チョコレートの王国  Joel Glenn Brenner  2012.9.27.


2012.9.27. チョコレートの王国
The Emperors of Chocolate  Inside the Secret World of Hershey and Mars 1999

著者 Joel Glenn Brenner 1989年ミズーリ大コロンビア校卒。同年から菓子産業の記事を書き始める。マーズ社の中の取材が許された最初で唯一のジャーナリストであり、『ワシントポストマガジン』に掲載された彼女の特集記事は多くの賞を受けた

訳者 笙(しょう)玲子 翻訳家

発行日           2012.5.11. 印刷               5.22. 発行
発行所           みすず書房

チョコレートの会社――そこには、ロアルド・ダールのファンタジー小説『チャーリーとチョコレート工場』そのままの、秘密と野心に満ちた世界があった
コーラとともに、アメリカ大衆文化の象徴と言えるチョコレート業界で常にトップを争ってきた、板チョコとキスチョコの「ハーシー」、色とりどりのM&Mチョコで知られる「マーズ」。いずれの創業者も手作り菓子の行商から身を起こした、アメリカンドリームを体現する人物
ミルトン・ハーシー(18571945)は、チョコレート工場を中心に据えた理想郷づくりに挑み、マーズ家2代目のフォレスト・マーズ(190499)は徹底した合理化と品質管理を具現化し、自社を巨大企業に押し上げた。彼等は、「戦争」をもビジネスにしたたかに利用、チョコレートは軍の糧食の柱となり、国内では愛国産業として浸透、占領地では懐柔のために使われた
マスコミへのガードが固く、多くの秘密に包まれてきた、2つの「チョコレート帝国」の歴史と企業風土について、数百人に及ぶ関係者への取材や資料調査から紐解き、この魅惑的な菓子から見えるアメリカの姿と20世紀という時代を活写する。
1999年の初版刊行時に、『ワシントンポスト』等で絶賛され、アメリカでいまも読み継がれるノンフィクションの傑作

本書のきっかけは、1989年夏『ワシントンポスト』紙からの依頼 ⇒ ライバルのハーシーに全米トップの座を奪われたマーズ社の反応を詳しく特集記事にして欲しい
マーズがこれまでマスコミと接触したのは1度だけ ⇒ 「チョコレート業界のハワード・ヒューズ」の異名をとるマーズの帝王フォレスト・マーズ・シニアがインタビューに応じたもので、1966年同社のチョコレートバーの値上げにハーシーが「不当」と抗議、世間の非難が集中、『フォーブス』誌も「強欲な独占企業の所業」と攻撃した際、ワシントンポストの記者をニュージャージーのハケッツタウン工場に招き、値上げの正当性を世間に訴えようとした
世間の誤解を解くべきとの説得にようやく応じて、マーズ社内のインタビューが許可され、『チャーリーとチョコレート工場』並みの奇妙な世界を垣間見た ⇒ 帝王マーズ・シニアの痕跡がくっきりと残り、彼の経営哲学によって世界で最も生産性・収益性の高い未上場企業となったいきさつを書いた記事Planet of the M&M’s1992.4.12.のワシントンポストに掲載され、全米の注目を集め、いくつかの賞を取ったが、マーズ一族を激怒させ、著者は即座に遠ざけられ、それ以後マーズはメディアに口を開いていない ⇒ 外部から評価されるのに慣れていないため、何を言われても気に食わず、広報コンサルタントも即刻首
この時の取材を通じて、不可解で興味深い話を知ったのが契機となって、より深く調べてみることになる
M&Mは、もともとハーシーとマーズの共同事業で開発されたもの。M1つはハーシー社長が自分の息子の名前を入れた
ハーシーも上場企業ではあったが、マーズが非公開で情報開示を拒否しているところから、情報公開には消極的
ビジネスの話よりも、チョコレートの裏に隠れていた、とてつもない人々の話こそ興味
フォレスト・マーズは帝国を、ミルトン・ハーシーはユートピアを夢見た ⇒ ミルトンは成功して巨額の富を手にすると直ちに手放し、その利益で世界一豊かな孤児院を運営していることを知る人はほとんどいない

第1章        チョコレート戦争
1990年の湾岸戦争当時、マーズは空調設備付きの物流倉庫を持ち、冷蔵トラックを駆使して米英軍、サウジ軍にチョコレートを売り込むことに成功
元々アメリカ軍用チョコレートメーカーの名門として名高いのはハーシー。マーズも1940年代前半は軍と近かったが、ハーシーと軍の関係は80年以上に及ぶ。初めて米軍兵士に製品を提供したのは第1次大戦の1914年。終戦後も補給局と協力して他に食料がなくてもそれだけで生命を保てる高カロリーのチョコバーを開発(レーションDバー)
マーズも含め、全米のチョコレート菓子メーカーは、例外なくハーシーから原料用チョコレートを仕入れていた ⇒ 全米で消費されるチョコの75%を製造
空調設備が発明される前は、ココアバターが解ける華氏78度以上に気温が上がると、チョコメーカーは生産を中止し、涼しくなる季節を待った ⇒ 常識を覆したのがウィリス・キャリアが発明した、脱湿システムを用いた近代的な空気調和設備、エアコンディショナーで、エアコンがチョコビジネスを変え、世界中の市場が開かれた
エアコンの上を行ったのがハーシーで、軍の要求を満たすために華氏140度でも溶けないチョコを開発 ⇒ 嚆矢は、スイスのバテル研究所で、ココアバターの分子構造を変えて耐熱性を持たせようとしたが、味の違いは如何ともし難い
1990年の湾岸戦争では、バテルの特許をベースに、ハーシーとマーズが独自の溶けない商品を開発、ハーシーはアメリカ国内で派手に宣伝したが、中東の戦場で実際に出回っていたのはマーズ ⇒ 91年軍が溶けないチョコの入札を行い、マーズが勝ったが、ハーシーが基準未達と訴える。たかだか1.2百万円ドルの契約に両社が血眼になって争った

第2章        菓子会社は戦う
アメリカの菓子業界は、産業界の中では例外的に3代目、4代目と事業が継承されており、お菓子の大好きな移民が代々伝わるレシピで作り始めたという創業話が多い
何百もの菓子メーカーが工場を一般に公開していたが、60年代初めマーズ・シニアがハーシーの牙城であるチョコレートで打倒ハーシーを誓って以来、熾烈なチョコレート戦争を反映してか多くは非公開となる
チョコレートの成分には限りがあり、チョコレートの科学には人知の壁があり、消費者の好みは偏っている ⇒ 新製品開発の余地は少なく、大ヒット商品を拝借して少しだけ手を加え、自社製品として売り出すことが完璧な経営センスで、世界のチョコレート産業は昔も今もそうやって成長を続けている
菓子の90%が無計画に買われる ⇒ 消費者に買わせる方法は唯一、皆が避けて通れない、必ず立ち寄る場所に置くこと
88年 ハーシーがイギリスの巨大企業キャドバリーシュウェップスの北米部門を買収しピーターポールブランドを手に入れて全米トップの座をマーズから奪う、マーズも負けじと商品棚を支配する。両社合わせて8つのブランドが、チョコ菓子売上全米トップ10入りを果たす。この現象が30年以上不変。そんなチョコバーたちの誕生が、どれも同じ僅か数種類の材料だったとは信じがたい。銅釜、砂糖…そして夢

第3章        惑星マーズ
マーズファミリーは89年の『フォーブス』誌の億万長者番付で3
1922年 現経営陣兄弟フォレスト・ジュニア(co-CEO)とジョン(co-CEO)、妹ジャクリーン(副社長)の祖父が創業。年間売上200億ドルで、北米市場ではハーシーに劣るが、世界規模ではハーシーの4倍。米国での菓子陳列棚の占有率は1/3以上、イギリスでは最大手。従業員28千人。商品は70部門、アイスクリーム、クラッカー、インスタント米、ペットフード等多岐にわたる
Statusは禁句、自分のことは自分で、出張はエコノミー、煩雑な手続きはご法度、全員ファーストネームで呼び合う、仕事は対等、本社の人数は51
88年ハーシーにトップの座を譲った時も、マーズがキャドバリー買収を断ったためで、事業の売買には一切無関心、「事業は作るもの」が信念
ピーナツバターを使った商品を出さないのは、イギリスで育った兄弟3人が食べないから。イギリスではピーナツバターは馬鹿にされていた
マーズ一族でない限り社内での昇進は途中で頭打ち ⇒ 25年在籍してペットフード事業を成功させた元最高幹部のクロード・エリエット=ハーマンは現在シャネルの社長
1973年現経営陣が父親から事業を継承、当時の売上は8億ドル
父フォレスト・シニアは徹底して事業に身を投じ、子供たちにも働かなければ喰えないことを徹底させた ⇒ 最後の1粒まで必要とした父から、お前たちに食べさせるチョコはないと言われ、子供たちはM&Mを口にしたことがなかった

第4章        お口でとろけて
M&Mが開発されたのは1940年。溶けないチョコレートを目指し、内戦最中のスペインで兵士たちが食べる砂糖でコーティングされた粒状チョコが暑さにも溶けないのを見て思いついた。フォレストが、父フランクと袂を分かって一人で事業を始めて以来初のオリジナルレシピによるヒット商品
フォレスト・シニアと、ハーシー社社長の息子ムリーの共同開発で、両者の頭文字を取った商品名となった ⇒ 戦時中、ハーシーが技術も設備もマーズに提供して助けた

