光圀伝  冲方丁  2012.10.1.


2012.10.1.  光圀伝

著者 冲方丁(うぶかたとう) 1977年岐阜県生まれ。96年大学在学中に『黒い季節』で第1回スニーカー大賞金賞受賞でデビュー。03年『マルドゥック・スクランブル』で第24回日本SF大賞、09年初の時代小説『天地明察』刊行、第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞、第7回北東文芸賞、第4回舟橋聖一文学賞、2011年大学読書人大賞

発行日           2012.8.31. 初版発行        
初出:『小説 野性時代』20112月号~20128月号
発行所           角川書店

光圀67歳の時、江戸小石川の藩邸にて、家老藤井紋太夫をお手打。その翌年初め水戸に去り、以後江戸に戻ることはなかった
7歳の頃、夜中に父頼房の命で、父が手打にした元藩士の首を馬場まで取りに行かされた
幼少の頃は子龍(しりょう:あざな)と呼ばれ、9歳で元服し将軍家光から、その一字を取って本名光國の諱(いみな)をいただく
病弱の兄が2人、次兄は4歳で夭折、実の兄弟で6歳上の長兄竹丸(徳川家では家康の幼名に因んで長男に「竹」をつける)が天然痘で生死が知れなかったこともあって、光國が世子として届けられたが、竹丸はその後回復、光圀は幼少の頃から兄をライバル視して事あるごとに争っていたが、まったく相手にされず、さらになぜ自分が長子を差し置いて世子となったのか分からずに苦しむ ⇒ 家光の男色狂いを止めさせるために水戸一の美貌と謳われた光圀の母が江戸で奉公に上がったところで頼房の目にとまってしまいできたのが竹丸と光圀で、当初は水子にしようとしたが、秘かに育てられた
頼房は子供の教育に熱心、特に文武の習い事以上に、わが子の心胆を鍛え上げること、常軌を逸していた

天の星々を計り、暦を作る聖人のことを(ふひと)”と呼んだ
古来より、暦を作ることは最も神聖な、文字を司る人の務めであった。それは天子の言行を書きとめる官に始まり、(さかん)”と呼ばれるような太政官や神祇官を指すことを経て、今では由緒あって事を記録するすべに長けた学識豊かな人であれば、史の職称を得てよいとされるようになった(光圀の言葉)

12歳で天然痘になり死にかける
兄は、18歳で常陸下館5万石に引き上げられる ⇒ 21歳で讃岐高松12万石へ昇進(松平頼重を名乗る)。大老・土井利勝の娘・三春を娶る
17歳の時、江戸で放蕩を尽くしている最中で流浪の兵法者・宮本武蔵、紫衣(しえ)事件の配流から戻った沢庵宗彭(そうほう)、陸奥国会津の浪人で2人の弟子・山鹿素行と巡り合う(武蔵と沢庵は翌年死去)

泰平の世になって、戦国の世を諦めなければならないという試練に武士たちが直面。なぜ諦めねばならないかを知るには、歴史を学ぶだけでは不足、新たな歴史の見方が必要だった。多くの学識ある者たちが、詩歌に風趣を求めず、学問倫理の念を託したのも同じ理由から。学書は散逸し、人倫の大義は四分五裂して久しかった。下剋上が生の全てであり、天下統一は天下滅亡と紙一重だった。皆新たな人倫の大義を持たぬまま泰平の世を迎えた。光圀がその大義を得たのは詩趣を求める日々の中でのこと。幸運にも父兄と争うことがなかったからこそ得られた。詩への思いが、多くの道を見出させ、やがて詩がこの国の歴史編纂の思いを生み、修史への思いは父兄への思いと分かちがたく結びつくこととなる。ある男を殺めることになった大きな理念は、そのときすでに訪れていた

