長谷川等伯 生涯と作品  黒田泰三  2012.10.3.


2012.10.3. もっと知りたい 長谷川等伯 生涯と作品

著者 黒田泰三 1954年福岡県生まれ。九大文学部哲学科美学美術史専攻卒。文学博士。専門は日本絵画史。現在出光美術館学芸部長

発行日           2010.2.20. 初版第1刷発行
発行所           東京美術

2012.5. 日本経済新聞朝刊小説『等伯』連載終了

桃山時代の絵師。40代を除き珍しく順調で明瞭に生涯が語られる
同時代の、例えば狩野永徳は過重な制作により晩年は画風が荒れたとされ、結局過労死したし、その子光信は父の様式を継承せず周囲を慌てさせ不評を買ったように、混沌としたものを抱え込み呻吟する姿が見え隠れするが、等伯がそうでなかったはずはないにもかかわらずそれが見えてこない。絵師にとって作品がすべて、その背景や苦悩というものは、表に出さないという豪然たる芸術生活を物語る
信春と等伯が同一人物かどうかとか、絵仏師でありながら世俗画を描くということも矛盾だし、いくつもの疑問がある
類を見ない動物画の名手、水墨画家として有名だが色彩画家でもあった
《松林図》も元々は自分のために描かれた屏風とも言われる

今でも多くの作品が寺院に収蔵されている
もっとも古いものは26歳の時・絵仏師の作品で、能登を中心とした地域に確認できる ⇒ 通常は落款を入れないが、信春のものは落款が入れてある
信春は等伯の子供という説、全くの別人説というのもある

養父母の死を機に京都へ上り、郷里の本延寺の本山・本法寺に入る
堺市との行き来があり、千利休とも出会う
秀吉に重用された狩野派の永徳様式が時代を席巻、等伯も影響を受けるとともに、そこから新たな領域を拓く ⇒ 大徳寺所蔵の牧谿(もっけい)画との出会いが、その後の方向を決めた。自然界の本質をとらえた動物描写の技術に啓発され、一連に動物画の延長線上に《松林図》がある
三玄院(大徳寺の塔頭の1)の襖に描いた水墨の山水画 ⇒ 春屋宗園の不在中に勝手に描いたが、あまりの見事さに宗園も認めざるを得なかったもの。元々雲母刷りの桐紋が一面に散らしてあり、山水を書きこむ余地はないが、等伯は桐紋を降りしきる雪に見立てて、雪景色の山水として描いている。等伯の強引さと着想の斬新さを物語る逸話
等伯の動物画の魅力は、その情愛表現あるが、それは目の表現に負うところが多い
《松林図》 ⇒ 寺院の襖絵が計画変更となり中断したものを屏風に仕立てたものとする説が有力だが、著者は秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺の壁画制作の強いプレッシャーと我が子を亡くした悲しみの中で、等伯がいわば自分探しのために描いた自らへの問いかけの屏風作品と考えたい。紙継の一部に不連続が見られ、一般的には下絵と考えられる
祥雲寺は、家康によって廃絶され、寺領は智積(ちしゃく)院に与えられ、等伯作の障壁画の一部が今も残る ⇒ 狩野永徳の影響を強く受けた作品だが、松の巨木より、その根元を覆い尽くす草花表現に等伯独特の自然表現が認められる ⇒ 狩野派ではなく等伯が描いたということは、この時すでに等伯の力が狩野派を上回っていたと言える
祥雲寺障壁画の成功で秀吉に認められ、その後ろ盾を得たが、秀吉没後に身を守るために巨大な《涅槃図》を制作し、宮中で披露した後本法寺に奉納 ⇒ 東福寺、大徳寺とともに3大涅槃図と言われ、「雪舟より5代目」と名乗る(根拠不明)
1592年頃、本邦初の画論書『等伯画説』を執筆
中世末から近世にかけて、絵師の署名に「法印」「法眼」「法橋(ほっきょう)」とあるのは、元々僧侶に授与された位階だったが、絵仏師などにも与えられた
66歳で「法橋」(他に俵屋宗達がいる)に叙せられたが、等伯は署名に使っていない
翌年、異例の速さで「法眼」叙位
等伯没後2代ほど続いたが、流派としての活動は途絶え、風俗画に活路を見出した

等伯の多彩な魅力
Ø  動・植物画を日本的情感で描く ⇒ 牧谿画の影響が濃いが、鴉のようなモチーフを持ち込んで独自性を出そうとしている。動物を描くことを通して情趣表現を志す。血の通った温もりを描こうとした
Ø  色彩画家 ⇒ 智積院障壁画の前後が全盛。室町時代のやまと絵学習から始まり、数を絞って草花を選び、それぞれのはかない生命美を丁寧にそして可憐に描く独自の花卉表現様式を完成させた。近世的な明るさが加わる
