私はホロコーストを見た  Jan Karski  2012.10.11.


2012.10.11.  私はホロコーストを見た 黙殺された世紀の証言 1939-43 上・下
Mon temoignage devant le monde : Histoire d’un Etat clandestine    2010
The Story of a Secret State                  1944

著者 ヤン・カルスキJan Karski 19142000。本名ヤン・コジェレフスキ。ポーランドのレジスタンス活動家。学業優秀で外交官となる。大戦中ポーランドがナチスとソ連に分割されたため、最初はソ連赤軍の、次いで独ソ不可侵条約に基づく捕虜交換の対象となってポーランドに戻ったがそのままナチスの捕虜となる。ゲシュタポによる激しい拷問を受け自殺未遂を犯すが、搬送先の病院でレジスタンスの同志によって救出される。数々の偽名や身分を使いながら(最終的なコードネームはカルスキ)、並外れた語学力と記憶力を武器に、地下活動を続けるポーランド秘密国家に奉仕。
1942年夏、ユダヤ人指導者らの依頼でワルシャワ・ゲットーや強制収容所に潜入し、そこで目撃したナチスによるユダヤ人大虐殺を世界に伝えた。
密使カルスキの報告は、ホロコーストの事実を外部に伝える最初の証言となるが(イーデンやルーズベルトにも接見)、列強は様々な思惑の中、これを黙殺。
結局、ユダヤ人を救うための有効な措置が取られることはなかった。
偽名のまま合衆国に留まったカルスキは、終戦前の1944年にニューヨークで本書を出版。たちまち話題となり売上40万部を超える大ベストセラーとなるが、戦後は長らく絶版。
ワシントンのジョージタウン大学で教員としてひっそり暮らす。
30年以上にわたる沈黙の末、フランスの映像作家クロード・ランズマンによるドキュメンタリーの傑作『ショアー』のなかで証人としてインタビューを受け、再び注目されることになる(映像の公開は1985年だが、インタビューは1978)
1982年 イスラエル国立ヤド・ヴァシェム・インスティチュートによって「諸国民の中の正義の人」に列せられ、1994年にはイスラエル名誉市民に
2012年、オバマ大統領は、アメリカ合衆国が民間人に授ける最大の栄誉である大統領自由勲章をヤン・カルスキに授勲、「諸国民の中の正義の人」と讃えられた

訳者 吉田恒雄 1947年千葉県生まれ。翻訳家。1970年渡仏。30年余りの会社勤務の後、現在は翻訳に専念

発行日           2012.8.15. 印刷               9.10. 発行
発行所           白水社

追記
わたしは、自分が知り得たポーランド・レジスタンスについて、それを著作刊行する機会を得た我が国レジスタンス機関最初の現役構成員である。これによってほかの同志も独自の体験を語るようになり、それを通じて、ナチズムに征服された年月、いかにしてポーランド国民が行動を起こしたかを、全世界の自由なる人々に理解してもらえればと期待するものである
(1944年の英語初版本及び48年の仏語版に掲載されたもの。カルスキの証言が刊行された194411月当時の〈凌辱されたポーランド〉を想起させる力に満ちている。ただし、1999年のポーランド語訳の初版からは、著者による[更なる校正]が施された結果削除されている)


訳者あとがき
本書執筆の1944年は、独ソ不可侵条約は一方的に破棄され、枢軸国も転落の一途をたどり始めたとはいうものの、当時はいつ終わるともない熾烈な消耗戦が続いており、ノルマンディ作戦が6月に決行される。ポーランドでも8月にワルシャワ市民が放棄したが、2か月でドイツ軍に鎮圧、駆け付けるはずだったソ連軍はワルシャワが反共産党の在ロンドン亡命政府の影響下にあるという理由で、対岸にいながらポーランド市民軍が殲滅されるのを黙殺。そうした状況下でカルスキは、優柔不断なイギリス政府の態度の業を煮やしたポーランド亡命政府の命令でアメリカに向かい、本書もそのアメリカで執筆
西側連合軍とソ連がドイツを東西から挟撃するという目論見の中で、この手記を執筆するに際し、カルスキは出版エージェントから、ソ連およびその息のかかった対独パルチザン、つまり人民軍など対ソ協力組織についての批判を禁じられたし、ポーランドでは戦闘が続いていたので、具体的な記述内容をカムフラージュしないと同志の生死が懸っていた
それでも出版直後たちまちベストセラーとなり、次々と各国語に翻訳
仏語版は48(訳者不明)
その後半世紀経た2004年、ソルボンヌ大学でスラブ現代史の講座を持つ歴史学者ジェルヴェ=フランセルは、48年刊行の仏語訳を改訳し、詳細な注解も添えて再刊した
戦後、恐らく意図的な無関心もあって、カルスキの証言は忘却の彼方に追いやられた。戦勝国にとって、不都合な内容が多く含まれていた ⇒ カティンの森事件の隠蔽はその代表例
ところが、おそろしい呪縛から解かれたように、ホロコーストの真実を知ろうとする知識人の動きが徐々に現れる。その延長線上にフランスの映像作家ランズマンがいて、映画『ショアー』の中で、カルスキ―にインタビューし(1978)、それがきっかけとなって(公開は1985)、ユダヤ人問題に関するカルスキの証言の重さが再認識され始める
2009年、フランスの文学賞シーズンに合わせるように、カルスキを扱う小説が同時に2冊発表。その1冊、ヤニック・エネル著『ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ』が発表されると、ランズマンが歴史を捏造するものと批判。小説はあくまで史実をベースにした創作であり、フランス文壇の大御所フィリップ・ソレルスも創作の絶対自由を主張して弁護して大論争に発展
2010年 論争に終止符を打つ形で、ジェルヴェ=フランセルがまえがきに詳しい解説を加えてカルスキの手記が再々版される ⇒ この版が、カルスキ手記の決定版
このまえがきはきわめて示唆に富んでいる ⇒ 氏がまえがきで引用するカルスキの言葉が、『ショアー』で見せた律儀なカルスキ証人の姿からは想像しにくい辛辣さで、世界の指導者と言われた人々に対する皮肉として鮮烈に響く、「戦争が終結した時、各国政府やその指導者たち、学者、作家、誰もがユダヤ民族に何が起こっていたのか知らずにいたと、このことをわたしは知りました。彼ら誰もが驚いた。6百万もの罪なき人間の殺戮は秘密だったのです。()
カルスキの報告以前にも情報は届いていた。42年のユダヤ人の最終解決を決めたヴァンゼー会議の内容は、世界ユダヤ人会議の代表を通じて各国政府の知るところとなったし、同年ニュ-ヨークのジューイッシュ・コミュニティの雑誌にもホロコーストという言葉を使ってヨーロッパのユダヤ人に何が起こっているのかが記事として掲載。それより以前にもイギリスは、極秘の暗号解読機エニグマによってドイツの特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の詳細な活動報告を傍受し、ユダヤ人大量虐殺の実態を把握していたようだ。現に、チャーチルは418月のラジオ演説でドイツ軍による住民虐殺を非難していた。それらの事実を秘匿したのは、対独戦を有利に進めるためだった。
頑なに中立を守っていた米国がその情報を共有できたのは、真珠湾直後、自国の参戦以降だろうというのが大方の見方。戦争完遂のため、6百万は見捨てられたのか?
ランズマンとのインタビューでカルスキが言ったように、カルスキに託されたユダヤ人たちのSOSは、「反ユダヤ主義が世界的風潮」である中で誇張と見做され、相手にもされなかったと考えざるを得ない。
かつて十字軍によって西ヨーロッパを追われたユダヤ教徒は、東欧やロシアへ移住。20世紀初頭、帝政ロシアの秘密警察が民衆の不満をユダヤ教徒に逸らせようと扇動した結果、国内はもとより東欧全域にユダヤ人迫害(ポグロム)の動きが広まる。ポーランドには、既に1264年からユダヤ人の自由を保証する世界最初の〈カリシュの法令〉があったため、他国より比較的その動きが穏やかだったため、戦前のポーランドは欧州最大のユダヤ人口を抱えていた、それが悲劇の大きな原因となった
複合文化・多民族国家を提唱したピウスツキ主義者のカルスキは、ナチスによる迫害を目の当たりにしてゲットー代表から「ユダヤ任務」を頼まれる以前からユダヤ人救援委員会(ジェゴダ)の活動に協力をおしまなかったが、それもひとえに祖国ポーランドの「同世代と来たるべき世代を絶滅させぬため、少数民族ユダヤ人が生き残るよう救援の手を差しのべた幾千の人々がいた事実があり、そのお蔭で大惨事の中においても人類から人間性が失われなかったのだと伝え」たかったから。これが当時25,6歳のカルスキの考えたこと

