河原ノ者・非人・秀吉  服部英雄  2012.8.5.

2012.8.5. 河原ノ者・非人・秀吉

著者  服部英雄 1949年名古屋市生まれ。76年東大大学院修士課程修了。東大文学部助手、文化庁文化財保護部記念物課文化財調査官を経て94年から九州大大学院比較社会文化研究院助教授、現在同教授、研究院長兼任。16年間従事した文化財保護行政では自治体による各地の荘園現地調査・中世城館調査、歴史の道調査事業も推進。現地から民衆の歴史を考えてきた。「あるき//きく歴史学」を標榜

発行日           2012.4.20. 第1版第1刷印刷       4.25. 発行
発行所           山川出版社

どこに生まれたのか。その一点だけで生涯、差別・迫害される。差別を受けてきた人々は、なぜかくも不当な仕打ちを受けるのか、理由を知りたいと強く望む。科学が進んだ今の社会で、なおも差別が残るのはなぜなのか。
本書は主として中世史の観点から差別の歴史を叙述
差別に耐えながらも、誇りを持って生きてきた人々達。社会の重要な役割を担って、貢献してきた人々。日本の歴史と文化を担った人々。そうした得がたい力を持つ人々の生活を明らかにする中で、差別のない社会の実現に寄与したい
中世の史料に多く見られる被差別民は以下の3
1.    河原ノ者 ⇒ 皮革製作を主要な仕事とし、生産者。牛馬の皮革業務を独占。穢多としても登場。刑吏・清掃業務、井戸掘り・作庭など専門分野での土木工事、野犬狩りや犬追物の仕事も独占。獣医も担当
2.    非人 ⇒ 基本は物乞い。喜捨への対価たる芸能予祝を供与。喜捨を得る人々の中心はライ患者や障碍者とその世話や管理をする人。刑吏や葬送・清掃にも従事。坂ノ者、弦懸、犬神人(いぬじにん)、濫僧とも呼ばれた
3.    声聞師(しょうもじ:唱門師) ⇒ 陰陽道・暦・久世舞(くせまい)、鐘打ち、経読み、ほか芸能で生活。非人と一部業務の重複あり
中世には非人が賤視された人々の主流であって、河原ノ者も包摂するとされるが職種、賤視の度合いが異なっており、共通性はむしろ少ない
それぞれ職業の違いによる集団として区別され、業種の違いが村の立地の差となっていた
非人の場合は、転落もあれば上昇もある ⇒ 蓄財できれば脱賤も可能だが、河原ノ者には脱賤はありえなかった
近世において相互が通婚しなかった ⇒ 集団相互に差異が強く自己意識されていた
各集団とも、それぞれ権門に直属し、奉仕・労働・要求された品の物納によって、保護と報酬を得ていた

第1部     河原ノ者・非人
中世に賤視された人々を歴史学的に再検討
非差別大衆が人々の生活に密着した重要な業務を担当していたことを明らかにする

第1章        犬追物を演出した河原ノ者たち
中世武士の武芸・鍛練として知られる犬追物行事に、河原ノ者が主体的な役割を果たした
鎌倉・室町辺りが隆盛
大量の犬(野犬が中心で1100匹、1度に10回はやる)の捕獲、行事の仕切り、後始末を一手に引き受けていたのが河原ノ者 ⇒ 権門勢家の支配に組み込まれ、権力者による他の暴力使用にも狩り出された
馬場を血で汚さないよう鏑矢が使われ犬は殺さないようにはなっていたが、大量の犬を飼い続けることは出来ず、一般には食用に供された
「犬の馬場」という地名が各地(特に九州、西日本に多い)にあり、犬追物が活発に行われていたことを示す ⇒ 70(1杖は75寸→70杖で150m)四方が原則
流鏑馬 ⇒ 連射(矢継ぎ早)の練習
笠懸 ⇒ 敵陣に正確に射込む訓練
犬追物 ⇒ 実践の訓練