Ø  永徳に比肩する着色画 ⇒ 永徳と等伯が着色画の仕事を張り合っていた事実がある
Ø  古典の学習を基盤とした新たな絵画 ⇒ 狩野派はじめ同時代の他の流派には発想できなかった画題を創造し、日本に新たな絵画の時代をもたらす


Wikipedia
長谷川 等伯天文8年(1539慶長152241610319))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師狩野永徳海北友松雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
生涯 [編集]
七尾時代 [編集]
天文8年(1539年)、能登国七尾(現・石川県七尾市)で能登国戦国大名畠山氏に仕える下級家臣、奥村文之丞宗道の子として生まれる[1]。幼名を又四郎、のち帯刀と称した。幼年期に染物業を営む長谷川宗清の養子になったと言われる。養家は染物業を営みながら仏画も描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。はじめ長谷川信春を名乗り、七尾を中心とした能登地方で、自らも生涯を通じて熱心な信徒であった日蓮宗関係の、仏画や肖像画などを描いていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年(1564)等伯26歳のものであるが、その完成度は極めて高く、おそらく10代後半頃から養父たちに絵の手ほどきを受けていたと考えられる。その作品は現在でも、能登地方一帯に十数点確認することが出来る。当時の七尾は畠山氏の庇護のもと「小京都」と呼ばれるほど栄え、等伯の作品には都でも余り見られない程良質の顔料が使われている。一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。
上洛、雌伏の時代 [編集]
30歳過ぎた元亀2年(1571)頃、養父母の死を契機に、息子久蔵を連れて上洛[2]天正17年(1589)まで等伯に関する史料は残っていないが、郷里にある生家の菩提寺本延寺の本山本法寺からの庇護を受けながら、絵を描いて売る「絵屋」として身を立てたようだ。当時の主流であり、一時はその門を叩いたとも言われる狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち、その様式に学びつつも、京都と堺を往復し、千利休ら堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立していった。等伯が語ったことを本法寺住職日通が書き留めた『等伯画説』[3]は、雪舟ら日本の絵師について触れつつも、大半は南宋時代の絵の主題とその画家たちの内容で占められる。別の史料『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。『本朝画史』は、一世紀後の、等伯のライバルだった狩野派の著作なので、信憑性にやや疑問が残るが、これが江戸時代における一般的な等伯に対する見方であった。
中央画壇にデビュー [編集]
天正17年、千利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺三門の壁画制作を依頼され、また、同寺の塔頭三玄院にも水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りをする。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年(1590前田玄以山口宗永に働きかけて、仙洞御所対屋障壁画の注文を得るが狩野永徳の妨害工作で取り消されてしまった[4]。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この一ヶ月後永徳が急死するとその危惧は現実のものとなり、天正19年(1591)からの祥雲寺障壁画制作を長谷川派が引き受ける事に成功する。しかし、文禄3年(1593)、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれてしまった。
