9章        偏食は命取り――ビタミン
壊血病で死んだ船乗りの数は、嵐や難破、戦闘や疫病の死者を合わせたものより多かった
7年戦争の際も、戦死者1人に対し病死者は89人、その大半は壊血病
1780年 22歳のフリゲート艦艦長だったホレーショウ・ネルソンも、壊血病に苦しんでいたところをアメリカ軍に助けられて命拾いをしている
アスコルビン酸=ビタミンCが不足することが壊血病の原因だと分かるのは後世のこと
コラーゲンの形成に不可欠、コラーゲンは繊維状の物質で細胞を結合させる「セメント」の主成分なので、これがないと身体はバラバラになる
ほとんどの動物はビタミンCを体内で合成することが出来るが、ヒトは数少ない例外
20世紀前半まで、孤児院長の許可さえあれば、孤児や知能障碍者を実験に使うのは普通のことだった ⇒ 「幼児ボランティア」と呼ばれ、免疫を獲得していない彼等は新しいワクチンをテストするには理想的な存在
1939年 ボストンの外科医クランドンが栄養状態によって怪我の治癒に時間差があることを自らの体に傷をつけて実験、ビタミンCを一切取らなかったところ、傷が治らないどころか壊血病で死にかけ、ビタミンCの注射により息を吹き返した ⇒ ちなみに彼の母親はインチキを見破られた有名な霊媒師だったが、息子は勇敢な自己実験者
ビタミンの過剰摂取で死亡することもある ⇒ 人参ばかりの食事でビタミンA過剰症で死亡した例や、ペラグラ(複合ビタミン欠乏症)
極端な偏食が招く悲劇だが、ビタミンが発見されて以来、ビタミンとサプリメントで代替するようになったのは本末転倒

第10章     ヒルの吸血量は戦争で流れた血よりも多い――血液
血液は肉体の生命線、7千個の白血球が外部からの侵入者を捕食しようと待ち構えている
古代ローマの医師で後に皇帝の侍医にまで上り詰めたガレノスが、怪我や病気は全て血液の増加が原因だとして治療には血液を排出すべしと説いて以来1000年以上も瀉血が一般的に行われた ⇒ 19世紀に入ってもなお梅毒から狂気まであらゆる病気の主な治療法
「血管のガス抜き」と呼ばれ、ヒルも多用された
「吸玉放血法」 ⇒ メスで皮膚に傷をつけその上に熱したガラス瓶を置くと、瓶の中の空気が冷えて収縮して真空が生まれ、傷口から血液を吸い出す。1950年代まで高血圧症の治療に広く用いられた
過度の瀉血が命取り
外科医にとっては血液は扱いにくい敵で、輸血が研究された ⇒ 1666年動物相互間での輸血に成功。1829年人間同士の輸血実験が行われたが、血液型が発見されたのは70年後のこと。血液型を日常的にテストするのは1930年代後半血液バンクが出来てから
血液疾患の多くは人類特有の病気なので、血液疾患の実験には動物は使えない ⇒ 自己実験が今も健在。セントルイス・ワシントン大学はどこよりもその傾向が強い(「カミカゼ・クリニック」の愛称で知られる) ⇒ 特発性血小板減少症の原因を解明しようとして、自ら命を賭して患者の血液と交換した医師の実験の結果、現在「自己免疫疾患」と呼ばれる病気の存在が初めて実証された

第11章     自分の心臓にカテーテルを通した医師――心臓
心臓の鼓動を聞くようになったのは19世紀に入って聴診器が開発されてから ⇒ 病気によって違う音が聞き分けられるようになる
1929年ドイツのフォルスマンが自己実験で初めてカテーテルを人体に挿入、漸く心臓の内部が見られるようになった ⇒ 大学を解雇されたが自己実験を続け、大戦によってキャリアが断ち切られ40年後に発表された冠状動脈性心臓病研究の歴史に関する本でさえ彼の業績には一言も触れられていないが、その後の研究の進展により心臓病の診断法や治療法に革命をもたらし56年にノーベル賞受賞

