音楽と生活 兼常清佐随筆集  杉本秀太郎  2012.10.13.


2012.10.13. 音楽と生活 兼常清佐随筆集

1948年、旧制四高に入学。
1949年、学制が変わり、新制京都大学文学部仏文科に入学。
1953年に卒業後、1956年、同大学院に入学し、1961年、博士課程単位取得満期退学。
1962年、京都女子大学文学部専任講師、1965年、助教授、1971年、教授。
1988年に新設された国際日本文化研究センター教授に就任し、1996年に定年退職。同年に日本芸術院会員、筑摩書房より全5巻で『杉本秀太郎文粋』が刊行された。
次女に料理研究家杉本節子(関連著書多数)、三女に京都造形芸術大学非常勤講師の杉本歌子がいる。
文化財としての杉本家住宅 [編集]
杉本家は1743寛保3年)に「奈良屋」の屋号で京都・四条烏丸に呉服商として開業した。現存する杉本家住宅は1870年(明治3年)の建立で、1990(平成2年)に京都市指定文化財に指定されてから、(財)奈良屋記念杉本家保存会が維持運営にあたっている。2010年(平成22年)には国の重要文化財に指定された。[1]
敷地300にわたる京都市最大規模の古い町屋建築であり、江戸時代の大店の構えを残し、祇園祭の際には、「伯牙山」(はくがやま)のお飾り場として、通りに面した「店の間」に、「ご神体」や懸装品が飾られる。当主の秀太郎は、なるべく自然の趣を再現させるべく、庭にワレモコウフジバカマを育てている。毎年、花ニレ水仙が枯れた後、芽を出すフジバカマは、秋の七草に数えられるが、今では絶滅危惧種となっている。(香りが良いので、)昔は陰干しにし、箪笥(たんす)にしまっていたという。
屋敷地一帯は、平安時代には、関白となった公卿藤原頼忠の屋敷があった所で、歌人で有名な(息子の)藤原公任も住んでいた。屋敷の真ん前が「矢田寺」という寺で、「平家物語」を語る琵琶法師たちの集合場所だったそうである。だから前の通りは(平安時代には)、琵琶法師や、藤原家の召使家人)たちが行き来していたんではないか。注意を凝らせば、京都には、まだまだ、「平安時代の匂い」の感じられる物は、ところどころに残っているんじゃないか。と杉本秀太郎はいう
受賞歴 [編集]
§  1978に『文学演技』で芸術選奨新人賞
§  1996に『平家物語』で大佛次郎(我が家にあり)

発行日           1992.9.16. 第1刷発行                1999.11.8. 第2刷発行
発行所           岩波書店(岩波文庫)

兼常清佐(18851957)は、日本の優れた音楽美学者である。神秘なこと、不合理なこと、曖昧なことを極度に嫌い、常にアイロニカルな調子で日本文化を批判する長短とりどりの文章を発表した。そうした兼常に、長年にわたって敬愛の念を抱く編者が、49編を精選・編集して1本とした。著者の提起した問題は今なお鋭く新しい

解説
兼常清佐という名は、60歳代以上の人しか知らない
中村紘子のエッセイ『ピアニストという蛮族がいる』(1992年刊)2度も出て来た名前。久野久(ひさ)というピアニストの生涯を描き出す中に、兼常の一節や兼常に当てた葉書を引用しているが、当代のピアニストによって兼常が横合いから冷淡に傍観されているのが分かる
兼常清佐は、何かにつけてのぼせ上がる世間の傾向に背き、日本人である自己を外在化し、冷めた目で物事を見ようと努めた人。世間はこういう人を奇人変人扱いするが、敢えてそれを甘受
兼常清佐の学問の一端は、最後の「仕事場の一隅から」の3篇から十分窺える
兼常は、物の学問が成り立つには、まず物が現象として記述できなくてはならない、誰にも観察可能なように現象を記述できる客観的な記述の方法があるかどうか、もしあれば、その記述によって観察可能となった現象に関しては学問が成り立つ、と考え、先ずは日本の亡びゆく民謡をありのままに記述する方法を探る実験を行う
ピアノの構造についても分析記述を試みる
「正しい推論は人を怒らせる」とスタンダールは言ったが、世間には兼常の「正しい推論」に腹を立てる人が次第に多くなった。それでも兼常は素知らぬ顔で言い続ける
戦後、何故兼常は復活しなかったのか。西洋音楽の復興は目覚ましかったが、兼常にとってはただ目障りでしかなく、日本の伝統芸能が大衆社会状況の進展につれ隆盛繁盛するとあって、兼常の冷めた評価は誠に不都合であり、芸術浮かれというものに解熱剤、冷や水として働くような考え方は、いずれの方面にも現状肯定の邪魔となる性質を備えていた
日本に馴染めない日本人、「在日日本人」を自覚したさきがけの1人ともいえる
漢字を積み重ねた学術用語を一切使わずにどこまで学問が出来るか、この在日日本人はそれを生涯の課題にしていた
戦前から一貫して、東京をトーキョー、日本をニッポンと書き、人名は仮名で書く。日本文を、ヘボン式でない日本式のローマ字で書くべしと主張
日本文化批評や社会への提言に似てきたものが見える桑原武夫氏が語った兼常のエピソード
(1)  京大卒業後、京都女子専門学校の講師をしていた時、カンニングの密告があり、退学問題になった時、密告した生徒を退学させるべきと校長に抗議して、講師を辞めた
(2)  東京の菊富士ホテルに下宿していた時、小遣い稼ぎに活動写真の弁士をしていたが、その時の芸名が相良武雄。I love youをもじった当て字
(3)  友達にコーヒー通をもって任じる奴がいたので、下宿でコーヒーを振る舞い、何と何のミックスか当ててみろと言い、もっともらしい答えを聞いて笑った。婦人病の煎じ薬、中将湯が混ぜてあったから