「雪舟五代」 [編集]
等伯は私生活では不幸もあったが、絵師としては順調であった。慶長4年(1599)頃から「雪舟五代」[5]を名乗り、当時評価が上がりつつあった雪舟の名を全面に押し出しつつ、間に祖父と父の名を加え、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言する。これが功を奏し、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により慶長9年(1604法橋、翌年法眼に叙せられる。慶長4年の暮れに高所から落ち、利き腕である右手の自由を失ったと言われる[6]が、その後の作が残っていることからある程度は治ったものと考えられる。さらに慶長10年(1605)には、本法寺客殿や仁王門の建立施主となるなど多くのものを寄進、等伯は本法寺の大檀越となり、単なる町絵師ではなく町衆として京都における有力者となった。
晩年 [編集]
晩年の等伯に関する記事が、沢庵宗彭の『結縄録』にみえる。或る人が、直に虎を見たことがある誰それほど上手に虎を描くものはいないだろうと述べると、等伯は自分の左手を見ながら右手で絵を描いても、絵が下手では上手く描けないように、実際に見た見ないは絵の上手下手とは関係ない、と反論する。沢庵は、さほど賢そうな老人には見えないけれども、画道に心を尽くした人の発言だけあると感心しており、文章の生々しさから実際に等伯に会って書いたであろうこの逸話からは、生涯を絵に捧げた等伯の愚直な姿を彷彿とさせる。
慶長15年(1610徳川家康の要請により江戸に下向するが旅中で発病、江戸到着後2日目にして病死した。享年72。法名は厳浄院等伯日妙居士。遺骨は京都に移され本法寺に葬られたと言われるが、その墓は定かでない。
現在 [編集]
平成7年(1995)、七尾駅前に故郷を旅立とうとする等伯の銅像「青雲」[7]が建てられた。 2010から没後400年を記念し、北國新聞石川県七尾美術館七尾市の協力で「長谷川等伯ふるさと調査」を行った。その調査で珠洲市の本住寺に、27歳頃に描いたとされる日蓮上人の肖像画が見つかったり、氷見市の蓮乗寺にある「宝塔絵曼荼羅」が等伯と養父の宗清による、父子合作であることなどがわかった。 さらに没後400年記念キャラクターとして「とうはくん」が誕生した。
年表 [編集]
§  1539 - 能登国七尾に生まれる。
§  1563 - 「日乗上人像」(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
§  1568 - 長男・久蔵生まれる。
§  1571 - 養父・宗清、養母・妙相没。
§  1579 - 妻・妙浄没。
§  1589 - 「大徳寺山門天井画・柱絵」、「山水図襖」(大徳寺)を描く。妙清を後妻に迎える。
§  1593 - 「祥雲寺障壁画」(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
§  1599 - 「仏涅槃図」(本法寺蔵)を描く。この頃「白雪舟五代」を自称する。
§  1604 - 後妻・妙清没。
§  1606 - 「龍虎図屏風」(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
§  1610 - 江戸下向到着後、没。(72歳)
代表作 [編集]
現在確認される作品は80点余り。途中記録がない時期を挟むものの、その画業をほぼ追うことが出来る。豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の金碧障壁画(その一部が現在、京都・智積院に伝存)と、松林図屏風が代表作。金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。特に牧谿の「観音猿鶴図」(国宝、大徳寺蔵)影響が強く、その筆法を会得するまで何度も繰り返し描いている。牧谿と比べると等伯の技術は明らかに劣っているが、等伯はその未熟さをむしろ逆手に取り、絵のモチーフに共感を抱かせ、鑑賞者に感情移入を促す情感表現を志した。松林図もその延長上に位置し、その主題が最も成功した作品といえよう。
