ドナウ ある川の伝記  Claudio Magris   2012.7.30.

2012.7.30.  ドナウ ある川の伝記
Danubio  1986

著者 Claudio Magris クラウディオ・マグリス 1939年トリエステ生まれ。ドイツ文学者、批評家、作家。トリエステ大学で教えていた。本書はバグッタ賞及びアンティーコ・ファットーレ国際文学賞受賞

訳者 池内紀 1940年姫路生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。20代の頃マグリスとウィーンにあって同じ「オーストリア文学協会」の奨学金をもらった間柄

発行日           2012.6.7. 初版第1刷発行
発行所           NTT出版

本書は、著者の代表作。20数カ国語に翻訳
ドナウが、どのような特徴ある空間を作り出し、どのような歴史と文化を育み、いかなる人間を生み出したかを、160ばかりの短章に分けて検証
ドナウ川を辿りながら、眼に見えない地図を描くようにして広大な文化圏を点描、丹念にその言語的辺境を巡っている


1.    ドナウエッシンゲン vs フルトヴァンゲン ⇒ ドナウ源流/本家争い
ユングフラウやアイガー辺りこそ本来のドナウの源流。原ライン川、原ネッカー川、原マイン川の水源でもある。そこから発した水流は2060百万年前までは現在のウィーンのある辺りのテティス湾に注いでいた。母なる大海原の入り口で、現在の東ヨーロッパ全域にあたるサルマティア海へと続いていた
2つの町はわずか35㎞隔てただけ
源流がドナウエッシンゲンということは、法令にも記載 ⇒ ブレーク川とブリガッハ川が当地で合流した地点からドナウが始まる。かつて宮廷が置かれたフュルステンベルク城があり、宮廷図書館には中世のドナウ川を謳った『ニーベルンクの歌』や『パルシファル』の手稿版が納まる。当地の貴族名をいただくビールもあれば、作曲家ヒンデミットの名声を築いた音楽祭も開かれる。フュルステンベルク公園には「ドナウはここに始まる」との厳かな標識が見える
ドナウエッシンゲンよりさらに48.5㎞奥まったところのフルトヴァンゲンの町外れのブレーク川水源近くに地所を持つエーアライン博士は、自家製の用箋やスタンプや鑑定書でもって「ドナウ源流の所有者」を謳ってきた。博士はフランス革命の頃の人で、1市民として旧弊な隣町の宮廷に異議を申し立てた
2.    「ヒンターナショナル」な、あるいは汎ドイツ的な中欧(ミッテルオイローパ)
ドナウは、本来200mばかりのブリガッハに注ぐちょっとした水流だった
ブレークとブリガッハの合流点であるバート・デュルハイムから流れてくるムーゼル川という小川が源で、一度姿を消して岩場に隠れ、40㎞ばかり南でアーハ川として現れ、ボーデン湖に注ぎ、ひいてはライン川となって流れ出る。となると、ドナウはラインの支流ということになり、北海に注ぐ。即ちドナウに対するラインの勝利、フン族に対するニーベルンク族の凱歌、中央ヨーロッパに対するゲルマンの制圧となる
ドナウ川は、しばしばドイツ的なものに対立し、敵対する者の象徴として現れる ⇒ ラインがゲルマン民族だけの神話的見張り役に対して、ドナウ川流域には様々な民族がひしめき合って混在するところから、多様で超国家的な共通語のシンボルとした
ドナウ川は、ドイツ=ハンガリー=スラヴ=ルーマニア=ユダヤの中央ヨーロッパであり、ゲルマンの国家と厳しく対立する、「ヒンターナショナル」な居住区
ドイツ的なものとオーストリア的なものは常に対立軸として存在し続けた ⇒ ドイツ民族にとっては議論の余地なく中央ヨーロッパの指導者たるもので、その文明と宇宙の代弁者であった神聖ローマ帝国はドイツ国家なりである。高度な文化、真の「文化」はドイツに限られるというドイツ的普遍主義がはびこっていた
3.    フルトヴァンゲン ⇒ 「ドイツ時計博物館」が町の誇り