編者によるまえがき   セリーヌ・ジェルヴェ=フランセル
忘却の彼方に埋もれていたカルスキが姿を見せたのは、1981.10.のこと、ノーベル平和賞作家エリ・ヴィーゼルおよび全米ホロコースト記念会議の呼びかけで開催された〈強制収容所解放者の国際会議〉に招かれた ⇒ 42年夏、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの代表者の要請で、自分が目撃したユダヤ人絶滅作戦の実態を連合国側首脳に伝えようと、同年11月末、ワルシャワからロンドンに到着し必死に動いた経緯を、改めて公の場で証言
カルスキの講演テーマは、「最終的解決が実際に行われた事実の発見」で3つの問いから始まる
1.    欧米諸国の首脳及び世論は何を知ったのか? それはいつか?
2.    いかなる経路でその情報がもたらされたのか?
3.    それに対し、いかなる対応がなされたのか? それを証明するものは?
この報告は、44年ニューヨークのホテルで缶詰めになって執筆した実録書The Story of a Secret Stateと同じ内容だったが、それが巻き起こしたアメリカとイスラエルでの反響は、その他の国ではほとんど知られていない ⇒ 多くの人が知るのは1985年の映画『ショアー』で「証人」に指名された彼が涙を流すのを見た時
2004年、カルスキの著作の仏語版に全面的な修正と注解を加えて再刊したが、09年フランスの文学賞シーズンを期に2人の小説家がカルスキに着想を得た作品を発表、〈史実の蘇生〉もしくは〈フィクション〉と自ら位置付けるこの2著は、全く異なるアプローチあんがら、それぞれカルスキの実像への関心を高める結果を招いたところから、この素晴らしい著作を再度発刊するに際し、カルスキの経歴に幾つかの補足をすべきと考えた。
42年まで本名ヤン・コジェレフスキを名乗っていたカルスキとはいったい何者だったのか
1914年 馬具工房を営む父親の第8子として、ポーランドのウィッチに生まれる。中流家庭、敬虔なカトリック信者。ポーランド建国の父ユゼフ・ピウスツキが提唱した愛国主義、即ちいかなる排他的民族主義にも反対する立場を信奉する家庭に育つ。20年父逝去。(1章冒頭には、外務省入省に内定し特別研修に選抜され19か月の海外研修から戻ったところで父が逝去との記述がある) 周囲に住んでいたのは殆どユダヤ人家族。
31年 外交官になる夢を胸にウィッチを後にして、ルヴフ市(ウクライナのリヴィウ市)のカジミェシュ大学(現国立リヴィウ大学)へ。その後機動砲兵の予備士官学校を首席で卒業、垂涎の的である名誉のサーベルを共和国大統領から授与される
39年 ポーランド敗戦時、ソ連軍捕虜となり、6週間ポルタヴァ近郊に抑留
一兵士と偽って、捕虜交換でドイツ軍に引き渡される(将校は対象外だった)
ドイツ軍捕虜としてラドム収容所に10日間収容され、脱走、大佐だった長兄の下で地下活動に入る
40年 陸軍少尉となり、密使として最初の任務で、ワルシャワからパリに送られ、亡命軍の志願兵として登録。抜群の記憶力、緻密さ、分析力が評価され、ポーランド亡命政府の「政治密使」が誕生
40年春 「ヴィトルド」と名乗り、最初のクーリエの任務でクラクフ、ワルシャワに向かう。6月の2度目の勤務でゲシュタポに逮捕、拷問される
42年夏 レジスタンス機関の指示密使としてロンドンに移動していた亡命政府に派遣され、「カルスキ」を与えられる。その際、ユダヤ人ブント(労働者総同盟)から、ワルシャワ・ゲットーに対するナチスの〈大作戦〉をトレブリンカほかに象徴される絶滅作戦に関するすべての報告書を収めたマイクロフィルムを渡される ⇒ 42年初頭のヴァンゼー会議での議決内容に、米国ではまだ疑いをもたれていたが、信憑性を与える決定的な資料となった ⇒ 43年初頭 カティンの森事件が表沙汰になってもソ連に曖昧な態度を取り続けるイギリスに対し態度を硬化させたポーランド亡命政府は、カルスキの米国への派遣を決める ⇒ ルーズベルト大統領は支援を約束したが、ヨーロッパではソ連の領土要求に譲歩する動きが強まってきたため、カルスキはふたたびアメリカに送られる
44.2. アメリカでポーランドの抵抗運動のプロパガンダを行い、その一環として本を出す
圧倒的な人気で、カルスキもあちこちから引っ張り凧となるが、連合軍の勝利の熱狂と、勇敢なるソヴィエトを賛美する世論の中でカルスキの本は時宜に適わない書と見做され、すでに準備が整っていた他国語への翻訳版は、それぞれの国で出版社が刊行を断念
当時のポーランドでは、国内軍がソ連の支援を得てルブリンを解放したが、ソ連はポーランド軍を全員逮捕、別に親ソ政権を樹立、アメリカも楽観的な見通しを持ち、中米ポーランド大使もカルスキも座視するほかなかった。そのため、イギリス政府管轄下の出版エージェントも、カルスキに「親ソ政権の動きについては、接点がないので何も書けない」と宣言することを迫った結果、妥協したのが冒頭記載の《追記》
45.7.5. 英米両国は、在ロンドン・ポーランド亡命政府に対する国家承認を取り消し、親ソ派によってワルシャワに樹立されたポーランド人民共和国政府との国交を結ぶ(仏は先行) ⇒ カルスキは忘れ去られ、本人も全てを忘れようと決意。名前も移民手続きの煩雑さを考えカルスキのままで通し、外交官になる夢も経たれた後は、教育機関で働くしか道はなく、ワシントンにあるイエズス会創設によるジョージタウン大学で奨学生となり、52年政治学博士号取得、そのまま教職について30年以上も勤務
54年にはアメリカ国籍取得、広範な資料を用いた共産主義研究はアメリカ政府からも注目され戦略分析や外交交渉にも利用され国務省の要請で講演を行った ⇒ ビル・クリントンも68年度生として授業を受ける。54年ポーランドの舞踏家と再会して結婚
1985年 大戦当時の列強の対ポーランド政策を分析した大著を出版、「ポーランドを巡ってのシニカルなゲームにおいて、チャーチルにはより罪がある、だがルーズベルトはより害になる」と言っている
7778年にかけて、カルスキに執拗に迫り、その記憶を開かせたのはクロード・ランズマン監督。カルスキにとって、「映画には感嘆させられたが、8時間のインタビューのうち40分しか採りあげられず、肝心の自分がワルシャワ・ゲットーのユダヤ人からの緊急アピールを忠実に伝え、それを欧米諸国が聞かぬ振りをしたという(自分にしか言えなかった)所に焦点が向けられていない点を残念に思う」結果となったため、『ショアー』を補完するような映画の制作に向けて努力。それは、同世代と来たるべき世代を絶滅させぬため、少数民族ユダヤ人が生き残る様救援の手を差し伸べた幾千の人々がいた事実があり、そのお蔭で大惨禍の中においても人類から人間性は失われなかったと知らせる意図があった
『ショアー』は、ポーランド人民共和国大統領にもそれなりの影響を及ぼし、祖国でもカルスキの名前が浸透するようになり、87年には新聞にも掲載、91年には本も刊行
90年代を通じ、多くの大学が名誉教授の称号を与える
94年 イスラエルが名誉国民の称号を贈る
95年 ポーランド共和国大統領ワレサから、白鷺勲章授与
98年 イスラエルは独立50周年を記念してノーベル平和賞に推薦
99年 本書のポーランド語版刊行