松林図屏風はその伝来、製作の事情など不明な点が多いが(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)、400年前の作品とは思えない斬新な作品である。極限にまで切り詰めた筆数と黒一色をもって、松林の空間的ひろがりとそこにただよう湿潤な大気とを見事に表現している。等伯の残した作品の多くは重要文化財に、一部は国宝に指定されている。
40代以前 [編集]
§     一塔両尊図(富山・大法寺1 紙本墨画 重要文化財 1564
§     日蓮聖人像(富山・大法寺)1 紙本着色 重要文化財 1564
§     鬼子母神十羅刹女図(富山・大法寺)1 紙本著色 重要文化財 1564
§     善女龍王図(石川県七尾美術館)1 絹本著色 石川県指定有形文化財 1564
§     十二天図(羽咋・正覚院)23 絹本著色 石川県指定有形文化財 1564
§     三十番神図(富山・大法寺)1 絹本著色 重要文化財 1566
§     涅槃図(羽咋・妙成寺)1 絹本著色 石川県指定有形文化財 1568
§     愛宕権現図(石川県七尾美術館1 絹本著色 石川県指定有形文化財 1570年代頃
§     日堯上人像(京都・本法寺1 絹本著色 重要文化財 1572
§          早世した本法寺第八世日堯上人を描いた像。江戸時代には「信春」は息子の久蔵のことだと考えられたが、本図に墨書された款記によって信春と等伯が同一人物だと提唱され、現在ほぼ定説となっている。
§     名和長年像(東京国立博物館1 絹本著色 重要文化財
§          素襖に帆掛舟の紋があることから、旧蔵者福岡孝悌が箱に「伯耆守名和長年像」と記し、この名で呼ばれている。しかし、等伯が日蓮宗の祖師以外で過去の人物の肖像画を描くとは考え難く、等伯と同時代の武将を描いたとする説も有力。候補として、大坪流の馬術家で能登に領地を持ち、足利義輝の馬術師範であった斉藤好玄(よしはる)、「武田信玄像」との関係から武田家の家臣で水軍を担った伊丹康道、或いは帆掛舟はただの文様で太刀の目貫とに梅鉢紋が描かれている事からこれを家紋とする能登平氏とする説[8]、などがある。
§     武田信玄像(高野山・成慶院1 絹本著色 重要文化財
§          近年、この肖像画の像主について異論が出ている。詳しくは武田信玄#肖像画を参照。
§     花鳥図屏風(岡山・妙覚寺)六曲一隻 重要文化財
§     牧馬図屏風(東京国立博物館)六曲一双 紙本著色 重要文化財
§     十六羅漢図(七尾・霊泉寺)8幅の内 紙本墨画淡彩
§     陳希夷睡図(石川県七尾美術館)紙本墨画 石川県指定有形文化財
§     達磨図(七尾・龍門寺)1 紙本墨画
50 [編集]
§     稲葉一鉄像(京都・妙心寺智勝院)1 絹本著色 玉甫紹琮 重要文化財 1589
§     大徳寺山門天井画・柱絵(京都・大徳寺)板絵著色 重要文化財 1589
§          内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦陵頻伽像」を一体づつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの壁画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。
§     旧三玄院襖絵(山水図襖)(京都・高台寺圓徳院)襖32 紙本墨画 重要文化財 1589年頃
§     旧三玄院襖絵(松林山水図襖)(京都・楽美術館)襖4 紙本墨画 1589年頃
§          元は大徳寺塔頭三玄院の方丈を飾るものだったが、廃仏毀釈によって流出し、現在は上記のように分蔵されている。等伯はかねてより方丈の襖絵制作を懇願していたが、住持春屋宗園は修業の場である方丈に絵は不要と断られ続けた。そこで等伯は春屋の留守を狙って止める雲水達を振り切って上がり込み、一気呵成に描いたのがこの襖絵だったと言う。戻ってきた宗園は初め激怒するも、絵の出来栄えに感心し、結局襖絵を認めてそのままにした[9]。襖絵の料紙が作画に不向きな雲母刷り胡粉文様の唐紙であることから、この逸話はおおよそ事実に近かったと考えられる。等伯は、桐紋を降りしきる雪に見立て、雪景色の山水として描いた。