I
Ø  名人滅亡
「万法流転」というのは実に真理だ
時代が変わり、生活が変われば芸術も変わる。新興階級の人には新興階級のベートーヴェンがある
機械文明の進歩によって、音楽の世界から名人の一群を追い除けることはできないか
馬鹿馬鹿しい高い銭を名人に払うこともいらず、音楽はどこでやっても、誰がやっても、聴く人相当に皆同じように美しくなる
そうなれば、音楽は小説と同じで、ただ創作だけが音楽家の仕事になる
機械文明が、名人の存在を打ち滅ぼすところまで行けないものか
名人とは、演奏家であるが、演奏家とは作曲家の命令通りに音を出す人で、タイピストの仕事と変わりない
車で15分で行けるところを、1時間もかけて草鞋を履いて行かせるようなことはしたくない。クロツェルもコルトーも、早く草鞋を脱がせてパッカードに乗せてやりたい
名人の権威にうたれた批評家と、英雄崇拝の感情に酔った聴衆にとっては陶酔の世界であるが、それがどれほどまで客観的な事実なのか、客観性が証拠立てられるものか
昔の名人はその技巧を自分の音楽を表現するために使った ⇒ 有名な作曲家はみな当代一流のピアニストであり、人に作曲を依頼せず、自らの曲を弾くために技巧を使った
ベートーヴェンのソナタは、ベートーヴェンが夢見た美しい夢の姿であって、現代の名人がいくら正確に弾いたところでベートーヴェンの夢の他に、更に名人自身のどんな夢が表現せられるものであろうか
今の楽譜は物を記述する方法としては不完全、数量的でない。建築の設計図に比べたらその差は明瞭。演奏者が、その数量的でない部分に裁量を働かせるのが名人だとすれば、あまりにも儚い夢
ショパンの《プレリュード》を弾くコルトーを、彼自身の出版した楽譜を見ながら聞くと、譜面との齟齬が目立つ。コルトーは人間だから、音楽に対して十分な心の動きも示している。第一彼はショパンの《プレリュード》全体に詩的な短い言葉を添えて、それで自分の感じたこの曲の内容を言い現わそうとしている。第二に彼は楽譜をただ楽譜通りに弾いていない。テンポも強弱も音の長短さえ異なる。そしてそれはいつも甚だよく私共の感情に訴える。このような点だけは遥かに機械力を超越している。つまり機械をこのように調節する心の動きがある。ここが名人の名人たる処だと誰も言うであろう。
しかし、これは初めにショパン自身がしたことであって、ショパンの音楽はまさにそんなものであったに違いない。楽譜は音楽を科学的に記述する能力がないから、彼の音楽はその一半だけしか今日まで伝わっていない。コルトーはその一半を仮に自分で補ってみたというだけで、コルトーも楽譜の序文で自分は決して解釈者の分を越えないという。解釈者ということを狭義に取れば、実はただこの一半を補うというだけのことである。そしてそれがいつもよく私共の鑑賞を喜ばすというだけのこと。これが即ち名人コルトーである。それなら、ピアノが完全に作曲者の音楽を記述し、表現するようになれば、音楽を作り出した人が自分の考え通りに一度機械を調節していつまでも自分の音楽として保存されるようになれば、第一演奏家としても、第二に狭い意味に考えての解釈者としても、100年後の名人コルトーの仕事の余地はなくなるはずだ。そしてコルトーは、新たに自分の音楽を作り出す人になるか、あるいは人の音楽を聴く人になるか、他に道はなくなる