第12章     爆発に身をさらし続けた博士――爆弾と疥癬
2次大戦中の不発弾処理は全く未知の分野で危険が高かった ⇒ 投下爆弾の1割が不発だが、不良品か時限爆弾か触った途端に爆発するか全くわからなかった。処理班の将校の平均余命は710週間
水中爆発から身を守る方法も身をもって体験し、水の持つ非圧縮性という性質のために水中の衝撃波は空気中に比べてはるかに遠くまで届くが、ゴムが効果のあることを発見して、ノルマンディ上陸作戦に参加したダイバーたちの防護服が開発された
2次大戦中イギリスでは良心的徴兵忌避者がいて、人道的あるいは宗教的信念に基づいて徴兵を拒否したことが分かれば非戦闘員を選ぶことが許された ⇒ 医療実験のモルモットに志願する人もいた。その1人がヒゼンダニによって引き起こされる皮膚病である疥癬の実験台。大戦中軍隊内で大流行していた

第13章     ナチスドイツと闘った科学者たち――毒ガスと潜水艦
有毒ガスの被害を防ぐために、人間より呼吸数が多いマウスが利用され、さらにもっと多いカナリアが導入された
1915年ドイツが最初の毒ガス攻撃を開始 ⇒ ガスの種類を特定し、自らガスの危険に晒されながら有効なガスマスクを作る

第14章     プランクトンで命をつないだ漂流者――漂流
空軍機のパイロットが抱える問題 ⇒ 気圧の変化と温度。機内にいる場合は酸素吸入器で安全が確保されるがパラシュート降下する場合、10500mまでの高度なら吸入器なしで降下しても生存率の高いことが実証されたため、爆撃機は高度760010700mを飛行する。外気は-3040度。ヒーター内蔵の飛行服を開発
海中に不時着した時のため、仰向けで浮かぶよう設計された新型の救命胴衣が開発されたが、その際意識を失ったモルモットが必要となり、自ら麻酔を打って実験台となった
救命胴衣のことをメイ・ウェストと呼ぶ ⇒ パッドを入れていると思えるほどグラマーな女優に因んだ俗称
海上漂流実験 ⇒ 海でしか得られないものでどう生き延びるかを実験。海水も毎日僅かづつ摂取すれば大丈夫(1度の23口、189)とか、魚から水分やタンパク質を採るとか、鯨がビタミンCを小魚から採っているのにヒントを得てプランクトンを掬って食べたりした。65日目にバルバドスの灯台が見えてゴムボートによる大西洋横断の一人旅は終わったが、43日間魚の絞り汁だけを飲み、14日間は海水だけを飲んで生き延びた。魚の目は「真水の塊」とのこと。だが、身の危険を顧みない勇敢な実験の後でも依然として医療の専門家は現在でも、「漂流中に海水を飲むのは危険」と忠告

第15章     ジョーズに魅せられた男たち――サメ
1916年 ニュージャージーの海岸でサメに襲われて死亡 ⇒ 死亡診断書に「サメに咬まれて死亡」と書かれた最初の人。サメの習性や生態はほとんど知られていなかったが、ロングアイランドの南沿岸がホホジロザメのホットスポットであることが判明
1939年 オーストリア人がカリブ海で初めてサメの生態を観察
1945年テニアン島に原爆の重要な部品を降ろした後フィリピンに戻る途中の重巡洋艦インディアナポリスが日本の潜水艦によって撃沈された時、多くの兵士がサメの餌食となり、アメリカ海軍はサメの問題の大きさを理解
350種のサメの大半は大人しい。人を襲うのは35種、うち頻繁に襲うのは僅か10
シタビラメを一旦口に入れても嫌がって吐き出すことに気づき、ヒラメの分泌する界面活性剤を使って撃退する方法を考えたが、どうやってサメの口に直接入れるかが問題。船尾のデッキに身をかがめて襲ってくるサメに向かって命がけで撃ち込んだ