第5章        ミルキーウェイへ、そしてその先へ
マーズの創業者フランクは1883年誕生、間もなくポリオに罹り、後遺症で足が不自由となり母親に頼り切った生活を送るうちに、母親のキャンディ作りのプロセスに興味を抱き、自らのレシピで起業
ハーシーが初めて板チョコを作ったのは1895年だが、流行ったのは第1次大戦後のこと
事業は失敗、妻とは離婚、フォレストは妻の実家に預けられる
フランクは、再婚して事業を再興、2度破産の後漸く軌道に乗せる
息子のフォレストは、アルバータの高校から鉱山技師になるためにUC Berkleyに通うが、1923年アルバイト中に留置場に入れられたところを助け出したのが偶然父フランクだった ⇒ 成功している父にフォレストがチョコバーの話をしたのがMilkywayのヒントになった
フォレストは、ビジネスを学ぶためにイェールに転校し卒業し、父親の会社に入る
フランクのビジネス拡大につれ、ハーシーとも取引が始まり、チョコレート原料の大手の卸先となる ⇒ コーティング用チョコの生産は、ハーシーの全チョコレート生産の25%を占めていた
現状の成功に満足した父に対し、全世界制覇に野心を抱く息子は我慢できず、19325万ドルとMilkywayの海外販売権をもらって独立、ヨーロッパに渡る。その15か月後父が急逝。スイスに行って自らチョコレート作りを学ぶ
チョコレートに含まれる化学物質は1200種以上で、柱となるものはないので、人工的な合成ではこの調和は生まれず、各社が独自の味を出すために様々な工夫を凝らしている。また1200種のうちアメリカで食用として認められているのが僅かに20%しかない
1933年 フォレストは、イギリスに行って、自ら工場を建て、独自のレシピを売り始める。チョコレートは既存の大手に呑まれたが、ペットフードという新たな市場を開拓して成功。39年にはイギリス第3位のメーカーになっていたが、イギリス政府が戦費調達のため国内在住の外国人に特別税を課したためアメリカに戻る

第6章        キャンディマン
1895年 キャラメルで莫大な財を成したミルトン・ハーシーがチョコレート製造に乗り出す ⇒ アメリカ初のミルクチョコレートを作り、それまで金持ち向けの贅沢品だったチョコレートを大量生産による大衆向け商品として提供。巨万の富を得るが、同時代のモルガンやカーネギー、ハーストらの偉大な実業家と違うのは、金が目的ではなかった
販売を軌道に乗せたのが後に社長となったムリーで、50年に渡る二人三脚でビジネスを大きくした
1857年ペンシルバニア州生まれのミルトンは、菓子店に奉公に出た後自分の店を持つ
各地で起業しては失敗を繰り返した後、故郷ランカスターに戻ってキャラメル事業を再開、87年たまたま舞い込んだイギリス向け輸出の商談がうまくいって、商売が急拡大
90年には全米トップのキャラメルメーカーとなり、すでに大富豪になっていた

第7章        甘い夢
誰もやっていない新しいものを試すのが好きで、世界中を旅行して回りながら、新しいアイディアや発明品に夢中になった ⇒ 1893年のシカゴ万博で本物のチョコレート作りを目にして、その味に魅せられて、その場でドイツ製の製造機械一式を買い取り、翌年ハーシーチョコレート会社が誕生。営業担当としてムリーを雇い、同時に買った電気自動車を宣伝カーとして活用
1900年 いがみ合ったままの両親に愛想を尽かして、キャラメル事業を売却して新しい事業を探そうとして、競争相手のアメリカンキャラメルからの買収提案に応じ、現金50万ドル+アメリカンキャラメルの株式50万ドル相当でキャラメル事業を売却
ミルトンに新しい構想を吹き込んだのは、生涯に17の事業に手を染めたという父親で、産業ユートピアの建設の夢実現に向かう ⇒ 20世紀初頭企業城下町が相次いで出現した(デュポンのウィルミントンやジョンディアのイリノイ州モリーンなど)が、ミルトンのはまずユートピアがあって、その維持のための事業としてチョコレート製造が進められた
生家近くの未開発地1200エーカーを購入、酪農地域として知られる肥沃な谷で、ミルクがチョコレートの決め手になることを予測していた

第8章        カカオ豆から板チョコへ
ミルクは水分89%、チョコレートは脂肪(ココアバター)80%で、元来両者は混ざらないのみならず、ミルクに大量に含まれる乳脂肪はチョコレートを劣化させるところから、現在チョコレートの代名詞でもあるミルクチョコレート自体、極めて新しい発明
キリスト誕生の頃からカカオはメキシコのアステカ文明にまで既に存在し、スウェーデンの植物学者リンネは、カカオの木を命名するに当たり、アステカの神聖なルーツに敬意を表して「テオブロマ・カカオ(神々の食べ物)」と名付けている
コロンブスやコルテスによってヨーロッパに持ち帰られ、たちまち貴族社会に流行
最初は飲み物、食べ物となったのは1847年イギリスが最初。1875年ネスレ社によってミルクチョコレートが誕生し時代の花形となる
ミルトンは、機械を買ったものの、チョコレート製造に関する知識は皆無、それでもヨーロッパの人々を真似することを意識的に避けて、自らの手で一から作りにかかる

第9章        住所は「アメリカ、チョコレートタウン」でオーケー
ミルトンは、製法開発の助けになる化学についての知識は全くなく、ただ単純に試行錯誤を重ねるだけ
1903年 ハーシータウン鍬入れ式、1909年完成
1904年 チョコレート工場竣工。最初の商品は1900年発売開始のニッケルバー(5セントで買える板チョコ)1907年にキスチョコ、08年アーモンドバー発売。成長著しい小売業に商品を供給するために生まれた卸売業者を通じてハーシー製品を流通させたのは、画期的なことで、今日何処でもチョコバーが買えるのはミルトンのお蔭
ヨーロッパでは、ハーシー独特の醗酵した風味は「下品」で「安っぽい」として退けられ、「ハーシーはざらついた酸っぱいチョコレートでアメリカ人の味覚を破壊した」と非難したが、アメリカでは圧倒的な人気を博す
子供のいないミルトンは、孤児を集めた学校を作るため信託基金を設立、自分のし得るすべてを与えた
1927年 株式公開

第10章     ほろ苦さ
最愛の妻が42歳で死去、一層孤児院に注力、ハーシースクールのために全財産をハーシートラストに寄附(現在の評価額で50億ドル以上、ハーシー社の最大株主) ⇒ 5年後にマスコミがミルトンの慈善行為を報道、生前にすべての財産を手放したミルトンの行為がビジネス界に一大センセーションを巻き起こす
経営をムリーに任せ、ミルトンはチョコレートに欠かせない大量の砂糖の産地キューバに移り住み、第1次大戦で配給制が導入されることを恐れ、キューバで独自に砂糖確保のための土地を手配、ハーシータウンそっくりの街を作り上げる ⇒ 1933年キューバ政府から外国人への最高勲位を授与される
大恐慌はハーシーも直撃、売上は半減したが、砂糖とココアも暴落したので、利益への影響は業界の中では少なかった。生産ペースは維持し、自ら土木事業などを起こして不況と闘いハーシータウンの生活維持に積極的に乗り出す
アメリカ全土で急進化した労働運動の余波で、ハーシー社員も組織化され、労働時間の短縮、賃金アップを会社側に要求、ミルトンの父親的干渉主義への反発も現れ、ミルトンを激しく糾弾、会社の支持者側と激しい衝突の結果、会社はアメリカ労働総同盟と協定を結び、従業員は製パン製菓労働組合に加わることになったが、最も傷ついたのはそれまでの苦労が一瞬にして水泡に帰したミルトンで、心の傷は生涯癒えなかった

第11章     M&M2つのMの秘密
1939年 フォレスト・シニアがハーシーを訪問、社長のウィリアム・ムリーに会って、砂糖衣に包まれたチョコの共同事業を提案。まだハーシーのチョコバーが夏の暑さに弱かった当時、溶けないチョコは魅力だっただけでなく、フォレストがオファーしたのはウィリアムの息子ブルースとの8020の共同事業で、会社にも製品にもムリーの名前を入れるというもの。ハーシーでは子供に何も残せないことを知っていたウィリアムは2つ返事で提案に乗る。翌年M&M社創立。世界大戦の物資不足の最中、しかもすべてが軍用チョコレート生産に振り向けられていたにも拘らず、ハーシー社はM&Mに対し注文通りの砂糖とチョコレートを供給、更に機械類の設計と設置を手伝い、技術面でもサポートを惜しまず、事業を軌道に乗せるための特別待遇で援助
1945年ミルトン死去、後任はキューバ事業を率いてきたステイプルズ
47年にはムリーも引退
M&Mは、軍の調達物資に加えられ順調に成功への道を進む
フォレストが次に目をつけたのは米加工 ⇒ 米の栄養価を高める新しい加工法が発明されたとの記事を見て思いつき、早速最適な米の品種を探し当て、「アンクルベンズライス」の商品名で新たな食品カテゴリーを作ることに成功
「全資産に対する利益率Return on Total Assets(資産は現時点でのコスト)18%を要求 ⇒ 新工場、新装置、オートメーション化等に積極投資
ブルースは、フォレストの売上アップへの圧力に耐えかねて訣別、フォレストがブルースの出資分を1百万ドルで買い取る

第12章     お菓子の国、シカゴ
2次大戦後菓子製造業は好景気に湧き、6千を超えるメーカーが127tを出荷、1人当たりの消費量は史上最高の9.3㎏に達し、これはその後50年破られていない
菓子製造の中心地はシカゴ、ハロウィーンで菓子配りの習慣を作り出したのもシカゴ、菓子長者が続々と誕生
リグレーが成功のきっかけをつかんだのもシカゴ万博
家族経営で、経験と勘による商売が大半だったところへ、フォレストは発展途上にある市場調査のノウハウを利用して、客観的な基準に従った会社経営を導入、徐々にシェアを上げていく
フォレストは、父親の死後継母の一族に渡っていたマーズ社の経営権を取り戻そうとし、継母が死んで父親の遺言によりマーズの株の一部を手にしたのを機に積極的に経営に関与し、64年に100%の株式取得に成功し、父親の経営スタイルを自分流に一新した

第13章     型を壊す
フォレストは、秘密主義とパラノイアが跋扈する業界にあってさえ、極端で有名
業界団体から脱退しただけでなく、菓子業界も業界活動も無視
ハーシーとも、マーズのチョコバーの一番大事な原料を依存していることに我慢がならず、菓子業界では原料の外注は一般的だが、フォレストは品質維持の唯一の方法は製造工程の全てを支配下に置くことだとして、内製化を進める ⇒ ハーシーにとっては、全売上の30%を占めていたビジネスが突然無くなり、カカオ豆の急騰とも相まって苦難の時代を迎える
フォレストは、全てのラインの機械化を企図、努力の結果業界一効率の高い製造ラインを実現させ、業界トップへの道を驀進 ⇒ フォレストの癇癪と罵詈雑言に耐えるのが仕事
品質への強いこだわりから、業界で初めて製品に日付を入れ、売り切れなかった商品の引き揚げを始めた。製造ラインにコンピューターを導入して完成品の測定を始めたのもフォレスト。不良品はすべて再処理して出荷。124時間、週7日間稼働。原料も最大限活用、加工前に取り除く籾殻を発電機の燃料に使ったり、残った灰の利用法まで見つけた
組織はフラットで単純、昇進は6段階のみ(うちトップはマーズ家の人々)
明確な年間目標を設定し、数字で管理したため評価は公正で、目標達成した場合は高額のボーナスが支給されたし、才能を適正に評価したため部下の忠誠を勝ち得ることが出来た