Ø  音楽の合理性
音楽の歴史は古い。3000年の間にいろいろな音楽が色々な人々のために作られ、音楽によって心を慰めた。音楽の歴史は一面では人間の享楽の歴史である
享楽の仕方は聴く人によっても時代によっても様々
ベートーヴェンを例にとると、今日では意味深い大芸術として、聴く時にはいつも深い尊敬の感情を持って預言者の宣託でも聞くが如く、畏れ謹んで聴かなくてはならないようになっているが、果たしてベートーヴェンの音楽の本当の意味だったのかは疑問。元々音楽を作らせたのは貴族であり、ベートーヴェンの音楽をまず最初に聴いて享楽したのはウィーンの貴族たちだ。彼等は今ロマン・ローランが聴くようにベートーヴェンを聴いたであろうか
ベートーヴェンの音楽は、いつから私共が今教えられているような素晴らしい芸術的意味を持ってきたか、これは芸術史上の一問題である。しかしともかく今日ではベートーヴェンの音楽はただ私共の耳を楽しませるというだけのものでなくなってきたことは事実で、ワーグネルやローランのベートーヴェン論が恐らくその代表的なものだろう。ベートーヴェンの音楽にはこの100年の間に、彼自身も彼の保護者も知らなかった或るものがそれに付け加わっているように見える
もっと気楽に音楽を楽しみたい、にもかかわらず精神的に難しく解釈して、あらゆる真面目さを持って聴かなくてはならないように仕向けられる
音楽に付け加えられた芸術的な解釈や精神的な意義というものに、ある一種の不安を感じる。そんなものを一切なくしてみたら、音楽はも少し変わった形で親しみやすいものになりはしないか
音楽は甚だ不経済な社会現象である。大部分は人間の勢力の浪費。ただし、音楽家とは自分で自分の音楽を作り出す人だけで、演奏家は含めない
心の中のことは言葉で表すので、詩人のほうが音楽家の仕事よりも遥かに合理的であり、音楽家は、自らの心の中の動きを十分理解することのできる仲間に限って、音を通して自分の心の中の事全体を描写して見せることが出来るに過ぎないのであって、一般の人々には通用しない ⇒ 梵語で書かれた真言秘密は梵語の分かる人にだけしか通用しないのと同じこと
音楽も社会現象の1つであるから、今の社会の経済組織の外に超然としていることはできない。この社会に音楽の真言秘密を理解する人はそう多くはいないから、その人たちの経済の力だけでそのような音楽が成立するものだろうか、疑問を感じざるを得ない
音楽の合理化は、簡単化でもある ⇒ 今の音楽は不必要に複雑化している。まずはその音の量で、我々が聴くことのできる範囲を超えている。1秒間に1215箇も鳴らされても、聴き取る限界を越えているし、その音が難しすぎる。メロディ以外に和声もあり、全ての音を正しく聴くことはできない
ピアノの演奏家のまず第一の仕事は、音を間違えずに正しく弾くこと。半生の努力をしてある程度の技術を学んだとして、聴衆の前で演奏した時は、よく知られたメロディぐらいを間違えずに弾きさえすれば、和声などはどのくらい間違っても本当のところは分からないことになる。およそ演奏家の努力はお目出度い、馬鹿馬鹿しいものでしかない。合理的ということからは甚だ遠いもので、実質的には一生涯の浪費
音楽を作り出す人も気の毒。自分の持っている技巧の全てを傾けて音楽を作っても、聴衆にはその1/10の音も耳に入らないのであれば、結局は独りよがりに過ぎないことになる
これまで世界の音楽の歴史を飾ってきた多くの音楽家は、人間の世界に稀に現れた非常に特別な例で、昔の人は一体に英雄を崇拝することを好み、このような特別な人間を英雄と崇めた。そして一般の人々も力の限り勉強してその英雄の仕事を理解しなくてはならないもののように考えた。だが、世間一般の普通の人にそうしなければならないいわれはなく、心や頭の許す限りで音楽を聴き、その音楽に対して相当の代価を払うのが一番合理的であるまいか

Ø  音楽界の迷信
音楽の世界は暗黒世界で、幾多の迷信が縦横にのさばっている。ピアノを例に取ろう
大家の弾く音は美しい、タッチが実に巧妙で、鍛練を重ねた指の技巧をもってして初めてこの美しい音が出るのであって、普通の人が真似ようとしてもできないというが、誰が叩こうがピアノは同じ音しか出ない。手の形、指使いを変えたところで違いはない
実際に音を高速度活動写真で撮影してみると、どれもみなほとんど同じ音質を示している
人が変えられるのは槌の動く速さだけ
楽器には二種類あって、風琴やヴァイオリンのように楽譜通り弾けば楽譜通りの音の出る楽器と、ピアノのように楽譜通り弾いても楽譜のとおりの音の出ない楽器がある
ピアノでは、短時間のうちに様々な音が入り混じって聴こえる
さらに、ピアノでは、鍵盤を叩いたときと音の出る時が若干ずれる ⇒ 0.02秒くらい
ショパンのエチュードを弾くと、5小節の間に右手が6つの16分音符を弾き、左手は4つの16分音符を叩く。これを曲の指示に従って♪=104の速さで弾くと、この小節の左右の指の食い違いの時間はざっと0.05秒。これはほとんどピアノそのものの音の遅れに近い。ペダルをかけて弾いたら、普通の人の耳にはこの違いは入らない
タッチの技巧にしても、鍵盤の叩き方はまだしも、音が出終わったところで力の抜き方などいくらやっても、すでに出てしまった音が変わるはずもない
ピアノの演奏家に許されることは、ただ楽譜の不備を実際的に補うことだけ。楽譜が音楽を記述する方法は、音の高低を除けば非数量的。強弱にしても速度にしても、数量的には書かれていない。楽譜が改良されて、作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には全く独創ということはなくなり、機械と同じものになる
ピアノの名曲があればいいだけで、それをどう演奏するか、多少速かろうが遅かろうが、そんなことは一体なんの芸術的意味を持つのか。円タクで郊外の景色を眺めるとすると、演奏家は円タクの運転手で、芸術家の美しい創作に匹敵する美しい景色こそが大事で、円タクの運転技術などは問題にならない
上野の森を歩くと、美術学校の学生と音楽学校の学生が仲良く談笑しているが、音楽学校の生徒は何から何まで先生の言うことに従い美術学校の生徒が決してやるまいと思うことだけをやっている。この2人の学生は、将来どうして我々の芸術を求める心を同じ程度に満足させてくれるであろうか
ショパンと、ジョルジュ・サンドと、プレエルのピアノの3つで音楽が成立していた時代が一番理屈に合った、迷信のなかった時代だと思う。ショパンの音楽にうっとり聴き惚れたジョルジュ・サンドの役を買いたい