4.    ブリガッハの水源 ⇒ 水源争いにあって、ブリガッハ川はドナウエッシンゲンまでの短いドナウ川として通用するはずだが、賛同者はいない
5.    ジグマリンゲン ⇒ ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の居城があり、449月ヴィシー政権が移ってきて、454月連合軍によって逮捕
6.    ドナウ上流の都市ウルム ⇒ ドナウ上流とは、地理学的には水源からゲニューの瀑布までの1100㎞を指し、水路学によれば水源からモラヴァ川の合流点までの1010㎞をいう。国際法に従えば鉄門を境としてトルコとの国境までの2050㎞を言い、バイエルン人には愛郷心の見地からしてレーゲンスブルクの橋の所で上流は終了し、バッサウまでがドナウ下流にあたる
ドナウを研究して厖大な資料を残したリンツ発電所の技師ネヴェクロヴスキーによれば、イラー川合流点からウィーンまでの659㎞を上流とした
ウルムは、神聖ローマ帝国の古都。「ドナウの第一首都」とも呼ばれ、「シュヴァ―ベンの宝石」と名付けられた。ヴェネツィア、アウクスブルク、ニュルンベルク、ストラスブールに引けを取らない都市。長い間自由都市として帝国に抵抗、1376年神聖ローマ帝国皇帝のカール4世によって占拠、城壁外の教会への出入りを閉ざされた時、市民が城壁内に神の館を建てることを決議、それが1890年世界最大の教会として完成した現在のウルム大聖堂
7.    素手で第三帝国に立ち向かう ⇒ ハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄妹の生まれ故郷。一九四三年ヒトラー体制に対するレジスタンスの咎で逮捕・死刑。その名に因んだショル・ギムナジウムがある。力に対する徳の断固たる反抗であり、ドイツ的内面性が典型的に現れている
8.    国葬 ⇒ 44.10.ロンメル将軍の国葬がウルムで執行。ドイツ的内面性の別のシーン。戦傷により死去と知らされていたが、実際は7月のヒトラー暗殺計画に加担の嫌疑をかけられ、裁判か自殺を迫られた将軍が、すでに崩壊状態にあった祖国への奉仕を思い、偉大なる将軍が祖国の敵になることによって必ずや大きな不安と混乱を引き起こすこと必至の裁判を避け、自ら毒を仰いだもので、ドイツ的内面性のパラドックスといっていい。ロンメルは、ヒトラーの体制を倒すべく彼を殺そうとしたが、最後は最高の犠牲心と共に良心の声を沈黙させ、それでもってヒトラー体制の間接的な共犯者になった。ドイツ参謀本部によるナチズム打倒のための提案を連合国側は不信の目で見て耳を貸そうとしなかった
9.    ウルムの「パン博物館」 ⇒ パン1個の値段が1914年は0.14金マルクだったものが23年には220百万紙マルクに暴騰、24年には0.14金マルクに戻る
10. 1805年「ウルム降伏」の舞台。トルストイが『戦争と平和』の中で「不運なマック」と名付けたオーストリアの将軍がナポレオンに降伏したが、ナポレオン軍の戦死者を悼む石碑があり、そこにはナポレオンと同盟を結んでいたドイツ諸邦の兵士も含まれていた。ドナウは何度も戦場になってきた
11. アレマン人の作った町ラウインゲンと、隣町ディリンゲン ⇒ 全寮制学校の町、牧師と教師の町。15フィートの軍馬がひとっとびでドナウを跳び越えた伝説があり、「白馬の塔」がひときわ美しい古い塔が数多くある町
12. ギュンツブルク ⇒ ハプスブルク時代には「小ウィーン」と呼ばれた。1770年マリー・アントワネットがルイ16世にお輿入れする途上立ち寄る。ナチスのアウシュヴィッツの医務官メンゲレ生誕の地、49年までここの修道院に匿われていた
13. レーゲンスブルク ⇒ 司教座の町、帝国自由都市。「最後の騎士」といわれたマクシミリアン1世が1517年に「数あるドイツの豊かな都市の中でも、かつて最も華やかだった」と伝える。100の塔を持ったロマネスクとゴシックの町。1663年以来神聖ローマ帝国のための帝国議会が開かれた都市