第14章     ハーシー社の助っ人たち
フォレストのやり方に反発して辞めた営業担当がハーシーに入って愕然としたのは、ハーシーの営業部隊がほとんど営業らしい営業をしていなかったこと、データもなければ、市場の情報も持っていなかった
ミルトンの後を引き継いだステイプルズは悲観論者で、帝国を守るのに汲々として、カカオ豆の相場の乱高下に一喜一憂、戦争はハーシーに大きなチャンスをもたらし需要が急増したが、ステイプルズは気付いていないどころか、逆に事業の縮小均衡に走ったり、原料の一部を他社から買うことまで検討を始めた ⇒ 56年突然死を迎え、代わりに社長となった工場責任者ヒンクルによって、製造設備の近代化が進められる。一方で、新工場を稼働させるにも秘密主義のためにハーシー独特の味の製造方法の秘密部分を誰も知らず、先ずその解析から始めなければならなかった
経営手法についても、数少ないリーダーの直観や手腕に頼っていて、リーダーをマネジャーのプロ集団が支えることもなく、リーダーが重責を担うための訓練を受けることもなかった ⇒ 改革の必要性は感じていたが、実現には程遠かった

第15章     ミルトンの息子
ハーシータウンでは誰一人、ハーシーチョコの売れ行きを案じたことはなかったし、案じる必要もないほど着実に売り上げは伸びていた ⇒ それではいけないと気付いたのはモーラーただ1人。47年ヒンクルが大卒者を採用して経営を専門化するために最初の試みとして採用し、CEO就任後は補佐役に指名して後継者として育て、65年引退後はCEOにした。モーラーは、ハーシー工業学校の卒業生の中から例外的にハーシーにいた優秀な若者ディアデンを新設の営業マーケティング部門の責任者に抜擢、マーケティングを一から作り上げようとした
67年 ニールセンに調査を依頼 ⇒ 全米の店先でハーシー製品が30%も在庫切れを起こしていることが判明

第16章     偉大なアメリカのチョコレートバー
68年にフォレストによるマーズ100%買収で浮き上がった営業のトップ2人をハーシーが引き抜く ⇒ 主力製品を見直し、広告を活用、売上は急回復したが、2年後に国際市場でカカオと砂糖の価格が予想外に急騰したのを受け広告費を大幅削減

第17章     カカオ豆狂騒
73年 マーズのシェアが、初めてハーシーを上回る
ハーシーは過去50年、カカオと砂糖の価格の不安定を、内容量の調整で対応、卸売価格の変更も最終価格ニッケル(5セント)が変わらないように小幅にとどめていた ⇒ 68年には発売当初の1/2の大きさまで圧縮され、ハーシー幹部まで気まずく思ったという
69年 長い伝統を破ってダイムに値上げしたが、裏目に出て売上は30%ダウン
直後にニクソン政権は年率4%のインフレを抑え込むために平時では合衆国史上初の賃金・物価統制令を実施、製品価格やサイズの変更に個別許可が必要となり菓子メーカーは大混乱に陥る

第18章     マーズの攻撃
フォレストは自分の子供たちにも厳しく当たった
息子は2人ともイェールを卒業後、暫くしてマーズに入り父親からしごかれる
73年突然フォレストが会社を2人の息子に譲る ⇒ 次の征服すべき地を捜しに出た
ちょうどその当時ハーシーは不況対策として広告の撤退を決めていたが、マーズの2人は逆張りを決意、コストやマナーを無視した強気の営業部隊に支えられて全米No.1のチョコメーカーの地位を獲得
72年 健康啓発団体が「ジャンクフード」の弊害を槍玉に挙げると、一夜にして菓子業界は大騒ぎとなる ⇒ 20世紀初頭は鉛成分が非難、40年代のイギリスでは砒素が問題視、70年代半ばのアメリカではFDAが特定の着色料と癌との関連を報告(マーズはM&Mの赤の生産を中止、復活は10年後)、今また砂糖忌避
肥満、病気、虫歯とチョコレート等の菓子との関連について非難の声が上がるたび、業界は科学的研究から巧みなマーケッティングの駆け引きまで、あらゆる手を使って反撃を行っている。ロビー活動も活発で、上院のキャンディデスクの補充も行う

第19章     失われた遺産
76年 ハーシー学校出として初のCEO誕生 ⇒ ディアデンがモーラーの跡を継ぐ ⇒ 初めてミルトンを離れた会社のあるべき姿が議論され、近代的な経営手法が持ち込まれた。手始めが、扱う商品を多様化し巨大食品会社に衣替えすること、そのために非菓子部門の売上を30%以上との目標を掲げる ⇒ 買収したパスタメーカーはその後全米最大手に、初の海外進出や輸出の増強にも注力
会社の業績は急拡大、ディアデンの指導力は業界紙でも広く称えられ、「ハーシーの救世主」とまで呼ばれたが、地元での評判は落ちていた
1963年 ペンシルバニア州立大がメディカルスクール新設の際、ハーシートラストが50百万ドルと土地を寄贈したが、そのためにハーシーカレッジを閉鎖したのが地元の反対を巻き起こした最初 ⇒ ミルトン・S・ハーシー・メディカルセンターは異質の新住民を呼び込み、従来からいた労働者層と対立。さらに70年にはココアイン(総合商業施設)が取り壊され、ハーシーパークは閉鎖され代わりにディズニースタイルのテーマパークに変貌、無料の工場見学を中止して体験型ライドの「チョコレートワールド」に代わる。80年にはコミュニティセンターもハーシー本社に変わり遊戯施設が無くなる。ハーシーの邸宅も上級幹部のオフィスに変わる
ハーシーの発展に伴うものではあったが、住民にとってはミルトンの理想が次々と捨てられていくように感じて落胆
1980年 マーズは、価格を維持しながら内容量を2030%増量、全国紙に大々的に広告、過去10年チョコバーは値上がりを続けてサイズは小さくなる一方だったため、売上は急伸、ハーシーは完全に置いて行かれた

第20章     ちゃんとした人はチョコレートを食べない
「ちゃんとした人はチョコレートを食べない」は、70年代の通説で、下品な楽しみとされた
66年にキャンベルに買収されたベルギー人一家が経営していたゴディバは、74年にアメリカでの成功を期して、アメリカ人の味覚と意識の大変革を目指す
80年代初め、ゴディバが1ポンド20ドルというチョコレートをステータスとして売り出し、瞬く間に全米のチョコレート好きをカミングアウトさせ、新天地を開くことに成功
7983年に全米で1200店舗を開き、店の内装も商品の包装も豪華に、価格も40ドルに跳ね上がる
81年 ユニバーサルが映画『E.T.』でハーシーのリーセスピーセス(ピーナツバターキャンディ)を使いたいとしてハーシーにタイアップ契約をオファー、ハーシーは1百万ドル相当の広告で映画を宣伝する代わりに、「E.T.」を宣伝に自由に使えることになる
映画の大ヒットと共に、リーセスの売上が急上昇、最初にユニバーサルの申し出を断ったM&Mは臍を噛んだ
マーズでは、フォレストの時代に幹部たちは彼の癇癪に苛立ったものの、彼が成し遂げたことへの尊敬の念故に我慢もできたが、同じ仕打ちを彼の息子たちから受けるのは納得できなかった為、兄弟の社員に対する態度は、忠誠と献身を育む代わりに疑いと不安を生んだ ⇒ 社員はびくびくし、問題が起きてもうやむやにすることが多くなり、時間や資源を無駄にしてビジネスチャンスを逃し、ハーシーとの立場が逆転した

第21章     チョコレートに包まれた世界
90年 マーズは、崩壊直前の旧ソ連でMilkywayM&Mを売り出す ⇒ 前年11月モスクワで全連邦子ども国際テーマパークの公式菓子メーカーにマーズが選ばれ、ソ連政府は初めて公式にクリスマスを認めたことをマーズは最大限利用してクリスマスパーティーを開きロックコンサートに若者を招待して大々的に売り込んだ結果、マーズ製品が脚光を浴びることになり、94年には現地工場建設、3年後には黒字化
世界進出の青写真があったわけではなく、チャンスと見たら社員を送り込む方法で次第に販路を広げ、70を超える現地法人を通じて、世界の菓子市場で15%のシェアを占めるNo.1メーカーに成長、特に強いのはチョコバー
国際的な競争では、ハーシーは失敗 ⇒ 第2次大戦後ハーシーほど世界的知名度を利用できたメーカーはどこにもなかったが、深刻なチョコレート不足状態にあった国内需要を充たすことに集中、さらに69年にもイギリスの最大手キャドバリーが合併のパートナーを探してハーシーに来た時もハーシーの消極策の犠牲となった(2010年クラフトフーズが196億ドルで買収し世界最大の菓子会社となる)。世界市場でも後塵を拝し、現在新しい製造技術も変革も全てヨーロッパから始まっているが、ハーシーはその波からも取り残されている(2007年ハーシーはロッテと提携して中国での生産、販売を開始)

第22章     バーを上げていく
85年 ハーシーではディアデンが退任、ヒンクルの下でアシスタントとして採用されたジマーマンがCEOに ⇒ 積極的な買収作で事業拡大、88年度にイギリスのキャドバリーからピーターポールブランドを買収してアメリカ市場でのトップを奪い返す
これに対抗して、マーズはフォレスト路線からの脱却を決意、1製品1ブランド名の常識を覆し、ドッグフードをペディグリー、キャトフードをウィスカスに統一した結果、シェアが倍増、さらに新製品ラッシュとヒットが続き、さらにディズニーと提携して施設内での独占販売権を獲得、91年時点でトップを奪い返すが、勤続25年以上の最高幹部が10人以上もマーズを去ったのは、マーズ兄弟が責任を分かつことを知らなかったから。ビジネス拡大の方法について意見を異にすると、最後の決定権は兄弟にあった