史書編纂事業は、伯父尾張徳川義直が日本の史書の少なさを憂い林羅山などを師として自ら始めた事業 ⇒ 中途で義直が死去したため、光圀が後を引き継ぎ、独自の史書分類法を創造。その前は詩で天下を取ろうとまで考えた。詩歌は生きる喜びを、史書は生きるための大義を与えてくれた
藤原惺窩 ⇒ 林羅山 ⇒ 山鹿素行

光圀が冷泉為景を小石川の屋敷に迎えた際、羅山の次男が描いて茶室に架けた絵に入れられた文字が「金蘭」 ⇒ 2人が心を同じくすれば、その利(さと)きこと金を断ち、心同じき者の言葉は、蘭のごとく香る

家光が死んで幼少の家綱が4代将軍になった際、由比正雪の反乱 ⇒ 紀伊徳川頼宣が後ろで糸を引いたとの嫌疑がかかったが、家光の異母弟保科正之の機転で嫌疑は晴れるが、徳川宗家絶対の体制が固まる
予てより次男にも拘らず世子となったことを後ろめたく思っていたことの解決策として、兄の子を養子にしていずれ水戸藩を譲ることこそ大義と悟るが、水戸藩の下級武士の娘との間に子が出来、堕そうとして兄に押しとどめられ、兄に子供の処分を頼んだまま、26歳の時父親の画策した結婚に従い、近家の姫にして、後水尾法皇の姪(姫の父は法皇の同腹の子)、後光明天皇の従妹の泰姫を娶る

明暦3(光圀30)の江戸の大火 ⇒ 江戸城の天守閣ばかりか、小石川の屋敷も全焼。江戸の6割が灰燼に帰した。光圀一族は駒込の屋敷に避難して無事
大火直後江戸に蔓延した赤痢に罹患、回復後焼失した資料を再度集める形で史書に没頭 ⇒ 「史局」を設置(後の「彰考館」=過去を彰(あきら)かにし、未来を考察する)
翌年末、泰姫赤痢で死去
頼房死去、享年59.追腹厳禁。光圀が水戸藩2代目藩主を継ぐが、同時に領地を割って、弟たちに分与。母・久子も後を追うように死去
兄の子・頼世改め綱方(つなくに)が世子として幕府より承認される
兄は、光國から預かった子鶴松(後の頼常)を跡取りとする