Ø  音楽の芸術化
世の中で骨の折れない仕事は、人の真似をすることで、演奏家とはそれに当たる
他人の創作を再生したり、先生の言い分どおりを模倣することに仕事の基礎を置いた芸術は音楽の世界だけ。演奏家は、他人の手紙をタイプするタイピストに似ている
演奏家の筋肉労働は評価できるし、視覚からくる興奮もある ⇒ 画家や詩人と違って仕事の場を直接見ることが出来る
もしピアノが弾けたら、決してショパンやリストは弾かない。それ等はただ技巧を完成するための練習曲であって、自分の芸術的な感情を育てるための食糧である。楽器と音楽家と聴衆のあった時代を再現することが本当の音楽の芸術化であり、新しい時代に適応した合理的な芸術を作るべき

Ø  お前の音楽をやれ
芸術の基礎は、個人の独創にあり
ピアニスト自身が、新しい今のショパンになろうと努力する方がどれだけ男らしいか知れない

Ø  ピアニスト無用論
ピアノの技巧の音楽的な意義を疑うだけで、世の中からタイピストや円タクの運転手が無くなっては困るのと同様ピアニストが無くなっては困る
ただ、ピアノの世界に限界を感じて悩む若いピアニストがいたら、彼をどうにかして無限の広さの或る芸術の世界に解放したい

Ø  久野女史をいたむ
久野が初めてベルリンに来た時下宿の世話をした
日本での成功の酔いから醒めておらず、「世界のピアニスト」を夢見ていた
女史の名を聞いた地元の会社が、自動ピアノのために弾く仕事を持ち込んだとき、少なくとも延期するよう忠告したが彼女は喜ばなかったが、私が勝手に断ってしまった。女史の第一の仕事は、先ず師匠について正確にピアノの弾き方を勉強することだと思った。彼女はベルリンでもニホンでのように演奏のため、新しい曲を師匠にもつかず一人で練習しようとした
ゲネラルバスというものはどうして弾くかと聞いてきたので、教科書を貸した
ゲネラルバス:通奏低音のこと。主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名がある
「ピアノを音階からやり直すといっても、私にはもう年がない。力もない!
過渡期のニホンの楽界の犠牲。ピアノそのものの興味の代わりに久野女史の逸話に興じていた。ピアノの技巧の不備なところを逸話や生活に対する同情や、空虚な文学的な形容詞などで補っていた。それがドイツでは一切用をなさなかった。純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならなかったが、それが出来ずに途方に暮れた
女史はニホンでの一切の悪夢から醒めてベルリンで一精進を試みるはずだったし、そう決意もしていたが、ニホンでの不健全に勝ち得た盛名や、そこから描き出された「世界のピアニスト」の幻影がそれを拒否した
女史の死因は遺書もなく想像に難いが、女史の一生が過渡期の無知な日本の一犠牲となったことに変わりはなく、将来決して第二の久野久を出さないようにすることが女史に対する心からの手向けである

Wikipedia
久野 (くの ひさ、1886 - 1925420)は、滋賀県大津市膳所町馬場(ばんば)出身の日本初のピアニストである。「久子」と表記されることもある。
少女時代に近所の神社の石段で転倒し、片足に障害を負う(後に、ピアノのペダルがうまく踏めないほどだったという)。母の死後に京都の叔父に引き取られ、叔父の勧めで自活のために邦楽を学ぶ。しかし、邦楽の世界に限界を感じていた兄の勧めで15歳の時に東京音楽学校に入学、そこで初めてピアノを学ぶ。当初は成績も良くなかったが、猛練習を行って上達し、研究科に進む。1910東京音楽学校の助教授となる。このころ、建築家の中條精一郎家の娘、百合子にピアノを教えている。のちに作家・宮本百合子となった彼女は、小説『道標』のなかで、久をモデルにした「川辺みさ子」を、回想の場面に登場させている。1915、自動車事故で一時重体となるが翌年に復帰。1917、東京音楽学校教授となる。1918には上野奏楽堂で「ベートーヴェンの午后」と題するリサイタルでソナタ5曲を演奏して大成功を収めた。
1923、文部省の海外研究員としてベルリンに、そののちウィーンに移るが、ヨーロッパの生活習慣にまったく無頓着な行動(常に和服姿で過ごす、西洋式マナーを習得していない等)をとり、周囲の反発を買う。また自身のピアノ演奏に関しても、エミール・フォン・ザウアーの教えを受けたとき、基礎からのやり直しを言い渡されたことに絶望し、バーデン・バイ・ウィーンのホテル屋上から投身自殺した。文京区伝通院に埋葬されている。
渡欧の前(おそらく19221923年)に東京蓄音器株式会社ベートーヴェンの『ピアノソナタ第14(月光)』の録音を残しており、これが彼女の唯一の録音となってしまった(死後の1926に追悼盤としてリリースされた)。19971024放送の『驚きももの木20世紀』「衝撃の自殺! 久野久の悲劇」において終楽章の一部が放送されている。現在では、日本音声保存の『ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD 4 日本語版』に収録されている。
久の演奏がヨーロッパで受け入れられなかったことについては、当時の日本の演奏界の未熟さを示す例と一般では見なされている。これに対し、音楽学者の渡辺裕は、久の演奏について、当時のヨーロッパにおける演奏慣習にありがちなテンポの揺れがなく、「楽譜通り」のものである点に注目し、むしろその後の主流となる原典主義の演奏法を先取りするものであったという見解を述べている。
中村紘子によれば、久の演奏法は指を大きく曲げ、手首を鍵盤の下まで下げるという独特のものだったという(『おどろきももの木20世紀』より)。