第1章        敗北
1939.8. 機動砲兵隊予備役だったところに動員命令が下る ⇒ ヒトラーを刺激しないようにと、英仏から総動員を止められており、すぐに戻る積りで所属連隊のあったオシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)に出頭しようとしたら、本物の総動員令だった
39.9.1. ドイツの電撃作戦開始 ⇒ ポーランド国内にいたドイツ系ポーランド人(フォルクスドイチェ ⇒ ナチス台頭に呼応した在外ドイツ人で、ライヒスドイチェ[本国人]の同胞であると主張)から狙撃を受けて愕然とする
東に退却する途中で、ソ連軍がウクライナ及びベラルーシ国籍の住民を保護するために国境を越えるのに直面、武装解除されソ連軍の捕虜になる

第2章        ソ連抑留
ソ連に送られて強制労働に服する

第3章        捕虜交換と脱走
翌月の独ソ不可侵条約により、ドイツがウクライナ人とベラルーシ人を送りかえす代わりにソ連はドイツ系ポーランド人及びナチス・ドイツに併合された地域生まれのポーランド人、ただし兵士のみで将校は対象外、を送り返すことになる ⇒ ドイツ帰還を望まない兵士と軍服を交換し、兵士に紛れ込んでドイツに引き渡されるが、そのまま捕虜収容所へ。強制労働に駆り出される護送中の列車から脱走
匿ってくれた農夫から、ポーランド軍壊滅を知らされる ⇒ 英仏は西部戦線で攻撃を仕掛けないことを決断、ポーランドには知らせない旨決め、ポーランドを見殺しにした