将軍家綱の命により、林羅山の息子・鵞峰が宋代の史書『資治通鑑』に倣って『本朝通鑑』の史料編纂事業を開始 ⇒ 光國の求めるのは「人倫を明示せんとする史書」で、様々な観点から人物評価をするとともに、歴史上の出来事が正統であったか、正義であったかという問題に鋭く切り込むべきと考えた。特に天皇家の系統、天皇家と将軍家の関係についても明確にしようとした。清に滅ぼされた明国から逃れて長崎に逗留していた朱舜水を師として水戸に招き、あるべき治道と殖産の教えを乞う。『本朝通鑑』に遅れること1年で、光國の『本朝史記』が完成
1669年綱方が急逝、実弟の綱條(つなえだ)が世子に。頼常には酒井大老の娘が、綱條には今出川家当主の娘が
1680年鵞峰死去、享年63
将軍家綱薨去、享年40 ⇒ 子がなかったために、本来なら弟の甲府の綱重の順番だが2年前に没しているところから、その下の弟館林の綱吉が5代将軍に
52歳の時、兄の隠居を機に、自らも隠居後の名前を考えるうちに、『光圀』に思い当たる ⇒ 則天文字。中国の女帝・武則天が命じて考案させた異体字。國は「或」が「惑い」「乱」に通じるため、八方の字に変えたという
綱吉の息子が夭折したため、養子を迎える話が持ち上がる ⇒ 養子を考えるには早すぎるうえ、次に譲るべきは兄・綱重の子供・綱豊であるべきで、光圀はじめ御三家の意見に従って、養子の話はなくなる
綱吉は、すぐれた学識を持ってはいたが、自らのやることのみならず母・桂昌院の行為についても懐疑の知性がない ⇒ 1683年後西(ごさい)上皇から、文事と藩政の功績を称えた贈り物に宸翰(しんかん:天皇直筆の手紙、歴史上も受け取った人物は稀)が添えられ、栄誉の絶頂にいた光國の実力と声望に嫉妬
84年江戸城内で、綱吉お気に入りの大老堀田正俊が若年寄りに斬殺される刃傷事件
同年、貞享暦採用 ⇒ 安井算哲(後の渋川春海)の考案
史料収集には勅命が必要と朝廷に誓願し、勅許を得る ⇒ 全国を回って、諸藩の内部情報を石高や特産物といった地域的特色のみならず、藩主の性癖や傾向、藩士の特質や評判まで克明に集めさせた ⇒ 『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)(君主が臣下を土芥(ごみ)のように扱えば、いずれ臣下は君主を寇讎(かたき)のようにみるという、『孟子』の一節)という名の大名評価録として、水戸史館、林家、将軍の3者合作として出来上がる
この頃からほとんどすべての文書に『光圀』を使うようになる
元禄353歳で藩主の座を綱條に譲り、水戸に隠居 ⇒ 黄門(中納言の別称)
綱吉の跡取り問題 ⇒ まずは甲府の綱豊、紀州光貞の長男で綱吉の娘婿でもある綱教、水戸の綱條の3人が候補と意識され、中でも無難な綱條を巡って、擁立派と反対派が水面下で動いていた。擁立を図ったのは水戸藩の大老藤井紋太夫で、史書を編纂するうちに水戸藩から将軍を出した暁には大政奉還こそ大義と信じ込んで画策していたことを察知した光圀が自ら成敗した ⇒ 御三家とも将軍として世子を立てる意思がないことが分かり、綱吉が嫌がるのをよそに、綱豊を次の将軍と目して憚らぬ体制ができる
光圀が40年かけて注力してきた史記編纂事業が『本朝史記』として完成、綱條によって『大日本史』と命名され、以後200年余りにわたって編纂事業は続く



光圀伝 []冲方丁
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今として書かれた歴史の躍動感
 水戸黄門として知られる徳川光圀の生涯だが、偉人伝ではない。ひとりの人間が苦しみ、迷い、多くの人の死を直視しながら新しい時代を作ろうとする物語である。
 全編に光圀の息づかいが聞こえる。前作『天地明察』でもそうであったが、冲方丁の時代小説には歴史解説が無い。そのかわり今眼(め)の前に生きているかのような切迫した身体の躍動感に溢(あふ)れている。いつの間にか引き込まれ、ともに悩む。歴史を過去として書いているのではなく、今として書いているからである。その方法が、本書では光圀の歴史のとらえ方と重なる。自分が生きてるように史書に記された者たち全てが生きたのだ、という歴史観である。本書の第一のテーマは「歴史とは何か」だ。剣劇が無いかわりに、人々の死の床が丁寧に書かれる。生を最後まで見届けるためである。
 第二のテーマは「義とは何か」だ。光圀は兄の子を跡継ぎとするのだが、その理由は幼少から持ち続けた「自分がなぜ水戸藩の世継ぎなのか?」という疑問だった。そして兄に藩政を還(かえ)すことを「義」と考えた。しかしそこから、天皇に国政を還す大政奉還を義とする重臣が出現したのである。光圀はその重臣を刺殺するのだが、それは多くの戦争と同じように、ひとつの正義が別の正義とぶつかって起こったことだった。
 第三のテーマは時代の急変だ。戦国時代が終焉(しゅうえん)し、全く価値観を異にする江戸時代が始まった。大量の失業者(浪人)による由井正雪の乱も起こる。さらに明暦の大火があった。本書なかほどに位置する明暦の大火で、火が江戸じゅうをなめまわすその描写は、東日本大震災時の津波のようだ。江戸は大きく変わった。日本も変わる。私たちは新しい義を作り出せるのか?
 本書は時代を超えて人が直面する課題をつきつける。偉人伝ではなく、私たちの物語である。
    