 久野久(1886-1924)は明治期のピアニストではもっとも人気を博した存在である。15歳で東京音楽学校予科に入学し、その後本科器楽部に進んで幸田延やヘルマン・ハイドリヒ、ルドルフ・ディトリヒらの指導を受けた。当時の生徒のなかでは抜きん出た才能を示し、激情的な演奏でファンを獲得した。
 ただし、その人気の幾らかは「鍵盤に叩きつける指先から鮮血が散る」「曲のクライマックスで髪に挿した簪が飛び、黒髪を振り乱して演奏しまくる」といった、官能的なシーンに由来するものであったと伝えられている。明治末期から大正期にかけての女義太夫や浅草オペラに寄せられた熱狂と本質的には変わらず、演奏に彼女が反映した解釈や音楽性を云々するほどにはまだ聴衆が育っていなかった。
 助教授を経て1908(明治41)に母校の教授に昇進。ベートーヴェンのソナタやリストなどを得意とし、同年生まれのピアニスト澤田柳吉(1886-1936)と人気を二部した。ただし澤田が官立学校出ながら好んで大衆的な音楽啓蒙活動に資したのに対し、久野は母校の教授であったことがその後の二人の道を分けることとなる。
 1923(大正12)4月、久野は文部省海外研究員としてヨーロッパに派遣された。ベルリンを経て翌24年ウィーンに留学し、ことにウィーン音楽院ピアノ科でエミール・フォン・ザウアー Emil von Sauer(1862-1942)に師事するものの、彼我の音楽的水準の格差に絶望して身を投げた末路はつとに有名である。神経衰弱が昂じての悲劇と言われるが、幼少時の事故で歩行が不自由であったり、助教授時代の1914(大正3)に自動車事故で頭部に損傷を受けたりと、傷病に悩まされながら音楽に邁進した生涯でもあった。

 久野は1920年代初めの人気絶頂期、東京蓄音器株式会社(註)にたった14面の録音を遺した。録音データの詳細は現存しないが19234月に二度と還らぬ渡欧に出発しているから、それ以前の録音ということになる。さらに、音楽評論家の野村あらえびすは戦前、「このレコードの出来栄えに満足しなかった久野は自らレコード会社に赴いて原盤破棄を申し入れた」という伝聞を著述しているから、やや余裕をもって192223年の録音とみるのが妥当であろう。
 このような行きがかりがあるため、久野のレコードは、彼女がウィーンで自殺を遂げた後の1926(大正15)2月、追悼レコードという形でリリースされた。また久野の歿後2年近くを経たこの時期の発売には、1927年がベートーヴェン没後百年で「ベートーヴェン百年祭」が華々しく行なわれるであろうことを見越した商策もあったことと思われる。
 2枚組のベートーヴェン「ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2 "月光"」は、ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD 4に収録されているので現在では比較的容易に聴くことができる。伝説のヴェールに包まれてきた久野久その人の演奏と言うにはあまりにも断片的な録音であるが、苦悩や万難を排して力強い演奏を行なっていた彼女の気質はよく伝わる。それは特に第3楽章に顕著だが、前半の第1、第2楽章でも確かな音楽性と精神的グラウンドを充分に感じ取ることができる。同時期に同曲の録音を行なった澤田柳吉との演奏上の比較も興味深い試みであろう。
 ともあれ、このセットが日本の最も初期のピアニストの重要な録音であることは余言を俟たない。

Ø  楽人の自殺
音楽家で自殺した人がいるか
シューマンは、ラインに身を投げたが、気が狂ったためであり、さらに2年は病床で生きていた
ベートーヴェンも、『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いたが、生涯を全う
チャイコフスキーは、第6シンフォニーの憂鬱な曲を書いた後自殺したという噂が立ったが、一挿話に過ぎなかった
久野久子の自殺は悲劇だった。20年前のニホンは音楽を聴くことにかけても、演奏することにかけても甚だ幼稚だった。その幼稚さゆえに起こった犠牲。まだ音楽家としてこれからという時に、すでに出来上がったピアニストとしてドイツに送ったのがそもそもの間違いで、周囲からおだてられた彼女がついその気になってしまった
お墓は伝通院にある