14. パッサウ ⇒ バイエルンの中心の一つ、3つの川(ドナウ、イン、イルツ)1つに合流する地で「バイエルンのヴェネツィア」。帝国自由都市で、1803年まで自治権をもち領主主教が鎮座(「ローマの法王となる方がたやすい」とまで言われたほどの権威を持っていた)。法外に居酒屋が多い
15. 美しき青きイン ⇒ イン川のほうがドナウより大きく水量も豊かで川底が深いにもかかわらず、より大きな角度を描く方が主流と見做される傾向があるようだ
16. リンツにおける追悼 ⇒ オーバーエスターライヒ州の州都、ヒトラーの愛した街。彼はこの町をモニュメンタルなドナウの首都に変えようとして、シュペーアに設計図を作らせた
現代では、オーストリアきっての産業都市。リンツ=プロヴィンツ(ど田舎)といわれる。敬虔さは変わらないが、州の司法制度への信頼は目立って低い
17. AEIOU ⇒ リンツ市のフリードリヒ門に刻まれたもので、「オーストリアは地上を制するもの」「世の終わりまでオーストリアの終ることはなし」を意味するラテン語の頭文字。1493年に当地で没したフリードリヒ3世が身の回りの物に刻ませた文字で、彼の中に既に後のハプスブルク神話とされたものが覗いていた
18. マウトハウゼン ⇒ 10万人以上が殺された強制収容所があった。収容所に関する最も重要な書物はヘスが死刑判決と執行との間に書いた自伝『アウシュヴィッツの司令官』で、恐るべき客観性を持って書かれている。誰に頼まれたわけでもなく、自己弁護でもなく、真実へのやみがたい欲求に従った結果と思われる。その意味ではアウシュヴィッツを否定し、薄め、消したがろうとして繰り返される醜悪な試みと比べ、遥かに崇高で価値がある
19. 聖フローリアン修道院 ⇒ ブルックナーの部屋がある。附属の教会には彼の愛用した大オルガンがある。沈思と内省そのものの人で、その特性は宗教と同様に故郷の風土にも息づいている
20. グラインの渦巻き ⇒ マリア・テレジアの時代に始まった河川改修はごく近年まで長々と続いた工事で、ドナウの水をすっかりおとなしくしてしまった
21. アルトシュテッテン ⇒ 城の隣の教会にサラエヴォの銃弾に倒れたフランツ・フェルディナント(オーストリア=エステ大公)と皇妃ゾフィー・ホテクが祀られる。フランツは、1908年ハプスブルクの王冠を「茨のかぶりもの」と呼んだその文言が記念の間で際立つ。皇妃が末席の公爵夫人であって、チェコ貴族の中では最も古い家系の出身だが身分のせいでハプスブルクの皇帝廟に入ることが許されていなかったばかりか、皇太子と結婚しても王宮に住むことも、帝国馬車や専用の席に着くことも拒まれていた。下級貴族との結婚は皇帝の反対を押し切ってのことで、そのためわが子の皇位継承権を放棄させられたし、他にもさまざまな屈辱と宮廷の敵意に晒された
アルトシュテッテン城の中にはフランツの生涯を示した展示がある
ウィーンのケーキ職人ピシンガーが大公妃のために作ったトルテが評判となり、ピシンガー菓子会社の今日の盛況からすると、「茨のかぶりもの」より長生きしたのだろう
22. トゥルン ⇒ 森や沼地に囲まれ、支流や運河は動植物の宝庫。イヌワシやオジロワシがドナウの水面を飛ぶ
23. ワーグナー嫌いの男爵令嬢 ⇒ 1889.1.30.皇太子ルドルフと男爵令嬢マリーア・ヴェツラの情死、世にいう「マイヤーリングの悲劇」
24. ウィーンに迫るトルコ人 ⇒ キュンストラーハウス(中欧で最も重要な芸術家協会)前のカール広場には1683年トルコ軍25千のテントが張られたが、ロートリンゲン公カールの率いる神聖ローマ帝国軍がポーランド軍の助力の下にトルコ軍を打ち破り、ヨーロッパが救われた
トルコ軍によるウィーン占拠の置き土産がウィーン名物カフェの始まりといわれたり、ガリツィア出身のアルメニア人で事業欲旺盛なイカサマ師コルシツキーなる人物が1号店を出したというのも偽りの伝説