第23章     お菓子の裏に戦略あり
94年 ハーシーは新たに勤続30年のベテラン、ウルフをCEOに選任、さらなる積極的拡大路線を取る ⇒ 97年には株価を史上最高にまで引き上げ
徐々にネスレを加えた大手3社に集約され、独立系や弱小は市場から駆逐 ⇒ 全米の陳列棚の2/3をマーズとハーシー製品が占める
ファミリービジネスの限界を知っているフォレストは、息子の次の世代をほとんど信用していないようで、マーズの将来を憂慮して92年にネスレの会長に密かに面談、合併を持ちかけたが、息子2人は強硬に反対したという ⇒ 2人の子供たちの何人かはマーズで働いているが、その資質は未知数。042人は経営から退き、初の外部CEO誕生(株の所有は変わらず、現在ジョンがグループの総帥)
引退したフォレストだったが、自ら立ち上げた様々なプロジェクトに飽きると、80年にまたチョコレート会社を立ち上げる ⇒ エセル(母の名)Mチョコレートで、リキュール入りの高級チョコレートの製造を、その販売が唯一認められたラスベガスでスタートしたが、99年死去、享年95。マーズからは何の発表もなかった


本書刊行後の業界の動き:
08年 マーズは、バフェットのバークシャー・ハザウェイと共同でリグレーを230億ドルで買収
02年 ハーシートラストがハーシーフーズ売却を決め、ネスレやリグレーと交渉に入ったが、地元の激しい反対にあって断念
2012年現在、世界の菓子メーカーのランキング ⇒ 1位クラフト(売上199億ドル)2位マーズ(162)3位ネスレ(128)4位フェレーロ(96)5位ハーシー(61)


チョコレートの帝国 ジョエル・G・ブレナー著 米国の二大菓子メーカーの「死闘」
日本経済新聞 書評 2012/7/15
フォームの始まり
フォームの終わり
 子どもたちが好きなアメリカ映画に「チャーリーとチョコレート工場」がある。映画に登場する謎のチョコレート魔術師、非公開の工場などをメタファーとして活用し、さながら大人向け謎の工場への特別招待ゴールデン・チケットが本書である。
(笙玲子訳、みすず書房・3800円
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(笙玲子訳、みすず書房・3800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 目の当たりにするのは、この百年間にチョコレート界で繰り広げられてきた、茶色の魔術師たちの戦いである。アメリカの二大菓子メーカーであるハーシーとマーズは産業戦争で死闘を尽くしてきた。1990年代に両社がしのぎを削ったのは、湾岸戦争派遣のアメリカ軍への軍用糧食の納入である。灼熱(しゃくねつ)の砂漠でも溶けないチョコバーは武器と同等の必需品であるとペンタゴンに売り込んだ。同時期、マーズはロシア市場へも速攻をかけ、初めて口にする西側の菓子として人々を魅了し、ロシアの菓子市場の40%を独占した。
 両社はいずれも家族経営の小企業から出発した。ミルトン・ハーシー、フォレスト・マーズというそれぞれのカリスマ経営者が、独特の経営理念で基礎を築き、グローバル企業へと成長した。時には協力し、時には相手を出し抜いて、国際的な企業買収劇が渦巻く菓子業界を生き延びてきた。現代の情報戦・技術戦を最高経営責任者(CEO)の的確な経営判断で制してきたようにみえる。
 ところが不思議なことに、二大魔術団には時々奇妙な魔法がかかり、シナリオ通りの経営戦略を選択しない。魔術団を駆動させている真の原動力はいったい何か。成功したミルトン・ハーシーが力を傾注したのは孤児院の運営である。個人資産を寄付し、孤児たちに愛情を注いだ。孤児院という疑似家族の命運はハーシー社と一体だった。フォレスト・マーズの2人の息子も、カリスマだった父親がたたき込んだ経営哲学が血肉となり、配当金を受け取らず、ファミリー・ビジネスに再投資する。
 映画でも、魔の誘惑を退けるチャーリーの決めゼリフは、「家族を捨てることはできない」だった。本書は、現代のアメリカ的企業経営の根底に「家族」という意外な隠し味が潜んでいたと、極秘のレシピの謎を解き明かしている。
(武蔵大学教授 武田尚子)


Wikipedia ⇒ 両社とも公開情報の少ないことが窺われる
マース インコーポレイテッドMars, Incorporated)は、アメリカ合衆国の大手食品会社である。ペットケア製品やチョコレート製品を製造している。1911フランク・マースにより設立された。

主要ブランド [編集]

§  M&M's
§  Twix

日本法人 [編集]

Mars Inc.svg
企業形態
非公開
業種
事業分野
設立
創業者
本拠所在地
代表者等
従業員数
48000
子会社
ウェブサイト
Web site”About Mars”より
In 1911, Frank C. Mars made the first Mars candies in his Tacoma, Washington kitchen and established Mars’ first roots as a confectionery company. In the 1920s, Forrest E. Mars, Sr. joined his father in business and together they launched the MILKY WAY® bar. In 1932, Forrest, Sr. moved to the United Kingdom with a dream of building a business based on the philosophy of a “mutuality of benefits” for all stakeholders – this vision serves as the foundation of the Mars, Incorporated we are today. To learn more about our history click here.
Based in McLean, Virginia, Mars has net sales of more than $30 billion and six business segments including Petcare, Chocolate, Wrigley, Food, Drinks and Symbioscience. You can find out about our brands here.
Approximately 70,000 Associates worldwide are putting our Mars Principles in action every day to make a difference for people and the planet through our performance. Learn more in our Principles in Action Summary.


ザ・ハーシー・カンパニー (The Hershey Company, NYSE:HSY)、前ハーシー・フーズ・コーポレーション(20054月に社名変更)は、通例ハーシーズ (Hershey's) と呼ばれるアメリカ合衆国で最大手のチョコレート製造会社である。本部はココアの香りが街中に行き渡り、ハーシーズ・チョコレートワールドの本拠地があるペンシルベニア州ハーシーに置かれている。同社は1894ミルトン・S・ハーシーが、当時の彼が経営するランカスター・キャラメル社の子会社、ハーシー・チョコレート社として創立した。日本では19897月に東京都港区南青山に現地法人であるハーシージャパンが設立されている。今やハーシー社の菓子製品は世界中で販売されている。
ハーシー社はアメリカ合衆国において最も古いチョコレート菓子会社の一つであり、また同社が製造するチョコレートバーはアメリカの肖像である。現在、ハーシー社は他にも多くの菓子製造会社を所有しており、チョコレートをテーマとしたアミューズメント施設であるハーシーパークや、アイスホッケーチームのハーシーベアーズ、ハーシーパーク・スタジアム、ジャイアント・センターを経営するハーシー・エンターテインメント・アンド・リゾート社とも提携している。

沿革 [編集]

創立者のミルトン・スネーベリー・ハーシーは、1876に菓子職人の見習いを修了しフィラデルフィアに菓子店を設立するが、6年後に倒産してしまう。その後ハーシーはニューヨークで菓子製造を行うがうまくいかず、彼はペンシルベニア州に戻って新鮮なミルクをふんだんに使用したキャラメルを製造・販売するランカスター・キャラメル社を設立すると、これが大成功を収めた。1900、ハーシーは自身のキャラメル会社で100万ドル(現在の価値に換算しておよそ2,200万ドルに相当)を売り上げ、それからチョコレート製造に着手し始めた。
1903、ハーシーはペンシルベニア州に大規模なチョコレート施設の建設を始めた。この施設で製造されたミルクチョコレートバーが成功となり、それから先同社は急速に成長していった。
1907にハーシーは、底が平らで円錐型をした小さなチョコレートを披露、商品名を「ハーシーキス (Hershey's Kisses)」と名付けた。当初この小さなチョコレートは一つ一つ四角いホイルで手作業による包装が施されていたが、1921に機械包装が導入され、真のハーシーズ製品であることを示す小さな紙製のリボンが包装の上部に加えられた。同製品はこの3年後に商標登録され、ハーシー社で製造された製品の中で最も成功し名の知れた製品となった。他に製造された同社製品として、ミスター・グッドバー(1925)、ハーシーズ・シロップ(1926)、チョコレートチップス1928)、クラッケルバー(1938)が含まれる。
1940、産業別組合会議(CIO)労働組合を打ち負かして2年後の後、アメリカ労働総同盟の支部が、地方の最初の支部長となったジョン・シーラーの指導権の下にハーシー社の労働者を首尾よく組織した。現在、パン製作者・菓子製造業者・タバコ製造業者・穀類製粉業者の地方組合員番号464番はハーシー社の労働者を表しており、そうした組合員自体を「チョコレート労働者」などと呼称するも、他の産業における地方労働者をもうまく組織してきている。
ペンシルベニア州ハーシーの外部に置かれる最初のチョコレート製造施設が1963615カナダオンタリオ州スミス・フォールズに開設された。また1965522にはカリフォルニア州オークデールにも別のチョコレート工場が開設し、185,000平方メートル200平方フィート)の製造スペースを誇るその施設は、世界で最も大きいチョコレート工場となった。これらはハーシー社の主要な工場であり、カナダのオンタリオ州スミスフォールズにある施設では施設内ツアーの申し出もあったほど。ツアーはペンシルベニア州の工場内で運営されていたが、現在は催されていない。
ハーシー社のチョコレート製品は、同社の幅広い流通網のため、アメリカ合衆国中で入手できる。同社は最新科学と労働経営システムを結集した全3か所の巨大流通センターを有している。

チョコレート製品 [編集]