Ø  イグナーツ・フリードマン
1920年代のベルリンでのピアノの英雄。ショパン弾きとしてはパハマンを除いて並ぶもののない人。機械的な運動(指使い)の速さには驚くばかり
しかし、彼のショパンの特色といっても、空想的だとか即興的だとかいうくらいで、具体的にはそれが何なのか分からず、まるで水の月影のようなもの。批評家の言うこともどれほどの客観性があるか疑問。所詮ショパンはショパンで、誰が弾いても同じ、演奏の違いなど、譜そのものの相違と比べたら殆ど言うに足らないもの

Ø  ポール・ホワイトマン
アメリカの音楽家の子供。大戦後にジャズを作り始め、ジャズの世界をリードするとともに世界に広めた
ジャズそのものは、踊りのお囃子以上には出ないもの、メロディが貧弱で面白くない
ただ、物に捉われない自由さ、楽器の豊富さ、特にサックスは現代の音楽の一大成功であり、打楽器が特に秀でている反面、足りないのは頭であり、心であり、感情であり、音楽に対する気品と熱意

Ø  楽人ケーベル
ケーベルは、日本の哲学界の開拓者であり、音楽界の開拓者

Ø  音楽批評――渡欧日記から
演奏会において、演奏家の技巧を考えたり、それを批評したりするのはほとんど無意味で、批評家の為し得ることは自己の純粋な印象を記述するだけ
もともと取り扱う素材に客観的な根拠がないので、夢判断と同じこと
音楽批評は、ディレッタント(好事家)の仕事

II
Ø  ニッポン人の趣味
お茶の湯 ⇒ 著者の先祖は茶の湯の師匠。小さなことを種にして非常に大きなことを連想すれば、そのものの連想とかコントラストから一種の面白みが湧いて来る。林檎がニュートンの引力の法則を教えたようなもので、つまらないものと重大な学説との対照の面白さがこの伝説の山。お座敷抹茶と精神修養もその一種で、悪いとは言わないが、願い下げにしてほしい
謡曲 ⇒ 能は退屈だが、精神修養なものが付き纏うらしい
三味線 ⇒ 姉の三味線の取柄は名人でないこと。心だの精神だのと訳の分からないことを云われると理解しようがない。ニッポンにはニッポンの習慣があり芸術がある。その中で感心したのは建築と彫刻、仏画。私が好まないのは、ニッポンの古いものには一種ひねくれたものの見方が付き纏うことで、心がどうだの、悟りが何だの、精神がどうだのと、いやに持って回った理屈が付く。これが分からなければ日本の芸術が分からないように言われる。それが芸の神髄であるように言われる。歴史的には面白く参考になるが、それだけでは物足らない
私はマテリアリストだ

Ø  田楽拝見の話
郷土芸能としての田楽を保存するのはいいが、見る人も保存しないと成り立たない。だが、見る人は保存できない

Ø  修身ぶし
学校で教える唱歌は、修身ぶしのようなもので、殆ど無駄な時間を費やしている。子供の音楽の教育をも少し役に立つものにしたらどうだろう。音楽を聴いて楽しむ心こそ大事で、美しいものを聴かせ、それを楽しむことを教えさえすればいい

Ø  街のピエロ
街頭の演歌師やチンドン屋の音楽に魅かれる。ドイツにもチゴイネル楽団という似たようなものがあり、技量には驚嘆する。ちゃんと訓練したら大楽人になったのではないか

Ø  昔の名人
落語家小勝と小さんの名人芸は、何ものにも代えがたいいい味を持っている

Ø  勝太郎
Ø  流行唄
Ø  ニッポン音楽――音楽学校の邦楽
ニッポンの古い民謡は保存されなければならない

Ø  仏教音楽
声明(しょうみょう)というものがあるが、俗人にはわからない

Ø  歌舞伎音楽
唄と三味線、囃し方
姉妹芸術に人形浄瑠璃があり、それの音楽の義太夫もあるが、後世になるほど正確に区別することは困難
歌舞伎を代表する音楽は長唄
三味線がいつごろ誰が何処から持って来たのか、どうしてニッポンの楽器になったのか等、事の真相は不詳。当時できた音楽は決して歌舞伎に関係のあるものではなかった
歌舞伎で使う長唄には、三味線以外にいろいろな楽器を取り入れた。大体が能楽の囃しの楽器をそのまま使った
同じ三味線を基礎にした音楽の上に、長唄以外にも義太夫や清元、常磐津など地方的な相違が出来たということは何に原因するのか
歌舞伎の音楽が音楽として一番働き映えのあるのは、所作事の伴奏としてである ⇒ 音は所詮音であって、事実上の意味の強いもの、例えば義理や人情など現実的な感情に訴えようとするような文句には音楽は適当ではない。歌舞伎はその点、お芝居を見ていれば満足しているので音楽の実際上の意味はない

Ø  夢・音楽・現実
音楽と夢は似ているというが、音楽はもっと現実の生活ありのままに、そして力強く唄わなくてはならない。音楽は人間一般に解放されなければならない

Ø  国民の音楽
ニッポンにはニッポン特有のメロディや音階があるということは、昔から度々主張されたが、実際にどんなものであるかということは、誰もまだ明確には答えていない