第4章        荒廃のポーランド
ポーランド国家が他国家と異なるというのは何なのか? ポーランド人というのは自分と国との繋がりを強烈に意識しているが、それはかつて、軍事的敗北がすべての国民に恐るべき結果をもたらしたという体験からきている。ほかの国が戦争に負けた時は、国土が占領され、賠償や軍備制限、あるいは国境の変更さえ要求されるかもしれないが、ポーランド軍が敗れた場合は国全体が消滅してしまうという恐怖心で覆われる ⇒ 著者は、1794年マチョイヨビツェの戦いで国民的英雄コシチュシュコの敗北の結果、領土はプロイセン、オーストリア、ロシアによって3分割され、さらに1830年と1863年の対ロシア蜂起失敗に言及、そして復興後間もない1920年ワルシャワでの赤軍との戦いの際の友好国並びに対立国が取った打算的な姿勢を問題にしている
漸くワルシャワに辿り着いて、姉の家を訪ねるが、義兄がゲシュタポに拘束され、拷問の上銃殺された姉は放心状態

第5章        事の始まり
大学を卒業した頃にルヴフで知り合った若干年下の知人を訪ねた時、反ドイツ抵抗運動への参加を打診される ⇒ クハルスキの偽名と身分証明書を渡される

第6章        変貌
知人は、ゲシュタポを殺害した直後、逆にドイツ軍によって処刑される

第7章        第一歩
最初の任務は、ドイツ人の町と化したポズナンに行ってレジスタンスへの参加の誘い

第8章        ボジェンツキ
開戦当初、大統領は閣僚と共にルーマニアに監禁され、パリにいてその指名を受けた元上院議長が在仏ポーランド大使館で宣誓を行って正式に就任しシコルスキ将軍(自由主義と民主主義を標榜、ピウスツキとは対抗していた。1920年の対ソ戦ワルシャワの戦いの英雄で、ポーランド国民は9月の敗退のあと全ての期待を彼に寄せていた)を首相に任命して組閣させる
地下活動は100以上もの組織で行われていた ⇒ 旧政党がリードしたものと、ワルシャワ防衛軍を中心にした軍事組織が強力。各政党が亡命政府に届け出を出し、首都防衛軍の指揮下に入る
カルスキの第二の任務は、ルヴフへ行って、ワルシャワと同じように各政党間の合意を形成すること
地下組織のリーダーは、内務省の要職にあったポジェンツキ ⇒ 40.2.死刑

第9章        ルヴフ
学生時代の担当教授が民間秘密組織の最高指導者になっていた
ゲシュタポより訓練されたGPU(ソ連内務人民委員部NKVD)がレジスタンスに情報員を潜入させ、数珠つなぎに検挙、組織は破壊された

第10章     フランスでの任務
スロヴァキアとの国境近くにあるカルパチア山脈の中の最高峰タトラ連峰の麓にあるスキー・リゾートのザコパネ経由、スキーで国境を越え、ハンガリー経由フランスへ

第11章     秘密国家[I] 
40.4. 亡命政府からの指示を携えてポーランドに帰国
旧四大政党を中心に活動組織の連携・統合が進む
レジスタンス運動の2大原則として、①いかなる戦局を迎えようとも、ポーランド人はドイツへの協力を認めない、売国奴は必ず処刑、②ポーランド国家は亡命政府と緊密な関係の下、秘密の行政機構により継承される、ことを確認 ⇒ ドイツによる占領を承服せず、他の被占領国と違って〈クヴィスリング〉を出さない
ヴィドクン・クヴィスリング(1887-1945)20世紀前半のノルウェー軍人政治家
ルター派聖職者の家庭に生まれる。ノルウェー軍に入隊し、士官学校を優秀な成績で卒業、参謀本部の将校となる。最初のうちは社会主義寄りの思想を持っていたが、1920年代フリチョフ・ナンセンと共にソ連の飢餓救済にあたったことを切っ掛けとして社会主義から離れ民族主義に目覚めた。
1931に成立した農民党内閣に国防相として入閣。国防相辞任後の1933517ナチスに範を採ったファシズム政党である国民連合を創設した。国民連合は結党当初は教会の支援もあって成功したものの、次第に反ユダヤ主義色を濃くしていくと共に支持を失っていく。その一方で、彼はナチスの思想家アルフレート・ローゼンベルクの「北海帝国」構想に共感し、1939にはアドルフ・ヒトラーとも会見している。
194049ナチス・ドイツ北欧侵攻の一環としてノルウェーに侵入すると戦争の混乱を縫って全権掌握を宣言、ドイツ軍侵略の手引きをした。このことによりクヴィスリングの名前は国奴の代名詞として知られるようになり、「クヴィスリングが参りました」「で、あんたの名前は?などジョークのネタに使われたりもしたばかりか、今では大抵の辞書にクヴィスリング=売国奴として掲載されている。ドイツ軍がノルウェー全土を掌握すると国家全権委員に着任したヨーゼフ・テアボーフェンの下で名ばかりの指導者として振舞っていたが、ノルウェー国内でのレジスタンス運動が活発化したことを見計らって1942にヒトラーによって首相の権限を与えられた(傀儡政権)。
194559、クヴィスリングは連合国軍に逮捕された。国民連合の指導者や傀儡政権の閣僚と共に裁判にかけられ、銃殺刑に処せられた。
ポーランドの地下組織の中に4大政党が連携した秘密政府機構が組織され、秘密国家立ち上げを報告するとともに、国内レジスタンスがシコルスキを支持する見返りとしての条件を亡命政府に提示するために、再度パリに向かう ⇒ シコルスキ内閣にいる各党代表宛の各党独自の使者として、ワルシャワ=パリ間を結ぶ情報経路となる

第12章     転落
40.5. ドイツは、オランダ、ベルギーを陥落させた後フランスに向かい、電撃作戦によってフランスで組織されていた84千のポーランド軍壊滅 ⇒ シコルスキのいずれ非難さるべき致命的な過ちが原因、フランス軍への過信に警鐘
最初のパリ行きと同じ経路でザコパネ経由コシツェに向かう途中でドイツ軍に逮捕