今日において、多くのハーシー社製品はヨーロッパの伝統的なレシピを使用しておらず、大量生産に向くよう、より少ないココアと多くの糖類を混合しているため、日本国内で流通している一般的な国産チョコレートと比べるとかなり甘みが強い。数あるヨーロッパ諸国でもハーシー社の製品は販売されているもののどの国においても優位を占めていないことから、結果としてハーシーのレシピはビターテイストを好む欧州人の口には合わない。
1988、ハーシー社はアメリカ合衆国内において、キャドバリー・シュウェップス社製品の多くの製造と配給権を獲得した。その後キャドバリー・クリームエッグが合衆国内で販売されたが、それらはハーシー社が直接イギリスのキャドバリー社から輸入したものであった。
20057月、ハーシー社はカリフォルニア州バークレーを拠点とするチョコレート小売メーカー、シャーフェンベーガー・ チョコレートメーカー社を獲得すると発表した。
またアメリカ軍が採用しているアメリカ軍用チョコレートの製造も担っている。
ザ・ハーシー・カンパニー
The Hershey Company
公開会社
市場情報
略称
Hershey's
本社所在地
設立
菓子製造業
事業内容
チョコレート及び菓子製造
代表者
ミルトン・S・ハーシー(創設者)、リチャード・H・レニー(現CEO
従業員数
14,300
外部リンク
Hersheys.com(英語)
Hersheyjapan.com
(日本)


チョコレート: chocolate)は、カカオ種子発酵焙煎したカカオマスを主原料とし、これに砂糖ココアバター粉乳などを混ぜて練り固めた食品である。略してチョコともいう。ショコラフランス語: chocolat)と呼ばれることもある。
ただし、近年の工業生産チョコレートでは、カカオマス、砂糖、ココアバター、粉乳といった主要材料以外に、原料コスト削減や加工性を上げる目的で植物性の油脂などを加えたり、加工コスト削減の目的で乳化剤などを加えたり、風味の向上の目的で香料甘味料などを加えるなど、様々な添加物が配合されることも多い。

チョコレートの呼称 [編集]

イギリス人が固形のチョコレートを考案するまでは、チョコレートといえば飲み物を意味した。現に、例えば米国では今でも「ホット・チョコレート」と言えば日本で言うところの「ホット・ココア」飲料を意味する。日本国内では昨今、ココア粉末を使用したものをココア、生チョコレートの水分を多くしたものをチョコレートドリンクと称し分ける傾向があるが、これらチョコレート飲料の名称について厳密な定義は今のところない。
"chocolate"の語源については、辞典などでナワトル語のチョコラトルが由来とされているが、アステカスペインに征服される前にはチョコラトルという用例が無く、そもそもナワトル語には「チョコ」という言葉も「ラトル」という言葉も存在しないなど、はっきりしたことはわかっていない(ナワトル語でチョコレート飲料は「カカワトル(カカオの水)」)。一説によれば、スペイン人がマヤ語の「チョコル(熱い)」とアステカ語「アトル(水)」から作った新語だという[2]チョコレートの歴史#チョコレートの語源も参照。

製造 [編集]

チョコレートの製造工程としては、まず原料であるカカオ豆の収穫から始まる。収穫されたカカオ豆は豆を包むパルプとともにバナナの葉でくるむか木箱に入れて数日かけて発酵させ、その後天日で乾燥させたのち工場へと運ばれる。工場のほとんどはカカオの産地である熱帯地方ではなく温帯冷帯に位置するため、ここで船によって輸送されるのが一般的である。
工場に運ばれたカカオは、まず磁石で鉄を除き、風で埃を飛ばして、によって石を取り除き選別される。選別されたカカオは砕かれ、篩によって外皮と胚芽を取り除かれる。こうしてできたものはカカオニブと呼ばれる。カカオ豆をここで砕くのは、不ぞろいのカカオ豆を均一の大きさにし、後のロースト時に火がむらなく均一に通るようにするためである。
カカオニブはこの後焙煎され、火が通ることによって酢酸が除かれてまろやかになると同時にメイラード反応によって香りや風味が現れてくる。この後、風味をよくするために数種類のカカオニブをブレンドした後、磨砕機によって細かくすりつぶす。カカオ豆には55%の油脂分(カカオバター)が含まれているためにここでペースト状となる。こうしてできたペーストがカカオマスである。
なお、上記の焙炒法はニブロースト法と呼ばれるもので、ほかに豆を直接焙煎するビーンズロースト法や、磨砕を先に行ってできた液体を焙煎するカカオリカー法といった方法もある。
できたカカオマスにココアバター、砂糖、ミルクなどを混合し、チョコレートドゥと呼ばれるチョコレートの元を作る。このドゥを5段のローラーにかけて数十ミクロン単位にまで細かく砕く。ここで非常に細かくすることで、チョコレートの舌触りが滑らかなものとなる。しかし細かくしすぎるとかえって口どけが悪くなるため、細かな調整が必要である(後述)。磨砕が終わると、コンチェ(コンチングマシン)と呼ばれる攪拌機にて長時間かけて精錬する。精錬が終わると、テンパリング(予備結晶化)と呼ばれる温度調整を行ってチョコレートを安定させ、型に充填した後冷却して固め、包装した後エージング(熟成)を行って完全に安定させた後、チョコレートの完成となる。

チョコレートの風味 [編集]

カカオ分・乳分の比率による風味の分類 [編集]

種類別名称として定められているチョコレートの種類に関しては、チョコレートの規格を参照のこと。ここでは一般的なチョコレートの風味による分類を記載する。
ブラックチョコレートorビターチョコレート
砂糖や粉乳をまったく含まないカカオマス100パーセントのチョコレート。当然とても苦いがポリフェノールの有益作用の活用やダイエット中の間食に適している。 
スイートチョコレート
粉乳を含まないチョコレート。
セミスイートチョコレート
粉乳が若干量配合されたチョコレート。ミルクチョコレートほど乳成分を含んでいないもの。
ミルクチョコレート
粉乳が配合されたチョコレート。
ハイミルクチョコレート
粉乳と、若干量の非脂肪カカオ分が配合されたチョコレート。
ホワイトチョコレート
粉乳が配合され、非脂肪カカオ分が含まれないチョコレート。カカオ分はココアバターのみである。
チョコレート飲料
チョコレート若しくはカカオ由来の原料(粉末ココアなど)を、乳製品や水と乳化させ、飲料用にしたもの。

カカオマスの種類による風味の分類 [編集]

コーヒーと同様、チョコレートもカカオマスの種類・産地・焙煎により、苦味、酸味、コク、香りなどのバランスが異なる。価格、風味の面を考慮し、複数の産地のカカオマスをブレンドして原料として用いることが一般的となっている。
フォラステロ種 Forastero
南米原産の栽培種であり産出量が多く安価。病害虫にも強く成長も早いため、現在の主力品種となっている。色は黄色で、苦味が強いのが特徴。現在では主に西アフリカ南アジアで栽培されている。欧米ではコートジボワール産、日本ではガーナ産をベースビーンズとして使用することが多い。
アリバ種 Arriba
フォラステロの突然変異で派生した種。フォラステロ種の最高級種とされる。エクアドル原産。独特の渋みとジャスミンの花のような香りが特徴。
クリオロ種 Criollo
有史以前から存在するカカオ豆の原生種であり、マヤやアステカで使用されていたのもこの品種であるが、病害虫に弱く19世紀後半に壊滅状態となってフォラステロ種に取って代わられた。現在では稀少種。現存するほとんどの株はフォラステロとの交配部がある。色は赤や黄色で、苦味が少ないのが特徴。ベネズエラメキシコなどで栽培されている。
トリニタリオ種 Trinitario
トリニダード島原産、クリオロとフォラステロの交配種。栽培が容易で品質もよい。ラテンアメリカでフレーバービーンズとして広く栽培されている。

チョコレートの製法による風味 [編集]

原料の混合率や、磨砕精錬の方法などは生産者独自のノウハウがあり、同じ原材料を使用しても全く風味の異なるチョコレートに仕上がることがある。

磨砕工程 [編集]

チョコレートは、製造時に概ね粒径約10 - 30μmに磨砕されるが、この粒径により完成したチョコレートの口溶けが変化する。粒径が大きいほど口溶けが早いが、大きすぎると口内に粒状感を生じ、ざらついた食感となる。粒径が小さいほど滑らかな食感となるが、小さすぎると口溶けが悪くなり、もたつき感を生ずる。また、粒径にあわせて固形分の表面積が変化するため、チョコレートに含有される油脂の量が同じでも、チョコレートの粘性や食感が異なるようになる。

精錬工程 [編集]

チョコレートの製錬工程において、温度とチョコレートドゥ(精錬生地)の固さは製品の味を決める最も重要な条件である。精錬度の低いチョコレートは雑味が多く、使用する原料によっては特有の臭気を含んでいることがある。このためチョコレートとして望まれている風味を最適な状態で味わえるように精錬を行う。しかし、精錬の度合いが高すぎるとチョコレートの風味が消し飛んでしまう。

テンパリング(予備結晶化) [編集]

作る時の温度も風味に非常に影響する。チョコレートに含まれるカカオバターの結晶にはI型からVI型までの6種類の型があり、融け出す温度は17 (I) - 34(VI)の幅がある。同一の原材料であっても、型によって食感はまったく異なる。V型が最も美味しいともされる。
作る時の温度推移によって、それぞれの結晶の型の割合・率が変化し、食感・商品としてのランクが変わることになる[3]。ある段階では○○度、次に□□度、その次に△△度と、いくつかの時点で変化させることになり、各段階の温度の組み合わせの数は非常に多くなる。温度設定・設計は品質に関わる重要なノウハウであり、大手製造者などでは企業秘密として扱っていることが多い。良いチョコレート作りを伝授する場面ではこれも伝える必要があるということになる。

性質 [編集]