§     松に鴉 柳に白鷺図屏風(出光美術館)六曲一双 紙本墨画 1592年頃
§     旧祥雲寺障壁画(京都・智積院) 1592年頃
§          楓図 紙本金地著色 国宝
§          松に草花図 紙本金地著色 国宝
§          松に梅図 紙本金地著色 重要文化財
§          松に秋草図 紙本金地著色 国宝
§          松に黄蜀葵図 紙本金地著色 国宝 など
§     春屋宗園像(京都・三玄院)1 絹本著色 重要文化財 1594
§     利休居士像(京都・不審庵)1 絹本著色 春屋宗園賛 重要文化財 1595
§          等伯と利休の交流の一端が垣間見える作品。正木美術館にも等伯筆といわれる利休の肖像画があるが、面貌表現の相違から、等伯の作でない可能性が高い。
§     妙法尼像(京都・本法寺)1 紙本墨画 重要文化財 1598
§     松林図東京国立博物館)六曲一双 紙本墨画 国宝
§     金地院障壁画(京都・南禅寺金地院)重要文化財
§     竹林猿猴図屏風(承天閣美術館)六曲一双 紙本墨画 重要文化財
§     枯木猿猴図(京都・妙心寺龍泉庵)2 紙本墨画 重要文化財 京都国立博物館委託
§          表具背面墨書銘によると、元は前田利長遺愛の六曲一双の屏風絵であったが、ある時利長が恍惚としていると、絵の中の猿が腕を延ばし髪を引っ張ったので、利長は短刀でその腕を切り落とし、以後「腕切猿猴」と呼ばれたという逸話が記されている。利長死後、一隻づつ分け寄進され左隻は焼失、右隻も右側4扇分を掛け軸2幅に改装されて現在の状態になっている。
§     樹下仙人図(京都・壬生寺)六曲一双 紙本淡彩 重要文化財
§     妙蓮寺障壁画(京都・妙蓮寺)重要文化財 京都国立博物館寄託
§     波濤図(京都・禅林寺)紙本金地墨画 重要文化財 京都国立博物館寄託
§     瀟湘八景図屏風(東京国立博物館)六曲一双 紙本淡彩
§     竹虎図屏風(出光美術館)六曲一双 紙本墨画
§     柳橋水車図屏風(香雪美術館)六曲一双 紙本金地著色 重要美術品
§          「絵屋」としての等伯を考える上で指標となる作品。当時この図様は非常に流行したらしく、類似作が20点前後も現存し、志野焼織部焼といった焼物の絵付けや、蒔絵などの工芸品デザインや衣装の文様にも確認することが出来る。本作はその中でも卓越した技量を示し、等伯自身が描いた可能性が高い。
60代以後 [編集]
§     大涅槃図(京都・本法寺)1 紙本著色 重要文化財 1599
§   画面だけでも縦8m弱・横約5,2m、画面周囲の華やかな描表装を含めれば、高さ10m・横6mにも及ぶ大作。東福寺明兆作、大徳寺の狩野松栄作と共に、三大涅槃図と呼ばれる。等伯自らが願主となり、本法寺に寄進した。現存する中で初めて「雪舟五代」と署名した作品である。本法寺奉納前に宮中で後陽成天皇の叡覧に供され、京中で評判となった。この広報活動は成功し、こののち有力寺院の仕事を次々と手がけることになる。絵の裏には、日蓮上人と祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下日通上人までの歴代住職、更に養祖父母や養父母、若死した久蔵たち等伯一族の名が記されている。等伯の篤い信仰と一族への深い祈りが込められた作品といえよう。
§   水墨山水図(京都・ 妙心寺隣華院)襖20 紙本墨画 重要文化財 1599
§   商山四晧図(京都・大徳寺真珠庵)襖4 紙本墨画 重要文化財 1601
§   蜆子猪頭図(京都・大徳寺真珠庵)襖4 紙本墨画 重要文化財 1601
§   梅に叭々鳥図(京都・大徳寺真珠庵)襖2 紙本墨画 重要文化財 1601
§   禅宗祖師図(京都・南禅寺天授庵)襖16 紙本墨画 重要文化財 1602
§   商山四皓図(京都・南禅寺天授庵)紙本淡彩 8 重要文化財 1602
§   松鶴図(京都・南禅寺天授庵)襖8 重要文化財 1602
§   龍虎図屏風(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画 1606
§   日通上人像(京都・本法寺)1 絹本著色 重要文化財 1608