第2章        大和国北山非人宿を巡る東大寺と興福寺
北山宿は、1244年奈良坂非人陳状を残した人々の拠点。興福寺支配とされてきたが、東大寺も大きな支配を及ぼしていた
奈良大仏道 ⇒ 京都と奈良を結ぶ道
熊野参詣道 ⇒ 都と奥深い霊地とを片道5日で結ぶ
いずれも御幸道であると同時に、貧者・病者の道
熊野参詣道は小栗街道とも呼ばれる ⇒ 小栗判官(ライ病患者を象徴する人として創作された架空の人物)の道。起点近くに摂津国の四天王寺があり、古くは療病院や悲田院が置かれた
北山十八間戸(きたやまじゅはちけんど) ⇒ 鎌倉時代?奈良につくられたライなどの重病者を保護・救済した福祉施設。1921年国の史跡に指定。北山とは般若寺のこと
北山宿が非人たちの中心。旅人相手に喜捨を乞うた ⇒ 複数あった宿の頂点に立って支配力を持った
物吉(ものよし) ⇒ ライ病患者のこと。モノヨシは寿ぎの言葉で、大晦日に「モノヨシーィ」と唱えながら物乞いをするところからこの呼び名が定着
ライになると家を出て非人宿に移る
非人集団を統括した人物を長吏(濫僧)といい、各宿に1人いた
北山宿の支配は興福寺が有名だが、東大寺の東南院が悲田院を継承
北山の中心だった般若寺は、奈良坂を上りきったところにあり、西大寺系の拠点寺院とされていたが、もともとは聖武天皇を本願とする東大寺系でもあり、興福寺系の寺院でもあった。十三重石塔(重要文化財)は無銘
賤視された人たちの中核はライ者、それ以外の非人グループに、横行・五ヶ所・十座・声聞師と呼ばれた芸能、呪術を糧とした人たちがいる ⇒ 「横行」は何と読むかもわかっていないが五ヶ所十座の総称と推測される。人夫と併記したり、対置する表現がある。五ヶ所は声聞師だった
三党(さんとう) ⇒ 五ヶ所十座と北山非人の総称。城人夫、土木工事に動員された
三棟(みつむね) ⇒ 門跡の権限下での人夫役のこと
河原ノ者・細工・エムタ(穢多) ⇒ 非人と近傍に居住するが、別のグル―プを構成
河原ノ者 ⇒ 中世、男性貴族の記録では漢字・漢文による表記がなされていたので、「河原者」と書くが、実際は「ノ」を入れて呼ばれた。職種は様々で、造園(山水河原者=土公神(どくじん)を忌避しない能力、危険な作業をこなす能力を持つ)、草履(じょうり)と箒製作、太鼓製作(皮革産業の代表)、刑吏(細工)、野犬狩り、清掃・清目(貴人の参宮時の清掃、大掃除)、膠(煮皮=動物遺体処理)職人等
賤視はされたが、彼等の業務は極めて重視され、権門社寺、幕府、天皇と結びつきならが、市中・農村の人々の生活に密接し不可欠な職掌についていた
東大寺東南院こそが悲田院を継承、救ライ事業の継承が北山で展開されていた
近世に河原ノ者の職掌を継承したのが東之坂(カワタ)で、その中心がかわた甚左衛門家

第3章        都鄙の療病寺・悲田寺・清目(カワタ)
悲田院 ⇒ 仏教でいう慈悲を実践する場で世界共通。前近代における救ライ施設となった。キリスト教のラザレット(レプロサリウム)。救ライ活動の実務は宗教家が、国家が財政支援。古代光明皇后の救ライ活動(平城京には皇后宮職に附設という形で施薬院・悲田院が置かれていた)や、京都悲田院、鎌倉極楽寺悲田院の活動が著名
救ライ施設である療病寺や悲田院に見る差別構造
中世から近世には善光寺を拠点に救ライ活動が行われていた ⇒ 全国66州に新善光寺として展開され拡大された。総本山の信濃善光寺周辺には被賤視民の住む地域があり、境内の清掃(町離:ちょうり、穢多)、警察下吏(非人)などを寺の指示によって行っていた
タンバ/タンガ(旦過) ⇒ 禅宗寺院関係の無料宿泊所。托鉢して修行する雲水を泊めるためだが、無料なので貧人が集まりやすかった
かったいさか ⇒ 「かったい」は乞食のこと。今も地名に残る。ライ発病した人が行く決まった地域

第4章        越後国荒河保の「入出非人所」と隣接する奥山庄の「ひにんかう屋(荒野)
越後の非人について、郡界を再確認
荒河保と隣接する奥山庄の境界を復原の困難 ⇒ 律令国家が定めた古代以来の郡界も、資料によってまちまちで特定は難しい
タイシ(テェシ)・ワタリ ⇒ 渡し守を業とする者の蔑称、竹皮草履などの竹細工を特技とする