固形チョコレートは油分に粉乳や砂糖などの粉末が分散している状態であり、水に不溶である。固形チョコレートを水分と乳化させた物は、ガナッシュ、生チョコレートと呼ばれる。
固形チョコレートは一般的に、熱に弱く溶けやすい。過度に冷却したもの、融解・再結晶化したもの、長期間保存したものなどには白い色がつくことがある。この白い部分をブルームといい、このような現象をブルーミング現象という。ブルームが生じたものを食べても問題はないが、風味や味は落ちる。ファットブルーム (fat bloom) は、チョコレートの油脂成分のうち融点の低い部分が融解して表面に浮出し、再結晶化したものである。シュガーブルーム (sugar bloom)は、冷却時などにチョコレートの表面に水分が付着した際チョコレートの砂糖が水分に溶解し、その水分が蒸発した時に砂糖が析出したものである。
保存は、15 - 17 、湿度50%以下が好ましく、香りを吸収するのを防ぐために他の食べ物から遠ざけたりラップに包むなどする。
質量あたりの熱量が大きく携行が容易であることから、固形チョコレートは軍隊レーションに同封されたり(アメリカ軍用チョコレートなど)、登山などの際の非常食として携帯されたりする。カロリーの面だけでなく、非常の際に甘味やテオブロミンが心身の安らぎをもたらすという意味合いも大きい。テオブロミンの含有量はカカオ分99%のチョコレート100gあたり1100mg[4]
チョコレートを食べるとニキビができるという迷信があり、経験的にニキビができやすいとする者も多いが、科学的根拠は現在のところない。脂肪分を40%と多く含むこと[5]カフェインチラミン血管性浮腫誘因物質でアミンの一種)などを含む刺激物であるからということに由来する安易な発想である可能性がある。一方で、チラミンにより血管の収縮が起こり、効果が切れると急激に血管が拡張するため、食べ過ぎると鼻の粘膜が腫れて鼻血が出るという話が存在する[6]。同様のメカニズムで収縮のあとの急激な脳血管の拡張により片頭痛が起こることがある[7]。また、テオブロミンと位置異性体の関係にあるテオフィリンを主成分とした医療用医薬品キサンチン気管支拡張薬等)の添付文書には、副作用として「鼻出血」と記載されている[8]。ただし、チョコレートアレルギーによる鼻血はあり得る。カフェインの含有量はカカオ分99%のチョコレート100gあたり120mg[4] チョコレートに加えられる事が多い食品には食物アレルギーの表示義務があるミルクやピーナッツがあり、これらが原因になっている可能性が考えられる(カカオにはアレルギー表示の義務も推奨も無い)
イヌネコ鳥類などヒト以外のほとんどの動物はチョコレートを食べると中毒を起こす。これは、チョコレートやココアなどに含まれるテオブロミンを代謝できないことが原因で、死に至ることもある。

歴史 [編集]

紀元前2000年ごろから主に中央アメリカにおいてカカオの栽培が始められ、アメリカ先住民族の間で嗜好品や薬用として珍重され、貨幣として使用する地方もあった。飲み方は、コーンミールトウガラシを入れることが普通であった。
カカオは1492クリストファー・コロンブスによってヨーロッパへと紹介され、やがてアステカ帝国などの中央アメリカ諸王国を滅ぼしてこの地方を支配したスペイン人にも好まれるようになった。そして彼らを通じ、じょじょにヨーロッパ大陸にも浸透していった。この過程で、スペイン人はチョコレートの苦味を打ち消すためにトウガラシの代わりに砂糖を入れるようになり、このやり方が他のヨーロッパの国々に伝わる際も引き継がれた。当初、チョコレートはとして扱われたが、砂糖を入れることによって徐々に嗜好品へと姿を変えていった。17世紀中ごろにはイギリスに到達し、そのころ隆盛したコーヒー・ハウスにおいてもさかんに供された[9]。この時期には、チョコレートはヨーロッパの王侯貴族や富裕層にとって贅沢な飲み物として受け入れられていた。
19世紀にはいるまではチョコレートは飲み物であったが、19世紀に技術革新が次々と起こって現在のチョコレートの形が成立した。まず、1828にはオランダのコンラッド・ヨハネス・バン・ホーテンがココアパウダーとココアバターを分離する製法を確立し、さらにカカオにアルカリ処理を行うことで苦味を和らげる方法も考案した。1847にイギリスのジョセフ・フライが固形チョコレートを発明し、1875にはスイス薬剤師であるアンリ・ネスレショコラティエダニエル・ペーターミルクチョコレートを開発した[10]。さらに1879にはスイスのロドルフ・リンツによりコンチェが発明され、ざらざらしていた固形チョコレートが滑らかな口当たりのものへと変化した。上記の発明は「チョコレートの4大技術革命」とも呼ばれ[11][12]、これらの発明によって固形チョコレートはココアに変わってカカオの利用法のメインとなっていった。
こうした発明によって19世紀後半にはチョコレートは家族的な小企業や職人による生産から大企業による工場での大量生産へと移行していった。スイスのネスレ社やイギリスのキャドバリー社、ロウントリー社、アメリカのハーシー社などの大チョコレート企業が誕生し、安定して大量生産された規格品チョコレートの供給によりチョコレートの価格は下がり、一般市民が気軽に楽しめる菓子となっていった。一方でベルギーやフランスなどを中心にショコラティエによる高級チョコレート店も多数存在している。

生産 [編集]

2009年にもっともチョコレートを多く生産した国はアメリカ合衆国で、1,569,490トンにのぼる。次いでドイツが多く、1,214,490トンを生産している。以下、イギリス、ブラジル、フランス、イタリア、日本、ポーランドと続く。日本は年間233,880トンを生産して世界7位である。
年間チョコレート生産量 (2009年、単位トン)[13]
生産量
生産量
生産量
生産量
1,569,490
1,214,490
532,350
ブラジル
517,300
404,880
276,900
233,880
220,000
191,530
139,965
115,945
52,282

消費 [編集]

2008年から2009年のチョコレート消費量は、スイスが最も多く年間で一人当たり11.7kgを消費しており、以下ドイツ、イギリス、ノルウェー、デンマークと続く。日本は年間2.2kgで世界15位である。
年間一人当たりチョコレート消費量 (2008-2009年、単位kg)[14]
消費量
消費量
消費量
消費量
11,7
11,4
10,9
9,8
8,6
7,9
7,4
7,0
6,8
6,6
6,0
3,3
3,3
3,3
2,2

チョコレートの規格 [編集]

日本では、19713月、不当景品類及び不当表示防止法10条第1項の規定に基づき、公正取引委員会の認定を受けた「チョコレート類の表示に関する公正競争規約」によって規格が定められている。

カカオ成分 [編集]

カカオ分は「カカオ脂肪分」(ココアバター)と「非脂肪カカオ分」を合計したものである。カカオ脂肪分は文字通りカカオの脂肪分のみを示し、カカオマス特有の褐色や風味、ポリフェノール、テオブロミン、カフェインなどカカオの主たる薬効成分は非脂肪カカオ分に含有される。
原料となるカカオマス自体は苦く、日本では砂糖で甘味をつけたものが普通であったが、カカオに含まれるポリフェノールが注目されるようになり、2000年代に入ってリンツ・チョコレートの「エクセレンス」、明治製菓の「チョコレート効果」(カカオ分86%)などカカオ比率の高い商品が各種発売されるようになった。しかしその味は当然ながらカカオマス・ココアそのものの苦味が非常にきつく(コーヒー豆ペーストを食べている感覚に近い)、従来のチョコレートのような甘い風味は期待できない。特にカカオ99%を使ったチョコの包装紙には但し書きが付くほどである。
なお、ホワイトチョコレートにはほとんどポリフェノールは含まれていないため、健康のためチョコレートを摂るのであればできるだけ「非脂肪カカオ分」が高いものにしたほうがよい。
カカオ分の表記のない製品でも、下記(チョコレート製品)に示された種類別名称からある程度判別できる。「準チョコレート」となっているものはカカオ分がかなり低くなっている[15]。特に生産性や耐久性、原料価格などの理由により、駄菓子のチョコレートは多くが「準チョコレート」規格である。ただし「準チョコレート」規格の中には、カカオ脂肪分は少ないが、ココアを使っているため「非脂肪カカオ分」は多いものもある。

チョコレート生地 [編集]

純チョコレート生地
カカオ分35%以上・ココアバター18%以上。糖分(蔗糖に限る)55%以下・レシチン0.5%以下・レシチンとバニラ系香料以外の食品添加物無添加で、ココアバター・乳脂肪分以外の脂肪分を使っていないこと。水分3%以下であること。
純ミルクチョコレート生地
カカオ分21%以上・ココアバター18%以上。乳固形分14%以上・乳脂肪分3.5%以上。糖分(蔗糖に限る)55%以下・レシチン0.5%以下・レシチンとバニラ系香料以外の食品添加物無添加で、ココアバター・乳脂肪分以外の脂肪分を使っていないこと。水分3%以下であること。
チョコレート生地
カカオ分35%以上・ココアバター18%以上で、水分3%以下であること。ただし、カカオ分21%以上・ココアバター18%以上、かつ、乳固形分とカカオ分の合計が35%以上・乳脂肪分3%以上、水分3%以下で、カカオ分の代わりに乳固形分を使うことが可能。
ミルクチョコレート生地
カカオ分21%以上・ココアバター18%以上。乳固形分14%以上・乳脂肪分3%以上で、水分3%以下であること。
準チョコレート生地
カカオ分15%以上・ココアバター3%以上。脂肪分18%以上で、水分3%以下であること。
準ミルクチョコレート生地
カカオ分7%以上・ココアバター3%以上。脂肪分18%以上で、乳固形分12.5%以上・乳脂肪分2%以上。水分3%以下であること。

チョコレート製品 [編集]

上記「ミルクチョコレート」「準ミルクチョコレート」の種類別名称は、それぞれ「チョコレート」「準チョコレート」として扱われる。
チョコレート
チョコレート生地そのものか、チョコレート生地が60%以上のチョコレート加工品。チョコレート加工品とは、チョコレート生地を全重量の40%以上使ったものを指す。
チョコレート加工品のうち、クリームを全重量の10%以上含み、水分10%以上の製品は「生チョコレート」を称することができる。
チョコレート菓子
チョコレート生地が60%未満のチョコレート加工品。
準チョコレート
「準」は正しくは準に丸囲み。準チョコレート生地そのものか、準チョコレート生地が60%以上の準チョコレート加工品。
準チョコレート菓子
準チョコレート生地が60%未満の準チョコレート加工品。

チョコレートの日 [編集]

バレンタインデーにチョコレートを贈る風習は、19世紀のイギリスのチョコレート会社キャドバリー社によって始められた。
日本では、バレンタインデーにチョコレートを贈るようになったことをきっかけにして、日本チョコレート・ココア協会214日を「チョコレートの日」として制定し、1970年代に定着した。

いろいろなチョコレート [編集]

チョコレートは製造法や形状によってチョコレート生地だけで作る板チョコ(ソリッドチョコレート)、中が空洞になっているホローチョコレート、チョコレートで殻を作って中にクリームなどの中身を詰め込むシェルチョコレート、逆に中身になるものにチョコレートを吹き付けて作るパンワークチョコレート、ウエハースやキャンディーバーをチョコレートにくぐらせて作るエンローバーチョコレートなど、いくつかの種類に分かれる。
また、そのまま食べるだけではなく、チョコレートケーキなどの製菓材料としても重要である。なかでもショコラティエが最後の仕上げに使うチョコレートはクーベルチュール・チョコレートと呼ばれ、海外では厳格な規定がある。小鍋で溶かしたチョコレートを果物などにからめて食べるチョコレートフォンデュや、溶けたチョコレートが噴水状に循環するョコレートファウンテンといった使用法もある。