§   弁慶・昌俊図絵馬(京都・北野天満宮1 板絵金地著色 重要文化財 1608
§   烏鷺図屏風(川村記念美術館)六曲一双 紙本墨画 重要文化財 「法眼」署名
§   萩芒図屏風(承天閣美術館)
§   故事人物図屏風(MOA美術館
その他 [編集]
§  月夜松林図屏風(個人蔵) 2の松林図といわれている。京都国立博物館寄託。松の配置やその姿形が原本に忠実過ぎ、細部の表現がやや鈍重な事から、等伯周辺の有力絵師の作とするのが妥当。
§  「松林図屏風」萩耿介 200811月、ISBN 978-4532170899 2008年第2回日経小説大賞受賞。
§  2011122日より日本経済新聞朝刊にて小説「等伯」掲載(作者:安部龍太郎)。ノンフィクションに限りなく近い完成度の高い内容となっている。
参考文献 [編集]
§  『月刊 美術の窓No.318 戦国絵師 長谷川等伯 絵筆で天下を獲る!! 生活の友社美術の窓ねっと20103
§  芸術新潮 20103月号『〈没後400年記念特集〉長谷川等伯《松林図屏風》への道』
§  黒田泰三 『もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品』 東京美術ABCアート・ビギナーズ・コレクション》、20102 ISBN 978-4-8087-0823-8
§  『別冊太陽 長谷川等伯』 平凡社20101 ISBN 978-4-5829-2166-3
§  水尾比呂志 『近世日本の名匠』 講談社講談社学術文庫》、2006 ISBN 978-4-0615-9757-0
§  宮島新一 『長谷川等伯 真にそれぞれの様を写すべし[10] ミネルヴァ書房2003 ISBN 978-4-6230-3927-2
§  山根有三 『山根有三著作集6 桃山絵画研究』 中央公論美術出版1998 ISBN 978-4-8055-1452-8
§  黒田泰三編 『長谷川等伯』 新潮社《新潮日本芸術文庫4》、1997 ISBN 978-4-1060-1524-3
§  橋本綾子解説・池田満寿夫 『水墨画の巨匠第3巻 等伯』 講談社、1994 ISBN 978-4-0625-3923-4
§  土居次義 『日本の美術87 長谷川等伯』 至文堂1973
§  脇坂淳 『等伯』 三彩社《東洋美術選書》、 1970
§  『週刊 日本の美をめぐるNo.14 金と墨の長谷川等伯』 小学館、2002
§  『週刊アーティスト・ジャパン第25 長谷川等伯』 同朋舎出版、1992
§  展覧会図録 『没後400 長谷川等伯』 東京国立博物館20102-3月、京都国立博物館4-5
脚註 [編集]
1.   ^ 宮島新一 『長谷川等伯 真にそれぞれの様を写すべし』ミネルヴァ書房 p.12や、中島純司編著『日本美術絵画全集.10 長谷川等伯』(集英社1974年、新版1979 p.122-123)に「川口市 長谷川家系譜」ほか諸本を掲載
2.   ^ 上洛時期は、もう少し後に下るとする意見もある(宮島新一『長谷川等伯』P49.50
3.   ^ 本法寺蔵。重要文化財
4.   ^ 勧修寺晴豊『晴豊公記』天正十八年八月八日、十三日の条
5.   ^ 雪舟 - 等春(雪舟の弟子) - 法淳(養祖父) - 道浄(養父) - 等伯。等春は北陸地方と京都を往復しつつ活動した絵師。二人の生没年から等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師と位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる
6.   ^ 曲直瀬玄朔『延寿配剤記(天正医学記)』(寛文10年(1670))巻之一 傷寒門
7.   ^ 地元の彫刻家田中太郎の作
8.   ^ 藤本正行 「家紋は語る」、週刊朝日百科『日本の歴史別冊 歴史の読み方8 名前と系図・花押と印章』 50-51
9.   ^ 『大宝円鑑国師行道記』
10.         ^ 『等伯画説』第61条より。細川成之が等春に「雪舟の広量に似せるべからず、只いかにも真にそれぞれの様に写すべし」と命じた逸話を記している。


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