25. アイゼンシュタット ⇒ ハンガリー王国との国境だったライタ川にあり、実際上はハンガリーの町、ここからパンノニアの地の特有なのんびりした雰囲気が始まる。ブルゲンラント州の州都。ハイドンが仕えていたエステルハージ家エステルハージ城が、北部にはユネスコ世界遺産に登録されているノイジードル湖(ヨーロッパ最大の遠浅の湖)がある。クロアチア人が多いが同化に努めている。ハイドンの町、墓もあれば博物館もある
26. プラチスラヴァ ⇒ スロヴァキアの首都(ドイツ名:プレスブルク)。古くは時計の製作で有名。博物館もある。最古のスラヴ民族の首都(モラヴィア国?)200年余りハンガリー王国の首都となり、1526年トルコに占拠、その後ハプスブルクの傘下に入り、スロヴァキア人はいないも同然。1918年以前ウィーンの人々は愛すべき郊外と見做していた。ワイン醸造の守り神の聖ウルバヌスに見守られて造られた白ワインが有名
27. スロヴァキア ⇒ 18482月のフランス革命を皮切りにヨーロッパ各地で起こった革命で、事実上ウィーン体制が崩壊したが、オーストリアはハンガリーとの融和に努め、スロヴァキア人をそっくり譲り渡した。その結果は大々的な弾圧となり、1867年のオーストリア=ハンガリ―二重帝国の成立となる。スロヴァキア人はハンガリー国民という枠組みの中で民族的な存在としてしかみなされず、アイデンティティと言語は否定され、民族的な要求には血の報復があった。大量のアメリカ移民を引き起こし、教会が擁護した ⇒ オーストロ・スラヴ主義運動(スロヴァキアを古代のスラヴ単一文化が発祥した真正の生誕地と見做す)
1968年の「プラハの春」に対して、スロヴァキア人は大きな役割を果たしたが、ソ連分の武力制圧に際し、チェコの文化は息を止められ空洞化したが、スロヴァキアは危害を加えられることなくそれなりの利益を得る結果となったのも、汎スラヴのロシアとの友好の伝統が幸いした
28. チェコの愚行 ⇒ 何百年来その地に住んできたドイツ系の人々を、ナチスの犯罪に対するお返しという愚かな不正によって追い出したため、ドイツ人の築いた文化の大半が葬り去られた
29. パンノニアはアジアの入り口なりや? ⇒ ハンガリーの歴史を貫いているマジャール的愛国心は、様々な民族の侵入に晒されてきた国土の生み出したもの。フン族、アヴァール人、スラヴ人、マジャール人、タタール人、クマン人、トルコ人、ドイツ人…民族移動は荒廃をもたらすと同時に文明化もした。その典型はトルコ人によるイスラム文化。ハンガリー人はフン族の末裔とされるが、ハプスブルク支配に対する非合法的抵抗の象徴となったのはチューリップであって、チューリップを皆ボタン穴につけていたが、ハンガリーにこの花が伝わったのはオスマン・トルコ時代であり、トルコの文学においては、チューリップがオスマン文化の象徴として現れる
ハンガリーは異文化の多様さの見本であると同時に、なるたけ物事を現にあるがままに存続させ、感情も、情熱も、記憶もそのままにしたいらしい
30. ショプロン ⇒ ハプスブルクに由来する建物がメランコリックでシンメトリーの持つ威容を見せる。リスト記念館がある
31. ジェール ⇒ ラーバ川が合流、1956年当時共産主義への反抗の拠点
32. コモルン ⇒ レハールの生家。自己幻滅と消費音楽の巨匠
33. エステルゴム ⇒ かつての首都(10世紀)であり、ここから聖イシュトヴァーン、ハンガリーの初代国王が生まれた。シャーマンと平原の神の支配に終止符を打ち、キリスト教による支配を確立。今日ハンガリーの大司教が居を構えているのはそのため。何度も戦争があり、モンゴルが通過、トルコ軍も何度も占拠・支配
34. センテンドレ ⇒ ドナウのモンマルトル。セルビアの色合いを持ち、それがゆっくり褪せた具合。オスマン・トルコに先立って、バルカン半島からの避難民が来たところ、セルビア人が多く、ギリシャ人と共に町の繁栄と洗練された優雅さを築いた