第13章     ゲシュタポの拷問
ゲシュタポの拷問に耐えかねて、剃刀で手首を切って自殺を図る
収容された病院で、フランス降服を知る

第14章     病院にて
病院の医師の計らいで重症扱いとされ、ポーランド国内の病院に移送される

第15章     救出
病院と地元の地下組織の協力で脱出に成功

第16章     農業技師
買収したゲシュタポの助けで救出され、地下組織によって静養のため匿われる

第17章     荘園の館、療養、そしてプロパガンダ
静養中にも、ポーランド人宛に抵抗運動を呼びかける手紙を配布したり、ナチ当局に心からの協力したい旨の手紙を出して攪乱しようとしたりした

第18章     死刑宣告と処刑
ポーランドのドイツ化の際、大半はポーランド語で話し続け、ドイツ語を習得するのに気の遠くなるような時間をかけたため、ナチスは度量を見せるために、祖先の中にドイツ出身者がいたと証明できるすべての市民は、人種管理局に申し出れば、ドイツ国籍保持者と同等の食糧配給を受けられ、他にもいくつかの特典、そして終戦後にはドイツ国籍を取得できるというものだったが、それでもほんの数えるほどのドイツ系ポーランド人しか応募しなかった ⇒ 彼等をフォルクスドイチェと呼び、徹底した軽蔑の対象、許し難い裏切り者、情けない人間として扱われた
その一人をレジスタンス側が処刑したが、逆に匿ってくれたレジスタンスの闘志もゲシュタポに捕まり、カルスキは直ぐ身を隠したが、荘園に留まった一家は全員ナチに捕まって拷問され、処刑された

第19章     秘密国家[II]―組織
194127月 クラクフで活動 ⇒ 中立国のニュースを聞いて、連合国側のプロパガンダの真偽を見分け、活動仲間に知らせる
レジスタンス活動の最盛期だったが、戦争の初期、抵抗運動は戦争が短期で終わるという確信に基づいて計画を立てたのが大間違い、可能な限り活動範囲を広げようとしたが、40年夏にフランスがあっさり降伏したために即発的かつ同時的に起こる地下運動の広がりを抑えるのは不可能で、一斉検挙の波が続き多数の有能な指導者が処刑されてしまった
レジスタンスがポーランド亡命政府を国内において代行するという原則に従い、組織を5つの部門に統合 ⇒ 行政府、軍事部門、政治代表部門、レジスタンス総局(抵抗政策の支援)、孤立指示自由組織集団への対応窓口

第20章     クラクフーL夫人のアパート
一か所に定住せず、絶えず移動しながらも、以前の家主と連絡を取ることにより、ゲシュタポが追跡しているかどうかを探ることが出来た
仲間が捕まるたびに、住所から、連絡場所、隠れ家すべて変更しなければならない

第21章     ルブリンでの任務
長兄マリアン(18971964) ⇒ 39.8.召集されたワルシャワ防衛軍降伏後も、占領政府総督によって警察総裁に留任させられが、翌年逮捕されアウシュヴィッツに送られたものの、ドイツの由緒ある家系の出だった妻の尽力により翌年奇跡的に釈放、すぐに地下活動に潜入、44年のワルシャワ蜂起の戦闘で重傷を追うが、降伏後に民間人に交じって首都から脱出、パリからカナダへと逃避、60年からはアメリカへの移住が許可される。米国政府からの援助を一切拒み、美術館の夜警として得た薄給の一部をポーランドに住む人を助けるために送金、64年自殺
飢えと貧窮の中での抵抗運動

第22章     影の戦争
組織化され、民衆の指示を受けた秘密運動体を前に、弾圧機構は無力であった ⇒ 42年時点でポーランドに6万人のゲシュタポがいたが、レジスタンス運動を破壊することはおろか、秘密組織の指導中枢部にまで潜入できた例も極めてまれ
ゲシュタポのやり口は、連座制(無実の一般市民まで連帯責任と称して虐殺)、結婚禁止、「非合法」児童は本国の孤児院に収容(その後どうなったかは不明)等々
農民は、仮借ない戦いにおいて独特の巧妙さを発揮して活躍
39.9.刑務所から刑事犯を解放、ドイツ人だけを対象に〈元の商売〉をやるよう焚きつけ、反ナチ活動の成果に比例して減刑処置を取った ⇒ ポーランド市民に危害を加えなかった事実は雄弁であるとともに、ドイツ人に対する集団憎悪の深さを表している
最も際立ったレジスタンスの業績の1つに国債の発行がある ⇒ 地下組織を通じて販売され、ポーランドが解放されて亡命政府が戻って来た時、利息と一緒に返済されるもので、紙きれのような詔書に暗号で「~kgのパンを譲っていただいてありがとう。お返しできるよう努力します」と書いていあった。ほとんど協力を拒まれることはなく、集められた資金で地下活動が続けられた ⇒ ルブリンに樹立されたソ連の傀儡政権が正式にワルシャワの中央政府となったため、亡命政府の名で借りた借金は無視された

第23章     地下新聞
ポーランドには非合法出版の長い歴史がある ⇒ 最初にポーランド分割のあった1772年遡る。ポーランド独立の父・元大統領ピウスツキも帝政ロシア支配下の1899年に地下新聞を発行するところから抵抗運動を始める
幾千もの新聞が、地下倉で小さな印刷機により、外国放送を聞きながら世界の動きを必死に伝えた ⇒ 印刷所や販売員がよく逮捕され、場所の提供者を含め銃殺刑になったが、レジスタンス機関は、地下新聞を介し、住民大多数との接触を絶やさずにいられた。住民は何が起こっているかを知ることが出来、希望の火を燃やし続けられたのも新聞のお蔭。一方地下機関にとっても効率よく任務を続けていくには民衆からの信頼と同時に、その権威が認められていることも知っておく必要があり、幸い、支援の声は後を絶たなかった
他にもあらゆる種類の書籍(ドイツが発禁にしたもの、ポーランドの古典や地下学級で使われる教科書等)や冊子(思想的なものが多い)を出版していた

第24章     陰謀者の「組織」
地下活動の鉄則は、「目立つな」

第25章     女性連絡員
女性連絡員こそ、占領下のポーランドにおける女たちの運命を象徴している ⇒ より多く苦しみ、多くは命を失う。夫が逮捕されると一緒に逮捕・拷問される