主な製造企業 [編集]

日本国内 [編集]

創業の古い順 [編集]

§  芥川製菓1868年創業
§  森永製菓1899年創業
§  不二家1910年創業
§  明治製菓1916年創業
§  江崎グリコ1922年創業
§  モロゾフ1926年創業
§  名糖産業1945年創業
§  カバヤ食品1946年創業
§  ロッテ1948年創業
§  フルタ製菓1952年創業
§  ロイズコンフェクト1983年創業
§  チロルチョコ2004年、松尾製菓より分離
§  神戸フランツ2003年創業

日本国外 [編集]

創業の古い順 (現在も存続している企業) [編集]

§  ヴェーデル1851年創業、ポーランド
§  ギラデリ1852年創業、アメリカ
§  クラフトフーヅ1903年創業、アメリカ(「ミルカ」チョコレートは旧スハール社が1884年に製造開始)
§  レオニダス1910年創業、ベルギー
§  ヴィタメール1910年創業、ベルギー
§  ゴディバ1926年創業、ベルギー
§  フェレロ1946年創業、イタリア

その他 [編集]

§  バビ

業務用(日本国内) [編集]

業務用(日本国外) [編集]

§  ベルコラーデ(ベルギー)

チョコレートが登場する作品 [編集]

§  メル・スチュワート夢のチョコレート工場』(映画) - 上記小説の映画化
§  ティム・バートンチャーリーとチョコレート工場』(映画) - 上記小説の映画化
§  ラッセ・ハルストレムショコラ - ジョーン・ハリスの同名小説の映画化



チョコレートの歴史ではカカオの利用およびチョコレート誕生に至るまでの歴史について述べる。

概略 [編集]

チョコレートは発酵焙煎、粉砕を経たカカオの実から作られる。アメリカ先住民族はカカオの粉末を磨り潰したものを入れた液体にバニラ唐辛子を混ぜて飲んでいた。ヨーロッパの人々はここから唐辛子を外し、砂糖牛乳を入れて甘味を加えた。その後現在の棒状のチョコレートを作る方法を編み出した。 チョコレートを使用した菓子は多数あり、世界で最も人気で万人に知られた味の1つとなっている。 一方で原料のカカオの生産については、奴隷労働や児童労働が歴史的に繰り返されており、今なお深刻な問題となっている。

前史 [編集]

紀元前2000ごろから、中央アメリカ及びメキシコ南部ではカカオが栽培されていた。15世紀までには、カカオは貨幣として流通するほど珍重された。アステカ民族の間では税あるいは貢ぎ物としても納められていた[1]。当時の中央アメリカでは、カカオを粉にしてコーンミール唐辛子などを入れ、水や湯に溶かしたものを主に嗜好品として、また薬用や強壮用として飲用していた。16世紀まではカカオの実から作られた飲み物はヨーロッパに知られることはなかった[2]

コロンブスによるカカオの紹介 [編集]

クリストファー・コロンブスが中央アメリカ島部に到達した後、スペインにカカオがもたらされた。コロンブスの息子によれば、最初にチョコレート(カカオの実)を見たヨーロッパ人はコロンブスで、1502年のコロンブス最後の航海時であった。ただし、コロンブスがチョコレートを飲んだという記述はない。
16世紀のスペイン人のイエズス会神父で、伝道のためペルー、後にはメキシコにて暮らしていたホセ・デ・アコスタは次のように書いている[3]
非常に不快な味のするかすや泡があり、体験したことがないほど気分が悪くなる。だが現地の者たちには大変尊ばれており、高貴な来訪者をもてなすのに用いられる。この国に慣れ親しんだスペイン人ならば男女を問わずこの飲み物に貪欲となる。彼らはそれを飲むことで暑さや寒さその他さまざまなものが和らぐと言い、唐辛子を大量に入れる。さらに胃腸に良くカタル予防になると肌にも貼り付ける。

チョコレートの語源 []

日本語「チョコレート」の語源は英語: chocolate だが、この英単語自体はさらにスペイン語: chocolate [チョコラテ] に由来する。スペイン語 chocolate の語源については明らかではなくさまざまな説が存在し、いずれも決定的なものではない。
最も多く引用される説はアステカ民族の言葉であるナワトル語 xocolatl IPA: [ʃoˈkolaːtɬ])が変化したとする説であり、xococ は「酸味」[r 1]を、atl は「水」や「飲み物」をそれぞれ表すとする。この説に対して言語学者のウィリアム・ブライト英語版は中央メキシコの植民地時代の資料には chocolatl なる語彙は見当たらないと述べている[4] また、当時の言葉を集めたモリーナスペイン語版の辞書において、xocoatlトウモロコシの飲み物であり、cacaua atl がカカオの飲み物を指しているという。xocolatl はモリーナの辞書にはない[5]
別の説として、サンタマリアはユカタン半島のマヤ族の言葉で「熱い」を表す chokol とナワトル語の atl を組み合わせたものが語源だとしている[6] さらにダーキンとウィッチマンは東部ナワトル語で「泡」を表す chicoli の派生語で「泡立った飲み物」を意味する chicolatl が語源であるという新説を立てた[7] 類似の説としてカカオをかき混ぜる際の擬音 choco-choco に由来するとの説もある[8]

近世ヨーロッパ [編集]

クリストファー・コロンブスがカカオの実をスペインのフェルディナンドとイザベラに見せるためヨーロッパに持ち込んだが、広めたのはスペインの修道士である。カカオはスペイン人のアステカ征服によりヨーロッパにもたらされ、王侯貴族の間で好評を博したのみならず、庶民も飲むようになった。カカオの取り引きが最初にあったと記録されているのは1585年にベラクルスからセビリアへの積荷としてであった。やがてヨーロッパでは特有の苦味を打ち消すため砂糖や牛乳を加え、唐辛子の代わりに同じくメキシコ由来のスパイスであるバニラを入れるようになった。
スペインでのチョコレートが普及から間もなくしてスペイン人はアフリカ人の奴隷を使いカカオのプランテーション栽培を始めるが、当初はチョコレートはヨーロッパではスペインのみでの普及だった。しかし、フランス王ルイ13がスペイン王女アナ・マリーア・マウリシアと結婚した時、チョコレートを好むアナが嫁入りの際に持参したため、フランスにチョコレートがもたらされた。ルイ13世の息子ルイ141661、チョコレート好きのスペイン王女マリア・テレサと結婚したため、フランスでは上流階級からチョコレートが広まった。マリア・テレサはまた、チョコレートを飲む道具一式と、チョコレート専門の料理人(後にいうショコラティエ)を連れて輿入れした。17世紀後半にはイギリスにも伝わり、ロンドンで最初のチョコレートハウスが1657年に開店した[9]1689年には医師で収集家のハンス・スローンジャマイカでミルクチョコレートドリンクを開発した。当初は薬剤師向けに作られていたが、その後キャドバリー兄弟に権利を売却した[10]。苦い飲み物から甘い飲み物に変化したことで、チョコレートは17世紀頃にはヨーロッパの王侯貴族の間でカカオはぜいたく品となっていた。

近代ヨーロッパ [編集]

何百年もの間チョコレートの製造工程は不変だったが、産業革命の到来により硬く甘いキャンディに生命を吹き込む多くの変化が起きた。18世紀には固く長持ちするチョコレートの製造の補助となるココアバター(カカオバター)を絞り出すための機械式ミルが作られてはいた[11]が、大規模に使用されるようになったのは産業革命以降である。産業革命の熱気が冷めてから程なくして、チョコレート会社は新しく作られたチョコレート菓子の販売のために、我々が頻繁に目にするような広告や宣伝を行うようになった[12]。製造工程の機械化により、チョコレートは世界中で消費されるようになった[13]。菓子材料としての利用も同時期に始まっており、文献上では1719にコンラッド・ハッガーが残した料理手帳に「チョコレートトルテ」が確認できる[14]
さらに1828年にはオランダコンラッド・ヨハネス・バン・ホーテン英語版バンホーテンの創業者)はカカオ豆からココアパウダーとココアバターを分離製造する方法の特許を取得した。それまでのチョコレートは濃密で、水なしでは飲めないものだったが、これにより口当たりがよくなり普及が進んだ。さらにバン・ホーテンはアルカリを加えることで苦味や酸味を除くダッチプロセスをも開発し、現代的なチョコレートバーを作ることも可能になった[r 2]
1847年にイギリス人のジョセフ・フライ(JS・フライ・アンド・サンズ社{en:J. S. Fry & Sons))が初めて固形チョコレートを作り、1849年にキャドバリー兄弟により引き継がれたともされている。ただしこれはまだ苦いものだった。初の固形チョコレートがドレによりトリノで作られ、1826年からピエール・ポール・カファレル英語版が大規模に売り出したものという説もある。1819年にはF.L.ケイラーが初めてスイスにチョコレート工場を開設した。
スイスろうそく職人ダニエル・ペーターは義父がチョコレート会社を経営していたことからチョコレートに携わるようになり、1867年から牛乳を入れることを試行錯誤し始め、1875年にミルクチョコレートの販売を始めた。またミルクチョコレート製造にはカビ防止のため牛乳から水分を抜く必要があったが、ダニエルは隣りに住んでいたベビーフード生産業者のアンリ・ネスレネスレ創業者)と協力して水分を抜く研究を行った。またロドルフ・リンツはチョコレートの粒子を均一かつ細かくし、滑らかな食感を出すのに必要なコンチングを考案した。

日本での歴史 [編集]