III
Ø  湯瀬漫信
秋田県鹿角市花輪線沿いの川から湯が湧き出る温泉 ⇒ 「武陵の里」と思ったら大間違い
世間とかけ離れた平和別天地桃源桃源郷。陶淵明(とうえんめい)「桃花源記」によると、晋(しん)の太元年間に、湖南武陵の人が桃林の奥の洞穴向こうに出てみると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという。
20軒有るか無いかの小さな村に4種もの民謡があるとは驚き、それでいて今歌える人は僅か
まず方言で日本語を覚えるが、方言は話し言葉なので、語彙は少なく、文学にはならない
伊澤修二翁が秋田に来て、初めて方言のひどいのに驚き、それから大事業方言の修正を思いついたそうだ
方言の美とその精神はよくはわからないが、考えを述べようとしても方言は殆ど物の役にも立たない。ただ、山の湯の清さと、米代川の流れの美しさと、青葉の山の静けさとは、やはり都会の紅塵を通してみて初めてよく味わわれる

Ø  シュプレーの森
ドイツ留学中に訪れたコットブスのシュプレーの森を散策した思い出

Ø  愛する
好きなものが2
秋の坂東太郎の風景は絶品、特に潮来がいい
ナチでないドイツ語を愛し、ナチでないドイツ思想を愛し、ナチでないドイツ音楽を愛するように自分でも思ってはいるが、いざとなるとやはりニッポン風が出てくるものなのだろう。《今様》のメロディが実に好きだ

Ø  桐の木
Ø 
Ø  虫の声
虫の声は、ニッポンを象徴するものの1つ。ドイツでは聞いたことも見たこともない

Ø  花の運命
Ø  声の姿
Ø  自然を見る
Ø  浅間の表情
Ø  顔を聴く話
学問が進んで、たいていのものなら何でも耳に聴くことが出来るようになった。トーキーでは画面にあるものの通りいろいろの音が出る。真空管の戯れによるもの
山の声は、リストがユーゴーの詩『山上の声』を美しいシンフォニーにしている
次は、人の顔を聴いてみよう。懐中テレビジョンを作って、想いを寄せた人の横顔を即席フィルムにとって、その音をこの機械で聴いてみる

Ø  人の心を測量する機械
Ø  誘惑
Ø  空々漠々
Ø  映画の秘密
機械文明の進歩は、私共に実に奇妙な世界を見せてくれる。まさに夢の世界の一種
もしテレビジョンが完成して芝居の舞台をそれで放送したとなると、実際の人間が今実際にやっていることを見ていながら、しかし今見ているものは実はその影である
人間の感覚は不思議なもの。目にしても耳にしてもいろいろ不思議なイルージョンの巣窟
煙草の長さにしても、口元で見ても、手を伸ばした先で見てもほぼ同じ長さに見えるが、中学の物理の教科書を読んだ人なら、そんなはずのないことはすぐに分かる。なぜ煙草の長さは眼のレンズからの距離が違っても同じ長さに見えるのか、明確に答えてくれた人はいない

Ø  レコード蒐集
レコード蒐集家は、レコードを通じて演奏家の技術の優劣巧拙を論じるが、それを聞いて不思議に思うのは、レコードが電気技術の結果だとすれば、録音された音も、それから出る音も、決して生のままの音ではなく、電気機械のいろいろの条件で変わるはずにも拘らず、どんな条件の下で聴いても決して変わらないという前提で話をしているのはおかしい
演奏会では眼で演奏者を見るが、レコードでは音楽をただ純粋に耳からだけ聴く。視覚に訴えない音楽が普及したら、音楽の様子は変わらないか ⇒ 名人の演奏にしても、自ら演奏する必要はなく、電気的に録音され、再生されて、音楽として効果のあるという範囲で自らのスタイルを実現さえできれば十分ということになりはしないか
最近の電気術の進歩は目覚ましいものがあり、これが音楽の上に非常に大きな影響を及ぼさないわけがない

Ø  トーキー

IV
Ø  女学生の言葉
女学生の言葉使いを聞いて年寄りが、口が悪くなったというが、彼女たちこそ、ニッポンの言葉をだんだん変えてゆく役割を演じている ⇒ 自然の成り行きに任せるだけがよい

Ø  ニッポンの詩歌
Ø  詩歌断想
Ø  短歌の形
Ø  俳人オツジと575物語
音楽学校でピアノを習っているときの舎監が大須賀乙字という俳人
ある時、「俳句はくだらない」と言ったのに応えて、「そんなにくだらないものではない。作ったことがないからわからないだけ。本当につまらない俳句はヘキゴドーの俳句だけです。それなら『三べんまわって煙草にしよう』という文句と似たり寄ったりのもので、あれは俳句ではありません」
俳句を作るのは容易ではない。難しいのはその形と内容の両方にある ⇒ 17文字の短い形の中に盛り上げるために、一種の感情の型「俳味」というものがあるというがそれが難物で、生粋のニホン人でなくては分からないという。それでは、ニホンにいて、ニホン語を不自由なしに使っていても、ニホン人の食うようなものばかりを喰っているわけではない、四足も喰うし麦から作った酒も飲む、着るものにしても大部分は洋服だし、子供の時からならった学問もみな西洋の学問で、人間の性質の半分以上はその教育で決定されるとするならば、また生活様式がその人の性質をある点まで決定するならば、私共は決して純粋なニホン人でもなんでもなク、ニホンにいて、ニホン語を流暢に話す一種の西洋人であって、俳味など到底わからないということになる
大須賀 乙字(18811920)は、日本の俳人。福島県生まれ。漢詩人大須賀筠軒の子。本名・績(いさお)。東京帝国大学卒。中学、高等女学校で教えたのち、東京音楽学校教授。河東碧梧桐に師事したが、のち臼田亞浪と雑誌を発刊。のち俳論家として活動