35. ブタペスト ⇒ ドナウ川沿いの最も美しい町。ウィーンは広い街路樹を持つ近代都市へと生まれ変わる時、オスマン男爵のパリ改造の真似をしたが、ブタペストはそのウィーンを模倣。20世紀初頭に多彩な文化運動の発祥の地となった。ブタペスト出身の哲学者・マルクス主義者・政治家ジェルジ・ルカーチ(18851971)を始め、1896年のハンガリー建国千年祭を機に花開く。ミクローシュ・イーヴルがルネサンス様式で建てた国立歌劇場や、ゴシックとバロックないまぜの国会議事堂等に一端が見られる
36. 1919年ベルサイユの全権大使が本国の人民委員宛に「アメリカ大統領に擁護を求め、ハンガリーを合衆国の一州として編入されるよう要請することを助言する」との電報を打ったという
37. ブタペストの南のドナウ川の島チェペル ⇒ 政治・産業の中心であって重工業地区。56年動乱の中心地。スターリンの巨大な像が倒された
38. パヤのエピローグ ⇒ 1921年ハプスブルク最後の皇帝カールは、聖イシュトヴァーンの王冠を再び頭上にしようと画策したが失敗、ツィタ妃共々イギリス海軍の小艇に乗せられパヤから亡命先のマディラ(北大西洋上のポルトガル領の島)へと向かう。ブタペストの大司教が前途を祝福し、皇帝一行はドナウを下って黒海、地中海、ジブラルタルを経由して亡命先に到着。ドナウはここから谷あいに入る
39. ペーチ ⇒ バラニャ県の県都。1367年創立の大学はハンガリーで最初、中央ヨーロッパ全体でも4番目に古い。ショカツ人と呼ばれたカトリックのスラヴ人がいて、読み書きは主に女たちの領分とされている
40. モハーチ ⇒ 1526年ハンガリーがトルコに負け、数世紀にわたって地図から抹消
41. ベラ・ツルクヴァ ⇒ 現在はユーゴだが、当時はハンガリー王国に属したルーマニアとの国境の町。今日では公式標示はセルビア語、ハンガリー語、ルーマニア語の3つがあって、ベラ・ツルクヴァはセルビア語。教会もカトリックとプロテスタント、ロシア正教とギリシャ正教、ルーマニア正教がある。パンノニア地方と旧ハプスブルク帝国の拠点の1つ。ハプスブルクによる集団移住政策もあって24もの民族が入り混じる
42. ティミショアラ ⇒ ドナウの支流ティミシュ川沿いにあるバナト地方の首都。トランシルヴァニアのザクセン人と並んでルーマニア在ドイツ人の町。一時は30万もいた。第2次世界大戦後は虐待され集団でロシアへと送られた。72年チャウシェスクがセルビア人・ドイツ人追放を公式に批判、86年現在言語的マイノリティの創作活動を奨励するようになったが政治的監視は厳しかった
43. トランシルヴァニア ⇒ ルーマニア・ドイツ・ハンガリーの多民族のモザイク地帯。ドイツの様々な地方からやってきた人々によってもたらされたドイツ文化(一般にはザクセン人といわれ自らの文化を養い独自の「文化国家」を作ってきた)がユダヤ文化とともに、東ヨーロッパの真ん中の文化と統一の要因(ドイツ人が中欧のローマ人といった役割を果たした)だったが、現在ではドイツ系住民の存在は薄れかけている
44. ブラショフ(旧名クローンシュタット) ⇒ 皮なめし業者と皮革職人の組合は、いかなる権力にも負けない気風を伝え、1688年にはドイツ皇帝に異議を申し立てたこともあったし、マジャール化の二元論の時代にも反抗
ドイツ系住民の内省的でメランコリーの色濃い学識好きは時には滑稽にもなりがち ⇒ トランシルヴァニアの全歴史が対立と矛盾と反抗と合同の絡み合いであり、オスマン支配の頃もトランシルヴァニア侯はいとも巧みにトルコとハプスブルクの間でバランスを取っていたらしい ⇒ 民族的対立の坩堝であるからこその共通の連帯感が生まれる。特殊な自己同一化 ⇒ トランシルヴァニア主義(民族グループの多彩さを意味し、それが多様に交じり合い、複合し合った地方を作っている)
45. ノヴィ・サド(ベラ・ツルクヴァより上流) ⇒ 別名「セルビアのアテネ」。セルビア文化と政治の再生の発信地。現在はヴォイヴォディナ地方の州都。公式言語は5(セルビア、ハンガリー、スロヴァキア、ルーマニア、ルテニア)