第26章     新婦のいない結婚式
女性連絡員がドイツ側に逮捕されて不在のため代理人を立てて教会で結婚式を挙げたが、昔は代理人を立てての結婚式は王の特権だった

第27章     秘密の学校
カルスキは、知人の依頼で、ドイツに洗脳され周囲から蔑まれてぐれかかっていた若者を自らの連絡員として教育・訓練
ナチス・ドイツの占領当局がポーランドの中等・高等教育機関を閉鎖したため、非合法の移動学級が開設された ⇒ ポーランドのみならずヨーロッパの若者たちが長い期間教育の機会を奪われたため、問題は深刻化しつつある。それがまさに戦後のヨーロッパにとって最大の問題
179ページ 「試験管」

第28章     地下国会の一審議
42年夏 ロンドンに行って亡命政府や連合国の代表たち、とりわけ米英2国との接触を構築し、レジスタンスの活動状況を伝える新しい任務を担う。そのためにまずの政党代表者会議に出席、レジスタンス機関内に復活された国会に相当、各政党は占領者との闘争で協力し合い政府を支援するものではあるが、それぞれの綱領に従った主張はそのまま亡命政府の各党代表に伝えられる

第29章     ワルシャワ・ゲットー
ロンドン行きに際し、2人のユダヤ人代表と会合 ⇒ シオニスト団体とユダヤ人ブント(労働者総同盟)の代表者で、所属は違っても一民族の苦難と絶望を具現することでは一致
ポーランド人にとって戦争は、国そのものが滅亡することを意味したが、在ポーランドのユダヤ人にとっての今次の戦争は、国は敗戦から立ち上がってもユダヤ民族全体が消えてしまうことを意味した。ヒトラーは、人道と正義を敵に回した戦争には負けるだろうが、ユダヤ人には勝つのだろう
ユダヤ系ポーランド人3百万の絶滅が宣告(既に185万人を殺戮)されたナチの絶滅作戦の真実を、ポーランドと全連合国政府に理解してもらうためのメッセージを預かるとともに、実際にゲットーの現状を視察、ワルシャワ・ゲットー住民の大移送は42.7.開始、週2回貨物列車で、46日間に25万人以上が絶滅収容所へ移送。
ロンドンでユダヤ人ブントの代表者に会って報告した直後、その代表者は無力を悟って自殺 ⇒ 43.4.には英米両国がバミューダ会議でユダヤ難民については何もしないことを決定、直後のワルシャワのゲットー蜂起が悲劇的な結末を迎えつつあり、代表者の妻子も殺害されていた。ポーランドの大統領と首相宛の遺書では、連合諸国の国民及び政府の怠慢を告発し、世界の無気力に抗議

第30章     最終段階
出発前に絶滅収容所も視察 ⇒ 40人しか乗れない貨車に120130人が詰め込まれ、貨車の床には生石灰がまかれ水をかけると高熱を発して焼き殺す。使用法が簡単で高い効果を上げ、経済的で死体の腐敗と伝染病の蔓延も防ぐ。ユダヤ人は拷問の中で滅びる

第31章     ウンター・デル・リンデン再訪
ロンドンへの途上、ベルリンに立ち寄り1泊。学友で研修時代間借りしていた一家を訪ねる。自由主義と民主主義を標榜していたが一変しているのに愕然、絶滅収容所で見聞した様子を話しても超然としているだけでなく、ポーランド人全員がフューラーとライヒの敵といい、外国人と一緒にいるのを見られるのは危険とまで言われ、すぐに離れる

第32章     ロンドンへ
ブリュッセル、パリ、リヨン(43年までポーランド人レジスタンスの拠点だった)経由バルセロナに向かい、アルヘシラスから小舟でジブラルタルへ、爆撃機でロンドンへ
42.11.25.ロンドン着。英国防諜機関MI5によって隔離され、丸二日尋問を受ける
287ページ注(8) ポーランド政府の正式な抗議文によってカスルキの身柄を引き取ったのを928日と誤記載(1128日が正しい)

第33章     世界に向かっての証言
ロンドンでは、シコルスキ将軍に報告すると同時に、将軍からもレジスタンス指導者がいかなる構想を温めているか聞かれ、不滅の民主国家をつくるため、ポーランド解放のためいかなる犠牲をも問わない覚悟だと伝える ⇒ 銀十字軍功勲章授与
軍功勲章は、1792年最後のポーランド国王スタニスワフ二世アウグストによって設けられたもの、軍人に与えられる最高の栄誉、当時まだ組織されたばかりのポーランド軍が侵略ロシアを相手に勝利を収めたことに因んだもの
軍功勲章騎士団の騎士に列せられる
41年ロヴェツキ将軍からも秘密裏に同じ勲章を授与されていた
42.12.43.1. シコルスキはアメリカを訪問、ルーズベルト大統領と会見 ⇒ 反枢軸連合国が提唱する国際機構との連携こそ持続的な平和をもたらす、全世界の共同安全保障に基づいた能動的な協力関係が生まれることを信じる
ただ、ソ連との関係については、両国の協力体制がヨーロッパ全体の利益になるというに留まる ⇒ 両国の関係は悪化の一途をたどる。43.1.シコルスキがアメリカを発ったその時を選んでスターリンは、39.11.時点でソ連軍が進駐していた西ベラルーシ、西ウクライナ、ヴィリニュス地域のポーランド人を含む全住民をソ連共和国の市民とする旨通告、それは41.12.のスターリン=シコルスキ合意を反故にするもので、スターリンは独ソ不可侵条約によりヒトラーから引き出した領土の譲歩を何が何でも英米両国に承認させようとするものだった。43.3.モスクワでポーランド愛国者同盟が結成され、新ソ連の政治集団として亡命政府への攻撃とそれにとって代わるための活動を開始
連合国代表にも同様の報告 ⇒ 双方に共通する互恵的な努力について話す
イーデン外相との面談 ⇒ 研修生時代からの憧れの的であり、愛想良さに勇気づけられて更にチャーチルとの会見を要求したが、あくまでも愛想良くだがきっぱりと断られる
各国代表で構成された連合国の戦争犯罪捜査委員会(42.10.設置)にも召喚され、ワルシャワのユダヤ人ゲットーと絶滅収容所で目撃したことを証言 ⇒ 後に国際連合の告発箇条として採用
イギリス初め連合国の主要人物との幾多の会合を通じ、連合軍に対するポーランドの貢献について、ロンドンにいるのと現地のレジスタンスにいるのとでは、その評価に大きな開きがあることを痛感 ⇒ ワルシャワでは戦闘が、国家同士がそれなしには共存できない倫理上の原則に関わる問題だったが、ポーランド人も含めその外にいる人間にはレジスタンス運動の2大原則(11章参照)が理解されない。一国の国民全体がドイツへの協力を拒むことで強いられる犠牲と、その勇気が意味する価値を、世界は理解も評価も出来ない
43.5. シコルスキ将軍から、アメリカ行きを命じられる ⇒ 任務はロンドン来訪と同じ
43.7. シコルスキは、ジブラルタル沖で乗機が墜落、事故死を遂げる
43.6. アメリカへ行き、ルーズベルト大統領ほかの要人と会見。アメリカ的民主主義、対外政策における正直さをヨーロッパに移植して欲しいと訴える
大勢の人との会見を通じ、世界で人々が団結しているのを知る
フェリックス・フランクファーター ⇒ 大統領の側近中の側近、39~最高裁裁判官で、カルスキの証言を聴取。オーストリア出身のユダヤ系、熱心なシオニストで周囲の関係者からナチスによる虐殺を聞かされていながら、自分の政治的影響力をそのために行使することをしなかった
大統領は、唯一ポーランドだけが売国奴を出さなかった理由を尋ねたり、地下闘争に携わる者たちのメンタリティを深く知りたいと言ったりした
大統領との会見を終わって、ホワイトハウスの向かいのラファイエット広場にあるコシチュシュコの像を仰ぐ
コシチュシュコ(17461817)は、ポーランド独立戦争の英雄。若くしてフランスにて工兵技術を学び、アメリカに渡って独立戦争でジョージ・ワシントンの副官として戦い、その功労でアメリカ市民権を与えられた
自分の義務は、目撃したもの、どういう目に遭わされたかを詳述し、祖国にいる者たちが話すよう要請したことを、客観性をもって繰り返すこと