第5章        重源上人と「乞匃(きつかい/こつがい)非人」
狭山池築造工事における非人の果たした役割の再検証 ⇒ 人々が極端に恐れた、土用の期間は土を動かすべからずという禁忌を克服し得た集団として非人・河原ノ者を考える
重源(ちょうげん)上人 ⇒ 平家によって焼亡した東大寺を再建した人物、勧進上人。南大門と大仏殿を再建したが、その仕事には差別された人たちの力があった
大阪府の狭山池 ⇒ 行基が改修した後、鎌倉時代に重源が改修。その記念碑に工事に参加した人たちを「乞匃非人」として女や少児と共に刻まれている
土用の禁忌と土木工事 ⇒ 中世人が強く影響された陰陽道では土用(立春、立夏、立秋、立冬の前18日間)の期間に土をいじることを忌む(土用禁忌)。地霊的存在だった土公神(どこうじん)が春は竈へ、夏は門、秋は井戸、冬には庭へ移動する時期とされたためだったが、重源の用水池の土木工事は稲作作業に間に合わせるため、土用期間中も強行しなければならず、そのために被差別民が徴用された ⇒ 一般の土木工事は土用期間中は避けたが、災害対応など緊急の工事は河原ノ者が行った。石切や地均(なら)しも同様

第6章        サンカ考
サンカの初見史料の紹介。九州各地での聞き取りから、都市に定住地を持つ非人が、箕作りの営業のために定期的に移動していた姿がサンカ
サンカ(山家)とその住居セブリ ⇒ 語源は不明。幕末の冒険家が飛騨紀行で初めて使用している
漂泊する山の民、川の民。岩窟に居住

第7章        太鼓製作と中世筥﨑宮散所
鎌倉初期、筑前の筥﨑宮にあった散所の性格を検証 ⇒ 手工業者、特に太鼓製作との関わりを推測
神社にとって必需品の太鼓
国家が皮革製作の過程に関与する歴史はきわめて古い ⇒ 皮革は甲の材料や太鼓の原料として貴重な存在
筑前の筥﨑(八幡)宮は朝廷が護持する国営神社 ⇒ 1274年蒙古襲来時に放火により焼失したときには三ヶ日の廃朝(服喪等で天子が政務を見ないこと)があったという
自社領内に散所(陰陽師、掃除系の居所)、清目(皮革系)が区別しておかれ、工芸品を生産する場所だったことが伺われる ⇒ 年貢相当分が太鼓製作者の維持費に当てられていた記述もある(免田/太鼓田)

第8章        人身売買史断章・現代と中世を交錯する遊びの女像
近世から近代にかけての遊郭を検証、人身売買の観点から批判
白拍子自身が記した売券があり、転々と売却されていく実態を突き止めた
中世にあって、人身売買により供給され続ける遊女と、それへの差別がどこまで遡及されるか ⇒ 供給源はあらゆる時代を通じて人身売買。白拍子を白眼視した記述が多い
白拍子は、遊女の中から特に音曲芸能に秀でたものが選ばれて、男装の麗人として舞い、脚光を浴びた ⇒ 貴顕との出会いがあり、祇王、静御前のように身請けされた
神社祭祀には白拍子の持つ芸能的才覚が必要 ⇒ 有償で神楽を奉納


第2部     豊臣秀吉
秀吉を賤の視点から捉え直す。賤の境遇を脱して貴の頂点に達した男・秀吉を考え直す

第9章     少年期秀吉の環境と清洲城下・繁栄と乞食町
秀吉の生誕地・清洲には乞食村があり、秀吉の義兄(姉婿)・弥介は鷹匠綱差(つなさし:餌差と共に鷹匠の手伝いとして猟場の確保をした者、士分)で、鷹の飼育係、鷹場保全係。鷹匠は賤視されないが、周辺には賤の環境があった
鷹は生肉しか食べないので、餌差の分業には差別された人々との繋がりが濃厚
清須/清洲の乞食村 ⇒ 玄海ともいい、城外にあって、外敵侵入の際は軍事力として織田軍団の一翼を担っていた ⇒ 大坂冬の陣にも「穢多ヶ嶋」との記述があり、非差別大衆が武力を行使した例は多い

第10章  秀吉の出自
実父とされる木下弥右衛門は架空の人物。義父との折り合いが悪く非人村(乞食村)に入るほかなく、そこで猿まね芸を身につける
秀吉は針を売って歩き(『太閤素性記』)、妻となった「ね」も連雀商人(行商人)の家の出で、ともに賤視されていた
出自への言及はないが、子供の頃に乞食をしていたという話は随所に出てくるし、「由来なき仁」「故なき仁」などとの記述がみられる
フロイスですら『日本史』で秀吉が6本指と記載。織田信長が秀吉を「六つ目」と呼んだという。『カラマーゾフの兄弟』でも6本指の息子の誕生が1つのテーマになっている
秀吉の母(大政所)は男運が悪く、母子とも極貧の中、知られてはまずいような生活も経験、母には秘密があった。秀吉出世後、秀吉の弟妹と名乗る輩が出たが、すべて斬首で応じた
母や妻の係累を重用したが、父方で思い浮かぶ人物がいないのは、秀吉が私生児だった?