一説に、初めてチョコレートを口にした日本人は支倉常長であり、1617年にメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)に渡った際に、ビスケットパンコーヒー金平糖キャラメルなどの菓子とともに、薬用としてのチョコレートを味わったのだとされる[15]
日本におけるチョコレートに関する明確な記録は、18世紀長崎遊女がオランダ人から貰ったものを記したリスト『長崎寄合町議事書上控帳』に「しよくらあと」として登場するのが最初で、同時期に記された『長崎見聞禄』にも「しょくらとを」に関する記述がある。
1873には岩倉使節団がフランス訪問中にチョコレート工場を見学し記録を残し、次のように書き残している。
銀紙に包み、表に石版の彩画などを張りて其(それ)美を為す。極上品の菓子なり。此の菓子は人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり
日本初の国産チョコレートは、風月堂総本店の主、5代目大住喜右衛門が、当時の番頭である米津松蔵に横浜で技術を学ばせ、1878に両国若松風月堂で発売したものである。新聞に掲載した日本初のチョコレートの広告には「貯古齢糖」の字が当てられていた[16] カカオ豆からの一貫生産は、1918森永製菓によって開始された。
第二次世界大戦の影響により、日本では1940までにカカオの輸入は止まり、風味がカカオにやや類似し果糖の原料でもあった菊芋と百合根(ユリ鱗茎)の脂肪分、砂糖の代わりにグルコース(ブドウ糖)を原料にした代用チョコレート(通称:グルチョコレート)が考案された。
1945に日本軍が第二次世界大戦で敗れると、アメリカ進駐軍を通じて大量のチョコレートが日本にもたらされた。当時の子供たち(焼け跡世代)が呪文のように米兵に投げかけた「ギブ・ミー・チョコレート」という語は、米軍占領時代の世相を表す語となっている。
戦後の日本では、安価なものから高価なものまでさまざまなチョコレート菓子が販売されるようになった。特に1960にカカオ豆の輸入が自由化され、続いて1971にはチョコレート製品の輸入が自由化されたことで、様々な種類のチョコレートが流通するようになった。


カカオ(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科クロンキスト体系新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。

概要 [編集]

樹高は4.510メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。 樹齢4年程度で開花し、直径3cm程度の白い(品種によって赤~黄色味を帯びる)幹生花を房状に着ける。結実率は1%未満。花期は原産地では周年、栽培地では気温による。日本では5月以降に開花することが多い。
果実は約6ヶ月で熟し、長さ1530cm、直径810cmで幹から直接ぶら下がる幹生果で、カカオポッドと呼ばれる。形は卵型が多いが、品種によって長楕円形、偏卵型、三角形などで、外皮の色も赤・黄・緑など多様である。 中に2060個の種子を持ち、これがカカオ豆 (cacao beans)となる。種子は4050%の脂肪分を含む。果肉はパルプと呼ばれる。
収穫期は産地によって異なるが、概ね年2回で乾期雨期に行われ、収穫された果実は果皮を除いて一週間ほど発酵させ、取り出されたカカオ豆は、ココアチョコレートの原料とされる。

品種 [編集]

§  フォラステロ種(FORASTERO)
西アフリカと東南アジアで多く生産され、主流となっている。 南米のアマゾン川オリノコ川源流地域原産で、成長が早く耐病性に優れるなど栽培しやすい。果実は黄色で苦味が強い。ガーナ、コートジボワール、ナイジェリア、ブラジルなどの品種がある。
§  クリオロ種(CRIOLLO
ベネズエラ、メキシコなどで、僅かに生産されている。独特の香りから、フレーバービーンズとされる。 メキシコからベネズエラにかけて分布し、古代から利用されてきた。病害虫に弱く大規模栽培に不向きなことから、19世紀半ばにほとんど壊滅した。果実は赤や黄色で、苦味が少ない。
§  トリニタリオ種(TRINITARIO)
ベネズエラトリニダード・トバゴなど中南米で栽培されている。 フォラステロ種とクリオロ種を交配したハイブリッド種で、トリニダード島で育種に成功したことから命名された。栽培が容易で品質も優れる。

歴史 [編集]

原産地である熱帯アメリカでは紀元前1900ころから利用され、やがて栽培食物とされていた事が、グアテマラリオ・アスール遺跡など、マヤ文明アステカ遺跡の土器、壁画、石碑から判っている。当時はカカオ豆は貴重品だったため通貨としても用いられ、カカオ豆の皮に灰などを詰めた贋物も存在していた。1502コロンブスは第四次航海で現在のホンジュラス付近でカカオの種子を入手し、スペインへ持ち帰っている。もっとも利用法が不明で、その価値に気付いた者はなかった。
1519コンキスタドールエルナン・コルテスアステカでカカオの利用法を知り、帰国後国王に献上した。砂糖や香辛料を加えたショコラトル(チョコレート)は上層階級に歓迎され、1526にはトリニダード島に栽培地が建設された。 フランスにはスペインから嫁いだ王妃アンヌ・ドートリッシュが広めた逸話があり、17世紀にココア飲料が流行し、1660年代にマルティニークでの栽培を開始した。
その後もカカオ栽培は拡大し、1830年頃から西アフリカのポルトガル領サントメ島などで栽培されるようになる。19世紀半ばに中米のプランテーションが病害により生産量が激減すると、アフリカが替わって生産の主体となった。さらにイギリスが、スペインから租借中のフェルナンド・ポー島(現在の赤道ギニア)でプランテーション経営を始め、1879年には黄金海岸(現在のガーナ)にテテ・クワシが導入している。 1890年代末、フランスが象牙海岸(現在のコートジボアール)で植民地会社を組織し、生産を奨励した。
インドネシアには、1560年にスペインによってジャワ島に伝わっているが、生産が広まったのは20世紀で、特に1980年の市場暴落後の30年で生産を伸ばしている。

利用 [編集]

詳細はココアカカオマスを参照。
§  食用
カカオマス 胚乳部分を粉砕焙煎してすり潰したもの。ココアとチョコレートの共通原料。
ココアバター(カカオバター) カカオマスから分離された脂肪分。カカオマスは約55%の脂肪分を含む。
ココアパウダー カカオマスを脱脂、粉砕したもので、色はこげ茶色。種子300個から約1kg取れる。
チョコレート ココアバターを加えたカカオマスに、砂糖、ミルクなどを加えて作られる。
§  薬用
テオブロミン 利尿作用・筋肉弛緩作用
カフェイン 覚醒作用
ココアバター ヒトの体温で溶ける植物性油脂として、座薬軟膏基剤
§  貨幣
コロンブスが書き残しており、スペイン人が栽培に着手した理由でもある。1520年頃のニカラグア では、ウサギ1頭がカカオ豆10個、奴隷1人がカカオ豆100個で取引されていた。19世紀に貨幣が導入されると廃れた。

健康 [編集]

カカオはIアレルギー原因物質のチラミンニッケルを含み、チョコレートアレルギーの原因となる。 なお、チラミンは血圧心拍数を上昇させる効果があり、チョコレートの食べ過ぎで鼻血が出るという俗信の元となったが、実際には健常者に出血させるほど強い作用はない。

生産 [編集]

国際ココア機関の統計資料[1]によると、20092010年の全世界の生産量は363万トンで、アフリカが3分の2以上を占め、残りをアジア・オセアニアと中南米で分ける。
1.   コートジボアール- 124.23万トン (34%)
2.   ガーナ- 63.20万トン (17%)
3.   インドネシア- 55.00万トン (15%)
4.   ナイジェリア- 23.50万トン (6%)
5.   カメルーン- 20.50万トン (4%)
6.   ブラジル- 16.12万トン
7.   エクアドル- 14.37万トン
8.   トーゴ- 10.15万トン
9.   ドミニカ共和国- 5.83万トン
10.                ペルー- 4.29万トン
カカオ生産の特徴として、バナナコーヒーといったほかの熱帯性商品作物と違い、大規模プランテーションでの生産が一般的ではないことが挙げられる。これは、カカオの植物学的特性に理由を求めることができる。カカオの木は陰樹であり、大きくなるまではほかの木の陰で生育させる必要がある。つまり、単一の作物を広大な面積で一挙に栽培することが困難であり、規模のメリットが得られにくい。一方で、プランテン・バナナのような大きくなる木との混栽には適しているため、自給的な小規模農家が片手間に商品作物として栽培するにはきわめて適している。[2]。ガーナにおいては、労働者が未開発の土地を開発する契約を地主と結び、バナナやキャッサバなどの主食用の作物を育てながらその陰でカカオの木を育て、カカオが生長し十分に利益が出るようになると開発地を折半して半分を地主のものに、もう半分を労働者のものにする契約がかつて盛んに行われ、カカオ生産成長の原動力となった。

生産地での児童労働 [編集]

カカオの生産には、歴史的に奴隷労働が多く使われてきた。古くは、アジア人のクーリーが、最近でも西アフリカ地域では児童奴隷が労働力として使用されている。200110月に最悪の形態での児童労働を禁じる「ハーキン・エンゲル議定書」が米国議員とチョコレート製造業者協会の間で締結された。
しかしその後も、コートジボワールのカカオ農場のうち90パーセントが維持のために児童も含む奴隷を何らかの形で使っているとされている[3]。カカオの価格が下落すると、西アフリカの農民がしわ寄せを受けることとなる[4]

経済 [編集]

カカオ豆の貿易に参加している国は少ない。輸出では、コートジボワール(1004,000トン)、インドネシア(366,000トン)、ガーナ(311,000トン)、ナイジェリア(181,000トン)、カメルーン(129,000トン)の5カ国で約9割を占める。これ以外の国では、カカオ豆の形ではなく、自国の食品工業で加工してから輸出しているためである。
輸入国は、オランダ(495,000トン)、アメリカ(323,000トン)、ドイツ(205,000トン)、マレーシア(164,000トン)、フランス(139,000トン)の5カ国でほぼ100パーセントとなる。マレーシアは加工能力に優れるため、インドネシア産のカカオなどを輸入し、製品を輸出している。
カカオ豆の価格は、買い上げ制度があるガーナなど一部の国を除き、ロンドン(主にアフリカ産)とニューヨーク(主に中南米産)の商品先物市場による国際相場が握っている。 トンあたりの価格が数年で500ポンド(945ドル)から3,000ポンド(5672ドル)まで乱高下するなど、生産者は不安定な世界市場の直撃を受けている。
カカオ先物市場のうち、現物のやり取りがあるのは3 - 4パーセントに過ぎず、マネーゲームとして現実に存在する量の79倍が取り引きされている。価格が低迷しても投機家は自由に投げ売りできるが、生産者はそのようなことはできず、収穫した実をムダにしたり、農園のカカオの木を売り払う羽目となる。

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