第16章     超高圧へ挑戦し続けた潜水夫――深海
潜水病 ⇒ 空気の78%は窒素、水中では水圧によって呼吸した空気が組織に溶け込む量が増大、浮上するにつれ水圧が下がるため体内の余分な窒素が呼吸によって排出されるまで十分な時間をかけてゆっくり浮上する必要がある。急速に浮上すると、窒素は体内で気泡となり、間接に溜まったり、血管を詰まらせたりするのが潜水病(「窒素酔い」とも)
深海潜水作業の障碍になるのがこの窒素 ⇒ 故障した潜水艦を救出するためにダイバーを送り込むには呼吸器具の改良が必要、空気を呼吸するのは危険で別な軽い気体が求められ、高価なヘリウムの代わりに水素が使われた。酸素と水素を混合すると爆発が起きるが、酸素の濃度が4%を越えなければ安全。一方深海では酸素濃度が4%でも問題ないが、それは圧力によって気体が濃縮されるため。30m潜水するだけで呼吸によって体内に取り込まれる酸素の量は海面で呼吸する場合の4倍になる。理論は正しかったが、ウィンチの故障で急激に浮上したため若きエンジニアは死亡。「任務遂行に際して、躊躇なく自分の安全を犠牲にした男」と墓碑銘に刻まれた
1962年生身の人間としては305mの世界記録を樹立したが、ハッチに戻る時の手違いで死亡
現在では、ヘリウムと酸素の混合気体を使うことは大深度コマーシャルダイビングのスタンダード
潜水球に入っての潜水記録は1926年に920m、大戦中には1368mまで伸ばした
1948年 バチスカーフ号(「深い(バティス)」と「船(スカフォス)」を意味するギリシャ語から作られた造語)というより精巧な潜水装置が発明され、プロペラで海底を動き回ることが出来た ⇒ 最初は無人、2回目から有人、60年に10883mの世界記録達成
1963年 アメリカの原子力潜水艦の沈没事故が契機となって、大深度からでも生存者を救出できる潜水艇が開発されるようになった

第17章     鳥よりも高く、速く飛べ――成層圏と超音速
1931年上空の大気を調査するため気球が用いられた ⇒ 最高高度は3m
2次大戦中、ドイツのジェット戦闘機のスピードに負けたアメリカ空軍が戦後音速の壁を破ることに挑戦 ⇒ 音速に近づくと機体が振動し始め、制御機器がフリーズすると言われていた。音速を越える時の凄まじい爆発音とともに、1947年実験に成功したが、その技量と勇気の見返りは若干の勲章の他は何もなかった
戦闘機の高速化とともに、いかに脱出させるかが問題に ⇒ カタパルトで自動的に射出すると同時に、酸素吸入器を取り付け、更にパラシュートが開いた時の衝撃33Gをどう吸収するか(秒速33mに達した時に自動的にパラシュートが開くような装置が開発された)、急減速にパイロットがどこまで耐えられるか(最高82.6Gを生体力学実験で体験、死なないで済んだのはシートベルトで正しい姿勢を保っていたからだった)

究極の自己犠牲精神をもった科学者たちに感謝
人生は、非管理下で行われる実験の連続
新薬の危険を減少させるために動物実験が不可欠となったのは、1937年のアメリカで起きたエリキシール・スルファニルアミド事件というスキャンダルの結果だった ⇒ スルファニルアミド製剤は感染症に対する世界初の抗菌剤として「奇跡の薬」だったが、甘味付のために添加された腎毒性のあるジエシチングリコール(現在は不凍液として使用)の中毒で児童を中心に107人が死亡、連邦議会が安全性の主命を義務付ける法案を可決、以降動物実験が標準的な方法となった ⇒ アスピリンはネコにとって致命的な毒物だし、ペニシリンを投与されたモルモットは死んでしまう。ペニシリンの効果をテストした生化学者が実験にマウスを使ったのは幸運だった。モルモットを使っていたら、世界初の抗生物質が生産ラインに乗ることはなかった
動物実験では、「物言わぬ」動物は自分がどんな気分か話してくれない。ましてや人間だけが罹る病気もある
1819世紀 病気は貧民街に溢れ、貧しい人々は格好の被験者と見做され、それに良心の呵責を覚える医師はほとんどいなかった ⇒ 病気は貧民街で生まれ、そこから立ち上がる瘴気によってまともな市民に感染すると考えられていた
医師たちは、患者が罹っている病気の治療とは無関係の実験まで、患者に無断で行った
その後、医師たちの熱意は、世界初の心臓移植を巡る競争で明らかとなる ⇒ 1969年までの移植手術の結果は、50名が1か月以内に、90名が2か月半以内に死亡、生存者は2名だけ
ナチスの医師が囚人に対して行った残虐行為をきっかけとしてニュルンベルク綱領が起草され、その中心にあるのは、実験的な治療を行う際には事前に患者からインフォームド・コンセントを取らなければならないというもの
自らピロリ菌を飲んだ医者は、「同意できるほど十分に説明を受けている人間は自分しかいなかったから」、と説明している
全ての研究者が、「自分ならこの実験の被験者になるだろうか」と自問してみるべき
「新薬を実験的に他人に使用する前に、自分の体で試してみる倫理的義務がある」とも言われる
危険なことでも、誰かが最初にやらなければならない。自己実験者には、実験内容について詳細な知識を持っているという、一般人にはない強味がある。症状を的確に把握するし、危険があればすぐ気付く。また、強い動機があるから、苦痛を伴う実験のストレスを和らげる効果もある
事前にあらゆる危険を予想し、その度合いを見極めておくべき ⇒ 本当に危険なのは、得てして予期していなかった危険で、自己実験にはある程度の危険が付き物であり、自分の仮説が正しければ完璧に安全な実験というのもあり、もし実験中に死んだら自分を愚か者と見做しただろうとも言っている
極地探検家アムンゼンの言葉:冒険とは、計画の不備に過ぎない
多くの自己実験者が、「自分の実験は危険ではない」と考えている
完全に利他的な行動というものは存在しないかもしれないが、自己実験者の研究はそれに近いと言えよう ⇒ どんなに野心や自尊心を抱いていたにせよ、彼等の行動は必ずしも称賛の対象にはなっていないし、現在でも一般に知られている人が何人いるだろうか。キュリー夫妻が有名になったのは彼等の研究業績のお蔭であって、放射性物質の危険を知ってからもその研究を続けた勇気の故ではない
多くの自己実験者がほとんど考えられないような極限状態を体験したが、自分の仕事にはそれだけの価値があると信じていたが故に、彼等は実験に伴う危険にも不愉快さにも淡々と耐えた。それらの多くが極めて高度な研究だったことは、ノーベル賞受賞者に占める自己実験者の割合の高さによって証明されている
医学の歴史は、人類のために自分の健康やときには命までも犠牲にした研究者らの英雄的行為によって飾られている
この利己的な世界の中では、社会はこのような人々を必要としている。彼等を誉め称えようではないか