46. 国境兵 ⇒ 軍政国境(オーストリア=ハンガリー帝国において、辺境の対オスマン帝国防衛線として、ハンガリートランシルバニア(当時はウィーン宮廷直轄地)に設定された陸軍常設地帯、クラインからバルカン半島まで数千キロにわたって延びていた。ローマ帝国の「リ―メス」と呼ばれた防壁に近い)にあって、正規の軍隊に属さない兵士たち。大半はセルビア人。周辺の大貴族も意のままにならず手を焼いた
軍政国境はペストに対する防疫線の歴史でもある。多民族の故里の間に開けた無人地帯
1881年勅令によってハンガリー支配下に入り、国境兵も解散 ⇒ オーストリア皇帝に抗議したが裏切られた
47. ベオグラード ⇒ ドナウがオーストリア=ハンガリ―帝国とセルビア王国を分けていて、対岸から見知らぬ国が始まると言われる。様々な時代に渡って重要な都市であり、壊しては再び建て、過去の痕跡を消していく(カメレオン都市)。当地の文学作品の中で繰り返し「メタモルフォーゼの核」と呼ばれてきた
48. 「鉄門」のそばで ⇒ ドナウとサヴァ川の合流点近く。ローマ帝国軍も、「鉄門」を超えて対岸の暗い森に入ることを嫌悪した(民族と文化が複雑に交じり合った異郷)
49. ブルガリア ⇒ 19世紀後半までドナウ下流域は未知。前世紀の対トルコ戦争によってロシアとの連帯が強固となる。推定70万のトルコ人がいるが当局は正式にその数を認めておらず、イスラム教のブルガリア人だという。14世紀に制圧されて以降500年にわたるオスマンの圧政の影響は深い
50. ルセとジュルジュ ⇒ ルーマニアとブルガリアをつなぐ国境の橋「友好記念橋」がドナウに架かる。全長2224mはリスボンのテージョ川に架かる橋に次ぐ
51. 黒海 ⇒ バラガン平野を貫通して黒海に至る。バラガン平野は亡命と絶望の地で、燃えるような夏と凍りつく冬、果てしのない地平線、かつてはジプシーが送られ、1945年以降はルーマニア在住のドイツ人が移されてきた。ドナウもこの辺りから、壊れた瓶からワインがこぼれ出るように、外にはみ出していく、終焉の予兆だが、平穏と威厳に満ち、実り豊かな活力を備えている
ブライラとガラツィはギリシャの影響が濃い町。ガラツィはドナウ川のハンブルクで、造船所やクレーンや鉄の廃材が連なる。産業投資によってソ連からの独立を図ったルーマニアの努力の象徴だが、その結果生じた経済危機の象徴でもある
プルート川(ルーマニアとモルドヴァ国境の川)からロシアの国境に向けて1㎞ごとに標示があるが、国境を越えると全てを調和させようとするドナウの力はもはや望めない。プルート川も想像上の線であって、その向こうでは草ですら、こちらの岸に生えるのとは違っている。開放的でコスモポリタンなドナウの文化が、同時に苦悩に、内的な閉鎖に向かう。余りにも長い時代に渡りトルコ人への防壁、スラヴ人への防波堤、その他もろもろの堤防の役割を務めてきた。「ドナウはあらゆる方角に進出できる出発点である。と同時に優れた防御線であり、いかなる方角へも応じる体制を整えている」
52. 三角州 ⇒ 総面積43002。トゥルチャは河口の最後の町、デルタの要。デルタ博物館がある。2530千人が住み、18世紀に宗教的な理由からロシアを追われてきたリポヴェン人の故里。ドナウがどこで終わるか、57の説もあるが、トゥルチャから派生する3つの公式の分流がある。1つは北のキリアの分流でソ連領内(現ウクライナ)にあって45の河口により黒海に注ぐ。水量の2/3はこのルート。中央のスリナの分流は18801902年に開削された水路によって直接黒海と結び、航行を容易にし、直線を描いて走り込む。南の聖ゲオルゲ分流は蛇行を繰り返しており、ドナウ総延長拡大に寄与。厳密にいうと第4のコースがあり、ドゥナヴァツ運河という聖ゲオルゲ分流から派生し、南西に転じてラジム湖に注ぐ。もう一つのドラノフ運河と同じ。古代に「イストロポリス(ドナウの都)」と呼ばれた都市があったはず
53. 大いなる海へ ⇒ スリナは飼い馴らされたドナウ川で、終焉に導く。空虚と放置の町。遮断機と検問所の先の港がドナウ終焉の地