私はホロコーストを見た(上・下) ヤン・カルスキ著 大戦下ポーランドの抵抗運動 
日本経済新聞 書評 2012/10/7
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 ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)については、すでにおびただしい資料や証言が公にされている。本書もまた、そうした証言のすぐれた一つである。だが、本書の主要な意義は、ドイツの支配下におけるポーランドの現実と対独抵抗運動の実態を、その現場に生きた当事者の目で、詳細かつ生きいきと描いている点にあるだろう。
(吉田恒雄訳、白水社・各2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(吉田恒雄訳、白水社・各2800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツは、瞬く間にポーランド軍を壊滅させ、各地を制圧した。それに対抗して東からはソ連が進軍し、国土は二分される。著者はソ連軍に拘束されたが、独ソの捕虜交換でドイツへ送られるさいに、移送列車から脱走して抵抗運動に身を投じる。政府はフランス(のちにイギリス)に亡命し、あらゆる主権と人権を剥奪されながら、ポーランド民衆は抵抗をつづけた。ナチス・ドイツに制圧された他の諸国とは異なり、ポーランドは「売国政治家」を出さなかった。ドイツ人に協力する民衆もなかった。これを著者は繰り返し誇らかに記している。かれ自身は密使として亡命政府のもとへ派遣され、祖国の現状をつぶさに伝える役割を果たす。2度目の密行の途上、逮捕され、拷問のすえ自殺を図るが、生き延びて、地下組織によって危うく救出される。
 だが、著者のテーマは、自分の活躍を記すことではない。ワルシャワのゲットー(ユダヤ人収容区域)と、絶滅収容所の一つに潜入したかれは、そこでなされている残虐な殺戮と悲惨をつぶさに記録して国外に伝える。周知のガス室ではなく、貨物列車を使った大量虐殺の記述は、本書のうちでも最も衝撃的な箇所だろう。それとは逆に、抵抗運動の詳細についての証言は、読者に文字通り希望を与える。ポーランドの抵抗運動は、民衆のための教育制度を地下で密かに充実させ、戦後の再建の準備を怠らなかった。抵抗運動における女性の大きな役割についての記述も、本書の重要な一部である。
 歴史のひとこまをこれほど具体的に、しかも感動的に後世に伝えた仕事は、きわめて稀有だと言わなければならない。同時に、ここから何を学ぶのかを、本書は読者に問いかけてもいるのである。
(ドイツ文学者 池田浩士)


毎日新聞 20120909日 東京朝刊 池内紀(おさむ)・評

 世界に届かなかった「虐殺」真実の証言

 ヤン・カルスキは本名ヤン・コジェレフスキ。1914年、ポーランド中部の工業都市ウッチの生まれ。大学で法学と外交学を専攻、優秀な成績で卒業後、ポーランド軍予備士官学校、そのあとスイス、ドイツ、イギリスに留学。ワルシャワにもどり、外務省第一級職員として同期トップで正式採用。将来を約束された俊才だった。
 「1939823日、わたしはとても愉快な夜会に招かれていた」
 上下2巻、600ページ余の記録の書き出しである。ワルシャワ駐在ポルトガル大使の息子の主催。おいしいワイン、美しい女たち、ワルツやタンゴ、選ばれた若者たちの陽気なパーティ。だが、その夜にすべてが暗転する。秘密の動員命令により所属部隊に集結。91日、ドイツ軍、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。17日、ソ連軍、ポーランドに侵攻。独ソ不可侵条約の秘密条項により、両国でポーランドを分割した。
 「事件は理解の限度を超えていて、わたしたちから意思というものをすべて奪ってしまった」
 いまやポーランド軍最高司令部もポーランド政府も存在しない。ポーランドそのものが消え失せていた。「20日間でこの変わりようは!」
 敗北、ソ連抑留、捕虜交換と脱走、荒廃のポーランド−−章名は歴史的経過を告げるとともに、奪われた「意思」を取りもどす過程である。元ポーランド外務省の優等生が、たくましいレジスタンスの闘士に変貌していく。上巻の終わりは、ゲシュタポの拷問、病院にて、救出。全体の最終章は「世界に向かっての証言」。