解説:特別集中講義『人体実験学特論』へようこそ





世にも奇妙な人体実験の歴史 []トレヴァー・ノートン []赤根洋子
[評者]出久根達郎(作家)  [掲載]20120902   [ジャンル]科学・生物 
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悲惨でも、人類の幸福のために

 ピロリ菌、という名称を私たちが耳にしたのは、そんなに昔のことではない。十二指腸や胃の潰瘍(かいよう)の元凶とされる細菌である。酸性の強い胃の中で生きられるはずがない、と言われていた。潰瘍の原因はストレスや喫煙や誤った食生活や酒だとされてきた。
 オーストラリアのバリー・マーシャルとロビン・ウォレンは共同で研究し、ピロリ菌を発見、これが潰瘍に関与しているのでは、と疑った。マーシャルは自らピロリ菌を飲んで確かめた。案の定だった。ピロリ菌を除去すれば快癒することを証明したが、一般の病院で治療が行われるようになったのは、マーシャルの実験から十三年後である。彼らは二〇〇五年にノーベル賞を授与された。
 マーシャルの「人体実験」は報われたからいい。病原菌の発見、あるいは治療法を探るため、自らの体を使って試験したあげく、命を失う医師は数えきれないほどいた。
 放射能の名づけ親のキュリー夫人や、娘のイレーヌとその夫はノーベル賞の受賞者だが、研究対象による放射性物質に冒された。これだって、自らを犠牲にした尊い人体実験、といえなくもない。
 現代の医療ではカテーテルが当たり前に使われているが、心臓カテーテル法は、フォルスマンという外科医が自分の腕の血管を切開し、カテーテルを挿入、レントゲン室で鏡を見ながら心臓まで導いた自己実験のたまものだった。しかし彼は奇人扱いされた。
 本書には、さまざまな人体実験の実例が示されている。医学に限らない。漂流者が生きのびるための実験や、水深一万メートルの潜水探検、あるいは成層圏への気球飛行、人食い鮫(ざめ)撃退法など、悲惨な例ばかりだが不思議に不快でない。どんなに突拍子もない実験でも、人類の幸福の為(ため)にという大義名分があるからだろう。軽妙な訳文が読みやすく、仲野徹の解説も要領よく秀逸である。
    
文芸春秋・1890円/Trevor Norton 英国リバプール大学名誉教授(海洋生物学)。

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