ドナウ ある川の伝記 クラウディオ・マグリス著 沿岸の地域をめぐる深い思索 [日本経済新聞朝刊2012年7月15日付
フォームの終わり
 南ドイツの「黒い森」から東方の黒海まで、ヨーロッパ中部を横切って、悠揚迫らぬ様(さま)で流れるドナウ川。その川をテーマにした名著が登場した。
(池内紀訳、NTT出版・3800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ドナウ川の源流から河口まで、沿岸地域と都市をめぐりながら、そこにどんな特異な空間が作られたのか、いかなる歴史の刻印が押されているのかを深く思索している。そのため景観や建物を活写し、ゆかりの諸民族、文学者や思想家、王族や政治家、職人や農民、あるいは著者の友人・親戚らを登場させ、ときに映画や音楽や食べ物や古本屋にまでも話題を広げている。とりとめのない評言と感想のパッチワークのようでありながら、百数十編にもおよぶ短章で描かれる図柄は、すべてどこかで繋がっているように思われる。それらを繋いでいるのは、「ドナウはオーストリアの川であって、歴史不信こそまさにオーストリア的である。矛盾を解決するにあたり、弁証法にはよらず、いわば死がより接近してくる未来に歴史をあずけて、そのなかで克服して無化しようとする」「オーストリアとは、しばしば、わが家のように感じるところのことだ。ヨーゼフ・ロートが愛したとおり、親しみと疎遠さが独特の調和をもつところ」というような文章が象徴する、中欧(ミッテルオイローパ)の精神だろう。
 何の前置きも解説も註釈もなしに、夥しい人名、地名、書名が持ち出され、論評される。不親切な本だ。だがたとえ内容を十分理解できるだけの該博な知識がなくとも、この不思議な構成をもつ書物の流れに身を任せて読み進めば、東方と西方の間にあって、しばしば苦難の歴史を歩んだ中欧の悲哀と執心が、次第に身に沁みてくるはずである。
 かつてヴァッハウ渓谷をメルク修道院まで、遊覧船で溯ったことがある。ドナウ川両岸の丘上に点綴(てんてつ)する古城や修道院に歓声を上げたことを覚えているが、本書を読んでいたら、まったく別のドナウの魅力を発見できたのにと、ちょっと悔しい。
 ドナウ地方はこれまで日本人にはほとんど馴染みがなかっただけに、その過去と、未来の可能性を伝える本書は貴重である。
(東京大学教授 池上俊一)