2011-06-26 『ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ』
毎日新聞 2011626日 書評より◇池内紀(おさむ)・評 
(河出書房新社・2310円)
◇苛烈で無慈悲きわまる「世界の良心」へ
 ナチス・ドイツがとった反ユダヤ政策はよく知られている。それが大々的なホロコースト(ヘブライ語では「ショアー」=大惨事)へと導いた。これをめぐって多くの書物や研究書がある。物語、演劇、映画、美術にもひろがって、いわば「ホロコースト物」にあたるジャンルが生まれた。
 そこに新しく一つ、出色のものが加わった。ヤン・カルスキは1914年、ポーランドの工業町ウッチの生まれ。2000年、アメリカで死去。「ユダヤ人大虐殺の証人」は訳書につけられたタイトルで、原題は「ヤン・カルスキ」。第二次世界大戦のさなか、もっとも早い時期にユダヤ人大虐殺の実態を世界に伝え、本にして告発した。戦後、アメリカの大学で教えるかたわら、公には30年あまり沈黙を通した。いっさい語ろうとしなかった。
 1985年、フランスの映画作家のクロード・ランズマンによるドキュメンタリー映画「ショアー」で初めて口を開いた。エネルの小説は、十時間余の長大な映画の終わりにちかい一シーンで始まる。60歳ぐらいの男が何か語ろうとしているが言葉が出てこない。口ごもり、「私は35年前に戻ります」と言うやいなやパニックに襲われた。「彼は泣きじゃくり、顔を隠し、突然立ち上がってフレームの外に去る。()男は消えた」
 カメラが探し出したとき、画面に名前が現れた。「ヤン・カルスキ(USA)」。そして「1942年の中頃」にもどり話し始める。
 第二次大戦の始まりまで、ポーランド国内のユダヤ人は約350万人を数えた。ポーランドはアメリカについで、世界で二番目にユダヤ人の多い国だった。戦争が終わったとき、ユダヤ人生存者は25万人。まるで「絶滅種」のように激減した。まさにそのようにして絶滅が図られたからだ。1939年、ナチス・ドイツ軍によるポーランド占領以後、歴史に前例のない大量殺戮が実施された。
 首都ワルシャワでは1940年にゲットーがつくられ、38万人のユダヤ人が閉じ込められた。飢餓、疫病、射殺、さらに1942年の夏以後、5000人単位で絶滅収容所へと送られていく。ナチスはきびしく情報管理をして、労働施設への移送と発表していた。ゲットーのリーダーに依頼され、ヤン・カルスキは使者を引き受ける。西欧諸国に歴史上類のない事件を伝える。それが絶望的な状況における唯一の希望だった。「ひょっとしたら世界の良心を揺り動かせるかもしれない!」--。
 エネルの小説は三部構成をとり、一は映画での証言のもよう。二はルーズヴェルト大統領と会見してのち、アメリカにとどまったカルスキが1944年に公刊した告発書の要約。ともにドキュメンタリーの手法により、三にいたって初めてフィクションになる。カルスキの独白のかたちで長い沈黙の時期にもどりながら、地上から消された膨大な死者たちと、救済に手をかそうとしなかった「世界の良心」を語っていく。
 独創的な構成によって、一冊の書物がまるでちがった効用をおびてくる。冷静で客観的な証言や記述はすでに70年ばかり前の過去のことだが、独白を通してくり返されるなかで、まさに現在の「世界の良心」に向けての鋭い批判の矢をもってくる。イギリスは諜報機関を通してポーランドで進行中のことをつかんでいた。アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策を止めようとはしなかった。「彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。彼らは無知を装った。知らないほうが自分たちに有益だったから、そして、知らないと思い込ませることが彼らの利益になったからだ」
 すべての罪をナチスに負わせて1945年に幕引きがされた。「同じ年、何か月かをおいて、一方では広島と長崎への原爆投下があり、他方でニュルンベルク裁判が始まったが、誰もこの二つのあいだに少しの矛盾も見なかった」
 ヤニック・エネルは1967年生まれ。フランスでは1995年にシラク大統領が、国内のユダヤ人検挙と収容所移送にフランス政府の果たした役割を公式に認めて以来、レジスタンス神話一色だった歴史の見方が大きく変化した。いまや若い作家がこだわりのない目で、苛烈で無慈悲きわまる現実を映像にしたり小説にする。ヤン・カルスキが口を開く気持になったのも、学生たちに求められたからだ。日本人にはかかわりのない遠い史実と思われるだろうか? 殺される人間に距離を感じたとき、それが3メートルだろうと数千キロだろうと同じこと。「殺される人々と僕たちを隔てる距離の名前、それは卑劣だ」。
 イスラエル国会はユダヤ人を救済した非ユダヤ人を「諸国民の中の正義の人」として顕彰することを定めている。ちなみに20101月現在で、ポーランド国籍6195人、オランダ5009人、フランス3158人、日本人1人(杉原千畝)。これもまた苛烈で無慈悲きわまる数字である。(飛幡祐規訳)


ポーランド抵抗運動の英雄故ヤン・カルスキ、大統領自由勲章受賞 生前インタビュー

5月最終週、米政府は、オバマ大統領がポーランドの対独抵抗活動家、故ヤン・カルスキ氏に勲章を授与した際に使用した言葉に対し、ポーランドへ謝罪の意を表明しました。オバマ大統領は、文民最高位の勲章、「大統領自由勲章」の授与式で、ポーランドがナチスドイツの占領下だったことに言及せずに、「ポーランドの死の収容所」と発言しました。第二次世界大戦中、カルスキはナチスのユダヤ人大量虐殺の実態を世界に伝えました。彼はワルシャワのユダヤ人収容所を訪れ、ルーズベルト大統領と当時の最高裁判事、フェリックス・フランクフルターの前で目撃証言をするために訪米しました。1986年にアンドリュー・レズリー・フィリップスによって行われたカルスキのインタビューの一部をお送りします。

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