角川書店・1995円/うぶかた・とう 77年生まれ。初の時代小説『天地明察』で吉川英治文学新人賞など。


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徳川 光圀は、常陸国水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる[1]諡号は「義公」、は「子龍」、は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。
水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画テレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光鎌倉金沢八景房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来熱海新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。

生涯 [編集]

寛永5年(1628610日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。
光圀の母は谷重則佐野信吉家臣、のち鳥居忠政家臣)の娘である久子。『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。久子が光圀を懐妊した際に、父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。
後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではなかった。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院:家康の側室)と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したという。光圀にも同様に堕胎の命令が出され、光圀は水戸の三木邸で生まれた。
頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承はなく、光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明である。母・久子に勢力がなかったためだろうかと、後年の光圀は語ったようである(『義公遺事』)。
『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子(年齢的には孫)として育てられたと言われ、光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には、幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。
寛永9年(1632)に水戸城に入城した。翌寛永10年(163311月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉(備前守)が水戸へ下向して行われており、3将軍家光英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634)には英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に拝謁している。寛永13年(1636)には元服し、将軍家光からの偏諱を与えられて光国と改める。
この年、伊藤友玄・小野言員・内藤高康の3人が傅役(もりやく)となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける。義忠は山形藩の藩祖最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。 だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。
光圀18歳の時、司馬遷の『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより行い改める。
承応3年(1654)には前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚する。明暦3年(1657)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。
寛文元年(1661819日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。水戸下町住民は飲料水に不自由であったため、藩主就任直後の寛文2年(1662)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じた。笠原から細谷まで全長約10kmの笠原水道が翌年完成した。寛文3年(1663)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。
延宝7年(1679)、を光圀に改める(光圀52歳)[2]元禄3年(16901014日に隠居し、藩主の座を綱條に譲る。元禄4年(1691)、西山荘に隠棲した。元禄5年(1693)には水戸藩の藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。元禄7年(16941123日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。
72歳頃より食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700126日に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。
光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條(つなえだ)を養子に迎え世継ぎとした。
また、光圀には侍女玉井氏弥智との間に実子(頼常)がいたが、母の弥智は誕生前に家臣伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光圀に対面したのは13歳の時であったが、このとき光圀は親しみの様子を見せなかったという。のちに頼常は正式に頼重の養子となり、高松藩を継いだ。

光圀の人物像 [編集]

§     幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている[3]。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽(ひとみぼくゆう:水戸藩士・儒者)を通じて冷泉為景(藤原惺窩の息子、冷泉家を継ぐ、冷泉家は藤原俊成・定家につながる家柄)と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
§     藩主着任後は、当時は最大の忠義であり奉公とされていた家臣の殉死を禁じた最初の君主として名が挙がっており、徳川頼房の死後、光圀は各家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死を辞めさせたといわれている[4]
§     光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
§          日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子チーズ牛乳酒、黒豆納豆がある。ラーメンについては、中国からの亡命者である朱舜水中華麺を献上したとの記録にもとづくもので、後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある[5]肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉豚肉羊肉などを食べていた。さらに、野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてそのを綱吉に献上したこともある。
§          オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参インコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人2人雇い入れ、そのまま家臣としている。中国から亡命してきた儒学者の朱舜水も招聘し、教授を受けている。他に水戸に来た中国人清朝から亡命して来た漢民族の可能性あり)も家臣や使用人とした。
§          も好物であり、カマとハラスと皮[6]を特に好んだ。
§     朱舜水から中国での麺の作り方や、味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニララッキョウネギニンニクハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。
§     当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である(もちろん男色が片方にとって苦痛であるというのは、光圀の主観であるが)。
§     『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。延宝2年(1674)には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。更に貞享2年(1685)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。元禄5年(1692)には、南北朝時代湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。なお、その場所は明治5年(1872)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955)には光圀の銅像も建立されている。
§     テレビの時代劇である『水戸黄門』では全国を諸国漫遊しているが、光圀は参勤で本国水戸と江戸を往復した以外は、鎌倉1度旅行したのみである。
§     父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった。また家臣の殉死を止めて、「死なずに父同様の忠勤を尽くしてくれ」と頭を下げて頼んだという。
§     綱吉期に大老堀田正俊稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたという。