Ø  仕事場の一隅から
ü  ニッポンの声・ニッポンの唄 ⇒ 西洋音楽ばかりがはやるが、西洋音楽では読む音と歌う音が異なるのに対し、ニッポンの音楽は読む音と歌う音がほぼ同じ
ü  日本の唄は何故に西洋楽譜に書けないか ⇒ 楽譜に書くことは容易いがそれをそのまま演奏してもなぜか元のニッポンの唄にならない。それは、ニッポンの唄がニッポン語の朗読の一種だから。日に日に亡び行くニッポンの民謡を譜に書いてある程度保存することは、ニッポンの文化のためには実に焦眉の急である
ü  ニッポン語の或る子音について ⇒ 音の高さを知るには音波の長さを測ればいいが、ニッポン語の子音の中で特徴的なのは、tkとはその前に短い休止がある。「こんばんは」は完全に続けていえるが「こんにちは」は「ち」の前で僅かに切れる
ニッポンには日本式とヘボン式の二様のローマ字形式があり、ヘボン式を止めたが、例えばニッポン語の「チ」は、その前に短い休止があるという点からtの一種と考えられ、これは「チャ」や「チュ」でも同様なので、ローマ字でもtiと表すほうがいきなり不思議なchiなどと表記するヘボン式よりよほど実際の言葉を象徴していると考える


東洋経済 書評 1992.11.14.
鍵盤の上を走り回るネコも名ピアニストの指も同じ音を出す、といって物議をかもした人が戦前いた。その人の名前をカネツネ・キヨスケといったことを、あるいは覚えている人もあるだろう。
 その人の文章が、戦後はじめて、新しく編集されて復刻された。一読して、びっくりした。文体は軽妙で、古めかしいところが、まず、ない。もちろん、古いところもあるが、その主張は半世紀以上たった今日の状況を的確に見通している。
 およそ音楽評論というものは、私は最盛期のフルトヴェングラーを聞いたことがある、といった類の好事家的な昔話が多い。この点、著者の評論は普遍性がある。それは著者の仕事が音響心理学という分野であったためだろう。
  その真骨頂を示した言説が、この本の第Ⅰ部として集められている。著者はいう。ピアノは機械だ。とすれば、ピアニストはタイピストとおなじではないか。ピアニストが寄与できる限界効用などたかがしれている。
 著者は続ける。ピアニストはすべからく自分の音楽を発表せよ、と。今日の音楽状況をみると、ロックから現代音楽まで電子楽器が普及し即興的演奏が氾濫している。著者の予言性は見事である。   
 このようにして、著者は一般の音楽批評がおちこむ神秘性にそっぽを向く。この姿勢は、第Ⅱ部の伝統芸術論で、さらに磨かれる。
 著者は茶の湯、謡曲、学校唱歌の曖昧性をからかう。だが同時に、流行歌やチンドン屋の可能性を指摘している。これは、著者がおこなった民謡の採譜調査に裏付けられている。
 (巻末の年譜をみると、著者の民謡調査はバルトークとほぼ同時代である。ここでも著者の先見性を確かめることができる。)   
 第Ⅲ部には、自然観と機械観を語る文章が集められている。前者は、半世紀後の環境保護派の書いたものとしても疑う人はないだろう。後者も、トーキーやレコードをワープロやウォークマンに置き換えれば、今日そのまま通用するはず。   
 第Ⅳ部は日本語論。著者はここで俳句翻訳不可能論を展開している。これも現在の自動翻訳限界説に重ねてみることができる。   
 だからといって、著者は情のない人ではなかった。その証拠に、条理かねそなえた「楽人の自殺」という一文がある。
 この本は、美学者の著述であるにもかかわらず、技術者的な発想を随所にうかがうことができる。技術者である評者があえて提灯をもったゆえん。


兼常清佐
1885生まれ、1957年没。山口県出身。音楽学者、批評家。
1935に『中央公論』に掲載した「音楽界の迷信」のバデレフスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。どの指で、どんな形で、どんな打ち方で叩こうと、そんな事は音楽の音とは別に何の関係もない。
という一節が、「ピアニスト無用論」として物議を醸した。そのため、現在でも「音楽に理解がない、エキセントリックな人物」という評価が定着している。しかし実際には作曲家よりも演奏家を持て囃し、コルトーらの恣意的な演奏を「芸」としてありがたがる当時の音楽界を批判するのが、彼の目的であった。たとえば、「ベートーヴェンゾナーテは文学上の形容詞でなく、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならぬ」(久野女史をいたむ)といった文章に、彼の音楽観は表れている。

18851957 大正-昭和時代音楽学者,音楽評論家。
明治18
1122日生まれ。中卒後外国へ。京都帝大を卒業したのち,東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科に入学ドイツ2留学,音響学を研究。またピアニスト無用論などの評論活動で知られた。昭和32425死去71歳。山口県出身著作に「日本の音楽」「日本の言葉と唄の構造」など。


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