第11章  秀頼の父
賤の境遇を体験した秀吉ならではの人格・行動を考える
第一子鶴松を実子と信じる者はいない ⇒ 不妊治療として非配偶者間受精の仮説
秀頼妊娠も日が合わないが実子とした ⇒ 秀頼非実子説に立って史料を見直す
秀吉は、自ら滅ぼした大名の遺族に思いを寄せる傾向があった ⇒ もっともお気に入りだった京極龍子(若狭国武田氏の妻)も、淀君(浅井氏長女)も同じ
龍子他、経産婦(出産経験あり)も多く、秀吉から離れて他の男性と結婚するとすぐに子が出来たケースも多々あり、秀吉に子種がなかったのはほぼ間違いない
秀頼は、淀殿が大野治長と密通してできたこと言われるが、真相は?
当時、子のない夫婦が子を授かる方法に参籠があった ⇒ 一定期間神仏の下に籠って祈願する ⇒ 相手は陰陽師、無名法師
鶴松の場合も、秀頼の場合も、誕生前と誕生後には不可解な事件が起きて、犠牲者が多数出ている ⇒ 茶々の妊娠との関係を記録するものはないが、噂は広まり(落書事件)、秀吉の風聞に対する管理・対抗措置は尋常ならざるものがあった
秀頼誕生の直後、唱門師が追放され、淀殿付きの女房や仏僧の処刑開始 ⇒ 表向きは、秀吉が朝鮮征伐のために名護屋に赴いている間の淀殿周辺の乱脈が理由
鶴松の死去によって関白となった秀次の死 ⇒ 秀頼誕生によって自らの地位が不安定になった結果の反逆とされているが、本来なら犯罪行為の結果の子として葬るべき子供を後継者にしたことに強い不信感を抱き反発したため、妻子まで異例の皆殺しにされた

第12章  秀吉と陰陽師
秀頼の誕生後、秀吉の大坂帰陣直後から陰陽師への処刑や弾圧が始まる
浮浪生活者を農業に従事させ、開発を進めるという政策意図が成功した面もある



河原ノ者・非人・秀吉 []服部英雄
著者:服部英雄  出版社:山川出版社 価格:¥ 2,940
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歴史上の人間に生々しく迫る
 あまりにも生々しく、時に本を閉じた。歴史の専門書を読んでそういう気持ちになることはほとんど無い。そこに本書の方法的な特徴がある。極めて具体的かつ詳細で、小説を読むような臨場感がある。が、単に面白いというだけでなく、歴史記述の独特な方法が浮かび上がって来る。
 たとえば犬追物。本書はこの行事に関わった「人間」に迫る。河原ノ者が登場人物だ。彼らは犬を捕獲し、犬の馬場では犬一匹に河原ノ者一人がついた。犬を縄の中に誘導する。首縄を瞬時に鎌で切る。犬の前を走る。侍が犬を射る。傷ついた犬を処分する。処分された犬を、侍たちも食べた。
 現代人が目をおおいたくなる歴史的事実はあふれるほどあるが、それに目を背け都合良い事実だけで「日本人は」と語ってはならないだろう。戦時中のことでは論争になる。しかし古代や中世になると、触れないようにしてきた。だが、それが日本人の紛れもない歴史なのである。
 学問は、証拠を並べて真実を証明する競争の場になっている。しかし、それでは浮かび上がって来ないことがある。そのひとつが本書のテーマである被差別民の世界だ。たとえばサンカはいたかいなかったか。言葉に固執すると主張が対立する。本書では無数の呼び名が囲むその中に、社会を流浪する無籍の人々の集団が立ち現れる。
 秀吉の出自は何か。これも被差別民という説と農民という説があるが、それは単なる概念だ。秀吉がまるで猿のように栗を食ったという記録から、それが乞食(こじき)として生きていた時の大道芸ではなかったかと著者は推測する。秀吉が身体をもった一人の人間として迫ってくる。本書では、被差別民が多くの分野での職人として社会を支えてきたことが見えて来る。ヨーロッパ人宣教師を始めとする当時の人々の記録を重要視することで、見事に人間を浮かび上がらせた。
    
山川出版社・2940円/はっとり・ひでお 49年生まれ。九州大学教授。著書『峠の歴史学』など。

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