Wikipedia
ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語Danubiusスロヴァキア語Dunajセルボクロアチア語Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre英語フランス語: Danube)は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。

概要 [編集]

ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km、流域817km2、黒海に注ぐ水量は年間2千億㎥
川の名 [編集]
現在の名ドナウ(ドイツ語)と各国語でそれに相当する名前は、ラテン語 Danubiusダーヌビウス に由来する。これはローマ神話のある河神の名である。語尾 au は古ゲルマン語で流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。日本語表記は、ドナウ川、ダニューブ川。
下流域は古代ギリシャ語では「イストロス川」と呼ばれた。これはケルト語の ys に由来する。

地理 [編集]

ドナウの源流は下記のとおり、ドイツシュヴァルツヴァルト地方にあるフルトヴァンゲンの郊外にある。ここから東進を続け、ウルムインゴルシュタットを通過し、ケールハイムではライン・マイン・ドナウ運河と接続する。パッサウの下流でオーストリア領内に入り、リンツウィーンの街を抜けて、その下流で「ハンガリーの門
」と呼ばれる狭隘部を通過する。ここまでがドナウ川の上流部とされる。
「ハンガリーの門」を抜けた後、ブラチスラヴァ上流でスロバキアハンガリーの国境をなすようになる。エステルゴムからはハンガリー領内に入るとともに、ドナウベンドと呼ばれる地域で東西から南北に流れを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。ここではハンガリー大平原を貫流することとなり、穏やかな流れが続く。ハンガリーの首都、ブダペストはかつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。その後、クロアチアセルビアの国境をなしたのちにセルビア国内に入り、ここで流れを再び東西に変える。ベオグラードスロベニアから流れてきたサヴァ川を合わせ、やがてセルビアとルーマニアの国境となる。ここはドナウ川がカルパティア山脈を越える地点であり、その部分には急流で知られる鉄門がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。ここまでがドナウの中流域である。
その後は下流域となり、ワラキア平原をブルガリアとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れた後、大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。チェルナヴォダでドナウ-黒海運河と接続する。その後再び東に向かい、ウクライナとルーマニアの国境をなす。この地域ではドナウ川は北のキリア分流、中央のスリナ分流、南の聖ゲオルゲ分流とに分かれる。キリア分流が最も水量が多く、上流の水の70%が流れ込む。スリナ分流には10%、聖ゲオルゲ分流には20%前後が流れ込む[1]。この地域はドナウ・デルタと呼ばれる広大な河口デルタ地帯となっている。そして、黒海沿岸の町スリアで黒海へと注ぎ込む。

歴史 [編集]

ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。 ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が、蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。ウィーンブダペストベオグラードソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。
中世には十字軍、あるいはオスマン帝国の兵や物資を運ぶ輸送路となった。17世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルグ家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。[19世紀]には上流・中流部はオーストリア・ハンガリー二重帝国領となり産業開発が進んだ。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、このことからこのころのハプスブルグ帝国をドナウ帝国と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制を改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされた。一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、ルーマニアやブルガリア、セルビアといった新独立国が誕生した。
第一次世界大戦によって二重帝国は崩壊した後は不安定な国際情勢が続き、結局第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが共産主義化し、ソヴィエト連邦の影響下におかれた。このころには西側に属したウィーンと東側に属したその下流域との交流もほとんどなくなっていた。冷戦終結後、東欧革命によって政治的障害がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。
1992ライン川に繋がるライン・マイン・ドナウ運河が完成し、北海から黒海までの水運が可能になった。

源泉と分水嶺 [編集]

ドナウの泉(ドナウエッシンゲン)
ドナウ川の名称は、シュヴァルツヴァルト地方の町ドナウエッシンゲンで源流河川のブレク川とブリガッハ川が合流する地点において、初めてその名が生まれる。
このドナウエッシンゲンの町を治めたフュルステンベルク公の城館の庭に、「ドナウの泉」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。彫刻などで飾られ観光名所ともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが地理学上の源泉とはみなされない。またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流としてウニペルスの泉と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊住宅地の中にある。この泉は無人地帯の国道の脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館の池や水流を経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。
ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンより鉄道で2駅ほどのザンクトゲオルゲンという町の郊外にある。
地理学上のドナウの源泉は本流であるブレク川の源泉であり、これはフルトヴァンゲンという町の郊外にある。この「ブレクの泉」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。ブレクの泉より100mほどの場所にあるエルツ川の源泉はライン川に合流する。ライン川は北海に注ぎ、ドナウ川は黒海に注ぐので、この2つの泉の水が出会うことはない。同じく近辺にはいくつかの小さな支流の川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。これらの境界はヨーロッパの分水嶺と呼ばれている。フルトヴァンゲンには鉄道駅はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町トリベルク(ドイツ最大の滝で有名な町。この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。

流域国 [編集]

王宮からドナウ川を望む(ブダペスト)
マルギット橋(ブダペスト)

流域の主な都市 [編集]

主な支流 [編集]

ドナウ川を題材にした作品 [編集]

音楽 [編集]

文学 [編集]

関連項目 [編集]

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