光圀とその後の水戸藩 [編集]

「大日本史」の編纂に水戸藩は多大な費用を掛けた。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、8万石説、3.5分の1説、3万石,5万石,7万石説、10万石説などがあるが、いずれも根拠は明確でない)[7]
水戸藩の財政難は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には既に表面化していた。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな効果は上がっていない。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返した。一方で「大日本史」の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされる。
光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。結果的には愛民の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。
光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。 低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の録高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めたが、那珂湊の船手方という低い身分から14歳の時光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎がいる。他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者は、ほとんどが下級武士や武士外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀は絶大な人気があり、彼らの著作を通じて、光圀の勤皇思想が実態より大きく広められたとの見方もある。
なお、水戸徳川家参勤交代を行わず江戸定府しており、帰国は申し出によるのもであった。(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。) 財政悪化もあり、中・後期の藩主はほとんど帰国しなかった。
光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最多である。 また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごした。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多い。

年譜 [編集]

日付=明治5年(1872122日までは旧暦
月日
旧暦
年齢
内容
寛永5
610
1(数え年)
常陸国水戸藩徳川頼房の三男として生まれる。
寛永9
53
5
寛永10
1
6
世子に決定。
95
寛永13
76
9
元服し、徳川家光偏諱を受け光国と名乗る。
寛永17
34
13
711
従三位に昇叙。右近衛権中将如元。
承応3
27
関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。
寛文元年
819
34
水戸藩28万石の2代藩主となる。
寛文2
1218
35
参議補任。
延宝7
52
を光国から光圀に改める[2]
元禄3
1014
63
隠居。
1015
権中納言となる。
元禄13
126
73
西山荘にて没する。享年73(満71歳)。
天保3
35
没後
明治2
1225
明治33
1116
明治39
徳川圀順が『大日本史』を完成させる。

系譜 [編集]

§  父:徳川頼房
§  母:谷重則の娘・久子
§  正室:衛信尋の娘・尋子(泰姫)
§  弥智(親量院)(玉井氏)
§  長男:松平頼常
§   
§  養女:鍋姫(英勝寺2代住持・松誉清山尼、実は姪)
正室泰姫には結婚5年程で先立たれており、また終生正式には側室を持たなかった(頼常を生んだ侍女・弥智は出産後、家臣望月信尚と結婚した。夫の死後、頼常の願いにより高松に移り住む)。真偽のほどは不明だが、いくつかの落胤説がある。領内額田村の豪農鈴木家に嫁いだ「万妃」。磯原村の郷士野口家(野口雨情の祖先)に下げ渡した侍女の子。菓子商真志屋に嫁いだお島の子。また成田山新勝寺の中興一世照範も光圀の落胤との説がある。

墓所・霊廟 [編集]

§  墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。
§  霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の久昌寺の義公廟がある。
§  奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。

脚注 [編集]

1.   ^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條治保斉脩斉昭慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。
2.   ^ a b 天和3年(1683)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
3.   ^ 『玄桐筆記』より。寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話。
4.   ^ 『桃源遺事』巻之一。
5.   ^ 小菅桂子 『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社プラスアルファ文庫、1998
6.   ^ そのため「皮厚さ一の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政の同内容の逸話であるとされている。小菅桂子『水戸黄門の食卓元禄の食事情』(中公新書ISBN 978-4121010599
7.   ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、2006年)





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